2017 年 18 巻 1 号 p. 21-43
This study analyzes the mechanisms and conditions of functioning for strategic talent management. Strategic talent management is a theoretical concept based on strategic human resource management. It focuses on key positions that contribute to the competitive advantage of a company and on developing a talent pool of high potential and high performing incumbents.
The study investigates 11 foreign-owned companies and one Japanese company and its primary findings are as follows.
(1) The key components of the mechanisms and conditions of functioning for strategic talent management are "definition of the key positions," "talent review," "participation of executive team," and "visualization with talent chart (block chart) ."
(2) The involvement and participation of the executive team for talent development is essential.
(3) The fundamental rules of Japanese style human resource management are different from that of strategic talent management. Therefore, a Japanese company should choose the most appropriate method to implement either strategic talent management or Japanese style human resource management.
近年,グローバルに事業を展開する企業において,タレントマネジメント(Talent Management,以下TM)と呼ばれる人的資源管理(Human Resource Management)施策(以下,HRM施策)が一般化しつつある(石原,2013)。TMはマッキンゼー社のウォー・フォー・タレント(Warfor Talent)という有能な人材の獲得こそが企業の競争優位に直結するという概念(Michaels, Handfield-Jones and Axelrod, 2001)によって,実務上重視されるようになった。しかし,その定義は必ずしも合意されておらず,TMの定義を明確化しようという試みがなされている(ATD, 2009; Collings and Mellahi, 2009; Lewis and Heckman, 2006)。
実務上の関心を踏まえて,2000年代以降,多くの学術雑誌でTMの特集が組まれ1,研究論文の蓄積が進んだが,その3分の2以上は概念的なものでTMの定義を探索しているものだとされる(Thunnissen, Boselie and Fruytier, 2013)。つまりTMの堅牢な実証分析は不十分であり(Collings and Mellahi, 2009),いまだ理論ではなく現象の段階にとどまっているとされる(Dries, 2013)。
他方,TMとは,伝統的人的資源管理から戦略的人的資源管理(Strategic Human Resource Management,以下SHRM)へのパラダイムシフトを端的に示す概念であり,SHRM論の知見に基づき今後は理論として精緻化できるという主張がある(Collings and Mellahi, 2009)。TMの理論化は日本企業という文脈においても,数少ないが議論されている。たとえば柿沼(2015)は,McCall(1998)の議論を援用したうえで,強固な内部労働市場において,新卒一括採用した社員を長期間に重層的なトーナメント昇進により「適者生存」させていくことを日本型人事管理の特徴と捉え,それに対比し有能なタレントを意図的につくりこんでいく「適者開発」というTMの特徴に注目して理論化を図っている。ただし柿沼の研究は,文献レビューによる理論化であり,日本でのTMに関する実証研究の蓄積は,管見の限りほとんど存在していない。
そこで本研究では,堅牢な実証分析が不十分とされるTMのメカニズムを,多国籍に展開する企業を事例として検討する。その後,日本企業がTMを導入した際に日本型人事管理との間にどのような相互作用が生じるのかについて検証する。
TMの定義は実務的にも学術的にも定まっていないとされる。たとえば2006年のイギリスの調査において,TMを定義したうえで実行している人事実務家の割合は約20%にすぎない(Collings and Mellahi, 2009)。ATD2(2009)では,TMに関する白書を作成したが,その目的は実務的に曖昧なTMの統一的な定義を確立することにあった。
実務的な定義の曖昧さに対して,Lewis and Heckman(2006)は学術的な観点から,TMの定義を3つの分類に整理した。第1の定義の分類は,採用,選抜,人材開発,キャリア開発,後継者計画のような一連のHRM施策をTMと称するものが該当する。第2の定義の分類は,企業における労働力の需要を予測し,それに合致する社員の能力開発を行うために,タレントプールの概念に焦点をあてる施策を示す。この定義は,主に後継者計画を中心に運用する施策に注目する。第3の定義の分類は,社員を成果の発揮度で,A,B,Cに位置づけるという施策が該当する。この施策の目的は,企業のポジションはなるべく多くのAプレイヤーで充足し,Cプレイヤーはなるべくその数を減らす,ということである。
Lewis and Heckmanは,3分類とも不満足な定義であるとする。第1の分類は従来のHRM施策を新しいものに見せるための呼称変更にすぎない。第2の分類は,既に後継者計画として実行されてきた施策を示すにすぎない。第3の分類においては,Aプレイヤーという定義の具体的な内容が示されていない。また,すべてのポジションをAプレイヤーで満たすには結局は社員全員に均等な能力開発機会を提供しなければならず,現実的には難しいのではないかという疑問が提示される。とりわけ,この第3の分類は,先述したウォー・フォー・タレントによるアプローチに依拠している。ウォー・フォー・タレントアプローチは説明がわかりやすく,それゆえTMという概念が耳目を集めるきっかけとなったわけだが,理論的に精緻化された定義となるためには,まだ課題があると言えよう。
