2023 Volume 39 Issue 2 Pages 107-140
This paper discusses “indirect resistance” to authorities who commit inhumane acts. There are two ways to resist authority, namely, direct resistance and indirect resistance. Direct resistance is an act of confronting those in power who commit inhumane acts at the risk of incurring penalties. Indirect resistance, on the other hand, is action to undermine the inhumane acts of those in power without taking the risk of incurring penalties. To date, few studies in social psychology have focused on the topic of indirect resistance. This paper comprises case studies of acts of indirect resistance that arose in extreme situations such as war, massacre, and tyranny. Based on the findings, we examine the effectivity and limitations of indirect resistance and the complementary relationship between indirect resistance and direct resistance.
アジア各地の民衆が民主化運動に立ち上がり、これに対して国家権力が容赦ない弾圧をくわえている。世界各地で覇権主義国家が民衆を犠牲にして戦争をおこなっている。こうした事態をあなたは他人事のように眺め、何もしないのか——と、まあこんなふうに問われたら、少なからぬ人が怒って「じゃあ、おまえは何ができているんだ」と問い返すだろう。私の答えは「お上にたてつくなんてこわくてできません」というなんともなさけないものである。いやはやどうしたものか。
本稿は、非人道的行為をおこなう権力者に対する間接的抵抗を論じるものである。権力者に抵抗する方法には直接的抵抗と間接的抵抗の二つがある。これらは本稿が新たに提起する概念である。新しい概念によって、これまで看過・軽視されてきた抵抗形態——間接的抵抗——に光をあてることが本稿のねらいである。
直接的抵抗と間接的抵抗直接的抵抗と間接的抵抗の精密な概念規定は第5節でおこなうことにして、ここではそれぞれの簡潔な定義をあたえておく。直接的抵抗とは、非人道的行為をおこなう権力者と、処罰を被りうるかたちで対決する行動である。抗議デモ、ストライキ、民衆蜂起、テロルがその例である。直接的抵抗をすると、社会的排斥などの不利な処遇、逮捕や投獄、場合によっては拷問や殺害といった処罰を被る。間接的抵抗とは、処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動である。なお、本稿では抵抗行動をとらないことを無抵抗と呼ぶ。図1に本稿の用語系を示す。
無味乾燥な定義を読まされても、間接的抵抗がいかなるものか、読者は把握できないと思われる。間接的抵抗の具体的イメージをつかむのに役立つ題材を提示する。
スタインベックの『月は沈みぬ』(Steinbeck, 1942 須山訳 1969)は、独裁国に侵略された小さな町の抵抗を描いた小説である。ナチ占領下の北欧から想を得たものといわれ、訳者解説によれば、ナチ占領下でレジスタンスをしていた人々に広く読まれたという。小説のなかで、小さな町はあっという間に占領されてしまうが、町の人々はしたたかな抵抗をみせる。その一部に間接的抵抗がある。独裁国は町が産出する石炭を得るために侵略したのだが、坑夫はのろのろ働きへまばかりする。機械が故障し修理に長い時間がかかる。侵略軍の内部情報がなぜか漏洩する。住民の笑い声に惹かれて侵略軍兵士が近寄っていくと、笑い声はとだえ、人々は冷たく従順になる。温かい料理の匂いに惹かれて兵士がレストランに入ると、出てくる料理は塩や胡椒がききすぎている。こうして兵士は精神をすり減らしていく。とうとう軍人が叫ぶ——「町が征服されたのに、われわれは恐れています。町が征服されたのに、われわれは包囲されています」(p. 103)。
つぎに、ミルグラムの服従実験をとりあげる。ミルグラムの服従実験は、非人道的命令を下す権威者に服従してしまう人間、および権威者の命令を公然と拒否する人間(=直接的抵抗者)がいることを示した——これが従来の定説である。だがミルグラムの服従実験には、わずかではあるものの、間接的抵抗をした被験者がいた。権威者に服従するふりをしながらバレないように正答を生徒役に伝えようとした被験者、電撃を強めているふりをしながら弱い電撃ボタンを押しつづけた被験者である(Milgram, 1965, p. 66, 2009, p. 62, pp. 159–160)。こうしたごまかし行動(ミルグラムはsubterfugeと表記している)は間接的抵抗にあたる。ミルグラムの服従実験を論じた文献は膨大な数にのぼるが、管見の範囲では、ごまかし行動に言及しているのはRochat & Modigliani(2000)だけである。ただしRochat & Modigliani(2000)に間接的抵抗という観点はない。
以上、間接的抵抗のイメージをつかむのに役立つ題材を提示してみた。間接的抵抗にはさまざまな形態がある。ミルグラムの服従実験におけるごまかし行動は、非人道的行為を権力者が人物Aに命じ、人物Aが面従腹背行動をとるという形態である。非人道的行為を権力者が人物Bにおこない、それを人物Aが処罰を被らないかたちで妨害するという間接的抵抗形態もある。非人道的行為(e.g., 侵略戦争の遂行)のための人員動員を権力者がかけているときに、権力者の支配圏から処罰を被らないかたちで離脱するという間接的抵抗形態もある(これにより人員動員が骨抜きにされる)。ほかにもさまざまな形態の間接的抵抗がある。
『社会心理学研究』誌の読者は、ミルグラムの服従実験に精通しているがゆえに、ミルグラムの服従実験の枠組みに間接的抵抗を回収しようとするかもしれない。そうすると多様な間接的抵抗のほんの一部しかとらえられなくなる。本稿は、ミルグラム以来の服従研究の路線上にあるものではない。
定義の運用冒頭で提示した定義は、主観ではなく行動に着目したものであることにくれぐれも注意されたい。定義文において「処罰を被らないかたちで」は「行動」を修飾している。「処罰を被らないかたちで……する行動」という文言は、行動に言及しているのであって、主観に言及するものではない。定義を「権力者の非人道的行為を骨抜きにする、処罰を被らないかたちの行動」と言い換えてもよい。
この定義のもとでは、主観ではなく行動に着目して間接的抵抗か否か判定することになる。この点をきちんと理解しないと本稿が理解不能になるので、定義の運用についてかみくだいて説明する。
