Journal of Information Processing and Management
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Digital innovation of culture in the knowledge recycling society
Shunya YOSHIMI
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2013 Volume 56 Issue 8 Pages 491-497

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著者抄録

5世紀前のグーテンベルク革命に比べられる今日のデジタル革命は,社会の記憶構造を大きく変化させる可能性がある。過去が消えなくなり,無限に集積されていく情報資源となりつつある。この情報資源を保存し,再利用可能にしていくには,以下の4点の基盤整備が重要である。第1は,新たな知識コンテンツの公共的再利用に必要な法システムの整備である。とりわけ著作権者や所有権者が不明な知的資源を公的に再利用できるようにすることが喫緊の課題である。第2に,新しい知識循環型社会のプロデューサーとなっていくことができる専門職人材の雇用を生み出す必要がある。第3は,日本やアジアの文化を世界に向けて発信・再活用していく基盤となるナショナルアーカイブの構築である。第4に,新しい知識循環型社会では,ローカルなレベルで「わが町・わが村・わが地域」の記憶を呼び戻していく開かれた仕組みが整備されていかなければならない。

1. はじめに

今日のデジタル革命は,5世紀前のグーテンベルク革命になぞらえられる人類史的な変化である。デジタル技術は,①文字のみならず映像,音声などの多次元的な情報形式を統合しつつあり,②デジタルデータは元の媒体から完全に切り離され,その可塑性はきわめて高く,③活字文化の時代と比べ,同時に処理される情報量の地球規模での爆発的拡大がみられる。これらの変化は,かつてグーテンベルク革命がそうであったように,これから数世紀をかけて人類の未来に影響を及ぼしていくであろう。

しかし,デジタル革命が内包するよりいっそう重要な契機は,それが社会の記憶の構造を大きく変化させてしまうかもしれないことである。過去が消えなくなり,それらは無限に集積されていく情報資源となりつつある。この集積は,毎日のように家庭から出されゴミ処理場に運ばれていく膨大な廃棄物に似たところがある。私たちは資源ゴミを分別し,ペットボトルや牛乳パック,新聞紙がリサイクルの回路に入っていく。他方,レアメタルのような希少な資源が廃棄された莫大な情報機器のなかから選別され,再生利用されていく。これらは物質的な世界での出来事だが,同じことが情報の世界にも起きているというのが本論の認識である。デジタル革命は地球規模の情報爆発をもたらすが,それは地球規模で消えることのない情報廃棄物が日々蓄積されていくことも意味している。この廃棄物の山のように見える情報を適切に保存し,ちょうど再生資源やレアメタルに相当するような知識を検索可能にして再利用していく循環型システムが求められている。

2. 5世紀続いた知識の大量生産時代

グーテンベルク革命から5世紀を経て,今日,私たちの知識や文化の創出や継承の仕方には人類史的な転換が生じている。15世紀半ば,グーテンベルクにより開発された活版印刷は,その後の人類の歴史を劇的に変えた。同じ文書が大量に複製・流通していくようになり,一部の読者によって多数の文書が手元に収集されることにもなった。読者たちは,以前よりも安く,多くの本を手元に置くようになったので,希少な本を求めて放浪の学徒となることはすたれ,一冊の本の解釈を念入りに繰り返すよりも,さまざまな書物の綿密な比較照合に力が注がれるようになった。手書きの時代,時間を超えて知識を正確に伝承するためには,できるだけ選ばれた人間の秘伝としておく必要があった。知識の公開は,それが書かれた文書の散逸と記録の損傷,変形の危険をともなったからだ。ところが同一の文書が大量生産されるようになると,印刷された情報が正確でさえあれば,たとえ出版された本の大部分が消失したとしても,残った一部で知識は伝えられる。印刷は,知識の継続的な継承と蓄積を,徹底した公開化を通じて達成することを可能にした。

こうして活版印刷が可能にした知識の新しい流通と蓄積,編集の地平は,ルネッサンスと宗教改革,科学革命,国民国家までの「近代」という時代の必要条件をなしていく。たとえば,ドイツの貧しい修道士,マルティン・ルターの教会批判が,辺境の異端運動で終わらずにキリスト教世界全体を根底から揺るがすに至ったのには,印刷がもたらした新しいコミュニケーション回路が決定的に作用していた。また,コペルニクスが古代の天文学に欠陥を見いだすようになったのは,何らかの重大な天文学的発見によるというよりも,天文学者の利用する学術書や数表が大きく変化し,それまで遠方まで旅しなければ見られなかった多くのデータが容易に入手できるようになったからでもあった。19世紀初頭に至るまで,近代のすべての社会変化を促していたのは,「活字」というたった1つの新技術であった。

