407年開設された釜山倭館は, 龍頭山を中心とした地域一帯に1677年4月に移館・新築された。この草梁倭館が日本専管居留地に開放され, この時すでに龍頭山上には彼らによって神社が営まれていた。総督政治になると, 神社参拝強要に代表される皇民化政策によって, 神社境内外は拡張され神域化されていく。神社と公園の併立といった考え方は変わり,「神社と公園の並立は不可」となった。そのためか, 神社創建と並行して造成された公園のすべてが, 特に都心に位置する公園としての機能を失い, 韓国人には嫌われるものとなった。公園内の神社建築の殆どが, 韓国独立と同時期に, 市民の手によって破壊されていったのは当然なことと言える。