2014 Volume 30 Issue 1 Pages 1-10
有史以来、人類は様々な環境変化に適応し続けてきた。寒暖の変化、高度による気圧差、太陽光(紫外線、放射線)の有無、大気組成など、人類が適応してきた環境パラメータは多岐にわたる。しかしながら人類は宇宙に進出するにおいて、これまでとは決定的に異なる環境パラメータに直面した。それが微小重力環境である。
微小重力環境への適応過程に関する先行研究は、その多くが知覚・運動生理学に関するものである。Oman(2003)は微小重力環境下における人間の体軸の知覚研究に関する第一人者であり、ミール宇宙ステーション、スペースシャトル、国際宇宙ステーション(以下、ISS)など多岐にわたる事例研究を紹介している。彼は、微小重力環境での「逆立ち」感覚や錯視、船外活動中のバーティゴ現象などのメカニズムに関する考察を詳細に行っている。日本国内では牧野・下條・古賀(1998)が変換視に関する包括的な研究において、重力基準の問題や空間知覚との重要な関わりに関して余すところなく記述した。また古賀(2011)は視覚と重力などの異種感覚間入力がうまくいかなくなる例を挙げており、身体の上下軸(自己基準枠)と外界の上下軸(外部基準枠)とが一致しない環境が微小重力環境の特徴としている。Kanas & Manzey(2008)は宇宙心理学および宇宙精神医学の観点から、宇宙環境への適応に関わる諸問題、軌道上および地上との対人関係、将来の有人宇宙探査に向けての展望論文を発表している。Small, Oman, & Jones(2012)はスペースシャトルで飛行した宇宙飛行士に対して、空間識失調の経験の有無に関する聞き取り調査を行った。彼らは短期飛行の場合で24%、長期宇宙滞在では38%が空間識失調を経験していると報告しており、宇宙での滞在期間の長期化により空間識失調が増大し、そのことが業務に影響を与える可能性を示唆している。また宇宙分野ではないが、Gibb, Ercoline, & Scharff(2011)は空間識失調が航空機事故の大きな要因であることを統計的に明らかにし、特に空間識失調が主原因である場合の航空機事故の致死率がほぼ100%であるとしている。
微小重力環境下での人間の動作系への影響についての研究は、まず通常の重力環境でのヒトの行動の成立過程を分析し、そこから重力環境を引き算するとどのような行動が生じるかという方法で行われてきた。Ross(1974)は水中での中性浮力状態での身体の動きを、神経科学的あるいは生理学的な前庭機能以外の表層的な行動として研究した。またHoward(1982)は、ヒトの空間識と行動を重力と微小重力の両方から考察してきた希有な知覚心理学者である。
宇宙空間での宇宙飛行士の運動を画像解析する試みは、スペースシャトル時代から行われていた。たとえば宮辻・田辺・金子(2005)は、スペースシャトル船内で行われた「体操様運動」のビデオ映像から身体12点の座標をデジタイズし、2次元のDLT(Direct Linear Transformation)法で座標を算出しエネルギー消費量の解析を行っている。
このように宇宙関連の心理学的研究は、知覚心理学や生理心理学、運動生理学が主流だったが、最近になって民間資本の進出や多面的な宇宙利用の機運が高まるなか、「人類の宇宙進出」の理念と意義を、社会心理学を含む人文・社会科学的な立場から理解することが重要な命題になってきた。本研究は宇宙飛行士が自ら人文・社会科学研究に直接取り組むという、国際的にも初めての例として開始されたものである。そのため先行研究はほとんどない。ただし、微小重力環境への適応過程における基準系の喪失とその影響を扱った先駆的な研究例として、木下(2009)がある。彼は人間にとって「意味世界」と「基準系」と「動き」は三位一体、ないしは「共変動」関係にあるとし、基準系を失って相対化された宇宙における心理的・社会的・宗教的なインパクトを俯瞰した。
本研究の目的は、微小重力環境への適応過程において人々が経験する身体定位の変化が自己の意味存在に及ぼす影響を分析するとともに、それが社会的認知や対人関係、社会規範にどのような変化を促すのかを明らかにすることである。
本研究の第一段階においては、この微小重力環境への適応過程において人間がどのように身体定位を認識するのか、そのメカニズムを明らかにすることを目的としている。地球上では自己の身体定位を、目から入る視覚情報と、耳石など前庭器官から入る重力情報の2つの独立した基準系で情報処理している。そのいずれかが欠けても身体定位はうまく保たれない。閉眼して片足立ちすると体のバランスをとるのが難しくなること、波に揺られている船内で船酔いすることなどは両者の協応関係を表す好例であろう。
