グローバル経済と国民国家による巨大な政治経済システムが不安定化し、人口の少子高齢化が進んでいる。これらの社会状況は地域の社会経済主体が相互に協力し合うことを通じて、地域を持続的に発展させていくことを求めている。それを政策的に取り組んでいくためには、コミュニティをベースにした政策実践が不可欠である。この動きは世界的に共通したものとなっている。
しかし、合理的個人主義を基礎におく主流派経済学をはじめとする社会科学においては、コミュニティが理論の中へ位置づけられてくることはなかった。その例外としてのメリット財概念は、コミュニティと経済学をつなぐ論理を有している。
コミュニタリアニズムでは、コミュニティを構成するものとして個人のみならず企業等も位置づけている。そして、コミュニティにおける地域経済の独自の重要性についても主張されてきた。
これらの実践は日本においても進められてきた。その典型例として、地域の経済自立化を追求してきた長野県飯田市の取り組みがある。また、国全体としてみても、コミュニティに基礎をおく地域政策を求める公共サービスの制度改革がなされてきた。
このような状況は、それを支えるための理論としての地域経営論の構築を求めている。
経営とは一般に、企業をはじめとする社会経済主体が目的を達成するために継続的・ 計画的に決定と実践を繰り返していくことである。そこでは個別の独立した事業体が想定されており、その意味における経営という概念は明快である。
それでは、地域経営とは何であろうか。地域は単一の社会経済主体ではなく、複数の主体が集まった空間である。そこには家計や企業、NPO、家計、近隣組織、学校、自治体など様々な社会経済主体が存在する。それらの相互関係が織りなされる空間こそ地域にほかならない。
地域では社会経済主体ごとに様々な意思決定と実践が繰り返され、それらが全体として調整されることによって、地域が持続可能なかたちで発展していかなければならない。それをつくり出すための社会的統括こそが地域経営といってよい。しかし、それが目的とする地域の発展とは曖昧な理念であり、そこには経済成長、平等、生活水準向上、安全安心など多様な要素が含まれる。それらの要素を組み合わせ、地域全体の厚生水準を大きく高めるために行為することが、地域経営の目的であるということができる。
地域経営の中に包含される言葉として都市経営がある。この都市経営という言葉自身は古く、例えば池田宏『都市経営論』(1922年)や岡実『都市経営革新の急務』(1923年)においてすでに用いられている。近年では、1970年代に都市経営論が盛んに議論された。そこでは自治体の財政効率を高めることを意味する「都市経営」と都市全体の厚生水準を上げることを目的とする「都市経営」とが混在した。しかし、本来的な意味での都市経営が後者であることは明らかである1)。
この地域経営が現在再び重要性を増している。その背景は次の2つにある。
第1は、これまで地域の安定的発展を支えてきた巨大な政治経済システムが急激に脆弱化してきたことである。ここでいう政治経済システムとは、グローバル化した市場経済と国民国家を主な内容とするものである。グローバルな市場経済は世界中との繋がりを深化させ、企業の意思決定はその中で最も利潤動機に適った行動へとつながっている。そのため、国内の各地域は従来以上に国際的な影響を受けることになり、企業の意思決定が地域の将来をますます左右するようになっている。また、グローバル化による資本・所得移動によって、国民国家は法人税や所得税への財政依存を抑えてきた。それによる財政赤字の拡大は、社会サービスや自治体への補助金の削減となって地域社会に直接的なダメージを与えてきた。このような市場経済と国民国家の不安定性の増大は、これまでの巨大な政治経済システム依存型の地域のあり方に大きな反省を求めている。
第2は、少子高齢社会が進むことによって、地域を支える住民・企業・自治体などの人材や財源の不足が顕著になってきたことである。これについては日本においてとりわけ著しい。近年の日本の内政分野における政策の柱は少子高齢化への対応であった。例えば、総務省に設けられた自治体戦略2040構想研究会は、人口減少と高齢化によって公共私それぞれの機能が急速に低下するため、各主体間の相互協力関係が不可避であることを様々な視点から提起した。そして公の中心である自治体はこれまでのような行政サービスの供給主体ではなく、地域における相互協力関係を構築・運営するプラットフォーム・ビルダーへと転換することが必要であるとした。これは先ほど述べた地域経営の視点に立った各社会経済主体のあり方から自治体の役割を再構築することを求めたものである。
このような新しい地域経営を追求する動きは、1990年代に入ってから世界的に共通した現象となっている。その典型はヨーロッパ地方自治憲章で条文化された「補完性の原則」である。また、官民連携と地方分権を推進したイギリスのブレア政権下における「第三の道」も同じ文脈として捉えられる。後にみるアメリカの共同体主義=コミュニタリアニズムの高揚は、このような動きをさらに社会哲学として構築したものだといってよい。日本でも1990年代以降に進められた「地方分権」「地域主権」「地方創生」なども同じ流れとして位置づけられる。