第1に、判定の対象となる人物が「権力者と闘う」という意図をもっていることは間接的抵抗の必要条件ではない。たとえば、ある人物が主観のうえでは権力者に忠誠を誓っていても、意図せずして、処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動をとっているなら、この人物は間接的抵抗をしていることになる。もちろん、ある人物が「権力者と闘う」という意図をもち、処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動をとっている場合も、この人物は間接的抵抗をしていることになる。
第2に、判定の対象となる人物が「処罰を被りたくない」という動機をもっていることは間接的抵抗の必要条件ではない。たとえば、ある人物が主観のうえで「処罰を被りたくない」との動機をもっていないとしても、処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動をとっているなら、この人物は間接的抵抗をしていることになる。もちろん、ある人物が「処罰を被りたくない」との動機をもち、処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動をとっている場合も、この人物は間接的抵抗をしていることになる。
第3に、判定の対象となる人物が「この行動をとっても処罰を被らないだろう」と予測していることは間接的抵抗の必要条件ではない。たとえば、ある人物が主観のうえで「この行動をとっても処罰を被らないだろう」との予測をもっていないとしても、処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動をとっているなら、この人物は間接的抵抗をしていることになる。もちろん、ある人物が「この行動をとっても処罰を被らないだろう」と予測し、処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動をとっている場合も、この人物は間接的抵抗をしていることになる2)。
主観ではなく行動に着目して間接的抵抗か否か判定するという方針は、意図や動機といった構成概念を重視する一部の社会心理学者にとって承服しがたいものかもしれない。主観ではなく行動に着目して判定する理由を述べる。抵抗研究においては、非人道的行為をおこなう権力者に対して抵抗行動をとっているか否かが重要論点なのであって、主観のうえで何を考えているかは副次的論点にすぎない。いくら主観のうえで「権力者の非人道的行為を許せない」との考えや「権力者を打倒する」との意図をもっていたとしても、権力者に完全に服従する行動をとっているのなら、権力者に打撃をあたえられない。よって、間接的抵抗か否か判定するさいには——すなわち分析対象を同定するさいには——行動に着目しなければならない。
また、主観ではなく行動に着目して間接的抵抗か否か判定するという方針は、思想性を重視する抵抗研究家や思想路線闘争をする革命家にとって承服しがたいものかもしれない。筆者は思想性を軽んじるつもりは毛頭ない。本稿は、抵抗研究における唯一正しい分類や定義を確定しようとしているのではない。一つの試みとして新しい概念を導入し、抵抗研究の新生面を開拓したいのである。
主観ではなく行動に着目して間接的抵抗か否か判定することによって、従来の抵抗研究が看過・軽視してきた抵抗形態に光をあてること、換言すれば、巧妙に工夫した新しい概念の導入によって、これまでよく見えていなかったことをくっきりと見えるようにすること——これが本稿の目論見である。
以上は、意図・動機・信念・思想・信仰といった主観面への言及を一切控えるとの意ではない。間接的抵抗か否か判定するさいには主観ではなく行動に着目すると述べているだけである。
意義・対象・方法間接的抵抗の意義はどこにあるのか。正義を実現するうえで直接的抵抗が重要であることは言を俟たない。しかしながら、すべての人が処罰を被りやすい直接的抵抗をやれるわけではない。直接的抵抗をやらない人でも、間接的抵抗により権力者の非人道的行為を骨抜きにできる。ここに間接的抵抗の意義がある。これまで社会心理学において間接的抵抗を主題的に論じた研究はない。本稿では研究の第一歩として間接的抵抗の事例研究をおこなう。
対象とするのは、戦争・虐殺・圧政といった極限状況におかれた人々がおこなう間接的抵抗である。間接的抵抗がもっとも必要になり、なおかつ間接的抵抗の特徴がするどく顕在化するのは、権力者が苛烈な処罰をくわえてくる状況である。権力者が苛烈な処罰をくわえてくる状況の典型は戦争・虐殺・圧政である。よって、戦争・虐殺・圧政の渦中で発生する間接的抵抗を事例研究の対象とする。
方法として歴史社会心理学的接近法を採用する。戦争・虐殺・圧政といった極限状況で発生する社会行動を観察法や実験法により調べるのはきわめて難しい。しかし、歴史上の出来事を使えばそれなりに調べられる。本稿では、戦争・虐殺・圧政のもとで発生した間接的抵抗を史料から探し出し、その事例研究をおこなう。
論文の構成本稿は事例篇と理論篇から成る。第2節から第4節は事例篇である。提示する間接的抵抗の事例は、ナチへの抵抗、徴兵忌避、戦場の兵士である。事例篇では、直接的抵抗と間接的抵抗の違いを際立たせるために、適宜、直接的抵抗の事例にも言及する。
第5節から第7節は理論篇である。第5節では、間接的抵抗の精密な概念規定をおこなったうえで、非暴力主義やテロルなどと比較対照しながら間接的抵抗の姿形を明確にしていく。第6節では、間接的抵抗の有効性と限界、間接的抵抗と直接的抵抗の補完関係などを理論と実践の両面から考察する。第6節が本稿の核心である。第7節では、方法論を検討したうえで歴史社会心理学の構想を提起する。
事例篇と理論篇の関係は、通常の社会心理学論文における結果と考察の関係ではない。事例篇は、理論篇の論証を開始するための「きっかけづくり」である。理論篇では、事例篇で提示した事例のみならず、さまざまな関連事象や理論モデルに言及しながら多面的に論証を展開する。本稿には、実証による事例研究の側面と、論証による理論研究の側面があるが、力点はあくまで後者にある。
用語と表記本稿では権力(power)と権威(authority)という用語を使うが、概念として厳密に区別しているわけではない。そのつどの文脈で慣例にしたがって使っているだけである。権力と権威の概念的区別についてはさまざまな見解があり(e.g., Albarracín & Vargas, 2010; Arendt, 1972 山田訳 2000; Emerson, 1962)、研究目的によっては厳密に定義して使い分けなければならないのだが、本稿ではそこまでやる必要はないと判断した。
事例という用語は、心理学では個人を指してもちいることが多い。これに対して本稿では出来事を指して事例という用語をもちいていることに注意されたい。文献からの引用中にある「・・・」という表記は中略の意である。
ナチ支配下にいた人々の多くがナチに服従したといわれるが、直接的抵抗に立ち上がった人々の存在を忘れてはならない。多数の死者を出した激しい直接的抵抗として、1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件、さらに地下組織での反ナチ活動やユダヤ人救援があった(e.g., Berenbaum, 1993 芝監修 石川・高橋訳 1996; Block & Drucker, 1992; 宮田,2019; 中井,1982; Rittner & Myers, 1986 食野訳 2019; 對馬,2015; Weisenborn, 1954 佐藤訳編 1956)。
とはいえ直接的抵抗に立ち上がったのが一部の人にすぎなかったのも事実である。ナチを積極的に支持し、ナチに逆らう人を密告した民衆もたくさんいた。結局、ごくわずかな直接的抵抗者を除いてほとんどの民衆はなすすべもなく服従してしまったのか——そうではない。ナチ時代の記録を細部まで読み込んでいくと、こっそりと間接的抵抗をした人々がいたことがわかる。
