2024 年 1 巻 1 号 p. 56-66
【研究ノート】
『下関水産振興協会議事録』に見る戦後の水産都市
下関の実態について①
岸本 充弘1
Mitsuhiro KISHIMOTO 1
1経済学部
Faculty of Economics
要旨
水産都市下関の発展を支えてきた下関水産振興協会より、事務局を移転する2016(平成28)年に下関市立大学が多くの協会所蔵資料の寄贈を受けた。その資料のうち、貴重な1次資料である『下関水産振興協会議事録』に記載されている事項を読み解きながら、議事録から見えてくる戦後の水産都市下関の実態と、その背景にある日本国内の水産政策や、水産業の実情について段階的に検証することを試みた。そこには、戦後の混乱期における物資不足や、不安定な治安状況等をみることができる。
キーワード:下関水産振興協会、水産都市、下関漁港、戦後の水産業
1.はじめに
1.1研究の目的と背景
山口県下関市は、国内有数の水産都市として発展してきた歴史的経緯がある。江戸期に北前船の中継地として多くの問屋があった下関を経由し、各種水産物が下関から関西、北陸、九州等の各地に運ばれた。また、明治期以降、当時の共同漁業や日本遠洋漁業(現在のニッスイ)、林兼商店(現在のマルハニチロ)の拠点が置かれ、汽船トロールや捕鯨基地として、また水揚げされた魚や鯨の加工品製造等多くの関連企業も集積し、水産業は下関に不可欠な主要産業の1つとなった(下関市役所,1983,pp.330-347)。特に戦後、水産都市下関の発展を支え、その原動力となった団体が下関水産振興協会(以下「協会」)である。
2016(平成28)年に協会が管理し、入居していた下関水産会館が、建物の老朽化に伴い解体されることとなった。協会は、下関漁港内に新たに建設された新漁港ビル(写真1)に移転することとなり、所有資料を整理する過程で、地域の史資料等を収集していた当時の下関市立大学地域共創センター注1)に、協会から資料寄贈に係る打診があった。

写真1『新漁港ビル』出典:2024年5月24日筆者撮影
受け入れに関して学内で協議した結果、協会資料のうち、総会・役員会議事録綴や水産会館建物図面等53点の資料注2)について寄贈を受けることとなった。寄贈資料の中で一番多いのが、計44冊ある議事録綴であった。議事録綴りの1冊目は、協会が任意団体組織であった1946(昭和21)年12月11日開催の役員会議議事録で始まり、寄贈議事綴の最後は1997(平成9)年度議事録で終わっている。これらは、戦後の水産都市下関の歴史の一部が、議事録として残されている貴重な1次資料である。この度、これらの1次資料を活用した研究紀要執筆について、事前に協会のご了解をいただくことができた。それを受けて本稿では、資料の中心となる議事録に記載されていることを読み解きながら、戦後の水産都市下関の実情と、その背景に見えてくる我が国の水産業の実態、水産政策等について検証を試みることを目的としている。しかしながら、議事録自体が半世紀以上にわたる膨大な量であるため、戦後から水産都市下関の全盛期であった昭和40年代を重点的に検証することとした。

図1 下関漁港水揚高(単位:トン)
出典:下関水産振興協会『十年のあゆみ』より筆者作成
下関漁港は、戦後すぐの1946(昭和21)年の水揚高が28,614トンであったが、翌年の1947(昭和22)年には水揚高が73,763トンと約2.6倍となっており、その後も昭和20年代後半から昭和30年代にかけて水揚高が一気に20万トンを超えるほど急増している(図1)。このような下関漁港の復興の状況を辿るように、1946(昭和21)年から年代を少しずつ下りながら、今後数年かけ、議事録の検証について段階的に紀要として執筆することを予定している。そのため本稿では、その第1回目として議事録綴1冊目に掲載してある1946(昭和21)年12月11日から1947(昭和22)年6月13日までの議事録について検証し、その背景を探っている。
1.2先行研究と研究の手法