そこで,TMの定義を構築するために重要な論点を検討する。Dries(2013)はTMに関してさまざまな捉え方の差異を議論したが,本稿ではその中でも重要な2つの論点を取りあげる。第1の論点は,TMとは「社員全員に注力」するのか,「一部の社員に注力」するのかという差異である。Ulrich(2011)は,TMの対象層は当初は幹部層に限定されるが,いずれ「すべての社員」へと拡大し,最終的には組織文化の変容につながっていかねばならないと指摘しており,「社員全員に注力」は最終目標としては望ましいものであろう。しかし限られた経営資源を社員全員にいきなり展開することには制約が予想され,そうであれば当面は「一部の社員に注力」することが現実的な選択となろう。
第2の論点はタレントが有する才能は「生まれながら」のものであるのか,「後天的」に育成されるのか,という論点である。「生まれながら」の観点にたてば,有能なタレントを自社の人材需要と過不足なく確保することが重要になる。これは,伝統的なHRM施策では人材の需要予測の精度が低く,激しく変動する競争環境に対応するためにタレントをオンデマンドに調達する必要があるという主張(Cappelli, 2008)に合致する。他方,タレントは「後天的」に育成されるという捉え方は,リーダーシップ開発は日常の経験の系統化により「適者開発」としてなされるべきであるという主張(McCall, 1998)に合致する。つまり「生まれながら」の観点は外部採用,「後天的」の観点は内部育成に軸足を置いている。
Lewis and Heckmanの定義の3分類は,いずれもこの2つの論点を十分に考慮しているとは言えない。他方,これらの論点を考慮にいれ,より精緻化された3つの定義が存在する。第1の定義は,ATD(2009)によるものだ。ATDでは,TMを「組織開発,後継者計画,パフォーマンス管理,人材の獲得,能力開発,アセスメント,キャリア開発,リテンション施策の8要素が有機的に統合され,事業目標との整合性を有し,組織文化,人材の意欲,量,質と関連があり,組織に短期と長期の成果をもたらすもの」と定義する。この定義は,第1の論点については,「社員全員に注力」することを重視していると考えられる。8要素という広範な施策を統合することは,社員全員のタレントとしての育成を目的としているからだ。ただし,第2の論点については中立的であろう。8要素が社員の育成を最優先としている面では「適者開発」が意識されているが,人材の獲得という要素も存在するので,外部採用にも目配りがされている。
第2の定義は,Collings and Mellahi(2009)が唱える,戦略的タレントマネジメント(Strategic Talent Management,以下STM)である。STMの定義は,「企業の競争優位に貢献するキーポジションを特定し,これらのキーポジションに相応しい高い潜在能力を有し成果発揮できる人材をタレントプールで開発し,有能な人材がキーポジションを充足することができる人材アーキテクチャーを構築し,有能な人材の組織への継続的コミットメントを確保する」(Collings and Mellahi, 2009, 304頁)と説明されている。この定義は第1の論点については,「一部の社員に注力」することが明確である。企業がキーポジションを担える可能性がある人材のみに注力する点が示されているからだ。ただし,タレントプールに選定する人材は外部採用,内部育成のいずれもあり得ることから,第2の論点については中立的であると言える。
第3の定義はグローバルタレントマネジメント(Global Talent Management,以下GTM)である。GTMの定義が完全に一致しているわけではないが,多国籍企業が,国際人的資源管理における施策を有効活用しながら,有能な人材を世界的な規模で引きつけ,選抜,登用,育成すること,という内容では概ね一致している(Minbaeva and Collings, 2013; Scullion andCollings, 2010; Tarique and Schuler, 2010)。実際,多国籍企業はその規模が大きいほどGTMを採用しており(McDonnell, Lamare, Gunnigleand Lavelle, 2010),実務的な重要性が明らかになっている。GTMはSTMのメカニズムに立脚したうえで,世界的な規模での人材の移動可能性や地理的制約への対処に注目する。したがってSTM同様,第1の論点については,「一部の社員に注力」し,第2の論点については中立的である。
この3つの定義は,TMの2つの論点について十分考慮したうえで設定されているので,TMの理論的発展に資する内容を有していると評価できる。ただし,ATDの定義は,「社員全員に注力」することを目指しており,Ulrich(2011)が指摘するTMの発展の最終段階にあたる。換言すれば目指すべき理想像の提示であり,TMの現実的な導入という観点ではSTMの枠組みのほうが実務的な優位性が高いと考えられる。またGTMはTMの具体的なメカニズムに関するSTMの理論的成果を包摂したうえで,国際人的資源管理における施策の有効活用のあり方に着目している。以上のTMの定義に関する議論をまとめたものが表1である。
本研究では社員全員に対するTM(ATDの定義)およびTMの世界的な運用と実践(GTM)ではなく,一部の社員に注力するTMのメカニズムそのものの解明を目的とするため,STMに注目する。さらにSHRM論においても,STMとの関連に言及した先行研究が多い。そこで本稿では,SHRM論の知見がSTMに与えた影響に焦点を絞り,次節でレビューする。
STMとは,伝統的HRMがSHRMへとパラダイムシフトしているメカニズムを明らかにしようとした試みだとされる。具体的には,コンフィギュレーショナル・アプローチにおける外部適合,内部適合という概念のメカニズムの解明が意図されている(Collings and Mellahi, 2009)。
そもそもSHRMが究極的に目指すことは,HRM施策と会社業績のつながりのブラックボックスの解明にある(Becker and Huselid, 2006)。ブラックボックスを解明するための理論的アプローチとして,SHRMはベストプラクティス・アプローチ,コンティンジェンシー・アプローチ,コンフィギュレーショナル・アプローチの3つに分類される(岩出, 2002)。
