Journal of Japan Academy of Nursing Science
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Experience of Diabetes Perceived through Daily Living That Was Totally Changed by An Unexpected Disaster—From The Narrative of A Person Who Did Not Record The Indexes
Tomoko Hosno
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2021 Volume 41 Pages 305-312

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Abstract

目的:糖尿病の指標を記録しなかった1名の語りから,糖尿病とともに暮らす経験を現象学的に記述することである.

方法:その人に現われている世界を記述する現象学的アプローチである.本稿では,糖尿病手帳開発プロジェクトで出会った指標をつけない研究参加者の経験を非構造化面接の語りを通じて記述した.

結果:Aさんは大震災に被災し,周りへの様々な気がかりに時間を割いて糖尿病であることが曖昧な様相を呈していた中で注射導入となり,医師に毎回打ってもらうことで自分を労わるようになった.この変化は,時間の経験のされ方と自分へのケアの仕方から生起していた.

結論:定期受診から生まれる自分へのケアが創出したリズミカルな時間の経験は大惨事からの快復も含意していた.医師に委ねて自分を労わるという方法を選択したAさんには自分で指標をつける必要性が生じなかった可能性がある.セルフモニタリングとは異なった方法でのセルフケアの新たなあり方が示唆された.

Translated Abstract

Purpose: To phenomenologically describe the experience of living with diabetes based on the narrative of a person who did not record diabetic indexes.

Methods: A phenomenological approach was employed, which describes the world as it appeared to the person. This article is based on the narrative obtained from an unstructured interview of a participant the author met during a diabetic logbook development project and found that she was not keeping a record of her diabetic indexes.

Results: After experiencing a huge earthquake Ms A, due to her various concerns for her loved ones and business, spent more time worrying about them without really paying attention to her own illness of diabetes. As her condition worsened, she was required to get a regular injection which she decided not to do herself but to get from a doctor. This made her become kinder to herself. This change of attitude was derived from the way she perceived her time and the way she cared for herself.

Conclusion: The experience of the rejuvenating time generated from the rhythm of caring for herself by regularly seeing the doctor was also representative of her recovery from the disaster. Ms. A, who chose to care for herself by relying on the doctor and valuing the conversations with him, may not have needed to self-monitor the indexes. Her case suggests a new way of self-caring that does not necessarily require self-monitoring.

Ⅰ. 緒言

世界の糖尿病有病者数は,1980年の1億800万人から2014年には4億2,200万人に達した(WHO, 2020).低中所得国での糖尿病有病者数が急増する中,日本では「糖尿病が強く疑われる者」は男性19.7%,女性10.8%であり,この10年間有意な増減は見られず,年齢が高い層でその割合が高まっている(厚生労働省,2020).

糖尿病は生活習慣が病状を左右しやすく,患者自身が適切な療養行動をとることが重要になる.患者がよりよい療養行動をとることができるようにかかわる糖尿病看護では,セルフケア,セルフマネジメント,セルフモニタリングなどの概念を汎用して先行研究が蓄積されてきた.これらの概念間の関連を検討したRichard & Shea(2011)によると,急性疾患から慢性疾患が優勢となった20世紀後半以降,自分自身の健康に責任を負うというセルフケアの考え方が人びとの世界観となった.セルフケアは,自分自身をケアする能力と最適の健康を達成,維持,促進するために必要な活動の遂行であり,家族やコミュニティ,ヘルスケア提供者と協働して症状などをコントロールする個人の能力であるセルフマネジメントを包摂している.セルフモニタリングは,身体的指標や健康状態を測定,記録によりモニタリングすることであり,セルフマネジメントに包摂され,その局面を表わす特定の活動である.