宇宙空間における微小重力環境下では重力情報という基準系が失われるが、この条件下でさらに意図的に閉眼した場合や照明が何らかの理由で失われた場合、宇宙飛行士は地球上では起こりえない、感覚遮断に似た独特の状態に陥る。本研究では、このときに身体の客観的な動きはどうなるか、いかにして身体定位を回復しようと試みるのかという実験を行い、実験参加者本人の内観的な報告とともに客観的な運動解析を行う。
以上の論点は知覚心理学が絡む問題であり、先行研究においてもこれまで「空間識失調」と関連づけて多くの論文が発表されてきた。しかしここで重要なのは、自己の身体定位は単に知覚心理学上の問題にとどまらず、社会規範や精神的安定感にも影響を及ぼす社会心理学上の重要な問題となることである。なぜなら木下(1993)によれば「自分が所与の空間の中で、どのような場所に、いかなる姿勢で存在するかという認識がないと自分がどのような意味存在としてあるのかがわからない」からである。
そこで研究の第二段階は、この重力基準系の喪失が、地球環境で機能してきた動作的・認知的・社会的な認識能力にどのような変容をもたらすのか、特に対人関係にいかなる変化が現れるのかを、社会心理学的観点に立脚したケース研究として行う。
たとえば自分が直立しているか、倒立しているか、座っているか、それとも寝ているかによって自己の意味存在は大きく異なるだろう。またそれだけでなく、そのような身体定位は他者に対して大きな影響を与える。ことに地球上においては、他者と自分がどのような身体定位関係にあるのかは重要な問題であり、それは他者に対する敬意、侮辱、親密性、地位関係などを示すサインともなる。
しかし宇宙の微小重力環境下では、地上では楽にとれる直立の姿勢が極めて困難であり、いわゆるface-to-face関係も、相似的に向かい合って対面することが物理的に困難となる。したがって対人関係における社会規範も自ずと変わってこざるをえないだろう。また「身分の上下関係」という言葉に象徴されるような比喩表現、あるいは物理的な安定感がもたらす安らぎ・安心感が、上下のない微小重力環境下で大きな影響を受けることが予想される。これらの影響について、実例をもとに考察を行う。
地球とは異なった宇宙の環境、特に地上では支配的であった重力情報が喪失されることが、地球環境で機能してきた動作的・認知的・社会的な認識能力にどのような変容をもたらすのか、これがリスクとしてどのように表面化するのか、その対策の方向性はあるのか、社会心理学的観点に立脚したフィールド実験と観察を通して基礎的研究を行う。
研究対象者第一段階として行われた身体定位の問題では、ISSに長期宇宙滞在中の日本人宇宙飛行士を研究対象者とした。また第二段階の研究として行われた対人関係の研究では、日本・アメリカ・ロシアの計27名(途中4回のクルー入れ替えを含めた6ヶ月間の延べ人数。最大の同時滞在者数は13名)の宇宙飛行士を研究対象とした。このうち、日本人宇宙飛行士の第22・23次長期宇宙滞在ミッションの諸元を表1に示す。
項目 | 諸元 |
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打上げ日時 | 2009年12月21日午前6時52分 |
打上げ場所 | バイコヌール宇宙基地 |
ロケット | ソユーズ-FGロケット |
宇宙船 | ソユーズTMA-17 |
搭乗員 | 野口聡一(日本) |
Timothy Creamer(アメリカ) | |
軌道高度 | 約339 km |
軌道傾斜角 | 51.6度 |
ドッキング日時 | 2009年12月23日午前7時48分 |
ISS分離日時 | 2010年6月2日午前9時04分 |
帰還日時 | 2010年6月2日午後0時25分 |
宇宙環境への適応過程における定位感の変化、認知への影響を調べるための第一段階として、地球環境で機能してきた重力基準系が失われた場合の人間の身体の動きを客観的に解析し、それを実験参加者の内観報告と照らし合わせることで複眼的に解析を進める。