これらはいずれもコミュニティを基軸とした政治経済システムを新たに創出しようとする政治的取り組みである。しかし現実には、財政削減と規制緩和による市場重視の「小さな政府」と、コミュニティと地方自治の強化によって自立的な地域社会を求める「大きな自治」という2つの潮流が混じり合ってしまった。これらの潮流は、政治経済システム全体の再構成のあり方によって対立したり補完したりする関係にある。とはいえ実際には、市場原理主義と結びついた「小さな政府」の流れが進んだ結果、世界的に格差の拡大とコミュニティの分断が広がった。そのため、新しい政治経済システムの基軸となるべき「大きな自治」は立ち後れている。ここに、それを新たに構築するための地域経営論が問われなければならない状況がある。
本稿では、現代求められる地域経営論を考察するため、コミュニティを包摂しようとしてきた制度派経済学の再検討から進めていく。その上で、「大きな自治」に不可欠なコミュニティの強化を政策的に合理化するための経済学の概念としてメリット財(merit goods)に光を当てる。次にコミュニティに関する若干の考察をへて、その中における経済や企業のあり方を再検討する。そして最後に、これらの内容が現代日本における地域経営の構築と不可分の関係にあることを示す。
主流派経済学にとって、コミュニティは分析上における操作可能な概念として採用されてこなかった。経済学に限らないが、「科学的社会科学」では合理的個人主義を基礎にして理論が組み立てられ、個人の選好は不可侵のものとして扱われてきた。いわゆる消費者主権論である。
公共経済を扱う主流派財政学でも合理的個人が前提とされ、各住民は公共政策に対する選好を投票行動等によって表明し、その総意に基づいて財政のあり方が決定されるという考え方に立ってきた。これは民主主義に対する単純な前提をおきつつ、主流派経済学の概念を適用したものであった。
このような主流派経済学に対して批判的な経済学も存在してきた。その1つがソースタイン・ヴェブレンを始祖とする制度派経済学である。主流派経済学とは異なり、制度派経済学は経済分析のツールとして合理的個人主義の立場をとらない。そのため、制度派経済学は主流派経済学のような体系を有しておらず、学派としての共通基盤は脆弱である。しかし、そこにはほぼ唯一といってよい共通前提が存在してきた。それは「制度」というものが個人の行動を規定するという事実である。
「制度」についての説明は論者によって差異がある。しかし、社会の歴史や文化といった「制度」は個人の背後にある実在であり、個人の行動はそれらによって規定され影響をうけるという点において一致した共通基盤がある。その意味では、「制度」の範囲や説明に違いはあっても、大きな枠組みとしては同じ土台を有している。このような視点は経済社会とイデオロギーの関係を重視するマルクス経済学とも通底する。つまり、制度派経済学やマルクス経済学といった非主流派経済学は「制度」のもつ役割を重視している点で共通しているのである2)。
「制度」は人間が過去から延々と培ってきたものであり、現在の人間同士の関係によって漸進的に変化していく。ヴェブレンの言葉を借りれば、「制度」とは「本質的には、個人とコミュニティの特定の関係や機能に関して定着した思考習慣」であり、この思考習慣の総和は「主流の精神的態度あるいは人生観」である3) 。この「制度」の定義を注意深く読み取れば、それは個人やコミュニティの相互関係が歴史的につくってきた社会全体の思考習慣ないし文化であると表現することができる。この思考習慣である「制度」は個人の選好にも分かちがたく結びつき、その行動を規定するものとなる。そして「制度」はさらに個人の選好によって強化されたり修正されたりしていくが、その分析の力点は前者の方におかれている。個人の選好形成には必然的に社会やコミュニティの「制度」に起源があるという認識に立つ。
このヴェブレンのいう「制度」をここではより包摂的な意味における「コミュニティ」として定義する。ここでいうコミュニティは、その中に過去の蓄積によってつくられてきた社会制度、習慣、価値観、モラルなどを内包し、それらを通じて個人の選好に影響を及ぼす社会を意味する。このような社会は最も身近な家族という単位から近隣、学校区、基礎的自治体、広域自治体、国民国家、世界というかたちで、相互に影響を与えつつ重層的に存在している。
2.2 メリット財とコミュニティ主流派経済学は個人というアトミズムから論理を組み立てるため、このようなコミュニティを理論の中へ組み込むことを回避してきた。これに対して、主流派経済学の内部から修正を求めたのが財政学者リチャード・マスグレイブであった。
マスグレイブは1956年に発表した論文において、主流派経済学の前提となっている個人選好の自由と消費者主権を歪める財政支出が厳然と存在することを指摘し、それを公共欲求(public wants)とは異なるメリット欲求(merit wants)と名づけた。そして、これに基づいて供給される財をメリット財(merit goods)とよび、彼が定式化した公共財(社会財)とは異なるものとして取り扱った4)。
