経営哲学
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特集 サステナビリティと経営哲学
21世紀の経営哲学 ― コルプス・ミスティクムの再生とサステナビリティ ―1)
中條 秀治
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2022 年 18 巻 2 号 p. 100-114

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【要 旨】

21世紀の経営哲学は、「サスティナビリティ」を中核の思想とする「新しい資本主義」への歩みを進めるものでなければならない。そのためには新自由主義経済思想と「株主価値神話」が結びついた現行の「ダナマイト魚法」的経済システムからの脱却を目指さねばならない。

「株主価値神話」は「死ななければならない」。「この神話を終わらせる」ために、われわれは何をしなければならないのか。イスラエルの歴史学者ハラリ(Harari,2014)は『サピエンス全史』の中で、人類の強みは巨大な規模で協力関係を作り出す能力にあるが、それを可能とするのは「虚構の物語(fictional story)」であると指摘している。さらに、人々が信じる「物語」が別の物語に取って代わることで、人々の物事の捉え方と行動が変わり、社会は変化すると主張している。

われわれがこれまで教え込まれてきた「株主価値神話」から脱却しようとするなら、われわれは新たな「物語」を必要とする。再生させなければならない「物語」は中世キリスト教を起源とする「コルプス・ミスティクム(corpus mysticum:神秘体)」の「物語」である。

株式会社は法人であり、株主という自然人とは次元を異にするフィクションとしての「擬制的人格」である。「株主価値神話」にはカンパニー(company)の会社観とコーポレーション(corporation)の会社観の混同がある。コーポレーションの会社観に基づく法人の論理を突き詰めることで、”生きている法人”は「誰のものでもない」という立場に立つことが可能となる。21世紀の経営哲学は、株式会社がその存在の根拠としたコルプス・ミスティクム(神秘体)という「虚構の物語」に一旦立ち返ることで、「株主価値神話」からの脱却の糸口を見つけ、「社会制度体」としての法人という観点から社会貢献活動を企業の経営実践に組み込むことが可能となる。

1.はじめに―株主価値神話からの脱却の必要性―

人類のあくなき欲望を満たすための経済活動の影響で地球環境そのものが、壊滅的なカタストロフに至る一歩手前にあり、人類を含めたあらゆる生命体の存在そのものが差し迫った危機に晒されているというのが多くの科学者の一致した見解である。

地球規模での気候変動やそれに伴い発生する未曾有の自然災害が頻発するに及んで、環境問題への取組みを求める声は現行の経済システムそのものの見直しを求め始めた。企業への社会的圧力の高まりとともに、ビジネス界に浸透しつつある用語として、持続可能な社会を実現するためのSDGs(Sustainable Development Goals)がある。これは、国連の呼びかけに端を発する一大運動であり、環境問題・差別・貧困・人権問題などの人類が取り組むべき諸問題を17項目の活動目標として掲げ、2030年までに達成するというものである。

これら諸目標は、これまでは私企業の守備範囲の課題ではないと主張されてきた対象であり、SDGsの核心的な発想は地球環境および地球上のすべての生命の生存を「持続可能性」(sustainability)という観点で再検討するというものである。

サステナビリティという視点が経済思想の全面に現れ、企業の目的ないしその存在の意味づけが「利益の極大化」から「社会的貢献」へと大きく変化し始めたのである。「企業に社会的責任があるとすれば、それは株主価値の最大化のために働くことであり、社会全体に対する社会的責任など存在しない」というM.フリードマン的な認識は完全に時代遅れになったのである。

「PRI in Person 2019」という国際会議が2019年9月10日から12日までの3日間、フランスのパリで開かれた。PRIはPrinciples for Responsible Investmentの略語であり、日本では「責任投資原則」として知られるようになりつつある。これは、2006年にコフィ・アナン(Kofi Annan)国連事務総長が提唱した投資に対する原則であり、投資家に対して、企業の分析や評価を行う上で長期的な視点を持ち、ESG情報(環境・社会・企業統治)を考慮した投資行動をとることを求めるものである。

水口(【水口教授のESG通信】PRI in Person 2019参加報告)によれば、今回の会合で最大のキーワードを1つあげるとすれば、「新しい資本主義(New Capitalism)」だという。初日冒頭の開会のあいさつの中で、ル・メール(Le Maire)経済金融大臣は「現在の経済モデルを変革(transform)し、社会的責任の概念に基づいた21世紀の『新しい資本主義』を生み出すために、大胆な政策対応が必要だ」と述べ、責任投資が社会的包摂を推し進めることの重要性を強調したという。その後の全体セッションで、世界的な食品企業であるダノン(Danone)のCFO、セシル・カバニス(Cécile Cabanis)氏は、「私たちは、短期的なコストに目を奪われ、四半期でものを見る癖があるが、長期的なリスクや外部で生まれる価値が見えていない」といい、「価値創造に関するものの見方(mindset)をシフトさせる必要がある」とし、「外部性」を評価する必要性を強調するとともに、「アメリカのビジネスラウンドテーブルをはじめ、多くの企業が、株主価値の最大化『だけ』を追求するのはやめよう、と言い始めている。だが、もしそこに投資家が加わらなかったら、この変化にはとても長い時間がかかってしまうだろう」とは発言したという。