以下では間接的抵抗の特徴が端的に現れる事例として、ナチ組織もしくは親ナチ組織に所属していながらユダヤ人や捕虜を助けようとした人々に焦点をあてる。
強制収容所まず、強制収容所に入れられた心理学者V. E. Franklが残した記録を見てみる。Franklは強制収容所における死と紙一重だった日々を綴っている。そのなかに、ある強制収容所長についての記述がある。
わたしが最後に送られ、そこから解放された収容所の所長のことにだけふれておこう。彼は親衛隊員だった。・・・この所長はこっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者のために近くの町の薬局から薬品を買って来させていた。これには後日譚がある。解放後、ユダヤ人被収容者たちはこの親衛隊員をアメリカ軍からかばい、その指揮官に、この男の髪の毛一本たりともふれないという条件のもとでしか引き渡さない、と申し入れたのだ。(Frankl, 1977 池田訳 2002, p. 143)
さらにこの所長は、強制収容所で死んだ者を丁重に埋葬していたという。
その森には、収容所所長・・・のきわめて異例な命令で、収容所で死んだ囚人仲間たちが埋められていたのです。その埋葬の際に、この男は、上からの指示に反して、共同墓穴のうしろに生えていた細く若いモミの木の幹に、木の皮をすこしはがしてから、そのつど死者の名前を鉛筆で目立たないように小さく書きこむことを怠りませんでした。(Frankl, 1947 山田・松田訳 1993, pp. 152–153)
この所長が命じられていた職務は、ユダヤ人を強制労働でとことんまで酷使し、強制労働に耐えられなくなった者は死に至らしめて「ユダヤ人問題の最終解決」を図ることだったはずである。Arendt (1951)によれば、ヒトラーの全体主義は、収容所で死んだ人物の痕跡を完全消去し、その人物がこの世に存在しなかったことにしようとするものだった。ナチは「何ひとつ痕跡を残さない」(Didi-Huberman, 2003 橋本訳 2006, p. 32)ことを目指していたのである。こうしたことを踏まえれば、こっそりとユダヤ人を助け、さらに墓標まで立てた所長の行動は、「ユダヤ人問題の最終解決」を骨抜きにする間接的抵抗だったといえる。
一方、アウシュヴィッツ収容所群に入れられたP. Leviは、空襲警報時の出来事を記している。収容所の防空壕はドイツ人専用でユダヤ人は入れなかった。空襲警報が鳴ったときLeviは化学実験室で働いていた。すると実験室長のドイツ人技師がLeviをふくむユダヤ人を防空壕に連れていった。
ドイツ人技師が、私たち科学者=囚人を引きとめた。「おまえたち三人は私と一緒に来い」。私たちは驚きながら、彼に従って防空壕に走ったが、入り口に、腕に鉤十字の印をつけた、武装した見張りが立っていた。見張りは言った。「あなたは入れ。他のものは出て行くんだ」。すると実験室長は言い返した。「彼らは私と一緒だ。全員入れろ、そうでなければ出て行く」。そして彼は強引に中に入ろうとした。殴り合いになった。・・・もしこうした控えめな勇気が示せる、例外的なドイツ人がもっとたくさんいたら、当時の歴史や今日の地図は違ったものになっていただろう。(Levi, 1986 竹山訳 2000, p. 197)
文脈が不明瞭なのだが、「控えめな勇気」と書いているところをみると、このドイツ人技師の行動は処罰される可能性が低いものだったのだろう。だとすれば、このドイツ人技師の行動は間接的抵抗だったといえる。Leviがいうように、たくさんのドイツ人がおなじような行動をとっていたなら歴史は変わっていたかもしれない。
ドイツ兵Weisenborn(1954 佐藤訳編 1956)はナチに抵抗したドイツ人の記録の嚆矢というべき書物である。そのなかに捕虜虐殺方針に抗命した部隊(国土防衛大隊)にかんする記述がある。
(その国土防衛大隊の)あるドイツ兵はわざと間違った申告をして、ロシアの捕虜を死刑宣告から救ったし、さらに、捕虜たちは保護され、通行証は改ざんされ、診断書も改変された。のちに隣接の親衛隊がシュトレーパンツにある煉瓦製造所のフランス、セルビア、ロシアの捕虜600人の殲滅を計画したとき、これらの捕虜はさまざまな戦術によって親衛隊の手から救い出された。しかし、親衛隊との戦闘のため国土防衛大隊側では数人が死んだ。(Weisenborn, 1954 佐藤訳編 1956, p. 114, 括弧内筆者)
上に引いた文章は腑分けして解釈しなければならない。前半に書かれている捕虜を助けるための書類改竄は間接的抵抗である。最後の親衛隊との戦闘は明確な直接的抵抗である。同一の組織や人物が間接的抵抗と直接的抵抗の両方をすることがある。
ル・シャンボン村つぎに紹介するのは第2次世界大戦下フランスの事例である。ナチに占領されたフランスではヴィシー政権が成立し、ユダヤ人の迫害と東方移送がおこなわれた。ユダヤ人を匿った者も迫害された。終戦までに、フランスから移送された約7万7千人のユダヤ人が収容所で殺害されたという(Berenbaum, 1993 芝監修 石川・高橋訳 1996)。
この時期に多数のユダヤ人を匿ったのがフランス南部のル・シャンボン村である(Hallie, 1980 石田訳 1986; Rittner & Myers, 1986 食野訳 2019; Rochat & Modigliani, 1995)。この村はプロテスタントが多く、また非暴力主義を訴えるトロクメという牧師がいた。村人は多数のユダヤ人を匿い、ユダヤ人の子どもはこの村で学校に通った。警察による弾圧を被りながらも、トロクメ夫妻と村人はユダヤ人を最後まで匿いつづけた。こうした村人の活動は直接的抵抗にあたる。
ル・シャンボン村のユダヤ人救援は間接的抵抗によっても支えられていた。ル・シャンボン村のユダヤ人救援を記録したHallie(1980, 石田訳 1986, pp. 141–142, p. 179)に間接的抵抗の断片的記述がある。警察が村に来てユダヤ人を検挙しているときに、一人の警官が、ある村人をユダヤ人だと誤認した。その警官は「そこから出ていけ」と指示し、「俺はお前を見なかった!」と言い放ったという。また警察の一斉検挙の前日にはトロクメ家に匿名の電話がかかってきて、「気をつけろ!気をつけろ!明日の朝だ!」と言ってガチャンと切れた。ユダヤ人をこっそり逃そうとした警官、一斉検挙前に内部情報を漏洩した者、こうした権力内部の人々は、権力者に表向きは服従しながらも間接的抵抗をしていたのだった。
さらに、あるナチ軍人の間接的抵抗らしき行動をHallieが論じている(Rittner & Myers, 1986 食野訳 2019所収)。当時、ル・シャンボン村に多数のユダヤ人が隠れていることはよく知られており、ル・シャンボン村をナチ側が叩き潰すのは容易だったはずである。詳細はわからないが、ル・シャンボン村があった地域のナチ占領軍幹部だったシュマーリンク少佐がユダヤ人迫害阻止に立ち回っていたようである。ナチ・ドイツが敗北してから、フランスを去るドイツ軍人が殺されたり審問にかけられたりした。シュマーリンク少佐もレジスタンスの審問にかけられたが、審問の場にいたレジスタンス・メンバーはフランスを代表してシュマーリンク少佐に感謝を捧げるスピーチをしたという。
ル・シャンボン村の直接的抵抗は、さまざまな間接的抵抗に支えられていたから最後まで持ちこたえられたのだった。
デンマークからの脱出第2次世界大戦中、デンマークのユダヤ人は、ナチが迫害を開始する寸前に、海路、スウェーデンに大量脱出した。大量脱出ができたのは、ユダヤ人を支援したデンマーク人やスウェーデン人が多数いたからであるが、さらにコペンハーゲンのドイツ大使館に駐在していたドイツ人ドゥックヴィッツの内部情報漏洩が大きな役割を果たした。
