2021 Volume 30 Issue 2 Pages 70-75
本稿は,昨年刊行した拙著(宮坂,2020)をもとに行った講演を下敷きにしたものである.紙幅の制約で,実際にお話しした内容の一部を割愛するとともに,全体の整理のために,講演に盛り込まなかった内容を少し採り入れた.特に,ナラティヴ・アプローチの実践例については大幅に割愛したので,関心のある方は,より詳しく解説している文献を参照していただきたい.
「ナラティヴ(物語)」という概念は,これまで人文社会科学の研究者によってさまざまに定義されてきたが,医療・看護の分野でこの概念を活用する際には,ナラティヴ(物語)を意味や価値を見出す仕組みとして捉え,その背景にある物語的自己論を理解することが最低限必要であるように思う.つまり,人間は自己についての物語(自己物語)を作り出し,それによって,人生の途上で経験する様々な出来事を「統一された理解可能な全体」として統合し,個々の経験の意味や価値を見出すという考え方である(Polkinghorne, 1991).病気や障害を得たり,死を覚悟しなければならなくなったときに,「自分の人生とは何だったのか」「自分とは何者か」「自分が生きている価値はあるのか」等と,しばしば「スピリチュアルな苦痛」と呼ばれる苦痛を経験する.その際に,「統一された理解可能な全体」としての自己物語を思い描くことができれば,病気や障害,あるいは自分の死でさえも,それに何らかの意味や価値を見いだすことができるかもしれない.
看護実践を行ってきた人は,患者がそうやって病いや死に向き合おうとする様を目にしていることだろう.しかし,そのことを「ケア」に活かしていこうとまでは,あまり考えないかもしれない.ナラティヴ・アプローチとは,まさしくこれをケアの契機ととらえ,ケアとして成り立たせようとする試みである.つまり,患者の自己物語に注目して,患者がそれを思い描いたり,あるいは描き直したりすることで,自らの病気,障害,死のような経験と向き合いながら生きる.それを支援するのが,ナラティヴ・アプローチというケア実践なのである.
保健医療分野で,ナラティヴ・アプローチと呼べるものを最初に実践したのは,ホワイトとエプストンであった.彼らは,家族療法から出発し,ナラティヴの概念を応用した様々な心理療法の技法を考案し,それらをひっくるめて「ナラティヴ・セラピー」と名づけた(Epston, 2009).興味深いことに,彼らがナラティヴ・セラピーを考案したのとほぼ同じころに,世界のいくつかの場所で,ナラティヴ・アプローチと呼べる数々の実践が考案された.それらを考案した人たちは,自分が編み出したケア技法を「ナラティヴ・アプローチ」とか「ナラティヴの概念を応用したもの」と見なしたわけではないが,内容に注目すれば,物語的自己論をケアに応用したナラティヴ・アプローチと見なせるものが多いのである.そうしたケア技法は多種多様であり,系統立てて整理する必要がある.そこで筆者は,3つの仮説を立てた.
1. ケアには実在論的なものと構築論的なものがある第1の仮説が,「ケアには実在論的なものと構築論的なものがある」というものである.これは,最近の医療を席巻しているとも言える「エビデンス・ベイスト・メディスン(EBM)」と,これと対置する概念として提唱された「ナラティヴ・ベイスト・メディスン(NBM)」とを比較することで説明できる.EBMは,根拠に基づいた医療ケアを提供しようという考え方だが,ケア論としてとらえれば,「ケア者が正解を知っているケア」と言い換えられるように思う.例えば,同じ病気の患者が複数いた場合,ケア者はすべての患者に同じように「最善のケア」を提供しようとするだろう.この「最善のケア」というのは,「その患者たちが抱えている課題に対して,臨床研究によって最も効果的であることが立証されているケア」である.つまり,ケア者は「臨床研究に裏づけられた最善のケア」という正解を知っていることになる.