この会議の最終日、ミロバ(Mirova)のCEO、フィリップ・ザワティ(Philippe Zaouati)氏のスピーチが行われたが、その内容についても水口が紹介している。同社は、今回のPRI in Personのリードパートナーを務めたNatixis Investment Managersのグループ企業で、ESG投資を専門に行う運用機関である。「彼はこの3日間、大臣やCEOたちから、今のシステムを壊して、新しい資本主義を作れという声を聞いた、それは21世紀の資本主義であり、サステナビリティを中核にした資本主義だと述べたうえで、『投資家として私たちは、準備ができているだろうか』と問いかけた。これこそ、この会議から持ち帰るべき『問い』だという。そして、こう続けた。私たちをその目標から妨げているものがある。それは、『株主価値神話(Myth of Shareholder value)』だ、と。今では学者やエコノミスト、法律家、さらにはCEOまでもが、企業は株主(だけ)のものではないということに合意している。それにも関わらず、誰もがいまだに株主神話に沿った振る舞いをしている。責任投資を標ぼうする投資家でさえ、そうだ。この神話は死ななければならない。私たちはアセットオーナーとして、また運用機関としてこの神話を終わらせる先頭に立たなければならない。私たちは株主としての立場を使って、企業に対し、株主利益だけを考えて行動しないように働きかけなければならない。その準備はできているか、というのである。」

「株主価値神話」という神話は「死ななければならない」が、「この神話を終わらせる」ために、われわれはどのように考えるべきだろうか。イスラエルの歴史学者であるハラリ(Harari, 2014)は『サピエンス全史』の中で、人類の強みは巨大な規模で協力関係を作り出す能力にあるが、それを可能とするのは「虚構の物語(fictional story)」であると主張している。人々を1つにまとめる「物語」を共有し、協力関係を構築する能力こそが人類の強みであり、人々が信じる「物語」が別のものに取って代わることで、人々の物事の捉え方と行動が変わり、社会が変化するのである。

われわれがこれまで教え込まれてきた「株主価値神話」から脱却しようとするなら、われわれは新たな「物語」を必要とする。人々を結びつける新たな「物語」とはどのようなものだろうか。それには人々を引きつけ納得させ信じさせ共有させるだけの力のある「物語」が必要不可欠である。再生させなければならない「物語」は中世キリスト教を起源とする「コルプス・ミスティクム(corupus mysticum:神秘体)」の「物語」である。コルプス・ミスティクムは法人という擬制的存在(fictional entity)を成立させた「虚構の物語」である。

株式会社は法人であり、株主という自然人とは別のフィクションとしての「擬制的人格」である。株式会社は法人として自立した存在であり、株主とは別の存在であり、「株主のもの」ではない。法人成立の起源がコルプス・ミスティクムの物語であることを知り、法人の論理を突き詰めたものが株式会社であるということを理解することで、「株主主権」の呪縛から逃れ、「株主価値神話」からの脱却も可能となるのである。

21世紀の経営哲学は、「新しい資本主義」への歩みである。それは「会社は株主のものである」という会社観を超克することから始まる。本稿では法人の起源としてのコルプス・ミスティクムの物語が持続可能な社会の実現のために不可欠の「物語」であることを論じたいと思う。

2.株式会社のコーポレート・ガバナンスをめぐる議論

2.1 株主主権論 対 利害関係者論

コーポレート・ガバナンスをめぐる議論の中心には、株式会社観を巡る対立がある。1つは現行のビジネス社会の常識とされるのは、「会社は株主のもの」という主張を根拠とした「株主主権論」(stockholder primacy theory)であり、他方は株式会社を社会制度体として捉える「利害関係者論」(stakeholder theory)である。

これまでの株式会社観を簡単に整理すると、以下のようになる。まず、株式会社という存在についての捉え方の違いとしては、「私益追求」と「公益追求」が対立してきた。また株式会社の所有、つまり「株式会社は誰のものか」という問いかけに対しても、「株主のもの」という見方と株式会社は法人であり「社会制度体」であり、それゆえ「公器」であるという見方が対立してきた。たとえば、日本に株式会社制度が初めて移入された明治初頭を振り返れば、株式会社を利益追求のための私物であり「家産」であるとの立場をとる岩崎弥太郎と、株式会社は社会全体を豊かにするための「社会制度体」であり「公器」であるとの立場をとる渋沢栄一が対立した。明治期を代表する2人の経営者は異なる会社観を持ち、両者が共倒れになる程の死闘を海運事業で繰り広げたことは有名な史実である。

また、アメリカに目を転じても「株式会社は株主の利益のため存在にする」との立場から株主配当の増額を要求したドッチ兄弟に対して、株式会社を社会全体の利益に奉仕する「公器」として理解し、従業員への高給とより低価格の自動車の販売のための設備投資に資金を回そうとした自動車王フォードが法廷闘争を行っている。この裁判はフォードの敗訴となり、アメリカにおける「株主主権論」の法的根拠とされるものとなった。

さらに、経済学や経営学の領域でいえば、企業の目的は利潤の最大化であり、企業経営者はそれ以外の社会的目的のために働いてはならないと主張したノーベル経済学賞受賞のM.フリードマンがおり、その対極に企業という社会制度体には社会的責任が付いて回ると主張しつづけたP.F.ドラッカーがいる。

2.2 新自由主義経済思想と株主価値神話

1901年のUSスチールの誕生に象徴されるように、20世紀の幕開けは企業間の合併による巨大株式会社の登場から始まった。少数の大株主が存在し、「株主支配」が当然視される時代であった。1910年から「狂騒の1920年代」を経て、多数の個人投資家が株式市場に参加し、1929年の「ウォール街大暴落」まで株式市場の活況は続いた。