マスグレイブは主流派経済学の理論から財政学の体系化を行ったが、その例外ともいえるメリット財についても絶えず言及しつづけてきた。そして、彼の考えるメリット財の全体像が示されたのは、The New Palgrave: A Dictionary of Economics(1987)において彼が執筆した“Merit Goods”の項目においてであった。これは2008年の改訂版でもそのまま引き継がれた。この中で、マスグレイブはメリット財がつくり出されるケースとして、病理学的症例(pathological cases)、流行のルール(rule of fashion)、コミュニティ選好(community preferences)、分配における温情主義(paternalism in distribution)、複数選好(multiple preferences)または高次価値(higher values)の5つに集約した。そして、彼はこの中でメリット財の核心部分はコミュニティ選好にあるとした。それは歴史的遺産、国民的祝日、環境、学習・教育、芸術などに対する敬意や保護のようなかたちであらわれ、個人はそれらに体現されているコミュニティ価値の受容を通じて自らの選好とは異なる行為を支持する可能性がある。これは人間の相互作用の歴史的過程の結果としてつくり出してきた共通価値(common values)にほかならない。それはさらにコミュニティとしての選好や価値を形成していくものとなる5)。これに加えて、マスグレイブは分配における温情主義と高次価値をメリット財の構成要素として重視すべきであるとした。
では、このようなメリット財を生み出すコミュニティに対して経済学はどのような姿勢をとるべきか。これについてマスグレイブは、コミュニティ選好は個人間の効用の相互依存関係を考慮した功利主義の枠組みによっては解決できず、従来の主流派経済学とコミュニティ概念が齟齬を来したとしても、コミュニティというものを理論の中へ取り込むことが重要であるとした6)。
以上のことは、主流派経済学の中にコミュニティを位置づける際に、メリット財の概念が1つの鍵となることを示している。しかし、それは選好を歪める政策を支持するという点において、合理的個人主義を前提とした主流派経済学の体系には馴染まない。そこに、これまでメリット財が主流派経済学に無視されつづけてきた最大の原因がある。しかし、現実には政府が特定の選好を人々に求める政策は数多く存在している。マスグレイブが挙げた歴史的遺産などは国民や住民の選好に基づいて保全されているのではなく、政府や自治体が先人の営為を後世に伝えることそのものに価値を見出しているという側面の方がかぎりなく強い。また、マスグレイブも指摘するように、そこには高次価値つまり道徳や正義といった規範が体現されていることも多い。経済学が現実に対峙する社会科学であろうとすれば、このようなメリット財とそれを規定するコミュニティを概念装置として排除することはできないであろう。
マスグレイブが述べたように、メリット財は歴史的に培われてきたコミュニティとしての価値に基づいて供給され、それによって個人の選好を政策的に変えるものである。それは、制度派経済学が基本的視座としている個人とコミュニティの相互関係を前提とし、社会発展のために必要だと考えられる個人の選好を変化させる政策を支持する概念となっている。このことは、政府による資本制経済への積極的・多面的関わりを重視してきた制度派経済学にとってもメリット財が重要な政策概念であることを示している7)。
制度派経済学やメリット財の議論では、コミュニティという実体と概念が経済学においても重要であることが提起されてきた。しかし、これらの議論においては、コミュニティに対する深い考察がなされてきたとはいえない。そのため、理論と実践の両方において確固とした概念や規範としてコミュニティを基礎づけることは十分にできてこなかった。例えば、コミュニティが単なる個人の集合体を意味するのか、それとも、それ以上の社会的存在として捉えられるものなのかという根源的な問いに対しても曖昧なままであった。経済学がコミュニティを包摂しようとすれば、コミュニティそのものについての深い理解が必要となる。
それでは、あらためてコミュニティとは何であろうか。これについては社会科学の基礎をなすリベラリズムと激しい論争を繰り返してきたコミュニタリアニズム(共同体主義)によって洞察がなされてきた。リベラリズムは個人を社会やコミュニティに先立って存在するものであるとし、後者は個人の利益追求のための手段以上のものではないと考える。その意味でリベラリズムは、個人を社会やコミュニティと本質的には無関係と考える非社会的個人主義であるといえる。それに対してコミュニタリアニズムは、個人よりも社会やコミュニティが先行し、後者は存在そのものとして価値があるとする。さらにいえば、(善き)社会やコミュニティそのものが目的であるともいえる。コミュニタリアニズムはリベラリズムのように道徳や価値の判断を単なる個人の選好による主観的表現とみなさず、それらを社会やコミュニティが体現することを通じて個人の人格や選好をつくりだしていくものだと考える。