下関市における水産業史や、その形成過程等に焦点を当て検証された書籍や紀要等として、『下関市史・市制施行-終戦』(下関市役所,1983,pp.295-364)、『下関市史・終戦-現在』(下関市史・終戦-現在,1989,pp.245-309)、大洋漁業80年史(大洋漁業,1960,pp.223-281)、日本水産100年史(日本水産,2011,pp.14-47)等にその一部が記載されている。『下関市史』には、下関が汽船トロール基地となった経緯等、水産都市としての成り立ちについての記載はあるものの、産業の一部としての水産業の扱いであり、1次資料等に基づき検証した記載にはなっていない。また、大洋漁業や日本水産の社史については、下関に関する記述はあるが、あくまでも部分的な記述に留まっており、戦後の1次資料等に基づく水産都市下関全体を俯瞰した検証ができているとは言い難い。また、水産都市下関を支えた中核施設である下関漁港に焦点を当てて検証された研究紀要としては、相沢昴(1972,pp.63-73)、林紀代美(2000,pp.386-387)、林紀代美(2001,p.8)があり、下関漁港を基地とした以西底曳の歴史や操業実態等に視点を置いて検証した、山本興治(2011,pp.99-117)の研究もある。以西底曳についての研究では、九州経済調査協会(1949,pp.1-4)、水産庁(1957,pp.8-9)、日本遠洋底曳網漁業協会(1968,pp.272-275)の調査研究で、漁獲高や漁獲比率等について検証されている。また、水産都市下関の産業構造とその特質について、下関漁港の取扱い量、金額を検証しながら、その機能等を中心とした検証を行っている中井裕(1996,pp.156-201)の書籍があるが、幅広く、戦後の水産都市下関の水産業史に係る1次資料を用いた歴史的検証を行っている紀要等は見当たらない。
加えて、本研究を進めるうえで、協会の総会・役員会議事録に記載のある戦後から昭和40年代にかけて、記載の事実確認等の聞取り調査可能な方の有無についても協会に確認したが、既に世代が変わり、当時の状況について聞き取り可能な方もいないとのことであった。そのため、先ず1次資料である総会・役員会議事録の記載の中から、下関市及び山口県、日本国内における水産業を取り巻く国内外の情勢、背景等と特につながりのある部分を中心に、抽出する作業を進めることとした。更に、協会から提供いただいた協会発行の『十年のあゆみ』注3)『20周年をむかえて』注4)『30年の歩み』注5)『50年の歩みと将来展望』注6)の資料や、関連書籍等を参考にしながら、抽出した事項に関連する部分を繋ぎ合わせることで、水産都市下関における実態と、その全体像を明らかにしていく手法で、本稿の執筆を行っていくこととする。なお、本文中における1次資料記載部分については、資料価値を担保するため、議事録に記載されている旧字体等は可能な限りそのまま使用することとし、解説等の部分についてはわかりやすいよう口語体を使用している。
2.総会役員会議事録に記されているもの
協会の総会役員会議事録綴44冊のうち、1冊目となる議事録綴(写真2)には、1946(昭和21)年12月11日開催の役員会議から1949(昭和24)年8月30日開催の役員会議議事録の約3年間分の議事録が綴られている。

写真2『議事録綴』
出典:2024年6月10日筆者撮影
議事録綴の最初の記録となる1946(昭和21)年12月11日開催の役員会議議事録には「一、昭和二十一年十二月十一日午前十時役員會〈及總會〉との付記あり〉ヲ大和食堂ニ招集ス」とあり、「一、出席議員左ノ如シ 會長 中部兼市、副會長 七田末吉(代)、坂本實(代) 常務理事 山本操 理事 市川元治、野上熊吉、岡平八郎(代)、関壮二、小林小一郎(代)、今村末吉、井川克己、那須秀雄、藏富一馬(代)、幹事 川村保、中谷由路、名譽會員 池田秀夫 一、缼席議員左ノ如シ 理事 伊東猪六、一、會議ニ附シタル事項左ノ如シ 議案第一号 社団法人設立ニ関スル件 議案第二号 社団法人設立ニ伴フ定款制定ノ件」とある。この議事録にある出席者の記録から、協会の会長は、旧大洋漁業創業者である中部幾次郎の長男で、当時同社社長でもあった中部兼市が就任していたことが確認できる。また副会長の七田末吉は日東漁業の社長として、同じく坂本實は山口県鮮魚出荷統制組合理事長在職での就任であったこともわかる(下関水産振興協会,1997,p.46)。また、議案第一号「社団法人設立ニ関スル件」については、議事録に「全員之ヲ可決ス」とあり、社団法人の設立についてはこれをもって可決され、役員会として決定されている。続く議案第二号「社団法人設立ニ伴フ定款制定ノ件」については、定款の各条について逐条審議がなされている。議事録の記録によれば、各條ごとの追加・修正等の意見の後、それを反映させながら各條ごとの可決を行っている。その中でも出資金に関する「第六條」に関しては「出資金参萬圓ハ高額ニ付一万円ニシテハ如何」とあり「議長一同ニ図リ「一萬円」ニ可決ス」との記録がある。当該出資金の一万円は、日本銀行の消費者物価指数によれば、1947(昭和22)年を5.3、2023(令和5)年が106.6と20.11倍となっていることから、現在の約20万円となる注7)。