これに対して,NBM(narrative-based medicine)は,直訳すれば「患者の物語(話)に基づく医療」である.しかし,これは単に「患者の話をよく聞こう」というような,医療従事者のエチケットを述べているものではない.患者が語る,病気についての「物語」,つまり,どうしてその病気になったのか,どんなことに苦しんでいるのかといった話を理解し,それに基づいて患者の抱える課題を理解し,全人的な視点から解決策を考えていこうというものである.ケアの方法論としてとらえれば,NBMの特徴は,患者の課題を個別化された細密な視点で捉えようとするところにある.同じ病気を抱えている患者たちは,大きな視野で捉えれば「共通の課題(一括りにされた課題)」を抱えているのだが,より細密にとらえれば,患者ごとに異なる「個別の課題(細分化された課題)」を抱えている.例えば,糖尿病の患者は「血糖調節ができない」という共通の課題を抱えている一方で,身体のどんな機能が障害されているかや,生活にどんな支障が生じているかは,患者によって異なる.これは共通の課題というよりは,患者によって異なる「個別の課題」である.第二の仮説で詳しく論じるが,患者の生活への影響に立ち入って課題を捉えようとする臨床研究は容易ではない.関連する要因が多すぎて,それらをすべて考慮に入れた研究は,対象者の規模も,影響評価に要する時間も,大規模なものとならざるを得ないからである.そのために,「個別の課題」についての文献を調べても,ケア者は何が「最善のケア」なのかの根拠を容易には見つけられない.そのために,患者から,「どんな症状があるか」「何に困っているか」といったことについて話を聞き,そこで課題を見いだして,それに応じたケアを提供するしかない.それは「ケア者が正解を知らないケア」であり,「正解を患者と協働で探索するケア」である.こうして,医学文献ではなく,「患者の物語(話)」に基づいて治療ケアを考えようとするところに,「患者の物語(話)に基づく医療」の本質がある.
このように対比すると,EBMとNBMは,ケアの2つの方向性の違いを指し示す概念であるようにも思えてくる.この2つの方向性は,根本にあるケア実践の態度の違いに根ざしており,「実在論的なケアと構築論的なケア」という哲学的な表現をせざるを得ない.実在論と構築論(構築主義)については,ここでは十分に解説できないが,突きつめれば「一つの正解」があると考えるのが実在論であり,「人によって正解が異なる」と考えるのが構築論である.
2. ヘルスケアの関心領域には,身体機能,生活機能,人生史の3つがある同じ病気の患者には,「共通の課題」もあれば「個別の課題」もあると述べてきた.では,その違いが生じるのはなぜかを説明するのが,第2の仮説「ヘルスケアの関心領域には,身体機能,生活機能,人生史の3つがある」である.患者の抱える課題は,身体機能,生活機能,人生史にまたがる広い領域で生じていて,ほんらいはそのすべてがケアの対象となるべきなのだが,医療職がケアの対象にできているのは,主には身体機能の課題であり,生活領域や人生史の領域には限定的にしか関われていない.
病気になったとき,私たちはそれを「身体機能の課題」として捉えることが一般的である.身体機能とは,分子,細胞,組織,臓器などで行われる機能のことである.例えば,人間ドックで「腎不全です」と言われた場合,通常は,腎臓という臓器の問題として説明がなされる.尿素窒素や血清クレアチニンなどの数値を見ながら,医師は「必要な物質を体内に残し,不要な物質を体外に排出するという機能が働かなくなってきています」等と説明する.「将来的には透析が必要になるかもしれません」と,治療についても説明がされるかもしれない.こうした説明は,腎不全の患者全般に対して,ほぼ同じ内容のものになる.腎機能という身体機能に生じる問題は,どの患者にも通じる「共通の課題」だからである.
しかし,腎疾患によって夜間頻尿や息苦しさ,吐き気のような症状が現れている場合に,それが患者の生活にどのような支障をもたらすことになるかは,患者ごとに異なる.例えば,夜間頻尿という症状がある患者の中には,それがほとんど生活に支障をもたらさない人もいれば,大きな支障になる人もいる(睡眠が障害されて仕事や学校に行けない等).人間の生活には,家庭や職場,学校,地域社会など,様々な「場」があり,そこで営まれる様々な「活動」がある.当然ながら,そういった場や活動に生じる課題としての「生活機能の課題」は個人個人で異なる.その一方で,生活の「場」も「活動」も,ある程度は分類して捉えることができ,そこで生じる課題に対する対処法もある程度は類型化して考えることができる.睡眠障害が生じている人には薬物治療を,仕事に支障が生じている人には生活指導や働き方の見直しの助言を行うことができる.
