2016 Volume 58 Issue 11 Pages 807-818
現在,羽田空港の対岸に位置する殿町地区は,ナノテクノロジー,ロボティクスからレギュラトリーサイエンス分野に至る研究施設が集積し,急ピッチで世界最先端の研究開発拠点の形成が進んでいる。われわれは,ハブ空港・羽田に隣接した立地性を生かして国内外から優れた知と技術を呼び寄せ,地域の資源を総動員したイノベーションエコシステムの構築に取り組んでいる。本稿ではセンター・オブ・イノベーションプログラムの採択拠点の1つである「スマートライフケア社会への変革を先導するものづくりオープンイノベーション拠点(COINS)」に焦点を当て,産学官医金連携によるオープンイノベーションの推進について紹介する。また,イノベーションエコシステムの構築において重要である(1)インフラ,(2)投資,(3)人材育成の3つの観点から,われわれの取り組みについて概説する。
20世紀のイノベーションは,企業が開発する製品,サービスから行政が整備するインフラまで,主に個別最適化によって実現したものだった。こうした個別最適型の製品,インフラは,われわれの社会に大きな利便性をもたらした一方で,リソースの無駄や,システムの細分化・複雑化を引き起こし,脆弱(ぜいじゃく)性を生じさせた。21世紀は,多くの分野の課題を複合的に解決するための製品,サービスやインフラが求められている。このような製品,サービスは,単独の企業では開発しきれないため,組織の枠組みを超えて複数の企業や大学等が共同で開発するオープンイノベーションがあらためてクローズアップされている。オープンイノベーションでは,新しいアイデアやリソースを効率よく利用できるため企業のリスクが軽減されるというメリットの半面,ステークホルダーの役割分担(開発費の負担を含む)や知的財産の調整が複雑になる等のデメリットがある。
米国Apple社のiPhoneは,オープンイノベーションのアプローチによって21世紀に入った社会に大きなインパクトを与えた。機器やOSはApple社が開発するものの,アプリは他社が開発している。OSそのものはクローズにしつつも,アプリの開発仕様はオープンにして第三者に参入してもらい,コンテンツを開発してもらう点がオープンイノベーションといえる。これらのアプリが使えることによって,初めてiPhoneの本領が発揮される。われわれはiPhoneの登場によって,もはや個別最適化された製品をそろえる必要はなく,iPhoneを片手に音楽を聞きながら世界のさまざまな情報にアクセスすることが可能となり,われわれのライフスタイルは大きく変わった。iPhoneという1つのプラットフォーム上でそれぞれに最適化されたアプリが自律的に動き,OSによってシステム全体として連携させる仕組みは,21世紀型イノベーションのシンボリックな存在だと考えている。すなわち,自社の製品を徹底的に磨き上げるのではなく,他社が参加しやすいプラットフォームを提供することにより異種「組み合わせ」を促し,それによって新しい大きな価値を生み出すのが21世紀型イノベーションの「かたち」だと考えている。GoogleやAmazonも他社をひきつけるプラットフォームを提供することによってイノベーションを実現した典型である。
米国の民間組織である競争力評議会(Council on Competitiveness)が2004年12月に公表した報告書「Innovate America: Thriving in a World of Challenge and Change」(通称,パルミサーノ・レポート)が主張するエッセンスは,「21世紀の世界において,“competitive edge(競争の優位性)”を授けてくれるのはイノベーション以外にはない」という点にある。パルミサーノ・レポートにおいて,イノベーションは,経済と社会のさまざまな要素の多面的かつ継続的な相互関係で成り立つ生態系(エコシステム)のようなものであるとし,供給側,需要側,国・地域のインフラストラクチャーの三者が共鳴しながら進化(Co-evolution)することが重要であり,そうしたエコシステム的視点からの検討,政策立案が重要であるとしている。自律性を構築するためには政策的な支援が必須であると考えられる。しかし,実際は水の出口のない池はよどんでしまう。つまりは出口さえ作れば,新しい水は高いところから自然に流れる……エコシステムたるゆえんである。そのため,しっかりと出口を見据えたシナリオを描き,社会全体の持続的成長を目指すイノベーションエコシステム構築に向けて,産学官医金注1)一体となったイノベーション政策を検討していく必要がある。