ベストプラクティス・アプローチとは普遍的で最善のHRM施策が存在するという考え方であり,その施策群はHPWP(high-performance workpractices: 高成果を生む仕事の仕組み)と呼ばれる。具体的には採用,報酬,選抜,異動,昇進といった中核的なHRM施策のみならず,フラットな組織構造,平等主義,協調的な労使関係など経営と従業員の忌憚ない対話を促すための広範な施策が含まれる(Lawler,1986; Pfeffer, 1994a, 1994b)。コンティンジェンシー・アプローチは,経営戦略とHRM施策の整合性を重視する。代表的な理論はMilesand Snow(1984)によるもので,経営戦略を防衛型(Defender),探求型(Prospector),分析型(Analyzer)の3種類3に区分し,それぞれに適合したHRM施策4が必要だとする。
STM以前のTMの定義は,コンティンジェンシー・アプローチではなく,ベストプラクティス・アプローチに基づいて発展してきたと言える。Lewis and Heckman(2006)の示す3つの定義は,いずれもそこで示されている施策を適切に運用すれば経営に効果があらわれるというものであり,普遍的で最善な施策であることが前提となっている。しかし,それらの定義においては,TMの各要素がどのようなメカニズムで統合され,経営の効果にどうつながるのかという道筋が示されていない。
他方,STMは,SHRMの3分類の中では,コンフィギュレーショナル・アプローチの影響を最も受けている。コンフィギュレーショナル・アプローチは経営戦略との整合の必要性は踏まえつつ,HRM施策の相乗性,最適な組み合わせも重視する。コンフィギュレーショナル・アプローチでは,ベストプラクティス・アプローチは組織に直接的な影響を有するし,コンティンジェンシー・アプローチは戦略とHRM施策が一致した時に影響を有するため補完関係にある(Youndt, Snell, Dean, and Lepark, 1996)と考える。この補完関係を,HRM施策と戦略との整合性(外部適合)とHRM施策間の整合性(内部適合)に整理した概念が,コンフィギュレーショナル・アプローチである(Bairdand Meshoulam, 1988; 奥寺,2010)。
外部適合について蔡(1998)は,内部適合した一貫性のあるHRM施策が商品開発,顧客サービス,品質などの企業特殊的な具体的な経営にまで影響し,資源ベース理論(Barney, 1991)の言う模倣困難性にまで寄与するという状態であるとする。つまり,コンティンジェンシー・アプローチの考える戦略は数種類しか存在しないが,コンフィギュレーショナル・アプローチの外部適合の具体的内容は,企業特殊性により個々の企業で異なることになる。また内部適合は,ベストプラクティス・アプローチにおけるHPWPがHRM施策として整合されている状態と考えられる(Kaufman, 2010)。このようにコンフィギュレーショナル・アプローチは,ベストプラクティス・アプローチとコンティンジェンシー・アプローチをより進化させている洗練された概念(奥寺,2010)であるが,批判も存在する。
たとえば,内部適合を意味するHPWPについては,そもそもどの施策が該当するのかということについて議論が一致していない(Posthuma, Campion, Masimova and Campion, 2013),外部適合,内部適合を支持する研究は製造業に限定され一般化に十分ではない(鳥取部,2009),ベストプラクティス・アプローチが企業業績に有効なことは証明されておらず,かつ外部適合は「戦略」「HRM」「業績」という鍵概念の定義が適切に行われていない(木村,2007)などの批判である。
STMはこうした外部適合,内部適合の曖昧性を克服し,TMを通じたメカニズムによりコンフィギュレーショナル・アプローチを実現することを目指している(Collings and Mellahi, 2009)。それではSTMのメカニズムを説明しよう。メカニズムの起点は事業戦略である。STMの眼目は,事業戦略に基づき,ポジションを戦略ポジションと非戦略ポジションに仕分けするところにある。Lepak and Snell(1999)の人材アーキテクチャーにおいては,事業戦略への価値の発揮度に基づき企業内の人材を分類し,それにあわせて雇用モード,雇用関係,HRM施策のあり方を考慮する。他方STMは,事業戦略に影響を与える戦略ポジションを担うことのできる人材だけが価値を発揮するとみなす。この戦略ポジションはキーポジションと呼ばれる。キーポジションの要件が定まると,その要件に基づき,ポジションを担う人材像が定義される。
先述のウォー・フォー・タレントアプローチ(Michaels et al, 2001)は,もっぱらAプレイヤーを活躍させることとCプレイヤーを退出させることに力点があるが,普遍的に優秀なAプレイヤーという概念は企業の個別の事業戦略との結びつきが曖昧である。また,Minbaeva and Collings(2013)は,企業内のすべてのポジションにAプレイヤーを配置することの問題点を指摘する。非戦略ポジションにもAプレイヤーを配置することは,企業としては過剰投資になる。Aプレイヤーにとっては世界共通基準で評価される戦略ポジションに配置されなかったという認識が生じ,退職リスクにつながる。
このようにSTMの価値は,事業戦略に基づいたキーポジションの具体的な要件定義を行うところにあり,Lepak and Snell(1999)の人材アーキテクチャーの概念を精緻化して取り込んだと評価できる。要件定義においては,当該職務で求められる専門性はもちろんのこと,自社の企業文化,また特定のビジネスモデルにおいて必要な行動特性が織り込まれなければならない。ここにおいて,蔡(1998)が指摘する模倣困難性にまで寄与する企業特殊的要素が埋め込まれる。キーポジションの要件定義により規定された人材像は,個別性が高いものであるので,汎用的なAプレイヤーであればいいというものではない。したがって,内部育成の必要性が高くなるし,外部採用するにしても採用プロセスにおける丁寧な吟味が求められることになる。
キーポジションの要件定義と人材像の決定の後には,タレントプールの戦略構築が行われる。ここでは,キーポジションおよびその求める人材像にあわせて,誰をその対象とするかを決定する。対象者が決まると,タレントプール内部に限定した,集中的な育成とキーポジションへの登用が行われる。
ここまで述べてきたSTMのメカニズムは,「事業戦略に基づくキーポジションの要件定義を行い,要件に適合した人材像を決定し,人材像に合致したタレントをタレントプールで選抜,育成,登用するプロセス」と整理できる。事業戦略が起点にあることで外部適合が実現し,タレントプールに選抜,育成,登用の機能があることでHRM施策が一元化され内部適合が実現する。また個別企業の事業戦略と企業文化がプロセスに織り込まれていることで,企業特殊性と曖昧性を包含した模倣困難な外部適合と内部適合が実現される。