1930年代には株式の分散化傾向が明確となり、「経営者支配論」(バーリ=ミーンズ)が展開された。1950年代から1960年代には「経営者企業」が成立していたが、これら企業では、株主の圧力から解放された経営者は、利害関係者の調整役としての「コーポレート・ステートマン(corporate statesman)」であると言われた。

1960年代になると、市場の飽和と経済の成熟化とが軌を一にして企業の多角化戦略が話題となり、企業の合併や買収が盛んになると、ハゲタカ・ファンドと呼ばれる存在が活躍する時代を迎えることになる。経営者は敵対的M&A対策として高株価政策をとる一方で、「物言う株主」に翻弄されるようになる。さらに、1970年代には年金基金・投資ファンドの隆盛による巨大株主の登場は、配当金の増額・内部留保金を配当資金に回すべしとの圧力となり、「株主のための経営」という経営思想が主張されるようになる。この思想にお墨付きを与えたのがM.フリードマンであり、彼の御宣託は「経営者の仕事は利益を上げて、それを株主に還元することのみ」であるというものであり、社会善のために企業の利益の一部であっても回すことは営利追求という企業の本質からの逸脱であるとして、当時台頭しつつあった「企業の社会的責任論」を真っ向から否定してみせたのである。

1980年代は、イギリスには「鉄の女」サッチャー首相が登場し、アメリカではレーガン大統領の「レーガノミクス」が喧伝され、規制緩和・税制改革・金融改革が推し進められた。アメリカは「市場原理主義」を貫徹する中で、マルクスが批判したような強欲資本主義への先祖返りの様相を示した。「自由競争と自己責任」を旗印に「小さな政府」を標榜し、均衡財政、福祉・公共サービス縮小、公営事業の民営化、経済のグローバル化、労働者保護の廃止などの経済政策が推し進められた。

このような政策を支えた経済思想は「新自由主義(neo-liberalism)」と呼ばれたが、規制緩和と経済のグローバル化は巨大な多国籍企業に大きなチャンスを与えた。1980年代以降は、年金基金や投資ファンドの「物言う株主」は経営者に短期の利益最大化を求め、そのインセンティブとして巨額の俸給とストック・オプションによる報酬を約束した。

1990年代になると、ソビエト連邦の崩壊により資本主義陣営のイデオロギー的勝利が喧伝され、旧社会主義国があらたに資本主義経済に組み込まれることで経済のグローバル化が現実のものとなった。資本主義の社会主義に対する完全勝利という結論は、対抗原理としての社会主義的政策の全面的見直しの発想となって新自由主義思想の経済政策を後押しした。

日本経済は1990年の株価バブルの崩壊以降、1990年代から2010年にかけて、デフレ経済を脱却できず、周辺国が経済成長する中で経済の停滞が続き「失われた20年」と揶揄された。日本でも、世界的に喧伝された新自由主義思想の影響もあり、銀行を中心とする金融改革、高額所得層や企業に対する減税を推し進める税制改革、そして労働市場の規制緩和などにより、非正規雇用者の増加に象徴される雇用環境の悪化と経済格差の拡大および中間層の没落現象が顕在化した。

世界に目を転じても、新自由主義経済思想を背景に、経済のグローバル化が劇的に進展したが、1997年には靴メーカーのナイキの東南アジアにおける児童労働・強制労働が問題となり、2000年代には、2001年のエンロンの粉飾事件、2002年のワールドコムの破綻、そして2007年には「サブプライム問題」、2008年のリーマンショックが起こり、改めて企業の社会的責任が意識されると同時に、現行の経済システムそのものの危うさを認識させた。

2010年代には、新自由主義経済思想に対する疑義が膨らんだが、株式会社を巡る議論としては、「株式会社は株主のもの」であり、株主の代理人としての経営者は「株主の利益」のために働くのは当然であるとの「エージェンシー理論」が相変わらず主張され続けた。企業の目的を「利益追求」と規定し、株主の代理人としての経営者には「短期利益の最大化」・「株主価値の増大」が求められた。

新自由主義経済システムの下での企業経営スタイルはスタウト(Stout,2012)が指摘するように「ダイナマイト漁法」ともいうべきものである。短期の業績で評価される経営者は、自身の地位を守るためにも、「短期利益の追求」を至上命令とする。新自由主義経済思想と結びついたメリトクラシー(能力主義)の思想は、「勝者総取りの思想」を補強し、一般従業員の給与の300倍から500倍程度の報酬を当然のものとして要求する「強欲な経営者像」を英雄視する風潮が続いた。

2020年代を迎え、世界の富豪の上位2153人の資産が貧困層46億人の資産を上回る(国際NGO「オックスファム」、2019)というような資産格差が現実となる中で、世界に広がる貧富の差がもはや容認できるレベルを超えていることが誰の目にも明らかとなった。レーガノミクスの経済理論の基礎に置かれていた「トリクルダウン」の経済思想は絵にかいた餅でしかなく、富裕層の富のおこぼれが貧しき人々に滴り落ちることはなかったのである。

21世紀を迎え、地球環境の危機に対する関心が高まり、貧富の極端なる格差という現実が生み出す社会矛盾が露わになるにつれて、サステナブルな社会の実現のためには、現行の資本主義システムの変革が不可避であることが明確になりつつある。「新しい資本主義」を模索する道筋として、まずは「株主価値神話」から脱却し、「ダイナマイト漁法」的経営手法が転換されねばならない。