米国糖尿病学会(American Diabetes Association: ADA)と米国糖尿病教育協会(The American Association of Diabetes Education: AADE)は,糖尿病であるすべての人びとにとって重要なケアとして糖尿病患者へのセルフマネジメント教育支援(Diabetes self-management education and support: DSMES)のナショナルスタンダードを提唱し,そのカリキュラムに患者から発生するヘルスデータを使ったモニタリングを組み込んだ(Beck et al., 2017).Song & Lipman(2008)は,2型糖尿病患者のセルフモニタリングは,患者による2型糖尿病の現われの気づき(awareness),解釈(interpretation)と反応(response)の相互的な連なりであるとする.多くは血糖自己測定(Self-Monitoring of Blood Glucose: SMBG)を介し,これらの相互的な連なりは患者が暮らす文化の影響を受ける(Song & Lipman, 2008).日本であれば,診療報酬上,インスリン製剤やインクレチン製剤の注射導入者に限られているが,健康保険適用下でSMBGを実施し,日本糖尿病協会が発行する「自己管理ノート」などの糖尿病手帳を使ってセルフモニタリングを活用する患者もいる.体系的なSMBGを経験した非インスリン使用2型糖尿病患者では,仕事をする中でSMBGの困難さがありつつも行動変容を意識し,SMBGを通じて周囲の反応や医療者からのフィードバックを得て,セルフマネジメント継続に至っていた(奥井ら,2017).このようにセルフモニタリングは,ナショナルスタンダードにもなるエビデンスが確かめられた効果的な活動であり,糖尿病にコントロールされるのではなく患者自身がコントロールするというセルフマネジメント(Richard & Shea, 2011)の一側面となる活動でもある.糖尿病患者が血糖値などのセルフモニタリングを通じてセルフマネジメントの成果を出し,最適な健康を促進するセルフケア(Richard & Shea, 2011)に資する姿は,糖尿病看護が目指すものである.一方,非インスリン使用2型糖尿病患者のSMBGでは,前述のようにライフスタイルへの影響に気づく効果もあるが,血糖値の解釈が直感に反した時には否定的な結果をもたらすこともあり(Peel et al., 2004),セルフモニタリング支援のなりゆきには良否の可能性がある.

セルフモニタリングに関して,米国ではデジタル化されたテクノロジーの活用がスタンダードになり(ADA, 2020),日本でも2018年に持続的血糖測定(Continuous Glucose Monitoring: CGM)の一部が健康保険の適用となった.しかし,日本では高齢者層に糖尿病有病率が高く,ユニバーサルデザインの観点からも,従来の糖尿病手帳を効果的に活用する方法が開発されていく必要性もある.筆者は糖尿病手帳に血糖値や体重など,個々人が指標とする数値を記録する糖尿病患者を調査してきた(細野,2019a細野,2019b).入院中や受診時のフィールドワークでは傍らに立つ研究者に向けて,研究参加者たちは自分の手帳の使い方を説明したり,高い血糖値が並んだ手帳を見せながら思わずぼやきをつぶやいたりすることもあった.このように指標をつける糖尿病患者にとって糖尿病手帳は日常的に使用されており,その経験には手帳を活用する知恵が埋め込まれていた.そのような糖尿病手帳のあり方に着目し,筆者は効果的なセルフモニタリングをもたらす糖尿病手帳の開発をプロジェクトし,その初段階として糖尿病患者が日常的に手帳をつける経験を明らかにしているが(細野,2021),その中に指標をつけない研究参加者がいた.想定外の大惨事に見舞われたことが大いに関与しているこの研究参加者の経験は,糖尿病患者が活用できる糖尿病手帳開発に向かう本研究プロジェクトにおいて根本を問い直すものであった.しかし,その経験の成り立ちを明らかにすることで,さまざまな状況を生き,糖尿病手帳を使用しないこともある糖尿病患者にとっての手帳の多様なあり方を見出す可能性があると考えた.

Ⅱ. 研究目的

糖尿病の指標を記録しなかった1名の語りから,糖尿病とともに暮らす経験を現象学的に記述することである.