またドイツ兵のなかにはデンマークからスウェーデンに逃れるユダヤ人を発見しても、見て見ぬふりをした者が多数いたという。Werner(2002 池田訳 2010)は、ユダヤ人を乗せてデンマークからスウェーデンに密航する漁船がドイツ警備艇に拿捕されたときの出来事を紹介している。
暗い荒天の夜、隣人(ユダヤ人を脱出させていたオーレという人物)は灯りを消し、魚を入れる船倉にデンマークのユダヤ人を詰め込んで出航した。彼は、ドイツ海軍の警備艇のサーチライトにとらえられ、停止するよう命じられ銃を突きつけられた。ドイツ警備艇の艇長は叫んだ。「何を運んでいるんだ?」それでオーレは叫び返した。「魚ですよ」すると艇長は甲板に飛び移ってきて、乗組員たちにオーレに銃を突きつけたままにさせて、魚を入れた倉庫のハッチを開けるよう要求した。艇長は長いこと、何十人もの怯えた(ユダヤ人の)人々が彼を見上げているのを眺めていた。ついに彼は向きを変え、自分の艇の乗組員たちにも聞こえるような大声でオーレに言った。「ああ、魚だな!」そして彼は自分の警備艇に戻り、夜の海へと航行していった。(Werner, 2002 池田訳 2010, pp. 111–112, 括弧内筆者)3)
ユダヤ人の逃亡をドイツ兵が妨げなかったことについて、Werner(2002 池田訳 2010, p. 231)は「何も行動しないことによって、ドイツ人たちは、デンマーク人が同国人を救助するのを可能にする『機会の窓』をあけてやったのだ」と記している。もちろん「何もしない」ことがつねに抵抗になるわけではない。「何もしない」ことは、たいていの場合、無抵抗でしかない。しかしながら、非人道的行為を命じられている場面では「何もしない」ことが間接的抵抗になる。
近代の戦争は総力戦争という史上類のない形態をとり、国家権力は職業軍人や傭兵のみならず一般民衆まで戦場に動員するようになった。総力戦争を勝ち抜くうえで不可欠なのが徴兵制だった。日本史に即して見てみると、明治になるまで戦争(いくさ)は武士がやるものであって、一般民衆には「兵士にとられない権利」があった。「実際、戊辰戦争では、会津城下の商人・職人をはじめ各地の民衆が、藩存亡の危機をよそにサッサと戦場から逃げ出した」(牧原,2009, p. 154)。明治以降、国家権力は、徴兵制を敷いて民衆を戦場に強制動員するようになった。
本節では、日本における徴兵忌避に焦点をあてる。従来、思想宗教上の理由にもとづく良心的徴兵拒否と、死にたくないといった理由にもとづく徴兵忌避が区別されてきた。この区別を本稿は踏襲しない。思想宗教上の理由であろうが、死にたくないといった理由であろうが、処罰を被らないかたちで徴兵を逃れる行動を本稿では徴兵忌避と呼ぶ。このような徴兵忌避は間接的抵抗にあたる。
徴兵忌避の事例徴兵制が実施された明治初期、各地で血税一揆と呼ばれた徴兵反対一揆が起こり、民衆が官憲と武力衝突した。満州事変に始まる15年戦争の時代に入ってからも思想宗教上の理由から徴兵や兵役を公然と拒否しようとした人々がいた(イシガ,1971; 北御門,1999)。これらは直接的抵抗にあたる。
一方、さまざまな手管を弄した徴兵忌避は、明治初期からアジア太平洋戦争期に至るまで数多くの民衆が試みたものだった。まず、アジア太平洋戦争中に徴兵忌避をした事例を菊池(1977)から要約する。
後に農民作家となった山田多賀市氏は長野県の貧農の家に生まれ、子どもの頃からいろんな職を転々とした。戦争末期、もう徴兵が避けられないとなると「この可愛い児といとしい妻を残して、戦争にゆけるか」「天皇なんて奴らには、一宿一飯の仁義にもあずかった覚えはないぞ、どうしてそんな奴のために、俺の命を自由にされてたまるか」と徴兵忌避を決意した。知り合いの医者から死亡診断書用紙を手に入れ、自分の死亡診断書を捏造した。それを郷里の役場に送付し、自分が死亡したことにしてしまった。郷里の役場からは火葬証明か埋葬証明を求める手紙が来たがほっておいた。こうして徴兵を逃れることに成功した。(菊池,1977, pp. 296–306から要約)
上の事例では徴兵忌避の理由が高邁な思想ではなく「一宿一飯の仁義にもあずかった覚えはない」という生活感覚に即した言葉で語られていることに留意されたい。
反骨の詩人として知られる金子光晴は、アジア太平洋戦争中、わが子に徴兵忌避をさせた。
僕は子供を応接室に閉じこめて、生松葉でいぶしたり、リュックサック一杯本をつめて夜中に駅まで駆け足させたり、はてはびしょびしょ雨のなかに、裸体で一時間立たせてみたり、あらゆる方法で、気管支喘息の発作を誘発させようと試みたが、かえってそれが鍛練になって、風邪もひかなかった。しかし、発作ははじまった。そんなことをして、とうとう、その年はゴマ化し了せた。それをただの、肉親愛のエゴイズムと言えば、それだけのことだが、僕は他人にくらべて、それほど肉親びいきではないつもりだ。僕の気持としては、各人がそれぞれの才覚で軍拒否を表明して、国民運動にまでもっていってほしい存念だった。戦争に対しては、もう一銭も支払いたくないというのが本心で、その他に、どこまでこちらの主意を押通せるかという競争もあった。作品発表は、検査官との知恵くらべだった。(金子,1976, p. 200, 傍点筆者)
わざと病気に罹るのは徴兵忌避の常套手段であり、金子がやったことはなんら珍しいものではない。注目すべきは傍点を付した箇所である。多数の人々が徴兵忌避をすれば大きな力になることを金子は洞察していた。
飄々と生きた金子は間接的抵抗の名手だったようである。戦時中、金子は隣組の防空班長だった。防空演習のときには、下士官が回ってきた時だけ水をチョコチョコとかけて、あとは「格好だけやっていればいいんだよ」「ロクなもの食ってないんだから家へ帰って休んでなさい」と言って済ませていたという(金子,1976, p. 264, 2016, pp. 119–120)。家永(1968, p. 151)によれば、戦時下日本では、隣組班長・警防団員・在郷軍人分会長になった人物が優越意識をもち、一般市民を叱咤したりした。本多秋五は、戦時下における防火活動や竹槍訓練での隣近所のおそろしさにからめて「とんだ御忠勤ぶりを発揮する人間」が必ず出てきたと語っている(思想の科学研究会,2013, p. 106)。自分が偉くなった気になって民衆を叱咤した権力追随型の隣組班長・警防団員・在郷軍人分会長と、間接的抵抗をしていた金子の姿はきわめて対照的である。
しばしば徴兵忌避は否定的に評価される。以下に否定的評価がみてとれる文章を二つ挙げておく。河野(1969)は、金子光晴の反体制的な詩を評価しつつも、上に紹介した金子の徴兵忌避を「父親のエゴイズムの発露」だとしている。
あきらかに肉親にたいする父親のエゴイズムの発露であり、それによってささえられている右のような行為を、抵抗としてとらえることの妥当性については、いろいろ論議のあるところであろう。発表を断念してかきためていた詩についてもいえることだが、抵抗というにしてはあまりに消極的にすぎる。せいぜい戦争非協力としてしか評価できまいと思う。しかし、消極的抵抗か戦争非協力かはともかく、動機でありささえである、エゴイズムそれ自体が問題だとはいえまい。むしろ、国家の要請のまえでは肉親愛も自己主張も内閉し、あるいはうやむやに解消することしか知らなかった当時の民衆の自我の弱さこそ問題であったというべきであろう。(河野,1969, p. 346)
稲垣(1972)は、戦前における灯台社の人々の激烈な兵役拒否(=直接的抵抗)を描いた労作であるが、そのなかに徴兵忌避と灯台社の兵役拒否を対比した以下のような文章がある。この文章も徴兵忌避を「逃げの行為」として否定的にとらえている。
