筆者が「労務」の分野に関わるようになったのは,以前勤務していた金融機関で人事部に配属された,入社4年目のことである。学部時代の専門は経済史で,労務管理論(人的資源管理論)はおろか,労働経済論も労働法も全く学んだことがなく,営業店からの突然の配置転換であった。それまでとはまるで勝手が違い,目の前の仕事をとりあえずこなしていく毎日であった。主担当は新卒採用であったが,それ以外の仕事もあり,とにかく学ぶことの多い日々であったことを記憶している。
金融機関に入社したころから,主な顧客である「企業」についてもっと知らなければならないという意識が働き,仕事上必要な会計学(企業財務)に加えて経営学,企業法(民法・商法など)もある程度学んではいたが,自社の経営を意識して学んでいたわけではなかった。ところが人事部の仕事は,基本的に自社で「ひと」をどう活用していくかが主な目的であって,そのために必要な知識は非常に広範囲にわたるものであった。就業規則をはじめとした社内の諸規定,それに関連する労働・社会保険などに関わる諸法令も少しずつ学んでいった。同時に,新たに自社に入ろうとする人(主に新卒学生)に対して自社の説明をしなければならないので,自社の労働条件,福利厚生制度,教育訓練制度,キャリア形成システムなどについても学ばなければならなかった。また,入社後の若手従業員と定期的に面談する制度があって面談員を担当することもあったので,自社内での「労務」をめぐる問題とその原因,対策まで考えなければならないことも多かった。
仕事のために学ぶ……この過程で主に用いたのは,いわゆる実務的な書籍・雑誌ないし業界団体やコンサルタントなどの手になる解説書・アドバイス書などであった。学術的な書籍や論文に触れることはほとんどなかった。同業を含む他社の人事担当者との交流は,若手ということもあってか全くなかった(上司は同業他社の人事担当者同士の交流に参加していたようである)。
それまで仕事の対象としてしか考えられていなかった「労務」という分野に,学問的に触れるようになったのは人事部2年目の終わりごろであった。労働諸法令の改正に伴う自社の対応を検討しなければならなかったとき,労働法や労務管理論などの専門書を読むことになった。こういった学問分野の存在は知ってはいたが,実際にそういった分野の専門書に触れることになろうとは思っていなかった。法学や経済学,経営学の基礎はある程度学んでいたのである程度は理解できたのだが,専門書を読んでいてまず感じたことは,それぞれの専門分野ごとの理論体系や論理の組み立て方,さらに言えば問題意識の違いである。もちろん,学問分野である以上,何らかの問題意識を持ち,理論や真理を追究することが目的であるということは理解できる。しかしそういった学問上の成果(あるいは考察過程)が,企業などの現場で実際に起こっている問題に直接的に対応できるとは限らない。いや対応できることの方が少ないのかもしれない。むしろ,関わりのありそうな分野をいろいろ“漁り”,直面する問題の対応に役立ちそうなものを探す必要があるのではないか,そういった感を強く持ったのである。そして,そういったことを打ち明けた上司からこう言われたのである。
「現場の問題は,学問分野ごとに起こるわけではないのだよ」
筆者はその後,勤務先の命で国内留学をすることとなり,経営学分野を中心とした研究に取り組み,職場復帰後も経営学の研究に関わり,ついには大学院に入学,現在の経営学徒への道を歩むこととなる。
ただ筆者は,経営学分野の研究者の1人としてこの分野の研究を行うとともに,「労働」「雇用」あるいは「労働社会」「働く人の心理」といった分野に興味を寄せ,そういった分野の学会・研究会にも可能な限り出席するように努めている。そして,「労務」の問題として起きることが,それぞれの学問分野でどのように捉えられ,分析・考察されているのか,そしてそういった問題の本質や解決の方向としてどんなことが考えられるのか,少しでも“知恵”を借りようとしている。
おそらく,「労務」分野は宿命的に学際性を帯びていると思えてならない。その意味で,例えば「日本労働研究雑誌」がいろいろな分野の研究者等の論考を集めて毎号の特集を構成していることや,日本労使関係研究協会の「労働政策研究会議」が経済学・法学・経営学などの分野の研究者をパネラーにしてシンポジウムを行っていることは非常に有意義なことと思う。もとより,それぞれの分野の学会はその分野の研究者が中心となるのが原則であるが,例えば日本労働法学会は非会員に対して傍聴を認めていて(傍聴費として1,000円の支払が必要),学会での議論を関心のある人々に公開しようとする姿勢が感じられる(開催地の弁護士・労働組合関係者などが多いように思える)。
日本労務学会の会員の皆さんにも,「労務」の問題の本質,とりわけ学際性を,改めて考えていただければ幸いである。
拓殖大学