ところが,「人生史」という第3の領域で生じる課題は,きわめて個別性が高く,AさんにはAさんの課題があり,BさんにはBさんの課題があるというように,個別の課題として捉えるしかない.人生史とは,文字どおりに「人生の歴史」であり,誕生から死に至るまでその人の歴史である.そこには,進学,就職,結婚,出産,育児,離別,そして,最後には死という重要なライフイベントがあり,仕事やキャリア,業績のように「人生で何をするか」という側面があり,さらには家族や近親者など,「重要他者」と呼ばれる人たちとの関わりがある.病気や治療によって,こういったものに支障が生じ,本人にとって深刻な課題になることがある.
例えば,腎機能の低下が進行し,最終的には透析を考えざるを得ないのに,家族への負担を気にして,透析を受けようとしない患者がいる.この際の課題というのは,身体機能や生活機能の領域には収まりきらない.それは本人が生きてきたこれまでの過程や,将来の見通し,さらには家族との関係性や,本人が何を大切に考えているのかという価値観などによって左右される.透析を受けようとしない患者の課題が生じているのは,このような領域であるのだが,これを言い表すのに,「人生史」という言葉以上に適したものが見つからなかった.
しかし,そもそも医療従事者がこのような領域にまで立ち入って,患者の課題を解決する支援をすべきなのだろうかという疑問も生じる.人によっては,人生史のようなプライベートな領域には立ち入るべきでないという人もいるだろう.しかし,患者は人生史の課題を抱えている存在だという認識は,医療従事者にとって不可欠ではないかと思う.なぜなら,好むと好まざるとに関わらず,この領域に立ち会うことになるのが,医療従事者という職業だからである.例えば,患者が臨終を迎えることになったとき,そこに居合わせた医療従事者は,患者の人生史で最も重要なイベントに立ち会っている.そのときにどんな態度を取るか,プロフェッショナルとしての倫理が試される瞬間かもしれない(Charon, 2004).
さて,身体機能,生活機能,人生史という3つの領域で生じる課題に対して,看護職がどのような支援を行っているのか,あるいは行い得るのかというのは,とても興味深いテーマである.おそらくは,生活機能の領域こそ看護職の職域だと考えられているように思うのだが,今日の看護職の実践領域はかつてないほどに広がっているようにも思える.典型が,「特定行為」という言葉が象徴するように,身体機能の領域で医師が行ってきた治療の一部を担いつつあることであろう.では,人生史の領域についてはどうかというと,意識せずこの領域に立ち入ることはしばしばあるにも関わらず,それを看護職が専門的なケア実践と認識していることは少ないのではなかろうか.
例えば,入院中の患者が会話のなかで,亡くなった妻のことに触れたときに,看護師がふと「奥さんはとても優しい方でしたね」と語ったとする.この何気ない言葉が,患者にとってケアになることがある.この言葉には,患者にとって重要なことがいくつも表現されている.この看護師が妻のことを知っていること,妻が生前にこの病院に入院したことがあり,この看護師はそのときに妻を受け持ったことがある人かもしれないということ.看護師は妻の像を思い浮かべ,妻に対して敬意を払ってくれていること,などである.看護師自身は,「たんに普通の会話をしたに過ぎず,特にケアをしたわけではない」と考えるかもしれないが,これはまさしく患者の人生史の領域に踏み込んだ発話であり,注意深く行いさえすれば,ナラティヴ・アプローチの実践になり得る.
本稿の最初の方で述べたように,ナラティヴ・アプローチとは,患者の自己物語に注目し,患者が自己物語思い描いたり描き直したりすることで,自らの病気,障害,死などと向き合いながら生きるための支援をすることである.これを特別な技法として行うか,あるいは日常的な対話の中で行うかの違いはあるが,いずれにしてもそれがケアとして成立し得るのはどんな場合なのか.これを説明しようとしたのが「ナラティヴ・アプローチは,解釈,調停,介入という3つに分類できる」という,第3の仮説である.
