2022 Volume 38 Issue 2 Pages 43-44
本書は、人類が大集団で協力関係を構築できるようになった由来を、宗教、とくにビッグ・ゴッドの観点から解明しようとした野心作である。
血縁関係がない大集団で協力しあえるのは生物のなかでも人類だけである。大集団での協力により、広範囲の交易や複雑な分業が可能になり、人類は高度な文明をつくることができた。だが、大集団での協力は自明のことではない。ただ乗り問題があるからである。大集団では血縁による協力は有効にならない。罰の執行による非協力抑制も難しい(2次の社会的ジレンマなどを考えればよい)。匿名性が高いと評判による非協力抑制もうまくはたらかない。ところが、人類は大集団においてもただ乗りをある程度は抑制し、多岐にわたる協力関係を構築してきた。こんな奇跡を実現できたのはどうしてなのか。これは人類の本質に迫る問いである。
この問いに、ビッグ・ゴッドなる概念を駆使して挑んだのが本書である。ビッグ・ゴッドとは、一人一人が道徳的行動をしているかどうか、四六時中、監視している全知全能の神のことである。反道徳的行動をしたり信頼を裏切ったりした者には、怒れるビッグ・ゴッドがおそろしい天罰をくだす。聖書の神はビッグ・ゴッドの例であるという。ビッグ・ゴッド信仰により大集団での協力が実現した——これが本書の核心をなす主張である。
社会心理学研究誌の読者は、眼の写真やイラストが協力行動を促進するとの実験知見をご存じだろう。世界各地の宗教的な建物・彫刻・絵画に神の眼が描かれている。その写真が本書33頁にあるのだが、これを見るとゾっとする。「監視されている」という感覚がひどく掻き立てられるのである。それにくらべると実験で用いられている眼のイラストなどたわいない。こんなわけでビッグ・ゴッド仮説にはなんだか妙な説得力を感じてしまう。
本書は、社会科学・認知科学・進化生物学・人類学・考古学などの最新知見を総動員し、ビッグ・ゴッドが出現した歴史と論理を以下のように描いている。人類は進化の過程で高度な認知能力を身につけ、その副産物としてさまざまな事物に心を感受したり、超越的存在を表象したりすることができるようになった。いわゆるメンタライジングの能力であり、心の理論にも通じる。生物的進化により獲得した高い認知能力が宗教を可能にした。そして完新世に入った1万年前頃、人類が小集団狩猟採集を脱して大集団をつくるようになったのと期を一にしてビッグ・ゴッドをもつ宗教が出現した。ビッグ・ゴッドを信仰する人々は、大集団をつくって協力しあえるので、外集団との競争・対立・戦争に打ち勝ち、さらに文化的学習バイアスもあいまってビッグ・ゴッド信仰を急速伝播させていった。大集団協力とビッグ・ゴッドが手を携えて文化的進化を果たしたというわけである。全体としてみれば、生物的進化と文化的進化の論理を巧みに組み合わせて、大集団協力とビッグ・ゴッドの出現を説明しているといえよう。
如上の構図には壮大な歴史ドラマのごとき面白さがあるのだが、あまりにも壮大すぎて正しいのかどうかよくわからない。近年、本書著者らが世界各地で実験や調査をおこない、ビッグ・ゴッドと大集団協力との関連を支持する知見を報告していることだけここでは記しておく(e.g. Purzycki et al., 2016)。
本書は心理学実験の知見もたくさん紹介している。その一つに、宗教に関連する刺激が協力行動を促進するというものがある。これは信仰者のみならず無信仰者でも起こるという。個人の宗教性よりも宗教が顕現している状況が協力行動の主動因なのであり、著者は「宗教は人よりも状況のなかにある」と書いている。ただし、無意識的な宗教プライミングに無信仰者は反応しなかったり、サンプルがWEIRDであるか否かにより結果が違ったりするなど、研究結果は錯綜している。このあたりの詳細に関心がある方は、直接、本書にあたっていただきたい。
ほかにも無神論者への不信と偏見を示した実験など、たくさんの実証的知見を本書は論じているのだが、内容紹介はこれくらいにして、ここからは評者の意見を述べていく。
本書を読むと数々の疑念を抱かずにはいられない。もっとも気になるのは、ビッグ・ゴッド、すなわち一人一人が道徳的行動をしているかどうか監視している全知全能の神である。小集団生活をする狩猟採集民にも宗教はあるが、狩猟採集民の神々や精霊はビッグ・ゴッドではない。ビッグ・ゴッドは大集団とともに出現した神、大集団のための神なのである。本書によれば、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教といった世界宗教はビッグ・ゴッドをもつ。
評者の疑念はここである。仏教は本当にビッグ・ゴッドをもつのだろうか。インド初期仏教は出家修行によって解脱を目指すものであり、ビッグ・ゴッドをもっていたとは言い難い。仏教は、その後、さまざまに分派・変容していったわけだが、では私たちが親しんでいる大乗仏教はビッグ・ゴッドをもつのか。法然や親鸞は悪人正機説「悪人こそ救われる」を唱えた——悪行をしてしまうダメな私を限りない慈悲をもつ阿弥陀仏は憐れにおもい救ってくださる、かくなるうえは阿弥陀仏にひたすらすがろう——。阿弥陀仏は悪人を罰するのではなく救うというのである。これではビッグ・ゴッドと正反対ではないか!