地球上における身体定位の主たる基準系は重力系と視覚系であるが、微小重力下の宇宙空間において閉眼し、2つの基準系をともに失わせた場合、いかなる認知的混乱が発生するかを調べる。実際の解析対象としては、実験参加者1名がISS内部で座禅のようなポーズをとり閉眼して静止状態に入った後、身体がどのように移動しふたたび定位するかをハイビジョン撮影した映像記録を扱う。それに加えて、実験参加者自身が動作記録の際に感じた内面的要素を主観的に記述する方法をとった。一部は仮説検証型の操作、一部は思考シミュレーションで補うフィールド実験形式である。
本解析においては身体の併進運動(上下・左右・前後の移動)だけでなく回転運動(重心回りのピッチ・ヨー・ロール)、特に体幹軸(地上環境で頭から足を結ぶ線。縦軸に相当する)のぶれに注目した。そこで、身体の縦軸は、胸の中心(第2ボタン)と身体の重心位置(臍。ベルトのバックル)を結ぶ線とし、上半身横軸は両肩を結ぶ線、下半身横軸は両膝を結ぶ線とした。
実験参加者は微小重力環境下のISS船内において仮想的な瞑想状態をとるために座禅を組み、「実験参加者自身は静止していると認知した」状態で両眼を閉じ、その後の身体の運動を撮影した。実際には後に示す理由により身体は静止しておらず、実験参加者の身体の一部がISS構造体の一部に触れるまで閉眼状態の「浮遊」運動が続く様子が撮影されている。
微小重力環境での対人関係の観察2009年12月から2010年6月にわたったISSでの長期宇宙滞在では、計27名の宇宙飛行士がISSに滞在した。社会心理学の研究として個体数N=27は決して十分な数ではないが、観察期間は163日を数える。またこの間にISSで撮影された静止画は10万枚を超え、そのうちISS内での宇宙飛行士の作業風景などを撮影した静止画像は約2,600枚に及ぶ。そこでその中から対人関係、立ち位置、動作・静止姿勢に微小重力環境ならではの特徴が見られる映像を実験参加者および共同研究者が抽出し、これらの観察記録をもとに、社会心理学的観点に立脚したケース研究を行った。
通常の社会心理学研究ではこのような場合、観察の客観的な基準を設けて複数の研究者が独立に判定した後、一致度を測定して分類する方法をとる。しかし本研究の場合、宇宙空間の特質についての知識をもち、かつ社会心理学的な知識をもつ評定者を見つけることが困難であったため、やむなく実験参加者と共同研究者が可能な限り第三者的な立場をとりつつ、自らの経験と過去の研究実績に基づいて、典型例だと判断した写真を抽出していく方法を採用した。また静止画は情報量が少ないため事象の背景や経過、撮影時の状況がわからないものが多く、実験参加者からの事後説明が不可欠である。そこで、いわゆる客観的な方法をあえてとらない代わりに、それぞれの写真がなぜ典型例となるのかを共同研究者と実験参加者が綿密に議論を交わしながら解釈を行った。具体的には「上下のない世界」での対人関係の現れ、比喩的表現への影響、そして内面世界の安定感や定位感への影響を、先行研究成果や他の宇宙飛行士からのコメントも交えながら考察を行った。
画像解析には(株)ベルテック・ジャパンの協力により3次元動作自動トラッキングシステム「WINanalyze」を使用した。画像解析の手法としては、ISSからダウンリンクされた公開ビデオ映像をフレームごとに切り出し、それぞれの静止画像において実験参加者である宇宙飛行士の身体的な特徴点(頭、目、肩、ひざ、臍など)を設定した。これらの特徴点をフレームごとに自動トラッキングさせて、各点の移動距離、速度、加速度を算出した。なお使用した画像解析システムは3次元画像解析が可能であるが、ISSからダウンリンクされている画像は現時点で2次元映像しか使用できないため、必然的に運動パラメータも2次元面に投影されたものであることに注意が必要である。この投影に起因する誤差を最小にするため、解析に使用された運動映像は、身体の運動が撮影平面に対して極力平行である(つまりカメラから見て奥行き方向の移動が少ない)ものを選定している。実際に自動追尾された特徴点のトラッキングデータを図1に示す。図1に示したトラッキングデータにおける体幹軸のぶれ(両肩を結ぶ線と両膝を結ぶ線のなす角度)に着目し、その時間的変化を算出した結果を図2に示す。次に身体の重心(臍の位置と仮定)の移動速度の時間変化を図3に示す。
ISSの内部で浮遊している身体は、前述のように1カ所に静止することなく等速運動を続けるが、やがて身体の一部がISSの構造体に接触することになる。そのときの身体各部の挙動に注目して次の画像解析を行った。図4に示した運動では、ISSの床面(画面上は下になっている)で瞑想ポーズに入った実験参加者が、本人に認識されないまま閉眼後に併進・回転運動し、やがて実験参加者の右側部が画面左側の実験ラックに衝突するまでの動きを自動トラッキングしたものである。このときの身体各部の反応を見るために、各特徴点の速度変化を図5に示した。