ところが19世紀半ば以降,この大量複製技術が一挙に多面的な姿をとっていく。活字とは根本的に異なる最初の複製技術となったのは写真だった。写真はやがてその連なりから動く写真,つまり映画を生んだ。他方,蓄音器や電話からラジオに至る音声技術の革新も進み,20世紀初頭には,両者が結びついてトーキーが生まれ,さらに音声のみならず映像の無線送信,つまりテレビが生まれていった。音声媒体では,円盤レコードから磁気テープまでの開発があった。それまで約4世紀,活字というたった1つの文字の大量複製が人類史を変えてきたのに対し,19世紀以降に繁茂したのは,視聴覚の複製技術による歴史の変化だった。数百年に及ぶ活版印刷の発展の中で,出版から新聞までのマスメディアが発展し,識字率が向上し,私たちの社会には15世紀以前とは比べものにならない莫大な量の文字が溢れていったのだが,19世紀以降は,これに映像や音響,つまり複製された視聴覚イメージが加わった。

しかし,以上のいずれも,つまり15世紀末から20世紀末に至るまで,生じていたのは文字やイメージの大量複製と流通,その消費のシステムの拡大であった。20世紀末,この大量生産・消費型のシステムが飽和する。その後もハリウッドの大作映画は拡大するグローバル市場を相手に華々しく売られ続けているし,国内的にも大衆雑誌の販売も,大新聞の影響力もある程度は続いている。だが,これらの大量複製型のメディア消費の時代は最盛期を過ぎており,すでに国内の新聞産業や出版産業は市場規模の縮小という衰退の危機を経験している。たしかにグローバル化の影響もあってハリウッドの映画産業の世界的影響力はしばらく続くであろうが,長期的にみたときには,そうした大量複製型のメディア文化がより多くの大衆を巻き込んでいくことで発展するという時代は終焉しつつある。ヨーロッパや日本の出版や映画がすでに飽和した市場のなかでのコンテンツの生産と消費のサイクルに入っているのと同じように,いずれは世界全体が,拡大する市場ではなく定常的な市場を相手にしていくことになる。

この変化は,自動車産業と文化産業を並べてみるとわかりやすい。現在,自動車の普及は日本や北米,西欧ではすでに飽和状態に達しており,これまで自動車を持っていなかった家族が新たに自動車を購入する可能性は少ない。当然,すべての自動車産業は,その主力の販売戦略を中国やインド,ブラジル,アフリカのような発展途上の社会に向けており,そこでの市場開拓に生き残りをかけている。実のところ,ハリウッドの大作映画の将来も,米国や日本,西欧での消費にではなく,その外側の巨大な発展途上の市場にかかっている。自動車産業や文化産業が米国や西欧の市場を大切にするのは,何よりも自社の商品の世界的なステータスを確保するためである。しかし,このように現在はまだ世界市場が拡大を続けているとしても,数十年後を考えたとき,いずれは市場が飽和するのである。貧富の格差は残るにしても,地球上のほとんどの社会で,中産階級が自家用車を持ち,DVDでハリウッド映画を観ることが一般家庭にも行き渡る時代が来る。

そうしたときに,自動車も,映画も,拡大する市場ではなく飽和した市場で定常的な規模での生産と消費が続いていくことになる。ところが資本主義は拡大することが運命づけられているシステムである。飽和した市場で資本がなお新たな利潤を生む可能性を開拓していくには,1970年代のボードリヤールら消費社会論者が指摘していたように,記号的な差異化の戦略が導入されねばならない。これは周知のように,1980年代以降,自動車や電気製品からファッション,食品に至るまで,成熟した日本市場で企業が採用してきたマーケティング戦略である。

3. 大量生産-消費型から循環-再利用型へ

インターネットやデジタル・コミュニケーションの爆発的浸透は,日本や欧米社会がまさしくこのような変化の途上にあるときに生じた。「活字」と「デジタル」という5世紀の歳月を隔てた2つの技術の決定的な違いは,一方が言葉,他方がイメージということにあるのではない。文字の大量複製から映像や音声を含めた視聴覚の大量複製への拡張は,少なくとも19世紀末までに始まっていた。これに対して20世紀末以降に広がったデジタル技術は,文字であれ視聴覚であれ,コンテンツが大量複製されて一斉に伝播・流通し,消費されていくというマス・コミュニケーションの回路総体を変えていく。