このような視点に立ち、コミュニタリアニズムは社会やコミュニティの経済に関する考察を行ってきた。その基本的な視座は、コミュニティを基礎においた政治社会を構築するうえで、どのような経済システムが望ましいのかを探究するものであり、その内容は素朴な市場原理主義とは一線を画する。それは社会・政治・文化を有するコミュニティに内包されたサブシステムとして経済を位置づけ直そうとするものであり、カール・ポランニーの経済人類学とも共通する視点である8)。コミュニティの経済とは単なる企業と消費者の集合体ではなく、社会全体に包摂されつつ、それに影響を与えるものとして重視される。
コミュニタリアンの中から誰を代表とみなすかは難しい。コミュニティを軸とした社会の再構築を理論的・実践的に追求する点では共通しているが、それぞれの視点に違いがある9)。このうち、現代コミュニタリアンの代表格であり、経済学に対して痛烈な批判を行ってきたマイケル・サンデルの議論をまずとりあげていきたい。
サンデルによれば、コミュニティとは単なる仲間や友愛意識のような表層的な人間関係だけではなく、美徳や共通善というものが不可分のものとして内在している。コミュニティの構成員はそれを自らのアイデンティティの一部とする。そのため、コミュニティが衰退することは自分という存在そのものが脅かされることを意味する。コミュニティと不可分の存在である各構成員の行為はコミュニティ全体にとっての利益を考えるものとなり、それこそが自らのアイデンティティの表現ともなる。そこではコミュニティに対する責務にそって生きることが求められ、それによって構成員は自分自身の存在を理解することができる。コミュニティの美徳と共通善に基づいた行為は、無差別な欲望や選好と相容れない道徳的選択であり、それによって自らの発達や他者との連帯を真に実現していくことが可能となる。それは、自分たちが特定の家族や地域や都市などのメンバーであり、その歴史の継承者であるという意味での特殊な個人であるという認識にほかならない。
このようなサンデルの哲学的考察は、主流派経済学や社会心理学の側面からも肯定的な議論が行われている。ジョージ・アカロフとレイチェル・クラントンは『アイデンティティ経済学』の中で、個人の効用関数の中にアイデンティティを組み込み、それによって人々が合理的だとはみなされない行為を行うことについて論じている。これは経済学からみたアイデンティティのもつ役割への1つの見解となっている10)。サミュエル・ボウルズは様々な実験によって、人々は無条件に利他的であったり不平等を忌み嫌ったりするなど標準的な経済モデルからの逸脱がみられることから、ホモ・エコノミクス(合理的経済人)からホモ・ソキアリス(社会的人間)へと人間の特徴づけを行うことを提起している11)。
社会心理学者のトム・タイラーは人々の協同行為を様々な要素から考察し、その中の重要なものは金銭的インセンティブや制裁のような「道具的動機付け」ではなく、それらに拠らない「社会的動機付け」であるとした。後者にはサンデルらコミュニタリアンが重視する価値(正当性および道徳)とアイデンティティが重要なものとして挙げられる。アイデンティティを通じて、個人は組織の利益を自己のそれと同一視するようになる。それによって個人の組織におけるパフォーマンスは向上し、組織を辞めようとする傾向も低下する。組織における公共財供給にも協力的になり、フリーライダー問題も緩和される12)。タイラーの議論は必ずしも地域コミュニティに関するものに限られていないが、ここでいう組織の1つとしてそれが含まれている。
このような社会的ないし公共的な動機付けは、公共部門でみた場合には小さな単位である自治体レベルの方が望ましい。それは公共部門の単位が小さいほど、相互の認識の高まりと支え合いの意識が高まるからである。逆に、公共部門の単位が大きくなるほど、金銭的インセンティブや指示命令の役割が大きくならざるを得ない13)。
さて、このサンデルのコミュニタリアン哲学は原理主義的なニュアンスがともなう。そのため、個人を抑圧する全体主義への懸念が表明されるのも当然であろう。しかし、強制力のない人間のつながりであるコミュニティを持続可能なものとして運営していこうとすれば、そこに構成員による価値やアイデンティティの共有が求められることも確かである。またサンデルは、小さな単位での善や美徳の実践を通じてこそ多様な価値や他者への寛容を獲得でき、それをより大きな社会へと適用する個人やコミュニティの発達を描く。これは国民国家を「コミュニティの権化としての虚構」とし、全体主義の害悪を最大限警戒する一方で、地域の共同体に対して期待をかけるマッキンタイアとも共通する14)。このような意味において、サンデルのコミュニティ概念は理論ベースとして妥当なものである。