なお、開眼した状態で座禅を組んだ場合にも(統制条件)、身体の浮遊・傾き・移動などの物理的な変化は、閉眼状態と同じように発生する。しかしその変化の様相は閉眼状態と異なって、実験参加者によって刻一刻認識されている。微小重力環境下では、重力情報が失われる分だけ、身体定位に際して視覚情報がより大きな重みをもつことが理解されよう。
微小重力環境での対人関係ISS内部での映像観察から、特に微小重力環境が対人関係、社会規範に影響を及ぼしている映像を抽出し、その特徴を整理した。まずカジュアルな対人関係が見て取れやすいと考えられる集合写真を2枚提示する。
写真1に示したISSでの食卓を見ると、天井や横壁に貼り付けてある調味料、横向きに浮いて食事している飛行士の姿など、上下のない世界ならではの食事風景が見て取れる。
この写真で司令官は中央奥の壁際に位置しており、その頭上に他の構成員が浮かんでいる。無重力環境では階級が「低い」者が「頭上」に位置していても問題にはならないのである。
写真2の集合写真では、合計13名の宇宙飛行士がほぼ同心円状に配置され、微小重力環境下で集合することの特徴が現れている。こちらも特に司令官を上に配置するという配慮は見られない。
次に、何らかの理由で、地球上での「上下がある世界」の社会規範を想起する場面も存在する例を2枚示す。
写真3はISSに停泊中のスペースシャトル「アトランティス」号の操縦席での写真である。スペースシャトルは「上下のある世界」の行動パターンを想起させる構造になっているため、宇宙飛行士はその環境特性に影響されて無意識のうちに地球上に居るかのような「座る」姿勢をとっている。
写真4は、アメリカ大統領との特別交信イベント直前の集合写真である。
この場合も地上における上下関係構造の影響を受けて、微小重力環境にはふさわしくない並び方をしている。
写真5は、宇宙飛行士が壁面に固定された寝袋に入って仮眠している状態を写した写真である。
図1において、閉眼した実験参加者は自らが静止していると認識しているが、外から見ると身体は併進運動(重心の移動)と回転運動(重心回りの回転)を複合した動きを行っている。しかし図2を見ると、両肩を結ぶ線と両膝を結ぶ線は約3度でほぼ一定、つまり平行状態を保っていることがわかる。すなわち体幹縦軸に対して横軸はぶれていない。さらに図3によれば特徴点ごとに絶対値は違うものの、移動速度は時間変化にかかわらずほぼ一定であり、重心が等速運動を行っていることが見て取れる。体幹軸のぶれがないことと、身体の重心が等速運動(加速度が極めて小さい)していることが、本人にとって安定した静止姿勢であると誤認される原因であると考えられる。
ISSの構造体に接触するときの身体各部の挙動に注目した解析は、各特徴点のトレースを観察すると、身体の重心に近いと思われるベルトバックルの動きから重心は床面からほぼ垂直、若干左に傾いた方向に等速直線運動を行っており、それに加えて反時計回りの回転運動を伴っていることがわかる。その結果、閉眼するときには構造体から十分に離れているはずだった頭部が側壁に衝突することになった。この場合実際に接触しているのは頭部であるにもかかわらず鼻、両膝、上腕、胸部などすべての部位において急激な速度変化、つまり大きな位置の移動が起こっていることがわかる。衝突した後の動きを見ると接触した部位に向けて利き手が反射的に動いており、地上で転んだときのように「手でかばう」状態になっている。つまり何かにぶつかったときの衝撃や角度から、身を守ろうとしていることが推察される。地球において獲得された「危険回避のための行動原理」が、その必要のない微小重力環境下でもしばらく把持されていることが理解されよう。
身体が動き始める原因は、完全に静止に達していない状態での残留速度、船内の循環空気の流れ、および作用・反作用に基づく壁からの反力などが考えられるが、そのことを閉眼状態である本人が認識するのは難しい。その感覚は身体の一部が壁面に接触するまで続き、何かにぶつかったときに初めて運動状態を認知することになる。主観では、ぶつかったところが瞬間的に床と感じてしまう、したがって頭がぶつかると、首が折れるのではと一瞬ヒヤリとする。これは重力下の基準系をまだ頭の中に残しているために発生する認知的な混乱かもしれない。いずれにせよ、ぶつかったところが底辺となって、そこから体幹の方向に沿った形で身体の主観的定位が行われる(そのときの衝撃や角度から身体の運動の様子が逆算的に認知されている)ところが興味深い。