なかでも重大な歴史的変化となりそうなのは,知識の再生産プロセスが,<生産→流通→消費>の空間軸での組織化をベースにした仕組みから,<蓄積→検索→再利用>の時間軸による組織化をベースにした仕組みへと転換する可能性である。もちろん,前者の回路がすぐに消えるわけではなく,メディア産業は相変わらず新しいコンテンツを生産・宣伝・流通させていく。だからデジタルアーカイブ化がどんなに発達しても,ハリウッド映画やベストセラー小説がなくなるわけではない。むしろ,ちょうど有名ブランドの商品と古着やビンテージといった二次的な流通が重層していくように,知識のリサイクル型の再生産プロセスが,これまでの消費型のプロセスを補完しつつ,影響を拡大させていくのだ。デジタル技術は無限の記憶力を持ち,膨大な情報を蓄積し,検索可能にする。そのため,新しい知識を消費していくことが主流だった文化の時間構造に変化が生じ,むしろ記憶と再生の契機をよりはっきりと帯びてくるようになるのである。

この循環型の知識システムは,収集・保存と構造化・活用という2つの次元を有する。前者で重要なのは,原資料を幅広く収集し,権利処理を経て十分な保存・管理環境が確保される施設に移管していくことである。原資料が一定の手続きを経て所定の収蔵庫に保管され,再利用可能なものになっていくのは図書館のシステムと似ている。ある意味で図書館は,知識循環型システムの先駆なのである。他方,構造化・活用の次元は,アーカイブ化されたデジタルデータに基づいている。デジタル化は,コンテンツを媒体から離し,技術的に操作可能なものにする。そこでは盗用や改ざんの危険性も出てくるが,同時に可能なかぎり広い人々が自由にコンテンツにアクセスし,創造の基盤にできることにもなる。

知識循環型社会では,この収集・保存と構造化・活用の2つの次元が高度に架橋されていく。そこではあらゆる種類の映像,写真から脚本や楽譜,広告等のメディア文化財に一定の権利処理をして公共的資産にしていく仕組みが整備され,異なる形式のメディア資源を横断的に結びつけることも容易になっていなくてはならない。図書館,博物館,美術館,文書館,フィルムアーカイブといった既存のアーカイブ機関で培われたノウハウが統合される制度的仕組みが整備されていなくてはならない。

さらに,テキストと映像や音声を融合化させた新しいデジタル知識基盤は,これまでそれ単体では過去の遺物とみなされ,見向きもされなかった多くの異なるジャンルの文化資料を相互に結びつけ,文脈化することによってその価値を甦らせるだろう。この新しい文脈化により,それぞれの文化資料は,いまだかつてそれが有していなかった新しい価値を獲得する。文字通りそれはメディア文化財の「リサイクル」なのであって,古新聞がリサイクルされて再生紙となるのと同様,古い記録映像は新しい歴史書の貴重な「引用」となり,古い脚本のデータは新しいドラマ作品を創造していく教育上の資源となる。21世紀中葉の人類社会が,このような新しい知識コンテンツに取り巻かれ,それが学校教育や文化消費の諸場面で活用されていく。

だが,そのためにはまず,この列島に散在するさまざまな形態のメディア文化資産の財産目録を作成し,できるだけそれらの原資料を安定的な保存環境が保証される収蔵機関,具体的には国立国会図書館やフィルムセンター,公文書館や博物館のような機関に集めていく取り組みを進めなければならないだろう。また,そのようにしてアーカイブ化されたメディア文化資料について,共通フォーマットにより標準化を進め,デジタルレベルでの公開化と横断的な統合化を進めることも重要である。さらに,デジタルアーカイブ化されたメディア文化資料について,さまざまな人材育成,教育カリキュラムのなかに組み込まれていく仕組みが構想されなければならない。

4. 日本でのデジタルアーカイブ化の現状

しかしながら,現状はどうであろうか。一方で,現在,比較的規模の大きな活字媒体やアーカイブ施設では,デジタルアーカイブ化が急速に進みつつある。たとえば,国立公文書館アジア歴史資料センターは横断検索システムをいち早く導入したし,国立国会図書館は電子図書館化に積極的な取り組みを始め,その近代デジタルライブラリーではすでに明治大正期の書籍を中心に数十万冊をネット公開している。近年,新聞紙面のデータベース化も着々と進んでいる。この動きに先鞭(せんべん)をつけたのは,「明治・大正・昭和の読売新聞」(現「ヨミダス歴史館」)であった。このデータベース構築は,読売新聞が発刊された1874年から現在に至る紙面を広告も含めて検索可能にした画期的事業であった。読売新聞に続き,朝日新聞も明治大正期のすべての紙面をデータベース化する作業を進め,公開している。