3.株主価値神話からの脱却はいかにして可能か

「持続的経済発展」というサステナビリティー問題が人々の関心を集め、SDGsという用語が膾炙されるにつれて、サステナビリティーを核心とする新しい資本主義を模索する動きが見え始めた。「強欲な資本主義」からサステナブルな「新しい資本主義」に移行するためには、現行の「ダイナマイト漁法的経済システム」の背景にある「株主価値神話」から脱却する必要がある。パリPRI会議でミロバ(Mirova)のCEOザワティは、「株主価値神話」が深く現行社会に信じられていることを憂慮しつつ、「この神話は死ななければならない」と発言したが、いかにしてこのことは可能だろうか。

イスラエルの歴史学者ユヴァ・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は、『サピエンス全史』(2014)において、語り部(Storyteller)としての人が「虚構の物語(fictional story)」を創造することにより、巨大集団を形成し協働関係を構築しえたことが人類の力の源泉であったと人類史を総括している。人類史に貫徹するフィクションや物語を通しての協働関係の構築こそがホモ・サピエンスの隆盛の基礎にある。

「虚構の物語」としての教会・国家・株式会社という観点はハラリの言を待つまでもなくそれほど突飛なものではない。ドイツの天才的社会学者M.ウェーバーは国家や貨幣などは「社会的実在」であっても、人々から適切な行為を引き出せなくなれば、それらは容易に虚構(フィクション)としての本質をあらわにすると鋭く指摘していた(Weber, 1922)。

国家や貨幣と同様に、株式会社(corporation)も人類が創造した「虚構の物語」である。株式会社の概念の源流は、キリスト教の中世カトリック教会における聖餐式をめぐるコルプス・ミスティクム(corpus mysticum)という観念にまで遡る。コルプス・ミスティクムはラテン語であり「神秘体」と訳される。コルプス・ミスティクムの物語は、ゴルゴダの丘で処刑されて3日後に復活したキリストの体に関係する物語である。中世カトリック教会における聖餐式という宗教儀式ではキリストの体としてホスティア(hostia:ウェハース状のパン)を信者に食べさせ、キリストとの一体化を実感させてきた。カントロビッチ(Kantorowicz, 1957)によれば、初期にはホスティアがコルプス・ミスティクムと呼ばれており、死して復活したキリストの体そのものと考えられていた。長い歴史の交錯のなかで、聖餐式で使われたホスティアを意味していたコルプス・ミスティクムという呼称がやがて教会自体を意味するようになり、教会そのものが「キリストの体」とされ、「死ぬことのない」永遠性をもつ存在だと考えられるようになる。その後、教会は、「死ぬことのない」存在である「法人」として制度化されていくことになる。「キリストの体」の物語を源流とするコルプス・ミスティクムという「虚構の物語」は、教会から君主国家、そして中世の自由都市や大学さらには株式会社などにも拡大されてゆくことになる。これらは、法人という「死ぬことのない存在」という「虚構の物語」を共有しつつ、「永続性をもつ社会制度体」へと変化してゆくのである。

3.1 カンパニーの会社観とコーポレーションの会社観

コルプス・ミスティクム(神秘体)を源流とするコーポレーション(corporation)の会社観は、法人を成立させる会社観である。これに対して、カンパニー(company)の会社観は、パンをともに食べるという間柄、つまり仲間を意味する自然人の「集団」を意味する会社観である。両者は、まったく異なる観念をそれぞれの会社観の基礎として保持しており、それが過去から現代に至る会社観、ひいては会社法の構造とその法的解釈にまで一貫している(中條, 2005)。以下では、カンパニーの会社観とコーポレーションの会社観の相違について詳しく見ていくことにしよう。

3.1.1 カンパニーの会社観

カンパニー(company)の会社観は一言で言えば、「人の集まり」をイメージの中核に据えている。カンパニーの会社観には以下のような特徴がある。

  1. ①  会社の実態は「人の集まり」であり「人的結合」である。
  2. ②  会社の寿命は有限である。なぜなら、人は死を避け得ないがゆえに、「人の集まり」としての会社は「有限なる存在」であり、いずれ消滅する必然性をもっている。
  3. ③  会社資産については、会社が資産の所有者ではなく、会社を構成する「個人の財産」という位置付けである。なぜなら、会社という存在は「人の集まり」を象徴するものでしかなく、会社の実体は「自然人」であるからである。
  4. ④  会社の経営については、中世のソキエタス的な性格を色濃く残し、資金を提供した個人の経営参加が前提されており、結果に対して会社構成員が無限責任を負うという形式をとる。
  5. ⑤  経営責任については、全ての構成員が経営に関わるが故に、全ての構成員が無限責任を負う。

カンパニーの会社観は欧米でのパートナーシップの会社観に相当するものである。それゆえ、法人格を持たないのが基本となるが、国により事情が異なり、日本の合名会社のように法人格を与えられている場合もある。日本の合名会社は法人格を与えられているところに、コーポレーションの会社観との混在という理論上の矛盾点があるが、実務上では個人の法律行為を扱う民法の規定が準用されるということで実質的にはカンパニーの会社観とみなしうる。

3.1.2 コーポレーションの会社観―擬制的存在と擬制的人格―

コーポレーション(corporation)の会社観は法人を成立させる会社観である。法人という自然人ではない「擬制的存在」が実在するという「虚構の物語」である。コーポレーションの会社観はコルプス・ミスティクム(神秘体)の観念を起源とする。コルプス・ミスティクムは教会・国家・株式会社を貫く観念であり、自然人ではない「死ぬことのない体」を持つ法人が「永続する」という物語である。それゆえ、コルプス・ミスティクムを源流とする株式会社(corporation)は以下のような物語となる。