以上のことからわかるように、微小重力環境下における身体の定位は極めて相対的であり、地表面での重力環境のように、「足を地に着けた」という安定した自己感覚や、それに支えられる「意味存在」としての自己認識は生まれにくい。
認知への影響一般的に「宇宙酔い」と表現される、宇宙飛行士が微小重力環境への適応過程において感じる違和感は、Space Adaptation Syndrome(SAS)という言葉で表現される適応障害である。立花(2009)によれば、生理学的には、地球上では下半身に滞留している体液(血液およびその他の体内水分)が微小重力環境下で上半身に移動し、顔のむくみ、頭重感、鼻づまりなどの症状として現れると考えられている。また石井(1998)によれば、SASはこの体液分布の変化による自律神経系、特に交感神経系の変化に加えて、重力の影響がなくなることで上下の感覚がなくなり、目からの姿勢に関する情報とミスマッチが起こり、宇宙酔いという胃部不快感、吐き気、嘔吐、動揺感などの症状が発現する。
地上においては、われわれは耳石センサーからの3軸加速度情報を得て、主に縦方向の基準軸(上下の認識、まっすぐに立っている感覚)を作り、目からの視覚情報により、縦・横方向の広がり、奥行きといった3次元情報を得る。この仮想的な3次元グリッドを、重力ベクトルという絶対的な軸に合わせてはめ込むことがわれわれの空間認識手法であるといえよう。しかし微小重力環境では、重力系の耳石センサーからは十分な情報が得られなくなり、仮想的な3次元グリッドを補正するには不十分な状態になってしまう。仮想的な3次元グリッドと、実際のISS内の構造的なグリッドとのずれが大きくなったときに空間識失調をもたらすと考えられる。この点に関しては2011年に長期宇宙滞在を行った医師出身の宇宙飛行士が、帰還後のインタビューで、宇宙滞在中は「内耳の前庭(器官)がすっかり無重力の仕様になって、ゼロ点がずれているような状態」だったと表現しており、ゼロ点補正という例を使って脳内の仮想的な3次元グリッドと物理的な外的構造とのずれを説明していた。
またISS内では地上に比べて光量が少ないので、陰影による奥行き情報が感知しにくい。さらに無彩色が多い背景色、無機質で単一的なISS内構造により、視覚から得られる基準系が非常に曖昧なものになってしまい、これに基づく混乱が生じることになる。
前庭器官からの感覚入力の欠如に関し牧野ほか(1998)によれば、生体の物理的刺激の受容機構、すなわちメカノリセプターはほとんどの場合変化点を検出したときだけ発火する細胞(ニューロン)を備えており、前庭器官の二種類の加速度リセプター、すなわち耳石(直線加速度の検知)と半規管(回転加速度の検知)も例外ではない。前者では、有毛細胞の上に乗っている平衡胞につつまれた炭酸カルシウムの集合体(小石の集まり)に加速度が生じたときだけ発火して、身体の立ち直り反射に繋がる運動機能へ情報を送りだす。一方、回転加速度を検知する半規管は、身体の回転に伴う半規管内のリンパ液の移動によって有毛細胞の傾斜が変化し、このときの発火が回転加速度情報を中枢に持ち上げている。この半規管内のリンパ液の移動は回転加速度が生じている間だけ生じるため、定速回転になってリンパ液が身体と同じ方向に回転するようになると有毛細胞は発火はしない。したがって定速回転中は半規管は回転情報を中枢に送出することはない。
上記のようなメカノリセプターの働きを基本に考えると、身体に初速を与えた後の定速の直線運動、あるいは定速の回転運動は、基本的に前庭器官から身体の運動情報を中枢に送出することがない。したがって身体の変位を知る術は、視覚から得られる情報の変化や身体の運動に伴って生じる皮膚表面の変化(具体的には空気圧(風圧)や温度変化など)しかなくなる。ところが本実験の対象者は閉眼条件なので視覚から得られる情報はなく、また非常にゆっくりした身体の変位なので皮膚にあたる空気の変化も少なく、自分の身体の変位を認知するための外界情報がほとんどない。それが「静止している」という感覚に繋がるが、壁にぶつかるという動きや皮膚感覚によって、自己の身体の変位が覚醒されることになる。