しかし,読売・朝日のような二大紙,国立国会図書館や国立公文書館のような国立の組織とは異なり,規模が小さな発行元や周縁的なメディアの場合にはデジタルアーカイブ化はなかなか進まない。新聞についていうならば,地方紙や海外で発行された邦字紙,逆に国内で発行されてきた外国語新聞のアーカイブ化をいかに進めるかという課題がある。最後の例では,The Japan Timesのような中心的な英字新聞はデジタルアーカイブ化されているが,在日韓国・朝鮮人や中国人コミュニティーで発行されてきた新聞についてのアーカイブ化はまだなされていないようだ。つまり,デジタルアーカイブ化に関しても規模の経済が働くために,大規模なマスメディアは相対的にアーカイブ化が進むのだが,小規模なマイノリティーメディアはその逆なのである。

活字メディアのアーカイブ化に比べ,映像のアーカイブ化はずっと複雑で遅れた状態にある。図書館の書籍が無償で公開され,貸し出しもされてきたのに対し,フィルムアーカイブや番組アーカイブの映像は,十分に利用者に供せられていない。海外では,フランスの国立視聴覚研究所(INA)をはじめ,国立の映像アーカイブが革新的な映像配信を始めているが,日本では,NHKアーカイブスが研究者向けの映像の公共利用に道を開き始めた程度であり,東京国立近代美術館フィルムセンターにも膨大な映画フィルムが収蔵されているが公開化は遅々としており,権利処理をめぐる課題が山積している。

要するに,今日の日本でメディア文化財のアーカイブ化が直面している第一の課題は,メディア文化財を国家機関で収集・保存し,そのデジタルデータの利用を公共化していく権利処理プロセスが確立できていないことである。唯一,書籍は例外で,日本で出版されたすべての「図書」は,納本制度によって国立国会図書館に収められ,少なくとも一冊が半永久的に保存されるとともに,この本の内容が図書館内ですべての人に閲覧されるのは当然のこととされている。したがって,図書館はこうした前提に立って,所蔵図書のデータのデジタル化を進めていくことができる。しかし,映像についてはまだこうした仕組みや通念が確立していないし,たとえば「脚本」や「設計図」「写真」のように,「図書」でも「映画」でも「番組」でもないさまざまなメディア文化財のジャンルが多数存在する。

いかなるジャンルであれ,蓄積されてきたコンテンツで高い商業的な価値を持ち続けるものは氷山の一角で,文化的には貴重でも商業的な価値はそれほど大きくはないケースが大半である。しかし,本の世界で長く読み続けられる名作が少数でも,その他の書籍を膨大に蓄積し,公開している図書館があるからこそ,新しい作品の創造が可能になってきたように,必ずしも名作でなくても残された映像は将来の価値を生む母体である。

5. おわりに:知識循環型社会の価値創造基盤とは

すでに述べたように,21世紀の私たちは,情報の大衆消費から知識の循環型システムへの変化のとば口に立っている。情報の大衆消費社会をもたらしたのは,より大きな情報のフローを生み出し,消費を拡大させようとするマスメディアの力であった。しかし,文化の豊かさや創造性は質的な概念でもある。「質」としての豊かさは,それぞれの国や地域の文化の歴史的継承と深まりに根差している。19世紀以降,日本列島には,非西洋世界では特異なほど独自の学術や芸術,文化の成果が集積されてきた。今日のデジタル化は,高度な情報技術を基盤にした知識インフラの構築によって,このような資産を生かし,それを文化的な価値に転換し,社会発展の基盤とする道を開いた。ところが,そうした貴重な文化的資産についての十分な収集・保存と活用の基盤が整えられてこなかったために,膨大な資産が今,多くの場所で永遠に失われようとしている。

何がなされるべきなのか――。まず,明らかに必要なのは,知的資源活用を促進する法的な仕組みの整備である。知識資源のデジタル化を速やかに進め,その蓄積された資源が円滑にリサイクルされるよう,その知的財産権処理の公的な仕組みが整備されなければならない。それには第1に,知識資源のデジタル化の段階での契約が円滑に進められる必要がある。どんな契約を結ぶべきかがわからなかったり,相互に不整合な契約内容になって再資源化できなくなる事態を避けるため,デジタル化にかかる標準ライセンスを整備すべきである。同時に,オーファンワークス(孤児著作物)問題,すなわち権利者がわからないために再利用できなくなっている膨大な資料の活用を進めるため,新たな法整備が必要である。孤児著作物のデジタル化の際に必要な文化庁長官の裁定手続きを一括して集中的に行うことで,孤児著作物に関する利活用コストの最小化を図るセンターも必要となる。