〝兵役拒否〟は、いわゆる徴兵のがれをする〝徴兵忌避〟とは内容的に異なる。徴兵制そのものに対しては、明治初年徴兵令がだされたとき、全国各地の農民が〝徴兵令反対一揆〟をおこしたことが記録にのこっている。が、その後は積極的な集団的反抗はほとんど姿を消し、昭和の十五年戦争下では、せいぜい〝忌避〟という消極的な抵抗もしくは逃避行為が散見される程度だったのである。それしも発覚すれば厳罰が待っていたことはいうまでもない。兵役拒否は、徴兵忌避が本質的に逃げの行為であるのにくらべて、はるかに積極的な正面切っての抵抗である。それは軍隊内で、あるいは召集にあたって、逃げもかくれもせず、自己の信条と良心にもとづいて銃をとらないことを、軍務を一切拒否することを、軍の組織そのものにつきつけることなのである。(稲垣,1972, p.ii)
間接的抵抗が否定的に評価されがちであることは本稿にとってきわめて重要な論点であり、総合考察でくわしく論じる。
沖縄と徴兵忌避移民本土よりも遅く1898年に沖縄で徴兵令が施行されると、少なからぬ青年が徴兵忌避を試みた(新川,1973; 後田多,2010)。自傷行為や病気偽装が代表的な手口であるが、移民として外国に渡ることも徴兵忌避の方法になっていた(石川,1968)。戦前の日本では、移民になるのが徴兵を逃れる合法的手段だった。移民と徴兵忌避との関連を過度に強調してはならないのだが(菅,1982)、徴兵忌避を図って移民となった者が日本各地にいたことは間違いない。沖縄はたくさんの移民を外国に送出した地域である。以下では、沖縄における徴兵忌避移民についてみていく4)。
琉球政府(1969)は、1898年(明治31年)から1918年(大正7年)までの新聞記事を収録している。このなかに徴兵忌避事件の記事が多数あって、徴兵令施行まもない時期の様子をうかがい知ることができる。記事のおもな内容は、徴兵忌避が発覚した者の名前、指の切断といった徴兵忌避の手口である。琉球新報(1907年(明治40年)11月19日)の「徴兵忌避者布哇へ高飛す」(布哇はハワイ)という記事は、他人の旅券を使ってハワイに渡航し、徴兵忌避をなしとげた男について以下のように報じている。
(当該の男は)此度新兵として入営服役すべき身となりたる為め此程其筋より件の赴きを通知に及びたるに既に本人は先月の十一日同村〇〇〇妻カメの夫婦が下付を受けたる外国旅行券を借り受け二名の名義を詐称して妻カマドと共に当地を逃げ出し布哇へ高飛びしたる事判明したりと云ふ。いづれは徴兵忌避の為めなるべく中等教育を受けたる男の所業としては無法も無法余りに無鉄砲な話なるが扨ても旅券を貸し与へたる〇〇〇の処刑に就いて目下其筋に於て求刑の手続中なりと(琉球政府,1969, pp. 348–349, 括弧内筆者、句読点を追加、古字を変更、〇〇〇は名前)
上の記事は、違法行為(他人の旅券使用)がからんだ徴兵忌避移民についてのものである。これは例外的な事例であり、徴兵忌避を図った移民のほとんどは合法的手続きを踏んで外国に渡航していた。
「明治四十二年沖縄警備隊区徴兵検査概況」(1909年)という軍部文書は、徴兵忌避の多岐にわたる手管を報告するとともに、移民について以下のように書いている5)。これは移民のほとんどが徴兵忌避移民なのではないかという疑いを官憲側が抱いていたことを示す。
此ノ現象(多数の移民が外国に渡航していること)ハ必シモ殖産的意味ニ於テノミニアラスシテ其ノ大多数者ハ徴兵忌避的意味ニ於テ渡航シ居ルモノニハアラサルナキヤノ疑ナキ能ハス(括弧内筆者)
さらに、この軍部文書は、移民が多い地域で甲種合格者の割合(%)が少ないという統計数値等を示したうえで、こう書いている。
以上ニ依リ外国出稼人(移民)多キ郡部ハ甲種%頗ル低ク、反之、出稼人少キ地方ハ%数多シ。且ツ本年偶々布哇ヨリ帰朝セシ十余名ノ壮丁ヲ検査シタルニ何レモ骨格構造筋肉発育佳良ナル者多キヲ以テ、出稼人ニヨリ確カニ甲種ヲ減少セシムルモノタルヲ信ス(括弧内筆者、旧字体を新字体に変更、句読点を追加)
ただし、移民が多い地域で甲種合格者の割合が少ないことは、徴兵忌避移民がいたことの傍証にはなるが、決定的な証拠にはならない。たとえば、徴兵忌避を意図しておらず、なおかつ壮健な男が移民になっていた場合にも、移民が多い地域で甲種合格者の割合が少なくなる。むしろ上の引用が示すのは、統計数値を分析したところで、徴兵忌避移民がいるらしいとの傍証は得られても、その決定的証拠は得られなかったということである。
1935年から1940年にかけて沖縄では労働力流出が進行した。そのなかには徴兵忌避移民がいたとみられている(大城,1977)。軍部もこれを察知しており、同時期に軍部が作成した「軍部関係思想要注意者策動等ニ関スル報告内容ニ関スル件」(1940年)という史料に以下の記述がある6)。
沖縄県下在郷軍人並一般壮丁ハ今次事変ヲ契機トシテ兵役義務心頓ニ向上シ出征軍人中名誉ノ戦死又ハ戦傷ヲナシタルモノ相当数ニ達シアリ。然レ共亦一方移民県トシテ海外渡航ヲ奨励シアル慣例モアリテ海外渡航者ハ事変前ノ三倍ニ激増シアリ。而シテ之等渡航者ニハ真ニ家庭上止ムヲ得サルモノナシトセサルモ間々合法的兵役忌避ノ悪□ニ基ク渡航トモ思料セラルル向アリテ徹底的方策ヲ講スル要アリト認メラル(□は判読不能、旧字体を新字体に変更、句読点を追加)
この史料の作成者は、合法的に徴兵を逃れるため移民になった者がいると「思料セラルル向アリ」と歯切れの悪い言い方しかできていない。徴兵忌避移民がいることの決定的証拠など挙げられないし、いわんや徴兵忌避移民の摘発などしようがない——これが実情だった。移民になることは徴兵忌避手段として大変優れものだった。
つぎに徴兵忌避移民となった人物の口述を提示する。与那原町史編集委員会(2006)は、移民本人からの聞き取りを収録している。そのなかで照屋信三が徴兵忌避を図って南洋に渡航した経緯を語っている。
かぞえ二十一歳のとき徴兵検査を乙種の五番で合格したの。それでサイパンへ行くことになった。徴兵忌避です。というのは甲種合格したのが淋病かかったり、他のいろんな病気で必ず四、五人欠員が出るんだ。それを補充するのが第一補充兵といって乙種から番号順だった。だから親父が、「お前はここにいたら必ず軍隊に引っ張られる」と南洋行きをすすめた。「ヒンスーヒータイ(貧乏兵隊)」っていって、二ヶ年間、イチャンダボーコー(ただ働き)しないといけないし、「家も貧しいのに親父一人では大変だから、早く召集されないうちに南洋に」ということだった。なぜ南洋かというと、あそこには友達もいるし親戚もいたのでね。もたもたしてたら兵隊に引っ張られるから、徴兵検査の翌年の一九三四(昭和九)年五月に行きました。渡航費用も親父が準備して十円だったと思う。当時は大変な金額よ。(与那原町史編集委員会,2006, pp. 379–380)
筆者自身、アルゼンチンにおいて沖縄出身移民に面接をしたときに、徴兵忌避の口述に接したことがある。辻本(2013)は崎原朝一の生活史を記録している。崎原は、戦後、アルゼンチンに移住したが、戦前の1938年頃に父が家族を沖縄に残したままアルゼンチンに渡航していた。父が移民となった直接の理由は生家の借金返済だったが、徴兵忌避ということもあったという。父が渡航した1938年頃は、日中戦争が始まるなど戦争が本格化していた時期である。
徴兵忌避移民に限らず、権力者の非人道的行為に対して国外脱出で応じる行為が昔も今も世界各地で発生している。かつてアメリカには徴兵制があったが、ヴェトナム戦争中の1960年代後半から70年代にかけてカナダやスウェーデンに脱出する若者が増えた(cf.,佐々木,2004)。また、母国にいる両親から離れてアメリカに滞在する青年が多数いるが、教育機会などにくわえて兵役義務回避が渡米理由になっているという(Lansford, 2011 辻本訳 2014)。ウクライナで戦争が起こっているが、ロシア人の国外脱出が増えているとの報道が多数ある(2022年5月時点)。ミャンマーでは、強権的統治をおこなう軍と民主派勢力との衝突がつづいているが、外国移住を目指す若者がかなりいて、日本へ行くことを「自由への切符」と考える若者がいるとの報道がある(2023年2月時点)7)。