続く1946(昭和21)年12月29日開催の役員会議事録には「一、昭和二十一年十二月二十九日午後四時役員會ヲ新地町志ら梅ニ招集ス」とあり、「一、出席議員左ノ如シ 會長 中部兼市、副會長 七田末吉(代)、坂本實(代) 常務理事 山本操 理事 市川元治、野上熊吉、岡太平、小林小一郎、今村末吉、井川克己、那須秀雄、藏富一馬、伊東猪六(代)、江熊哲翁、會議ニ附シタル事項左ノ如シ 議案第一號 定款第六條ニ基ク出資金割當ノ件 議案第二號 會員災害弔慰内規制定ノ件」とある。議案第一号「定款第六條ニ基ク出資金割當ノ件」については、議事録に「定款第六條ニ基ク出資金割當ノ件 議長 出資金ハ封鎖ニテ宜敷ク 割當金ノ納入ハ一月末迄トシテハ如何ト発議 一同 賛成可決ス 割當数ニ付テ各會員毎ニ研討(中略)異議ナク可決」とある。また、各会員の出資金口数についての記載があり、議事録の最後に「社團法人下関水産振興協會出資金割當表(一口壹萬圓)」と「會員名及び口数」記載の表が掲載されている。更に報告事項として、「舩員ホーム建築経過ノ件」とあり、その内容について「大坂市石川憲三氏ニ設計ヲ依頼シ成案ヲ得タルモ銀行ニ於テ縮小方申入アリタルヲ以テ第二案ヲ作成中、案ヲ得次第勧銀ト(事業設備、新設許可申請)大蔵、農林、商工各省ニ許可申請シ提出セムトス予定ナリ」とあり、この船員ホームが後の下関水産会館のことであると推察される。

写真3『役員会議事録』
出典:2024年6月10日筆者撮影
続く1947(昭和22)年3月19日開催の役員会議事録(写真3)には「一、昭和二十二年三月十九日午後二時役員會ヲ大和町大和食堂ニ招集ス」とあり、「一、出席議員左ノ如シ 會長 中部兼市、副會長 七田末吉、常務理事 山本操 理事(以下略)」 一、會議ニ附シタル事項左ノ如シ 議案第一號 協會ノ定款一部改訂ノ件 第二號 社團法人設立許可ニ関スル件 第三號 役員選任ニ関スル件 第四號 昭和二十二年度歳入歳出豫算ニ関スル件 報告事項 昭和二十一年度協會事業報告ノ件」とあり、議案第1号「協會ノ定款一部改訂ノ件」で「曩々制定した定款中ニ 公益的経済行為並ニ出資金ニ関スル規定ガアルガ 之等ハ 社團法人ノ性格上禁ゼラレ居ル旨ヲ以テ 該當事項ヲ削除方中央當局ノ好意的指示ガアツタノデ 之ヲ改訂スルト共ニ 其他ニモ若干修正ヲ要スル個所ガアルノデ 本案ヲ上提スルト總括的説明ヲ為シタル後 逐條審議ニ入ル」とあり、各条ごとに審議され可決されている。しかし、その中でも「第六條 削除ニ可決ス」とあることから、定款第六条に定められていた出資金割当てに係る条項については、削除されたことがわかる。続く議案第2号「社團法人設立許可ニ関スル件」については、議事録に「社團法人設立許可申請手續ノ経過ニ付キ説明シ 二月二十六日付許可ノ正弐指令アリタルコトヲ報告シ 全員之ヲ確認ス」とあり、1947(昭和22)年2月26日付で従来の任意団体組織から、社団法人組織に改編したことを裏付けるものである。また、議案第4号「昭和二十二年度歳入歳出豫算ニ関スル件」について、伊藤議員より「旅費調査費等ニ関連シ 近頃長崎縣沿岸島嶼等ニ於テ漁獲物ノ横流シ横行シツツアル旨ヲ傳聞スル處ナルニ就テハ 之等ノ實情調査ノタメ適宜係員ノ派遣方ヲ希望ス」との意見が出ている。また昭和二十一年度事業報告ノ件として、「資材及特配物資ノ件、水産ホームノ件、警備状況及係員増強ノ件、投光機設置ノ件、漁港無電ノ移管増設ノ件」について報告があり、漁獲物の横流し、特別の配給等の文言から、戦後の混乱期の状況をうかがい知ることができる。翌1947(昭和22)年3月20日には総会が開催され、役員会で審議された同じ議案について審議され、可決されている。
