2021 年 22 巻 2 号 p. 109-112
本書は,石田光男教授のご退職に際し,門下生を中心とした各執筆者が,石田教授の残された足跡を辿りながら雇用関係の多様な側面に新たな研究の道筋を見出すべく上梓されたものである。雇用研究の分野では,近年,量的調査に基づく計量分析が主流となりつつある反面,質的調査に基づく事例分析の退潮は否定しがたいように思われる。かかる学問的趨勢に鑑みても,雇用制度に関する事例の詳細な観察から枢要な研究課題を洞察し方法論として概念化してきた石田教授の研究がいかに受け継がれているのかをまとまった形で示すことは,時宜にかなうものと考える(本書 p. i)。評者(佐藤)もこの趣旨に異論はない。
雇用制度研究の地平を切り開いてきた石田教授の方法の要諦は,「対象となる事実の詳細な観察と解釈」,そして「個性に染め上げられた」記述にある。それは「平板に現象をとりとめもなく書き連ねたもの」ではなく,また「客観的事実を単になぞるだけの記述」でもない。それは「事象がなぜ記述に値する価値を持つか,拾い上げられた諸事実の相互の関連」を見通すものであり,「常識,体験的知識,理論,価値判断が総合的に織り込まれてい」ることを前提にした記述である(本書 p. ii)。
本書の各章の構成は,こうして「個性に染め上げられた」記述を方法論(第I部)の起点として,すぐれた概念構成力で演繹的な筋道を通して普遍性を獲得していく石田教授の研究の軌跡―それは労使関係(第II部 労使関係論)に始まり,人事管理(第III部 賃金論)をへて,経営管理(第IV部 仕事論)へとその射程を拡大させていくものであったが―に対応させる形で編纂されている。
上述のように,本書は4部構成である。章別構成は以下のようになっている。「第I部「雇用関係研究の方法論」」では,石田教授による雇用関係,ひいては社会科学の研究方法をめぐる総括的な検討がなされる(第1章から第3章)。またその学際的広がりを示すものとして,法理論との接合が試みられる(第4章)。第II部~第IV部は,そうした方法論に基づく事例研究を展開したものである。第II部「労使関係」では,労働組合の経営参加の仕事論的分析(第5章)や教員組織の労使関係に視野を広げた賃金論(第6章)が試みられる。第III部「人事管理」では,グローバル経営の下での賃金論の展開(第7章)に加え,女性活躍とワーク・ライフ・バランスの関係や非正規社員の正規雇用登用の可能性といった多様な視角による分析(第8章,第9章)が行われる。第IV部「経営管理」では,企業事例から組織,仕事,賃金における一体的な改革の経年的分析(第10章)がなされる他,その外国研究への展開として,アメリカ自動車産業の作業組織改革の現状(第11章),中国に進出した日系企業の品質管理問題(第12章),中国企業への経営方式の移転問題(第13章)が分析される」(本書 p. iii)。
限られた紙幅で,テーマも方法も多様な13の章からなる本書を1冊の書物として書評することは困難を極める。
そこで書評に際して,「結―引き継ぐべきもの」にある次の記述を手掛かりにしてみたい。すなわち,「序で述べられたように,近年退潮の傾向にある質的調査による制度分析として各論稿が,はたしてどの程度の水準に達しているのかは読者の判断を仰ぐ」(p.287)とある。
紙幅の制約上,第I部方法論からは第3章,第II部からは第5章,第III部からは第7章,第IV部から第11章―を取り上げ(取り上げなかった執筆者には申し訳ないが),これらがいかなる点で石田教授の方法論を受け継いでいるといえるのか,を検討してみたい。
まず,石田教授の方法論とは何か。第3章は,石田教授の方法論を,教授の文章を都度引用しながら,とくに事例の見方に着目しながら,執筆者なりの解釈を試みる形で記述される。それは「自らが鍛えぬいた「眼」でもって勘所を設定した上で新たなテーマや対象に接近する。そこで対象と自身の「眼」のズレを受け止める。新たな「眼」を養うために文献調査と実地調査を行う。この一連の歩みを日常不断に行うこと」(p.60)であり,対象の見方として,課業設定のルール(経営の方針管理⇒管理職のPDCA管理⇒職場メンバーの分業と遂行を骨子とする仕事論)と労働者の受容促進の制度(賃金制度の詳細な解明を骨子とする賃金論)に注目しながら(p.47),メンバーの「努力の集約」である「勘所」を押さえること(p.55),これが石田流の方法論である。