また,各地で作られたデジタル文化情報の相互利用を促進するため,デジタル資源に関するメタデータを整備することも重要である。このメタデータ作成は,第一義的にはデジタル文化情報を保有する各地域拠点が行うが,その相互運用性を確保するため,メタデータ交換センターのような機能も必要になってくる。そこでの機能には,メタデータの交換システムの整備・運営のほか,構造に関する規定(XMLに準拠するなど)や,オブジェクトの登録単位など,構造の最小単位となる要素の規定の仕方などを包含したメタデータガイドラインの整備が含まれなければならない。

第2に重要なのは,知識循環型のシステムをコーディネートしていく核となるような専門職人材の育成である。この種の人材は,デジタルアーキビストとも,デジタルキュレーターとも,デジタルライブラリアンとも呼ぶことができるのだが,こうした人材を,既存の博物館学芸員や図書館司書の資格取得プログラムとは異なる次元で,それらと連携させつつ育成し,同時にそうして育成された人材の雇用を創出していくことが必要である。既存の学問分野との関係でいうならば,この種の若手人材は,既存の図書館学や博物館学,史料学,映像学,記号学,アーカイブ学,コンピューター技術などの文理融合型の知識と技能を身につけ,同時に知的財産権に関する法的な処理能力を持っていなければならない。このような人材養成のプログラムを,既存の大学システムの基盤を生かしながら立ち上げていくべきであり,このことはある面で,高学歴ながら適切な就職口が見つからない人文系大学院生に新たなキャリアパスを用意することにもなるはずである。

第3に,以上の中核として,全国的なデジタルベースの知識や文化の循環型システムの拠点が設立されなければならない。この施設は,日本の文化資料や知識のデジタル化推進の中核となり,その循環的活用も促していくことになろう。それはさらに,アジアのなかでデジタル資源活用の国際戦略をリードする中核としての役目を果たしていくこともできるはずだ。この中核拠点は,各地域拠点が整備したデジタル文化資源,知識資源をナショナル,グローバルにリサイクルする諸事業も展開する。具体的には,各地域拠点では処理が難しい文化資源の大規模デジタル化,国内向けメタデータ交換システムの各国の相当システムとの連結,標準ライセンスを適用した場合の国際的な相互利用標準契約の整備,国内地域拠点事業への助言・支援,文化資源を活用した新産業のインキュベータ的役割などである。

最後に,こうした技術的,制度的な取り組みを整えながらも,私たちは,これらデジタル化され,リサクル可能になる知的資源が誰のためのものであるか,そこでの文化の公共性とは何かを問うていかなければならない。というのも,それぞれの地域には地域固有の知識や文化があり,それを発見・発掘し,最善の方法でデジタル化し,再利用できる状態にすることは有益である。知識循環型社会にとって,こうした地域資源の活用は不可欠で,どんな知的資源がどの地域にあるのか,それを発掘・発見する努力が必要となる。コミュニティー活動,地域企業活動,教育活動などその地域における諸活動の結果生み出されるさまざまな文化資源を収集・選別・組織化・蓄積する仕組みが,地元に根づいた仕方で構築されていかなければならない。これはすでに,意欲的な地方の博物館,図書館などが取り組んできたことであり,それを支援し,拡大させていく必要があるのである。

しかしさらにいえば,近代日本の歴史を通じて集積されてきた膨大な知的資源は,当然ながら日本だけのものではない。日本の近代は,その裏面としてアジアの植民地化をともない,帝国の繁栄は無数の移民や植民地からの文化的収奪の歴史ときびすを接していた。戦後においても,日本の独立プロの映画が共産主義中国に早くから輸入されていた歴史や,多くのテレビ番組がアジア各地に浸透していった歴史がある。そうした歴史がいま要請しているのは,高度なデジタル技術,とりわけ言語処理技術や映像解析技術の力を借りながら,日本に集積されたメディア文化財を,翻訳可能なものにして世界の共有財産にしていくことである。たとえば,画像データからテキストデータへの変換の精度が十分に上がれば,そのテキストデータの自動翻訳や映像との接合,知識のグローバル化が現実的な課題となってくる。

 
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