理論的にいうと、徴兵忌避移民は退出による抵抗である。退出による抵抗は普遍的にみられる。たとえば、かつて村落などの共同体に人々が縛りつけられていた時代は因習に背けなかったが、人の移動が活発になった現代では各人の個性的な生き方を尊重しないと共同体から活力ある人間が出ていってしまう。これは退出による共同体因習権力への抵抗である。教職員を大切にしない大学では、研究能力や組織運営に優れた人材が出ていってしまうという。これは退出による大学経営陣への抵抗である。一方、権力者側は支配の邪魔になる人間を集団から追放しようとする。この場合、追放対象となった人が集団にしつこく居残ることが権力者に対する抵抗になる。退出や居残りによって権力者に抵抗するためには、移動と居住の自由がなければならない。移動と居住の自由を人権として保障することが権力を牽制するうえで大切である8)。
官憲側の間接的抵抗戦前戦中の日本で、直接的抵抗により戦争に反対した人を、官憲側の人間が間接的抵抗により陰ながら支えることはなかったのだろうか。官憲側にそうした人間がいたことを示す記録がある。
さきに触れたように、15年戦争の時代、思想宗教上の理由から戦争への加担を公然と拒否しようとした人々がいた。その一人が九州にいた北御門二郎である。北御門の徴兵拒否は以下のようなものだった。
トルストイを深く敬愛し、キリストのように死にたいと願った北御門は、徴兵検査の場で公然たる徴兵拒否を試みた。ところが、優しそうな徴兵官は、精神に異常をきたしているとみなし、北御門を兵役免除にしてしまった(北御門,1999)。北御門は、徴兵官の個人的な温情があったような気がしたという(南里,2005, p. 74)。
その後、北御門のもとに特高刑事が来るようになった。この特高刑事(松永さん)とのつきあいを北御門はこう回想している。
松永さんはしかし、人情味のある刑事でした。「取り調べじゃないので、どうぞ意見を聞かせてください」とソフトな物腰で訪ねてくる彼に、私は思うままに反戦思想を語り、天皇制についても「〝人間は皆平等〟に反する」などと率直に告げました。「戦争は間違いだと思う」などと応じていた松永さんも、天皇制批判には「それだけは言わんで……」と手を合わせました。思えば、松永さんと私は奇妙な関係でした。天皇制批判をする輩は不敬罪ものだった当時、私を見逃してくれたのですから。逆に、球磨農業学校出身の彼は農作業のアドバイスをしてくれたりしたのです。(南里,2005, pp. 85–86)
この逸話は別の書物にも記されていて、北御門は特高刑事に向かって「天皇は神だと言い、国民に敬うようにさせることは、天皇自身にとっても不幸なことだ」と話したりしていた。北御門が天皇のことを言うと、特高刑事は「困ったなあ、逮捕したくないなあ」と困惑していたという(ぶな,2014, p. 61)。
戦時中、北御門は、金属の供出に協力せず、戦勝祈願のお参りにも行かなかった(澤地・北御門,2014, pp. 99–100)。そんな北御門に対し厳しい視線を向ける地元住民もいた。
村の人は、あの人はわがままばっかり言ってると非常に憎んで、場合によってはあいつは殺してやるっていう人たちもいたようです。やられたという噂まで立ったりしました。結局、直接ぼくを殺す人はいませんでしたが。ただ、危害を加えたいと思っている人はたくさんいたようです。何かの折に一緒になると、いかにもぼくを憎々しげに見ている者もいました。でも、暴力を加えられても抵抗しないでいようと思っていました。(澤地・北御門,2014, pp. 100–101)
1945年1月、飛行場工事への勤労奉仕を命じられた北御門は、村長に拒否の手紙を書いた。その手紙に北御門は、戦争や人殺しは罪悪であり、戦争には協力できないと書いた(澤地・北御門,2014, p. 96)。村長は診断書を添えて申し出をするよう言ってきたが、直談判の結果、勤労奉仕に出なくていいことになった。国家総動員法に触れるのなら刑罰を甘受すると北御門が言い張ったところ、村長は「それでは困る」と渋い顔をし「私が何とかしときましょう」と折れた(南里,2005, p. 90)。
結局、北御門は敗戦まで逮捕されなかった。北御門は1945年の日記にこんなことを書いている。
二、三日前の新聞に、久留米の某裁縫女教師が平和的排戦的言辞の廉で逮捕された由を報じている。ところが私も警察の特高刑事に向って、いつもいつも平和的排戦的言辞を述べるのに、何故逮捕しないのだろう?(北御門,1999, p. 117)
時は流れ1971年、かつての特高刑事から北御門のもとに手紙が届いた。手紙によると、戦時中、警察幹部が北御門の逮捕を命じたが、この特高刑事が懸命に弁護して思いとどまらせたという。手紙が届いてまもなく、この元特高刑事が北御門を訪問した。30年ぶりの再会で交した会話を北御門はこう回想している。
松永さんの話では、当時私の家に出入りするうちに「トルストイの歩いた道を自ら歩く脱社会のユートピアン、と思うようになった」と言い、「決して共産主義者ではない、と幹部の逮捕指示を蹴った。警察官人生に汚点を残さずによかった」と述懐していました。私は「あの暗い時代に、あなたのような理解者がおられたことは私の幸福でした」とお礼を申し上げました。(南里,2005, p. 86)
以上に挙げた数々の記録からは、北御門を弾圧しようとした人々がいた一方で、北御門のまわりの地元官憲に間接的抵抗があったことがみてとれる。特高刑事が間接的抵抗をしていたことはほぼ間違いない。公然たる天皇制批判をした北御門を弾圧しなかった(=特高刑事の職務を遂行しなかった)うえに、なおかつ史料の文面からすると、この特高刑事は自分が処罰されないかたちで北御門をかばっていたと推測されるからである。また十分な証拠はないが、北御門の公然たる兵役拒否を処罰しなかった徴兵官、公然たる勤労奉仕拒否に手を焼いて「私が何とかしときましょう」と裏でまるく収めた村長も間接的抵抗をしていた可能性がきわめて高い。北御門の体験から見てとれるのは、民衆の直接的抵抗を官憲側の間接的抵抗が支えるという構図である。間接的抵抗と直接的抵抗の補完関係については総合考察でくわしく論じる。
反体制落書き北御門は五高(旧制第五高等学校)に通った。北御門が2年生のとき、天皇が五高グラウンドでのフットボール試合を見に来訪するという出来事があった。全生徒が直立不動で天皇を待ち受けた。その後、北御門が学校の便所に入ると「天皇制 打倒!」と白墨で大きく落書きがしてあったという(南里,2005, p. 25)。反体制落書きは理論的に重要な特徴をもつ。徴兵忌避という本節の主題から逸れてしまうが、反体制落書きについて簡潔に論じておく。
言論の自由がない社会において、反体制落書きは情報宣伝面での間接的抵抗となる。戦前戦中に作成されていた内務省警保局『特高月報』には、公衆便所や電柱などに書かれた「不穏落書」「不敬落書」「反戦落書」がたくさん記録されている。ほとんどの場合、落書犯を検挙できなかった。
言論の自由がない社会における反体制落書きは、「権力者に反対する者があなたの他にもいる」という情報を伝達して抵抗者を支える役割を担っている。抵抗運動から離脱する理由として、「自分以外に抵抗をする人がいない」あるいは「自分の抵抗は民衆からみはなされている」といった孤立の認識が語られることがある9)。言論の自由がない社会において、「権力者に反対する者があなたの他にもいる」という情報を反体制落書きにより伝達できれば、抵抗からの離脱を防いだり、抵抗への参加を促進したりできる可能性があろう。