しかし、サンデルの議論におけるコミュニティの構成員は個人が想定されており、このような視点が企業にも適用できるのかどうかが次の課題となる。これについて全面的な肯定を与えているのがジョナサン・ボズウェルである15)。
ボズウェルは、コミュニタリアンの理念は個人だけではなく経済組織や社会組織にも拡張できるとし、そこから導き出される企業の行動原則はコミュニティのためでもなければならないとする。それは企業がコミュニティの中における連帯者ないし社会的パートナーでなければならないことをあらわしている。この視点は個別企業にとどまるものではなく、企業同士の相互関係義務としても発生する。このような企業とコミュニティとの関係は、市場メカニズムに委ねることで自動的につくり出されると期待することは不可能である。公共政策は地域の企業に対してコミュニティのメンバーとしての認識を与えるシグナルとして機能しなければならない。そして、企業が中心となって生み出されるコミュニティ経済が成立するためには、相互認識、組織間協力、公共的管理が難しくならない範囲で、経済システムの分断を抑えなければならない。
このような議論は一見すると企業の社会的責任(CSR)と同種のものであるように思われる。しかしこれに対して、メリット財およびコミュニタリアンの経済学者であるウィルフライド・ヴェル・エックは、メリット財の意思という考えを受け入れることは企業倫理における社会的次元を観察・議論する可能性を広げるとして、単なるCSRとは異なるものであることを強調する16)。そこでは、メリット財が体現すべきコミュニティに根ざした企業の倫理的行動が求められているのであり、単なる企業による社会的責任の自覚と行動とは異なっているのである。
このようなコミュニティの中の企業という強い意味づけは理論的にも実践的にも進んできている。例えば経営学者のムーンらは、企業もコミュニティの絆の涵養と公民的美徳の実践を通じて共通善への取組に参加すべき存在であるというコミュニタリアンの考え方を強く主張している17)。また欧州委員会では、企業は市民の営為として共通善を守り、社会的紐帯・統合の意識を高めなければないという報告書を出している18)。
3.2 コミュニティとしての企業―飯田市の航空宇宙産業を事例に―コミュニティにおける企業行動という点において、わが国でも注目すべき事例があらわれてきている。その1つは長野県飯田市における取り組みである。飯田市は環境モデル都市として知られているが、経済自立都市としての取り組みも進められてきた。その契機となったのは、飯田・下伊那経済自立化研究会議が2003年に発表した地域の経済自立度に関する中間報告であった。それによれば、この地域の経済は必要所得に対して自ら稼いでいる所得の割合(経済自立度)が46.5%にとどまり、今後の公的資金の縮減を想定すれば産業活性化によって地域の所得を高めることが必要であるとした19)。これをもとに、飯田市では経済自立度を70%に引き上げることを目的にした「地域経済活性化プログラム」を毎年度発表してきた。
飯田市は「地域経済活性化プログラム」に基づいて経済政策を推し進めてきたが、2000年度以降の経済自立度の実績は最高でも2007年度の54.9%に過ぎず、ほとんどの年度においては40%台で推移をしてきた。その原因にはリーマンショック等の外的なものも存在するが、飯田市ではむしろ構造的な側面に着目する。つまり、経済自立度を上げようとしても、産業構造が従来のままであれば、目標の達成が極めて困難であるという点である。そのため、飯田市は積極的に産業構造を変える試みを進めてきた。
この取り組みの中心に位置するのが航空宇宙産業クラスターの創出であった20)。これは飯田市内にあった工業高校の建物の利用をどうするのかという現実的な課題から始まった。それと同時に、市内にある老舗の精密機械メーカーである多摩川精機が航空宇宙産業への本格的な参入を模索していた。かりに飯田市で航空宇宙産業が創出されれば、この地域の産業構造を大きく変えるとともに、経済自立度が向上することが期待される。そのため、これは飯田市の経済政策にとっても重要な検討課題となった。
飯田市は地域のメーカーに対して航空宇宙産業への参入を打診する。しかし、その際にネックとなったのは、精密加工組立の極限的な技術が求められる航空宇宙産業で競争していくために、市内のメーカーが互いの長所を出し合って協力しなければならないという点であった。しかし、それは互いにライバル競争関係にある地元下請け業者同士では困難なことであった。その状況をみて、飯田市はこれまで市全体として取り組んできた経済自立度という共通価値の再確認を各企業に求めた。つまり、市内企業も市民であり、この共通価値のためにこれまで行政と地元企業は協力しながら政策を遂行してきた。それを実現するうえで、自らの技術を披露するという個別利害にとらわれることが、これまでの協同による営為と矛盾するのではないかという点であった21)。