STMのメカニズムの実現性は高いと考えられるが,その理由としては,先述したとおり「一部の社員に注力」することが明確にされているからであろう。キーポジションの要件定義,人材層の決定,タレントプールにおける選抜,育成,登用,いずれも企業としての負荷は大きいと考えられる。STMは,あえて「社員全員に注力」することを避け,「一部の社員に注力」することで負荷の問題の解決を図っていると考えられる。しかし,「一部の社員に注力」したとしてもタレントプールへの選抜は簡単ではなく,現状ではタレントを選抜する基準が曖昧で意思決定の質に問題があるとされる(Boudreau and Ramstad, 2005)。特に本社と海外子会社には地理的距離があるような多国籍企業の場合,部門による人材の抱え込みが生じやすいという課題も指摘されている(Mellahi and Collings, 2010)。
2.3 日本型人事管理とSTMの関係STMの概念枠組みに対し,日本型人事管理は必ずしも整合するとは考えられない側面がある。そこで,特に職務定義,昇進・評価という観点について検討してみたい。
多くの先行研究(たとえば濱口,2013; Marsden, 1999; 森口,2013など)において,日本企業では厳密な職務定義は実施されず,個々の職務の定義は明確でなく,従業員は個別企業への適応性が問われるとされる。他方,近年は日本企業でも職務主義の考え方を一部取り入れ,能力主義と組み合わせた役割主義を推進している場合もある(平野,2006, 2011)。なおSTMのキーポジションは“roles”と表現される場合もある(Ariss, Cascio and Paauwe, 2014)が,これは“positions”と同義の言い換えの表現であり,STMは職務主義を前提にしていると考えるべきであろう。厳密な職務主義とは運用が異なる日本企業の役割主義において,キーポジションの要件定義は可能であろうか。この点を詳細に検討した先行研究は乏しいと思われる。
次に,日本型人事管理の昇進・評価とSTMの関係を検討する。英語圏の諸国では従業員が職務を遂行するにあたっての特性を細かく分けて考えるが,日本では「能力」という1つのカテゴリーにまとめようとする(高橋,2008)ため,人事評価も曖昧になると考えられる。しかも,日本企業で評価される能力とは必ずしも業務上の成果に直接つながるものではない。実際には,長時間残業,職務変更,転勤を厭わず会社に尽くす態度自体などが,能力として評価されてきた側面がある(熊沢,1997)。能力がそのように評価されてきた理由としては,社員の配置や異動を重視する企業側の現実的な必要性があげられ,それゆえに評価は良く言えば柔軟,悪く言えば曖昧に運用されてきた(福井,2009)。
評価が曖昧に運用される理由としては,評価の期間の長さも関係していると考えられる。日本では幅広い専門性を有して広範な分野に取り組み,異常対応や改善を行う能力が評価されてきた。幅広い専門性を培う昇進基準は「おそい選抜」と呼ばれる。入社年を同じくする同期を母体とする競争を長い期間をかけて行う年次管理が前提である。多数の上司が評価を行うことで選抜の妥当さを高めるとともに,「おそい選抜」が継続されている期間は選抜対象群の動機づけは維持される(小池,1981,1991)。換言すれば「おそい選抜」とは,新卒採用された社員の大多数が幹部候補者であることを意味し,それこそが日本型人事管理の最大の特徴であるという指摘もある(海老原,2013)。
「おそい選抜」が日本型人事管理における能力開発の基盤として機能していたことに疑いはないが,それゆえに日本企業においては短期間における人事評価への関心が低くなるとも指摘できよう。短期間における人事評価への関心が低いことで,日本においては職務遂行能力を明らかにするための厳密な職務調査は軽視されることになり(福井,2009),過去,日経連が職務給の導入を意図しても企業は職能給を支持した(濱口,2013)。こうした日本の昇進・評価のあり方は,長期間かけて生き残った者こそが経営幹部であるという「適者生存」(柿沼,2015; McCall, 1998)の原理を示していると言えよう。他方,STMでは,キーポジションを要件定義し,求める人材像を決定し,それらに合致したタレントを選抜し,「一部の社員に注力」する。つまり「おそい選抜」による「適者生存」とは異なる昇進・評価原理で運用されている。しかし,異なる昇進・評価原理で運用される日本型人事管理に対してSTMを導入した場合に発生する課題について着目した先行研究も乏しいと考えられる。
なお,ここまで述べてきたSHRMの理論と日本的人事管理の理論の比較は,表2のようにまとめることができよう。
実務的にTMという概念の必要性が高まる中,SHRM論の流れを汲み理論的枠組みを提示したSTMの登場は画期的であったと言えよう。しかしSTMに関する堅牢な実証分析が不十分であった(Collings and Mellahi, 2009)にもかかわらず,その後STMは,主にGTMの理論化という文脈で研究されることになった。その理由としては,新興国などのTMの重要性があげられ,STMは業界,国の境界を越えるより広範囲な(すなわちGTMにつながる)文脈で再解釈すべきだとされた(Ariss et al., 2014)。実際に,アジア太平洋地域のTMの課題は,世界経済において中国とインドのような新興国が急成長する中で,タレントの供給がその成長に追いつかないリスクであると指摘されている(McDonnell, Collings and Burgess, 2012)。
もちろん,STMの理論的枠組みを包含したうえで,新興国などのタレントの不足に対処するためGTMの理論が精緻化されていくことは重要であろう。しかし,同時にコンフィギュレーショナル・アプローチを実現するSTMのメカニズムを実証し,理論を精緻化する視点が求められよう。管見の限り,STMのメカニズムそのものの詳細を実証した研究は乏しい。そこで本研究では,探索的にリサーチクエスチョン(以下,RQ)を設定し,その詳細を明らかにしていく。
第1のリサーチクエスチョンは,負荷の大きいSTMのメカニズムが機能する条件に関わるものである。STMにおける「キーポジションの要件定義,人材像の決定,タレントプールにおける選抜,育成,登用」を実現する企業の負荷は大きいと考えられる。たとえばTMの遂行は経営陣と人事部門の協働作業であると指摘されるが(Chuai, Preece and Iles, 2008; Minbaeva and Collings, 2013),経営陣は具体的にはどのように関わっているのであろうか。STMのメカニズムについて,企業がどのような条件を満たせば機能するのか,実証的に解明する意義は大きい。ただし,STMのメカニズムは職務主義を前提としているため,職務主義を採用している企業における検証が必要となる。そこで,次のRQを設定する。