続く1947(昭和22)年6月13日開催の役員会議議事録には「一、昭和二十二年六月十三日午後二時役員會ヲ水産倶樂部ニ招集ス」とあり、「一、出席議員左ノ如シ 會長 中部兼市、副會長 七田末吉、坂本實(代) 常務理事 山本操 理事 市皮元治、岡平八郎、江熊哲翁、小林小一郎(代)、今村末吉(代)、井川克己、那須秀雄、藏富一馬、伊東猪六 監事 中谷由路(代)、名譽會員 池田秀夫 一、缼席議員左ノ如シ(略) 一、會議ニ附シタル事項左ノ如シ 議案第一號 漁業用資材ニ関スル件 議案第二號 漁港無電ノ規約制定ニ関スル件 議案第三號 下関荷主協力會ニ関スル件 協議事項 第一號 漁港内ノ整理ニ関スル件 第二號 関、今村両理事辞任ニ対スル記念品贈呈ノ件 報告事項 第一號 五島方面ノ現地視察状況報告ノ件 第二號 水産ホーム建築経過報告ノ件」とある。議案第一号「漁業用資材ニ関スル件」については、議事録に、山本常務理事の議案提出理由の説明として「漁業用資材ノ不足ニハ 各位非常ニ困却シテ居ラレル處デ 之ガ爲ノ出漁計劃上ニモ支障ヲ来シ延テハ国民ノ食糧対策上ニ多大ノ影響ヲ及ボシテ居ル有様デアルガ 先般マ司令部水産部長ガ漁区資材等ノ調査ノタメ来関セラレタ際ニ ソノ實情ヲ報告シ漁区ノ拡張方ト共ニ資材面ニ就テモ特別ナ援助方ヲ要請シタガ 結局マ司令部トシテモ最善ノ努力ハ尽スガ 現在ノ國際情勢上國外カラ早急ニ資材ヲ流入スルコトハ困難ノ事情ニアルノデ 國内デ生産シ得ル代資材ト残存資材ノ最髙度ニ活用スル様ニトノ話デアツタノデ 今後此ノ問題ヲ如何ニ解決スルカニ付イテ御意見ヲ拝聴シタイ」とある。戦後の資材不足は漁業用資材も例外ではなく、海外からの輸入もままならない状況で、国内での生産も厳しい状況にあることがわかる。また、「マ司令部」と記載のある連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、以下「GHQ」)の水産部長が、下関に資材調査のため来ていることもわかる。資材に関することは、「即効性のある解決策も無く、調査や取引に努力すること」で可決されている。議案第二号「漁港無電ノ規約制定ニ関スル件」については、同じく山本理事から説明があり、「縣營ノ無電施設ノ無償譲受ケ 拡充預他スルコトトナッタガ 夫要スル費用ハ結局百弐拾六萬五千九百圓トナリ四月一杯ニ竣工ノ豫定ガ 資材関係デ若干遅レテ居ルガ 六月下旬ニハ完成スル見込デアル 現在無電船所有業者八十五社デ 施設ヲ有スル漁船ハ百二十隻デアル 最近無電ノ利用モ漸増シ 経営費ハ電報半数料デ充分賄ヒ得ル見込ガ立ッテ居ル(略)」とあり、無電の譲渡に伴う規約の制定と予算に関する議案が上程されている。緊急動議として、協会職員が昼夜兼行で職務に従事している無電通信士の待遇改善が出され、事務局で調整し最後は会長において決議することとなった。当時は協会業務の1つとして、県から譲渡された漁業無線の施設を使用した無線業務を行っており、通信士の待遇改善も課題であったこともうかがえる。また、議案第三号「下関荷主協力會ニ関スル件」については、同じく山本理事の説明で「本年三月荷主會ノ總會デ 荷主會ヲ合併スルト云フ決議ガアッタガ 其後集出荷規則ノ制定ニ伴ヒ 協會ノ性格上荷主會ノ事業ガ経済行為ト認メラレルカ否カノ点ニ疑問ガ生ジ 合併ノ實現ヲ見合セ 農林省水産局出張所岡本所長、山田技官ガ夫々先般上京セラレタノデ本省ノ意向ヲ打診シテ貰ツタガ 本省デモ新規定ガ出荷機関ニ経済行為ヲヤルコトヲ命ズル立前ニ 改メラレタノデ一應不可トノ見解ヲ示サレタ由デアル(中略)」とある。協会が社団法人として法人格を持った組織に変わった後、「荷主協力会を協会と合併することについて議論があったが、今一度農林省と協議調整することとなった。」との記述がある。更に協議事項の第一号である「漁港内ノ整理ニ関スル件」では、山本理事から「終戦後漁港内ニ破損沈没船ガ相當放置セラレテ危険ナ状態デアツタノデ 先般海運局、漁港事務所、協會三者協議ノ上大小三十隻ヲ海運局ノ手デ整理シタガ 尚港内ニ機帆船ガ繫留セラレズ 中央ニアンカヲ入レタリスル船ガアツテ 事故防止上整理必要トスルノデ海運局、水上警察署等ト連絡ノ上處理シタイト考ヘルガ 一方漁港内ノ繫留場所ヲ各業者ニ割當テルコトノ至ハ 適當数ノ“ブイ”ヲ設置シ之ニ繫留スル様ニシテハトノ意見等モアルノデ 御協議願ヒタイ」とある。