このような状況の中で,われわれは潜在している将来社会のニーズから導き出されるあるべき社会のビジョンを設定し,既存分野・組織の壁を取り払い,異なるアイデアやテクノロジーの交わりを促すためのプラットフォームを構築するために産学官金連携による社会実験を実施している。パルミサーノ・レポートでは,イノベーションエコシステム構築において,①インフラ,②投資,③人材育成の重要性を指摘している。本稿では,産学官金連携によるオープンイノベーションを推進する中でわれわれがどのようにビジョンを設定しているか紹介したうえで,これら3つの点におけるわれわれの取り組みについて概説する。
先に述べた通りイノベーションエコシステム構築のためには,イノベーションへのシナリオを描くことが重要である。米国で手術支援ロボットは,もともと戦地で負傷した兵士を遠隔操作で治療するという明確な目的をもって開発された。持続可能な発展に向けての戦略的アプローチとして未来から発想するバックキャスティングという方法がある。バックキャスティングとは,未来を予測する際,目標となるような状態を想定し,そこを起点に現在を振り返って今何をすべきか考える発想法である。バックキャスティングと対をなすフォアキャスティングは,現状分析や過去の統計・実績・経験などから未来を予測する方法である。Karl H. Dreborgは,バックキャスティングの持続可能な目標となる社会への適用の有用性を示すとともに,バックキャスティングとフォアキャスティングとは相互補完的関係にあることを指摘している1)。バックキャスティングで未来を見通そうとしても,どうしてもイメージが先行し,その中に潜んでいる具体的なテクノロジーなどはみえてこない。そのためにはフォアキャスティングで現状を分析しイメージを現実に落とし込む必要がある。
大学発のイノベーション創出は,わが国が掲げる重要課題であるが,この実現のために文部科学省は「革新的イノベーション創出プログラム(COI STREAM)」を2013年にスタートさせた。COIは,現在潜在している将来社会のニーズから導き出されるあるべき社会の姿,暮らしのあり方(以下,「ビジョン」)を設定し,このビジョンを基に10年後を見通した革新的な研究開発課題を特定したうえで,既存分野・組織の壁を取り払い,企業だけでは実現できない革新的なイノベーションを産学連携で実現するバックキャスト型の研究開発を推進している。
COIが掲げるビジョンの1つである「少子高齢化先進国としての持続性確保」を実現するべく,採択された各拠点は独自のテーマを設定しつつも連携して取り組んでいる。「スマートライフケア社会への変革を先導するものづくりオープンイノベーション拠点(Center of Open Innovation Network for Smart Health: COINS)」はCOIに採択された拠点の1つであり,「少子高齢化先進国としての持続性確保」を見据えて,国民全員が健康を享受できる社会,すなわち,医療に掛かる手間やコスト,距離を意識することなく,病気や治療から解放され,日常生活の中で自律的に健康を手にすることができる「スマートライフケア社会」を目指している。スマートライフケア社会を実現するためにバックキャスティング的思考によって当拠点が導き出したコンセプトが「体内病院」である(図1)。ここでは,ナビ機能・センサー機能・オペレーション機能をあらかじめ作り込んだ機能分子の自動会合注2)によって,高度な医療機能を超密微細集積したウイルスサイズ(〜50nm)のスマートナノマシンを創製するという革新的なアイデアに基づいて,人体内の「必要な場所で・必要な時に・必要な診断と治療」を行う体内病院を構築するという,まさにSFの世界を具現化することを目標としている。この究極の先制医療である体内病院によって,いつでも・どこでも・誰もが,心理的・身体的・経済的負担なく,社会的負荷の大きい疾患から解放されていくことで自律的に健康になっていくスマートライフケア社会が実現される。