先述のとおり,日本型人事管理においては,職務主義を一部取りいれ,能力主義と折衷した役割主義を推進している企業が存在する。しかし昇進・評価が「おそい選抜」に基づいていると,結果として「適者生存」という原理で運用されることになる。他方,STMは異なった昇進・評価の原理を有しているため,日本型人事管理を基盤とする企業にSTMを導入することは容易ではなく,さまざまな課題が存在すると想定できる。そこで次のRQを設定する。
本研究の調査は2段階にわけて行う。第1調査はRQ1の解明を目的とし,日本に展開する外資系企業を対象とする。第2調査は,RQ2の解明を目的とし,STMの導入を行っている日本型人事管理の役割主義を採用している企業を対象とする。
第1調査の対象は,日本に展開する外資系企業であって,かつ3大陸以上で展開する多国籍企業に限定した。外資系企業を対象とするのは,職務主義を採用しているからである。3大陸以上で展開する多国籍企業を対象とするのは,GTMを行う必要性が高く,GTMに包含されるSTMのメカニズムが存在する確率が高くなると考えたためである。
具体的には,表3に示す11社に,2012年12月から2014年4月にかけて,聞き取り調査および社内資料の分析を行った。11社は先述のとおり多国籍に展開する外資系企業であり,業界,業種はなるべく多様になるように選定した。聞き取りの対象者は,人事部門長またはTMの実施担当者が含まれることを必須条件とし,また人事の諸機能を把握する必要があることから,広範な機能の人事部員を含めた場合もある5。聞き取りは対面調査が含まれることを必須とするが,複数回聞き取る場合は,電話による聞き取りも併用した。11社中9社は複数回の聞き取りを実施している。たとえば,F社の場合,諸機能を担当する人事部員とのフォーカスグループでの聞き取り,人事部門長とTMの実施担当者への聞き取り,人事部門長への聞き取りで3回訪問を行い,また採用後の入社オリエンテーション6に同席した。また各社での聞き取りにおいて公表可能な資料は入手し,社外秘として公表が不可能な資料は,聞き取りの場のみで提示してもらい,その内容を記録した。その後,2015年1月から2月にかけて,後述するようにSTMを実施していないとしたH社を除く10社に,再度,聞き取り調査を実施した。これらの調査で対象とした内容は,STMの実施有無,実施の目的,キーポジションの要件定義,人材像の決定,タレントプールにおける選抜,育成,登用,STMの課題などである。
第2調査はヘルスケア業界で日本を代表する企業,L社に対して行った。L社の連結従業員数は30,000人を超え,本社は日本にあるが世界各国に研究・開発・販売拠点を有するグローバル企業である。後述するとおり,L社は日本企業として役割主義を早期に導入した先駆的企業である。また近年,経営体制の変革に伴いSTMの導入を意図している。日本企業で役割主義およびSTMの導入を連続的に行ってきた企業は限定されており,先駆的な制度変革を試みるL社についての1社の事例研究を丁寧に分析することがRQ2の解明に資すると判断した。L社においては観察調査,聞き取り調査,社内資料の分析を行った。具体的には2016年9月から10月にかけてL社に在籍する第2著者がL社内部の経営部門,事業部門,人事部門においてTMに関する観察調査,聞き取り調査,社内資料の分析を行った。その後,第1著者と第2著者が調査内容を吟味し,在籍者としてのバイアスが影響しないよう客観性の担保を行った。
分析は,聞き取りで得られた内容について,佐藤(2008)の「質的データ分析法」を参考にしつつ,聞き取り結果を多面的に反映させることとした。この手法は「①事例の分析に重点をおく,②文書セグメントがおかれている元の文字テキストの文脈を重視する,③コーディングの作業において,帰納的なアプローチだけでなく演繹的なアプローチをも積極的に活用する」(佐藤,2008,192頁)という特徴があり,観察調査,聞き取り調査,社内資料の分析という多岐にわたる事例調査の分析に適していると考えた。
STMの実施状況とキーポジションの選定状況についての分析結果を表4に示す。
11社中10社はTMを実施していると回答し,かつキーポジションの選定を行っていた。H社は,職務定義は行っているがキーポジションは選定せず,TMは行っていないと回答した。その理由は,業界が大手3社で寡占状態にあって新規参入が難しく,毎年の売上げが2~3%伸びるという安定した経営状況があり,経営会議メンバーのポジション在籍年数が最短でも7~8年と長期化しており,後継者を育成する必要性が乏しいと判断しているためであった。
10社における,社内の全ポジション数に対するキーポジションの比率は,7社が5%以下であり,最も比率の高いF社においても10〜15%と,限定された数であった。対象となっている階層は,日本法人において上位2階層,または上位3階層までであった。対象職務の選定方法には2種類の考え方がある。B社,E社,F社,J社,K社では,ある階層以上,またはある資格(グレード)以上のポジションは,すべてキーポジションに選定するという考え方を採用している。これは,対象階層または資格(グレード)は既にごく少数の重要ポジションであるから,すべてが事業戦略に直結するとみなされているためである。他方,A社,C社,D社,G社,I社の場合は,対象階層または資格(グレード)の中でも,さらに特定の職務をキーポジションとして設定していた。
事業戦略をキーポジションの要件定義と人材像に反映する具体策を分析したものが,表5である。
キーポジションを定義していた10社はすべて,キーポジションの職務定義を行っている。しかし職務定義が,そのまま事業戦略の反映につながるわけではない。E社,G社,I社,J社ではキーポジションの職務定義は行っているが,一般的な定義にとどまり,個別の事業戦略,企業文化の反映は行っていないと認識している。その理由は,たとえばI社では人事部門の能力不足,J社では事業環境が安定的でポジションの空きも少なく,キーポジションに戦略を反映させる必要性をあまり感じないことだ,としている。この4社に共通している点は,キーポジションへの事業戦略の反映に関し,経営上の優先度が低いことである。
他方,A社,B社,C社,D社,F社,K社の6社は,キーポジションに反映させるべき事業戦略を明示的に定義し,かつその要件定義のために求める人材像のつくりこみの作業を行っていた。6社では,競争環境の激化を踏まえ,キーポジションへの事業戦略の反映が喫緊の課題と認識され,経営幹部,人事部門,および事業部門が協力して時間を捻出し,事業戦略に合致したキーポジションの要件定義と人材像のつくりこみを行っていた。