解釈的ナラティヴ・アプローチは,医学的な視点でとらえた病像としての「疾患disease」ではなく,患者の視点でとらえた病像としての「病いillness」を理解する実践である.ケア者の側の視点で考えると,医師は主に身体機能に,看護師は主に生活機能に焦点化して,「疾患」に起因する課題を理解しようとするのかもしれないが,患者にとっての「病い」は,身体機能,生活機能,人生史の3つの領域で有機的につながった現象として理解されている.前に述べた腎不全の患者が,本人か知覚する自覚症状がほとんどないのに,腎機能が低下していて透析導入を検討せざるを得ないという場合,身体機能の問題(腎機能低下)は医師から聞かされて初めて知るものであって,実感がない.生活機能には,今のところ特に問題がないが,透析を受けることになれば大きな支障が生じるように思う.人生史の領域の領域では,仕事をやめて生き方を変えなければならないだろうし,家族や友人との関係も変わる.思っていたより早く死んでしまうのかもしれない.
ケア者は,身体機能や生活機能の課題に対しては支援する手立てを持っているが,人生史の領域の課題には何も提供できるものがない.多くの場合はそのように考えて,通常はこの領域に立ち入ろうとしないだろう.しかし,解釈的ナラティヴ・アプローチのなかには,思い切ってこの領域に立ち入り,それを心のケアとして実践しようという試みがある.それがライフレビュー(回想法),ディグニティセラピー,人生紙芝居といったものである.
終末期を迎えた患者に行われているディグニティセラピーは,人生史についての話を傾聴し,それを形として残す実践である.「人生で特に記憶に残っていること,最も大切なことはどんなことでしょう」「大切な人に言っておかなければならないことや,もう1度話しておきたいことはありますか」といったことを,患者に尋ねていく.考案したチョチノフは,「生成継承性」という概念に注目した.これは,次の世代の人たちに何か価値のあるものを残し,伝えていくという考え方である.チョチノフらは,終末期患者の尊厳感情に,この生成継承性が貢献していることを見出し,これをケア実践に活用できると考えて,ディグニティセラピーを考案したのだった(Chochinov, 2012).
調停的ナラティヴ・アプローチは,複数の人たちのナラティヴの間で生じる不調和を調停する実践である.専門看護師の役割になっている「倫理調整」や,苦情やトラブルの際の対話を促進する「医療メディエーション」などが,典型的な実践例である.そこでは,調停を行う人が,患者や家族,スタッフなどの話を傾聴し,それぞれのナラティヴをよく理解して,その間で生じている不調和を見きわめ,対話を通じて調停を行おうとするものである.もちろん,これらはケアの実践とは言えないのだが,「複数のナラティヴの調停」をもっと広い視野で捉えると,ケアとして成り立っている実践例がいくつも視界に入ってくる.AAや断酒会のようなセルフヘルプグループの活動の中にそのようなものが見出せるし,内在化された他者への質問,リフレクティング・チーム,オープンダイアローグといった精神科や心理療法の領域での実践例のいくつかも,「複数のナラティヴの調停」という図式でとらえることができそうである.ケア論としてこれらをとらえてみると,共通しているのは,「ケア者が正解を知っている」という前提を棚上げし,安心して発言できる対話空間を実現することでケアが成立している点である.
そのことを特によく示しているのが,リフレクティング・チームとオープンダイアローグである.ケア者の話し合いはケア者だけで行われるのが通常のことであるが,リフレクティング・チームやオープンダイアログでは,これを患者の前で行う.そこには,「ケア者が正解すなわち何が「最善のケア」であるかを知っている」いう前提への疑問や,「患者の知らないところでケアの方針を決めるのは間違っている」という倫理的な懸念があった.オープンダイアローグでは,急性症状のあるような精神疾患患者への対応であっても,ケア者の話し合いを患者の目の前で行う.招集するメンバーには,患者のほかに,家族や地域社会でかれらの支援を行っている様々な立場の人も含まれる.そういった人たちの目の前で,ケア者はケアの方針などを話し合い,それを聞いていた患者や他の人たちにも発言を促す.そこでの話し合いは,専門知識を持ったケア者が全体をリードするというのではなく,医師を含むケア者が,あたかも「素人」のような意識で対話に参加する.ケア者が正解を知っているという前提は棚上げにされているために,「私にもどうすればよいのかが分からず,困っている」という話を,ケア者がしたりもする.問題の解決を目指すというよりも,対話を続け,多様な声に耳を傾け続けること(対話主義)が,この手法の要点とされる(オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン,2018).