ちなみに,DDS(Drug Delivery System,薬物送達システム)は薬に主眼をおいて研究開発されているが,われわれは異なる発想で取り組んでいる。発想の転換はイノベーションを生み出すための重要な1つの要素である。たとえば,Amazonは,「世界中のすべての顧客に素早く商品を届けることが,顧客の満足度を高め次の取引につながること」を早い段階で理解し,商品そのものではなくデリバリーに対して価値があることを見出して小売り・物流の世界を大きく変えた。われわれも同様に,「薬」そのものではなく「送達物質(キャリア)」に価値があると考えてDDSではなく「スマートナノマシン」と呼び,「撃つ・超える・防ぐ・診る・治す」という機能をスマートナノマシンに付与することでさらなる競争優位性を生み出そうとしている。iPhoneの発想と同じく,このスマートナノマシンをプラットフォームとしてすべての医療機能を集約させることで体内病院の実現を目指している。本稿では,スマートナノマシンの創製に必要な5つの研究開発課題(「撃つ・超える・防ぐ・診る・治す」の機能を獲得するためのフォアキャスティング思考によるテクノロジーの開発)の詳細については割愛し,それらの開発過程で得られる成果を社会に還元していくための仕組みづくりについて紹介する。
社会実装を担う企業の多くには,国内外のアカデミアや他企業からもシーズやニーズを獲得していかねば生き残れないという危機意識は共有されつつある。その一方,わが国のアカデミアの多くは連携が機関内に閉じており,世界の技術や人材が集結するような体制は実現されていない。そこでわれわれは,多くの研究機関や企業が参画するオープンイノベーションのための体制を整備し,そこから既存企業での新規事業や新たなベンチャー企業を創出する仕組みを地域の自治体と協力して進めている。
COINSは,将来の社会ニーズを先取りし,国内外の大学や企業が最先端の技術・人材・アイデアをもち寄ることで「未来を変える製品・サービス」を開発するまったく新しい発想のプロジェクトである。COINSプロジェクトの受け皿となっているのは公益財団法人川崎市産業振興財団であるが,自治権を有した運営組織によりマネジメントされている。プロジェクトには産学官から22機関が参画しており,複数企業と複数大学による最大限のシナジー(相乗効果)が得られるような運営形態を採用している(図2)。
従来型の研究プロジェクトでは,大学内に事務局を置き,主に研究支援や研究管理に関する業務を中心に行ってきた。COINSでは,特定の大学や企業,自治体の利害からも中立的なガバナンスを設定するため,拠点マネジメント組織の中核として研究推進機構を設置し,オープンイノベーションを推進していくうえで課題となるステークホルダーとの調整を図っている。企業にて知財室長の経歴をもつ人材等を招聘(しょうへい)し,産学官連携による研究開発戦略の立案・研究シーズや将来ニーズに基づく新規研究テーマの提案・研究支援業務・社会実装の実践等の,従来のアカデミアの産学連携機関では実施困難であった機能を,研究推進機構に付与させている。
多様な大学・企業が競争力のある技術・製品シーズ,および研究者の英知を結集する真のオープンイノベーションを推進していくためには,多くの参画機関が知的財産を最大限に活用でき,さらに拠点参加のインセンティブにもなるまったく新たな枠組みを設定する必要がある。そこで,すべてのCOINS参画機関との間で当拠点の理念を記載した「共同研究開発の実施に係る協定書」および,それに基づいた「共同研究等実施規約」を締結した。知的財産の有効な利活用は戦略的な優先順位が極めて高い機能であり,参画する多くの大学・研究機関の知的財産に関する企業との窓口は研究推進機構に集約し,企業側からみた交渉の煩雑さを回避することで企業のスムーズな参画を促している。