仏教を全体としてみれば、善行を勧め悪行を否定している。仏教には因果応報や自業自得といった観念もある。これらをビッグ・ゴッド信仰と呼んでよいのか。悪行と報いの観念さえあればビッグ・ゴッド信仰といえるのなら、ビッグ・ゴッドはよくある通俗信念にすぎない。悪行と報いの観念が社会秩序維持に役立つという機能論は、昔からある古典的学説である。これは、ビッグ・ゴッドという派手な概念をつかって今さら言い立てるほどのものではなかろう。
書評であることに免じて根拠なき実感を述べさせてもらうと、ビッグ・ゴッド観念をもつ仏教徒もいるだろうが(地獄説話を信じきっている人はそうかもしれない)、ほとんどの仏教徒はビッグ・ゴッド観念をもたない気がする。私の祖母は、いつもナンマイダー、ナンマイダーと念仏し、葬式では「極楽に行けよ」と棺に声をかけていた。祖母は超自然的な監視・罰にビビっていたのではなく、ひたすらアミダサマの慈悲にすがっていたのだと思うが…。ついでにいうと本書が紹介する実験研究によれば、慈悲深い神の信仰よりも、おそろしい神の信仰の方が悪行を抑制する。歎異抄ファンの評者が悪行をしでかすのも致し方ないというべきか!?本書は古代中国にもビッグ・ゴッドがあったという立場だが、このあたりは専門家のあいだでも意見が分かれるという。評者は古代中国におけるビッグ・ゴッドの存在に懐疑的である。
ようするに評者の疑念はこうである——本書は、世界各地の宗教、とりわけ世界宗教はビッグ・ゴッドをもつというのだが、本当のところはキリスト教やイスラム教(本書のいうアブラハムの宗教)を念頭においた偏った議論を展開しているのではないか。ビッグ・ゴッドなどなくとも大集団協力を実現してきた社会があるのではないか。
というわけで、評者は、行き過ぎたビッグ・ゴッド論には首肯しかねる。だが、本書のもう一つの柱である超自然的な監視・罰の重要性にはもろ手を挙げて賛成したい。ビッグ・ゴッドと超自然的な監視・罰は切り分けて考えたほうがよい。日本にはビッグ・ゴッドによらない超自然的な監視・罰が昔からあった。世間である(辻本,2011)。「世間の眼を気にする」「世間はこわい」「世間に詫びる」「世間に顔向けできない」といった言い回しからわかるように、世間は、眼をもつ存在、おそろしい存在、罰を加えてくる存在だと思念されている(本当は罰などないことが多いのだが。大集団では罰の執行が難しいというのが議論の前提である)。しかも世間は超越的存在なのであって、実体として存在する特定のAさんやBさんのことではない。
細かい違いはあるとしても、眼をもつ超越的存在による超自然的な監視・罰の予期という点で、世間とビッグ・ゴッドは共通している。世間による超自然的な監視・罰もあるのであって、超自然的な監視・罰はビッグ・ゴッドに固有だと考えるべき論理的必然性はない。
ビッグ・ゴッドと世間を統一的に捉えて理論化するには、規範理論に立ち入らねばならない。現象主義的にいうと、規範(○○すべきである、××すべきではない)は見たり触ったりできない何かとして現前してくる。また特定の誰かが恣意的に定めたものではなく、いつからともなくあって妥当な行動を指定する何かとして現前してくる。つまり規範は超越的存在なのである。ただし、規範そのものに監視をしたり罰を下したりする力はない。「○○すべき」という規範があったとしても、人々がその規範に従うとは限らない。監視や罰が(本当はないのに)あると信じさせて人々を規範に従わせるカラクリが超自然的な監視・罰である。評者のみるところ、理論の本筋は〈規範–超自然的な監視・罰–ただ乗り抑制〉の普遍的原理にある。この普遍的原理が、ある地域ではビッグ・ゴッドとして表象され、別の地域では世間として表象される。理論の本筋はあくまで普遍的原理なのであって、各文化固有の表象(神、世間、祖霊…)は枝葉にすぎない。
ここまで難癖めいたことを書きつらねてきたが、評者は本書を低く評価しているのではない。とても高く評価しているのである。三流の研究には反応しない。二流の研究には惜しみない賛辞を贈る。一流の研究には知的興奮を掻き立てられ論争を挑みたくなる。本書は間違いなく一流の研究である。社会心理学研究誌の書評はたいてい1頁だが、年甲斐もなくエキサイトして2頁も書いてしまった所以である。
最後に翻訳にあたられた先生方に深甚なる敬意を表したい。本書には世界各地の宗教への言及があって、特殊な用語や固有名詞がやたら多い。それらを翻訳していくのは大変な作業であったと推察する。なにより驚嘆するのは、訳注がとても親切で行き届いていることである。複雑な実験手続きや難解な論理展開には手際よい補足説明を加え、再現性が疑われる実験に対する注意喚起までしてくれる。よくもまあここまで調べたなという見事な訳注なのである。
翻訳は労多くして報われるところが少ない。だけれど評者をふくめ多くの人々が本書から刺激を受け、研究を一層発展させていくだろう。本書を翻訳された先生方は、率先垂範、大集団における協力を遂行されたのである。先生方はビッグ・ゴッドをおもちなのかしら。