このことは、当時下関漁港内に多くの沈船があり、船舶の航行に支障をきたしている状況であることの記録でもある。これは、終戦からそれほど時間が経過していない当時の下関漁港の状況を物語っている。議論の中で、「水上警察署の警備艇の港内常置や水上署や漁港事務所の監視員での警備依頼」についての意見が出ていたが、最終的に「水上署等との交渉について事務局に一任」されている。また報告事項として「一、五島方面ノ現地視察状況報告ノ件 二、水産ホーム建築經過報告ノ件」があり、水産ホームについては「水産ホームノ建築経過ハ其ノ後銀行方面及農林省並復興院出張所等ノ出先方面ハ概ネ建築可能ノ見透ヲ得タガ中央ニ於ケル資材関係ニ對スル詳細ノ点ガ未ダ判然トセズノデ近ク全方面ニ対シテ本格的ナ折衝ヲスル豫定デアル」とあり、水産ホーム建築においても資材不足が影響していることがわかる。
3.議事録を通して見えてくるもの
戦後の混乱する状況で、水産都市下関を取り巻く環境も戦前と大きく変わり、下関市も水産業の復興に向け少しずつ動き始めた。その動きの1つが、協会の設立であった。『十年のあゆみ』には、協会を立ち上げるに至った経緯として「食糧事情打開の上に水産業者の担う役割の重大性を自覚した業者は相互の緊密一体的な協力により自からの早急な立直りを図ると共に、水産業者としての使命を綜合的に推進する機関設立の必要性を痛感し、協議の結果、昭和21年5月18日水産業者を中軸として下関各界の有志を網羅し任意団体として下関水産振興協会を創立したが、その後協会の使命の本質並びに運営上の実情に鑑み、純然たる業者団体に改組することが妥当であるという結論に達したので、同年10月14日会員資格を規正すると共に役員改選、事務局設置、規約制定、予算措置等必要なる改革整備を実施して今日に及んだ」とある(下関水産振興協会,1957,p.7)。戦後の荒廃した日本にとって、一番重要な課題が食糧事情の打開で、水産業の復興は食糧を確保するために必要不可欠なものであり、下関はもちろん国にとっても非常に重要な解決すべき課題であった。『水産庁50年史』にも、戦後の状況について「全国119の都市のほとんどが廃墟と化し、国土が全く荒廃したその中で、700万人もの復員軍人、軍属、外地からの引揚者を迎えいれたが、それに加え農漁業生産の著しい減退による深刻な食糧不足は占領軍の食糧援助に頼らざるを得なかったほどの飢餓状態に近い状況であった」とあり(『水産庁50年史』刊行委員会,1998,p.45)、食糧不足の深刻な状況が垣間見える。加えて、水産行政としてGHQのもと、水産業自らをいち早く復興させることや、漁業の民主化が緊急の課題でもあった(『水産庁50年史』刊行委員会,1998,p.46)。
その後協会は「昭和22年2月26日従来の任意団体組織から社団法人組織に改編し(以下略)」とあり(下関水産振興協会,1957,p.7)、本稿で取り上げた協会議事録の最初に出てくる1946(昭和21)年12月11日開催の役員会は、任意団体として設立された協会が、翌年の社団法人設立を目指し、社団法人設立や定款の制定に係る議案を提出し、審議するために開催したものであったことがわかる。協会が任意団体から社団法人に移行後、1947(昭和22)年3月19日開催の役員会で可決された、定款第六条に定められていた出資金割当てに係る条項の削除については、『十年のあゆみ』掲載(下関水産振興協会,1957,pp.48-49)の定款第六条の内容が、協会の脱退手続きについての条項に変わっていることからも確認できる。この条項の削除は、公益目的事業を行う社団法人には、営利を目的とした株式会社や組合等で行われる出資金自体がなじまないという判断があったものと推察され、協会自体が、営利を目的としない公益団体として活動するための基盤づくりを行っていたことがわかる。