ここで重要なのがいわゆる「体性感覚」であろう。体性感覚とは触覚、温覚、痛覚などの皮膚感覚と、自己受容感覚を併せた感覚である(乾・小川,2010)。この自己受容感覚は体肢などの位置、運動、力などの情報を伝えるもので、身体のイメージにとって最も重要な感覚であることが知られている。
地球上においてはこの自己受容感覚と視覚の結合によって自己の身体を制御しているわけであるが、微小重力環境下でさらに閉眼により視覚を喪失させた場合には、この体性感覚を中心として身体イメージを作らざるをえないことになる。地球と宇宙という環境の変化に応じて、基準系が巧みに使い分けられるといえよう。
なお、先に述べた空間識失調は、船外活動中の宇宙飛行士にも起こることがある。船外活動中は、宇宙服のヘルメットの構造上、また通信用ヘッドセットの配線上、首の動きが制限され、結果として極めて視野が限られている。特に地上が夜にあたる軌道上での作業では、小さなヘッドランプを頼りに作業するため宇宙ステーションの外部構造が見えなくなり、自分が意識している身体位置と実際の宇宙ステーションとの相対位置のミスマッチを生じさせ、これが空間識失調を引き起こし方向感覚を失う原因となる。船外活動の場合は外部計器は使用できないため、たとえば同僚の飛行士からの言語での助け(右手方向に5 m進むとハッチがある、頭上30 cmに次の手すりがある、など)により、空間認識を脳内で再構築することで正常な活動を再開することができるようになる。これは、微小重力環境下では前庭器官からの入力による基準系(exocentric axis,外的な基準軸)は失われるが、自分の身体についての体幹軸(egocentric axis,内的な基準軸)は維持されており、この両者が乖離することこそが空間識失調の大きな原因であることが改めて示唆される。
微小重力環境での対人関係写真1で司令官は中央奥の壁際に位置しており、その頭上に他の構成員が浮かんでいる。地上の常識では司令官の頭上で下士官がリラックスすることは考えられないであろうが、無重力環境では階級が低い者が頭上に位置していても問題にはならない。これは微小重力環境が生み出した新しい社会規範といえる。そのことが象徴的に現れているのが写真2の集合写真で、合計13名の宇宙飛行士がほぼ同心円状に配置され、まさに他者との関係が上下ではなく、距離で配慮されていることが見て取れる。
この写真の撮影時は、最初のうちは整列体制で写真を撮り始めたのだが、撮影が進むうちにお互いが「心地良い」と感じられる距離・位置関係に自然に移行していき、カメラのアングルに入るように無意識に位置を変えていった最終結果がこの構図である。まさしく「微小重力環境に適応した立ち位置の最適化」が行われた結果である。
だが、微小重力環境下で宇宙飛行士が、常に上で述べたような「上下のない世界」観に従って行動するわけではない。写真3はその一例である。スペースシャトルはISSと違い短期間の宇宙飛行、特に滑走路に着陸する際の心理的・身体的作業性を重視したデザインになっており、微小重力環境下では必要のない操縦席や、ある特定面だけに計器パネルを集中させるといった、「上下のある世界」の行動パターンを想起させる構造になっている。この構造に引きずられて、宇宙飛行士は無意識に地球上に居るかのように「座る」姿勢をとっている。なおこの写真で宇宙飛行士が座っているのはスペースシャトルの船長席であるが、この例に限らずISSに停泊中のスペースシャトル操縦席の記念撮影はほぼすべて船長席側で行われており、その意味でも「(身分的に)上下のある世界」を意識した行動をとっていると考えられる。
写真4は、写真1および2で見られた上下左右にこだわらない自由な位置どりとは全く違い、不自然なほど階級を意識した配列をとっている。これは大統領(米国においては文民統制の下に大統領が最高指令官として軍を統帥している)との交信というイベントに際し、地上での社会規範が想起されたものと考えられる。また整列は誰が命令したわけでもないのに自然に行われ、結果的に船長や年長者が最前列に並ぶことになった。これは大統領から見て階級が高い者を見分けやすいようにという配慮が働いたものと推測される。実際のところ宇宙空間では、身体が自然に浮き上がってしまうので地球上と同じような整列体制を保つのは困難である。このときも後列や両脇の飛行士は手すりにつかまったり後ろの壁で身体を固定したりして、「地上から見て自然な配列」を保つために、「微小重力環境下では不自然な(不必要な)努力」をしていたのである。