  1. ①  株式会社は法人である。株式会社は、「擬制的存在」として観念化されたものである。法的に「擬制的人格」を与えられた「法人」となることで社会的実在として存在する。
  2. ②  株式会社の寿命は、法人が「擬制的存在」であるがゆえに、「不死性」を内在しており「ゴーイング・コンサーン(going-concern)」としての「永続性」を持つ。
  3. ③  株式会社の資産については、「法人」が資産の所有主体として扱われる。すなわち、「擬制的人格」である法人が「会社資産」の所有者である。
  4. ④  株式会社の経営については、株式会社は法人という「擬制的存在」であるがゆえに、実際の活動は自然人が担うことになる。しかし、この経営を担う自然人は、株式会社制度上、会社を動かす機関という位置付けとなる。機関の構成員は、いかなる地位にあっても機能的存在としての組織人であるほかない。それゆえ、組織の長である経営者の位置付けも「機関のトップ」であるに過ぎない。
  5. ⑤  経営責任については、法人が全ての責任を取る。なぜなら、「擬制的存在」である法人が「擬制的人格」を持って運動しているという物語のゆえである。経営トップを含めて、いかなる機関の構成員も不法行為がなければ、会社の損失を個人が補填する必要がない。経営に直接関わることのない株主については、「株主の有限責任」が保証されている。

3.2 法人という存在―「生きている会社」は誰のものでもない―

株式会社は、コルプス・ミスティクムという宗教由来の観念を起源として、「法人」という擬制的人格を社会制度体として実在化する物語である。株主主権論とそこから派生する「株主価値神話」からの脱却ためには、株式会社は法人の成立を主張するコーポレーションの会社観に立つのであり、「人の集まり」としてのカンパニーの会社観とは異質の論理で成立しているということを徹底的に突き詰めて考えねばならない。

3.2.1 「会社それ自体(法人)」による「団体有」と株主の「総有」

会社資産は「会社それ自体(法人)」が所有しているという事実について、法的な観点で異議を唱えることはできない。しかし一方で、株主が会社の株券を所有しているということを根拠に、「会社は株主のものである」と主張される。では、株主が株券を所有していることを根拠として、株主が会社を所有していると表現しても本当に良いのだろうか。

現実には、株主は会社資産に対して、直接的な使用権も処分権も行使することはできない。例えば、株主であるということを理由にして、会社の敷地に入り込んで、会社の資産であるボールペン一本でも勝手に持ち出せば、窃盗罪に問われることは間違いがない。株主が会社の所有権を分有しているという事態は株主の「総有的所有権」ということで説明せざるをえない。この「総有的所有」は株主総会という機関活動を保証する制度的工夫にしか過ぎず、会社資産に対する実質的支配が生じる状況は株式会社の解散といった会社の「命が終わる時」にのみ実現されるものである。

ドイツ団体論で著名なギールケ(1868, 訳p.366)がいみじくも指摘したように、株主の所有権は「総体的所有権(総有権)」であり、株主の権利は「財産についての割合的持分」である。それは「株式会社の存続中は実現されえず、むしろ営業利益に対する配当請求権においてのみ表明され、株式会社の終了の際にはじめて自由な共同所有の割合へと変化する」(訳p.366)のである。要するに、株主の所有権は「生きている会社」には適用できないとの見解をギールケは示しているのである。法人は「擬制的人格」の主体であり、自然人と同様な人格的権利を付与されている。「生きている会社」、すなわち「活動中の会社は誰のものか」と問えば、会社は法人として自立して活動しており、「会社は誰のものでもない」というのが結論となる(中條, 2020)。株主の所有権が理論上で問題となるのは、「会社が死んだ時」であり、それは「遺産相続の論理」であり、残余財産の相続であると解釈できるのである。

3.2.2 エージェンシー理論の3つの仮説に対するスタウトの反論

株主と経営者の関係についての理論として、米国を中心に喧伝されてきた考え方は、「エージェンシー理論(Agency theory)」である。これは、株式会社の所有者は株主であると主張し、株主は自らの利益を最大化する為に、経営者を代理人(Agent)として選出しているとする考え方である。この理論には、以下の3つの仮説が設定されている。①会社の所有者は株主である。②会社財産は株主のものであるから、会社財産の請求権は株主にあり、株主がいつでもその権利を行使できる。③株主は会社の主権者(プリンシパル)であり、その代理人として経営者(エージェント)を雇う。

このようなエージェンシー理論の仮説に対して、米国の法学者であるスタウト(Stout, 2012, pp.36-44)は、以下のように反論する。

①の「会社の所有者としての株主」という主張に対しては、株主は単に株券を所有しているだけであり、それは契約関係に過ぎない。

②の「会社財産は株主のものであるから、会社財産の請求権は株主にあり、株主がいつでもその権利を行使できる」という主張については、株主が会社財産の請求をできるのは、会社が解散する時点に限られるのであり、株主には残余財産の請求権があるだけである。つまり、株主の会社財産に対する請求権は、「生きている会社」には適用出来ない。

③の「株主はプリンシパルであり、エージェントである経営者を雇う」という主張に対しては、株主が存在する前に、法人とその機関の成立が先行しており、「会社それ自体」がプリンシパルである。