また,機構自体の将来的な自律化を見据え,既存の大学内に存在する産学連携組織にはない新たな役割やコーポレートガバナンスの考えを導入した独自の体制構築を行っている。具体的には,企業の取締役会に相当する「COINS運営委員会」および,研究開発に関する意思決定機関として企業の経営会議に相当する「研究推進委員会」を設置し,迅速な意思決定を行っている。COINS運営委員会は共同研究契約を締結した各機関の声が反映できるよう産学官から代表されるメンバーで構成されており,このような仕組みは既存の大学・研究機関では構築することが不可能な当拠点独自の運営方法である。また,研究費の管理,研究の推進・計画にかかわる事項を検討する研究推進委員会に加えて,研究の進捗に応じて迅速な意思決定ができるように研究リーダーの下,ワーキンググループや検討委員会を柔軟に開催することが可能な体制を整備している。研究推進機構の整備により,COINSプロジェクトリーダー(PL,木村廣道)とリサーチリーダー(RL,片岡一則)の下,産学官連携によるオープンイノベーションを強力に推進するための組織を構築した。
オープンイノベーションは,ダイバーシティ(多様性)と切り離しては考えられない。人種・性別・国籍・年齢など,さまざまな背景をもつ幅広い人材の多彩なアイデアを活用することによって実現されるからである。グローバル化への対応も,当然,切り離せない。英国の科学ジャーナリストであるMatt Ridleyは,人類の歴史を通して,アイデアが出合い交わって新たなアイデアを生み出すことこそ(When ideas have sex),人類の進歩の原動力であり,個人ではなく,集合的な脳の賢明さが重要だと論じている2)。知的創造の過程こそがイノベーションであり,それにはヘテロジニアスなアイデアの出合いを促し,組織に動的な関係性を生じさせるための「場」が必要となる。
未来社会の体内病院を実現するには,異なる研究領域をまたがって,あらゆる研究リソース(設備,人材,資金,情報,技術)を集積し,イノベーションを創出するための「場」を提供するコミュニティーを構築することが必要である。そこで国内外の優れたアイデアが出合い交わるための「場」として,日本のハブ空港・羽田を控える神奈川県川崎市の殿町国際戦略拠点(通称「キング スカイフロント」)に,大学や企業とは独立したまったく新しい研究拠点「ナノ医療イノベーションセンター(iCONM: Innovation Center of NanoMedicine)」が2015年4月に運営を開始した(図3)。
iCONMは,文科省「地域資源等を活用した産学連携による国際科学イノベーション拠点整備事業」の下,川崎市の支援により建設された研究施設である。有機合成・微細加工から前臨床試験までの研究開発を一気通貫で行うことが可能な最先端の実験機器を備え,産学官・医工連携によるオープンイノベーションを推進することを目的に設計された,世界でも類を見ない非常にユニークな研究施設である。キング スカイフロントは,実験動物中央研究所やJohnson & Johnson東京サイエンスセンターがすでに運営を開始しており,国立医薬品食品衛生研究所(NIHS)や日本アイソトープ協会が2017年度(平成29年度)に運営開始予定となっている。既存の研究プロジェクトは特定の大学や研究機関を中核にして進められ,特に周辺の地域資源が十分に活用しきれていないことがあるが,キング スカイフロントはわが国の産業を支えてきた京浜工業地帯に立地する企業や地場のものづくり企業からも注目されており,iCONMを中心とする地域連携に向けた取り組みが始まっている。
さらに国内のみならず,国際的な交流のハブ機能を果たす羽田空港と隣接している点が重要である。これはオープンイノベーション型拠点においては極めて重要な要素であり,地方大学の研究者による日帰り研究や,海外のトップ研究者を直行便で招聘(しょうへい),face-to-faceでタイムリーに議論することも可能にする。このように世界に誇る地域資源が活用できるうえ,国際空港に隣接する立地性についてはグローバルな観点からも非常に優れた条件がそろっている。羽田空港の近接性を生かし,COINSの掲げる体内病院が国内外の多種多様なシーズ・人材を引き寄せる求心力となり,企業・研究機関・大学の研究者・経営戦略チームが1つ屋根の下に集い,それらシーズを組み合わせて市場へと展開するための役割をiCONMは担っている。