対人関係への影響─「上下関係」のない世界─ISS内部では微小重力環境のために身体の定位、ことに上下関係の認識が困難になることを述べてきたが、これは単に知覚的認識のレベルにとどまらず、社会的認識レベルにも大きな影響を及ぼす。すなわち、地球上で空間的広がりを表す言葉として「上下」「左右」「奥行き」があるが、地球上では上下と左右では意味づけが異なるのが普通である。水平展開、つまり重力の影響を受けない左右や奥行きと違い、重力ベクトルに逆らう上下の動きはそのまま社会的構造の位置づけに繋がる。そもそも身分の上下関係、あるいは上級・下級という言葉に象徴されるように、重力ベクトルに逆らって進むことは高い地位、他者より優位であることを意味する。しかしながら微小重力環境下では上下、左右、前後は全く等価であり、他者との関係は全てお互いの距離と質量のみで定義される。17世紀以来の二体問題で扱われてきた、いわば古典力学がそのまま適用されるシンプルな関係といえよう。
このことを、国際宇宙ステーションでの長期滞在経験から内観報告的に例示してみる。宇宙ステーション乗組員においても地上と同様、指導的立場をとる司令官(コマンダー)が存在する。業務上は指揮系統が存在し、司令官から他の飛行士への業務命令がなされる(命令が“下される”)ことはあるが、身体定位としてはほぼ例外なく正対して(つまり同じ目線でのコミュニケーション)行われる。前述したとおり、微小重力環境下では司令官の頭上に他の構成員が浮いていても問題にはならないのである。このような環境では、「高い位置」の優位性や「落ちる」ことの劣等感は意味をなさなくなる。これはすでに述べた動作系、特に移動することの意味と相まって、高い位置に登ることや遠くに移動することの困難さ、それに起因する優位性の消失に繋がる。さらには、目上の者が高い所に位置する、必要ないものが下に置かれるといった社会規範にも影響を与えることになる。
一方で、スペースシャトルの操縦席や大統領との交信イベントのように、「地上の規範がよみがえる」事例も存在する。ということは、宇宙飛行士は微小重力環境への適応過程を通じて宇宙での新しい基準系ないし社会規範を形作っていくものの、必要に応じて地球上で慣れ親しんだ旧来の基準系ないし社会規範に回帰することも可能であることを示している。つまり宇宙滞在時における環境に合わせた新しい社会規範と、脳の中にまだ染みついている地球上の古い社会規範との使い分け、ないしは葛藤である。
これはわれわれが地球上で外国旅行をした場合に遭遇する、ルールや言葉の使い分けの問題と共通する。「郷に入っては郷に従え」の諺通り、母国での社会規範とは別に旅先での社会規範を身に着けて、ときには葛藤を経験しながら旅行した経験をもつ者も多いであろう。海外生活が長かった帰国子女が、まるでTVのチャンネルを切り替えるように使用言語を自在に切り替えるさまを「バイリンガル」と呼ぶように、重力環境が変わってもすぐに対応できるような「バイ重力系」、あるいは「バイ基準系」と呼ぶべき能力が、現時点での宇宙空間滞在者には求められるのかもしれない。もし将来、人類が宇宙生まれ、宇宙育ちの本物の「宇宙人」となれば、旧来の基準系にしばられない新しい社会規範が発生し、このような「基準系間の葛藤」を経験せずに済む時代がやってくる可能性があるだろう。
なお、この研究はあくまで1回の長期宇宙滞在におけるケース研究であることを断っておくが、6ヶ月の滞在中合計4回のクルー入れ替えがあり、国籍・年齢構成もその度に変わる中で、かなりの再現性が見られたことも付記しておきたい。
比喩的表現への影響「上下」関係が意味をもたない環境では、地上で説得力のある比喩的表現も必然的に影響を受ける。身分が高い、出世の階段を登る、といった日常使う表現にも重力ベクトルが無意識に使われており、「高い所に上がる=努力が必要=優位性、有能性」という比喩が成り立っているからこそ使える表現である。また、逆に上下方向に動かない様子、たとえば「地に足をつける」とか「大地に根を張る」ことは物理的、精神的に安定していることを比喩的に表現しているといえよう。もっとも「高い」位置に「偉さ」を感じるのは、たとえば木下(2009)によれば「霊峰に神が宿る」というような素朴な信仰心や、「人を指導する立場にいるものは高い所から全体を俯瞰して統制する」という実務的な便宜性によることも多いと考えられる。とすれば重力は実務面よりも、イメージやシンボルに影響を与える影響がより大きいのかもしれない。「タテ社会」や「横並び志向」など、階級への配慮が強い日本人社会特有の比喩的表現が微小重力環境下でどう変化するか、今後の研究が待たれる。