法人という擬制的人格を社会制度体として成立させるコーポレーションの会社観の設立論理を突き詰めれば、「株主主権論」の発想は誤りであることは明確である。株式会社は法人であり、株主という個人の次元で成立する「株主主権論」を採用することはできない。法人は社会制度体であり、社会制度における多数の構成員を視野に入れる「利害関係者論」からのアプローチがコーポレート・ガバナンスの視点としての論理的整合性を持つのである。

3.2.3 会社法の観点

ドイツ団体論の泰斗であるギールケの『ドイツ団体法』を完訳した法学者である庄司良男(ギールケ, 1868, 訳p.433)は、訳者あとがきの中で、株主主権論の主張を以下のように批判している。

①「株主利益最大化」を会社法が規定しているかのように表現する法学者がいるが、そもそも会社法第一条には「株主利益最大化」などの経済的目的は明記されていない。

②株式会社を法人の成立として正しく理解する限り、法人である会社が「株主の私的所有物である」ことは「原理的に不可能」である。

株式会社という存在は法人という「擬制的存在」に「擬制的人格」を与えるという制度的工夫であると理解する限り、法人は株主とは別個の人格であり、株主という自然人に還元されるような存在ではない。法人の存在を単なる法的手続きを簡便化するための便法としての「擬制」であり、株式会社を「株主の集合」と考え、法人など実在しないと考える「法人擬制説」があるが、私はこの立場には立たない。法人は「虚構の物語」によって生み出された「擬制的存在」であっても、「社会的実在」となるのである。すなわち、コルプス・ミスティクムを起源として法人という「擬制的人格」を生み出し、それを「社会制度体」として完成させようとした歴史的経緯を無視するような愚を犯してはならない。

現代における株式会社をめぐる議論が錯綜することの原因は、「人の集まり」としての「カンパニー(company)の会社観」と、法人の成立を前提とする「コーポレーション(corporation)の会社観」という2つの会社観があるという事実、およびそれぞれ会社観の本質的違いを正しく理解していとないところにある(中條、2020)。

4.21世紀の経営哲学を考える上での「新しい動き」

1991年のソビエト連邦の崩壊と翌年のロシア連邦の誕生を契機として、世界が資本主義経済体制に飲み込まれることとなる。1990年代、レーガンとサッチャーが推進した新自由主義的経済政策は経済の自由化とグローバル経済の拡大をもたらしたが、新自由主義思想は「自由と責任」を掛け声に、メリトクラシーの思想を拡大させ、「勝者総取り」の思想を喧伝し、経済格差をかつてないほどのレベルまで拡大した。世界の富の82%を上位1%の富裕層が手中におさめるような歪な社会(国際NGO「オックスファム」の2018年の試算)が出現することとなった。

米国では2011年に、「ウォール街を占拠せよ」という政界・経済界に対する抗議運動が勃発したが、参加者は「1パーセントの金持ちと99パーセントの大衆」という認識の中で、「われわれがその99%」(We are the 99% !)というキャッチーなスローガンで運動を牽引した。新自由主義に基づく資本主義の行き着いた世界は越えがたい経済格差を内包した不満渦巻く不安定な社会の様相を示し始めた。

このような社会状況の中、新自由主義経済システムに対するアンチテーゼとして、21世紀の「新しい資本主義」が模索されている。

2015年に国連で採択された持続的発展目標(SDGs)は、2030年という期限を設けて、先進国と発展途上国の経済格差の是正という発想から貧困・飢餓・健康・教育・ジェンダーの平等・水とトイレなど17項目の持続的発展目標および169のターゲットを指定している。ESG(環境・社会・統治)という用語が産業界で常識化し、地球温暖化や環境問題に対する対策が求められている。企業においては、クリーンエネルギーへの転換が推奨され、公正で働きがいのある労働環境を整え、製造者責任を完結する「持続可能な生産と消費のサイクルの構築」が提唱されている。

「新しい資本主義」への動きが産業界をめぐる経営実践として胎動し始めている。「ポスト資本主義」は、「サステナビリティ」を中核にした資本主義であることは間違いない。以下では、21世紀の経営哲学を占う上で示唆に富む「新しい動き」のいくつかを紹介することにしよう。

4.1 社会起業家と社会的企業

「社会起業家(Social Entrepreneur)」はビジネスの手法を用いて、社会的課題の解決を目指す「社会的企業(Social Business)」を率いる社会変革者である。2006年度の「ノーベル平和賞」はグラミン銀行を設立し、バングラデシュの貧しい農村の婦人に対して、少額融資を可能とするマイクロ・ファイナンスのビジネス・モデルを確立したムハンマド・ユヌス(Muhammad Yunus)に与えられた。

ユヌスの構築したマイクロ・ファイナンスのビジネス・モデルは、これまで銀行融資の可能性が閉ざされていた貧しい農村女性に対して小口の融資を行うことで、彼らの経済的自立を促し、貧困状態からの脱出の糸口を与えるものである。ユヌスが展開するグラミン銀行を中心とする事業展開は営利を目指すものではなく、社会的弱者の救済という社会的目的を前面に掲げての社会的企業としての事業展開である。

ユヌスの「ノーベル平和賞」受賞を契機として、「社会起業家」および「社会的企業」に対する認知度が一気に高まり、現在では人々に広く膾炙されるようになっている。マイクロ・ファイナンスのビジネスモデルは、社会的弱者の経済的自立に対する1つの処方箋としてその有効性が実証されており、この手法はバングラデシュでの社会実験という次元を超えて、今や世界各国で社会的弱者のためのビジネスモデルとして幅広い方面で活用されるようになっている。