Ⅲ. 研究方法

1. 研究デザイン

本研究プロジェクトでは,まずもってその人に現われている世界を記述して糖尿病手帳をつける経験や,糖尿病とともに暮らす経験を明らかにするため,筆者のものの見方,糖尿病看護の考え方などを一旦脇に置き,あらかじめ定めた特定の現象学の思想をあてはめて理解することのないように努めつつ,その世界に臨む態度を貫いた.本稿ではその語りがどのような経験に基づいて生まれているのかという構造,語りが示す意味は何が背景となって生まれたのか,意味合いが変わったときにはその背景がどう変わったのかという意味を生み出す動きを見いだして記述することで,その人の見え方とともに現われている世界を明らかにした.この過程を経て,記述の理解をより適切に促した現象学の思想を選定して援用し,その人の経験を考察した.本稿で記述した経験には,メルロ=ポンティとベナーによる現象学の思想を援用した.この一連の現象学的アプローチにより,「自然科学的・数学的には原理的に捉えることのできない私たちの経験の『意味』に着目し,そうした意味経験の成り立ちを,哲学的に捉えられる人間存在の根本構造の方から明らかに」(西村・榊原,2017)した.

特に,本稿では,研究プロジェクトの前提とは異なる研究参加者の経験を理解するために,文脈を断ち切ることなく詳細に記述する必要があった.その研究参加者の語りでは,想定外の大惨事に見舞われたことが自身の糖尿病に関する経験と大きく関係していた.このような極めて重大な状況下にある極端な事例は「全く想定していなかった知見が見出せる可能性が高く,既存の仮説・理論の限界をテストすることにもなる」ため,単一で分析する意義は大きい(野村,2017).筆者はこの研究参加者の語りを分析する過程で,糖尿病看護の基盤であるセルフケア,セルフマネジメント,セルフモニタリングといった概念の適用を再考することになり,既存の概念にはない新たな考え方が必要であった.そのため,本稿はこの1名の経験に限って論述した.

2. 研究参加者およびデータ収集期間

注射薬による糖尿病治療を受けている成人で,言語によるコミュニケーションが可能な者とした.データ収集期間は2019年3月から2020年3月であった.

3. データ収集方法

糖尿病治療をしている外来のある研究協力機関でポスター掲示を通じて研究参加を周知した.参加意思の表明があり,研究参加同意の手続きを済ませた研究参加者から以下の方法でデータ収集を行った.

1) 指標とつぶやきの記録

研究参加者は糖尿病の指標とつぶやきの記録方法(糖尿病手帳への記入やLINE®などの携帯情報端末など)を決め,その方法に基づいて1年間にわたり記録を継続し,行いたいときに記録した.記録内容は糖尿病手帳の複写あるいはデジタルカメラ撮影により収集した.

2) 非構造化面接での語り

1年間の調査期間中,調査開始時を含み2~3回の非構造化面接を実施した.面接時,研究参加者は糖尿病手帳やつぶやき記録を媒体にして最近の調子を自由に語った.糖尿病手帳をつけなかった本研究参加者の場合は,媒体を用いずに最近の調子を自由に語った.語りの内容は許可を得て録音し,逐語録に起こした.

4. データ分析方法

各研究参加者の指標とつぶやき記録,非構造化面接での語りをくり返し読み,データの全体的な印象や言葉遣いの特徴などをつかんだ(西村,2014).データを読み込む中で,糖尿病とともに暮らすリアリティが伴うつぶやきや語りに着目し,明言されなくともその背景になっている文脈とともに意味を記述した.また,意味合いが変わったときにはその背景がどう変わったのかを記述した.この過程では,データが示していることから離れないように文章化することに努めた.その際,関心,時間,空間,身体などの現象学の基本概念を分析の補助に参照し,データが示していることをより適切に表すうえで効果的な場合はそれらの中からある概念を選択し援用した.データ分析過程は,臨床実践の現象学に関する研究会および看護系学会で発表して厳密性(Rigor)の確保(Munhall, 2012)に努めた.