これによって、地域の地元メーカーの共同生産へ向けた取り組みが進むとともに、地元自治体である飯田市や南信州広域連合、長野県工業技術総合センター、南信州・飯田産業センターなどの支援はもちろんのこと、航空宇宙産業のノウハウの乏しさを補うために宇宙航空研究開発機構(JAXA)や信州大学工学部が協力していくことになった。長野県は産業政策の中心に航空宇宙産業を位置づけることになり、国もそれを国際戦略総合特区に指定し、実験施設等の整備を進めた。工業高校の建物は「エス・バード」(産業振興と人材育成の拠点)として整備され、上記の諸組織がここへ集積することで、航空宇宙産業クラスターをつくりあげることになった。
この飯田市のモデルは、経済自立度の向上という共通価値の共有のもとに地元企業が協力して経済活動を進めたものである。だが、個別企業にとってこの行為が下請け間競争を通じてマイナスに作用する可能性もある。しかも、航空宇宙産業の成果は中長期間をへてはじめて成否が見えてくる。それは地元中小企業にとってはリスクをとった投資とはなりにくい。つまり、この事例は地元企業が互いに協力することを通じて、経済自立度という共通価値の実現を目指すことが第一義的な目的をなしているといえる。ここには、コミュニタリアンの論理が一般住民にだけ当てはまるものではなく、広く企業にも波及するものであることが示されている。そして、経済自立度という共通価値は飯田市が経済政策の一環としてのメリット財を地元企業に供給しつづけてきたものであったのである。
さらに、経済自立度の向上という共通価値の実現へ向かって、地元の自治体と企業に加え、広域自治体や国、大学なども積極的に支援していくという状況が作り出されている。そこでは「補完性の原則」も体現されている。これは、住民・企業・行政等が全体として共同で地域の経済を支えていくという現代の地域経済論の方向性とも合致している22)。これはコミュニタリアニズムに則った地域経営の実践例にほかならない。
飯田市の航空宇宙産業の実践は、自治体が経済自立度のための経済政策をメリット財として供給し、それが地元企業の中に共通価値やアイデンティティとして位置づけられ、その下に各主体が協力し合うことによって、地域経営の方向性を具現化してきたものである。これは各地域が依存してきた既存の政治経済システムからの自立を模索する典型的な試みであるといってよい。
地域の各主体が協力して地域を運営していくという状況は理論的にも実践的にも存在する。そのような地域経営は各国における共通の政策方針ともなっている。
飯田市の事例は個別自治体のケースである。それでは日本全体においてこのような地域経営を担うコミュニティ政策はどのようにあらわれているのだろうか。以下ではその代表的なものを取り上げていくことにする。
4.1 地域保健対策地域保健対策とは、1994年の地域保健法に基づく地域単位での公衆衛生を中心とした取り組みである。その下で定められた「地域保健対策の推進に関する基本的な指針(基本指針)」によって、具体的な取り組み内容が定められている。
基本指針は1994年に定められたが、その後の社会状況の変化に応じてたびたび改正されてきている。当初の基本指針が示していたのは、①保健サービスと福祉サービスとの一体的提供、②個人を対象とした公助という政府や自治体による地域保健活動のあり方、であった。2015年に改正された基本指針では、これらの公的な保健活動に加えて、「地域に根ざした信頼や社会規範、ネットワークといった社会関係資本等(以下「ソーシャルキャピタル」という。)を活用した住民との協働により、地域保健基盤を構築し、地域住民の健康の保持及び増進並びに地域住民が安心して暮らせる地域社会の実現を目指した地域保健対策を総合的に推進する」という方針が掲げられる。そのポイントは、地域の「社会関係資本等」の活用が前面に打ち出された点にある。
これに基づき、「基本指針」においては、①共助の精神で活動する住民への公的支援やそのような人材の育成のための政策、②市町村による学校や企業等との連携による地域全体の取組の推進、③市町村に対する都道府県と国による支援が求められた。その背景には、公衆衛生に対する国民ニーズの変化に応じて地域保健の機能が多様化し、行政主体での取組では限界があるという認識があった。ここでも多様な主体が公衆衛生に関わることが要請され、その中には企業も含まれている。
この内容をみればわかるように、改定された「基本指針」の方針はイギリスの「第三の道」やヨーロッパの「補完性の原則」と同じ方向性を示している。つまり、今後の地域保健については、コミュニティ、官民連携、基礎的自治体を基盤として推進していくことが期待されているのである23)。
4.2 地域包括ケアシステム地域包括ケアシステムは、高齢者が要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるようにするため、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される包括的な支援・サービス体制をあらわす理念である。地域包括ケアシステムが想定する地域は、概ね30分以内に必要なサービスが提供される日常生活圏(中学校区)である。