また、1947(昭和22)年6月13日開催の役員会の議事録には、漁業用資材の不足についての記述がなされており、GHQの水産部長が調査のために下関に足を運んでいることや、『水産庁50年史』に戦後の水産庁設置の経緯についての記載の中で、「46年(昭和21)11月に企画室が設置された翌年、水産物の統制のため、水産物集出荷、以西底引き、トロールなどの事務を行う事務所を東京、札幌、大阪、下関、福岡に置き、水産局駐在官配置し(以下略)」とあり(下関水産振興協会,1957,pp.48-49)、このことは下関が水産都市として国内有数の拠点であったことを裏付けるものである。また、県営の無電施設の譲渡により、当時の協会が漁業無線局の管理運営を担っていたこともわかる。戦後からそれほど時間が経過しておらず、戦争による被害の痕跡でもある漁港内の沈没船が多数そのまま放置されている状況や、警備等の依頼を各所に行っていること等から、漁港周辺の治安が非常に不安定であったことも推察される。終戦直後の国内における水産情勢については、『水産庁50年史』に「漁場の喪失と漁船の喪失が戦後水産行政展開の出発点」として記述されている(『水産庁50年史』刊行委員会,1998,p.59)。特に漁船の喪失については、「大型漁船は兵員や軍需物資輸送に使用され、また、トロール漁船、底びき漁船などは掃海艇として利用され(中略)爆撃、魚雷などによって沈没、座礁し喪失したものは母船の100%、捕鯨船の95%、トロール漁船の72%、かつお・まぐろ漁船の49%にものぼる。20トン以上漁船の隻数で48%が戦争によって喪失し日本の漁業に致命的な打撃を与えた(『水産庁50年史』刊行委員会,1998,p.59)。更に、陸上水産施設の破壊と資材の極端な不足で、空襲により製氷施設の28.4%、冷凍施設で25.3%を失っている。漁業用資材の中でも重要な重油などの燃料は無に等しく、代用燃料も入手困難、漁網網も原材料の輸送能力も著しく低下し、それらの工場も戦前540箇所あったものが210箇所に半減している(『水産庁50年史』刊行委員会,1998,p.60)。片岡ほか『日本漁業の200年』にも、1939(昭和14)年と1945(昭和20)年の戦前・戦後の大型漁船比較を行っているが、3,570隻が1,867隻と半減しているとの記載がある(片岡千賀之ほか,2022,pp.161-162)ことからも、戦争での被害の大きさをうかがい知ることができる。
また、本稿に掲載した協会の議事録から10年後に発行された『十年のあゆみ』(下関水産振興協会,1957,pp.8-9)には、1957(昭和32)年当時の協会事業の概要も掲載されており、「1.漁港荷役及び準備岸壁一帯の自主警備、2.農林省水産講習所(吉見)の設立及び施設備品の援助、3.漁業無線局の経営拡充強化、4.水産会館の建設運営、5.下関会員厚生会館の建設、6.関西4都市市場卸売手数料値上げ反対運動、7.荷卸料金値上げ反対運動、8.下関市水上警察署庁舎の建設、9.鮮魚輸送対策、10.水産振興対策、11.日韓漁業対策等」の記載から、協会が下関の水産業に係るかなり幅広い事業を行っていたことがわかる。その中でも1.漁港荷役及び準備岸壁一帯の自主警備では、「昭和21年11月から同25年5月迄保安係を設け、鮮魚の不正流出、盗難、喝取の防止その他傷害暴行無断立入者の取締に任じただ愛の成果を収めた」とあり、戦後10年を経過してもなお、下関漁港周辺の治安が不安定な状況に対応するために、自主警備という形態で協会が事業を行っていたことがわかる。また、8.下関市水上警察署庁舎の建設では、「漁港防犯、警備強化の見地から漁港の一角竹崎町岸壁に下関市水上警察署庁舎を建設これを市に寄附」との記述があり、漁港周辺の治安を担う水上警察庁舎建物を協会が建設し、寄付していた。なお、当時の下関市には現在の県警察ではなく自治体警察として、下関市が警察を所管し運営していた。続く2.農林省水産講習所(吉見)の設立及び施設備品の援助とあるが、水産大学校の前身である朝鮮総督府釜山高等水産学校(後の釜山水産専門学校)の内地引揚生の受け入れのために、下関に1946(昭和21)年に開設した水産講習所分所を翌年第二水講とし、その後は、現在の水産大学校に引き継がれているが、協会として水産講習所の設置や支援を行っていた注8)。また、 3.漁業無線局の経営拡充強化では、「昭和22年4月県営漁業無線局の無償譲渡を受け、機材施設の拡充強化を行い二重通信から三重通信設備を完了」とあり、『20周年をむかえて』に、「昭和22年4月、山口県営漁業無線局の無償譲渡を受け、同年には第一次改装工事を完成し、漁業無線通信周波数の全面的変更が実施される機会に、第二次改装工事として電信電話の二重通信を、さらに第三次改装工事として三重通信施設を整備して、東海黄海及び朝鮮海域の拿捕防衛通信は勿論漁況ならびに海難防止通信等に努めた」とあり(下関水産振興協会,1967,p.9)、協会や漁業者にとって漁業無線事業がどれほど重要なものであったのかが推察される。