5. 倫理的配慮

本研究は日本赤十字看護大学研究倫理審査委員会による承認(承認番号2018-029)及び東北地方の自治体病院である協力施設による研究倫理審査の承認(承認番号30-13)を得て実施した.研究参加者には,研究の目的や方法,研究参加による利益と不利益,同意撤回の自由,プライバシーの保護についての説明を口頭と文書で実施した.同意書への署名でもって同意を確認して調査を開始し,調査や調査結果の公表などの時期には研究参加者の意向を確認して研究活動を進めた.

Ⅳ. 結果

1. 調査概要

筆者が取り組む糖尿病手帳をつける経験の現象学的研究における6名の研究参加者のうち,本稿では手帳をつけなかった1名(Aさん)の経験を分析,記述した.Aさんは70歳代半ばの女性で,東北地方で工場を経営し,東日本大震災の被災者でもあった.Aさんは研究に参加する約10年前から糖尿病治療を開始し,約半年前から経口薬に加えてGLP-1受容体作動薬を週1回注射するようになった.既往に高血圧症がある.調査開始時のHbA1c値(NGSP値)は7%前半であった.血圧は毎日測定しているが記録せず,それ以外の指標を測定,記録する習慣はなかった.調査開始時に,血液検査結果で気になる数値を記録するセルフモニタリングシートを筆者が作成し提案すると同意したが郵送されてこなかった.調査開始から2カ月後にAさんから「来月から送ります.」と電話があったが,調査期間中,一度もセルフモニタリングシートは送られてこなかった.Aさんには,調査開始時とその5カ月後に2回の非構造化面接を行い,録音時間は75~101分であった.

2. 糖尿病である自分をケアできるようになった経験

Aさんの糖尿病とともに暮らす経験を,想定外の大惨事で一変した暮らしを送る中で,糖尿病である自分をケアすることができるようになったこととして記述した.Aさんのこの変化は,時間の経験のされ方と自分へのケアの仕方から生起していた.以下に記述したAさんの経験について,これらの観点から変化の各様相にタイトルをつけた.語りからの短い抜粋は「 」で括り,長い抜粋はゴシック体で示し,インタビュー回数(#)と逐語録の行番号を( )内に記した.語りに関する補助的な説明は[ ]内に記した.

1) 想定外の大惨事から始まったいろんな気がかり―曖昧な糖尿病

Aさんの糖尿病とともに暮らす経験には,東日本大震災に見舞われ一変した生活が大きく関与していた.Aさんは震災前より高血圧と糖尿病で内服治療を続けていたが,そんなにひどくはなかった.震災当時,Aさんの夫は抗がん剤治療が効き,退院したところであった.もともとAさんの夫は従業員を多く抱えて複数の工場を経営しており,Aさんは夫を介護する傍らでその仕事のサポートをしていた.夫が病院から「帰ってきた途端に,結局,震災に」(#1,45-46)見舞われ,「結局,会社の心配と資金繰りの心配と」(#1,49)「そういう心労が重なって」(#1,52),震災から半年経った頃に夫は他界した.震災直後から夫に代わって息子と工場経営に追われていたが,避難した従業員も多く,「結局,従業員,みんないなく」(#1,62)なってしまう中で,会社の再建だけでなく,夫の介護と看取り,一緒に暮らしていた子どもや孫の避難なども気にかかり,時間を割く毎日だった.このような震災当時,Aさんが糖尿病を「自分で気をつけ」られなかった理由は次のように語られた.自分のケアに関する語りに一重下線を引き,Aさんの関心に関する語りを斜体にした.

それより先に,やっぱりうち[夫]のほうが具合が悪くなっちゃって.自分をしてる暇がない.ないって言えばおかしいんですけど,やっぱり経営者となっと,そのサブやってたもんだから.(#1,26-30)

Aさんが「自分をしてる暇がない」と語ったように,当時は具合が悪くなっていく夫のほうが気になり介護に時間を充てた.また,経営者である夫の代わりに「サブ」を務めており,その重大な仕事のほうにも時間を充てた.当時のAさんの気がかりは夫のからだや会社経営に強く向かい,そこに費やす時間とも重ね合わせられ,それらと比較する中では「やっぱり」自分をケアする暇がなかったのだった.それでも,当時,体調不良を自覚していた.