地域包括ケアシステムは介護保険に関連して登場している。地域包括ケアシステムという言葉が最初に使われたのは2005年の介護保険法の改正であり、住民の介護や医療に関する相談窓口である地域包括支援センターを整備することが示された。2011年の改正では自治体による地域包括ケアシステム推進の義務が明記され、2015年には新たに介護予防・日常生活支援総合事業(総合事業)の創設が盛り込まれた。総合事業とは、地域の多様な主体が参画し、多様なサービスを充実することで、地域の支え合いの体制づくりを目指すものである。
地域包括ケアシステムでは、通常用いられる「自助・共助・公助」に加えて「互助」が重視されている。「互助」とは「費用負担が制度的に保障されていないボランティアなどの支援、地域住民の取組み」である。これは地域保健対策でみた共助に該当するものであるが、あえてこれを「互助」としているのは介護保険や医療保険の費用負担によるリスク共有の仕組みを「共助」と定義していることによる。そこには少子高齢化による社会保険財政に対する期待が持てないことから、互助という側面を強調する意図があらわれている。これらの適切な役割分担を通じて高齢者に対する地域での包括的支援を進めることが、地域包括ケアシステムの目的である。
高齢者の生活支援を進めるために、地域包括ケアシステムではボランティア、NPO、民間企業、社会福祉法人、協同組合等の多様な主体によるサービスの提供が必要であるとされている。これは地域包括ケアシステムが強調する「互助」の領域である。これを支える公助の機能は市町村にあるとされ、都道府県や国はその後方支援の役割を担う。2015年の介護保険法改正で規定された総合事業は地域包括ケアシステムの基本となる要素とされ、介護保険の認定による要支援1~2および認定に至らない高齢者も対象とされた。
このようにみれば、地域包括ケアシステムも市町村を核とした互助を中核に据えていることは明らかであろう。総合事業にあらわれているように、そこでは地域の各主体が積極的に関わることによる地域運営の方向性が求められている。高齢者福祉の分野でもコミュニティ、官民連携、基礎的自治体が重視されていることがわかる。その際、自治体の今後の財政制約から「自助」「互助」の果たすべき役割が大きくならざるを得ないとされ、それらを強化する取組が重視されている。これは自治体に対して個人選好を変える政策を求めるものであり、メリット財を供給する機能が期待されていることがわかる。
4.3 生活困窮者自立支援事業2013年に制定された生活困窮者自立支援法に基づき、新たに生活困窮者自立支援事業が2015年から始まっている。これは従来の生活保護の対象に至らない「生活困窮者」を対象とした新しい事業である24)。この事業を中心的に担うのは生活保護と同じく福祉事務所を設置している市および都道府県である。
生活困窮者自立支援事業は生活保護と関連しているが、実際には独自の理念をもっている。それをみたのが表1である。そのポイントは次の諸点である。第1に、「生活困窮」の範囲の広さである。①の「包括的な支援」をみれば、就労のみならず、家計や家族の問題にまで支援対象が広がっている。これは従来の行政においては「自己責任」の問題として踏み込んでこなかった領域である。第2に、これまで行政がスタンスとしてきた当事者の自己責任に基づく「申請主義」を超え、積極的に生活困窮者を発見しにいくというものである。これはアウトリーチ(訪問支援)とよばれ、③の「早期的な支援」に示されている。またここで「SOS を発することが難しい」困窮者とは、広い意味で社会とのつながりを欠いた者が想定されている。実際にも2018年の生活困窮者自立支援法の改正において、生活困窮者の定義の中に「地域社会からの孤立」が付加された。第3に、自治体、官民連携、コミュニティがこの事業のための主な体制をつくっていくことが示されている。これは⑤の「分権的・創造的な支援」の中で示されている。なお、ここでの「民」の主体としては社会福祉協議会、公益法人、NPO、地元企業が実際には多く、大企業が関わる度合いは相対的に少ない。
生活困窮者自立支援事業においても、官民連携と自治体が中心に据えられている。自治体が中心となり、アウトリーチを通じて個人や家計の社会的状態を意図的に変えていくための選好介入=メリット財供給を行い、それを通じてコミュニティとその基礎をなす個人・家族の維持や再建を進めていくという方針が示されている。この事業も典型的なコミュニティを中心に据えた新しい地域経営の展開を求めるものである。

出所:厚生労働省資料。
このように、近年の日本における諸制度は明らかにコミュニティ中心の地域経営を志向している。これらの取組の中身をみれば、行政のみで対応することは社会システムとして実効性がなく、民間やコミュニティの能力に大きく依存せざるをえない。その際には基礎的自治体が制度のプラットフォームを構築し、その上で具体的な地域運営がそれぞれに合った形で展開されていかなければならない。このような方向性は世界的に共通したものであり、日本の状況も社会システムの普遍的な変化の潮流に乗っているのは確かである。