イノベーション創出の鍵は,「多様性のある人々の協働」であるとされる。Lee Flemingは,多様なメンバーによる協創(対話)の方が,均一なメンバーの場合よりも,アイデアの質の平均値は下がるものの,アイデアの多様性が高まり,一部のイノベーティブな解は専門分野の多様性の低いチームの場合よりもはるかに優れていると報告している3)。
一方で,平成25年度文部科学省委託事業「イノベーション対話ツール開発」を参照すると,大学や研究機関のように専門性に基づく組織構造の中で,研究者などのステークホルダーの独立性の確保も重要視されており,このような状況において,多様性と独立性を確保しながらイノベーション創出を目的に話し合うのは容易ではないとされている4)。特に,もともともっているシーズや志向するニーズの異なる大学・研究機関と企業における溝を埋めながら協創していくための「対話」が必要となる。
そこで,COINSでは「対話」のための1つのアクティビティーとして,「産学官融合によるオープンイノベーションの在り方」をテーマとしたワークショップ形式のリトリート注3)を毎年開催している。以下にリトリートの2事例を紹介する。
3.3.1 iCONMのビジョンの制定企業において,ビジョンおよびミッションは組織の存在意義と方向性を内外に明確に示し,さらには事業の成功確率と密接に結び付いていると考えられている。明確なビジョンをもった新しい組織は,創業メンバーの強い起業動機と一体化し,それ自体が1つの強みをもっているといえる。現段階におけるCOINS参画機関はiCONMの創業メンバーでもあり,メンバー間の方向性を共有するため,iCONMのビジョンを「対話」により制定した。
COINS参画機関から約80名(大学,研究機関,企業,自治体メンバーで構成)が参加した2泊3日のリトリートのグループディスカッションを通して,iCONMのビジョンが創出された(図3右上)。COINSでは各種委員会をはじめ,参画機関との密な対話から生まれるイノベーションを重視しており,今後もこのような場を定期的に設ける計画を立てている。現在はiCONMのビジョンを達成するためのミッションステートメントを設計している。
3.3.2 ケーススタディー形式のグループディスカッションによる海外成功事例の分析と応用海外の研究拠点の成功事例として,がん研究の世界の中心であるテキサス州立大学MDアンダーソンがんセンターや,先端半導体からヘルスケア・ライフサイエンスへとオープンイノベーションを展開するimec(Inter-university Microelectronics Center)について,アドバイザーや有識者による講演後,グループに分かれてそれらのKey Success Factors (KSF)について分析し,KSFがiCONMにおいても適用可能かディスカッションを行った。これらのグループディスカッションで得られた知見を基に,たとえば,imecにおける運営方法や知財の取り扱いに対する考え方などをiCONMの制度に生かすべく設計を行っている。
若手研究者の主体性を促し,将来的に自立した研究室を運営するための実践の場として,有望な30代の若手研究者を積極的に当拠点のサブテーマのリーダーとして起用している。サブテーマリーダーは,参画する企業,研究機関との幅広い共同研究を通して,研究を円滑に推進していくための研究計画の立案,工程表の作成,各工程に必要なリソースの確保と割り振り,進捗管理および達成した成果の分析などリーダーとして必要なスキルを身に付けられるよう努めている。このようなプロジェクトマネジメントの手法を身に付けることができているかについては,全体会議,研究推進委員会やRLが適宜開催するワーキンググループを通してモニタリングしている。
現在,幅広い一般教養を基礎とした理工学的専門能力を有し,同時に幅広い専門家の知恵を統合し,社会経済的課題の解決やイノベーションの実現を牽引(けんいん)する能力を有する「Σ(シグマ)型統合能力人材」が求められている。われわれもΣ型統合能力人材の育成に向けて,先に挙げたケーススタディーやプロジェクトマネジメントの手法などMBAが取り入れているプログラムを導入することで,研究開発のみに終始するのではなく社会経済的価値創造に貢献する人材育成に取り組んでいる。