食べる物でもなんでも,こう,なんて言うんですか,時間が全然ないんですよ.食べれたり食べなかったり.そもそも,夜はむしろ眠れないから,睡眠時間,ほんとに寝たかなと思うぐらい,だから,本当に,2時間,3時間ぐらいかなと自分で思うのね.いつでも,こう,頭の中で動いているわけ,走馬灯のようにね,いろんなことが.だから,結局仕事してるあれだし,何もあれだから,結局,頭から抜けてなかったんですね,今,考えればね.仕事と,全部,両方だし.結局孫たちも,みんないなくなっちゃったから,そばに,うん.(中略)で,みんなバラバラになっちゃったから,今ね.もう,7年,8年になるから.いつも,声かければ,走ってきてご飯食べてたんだけど,やっぱりそういうあれがやっぱりね,ないから,今は.結局,震災のあれだよね.(#1,205-226)

震災後のAさんには食べたり寝たりする時間が「全然ない」ように経験されていた.そのわけは,仕事や孫たちなど「いろんなこと」がいつでも「走馬灯のように」「頭の中で動いて」いたからだった.2回繰り返された「頭」という言葉は,当時のAさんの思考が常にそれらに向かっていたことを浮き彫りにしている.Aさんの気がかりがいつも自分ではない別のことに向かい続けていたことから生じた時間が,自分のための「時間が全然ない」という感覚になっていた.

こうした当時の状況を,上線で示したように,Aさんは「だから,結局」や「結局」という表現をくり返し使ってまとめた.これらの表現は,語った今からみれば,震災後に一変した生活が,震災により仕事や家族などいろんなことへの気がかりに巻き込まれ続けたまとまりある状況として立ち現われていることを示している.例えば,Aさんが「もう,7年,8年になる」と語ったように,震災後の家庭の経験では,家族が「バラバラになっちゃった」状況として長い時間をまとめていた.この震災に始まった気がかりの時間をまとめ上げるとき,Aさんは「結局」を使っていた.次節の語りと比べると違いが著明だが,ここでの震災に始まった気がかりな時間の語りでは,Aさんはこのような時間経験を生み出したことがらの詳細を語ることなく,大雑把にある厚みをもった時間を一つの意味をなすできごととして表している.想定外の大惨事によっていろんなことを気にかけ続けた過去の時間は大雑把にまとめられ,その中で,糖尿病である自分を労わる時間はなかったように経験され,糖尿病であることは曖昧な様相を帯びていた.

2) 自分への習慣的なケアが創り出した最近―主治医に委ねて労わる糖尿病

本節では最近のAさんの経験を記述する.以下に見るように,最近は自分をケアする時間が増えており,その時間を示す箇所に一重下線を引いた.

Aさんは「いまだに,私,この歳で仕事やってます.朝から晩まで.」(#1,294-295)と笑って最近の生活を語った.休日が少なく「自分のことはどうでもいいかな」(#1,316-317)と語るや否や,「最近でも,やっと,いくらか落ち着いたかな.で,いくらか自分で自己管理するようになって,やっと1週間にいっぺんかな,○○○[フィットネスクラブ]に行くようになって.」(#1,317-319)と続けた.また,Aさんは約半年前から週1回の注射が始まり,主治医に打ってもらうため毎週通院していた.主治医に「歩かなくちゃだめだよ」(#1,394)と言われ続け「空返事」(#1,395)をしていたが,からだを動かしてみると眠れるようになったり,足が上がるようになり,「いくらか調子いい」(#1,436)と感じるようになった.今は出来あいの食べ物を避け,「夜はなるべくご飯は食べないように」(#1,463-464)気をつけており,調査開始時のHbA1cは7%代前半であった.Aさんは最近の病状を示すこの値を「随分下がって.ひどいときは10.いくつあった」(#1,501-502)と語った.高血圧でもあるAさんは血圧測定を毎晩欠かさず,記録しないものの「大丈夫かなって,自分で」確かめ,朝晩の服薬も欠かさない.こうした近況を伝える語りには,自分のからだに気をつけている最近の生活がリズミカルな時間経験とともに表われていた.