現代では、サイバー空間上のSNSなどがかつての落書きの代替となっている。言論の自由を認めない国家が、サイバー空間上の反体制書き込みを取り締まることがある。以上の議論からすれば、サイバー空間上の反体制書き込みを取り締まることは、言論の自由を認めない国家の立場からすれば理にかなっているといえよう。
戦場という極限状況におかれたとき人間は驚くべき行動をとる。戦場の兵士が残虐な殺戮をすることもあれば、権力者の戦闘殺戮命令に抵抗することもある。本節では、戦場における直接的抵抗を一瞥したうえで、上官の殺戮命令に服従しているふりをしながら実際には服従しなかった兵士、すなわち間接的抵抗をした兵士の事例をくわしくみていく。
戦場の直接的抵抗戦場における直接的抵抗にはさまざまなものがある。わりと頻繁に起こるのが軍隊からの脱走である。もっとも激烈な直接的抵抗は上官射殺である。上官射殺の事例を一つだけみておく。
アジア太平洋戦争末期、兵士として南鳥島にいた金山實は、上官射殺事件が起こった経緯を後に書いている。当時、南鳥島にいた皇軍は絶望的状況にあった。ひどい飢餓で兵士は骨と皮になるまで痩せ細り、米軍の爆撃を毎日うけて死者が続出した。兵士のあいだには厭戦気分が蔓延していたという。しかしながら連隊長は玉砕を叫び、敵上陸に備える猛訓練を強行していた。そんななか某大尉による連隊長射殺事件が起こった。
連隊報告は「心臓マヒ」と言うことだけであつたが、事件の前日大尉は連隊長に対し『此の儘の状態では、爆撃と飢餓によつて、徒らに兵隊を殺すだけで、闘いに利するものは一つもないから内地に転送の上、兵隊を再び戦闘に耐え得る条件にもどして、祖国のために報いさせるべき』ことを進言した所、上官にさからうという理由で強く叱責されたことが殺意の主因であつたと、当番や連隊本部の兵隊達の話が当時の客観的情勢から見て真相であることは誰もが理解していることであつた。・・・大尉の行動が正しいものであつたかは別の問題として、ああしなければおれなかつた態度には全兵士の共感を呼び、さらに人間としての生きる権利、自由の一片すら認められることのない軍隊にあつて絶対に言うことの出来ない共通の不満を大尉が決然と行動化した勇気には、絶望と失望の兵隊達にそれが天皇権力の大きな力の前には、ささやかな抵抗だつたにせよ、たしかに一つの〝生〟への励ましであつた。「自決することは容易であるが、この誤れる帝国軍隊の真相を法廷で意思表示をする迄は死ねない」と言つて営倉に沈思する大尉が内地に護送されて後も、ひそかに敬意と多幸を祈るのであつた。(金山,1955, pp. 85–86, 旧字体を新字体に変更)
発砲しない兵士間接的抵抗として、上官の発砲命令に面従腹背している兵士をとりあげる。Grossman(1996 安原訳 2004)によると、戦場での兵士の発砲率はきわめて低調であり、発砲命令が下っても発砲しているふりをしているだけの兵士、発砲はするのだが敵兵に命中しないようにしている兵士が相当数いるという。この主張の根拠の一つになっているのがMarshallの研究である。Marshall(2000 初出1947)によると、兵士の発砲率はせいぜい25%程度、すなわち発砲するのは4名のうち1名程度である。発砲しなかった兵士は逃げ出したのではなく、敵が迫る危険な場面に直面してただ発砲せずにいたのだという。ただし、発砲率25%という数値に信憑性があるのか否かをめぐってはさまざまな意見がある(Bregman, 2019 野中訳 2021; Glenn, 2000)。本稿にとって重要なのは、発砲率の高低ではなく、発砲命令に面従腹背している兵士がたとえわずかであっても存在するという事実である。
発砲しない兵士の事例をみていく。アジア太平洋戦争末期、兵士としてフィリピンのミンドロ島にいた大岡昇平は、敗戦後まもなく執筆した『俘虜記』(大岡,1967 初出 1952)で、自分が米兵に発砲しなかった経緯を綴っている。それはおおよそ以下のようなものだった——そのとき、敗走とマラリヤで衰弱して叢林に倒れていた大岡のところに、一人の米兵が歩いて近づいてきた。米兵は日本兵が倒れていることに気づいていなかった。大岡の手は銃の安全装置を外した。米兵の薔薇色の頬が見えた。大岡は発砲しなかった——。
発砲しなかったのは人類愛といった高邁なものが自分にあったからではない、そう大岡は語る。結局、自分が発砲しなかったのは、さまざまな「動物的反応」(大岡,1967, p. 36, p. 117)の連続でしかなかったのであり、「実際には私が国家によって強制された『敵』を撃つことを『放棄』したという一瞬の事実しかなかった」(大岡,1967, p. 125)というのである。『俘虜記』のエピグラフには「わがこころのよくてころさぬにはあらず」という歎異抄の言葉が掲げられている。戦場で発砲しない行為は高邁な良心を必要条件としない。
15年戦争の時代、兵役拒否で知られる灯台社の影響のもとに活動していた当山昌謙という人物がいる。当山の戦時下抵抗を記録しているのが高阪(1978)である。同書によれば、当山は15年戦争に応召され、中国からフィリピンへ転戦した。聖書にある「汝、殺すなかれ」の教えに忠実であろうとした当山は、戦場で砲台運搬や弾運びに終始するようつとめ、「戦場では人殺しはいやだから、常に死んだ方がましだと思っていた。鉄砲を撃っても・・・空に向けて撃つことを考えていた」(p. 122)。ゲリラ討伐戦に駆り出されたときは「討伐隊の後方に位置し、威嚇射撃に終始した。いつどこから敵弾が飛んでくるかわからぬ不安におののき、初めて前線の恐怖をしみじみ味わった」(p. 74)。これらは間接的抵抗にあたる。当山は「せめても直接手を下さぬことで戦闘を消極的に拒み、気持をごまかしていた」(p. 72)という。かくのごとく鬱々と間接的抵抗をつづけた末に、当山はとうとう直接的抵抗に転じた。上官の面前で「自分は天皇の命に服し兵隊を勤めることは出来ませんから、いっさいを返納致します」(p. 106)と戦争拒否を宣言したのである。御真影奉拝や宮城遙拝への参加も拒むようになった。当山が挑んだ直接的抵抗の詳細は高阪(1978)を参照されたい。
Keegan et al.(1985 大木監訳 2014)は、敵を殺さない兵士に言及している。以下は、第2次世界大戦の欧州戦線で、砲火を受けて溝に飛び込んだ連合国兵士の体験談である。
……いやはや、そこには五人ほどのドイツ兵と、味方が四、五人いたのだ。まず、戦おうなんて気は、まったくなかった。……そのとき、われわれも彼らも小銃を持っているのはわかっていた。だが、砲弾がどんどん降ってきて、溝のきわで身をすくめていた。ドイツ兵も同じだ。そうして、これは小休止なのだと悟った。タバコを取りだして配り、みんなで吸った。そのときの気持はいいようがない。ただ、今は撃ち合っている時じゃないと感じていた。……こいつらも、われわれと同じ、おびえきった人間なのだ……。(Keegan et al., 1985 大木監訳 2014, p. 353)
さらに同書は、Marshallからの引用として、ヴェトナム戦争の戦場で北ヴェトナム兵と遭遇したウィリス大尉の体験を紹介している。ウィリス大尉は、至近距離で敵兵と対面したときに発砲しなかった。
ウィリスは、そいつと並ぶかたちになった。その胸に、M-16小銃の狙いがつけられた。間隔は五フィート〈一メートル五十二センチ〉と離れていない。北ヴェトナム兵のAK47も、まっすぐウィリスを狙っていた。
大尉は、大きくかぶりを振った。
北ヴェトナム軍兵士も、同じように大きく首を振る。
休戦、撃ち方止め、紳士協定、取り引き、そういったものが成立したのだ。……敵兵は暗闇に消え、ウィリスはよろぼいながら進んだ。(Keegan et al., 1985 大木監訳 2014, p. 355)