2013年6月に閣議決定された日本再興戦略におけるプランの1つとして産業の新陳代謝の促進のためのベンチャー投資の促進がうたわれている。ベンチャー企業の成長段階は,一般的に①シード(設立準備期),②スタートアップ(創業期),③アーリー(成長初期),④ミドル(中期),⑤レイター(後期)といったステージに分けて説明されることが多い(図4)。このうち,創業からある程度の収益が得られる事業として成長するまでの間(②から④のステージ),必要な資金の調達が難しく,資金不足に陥ってしまうリスクが高いことから,しばしば「死の谷(death valley)」とも呼ばれている。この死の谷を含め,各ステージに応じて資金面を含むサポートを提供していくことが重要である。
しかし,②スタートアップ(創業期)初期段階においては,事業の成否にかかわる不確実性が高く,金融機関等にとって資金面の支援を行うことは通常以上に高いリスクを伴っている。このため,行政当局を含め,関係プレーヤーの間で効果的にリスクをシェアする必要がある。特にベンチャーにとって資金調達が容易ではないこのステージでは,原則として定期的な返済が求められるデット(借入)型よりも資本性の高いエクイティ(株式)型の資金の方が適しており,政府系金融機関やベンチャーキャピタル等が資金の出し手としての役割を求められている。OECDの調査によれば,ベンチャーキャピタルの投資額(対GDP比)と起業活動率は正の相関関係であることが確認できる5)。つまり,リスクマネーが円滑に供給され,ベンチャーキャピタル投資が活発なほど,起業活動率は高い,というごく自然な傾向である。しかしながら,わが国のベンチャーキャピタルの投資額(対GDP比)は,先進諸国(27か国・地域)の中でイタリアに次いで最も低く,加えて,政府から企業へ提供された研究開発資金における中小企業の割合は最下位となっている5),6)。日本の起業活動が低調なのは当然の結果である。
われわれは,①シード(設立準備期)から③アーリー(成長初期)ステージのベンチャーに対するエクイティ性資金の供給態勢を整備するため,「カネ(資金)」「ヒト(人材)」「チエ(経営ノウハウ)」を総合的に支援するハンズオン型ベンチャーキャピタルを招聘し,経営人材が育成・創出されることで,技術やベンチャーが量産され,リスクマネーがよどみなく供給されて,新たな人材や事業に再投資されるというヒト・モノ・カネが循環するイノベーションエコシステムの構築を目指している。現在,COINSに参画する一部メンバーおよび企業が共同でハンズオン型ベンチャーキャピタルを立ち上げ,2015年(平成27年)4月から運用を開始しており,COINSプロジェクトと密接に連携しながらベンチャーを支援するための体制を整備した。
医療分野におけるイノベーション創出には,グローバルな視点をもち,科学・技術と社会・経済の両面から牽引する人材の育成が不可欠である。医療ニーズに応える科学・技術の実用化・製品化には,臨床現場からニーズを吸い上げ,適切な先端研究シーズと結び付ける専門性とともに多方面の関係者を巻き込んで新たな価値を創出するマネジメント力が求められる(図5)。実用化過程であるトランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究,TR)を推進・加速させるためには,経済的,社会的合理性を考慮しつつ,プロジェクトを企画・遂行できる人材の養成が鍵となるが,現行の専門分野別養成拠点では,このような総合マネジメント力を有する人材を輩出することが困難であり,この人材ボトルネックを解消することが日本の医療イノベーションの推進には欠かせない。また,TRを活性化するためには,リーダー人材に加えて,プロジェクトに貢献できる人材の裾野を広げることが必要であり,基礎・実務・マネジメント力養成のための新たな拠点の形成が求められている。