たとえば,B社では事業戦略上,新規事業の拡大を最優先しているので,新規のキーポジションに事業戦略を反映させることを重視している。C社ではプロモーションとカスタマーサービスと購買という重要な3職務を横断的に経験し,その企業特殊的な販売を遂行できる技能を有することが求める人材像となる。この企業特殊的なビジネスモデルに基づく内部育成の詳細を言語化してキーポジションの要件定義を行う。またD社では,自社商品のポートフォリオと顧客のビジネスモデルを統合したコンサルティングを行う営業戦略に合致した人材像を言語化する取り組みを行っていた。さらにK社では,グローバルのトップ20〜30のキーポジションの要件を全社に公開することで戦略の方向性を社員と共有していた。
なお,この6社では,文化適合(cultural fit)と呼ばれる自社の企業文化と人材の合致を重視している。これは,職種の専門性がどんなに秀でていても,各社で個別に重視される企業文化を踏まえた行動を実現できる人材でなければ成果はだせないと各社が認識しているためである。たとえばF社では,職種の専門性より文化適合を重視すると明言している。文化適合の重視は,企業特殊性の反映と考えられよう。
STMでは,「人材像に合致したタレントのタレントプールでの選抜,育成,登用」が実施される。そこで,タレントプールの運用の詳細を分析する。10社のタレントプールの諸施策の共通要素をコード化7した内容を表6に示す。
タレントプールの対象には,キータレント(要素1)と後継候補者(要素2)の2種類がある。後継候補者は,キーポジションを担える可能性がある人材であり,1つのキーポジションに対して,複数の後継候補を選定する。後継候補者は,キーポジションを担えるまでの育成期間の長さで区分される。区分される期間の長さの設定は,各社でさまざま8である。キータレントと後継候補者に関するレビューと意思決定の場が,タレントレビュー会議(要素3)である。詳細は後述する。タレントレビュー会議で,キータレントと後継候補者の状況を可視化する仕組みがブロック図(要素4)である。ブロック図は,人材の評価基準を2軸で設定し,社内の人材の状況を可視化しようとする試みである。たとえば,それぞれの軸を3段階に分割し評価すれば,9個のブロックができる。このブロックに該当する人材をあてはめると人材の評価の分散の程度が一表で可視化され,複数の評価者で話し合うことが容易になる。ブロック図を使用し,タレントレビュー会議でキータレントと後継候補者について話し合い,その結果,要素5のIDP(Individual Development Plan: 個人別能力開発計画)を決定する。キータレントと後継候補者に対して個別に能力開発計画を立案し実行するものである。
次に,タレントプールの運用の基盤であるタレントレビュー会議について,その詳細を表7に示す。
タレントレビュー会議を行っているのは,11社中9社である。H社はSTM自体を行っておらず,B社は新規事業の拡大を優先しており,外部採用時の選考のみ重視しているため,タレントレビュー会議を行わない。実施頻度は,概ね年1回である。タレントの検討材料として人事評価情報の存在が不可欠であり,年間スケジュールとしての人事評価が終了した後の時期に実施されるため,年1回となる。参加者は,日本の社長,日本の人事,および関係部門長が参加する形態が一般的である。ただし,海外の関係者が参加する場合もある。
会議での決定内容は,選抜,育成,登用の3種類である。選抜では,後継候補者を選定し,後継できるようになるまでにどれくらいの期間を要するのかを見極める。育成では,キータレントと後継者候補の育成計画を策定する。登用では,タレントレビュー会議が人事異動,昇格などの配置計画を定め,計画を実行する際の決定権まで有する。ただし,選抜,育成,登用をすべて行う企業は6社にとどまり,3社については選抜,育成のみを行っていた。
第1調査による,RQ1の分析結果は次のとおりである。TMの実施を意図していた企業は11社中10社であった。しかしSTMのメカニズムが機能する状態で実現していたと評価できる企業は,そのうち4社のみであった。その理由は以下のとおりである。
キーポジションの要件定義と人材像の決定においては,事業戦略を反映させるために,独自のビジネスモデルと文化適合を包含する企業特殊性を埋め込んだつくりこみが行われている。しかし,明示的につくりこみのプロセスを実行しているのは6社にとどまっていた。そのうえで,キーポジションの人材像に合致したタレントを選抜するが,タレントプールで選抜,育成,登用まで行っている会社は6社にとどまる。以上の「キーポジションの企業特殊性を埋め込んだつくりこみ」と「タレントプールにおける選抜,育成,登用」の両条件に該当する会社は,A社,D社,F社,K社の4社のみであった。
この両条件を実行するには,労力を要し,十分な経営資源の投入が必要となる。たとえば,「タレントプールにおける選抜,育成,登用」を実行するには,ブロック図の活用によりキーポジションの要件定義と人材像に照らし合わせた人事評価を可視化しなければならない。同時に,タレントレビュー会議には主要な経営陣が参加し意思決定しなければならない。
つまりSTMが機能するためには,「キーポジションの企業特殊性を埋め込んだつくりこみ」,「ブロック図の活用による人事評価の可視化」,「タレントレビュー会議の意思決定への経営陣の密接な関与」という負担のかかるSTMの要素へ,経営陣,人事部門,事業部門が連続的に相当な経営資源を投入することが必要となる。そのためには経営陣がSTMを事業目標の最上位に位置づける必要性があると考えられるが,そこまでの経営判断が実行されていないため,STMのメカニズムが機能する状態で実現していた企業は4社にとどまっていたと考えられる。
職務定義されたポジションへの後継者の選抜,育成,登用という仕組みという観点では,従来型の後継者計画(Atwood, 2007)とSTMは類似しているように見えるが,経営判断が必要なほどの経営資源の投入が必要となる点において,従来型の後継者計画とSTMは本質的に異なるものと評価できよう。
ヘルスケア業界で日本を代表する企業であるL社は,30,000人を超える従業員を擁し,その拠点はグローバルに展開されている。1990年代後半時点,L社の業績は順調であったが,近い将来に主力製品の特許切れが予想されていた。またL社の業界において研究開発型のビジネスモデルをとる場合,グローバルにおいて一定の売上げを確保しないと成長が困難になると考えられていた。そこで,L社はグローバル競争に伍することを目的として,「能力」を基軸に運用してきた人事制度を,職務定義を行い職務に基づき報酬を決定する制度に変革した。L社の制度は個々の職務の厳密な定義を前提とするため職務主義と評価できるが,この時点では「おそい選抜」を基軸にする年次管理の運用が完全に払しょくされてはいなかったため,職務主義と能力主義の折衷である役割主義に転換したとみなすことが妥当であろう。1990年代後半における職務定義の考え方の導入は珍しく,L社は役割主義導入の先進企業として注目された。