更に議事録に記載のあった船員ホームは後の水産会館であると推察されるが、4.水産会館の建設運営では、「水産業者及び水産従事者の厚生福利施設として水産会館を建設し広く一般の利用に供す。竣工が昭和23年12月13日、建設費が2830万円、敷地305坪、延建坪1250坪、構造 鉄筋コンクリート地階及び地上4階建」とある(下関水産振興協会,1967,pp.7-9)。1947(昭和22)年6月13日開催の役員会から1年半後に船員ホームは水産会館として完成する。議事録にある船員ホームとの記載は、この議事録以降水産ホームとの記載となっており、途中の記録にはその変更について記載がない。呼称として船員ホームが後に水産ホームとなり、後の水産会館となるものと推察されるが、呼称の変更等については、別の稿で改めて検証することとしたい。
1946(昭和21)年に任意団体として設立された協会が、1947(昭和22年)に社団法人として法人格を取得した間、下関漁港の入構漁船と水揚げ高はどの程度変化したのであろうか。戦後すぐの1945(昭和20)年9月2日、日本のすべての艦船はGHQの監督下に置かれ移動が禁止された(『水産庁50年史』刊行委員会,1998,p.61)注9)。その後、漁業再開に向けた日本政府申請の12マイルを越えての漁業許可第1次漁区として出された操業区域を、マッカーサーラインと呼んだ(下関市,1989,p.247)。しかしながら、東シナ海及び黄海の操業は認められず、これにより打撃を受けたのが、西日本に基地を持つトロール及び底曳網の遠洋漁業であった。下関市史にも「マッカーサーラインに規定された水域内で操業できたのは四隻のトロール漁船と三十隻の底曳網漁船だけで、戦前に操業したトロール漁船七〇隻、底引網漁船六〇〇隻に対し5%に過ぎない状況であった」との記載があり(下関市,1989,p.248)、遠洋漁業の基地で、全国の遠洋漁船の半数以上の根拠地でもあった下関市にとって、操業区域の制限は切実な問題であった。その後も特に西部地域の漁場拡大は認められず、マッカーサーラインが廃止される1952(昭和27)年4月25日まで新漁区は追加されなかった(下関市,1989,pp.246-250・『水産庁50年史』刊行委員会,1998,pp.61-95)。『十年のあゆみ』によれば、1946(昭和21)年の入構実績がトロール船111隻、底曳き網漁船1,280隻、鮮魚運搬船356隻の計1,747隻であったものが、1947(昭和22)年には、トロール船261隻、底曳き網漁船2,505隻、鮮魚運搬船584隻の計3,350隻と約2倍となっている(下関水産振興協会,1957,pp.32-34)。水揚げ高も1946(昭和21)年でトロール船1,049,693貫、底曳き網漁船5,109,661貫、運搬船その他1,471,072貫の計7,630,428貫が、1947(昭和22)年には、トロール船3,272,423貫、底曳き網漁船14,301,705貫、運搬船その他2,096,093貫の計19,670,221貫と約2.5倍に増加している。これらの数字は、戦争により下関の水産業が受けた被害の大きさを確認できると同時に、下関における戦後の水産業が少しずつ復興している状況を表している。併せて、戦後設立された協会も、国や様々な復興に向けた動きの中で各種団体、企業等との調整を行い、復興に寄与してきたと言える(表1)。

出典:下関水産振興協会『十年のあゆみ』、『20周年をむかえて』下関水産振興協会より筆者作成
4.小括
下関市は国内有数の水産都市として、戦後多くの水産関連企業により都市基盤が整備されてきた歴史的経緯がある一方、戦後の水産業史が十分に検証されていないのではないかと言われてきた。この背景には、水産業に係る戦後の1次資料が極端に少ないことや、大手水産会社が所有する内部資料については、外部に出すことに対して制限があること等の要因があるのではないかと考えている。また、水産に係る関連産業の裾野が広く、特に中井(1996 ,pp.156-201)の指摘にある、下関市が多機能集積型の水産都市である点も、検証作業が容易には進まないという背景としてあるのではないかと推察している。更に、水産業に従事する方の世代交代により、当時の下関における水産業の実態をご存じの方がいなくなっていることもある。