身体的安定感と精神的安らぎ地上においては、重力に対して物理的に安定する姿勢をとることが身体的安定感をもたらし、それが間接的に精神的安定感をもたらしているとされている。地上での基準系、すなわち重力ベクトルに対して安定していることが、そのまま精神的安定感に繋がっているわけである。たとえば中川(2009)によれば座禅や入丈など、多くの宗教で身体を二等辺三角形にとる修行法があるが、これも基準系である重力ベクトルを元にしているといえよう。中川の言葉を借りれば、「仏像は重力ベクトルに対して前傾姿勢をとって」おり、これは「インドのヨーガの姿勢と同じで、一番安心感をもちうる姿勢」である。つまり「重力の中でどのようにして安定感を得られるかという前提が満たされた中で、悟りが成就される」ことが暗黙の前提となっていたからであり、身体の物理的安定が精神的安定、安心感に直接繋がっているといえよう。
では微小重力環境である宇宙空間において、人間はどのように身体の物理的安定、精神的安定を得ることができるのであろうか。実際にISSで何度か座禅のポーズを組んだ経験からいえば、足を組むのは上腕で常に下肢を引き寄せる努力が必要になり、座禅ポーズそのものは精神的な安らぎには繋がらない。また、動作解析で明らかなように、周囲の構造物と全く接点がない状態は不安定な動きをもたらすため、その物理的な不安定さが心理的な不安定感に繋がっているともいえよう。
ただし基準系を失った状態で瞑想は不可能かといわれるとそうでもない。上下左右の相対情報がない環境、さらに五感の情報がない状況でも、何らかの形で物理的な安定が示唆された状態で精神的安定がもたらされることはある。たとえば写真5は宇宙飛行士が側壁の寝袋に入って仮眠中の珍しい風景であるが、空間にぽつんと浮いているのではなく、寝袋による軽い拘束感があるほうが安眠に繋がるという意見は宇宙飛行士からよく聞かれる。拘束ということが、この場合は身体定位の基準系になるのかもしれない。
また眼下にダイナミックに変化する地球を俯瞰するという行為が精神的な安らぎをもたらすことは、筆者を含め多くの宇宙飛行士が異口同音に発する感想である(Vakoch, 2011)。地球を「愛でる」という経験は単純に景色としての美しさだけでなく、目の前に地球という存在を相対化できることで、人間社会と繋がっていると感じられる安心感をもたらすといえるだろう。もしそうだとすると、地球が見えなくなる深宇宙においては安心感はどうなるのであろうか。
もし基準系が変化しても、新しい基準系に対応して精神的安定を得ることができるとしたら、それは基準系が絶対的なものではなく相対的なものであることを意味する。そうだとすれば基準系の相対化は人々の宗教観にも影響を与える可能性が高く、特に価値の絶対化の上に立つ一神教への影響は大きいと考えられる(木下,2009)。またLeonov & Scott(2006)によれば人類が初めて宇宙に進出した1960年代には、宗教的な保守層を中心に「宇宙に神は居るのか?」あるいは「宇宙飛行士は神を見たのか?」という宗教的論争を巻き起こしたという。さらに立花(1983)によれば、アメリカがソ連との宇宙飛行競争に熱をあげた背景には、大国同士の国威発揚競争もさることながら「ソ連との競争に勝つことで、キリスト教文化の無神論文化に対する優位性を示さねばならなかった」ことも挙げられている。
実際に宇宙空間に出た者として、有神論者か無神論者かにかかわらず、絶対的な基準系の1つである重力情報を失う影響は極めて大きいと考える。地上に居る間はいろいろな意味で地表面、そして重力ベクトルの存在は普遍的であり、それが価値観の基準になっている。しかしながら宇宙空間にいくと重力系のみならず国家や民族の存在そのものも相対化されてしまい、価値の基準系も変化してしまう。しかしながら相対化された価値観ないし基準系においても、宇宙飛行士は短期間のうちに新しい視座を得て新しい価値観を築き上げていく。宇宙空間における重力基準系の変化がヒトに与える影響を理解することで、地球上に暮らす人間も新しい視座を手に入れることができるのではないだろうか。
本論文の執筆にあたり、古賀一男先生(京都ノートルダム女子大学)、大畑寿夫先生(株式会社ベルテック・ジャパン)にたいへんお世話になりました。記して感謝いたします。
本研究は公益財団法人村田学術振興財団による研究助成を受けた。
本研究の一部は日本社会心理学会第53回大会で発表された。