その後,L社はグローバルでの一定規模を確保するため拡大の戦略を継続し,2011年にグローバル展開する大規模な同業の買収に成功した。この買収により一層のグローバル経営を求められたL社であったが,日本本社からの各国拠点の制御は必ずしも順調に進行しなかった。そこでL社は「開国モデル」9とも言える経営転換を2014年に行った。社長を含めた経営陣を海外から招聘するとともに,各事業機能の本社を日本に限定せず世界各地の最適地に設置することにしたのである。この結果,2016年現在では社長CEO直属のエグゼクティブ・チームのうち,11ポジションを外国人が占め,多くの事業の本体機能は海外に移転された。
新社長は,グローバル経営を成立させる要素としての人材の重要性に鑑み,TMを最上位の経営施策に位置づけることを宣言した。この宣言に基づき,L社は急速にSTMの導入を進めることになった。
5.2 L社のキーポジションの要件定義と人材像L社では,図1のとおり,グローバルの全社員で統一された,職務定義に基づく職務等級(グレード)が適用されている。キーポジションを明確に特定しているわけではないが,実質的には図1の役員層およびグレード5を担う人材の育成がSTMの目的とされている。ただし,職務定義は行われているので,役員層およびグレード5に存在する各職務の要件は明確に定められている。
求める人材像については,誠実を核とした4つのキーワードから構成されるイズムまたはバリューと呼ばれる行動規範が継承・尊重されており,従来は暗黙のうちにこの規範が重視されていた。しかし経営陣は「開国モデル」経営においては,イズムに基づく行動規範を基盤としつつも,急速な事業環境変化に合致したTMの行動基準を定める必要があると判断した。イズムは確かに創業の理念を反映した経営指針を述べているものの,L社の社員であれば必須要件として満たしていなければならない基本的かつ普遍的な行動規範に該当する。そのため,必須要件を満たしたうえで,さらにL社のビジネスモデルの競争優位につながる差異化された行動を測定できる基準が必要とされた。そこで,経営幹部層で特に優れた行動をとっている者にインタビューを行い,ビジネス上の競争優位につながる新たなリーダーシップ行動基準を定めた。このリーダーシップ行動基準は「戦略的思考を明示する」,「人々が行動できるように鼓舞する」など行動が具体的かつ測定しやすいように表現されている。タレントの選抜,育成,登用にはこのリーダーシップ行動基準が全面的に用いられることになった。
L社の伝統の継承という観点から,イズム自体をタレントの選抜,育成,登用に用いるべきという社内からの意見もあった。しかしながらTMを最上位の経営施策と宣言した経営陣にとっては,選抜,育成,登用の判断基準がビジネス上の競争優位に可視化できるように反映されることこそ重要であるとの判断が行われた。
5.3 タレントの選抜,育成,登用タレントは,図1のグレード1から役員層まで,各等級のそれぞれ約5%が選抜される。図2は,その際使用されるブロック図を示している。縦軸が顕在化された業績への貢献であり,横軸は「ポテンシャル」と呼ばれる潜在的な昇進可能性である。ポテンシャルは,専門性の幅が広いほど昇進可能性が高いとみなされる。縦軸,横軸のいずれも,先述の人材像(リーダーシップ行動基準)に基づく判断が行われる。またこの選抜は日本の拠点に限定されたものではなく,世界各国の拠点で全く同じ基準で実施される。選抜されたタレントについては,世界同一基準の研修体系が適用される。この研修体系には,役員が一定の時間を分担し,直接関与する。タレントの選抜,育成,登用を議論するタレントレビュー会議も,役員が直接参加し,具体的な決定を行う。そのため役員はかなりの労力をタレントに要することになるが,TMが最上位の経営施策と位置づけられているため,労力を費やすことについて役員間の意思統一がなされている。
L社ではSTMを導入していると明言しているわけではないが,キーポジション,人材像,タレントの選抜,育成,登用の状況から,本稿で定義するSTMに該当すると考えられる。ではL社が認識しているSTM導入の課題は何であろうか。ここでは2点の課題を指摘する。
第1点は,タレントとして選抜されなかった95%の社員への取り組みである。現段階でL社は選抜された約5%のタレントを集中的に育成することに注力しているため,95%の社員へのリーダーシップを育成する施策は今後の課題になっている。約5%のタレントはグレード1からも選抜されるため,若手の段階からリーダーシップの育成に差がつくことになる。L社は役割主義が実施されていたものの,「おそい選抜」に近い年次管理の運用が残っていた。急激な変化の戸惑いが社員にあることは事実であり,また会社側としても95%の層の動機づけ,育成のあり方は今後の課題として認識されている。
第2点は,タレントへの選抜において,日本人社員が選抜される比率が少ないという課題である。グローバル経営を行う企業において,適材適所の観点から特定の国籍の社員の比率が少なくなっても,必ずしも問題ではない。しかしながらL社の実態として,売上げ利益での貢献,戦略として日本での優位性をグローバル市場に訴求している点がある。また,創業の理念の反映や日本人社員の知識・技能の集積が依然として大きな役割を果たしていることは事実であり,選抜の比率が少なすぎることは課題として認識されている。
日本人社員の選抜が少ない理由は,人材像(リーダーシップ行動基準)との不適合にある。従来の選抜ではリーダーシップ行動が重視されていたわけではなく,個々の職務に定義された知識・スキルを長期に発揮した者を,「おそい選抜」にのっとり選抜していたことが実態であった。しかし人材像(リーダーシップ行動基準)により比較的短期に選抜が行われるようになってきている。人材像の基準は客観的に判定可能な要素が多く含まれるが,多くの日本人社員のキャリア開発は会社の異動命令,教育受講命令に従うことが主であり,それでは人材像の基準を満たす確率は低くなる。他方,外国人のタレント候補は,本人が主体的に設定したキャリア計画の中でそれらの基準を満たすべく,さまざまな機会(MBA取得,他業界の経験を含む転職,海外勤務など)をとらえて能力開発を行ってきた。この違いにより,現段階では,日本人社員の選抜比率が少なくなってしまっている。
5.5 第2調査の小括:RQ2の分析結果第2調査による,RQ2の分析結果は次のとおりである。L社は,そのビジネスモデルの必要性から「開国モデル」と呼ばれる経営戦略を採用,その結果STMを最上位の経営施策とした。STMにおいて,従来のTMと異なる人材像(リーダーシップ行動基準)を新たに定めた。タレントの選抜については,すべての職務等級から約5%を選抜し,選抜されたタレントを集中的に育成,登用する方針に改めた。選抜に際してはブロック図を用いて,可視化された議論を可能とした。またタレントの選抜,育成,登用には,役員層が直接,労力を費やし関与することとした。