筆者:じゃあ,お薬は,まあ,切れないように,今は.

Aさん:1カ月にいっぺんは薬もらって,1週間にいっぺんずつ行ってますけど,注射にね.

筆者:注射に.

Aさん:自分でできないか?って,自分でやらない(笑).結局,×××[聞き取れず]だって,自分でやったりやんなかったりと思うから,自分でね.

筆者:では,まだ行ってやってもらってるほうが.

Aさん:そう.そのほうが安心して.先生に言われるから,「もうちょっと痩せなさい」(笑)とか.

筆者:ああ,じゃあ,先生にそうやって会うことも,まあ,ちょっと大事だなっていう.

Aさん:そう.結局,そうなんですよね.ちょっとした瞬間ですが,やっぱり病院行ってね,先生としゃべってんのが.(#1,542-556)

Aさんは最近,毎晩血圧測定をして,朝晩には薬を飲み,1週間にいっぺん注射のために通院し,フィットネスクラブに通い,1カ月にいっぺん薬をもらいにいくという生活を送っていた.自分を定期的にケアするこれらの行為はAさんの生活に快いリズムを生みだし,そのリズミカルな時間がAさんには最近というまとまりになり,体調が良く安心した感覚を伴って経験していた.こうした最近の背景には,過去の時間経験がある.Aさんには前節で記述した自分をケアできなかった過去の厚みがあるがゆえ,自分を労わるようになった最近を,「やっと」「自己管理するようになって」(#1,317-319)という時間経験を示す表現でもって長い時間を超えた到来として語った.

Aさんが主治医に打ってもらっている注射は,自分で打つことができるものである.しかし,Aさんは「自分でやったりやんなかったりと思う」と「自分で」考え,「自分でやらない」と決めた.Aさんの語りを通覧すると,ケアの対象として自己を語るときに「自分」を用いることが多かった.対照的に,「私も,経理のほうをやっている」(#1,37)や「私も介護ばっかり,もうしてらんない」(#1,74)など,他にはたらきかける行為の主体として自己を語るときには「私」を用いることが多かった.Aさんは,注射の方法を決めるにあたり,確実に自分をケアできることを重視して主治医に委ねることを選んだのである.Aさんにとっては,毎週通院すれば確実に注射できて安心であり,主治医から「ちょっとした瞬間」にされる注意も安心につながった.

自分への定期的なケアから生じたリズミカルな時間を過ごすようになったAさんの経験は,糖尿病とともに暮らすという文脈を超え,想定外の大惨事から癒えていくという文脈に包摂されることでもあった.労われなかった自分をやっと労われるようになり,1週間にいっぺん,主治医から糖尿病である自分の身体へのキュアとケアを受け安心して暮らしているAさんにはセルフモニタリングシートをつける必要を感じなかった可能性があった.

Ⅴ. 考察

Aさんが糖尿病とともに暮らす経験では,糖尿病治療薬の注射をきっかけに定着した自分を労わるいくつもの習慣がリズミカルで心地よく安心できる時間を創出しており,「最近」というまとまりをなして経験されていた.その背景には大惨事に始まったいろんな気がかりがいつも頭から抜けず,自分を労われなかった過去の雑駁な時間把握があった.自分へのケアの仕方によって変わったこの時間経験の相違が手がかりとなり,想定外の大惨事から癒えていくというより統合的な文脈が明らかになった.Aさんのこの経験を,自分へのケアが創り出した時間の経験,指標を記録しないというこという観点から考察し,糖尿病看護への示唆を検討した.