それでは,こうした石田流の方法論はどのように受け継がれているのだろうか。
第5章は,労働組合による経営参加の事例研究である。企業別労働組合の経営参加を,「組織の失敗」や官僚制の非効率から集合的な「システム解」へと展開するロジックにそって記述している(p.93)。すなわち,厳しい環境の中で雇用確保を第一義とする限り,計画と管理の体系である企業組織は内部的に非効率(情報伝達における機会主義や操作,むだ)を内部に抱え込む。そこで企業別組合の活動は「現場の泥水」と総称される組織の非効率と正面から向き合わざるを得なくなる。よって経営参加においても「泥水の洗い出し」や是正に向けた努力が取組の基本になる。さらに組織の非効率=「現場の泥水」への切り込みによる経営参加は,職場,部門,全社レベルで組織業績管理プロセスへと関与していく形態をとることになる」(p.110)。理論と事実との間のズレから新たな「眼」を磨きつつ,労組の取組へと接近し,仕事論を踏まえた「勘所」の把握が,記述を「個性的」なものにしているといえよう。
第7章は,「職務主義が優勢となりつつある近年のグローバル人事の潮流の中で,かつて日本企業の強みとされた能力主義の人事管理が存続しうるのか」(p.137)をトヨタの事例に基づいて考察している。2000年代以降の日本企業の人事制度改変の趨勢は,職務主義に傾斜した成果主義の人事制度であったが,「トヨタの人材制度改変のプロセスに通底するのは,時々の環境適応の努力の中に能力主義という人事理念が貫かれている点」にある。そこから執筆者は,「グローバル標準化の局面に際しても職務的な管理から適切な距離を保ち,職能資格とブロードバンド化した賃金制度に基づく柔軟性の高いグローバルな人材配置を実現した」と結論付ける(p.153)。執筆者のこれまでの研究で「鍛えられた眼」でもってトヨタの人事制度に接近するわけだが,要諦はグローバル標準化⇒担当ポストの職務評価という(半ば必然的な)プロセスとトヨタのDNAともいえる能力主義の理念との間に生じる「ズレ」を,人事担当者はどうやりくりしたのか,それへの着眼こそが「勘所」となる。その「勘所」を人事担当者の聞き取りから読み解いていく(「最初はポストから入って行って,そこから職能,能力の妥当性につなげて,そこにいる人を認定して...」(p.148)。勘所を外さない聞き取りが「平板ではない」記述を可能としているといえよう。
第11章は,GMの作業組織改革・苦闘の実態解明を試みた事例研究である。2008年のリーマンショックはデトロイト3に経営再建を迫るものだったが,執筆者の「眼」は生産性・品質向上に注がれる。「単純に考えて,作業組織改革の目的が生産現場の生産性・品質向上である以上,「改革と生産性・品質向上との具体的関連」が詳らかにされてなくてはならないはず」だ。だが,これまでの研究は「チーム・コンセプト」というコンセプトで作業組織改革を表現することでこの「勘所」を看過してきた。執筆者の「勘所」を外さない「眼」は,作業組織の概要ではなく,方針管理の精緻化・具体化のしくみ(p.230-)に注がれる(仕事論)。加えて,精緻化された管理指標が「絵にかいた餅」(p.233)とならないか,その必要性も見落としていない(賃金論)。その結果,管理指標の精緻化はたしかに進んだが,作業組織管理の要である作業長のインセンティブの欠如(査定のない賃金,内部昇進の困難)から,日本との距離は依然遠い(p.240)とされる。諸制度の「平板な記述」に終始しない「個性的な記述」というべきだろう。
すでに与えられた紙幅は尽きた。以上の各章の紹介から,執筆者がいかなる意味で石田方法論を継承しているかをコメントした。だが伝統ある雇用制度研究がいま一度息吹きを取り戻すことになるかどうかは,石田方法論を継承した執筆者=門下生が次世代研究者や学徒にどのように伝えていくかにかかっている。石田教授の「強い拘り」を咀嚼し,引き継ぎつつも,それをベースに執筆者独自の新しい作風を確立していくことが課題となるに違いない。
(評者=法政大学キャリアデザイン学部教授)