ところが、現実にはこのような方向性を手放しで歓迎することができる状況とはいえない。というのは、このような国から自治体、そして自治体から民間やコミュニティへという流れは、財政ひっ迫によって公共部門が財政削減を行っていくための方便として用いられる可能性があるからである。実際にも、自治体は単に財政削減につながるという理由のみによって、これらの事業を安易に民間へと丸投げする状況がみられる。例えば、生活困窮者自立支援事業の中に位置づけられている子どもの学習支援事業では、地元に学習支援に適した個人や団体があるにもかかわらず、大手の教育関連企業に委託するケースがある。それは学習支援という意味では同じかもしれないが、本事業の主旨である地域のコミュニティづくりという点においては問題がある。このような事態が生じるのは、自治体と民間・コミュニティが一体となって地域経営を行っていくという理念が欠落しているからにほかならない。これまでコミュニティの意義や地域経営の意味を内面化することがなかった日本の自治体においては、近年の制度改革の潮流は単なる財政削減の手段へと堕してしまう蓋然性が高いといえるかもしれない。
しかし、かつてのような行政丸抱えの地域経営による福祉やコミュニティづくりに戻ることはありえない。財政制約に加えて、現代の公共サービスの内容が多様化しているからである。それらは地域が主体となる以外になく、それを支えるための自治体の役割の側面が大きくなってきているのである。それは地域経済という「民」主体の領域においても同様であり、これらの公共サービスを通じてどのような地域経済をつくっていくのかが絶えず求められるといってよい。これらを通じて「大きな自治」を創り出していくことが現代の地域経営の課題であり、そのために自治体が資源を動員し、人々の選好を強靱なコミュニティづくりへ振り向けていくためのメリット財機能を発揮する行財政運営が不可欠となっているのである。
その際に地域経営論が保持すべき理論的視座はコミュニタリアニズムに根ざすものと成らざるを得ない。ここで取り上げた公共サービスは、広くいえば個人の生活権を保護するためのものであると括ることができる。しかし、その中には従来は「自己責任」の範疇であるとされてきたものも含まれている。「共助」に頼るべき領域であるということ自体が、本来的には「自己責任」に委ねられるものといえる。
しかし、それらをコミュニティ中心に個人の生活権として保護するためには、それを土台から支える社会の価値や共通感覚、つまりヴェブレンのいう「制度」が同時に構築されなければならない。さもなければ、このような生活権の保護という大義名分に基づく政策はきわめて脆弱なものでしかなく、社会状況の変化によって容易に瓦解する類いのシステムでしかなくなってしまうからである。
これらの新しい社会やコミュニティの資源の配分は、このようにして構築される「制度」そのものの特殊性に基づいてのみ支配される。それらの資源は公共・民間部門の総体である。今後必要な資源配分が従来の巨大な政治経済システムに委ねられないのであれば、これらの公共サービスの責任を担う基礎的自治体がその特殊な「制度」を醸成していかなければならない。それは個人やコミュニティの選好を変えるという営為であり、自治体にはそのためのメリット財機能を体現した公共政策が求められているのである。
本稿では、理論と実践の両面において新しい地域経営論を構築することが必要となっていることを述べてきた。その理論の手がかりとなる経済学の概念としてメリット財を導入し、それがコミュニティと不可分に関係していることについて示してきた。
新しい地域経営論が求められる直接的な要因は、グローバル化を背景にした巨大な政治経済システムの不安定化であった。日本の特殊要因として、これに東京一極集中による首都圏の災害リスクが加わるであろう。しかし、これまでは新しい地域経営の必要性が現実味をもって広く受け入れられる状況にはなかったといってよい。
ところが昨今の新型コロナウィルスによる世界的な感染症拡大によって、この課題が一気に理論的・実践的な重要性を帯びることになった。今世紀に入ってから頻発しはじめた感染症の発生によって、各国の政治経済が機能不全に陥ることが現実に示された。それを受けて、ポスト・コロナ時代の社会のあり方をめぐる議論が活発化してきた。テレワーク・オンライン授業・遠隔医療等の推進、AIを活用した移動・配送手段の促進、食やエネルギーの安全保障体制の構築、地球環境保護の実質化など多岐にわたるトピックスが論じられている。その大きな柱として、感染症に脆弱な大都市中心の国土構造の見直しがある。そのためには地域分散型の政治経済構造を具体的に実装していかなければならず、その主体的条件として現代の地域経営が各地に備わっていなければならない。それは、今後間違いなく国家が直面する財政危機とも連動し、地域の各主体による「大きな自治」によってしか地域社会を守っていくことはできなくなる。その際に、企業が地域に果たす役割はかつてないほど大きくなっている。
このような現代社会の実践的要求に応えられる論理を科学的に示すことが、新しい地域経営論に求められているテーマなのである。