文部科学省は2013年度(平成25年度)より,急速に進展する高齢化等に伴う医療課題を解決し,わが国のみならず世界の医療の発展や医療産業の活性化に貢献する人材(メディカル・イノベーション推進人材)を養成することを目的として「未来医療研究人材養成拠点形成事業」を開始した。COINSのPLである木村が事業推進責任者を務める東京大学医療イノベーションイニシアティブは,本事業の拠点の1つとして選定され活動を開始している。この活動を通して,スタンフォード大学の医学・工学・ビジネスの3つのスクールのジョイントプログラムであるバイオデザインの国内大学(東京大学・東北大学・大阪大学)への導入も決定している。バイオデザインは,デザイン思考を用いた医療機器イノベーションの方法を実践的に教育しており,ここから多くのベンチャー企業が創設されている。さらに,東京大学医療イノベーションイニシアティブでは,スタンフォード大学の産業界とのユニークなパートナーシップの形成によりTRを推進する創薬・診断開発プログラムであるSPARKのコンセプトを取り入れた講義・ワークショップを提供しており,COINSを通して川崎市の地元医療機関との連携を目指した対話を開始している。
一方で,京浜工業地帯のモノづくり企業の資源を活用した新しい産業創出のための場として,当財団と大田区産業振興会館を中心とする自治体関係機関が金融機関と連携し,医工連携を目的としたワークショップを2015年度の10月から開催している。また,従前より当財団はビジネスプランコンテストを実施しており,アントレプレナー(起業家)の育成に取り組んできた。今後はこのような人材育成プログラムとも密な連携を図ることで,地場企業にとっては新しいビジネスチャンスの創出,アントレプレナーや研究者にとっては試作・量産パートナー獲得のためのマッチングの場として地域の産業振興に資する拠点としての運用も検討している。メディア,投資家,連携可能性のある企業を巻き込み,国際空港に隣接した立地性を生かして国内外から優れた知と技術を呼び寄せ,地域の資源を総動員してイノベーションエコシステムを実現したいと考えている。
インフラ整備・投資・人材育成の観点から,イノベーションエコシステム創出に向けた基盤を徐々に構築しつつある今,われわれのプロジェクトから参画企業主導による臨床試験やベンチャー企業立ち上げのためのビジネスプラン策定等の成果が得られ始めている。今後は,その過程で得られる短期的・中期的な成果に対する市場の反応を分析し,研究開発・制度設計・人材育成にフィードバックすることが重要であると考えている。つまり,大きな骨格として,長期間を経てでも成し遂げるべきビジョンと,そのビジョンに向けた複数の研究開発課題を同時並行的に検討し,向かうべきベクトルを定めるような先導的なビジョンという2つの役割が必要である。そして,調整を重ねてゆくうえで生まれる新たな課題が,破壊的なイノベーションを創出するための糧となって出現すると考えている。
本稿で紹介したプロジェクトは,国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)の研究成果展開事業「センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム」の支援によって行われている。
京都大学大学院理学研究科生物科学専攻 生物物理学系博士後期課程修了。博士(理学)。2004年(独)理化学研究所入所。Spring-8にて構造生物学研究に従事。その後,民間企業にて新規事業立ち上げや海外投資業務に携わった後,コンサルタントとして独立。現在はCOINS研究推進副統括および独立系のベンチャーキャピタルである(株)ファストトラックイニシアティブのインダストリーエキスパートを兼務。
東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。薬学博士。米国スタンフォード大学大学院ビジネススクール修了。MBA。協和醗酵工業(株),モルガン銀行バイスプレジデントを経て,アマシャム・ファルマシア・バイオテク(株),日本モンサント(株)の代表取締役社長を歴任。現在は東京大学大学院薬学系研究科ファーマコビジネス・イノベーション教室特任教授,公益財団法人川崎市産業振興財団 ナノ医療イノベーションセンタープロジェクト統括および(株)ファストトラックイニシアティブの代表取締役を務める。