本稿で取り上げた協会の議事録資料は、戦後任意団体として設立された協会が、復興も思うように進まない状況の中、国の食糧不足対応や治安の不安定な状況を改善する等、下関の水産業に係る様々な課題を解決するために、法人格を持つ公益団体として、社団法人へ移行するまでの状況等に至る議論の経緯を細かく示している。これらの資料は、水産都市下関にとって、戦後から昭和30年~40年代の、全盛期を裏付ける貴重な1次資料であるとともに、下関はもちろん、日本国内の水産業史に少しでも光を当てるものになる可能性がある。一方で、これらの資料は、下関の繁栄の光の部分を映し出すだけではなく、戦後の日本の水産を取り巻く様々な陰の部分も映しており、膨大な協会資料を1つずつ紐解いていく作業は、多くの時間と労力がかかることが思慮され、その作業はようやく始まったばかりである。本稿が、水産都市下関の歴史に光を灯す1つのきっかけとなり、今後の水産都市としての発展を考えるうえでの1つのきっかけとなれば幸いである。
最後に、本稿の執筆について快く了解をいただくとともに、関連する資料のご提供をいただいた下関水産振興協会の波多会長様、石津専務理事様にこの場をお借りし、お礼を申し上げるとともに、次回以降の検証・執筆作業にお力添えをいただければ幸いである。
引用・参考文献
相沢昴(1972)「下関漁港の形成過程」,『漁業経済研究』19(3),漁業経済学会,pp.63-73
片岡千賀之・小岩信竹・伊藤康宏(2022)『日本漁業の200年』,北斗書房,pp.161-162
九州経済調査協会(1949)『九州経済旬報』90号,pp.1-4
下関水産振興協会(1957)『十年のあゆみ』, pp.7-49
下関水産振興協会(1967)『20周年をむかえて』, pp.7-9
下関水産振興協会(1977)『30年の歩み』
下関水産振興協会(1997)『50年の歩みと将来展望』, p.46
下関市役所(1964)『下関市史 藩制-明治前期』
下関市役所(1983)『下関市史・市制施行-終戦』, pp.295-364
下関市(1989)『下関市史・終戦-現在』, pp.245-309
水産庁調査研究部調査資料課(1957)『水産調査月報』39号, pp.8-9
『水産庁50年史』刊行委員会(1998)『水産庁50年史』, pp.45-61
大洋漁業(1960)『大洋漁業80年史』, pp.223-281
中井裕(1996)『水産物市場と産地の機能展開』,成山堂書店, pp.156-201
日本水産(2011)『日本水産100年史』, pp.14-47
日本遠洋底曳網漁業協会(1968)『弐拾年史』, pp.272-275
林紀代美(2000)「下関漁港・商港の水産業空間-集出荷活動の展開を中心とした地理学的考察-」『日本地理学会発表要旨集』,日本地理学会, pp.386-387
林紀代美(2001)「下関における水産物集出荷活動」『日本地理学会発表要旨集』,日本地理学会, p.8
山本興治(2011)「以西底曳網漁業の興亡:下関漁港基地の視座から」『下関市立大学論集』54(3),下関市立大学, pp.99-117
注1)現在の下関市立大学研究機構先端地域科学研究所。
注2)53点の資料の内訳は、議事録綴が44冊、水産会館建物図面等が6冊、その他資料3冊で、水産会館建物図面によると、建物基礎に松の木杭が使用されていたことが判明した。
注3)下関水産振興協会(1957)
注4)下関水産振興協会(1967)
注5)下関水産振興協会(1977)
注6)下関水産振興協会(1997)
注7)日本銀行 https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j12.htm(参照2024-05-05)
注8)水産大学校沿革 https://www.fish-u.ac.jp/shokai/enkaku.html(参照2024-05-27)
注9)GHQの機構については、最高司令官の下に参謀長、次長、その下に民事、民政、経済、科学などの各局、その1つが天然資源局(NRS)。同局には農業部、林業部とともに水産部があり、水産部は資源、生産、経済、施設、野生動物の各課にわかれている。