4.2 「Bコーポレーション」認証

2006年には、Bラボ(B Lab)という「社会的企業」を認証するNPOが誕生している。Bラボは2007年から認証活動を推進しているが、社会的企業として認証された企業は「Bコーポレーション」(B Corporation)として登録される。Bは「Benefit」の頭文字を取ったものであり「Bコーポレーション」は社会に対して利益をもたらす会社という意味である。

このNPOは社会貢献を目的とする会社に対して、一定の審査基準をクリアした場合に「Bコーポレーション」という認証を与えるが、「Bコーポレーション」の認証を取得した企業には以下のような便益が期待できる(Honeyman and Jana, pp.38-58)。

  1. ①  社会的企業として認知され、認証企業間で割引商品やサービスの提供を受けられるといった経済的便益以上に、Bコーポレーションというグローバル・コミュニティの一員となることで、参加企業そのものが自分たちは何かより大きく価値あるものの一部であるという感覚を得ることができる。
  2. ②  理念に共感する優秀な人材の確保、および仕事の背後にあるより大きな意味を知ることで、従業員にやる気・創造性・自律性が生まれる。
  3. ③  会社としての対外的信用が増し、社会からの信頼を得やすい。
  4. ④  認証審査の項目である社会や環境への影響といった項目を経営実践のベンチマークとして活用し、自社の業績改善につなげることができる。
  5. ⑤  自社の使命を定款の形にすることで、経営者の交代や新たな株主の登場によっても、自社の核となる価値が長期にわたって法的に守られる。
  6. ⑥  多くの経済誌やマスコミに取り上げられており、注目される存在となる。

4.3 低収益有限責任会社(L3C)

2006年のアスペン研究所の非営利部門の年次会議で、「社会的事業組織のための新しい法的形態と税構造の探求」というタイトルで会議がもたれた。ロバート・ラング(Robert M.Lang)の発案で、「営利性」と「社会的利益」を同時に追求する会社形態として「低収益有限責任会社(L3C: Low-Profit Limited Liability Corporation)」が生み出された。

「低収益有限責任会社(L3C)」は、「企業の目的は利益の極大化である」という“常識”に対して、「我が社は社会貢献を主たる目的としており、低収益で構わないという株主に支えられる会社です」と宣言する“常識はずれ”の会社である。このような株式会社がアメリカのバーモント州で2008年4月に初めて法的に認可され、その後、2010年までにミシガン州・ベルモント州・イリノイ州・ワイオミング州・ユタ州・ルイジアナ州でも立法化され、現在では全米全ての州で合法的に活動している。

低収益有限責任会社(L3C)は、通常の有限責任会社(LLC)とは異なり、以下の3つの要件を満たさねばならない。

  1. ①  慈善的ないし教育的目的を追求する。
  2. ②  利益を主要目的としない。
  3. ③  政治活動をしない。

4.4 「公正な企業」のランキング―NPO「ジャスト・キャピタル」―

企業行動に「公正さ」を求める動きが現れ始めている。ポール・ジョーンズ(Paul Tudor Jones II)は、2013年に「ジャスト・キャピタル(Just Capital)」というNPOを立ち上げ、「企業行動の公正さ」を定義する尺度を作る試みを開始した。まずは全米2万人のアンケートから始まり、数年後には5万人規模のアンケートを実施し、企業の公正さを測る尺度を確定しようとしている。企業の公正さを測る代表的な尺度としては、従業員の給与や処遇、顧客の尊重、環境へのインパクト、コミュニティーへの関与、コンプライアンス、倫理性や多様性に配慮したリーダーシップの有無などがあり、それらに基づいて、「米国の最も公正な会社」(America’s Most JUST Companies)をランキング形式で毎年発表するという活動が行われている。

ランキングの対象は、米国上場企業のうち時価総額の大きい1,000社である。またフォーブス誌と組んで、トップ100位までの優良企業を「公正な企業100社(JUST 100)」としても公表している。ちなみに、フォーブス誌に掲載された2021年度の「公正な企業100社(JUST 100)」の第1位は、3年連続で1位となったマイクロソフト(Microsoft Corporation)であり、2位は従業員の処遇で評価された半導体メーカーのエヌビディア(Nvidia Corp)、3位は顧客対応で高評価を得ているアップル(Apple Inc)であった。このランキングは公正な企業の選出を行うのであるが、収益性が健全かどうかという観点ばかりでなく、利害関係者や広く社会への貢献があるかどうかという観点からも行われるものである。

NPO「ジャスト・キャピタル」の活動は、新しい資本主義にける企業行動の規範を体現しつつある企業群に光を当てるものであり、これまでの「ダイナマイト漁法的経営」の時代が過去のものとなりつつあることを我々に強烈に印象づけることに成功している。

4.5 責任投資原則(PRI)

2005年、国連の事務総長のコフィ・アナン(Kofi Atta Annan)により提起された「人類の持続的発展のための投資行動」は、ESGs(環境・社会・企業統治)という観点からの投資を機関投資家に求めるものであった。2006年には、世界の機関投資家グループが結集して、投資においてどのようESGsを実践するかの判断基準を作り、責任投資原則(PRI)としてニューヨーク証券取引所に公開している。PRIは、投資行動を通じて「持続可能な社会の実現」に貢献するという社会貢献の発想を根本に持つものであり、ESGsの観点を投資の意思決定に反映させ、長期的観点での投資パーフォーマンスを求めるものとなっている。