1. 自分へのケアが創り出したリズミカルな時間

Aさんが語った「最近」という言葉は,Aさんが「最近」としてまとめられる時間を経験していることを表している.この時間のまとまりは,日に1回,週に1回といったAさんの服薬や通院などの行為によって生じる定期的なリズムで持続しているものである.自らを労わる行為を継続していたAさんにはその定期的なリズムが保たれているために,自身の糖尿病に関する過去を振り返るとき,仕事や家族へのケアに没頭していたそれらの時間にはそのリズムが刻まれず,異なる質感の大雑把なまとまりとして区別された.このように大惨事から8年近く経ったインタビュー当時,Aさんには,自分へのケアとの関係で生じる時間が経験されていた.私たちが経験する時間とはカレンダーや時計が示すように等間隔で線形に進む過程ではなく,「物に対する私の﹅﹅関係から生まれる」(Merleau-Ponty, 1945/1974).Aさんが取り組んでいた通院や服薬,運動などの行為からつくられたリズミカルな時間は,自分をケアしようとするAさんの在り方との関係で生まれていた.

2. 指標を記録しないということ

前節でのAさんの時間経験の変様は,世界内での人間の存在の仕方を表現した概念である「気づかい(caring)」を援用すればより理解が深まる.「ある人にとって何かが大事に思われるかを決めるのが気づかい」(Benner & Wrubel, 1989/1999)であり,私たちは意識せずとも,常に既に何かが気にかかる状況を生きている.大惨事後のAさんにとって,進行がんを患う夫の介護,夫に代わる会社経営と被災のダメージを大きく受けた仕事のやり繰り,避難した子どもや孫の存在がまずもって「大事に思われる」ことであった.Aさんが「それより先に」と語ったように,糖尿病である自分のケアよりもこれらのことがまず気にかかり時間を割いた.

そして,インタビューの半年前,Aさんは糖尿病が悪化してGLP-1受容体作動薬の注射を打つことになった.それは自己注射もできるが,Aさんは確実に打つために仕事が忙しくとも毎週通院して医師に打ってもらうという方法を「自分で」選んだ.週に1回の通院が始まり,通院の度に医師から注意されることを気づかうようになり,体調の良さを感じるようになった.注射を打ち始めたAさんには,医師を介して行う自分へのケアが「大事に思われ」るようになり,それらに時間を割きだしたのである.結果的に,糖尿病の悪化がきっかけとなって習慣化した自分へのケアは,大惨事から癒えることも含意していた.

糖尿病看護では,患者が成人であれば,可能な限り「生命,健康,および安寧を維持するために自分自身で開始し,遂行する諸活動の実践」(Orem, 2001/2005)である「セルフケア」を実行できるように支援している.糖尿病は自覚症状が乏しいことに加えて生活の仕方が血糖値に反映されるため,多くの糖尿病患者はSMBGをセルフモニタリングに活用して,潜在的な合併症のリスクに「気づき」,それを「解釈」し,服薬や運動,食生活を見直すなどして「反応」する(Song & Lipman, 2008).