こうした一連のSTM導入に対する課題として2点が指摘できる。第1点は選抜されなかった社員の動機づけ,育成の問題である。第2点は,日本人社員の選抜の比率が少ないことである。いずれの課題の原因も,職務要素を基本とする役割主義を採用しつつも制度運用の中に包含されていた「おそい選抜」を基軸とした年次管理から,STMの特徴である人材像を基軸とした昇進原理への移行が急激であった点に見出すことができる。
本研究の理論的意義を3点あげる。第1の意義は,「事業戦略に基づくキーポジションの要件定義を行い,要件に適合した人材像を決定し,人材像に合致したタレントをタレントプールで選抜,育成,登用するプロセス」という外部適合・内部適合を実現するSTMのメカニズムが機能する条件を明らかにしたことだ。その条件とは「キーポジションの企業特殊性を埋め込んだつくりこみ」,「ブロック図の活用による人事評価の可視化」「タレントレビュー会議の意思決定への経営幹部の密接な関与」を経営陣,人事部門,事業部門が労力をかけて実行することである。そこまでの経営資源を投入するには経営判断が必要であり,その判断がなされていないため,STMが機能する状態として実現していた会社は第1調査で4社にとどまっていた。なお大半の企業のキーポジションの比率は5%以下であり,こうした少数の比率であるからこそ,経営判断がなされるとSTMが現実的に運用される確率は高まると言える。
第2の意義は,STMに経営陣が関与する具体的なプロセスを明らかにしたことだ。第1調査において,STMを最上位の事業目標に位置づける企業は少数であることが示された。続いて第2調査において,どのようにSTMへ経営陣が関与していったのかという具体的なプロセスが図3のとおり示された。第1段階で,経営陣が自社の環境を危機的と認識し,変革の必要性を察知することが起点になる。L社の例では「開国モデル」に切り替えないとグローバル競争に伍していけないと認識されていた。次に,第2段階で経営陣が自らの判断でSTMを経営の最上位に位置づけていた。位置づけの理由は,タレントの能力発揮が競争環境の激化に対処する最も効果的な手段と認識されているからである。この位置づけがあるからこそ,次段階以降で,経営陣が自らの膨大な時間を投入することに関する意思統一が生まれる。第3段階で,経営陣が直接関与してキーポジションの要件定義と人材像の決定を行う。経営陣が直接関与するからこそ,新しい人材像へ移行することの躊躇や抵抗を乗り越えられるし,労力をかけて独自のビジネスモデルと文化適合を含めることができる。第4段階では,選抜,育成,登用に関するタレントレビューに経営陣が直接関与する。経営陣が直接関与するからこそ,選抜,育成,登用の決定が社内で権限を有することになる。
TMの遂行は経営陣と人事部門の協働作業であることは既に指摘されていたが(Chuai et al., 2008; Minbaeva and Collings, 2013),どのように経営陣が関与するのか,その詳細は明らかではなかった。これに対し本研究では経営陣が危機を察知し,かつSTMの有効性を認識して経営判断し,直接関与するというプロセスが存在することが示された。
第3の意義は,日本型人事管理の役割主義を採用している企業において,STMを導入する際の課題とその原因を明らかにしたことである。日本型人事管理の昇進・評価原理である「おそい選抜」は,STMの人材像を基準とする昇進・評価原理と葛藤が生じると考えられる。もちろんタレントとして選抜されなかった層に不満が生じることは,日本型人事管理に限らずTMにおいて普遍的な課題(Dries, 2013)である。しかし職務主義が昇進・評価原理として存在する場合,従来の職務主義ではSTMほど人材像をつくりこんでいないにせよ,職務記述に基づく人材像により昇進・評価が決定されることへの社員の理解は存在していると言える。しかし「おそい選抜」の場合は,長期にわたって年次管理に基づき昇進・評価が決定されるという原理が存在するため,社員にSTMの昇進・評価原理の理解を得ることは困難になる。
では第2調査のように,職務主義の要素を取り入れた役割主義の場合はどうであろうか。L社は役割主義を導入した先駆的な企業であったが,実際の昇進・評価原理は年次管理の要素が残る「おそい選抜」に基づいていた。そのため,選抜されなかった層の動機づけ,育成の課題,および日本人社員の選抜比率が低下するという課題が生じていた。換言すれば,役割主義が「おそい選抜」(適者生存)の原理を包含している限り,役割主義に基づく人事管理の制度体系は,STMの昇進・評価原理(適者開発)に基づく制度体系の枠組みには合致しないであろう。役割主義とSTMの昇進・評価原理の差異の詳細が本研究で明らかになったと考える。
本研究の実践的意義は,企業が役割主義とSTMを選択する際に,その昇進・評価原理の差異を認識する必要性を示したことにある。換言すれば,STMを導入する際に,企業は役割主義において尊重される原理が通用しなくなるという認識を持たねばならない。日本では,役割主義が機能する企業もあれば,STMが機能する企業もあると考えられる。業界,ビジネスモデル,競争環境,規模,企業文化,海外売上の比率など,個々の状況に応じてどちらの原理が適しているのか,企業は慎重に判断すべきであろう。
6.3 本研究の限界および今後の課題本研究ではSTMの導入を行う企業に関する共通的な特徴を明らかにできたと考える。しかし,日本型人事管理の役割主義を採用する企業が,産業,ビジネス環境,企業文化などに本研究と異なる特徴を有する時にも同様なメカニズムが存在するのか,この点についてはさらに実証していく必要があろう。また,規模の大きい多国籍企業ほどGTMを採用する確率が高かった(McDonnell et al., 2010)が,どのような環境下の企業が役割主義に適し,あるいはSTMに適するのか,この点についても検証していく必要があろう。
なお,「一部の社員に注力する」というSTMのメカニズムが,タレント以外の社員層に拡大し,「社員全員に注力する」というUlrich(2011)が指摘するTMの発展の最終段階に至る可能性はあろう。しかし,STMのメカニズムが機能する条件には経営陣の関与があった。「社員全員に注力する」場合には,経営陣の関与が,「管理職の関与」に発展する必要があろう。すなわち管理職が関与に見合う時間を費やさねばならない。そのような管理職の関与を実現するためには,STMで選抜,育成,登用されたリーダー群の役割が重要と考えられるが,その役割の詳細の解明については今後の課題としたい。
本稿の査読にあたられた匿名レフェリーの先生方および編集委員長の三輪卓己先生から,貴重なアドバイスをいただきました。記して感謝申し上げます。
筆者=石山恒貴/法政大学大学院政策創造研究科教授
山下茂樹/武田薬品工業株式会社グローバルHR タレントディベロップメント&オーガニゼーションケイパビリティ(日本)ヘッド