介入的ナラティヴ・アプローチは,ケア者が介入して,患者が自己物語を書きかえたり,新たな意味を見出したりするように支援する実践であり,その多くが心理療法として行われてきた.自己対面法,外在化する会話,再著述する会話,ユニークな結果を際立たせる会話,リ・メンバリングする会話など,多様な例があるのだが,ここでは日本でも早くから紹介され,比較的よく知られている外在化する会話を取り上げる.これは,疾患や問題の原因を自己の中にあると考えて苦しんでいる状態から患者を離脱させるために,その原因を「自己の外」に見出すように支援する取り組みである.最初に報告された実践例では,セラピストが遺糞症の小児とその家族に対して,「プーという架空の存在が問題を起こすように,そそのかしている」と考えるように提案し,その想定のもとで対話を繰り返した.やがて,その子どもは,問題行動を起こさせようとする「プー」の企みを拒んでみようという気持ちになっていき,実際に遺糞症の症状が改善されていった(White, & Epston, 1990).
この風変わりにも見える心理療法が,たとえば大人にも適用できるのかと疑問に感じる人もいるかもしれないが,「外在化」そのものは,私たちが病気と向き合う際にしばしば行っている発想の転換に近いように思う.例えば,がんのような難しい病気にかかったときに,人々は昔から「運が悪かった」と考えてきたし,最近では新しい医学知識に基づいて,「細胞の中で遺伝子が変異を起こして,がん細胞が生じたのだ」と考えたりする.「運」も「遺伝子の変異」も,自分そのものではない.つまり,「自分ではないもの」に原因を転嫁しているようなものである.こうすることで,深刻な病気を抱えて生きる辛さや,「自分の行動や,心がけが悪かった」というような自責の念が和らぐのかもしれない.
ここまでに取り上げてきたナラティヴ・アプローチの中には,特定の患者を対象とするものや,特別な設定を要するもの,あるいは,特別な訓練を要するものもあるのだが,すべてが高度に専門化されたケア実践というわけではない.むしろ,セルフヘルプグループの活動のように,プロの専門家が直接的には介在しないものもあれば,リフレクティング・チームやオープンダイアローグのように,専門家があえて自らの専門家としての立場を棚上げにするかのような実践もある.筆者が注目するのは,ナラティヴ・アプローチの実践の多くが,目の前にいる患者の課題を何とかして解決・軽減したいと考えたケア者によって考案され,大胆に試みられたものだという点である.薬やメスではなく,「言葉」を用いるのがナラティヴ・アプローチである.もちろん,「言葉」も使い方次第で侵襲性を持ち得る.話し方や,聞く態度によっては人を深く傷つけることもある.それでも,対話の安全性を確保して行われる限り,特段に大きなリスクをもたないというのが,ナラティヴ・アプローチを行っている人たちの,ほぼ一致した見解のようである.
周知のように,私たちの社会には「心のケア」がきわめて不十分だという現実がある.日本には欧米諸国と同程度に心の病を抱えている人がいる一方で,専門家の支援を受けている人は非常に少ない.心の病の有病率はおおよそ8.8%で,欧米諸国と大して変わらないが,メンタルヘルスケアのサービスを受診している率(中程度の症状の患者)は16.7%程度であり,有病率が同程度の国々と比べて半分程度でしかない(OECD, 2009).専門的でない領域の「心のケア」,すなわち医療機関で医師や看護師などから提供される「心のケア」も,はなはだ心許ない状況がある.こうした状況を改善していくために,必ずしも精神科や心療内科等の専門的なケアに限定せず,一般的な診療や保健医療サービスの中でも実行可能な「心のケア」を考えていく必要があるように思う.その際に,ここで取り上げたナラティヴ・アプローチの考え方や実践例が多少とも参考になるのではないかと考えている.