責任投資原則(PRI: Principles for Responsible Investment)は、6つの原則からなるが(表1参照)、PRIに署名する機関投資家は急速に拡大し続けている。2015年には、日本の政府系ファンドであるGPIF(Government Pension Investment Fund)がPRIに署名しており、このファンドの資金規模は厚生年金・国民年金の約161.7兆円となっている。2018年には、6兆ドルの資産管理会社ブラック・ロック(BlackRock)のCEOであるラリー・フィンク(Larry Fink)の投資先企業への手紙が注目されたが、そこには、「あなたの事業が社会に正しく(positively)貢献するという目的を持っていないのなら、我々はあなたを支援しません」という文言が記されていた。これはESGsの基本理念である「人類の持続的発展のための投資行動」に沿った発言であり、企業の社会的貢献を後押しするというPRIの考え方そのものである。

表1 責任投資原則(PRI)の広がり

出所:国土交通省 参考資料「ESG投資の動向」より転載(https://www.mlit.go.jp/common/001362975.pdf

2019年のPRIパリ年次会議には、世界から約1800社、日本からも約80社が参加するという盛況ぶりである。国土交通省のESG投資の参考資料(表1)によれば、2020年8月時点で、PRIの署名機関数は世界で3332機関、日本で85社であったものが、2021年8月時点では世界で4249機関、日本で96社(アセットオーナー23、運用機関62、サービスプロバイダー11)にまで急拡大している。その署名機関の運用資産総額は約100兆ドルを超えるという事実が以下のグラフ(表1)からも確認できる。これはアメリカの国家予算の30倍に相当する数字であり、PRIの隆盛という潮流がはっきりと確認できるようになっている。

5.おわりに―「公器としての株式会社」の物語の始まり―

21世紀の経営哲学は、「サステナビリティ」をキーワードとした持続的な経済発展が可能となる経済システムと矛盾しないものでなければならない。サステナブルな経済システムを創出するためには、現行の企業行動の原理となっている思想を根本的に改める必要がある。短期の利益極大化を志向する「ダイナマイト漁法」的経済システムの基礎を作ったのは、「株主価値神話」であった。この思想はマネタリストのM.フリードマンが喧伝した企業観に集約されている。いわく、「利潤の増大こそが唯一の企業の目的である」とし、企業経営における経営者の責任は、「企業の利潤を増大させることを目指して資源を使用し、事業活動に従事すること」(Friedman,1962,訳p.151)であると言い切ったのである。すなわち、「会社は株主のもの」であり、「株主の代理人」としての経営者は株主利益の最大化のみを考えて行動すべきであり、企業目的である営利原則の範疇を超えるいかなる社会的責任をも果たす必要はなく、そのような行為は株主への背任であるとの思想を展開したのである。

この「株主価値神話」と呼ばれる思想が米国での標準的な会社観として流布されるにつれ、この神話を信奉する経営者はひたすら株主価値の増大とその対価としての経営者報酬の増額を追求し続けた。その結果が「1%の富者と99%の貧者」という極端な経済格差の社会であり、また地球温暖化に象徴される持続不可能な経済システムである。

このような歪な経済システムから脱却し、「新しい資本主義」に移行するためには、M.フリードマンが喧伝した「株主価値神話」を打ちこわし、新たな株式会社の物語を流布させねばならない。これは1つの神話から別の神話への転換を意味する。人類は常に何らかの物語を必要としており、人々が信じる「新たな物語」なしには新たな一歩を踏み出すことはできないのである。

本稿では「会社は株主のものである」という主張が株式会社に対する誤った理解に基づくものであると主張した。「会社が出資者のものである」というのは「人的会社」、すなわちカンパニーの会社観に基づく主張である。株式会社、すなわちコーポレーションの会社観は物的会社という法人が成立する物語である。法人は会社資産の所有者であり、「誰のものでもない存在」である。中世キリスト教由来のコルプス・ミスティクム(神秘体)という観念を援用して成立したコーポレーションは法人として不死性と永遠性を持つ。ではいかにしてコーポレーションという存在には不死性と永続性が与えられているのか。

コーポレーションという存在には、法人という「擬制的人格」に与えられた不死性と永続性を担保するに必要な「価値の表明」が不可避である。単なる「利潤追求」・「株主利益への奉仕」という理由では、法人をあえて成立させる正当性、さらには法人が持つ永遠性を整合的に説明することはできない。社会制度体としてのコーポレーションは、設立当初より社会貢献をその存在理由としていることを忘れはてはならない。法人であるコーポレーションは、「材とサービスを通しての社会貢献」という価値提供を前提として、その活動により利益を得て、永続的に社会に奉仕する「公器」と位置付けられる社会制度体なのである。

21世紀の経営哲学は、株式会社がその存在の根拠としたコルプス・ミスティクム(神秘体)という「虚構の物語」に一旦立ち返ることで、法人が自立化する物語を株式会社のイメージとして描くことができる。株式会社という存在が法人という「擬制的存在」であることを理解することで、「自然人の集まり」としてのカンパニーの会社観に深く根ざした「株主主権論」、さらには宿痾の「株主価値神話」から脱却することができる。

1)  本論文は「2018年度 中京大学内外研究員制度」の研究成果の一部であり、中京大学および国内留学先の早稲田大学大学院商学研究科 大月博司研究室に感謝を申し上げる。

参考文献
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