しかし,Aさんの場合,通院して医師からのキュアとケアに委ねることを選択したまま,研究参加に同意しつつも自分の指標を記録しなかった.Aさんは医師に注射されながら注意されることを自分のケアに取り入れ続けている「最近」という時間を生きており,「やっと」「自己管理するように」なったと語った.Aさんには,自分で糖尿病の状態の現われに気づいたり,それを解釈したりすることはあまり見られなかったが,注射が必要になった状況のもとで,自分よりも確実にキュアとケアを提供できる方法を選ぶという応答をした.慢性病者のセルフケア能力には,相談できる医療者がいるなど,有効な支援を獲得できる力が含まれる(本庄,2001).Aさんが自分をケアするようになったことは医師からの支援を得る能力の高まりとして理解可能であるが,医師から受ける注射や注意を自分へのケアに変換していくという独自のスタイルがあった.また,医師は血液検査や診察を通じてAさんの糖尿病の状態を診る存在である.週に1回,その医師に診てもらい,受ける注意を自分の生活に取り込めばAさんは「安心」なのであり,自分で糖尿病の指標から気づきを得て解釈し,反応するというセルフモニタリングのニードは生まれにくかった可能性がある.セルフモニタリングを通じてセルフマネジメントできることを看護の目標とすれば,Aさんは自分自身で注射やモニタリングを行わない依存的な患者として問題視されうる.しかし,Aさんは自分に向けられた医師からのキュアとケアに委ねられる仕組みを自分で整え,それらを医師から受けつつ血糖値の良い管理に資するセルフケアを継続できるようになった.また,結果的にそれが想定外の大惨事で被った痛手からの快復となった.糖尿病の指標を記録しなかったAさんの経験はこのように成り立っていた.

3. 糖尿病看護におけるセルフモニタリング再考

SMBGに代表されるセルフモニタリングは,糖尿病のセルフマネジメント教育支援では有効活用が推奨されているが(Beck et al., 2017),本研究によりセルフモニタリングせずとも医療者に委ねて自分をケアするという方法があることが明らかになった.糖尿病治療ではセルフモニタリングの導入が効果的な場合も多いが,Aさんのように医療者にみてもらうことで自分をケアできるようになることもある.定期受診で生まれるリズミカルな時間が,糖尿病治療を超える人生の文脈でのケアになりうる可能性もある.“セルフ”という接頭語をつけて患者の自律を目指すことの多い糖尿病看護であるが,セルフモニタリングしない人の経験にアプローチすることで新たなセルフケアを発見できる可能性,とりわけ,医療者や家族,コミュニティなどの他者と行うマネジメントやケアのスタイルが見出されうると考える.看護学の根本的な知のパターンを論じたCarper(1978)は,看護ケアの多くが患者による自身への責任を当然視しているが,その前提が,必要とあって依存しながら生きようとする人々の負担になることもあるという倫理的な問題を指摘している.糖尿病看護では,セルフモニタリングをしない患者の非自律的な側面に焦点を当てるだけでなく,その人による自分へのケアの多様な方法を理解し,その方法に学びながら糖尿病とともに暮らしていくことの支援を考えていくことが望まれる.

4. 本研究の課題と今後の展望

本研究結果は2回の語りを現象学的に分析,記述したものであり,経験の多様な局面を表わす「代表性(Representativeness)」(Munhall, 2012)が十分ではない.さらなる語りやフィールドワークの実施など,より経験に迫って記述するためのデータ収集方法を検討する必要がある.また,週1回の糖尿病注射薬を自己注射せず手帳をつけなかったAさんの経験は,糖尿病注射薬を自己注射とSMBGをしている患者への「転用可能性(Transferability)」(Lincoln & Guba, 1985)が低い.

他方で,本研究成果により,糖尿病手帳をつける経験の現象学的研究に基づく手帳開発に向けて,手帳をつけない,他者に委ねてセルフケアする,時間の厚みをもった人生の文脈のもとで糖尿病に関する経験をしているなどのあり方も含めて検討をすることが可能になった.

付記:本論文の内容の一部は,第40回日本看護科学学会会学術集会において発表し,JANS40大会賞候補に選出された.

謝辞:本研究に参加してご経験を語り,その公表を許可してくださったAさんに深く御礼申し上げます.本論文の投稿にあたり,現象学的な観点からご助言をくださった東北医科薬科大学の家髙洋教授,第120回臨床実践の現象学会研究会および第40回日本看護科学学会学術集会でご意見をくださった皆様に深く御礼申し上げます.本研究は,JSPS科研費 JP 18K17490「糖尿病『手帳』をつける経験の現象学的研究に基づく自己管理ツール開発案作成」の助成を受けたものである.

利益相反:本研究における利益相反は存在しない.

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