上官の住民銃殺命令に対して間接的抵抗をした事例もある。平田有一は、アジア太平洋戦争末期の中国での戦場体験を記している。平田が所属していた部隊は村落を通るたびに住民に情報提供を強要し、残虐な拷問をくわえたりしていた。以下は、そうしたなかで発生した出来事である。
日本軍が地雷にかかったり、部落民の逃げ方が徹底的だったりすると中隊長は一層ひどく情報の提供を強制した。いわずと知れた拷問である。・・・火責めは上半身を裸体にし、背中に携帯燃料の揮発油をかけ同時に点火する方法である。これは火を消そうとして七転八倒、全く苦しめるためのもので、中隊長のなぐさみとしてやることが多かった。拷問をまぬかれた者は決して帰されることなく、尖兵の五十メートル先を、地雷探知器代りとして歩かされた。十日二十日と作戦が続く中にその人数は増してくる。すると中隊長は銃殺を命じた。或る時私はその命令を部下の下士官に命じた。すると老練な彼は真剣な顔つきで「隊長殿もう殺しきりません」と言った。勿論私もその気持はなく一室にとじこめ夜になって外に出るようにいい含め、中隊長には銃殺したと復命した。この作戦中唯一回の人間としてのめざめであった。自分自身をなぐさめる為ならこの外にも何度かの人間的行為はした。しかしそのわずかなことで天皇の命として部下をして復命させ行動させた罪はぬぐいさることはできまい。(平田,1960, p. 200)
ところで、ウクライナで戦争が起こっている最中に本稿は執筆された。2022年4月に出された米国戦争研究所(ISW)の報告(Russian offensive campaign assessment, April 9)に、ロシア兵のモラールが低下しており、戦闘から逃れるために自傷行為をしているロシア兵がいるとの情報がある10)。自傷行為による戦闘逃れはまさに間接的抵抗である。
宗教者の記録発砲しない兵士の存在を強く示唆するのが戦前日本の宗教者の記録である。以下、最初の二つはキリスト者の事例、三つ目は大本の事例である。
戦前、プリマス・ブレズレンの信者は戦争反対を唱えたとして弾圧された。内務省警保局(1943)『昭和十七年中に於ける社会運動の状況』のなかの「無教会派基督者グループの治安維持法違反事件」の項に、起訴されたプリマス・ブレズレンのある信者(21歳)が以下のような陳述をしたとの記録がある。
私は本年徴兵検査を受けることになつて居りますが若し戦争に征くことになつても神の御心に逆ふやうな戦争には服従しません。出征は王の命令である限り行かねばなりませんが戦地へ行つても私は絶対発砲突撃せず無抵抗で居ります。銃後では信者は直接殺人行為に用ひられる様な兵器の製造、戦勝祈願、武運長久祈願黙祷は絶対にせないのであります。私は国民の多数がこんな考へを持つことにより日本が戦争に負けて日本が他国の殖民地となつても仕方がないと思つて居ります、私は千年王国や新天新地が実現すれば神は私達を祝福して下さることを信じて居ります故に此の肉体がどんなに苦しめられるとも幸福であります。(内務省警保局,1943, pp. 1201–1202,旧字体を新字体に変更)
官憲側の記録(取調調書に類するもの)は逐語録風であっても官憲の思惑が相当入っているので注意を要するのだが、上に引いた陳述がすべて事実だと仮定して若干の考察をしてみたい。この陳述自体は官憲に対して表明されたものであるから直接的抵抗にあたる。「肉体がどんなに苦しめられるとも」というくだりは、おそらく拷問に屈しないとの宣言だろうから、きわめて激しい直接的抵抗である。注目すべきは「出征は王の命令である限り行かねばなりませんが戦地へ行つても私は絶対発砲突撃せず無抵抗で居ります」という箇所である。はっきりしたことはわからないが、これは戦場で間接的抵抗をするとの意であろう。
つぎに耶蘇基督之新約教会である。この宗教団体は神社参拝拒否などにより官憲から弾圧された。その伝道者であった野中一魯男について以下のような記録がある。
野中は長男が軍隊に入営したときには上官の命には従うように教えた。長男は麻布連隊区で模範的な兵士であったが、日中戦争に従軍し、徐州攻撃に参加したとき、野中は「銃をうつとき相手を憎んではならぬ。なるべく空をうつようにせよ」と手紙に書いた。また長男が戦地で受けとった教会員からの手紙に「あなたを天皇ではなく神が守っている」ということばが書かれていたため注意を受けたこともあった。このような言動は野中とその教会の人びとだけではなく、全国のこの集団に共通していた。(笠原,1969, p. 96)
聖書には「逆らうな」「殺すなかれ」との教えを説いている箇所がある。これらの教えがいきつく先は何か。一つはキリスト者のいう受難であろう。しかし間接的抵抗という手もある。上官の発砲命令に逆らえない、だけど殺すわけにもいかない——このせっぱつまった場面で、発砲しても命中はさせないという間接的抵抗を編み出したキリスト者がいた。
一方、神道的色彩を帯びた教団、大本は、第1次大本事件(1921)、第2次大本事件(1935)と呼ばれる弾圧を被った11)。大本を発展させた出口王仁三郎(以下、王仁三郎)は、神がかり体験をもち、終末預言をしていた。こうしたことは世界各地の宗教でみられる現象であって、なんら特異なものではない。特異なのは、痛快とも磊落とも評したくなる王仁三郎の生き様である。終末預言とからめて戦争のゆく末に警鐘を鳴らしていた王仁三郎は出征する信者にこんなことを言っていたという。
外地に出征する者には「鉄砲は空むけて撃っとけよ」などといいながら、ゆく先によってそれぞれ注意を与え、内地の者にも、どこそこはやられる、どこそこは大丈夫、などとかたっぱしからあてていき、地方や都市別に、早め早めに疎開や避難をさせるのだ。・・・王仁三郎は、第一線に出征する兵士には特別のお守りを与えたが、これになんと〝我敵大勝利〟と書きそえてやったのだからあいた口がふさがらなかった。もっとも、さすがにこの件は問題になりかけ、憲兵隊や警察の手入れの情報がひそかにつたえられて、王仁三郎の側近は少なからず緊張する。・・・当の王仁三郎はどうしたかというと、手もとにあるお守りの我敵大勝利の字のよこへ、米英の号外と無造作に書きたした。ご本尊は気楽なものである。(出口,1995, pp. 465–466)
引用後半に王仁三郎の痛快磊落な人柄が現れているが、それはともかく、「鉄砲は空むけて撃っとけよ」という言葉は戦場での間接的抵抗を指示したものにほかならない。王仁三郎は出征する信者に「すすんで危いところに行かぬよう」(大本七十年史編纂会,1967, p. 644)、「逃げかくれて、はやく戻つてこい」(村上,1963, p. 243)とも語った。これらの言葉を戦場の兵士が実行したとすれば、表立って上官に逆らいはしないが戦闘からは逃がれるという間接的抵抗になったであろう。
殺しも殺されもせぬ戦争大岡昇平は『俘虜記』のなかで、米軍がミンドロ島に上陸し、日本軍が山中に籠ったときのこんな逸話も記している。
米機は終日頭上にあったが、米軍は直ちに追求しては来なかった。「奴等は怠け者だからこんなとこまでやって来やしないさ。そっちが来なけりゃこっちだって行かないや。そのうち戦争も終るだろう」と・・・或る下士官がいったがこれは我々の希望のかなり端的な表現であった。・・・大隊本部は百五十名から成る斬込隊の派遣を告げて来た・・・もっともこの斬込隊は我々の間ではあまり歓迎すべき客とは考えられていなかった。何となれば彼等の到着はとりも直さず、我々の中からも若干の決死隊を出して嚮導とせねばならぬことを意味したからである(大岡,1967, pp. 8–9)
そっちが来なけりゃこっちだって行かない——これはAxelrod(1984 松田訳 1998)が論じた「殺しも殺されもせぬ戦争」とおなじである。第1次世界大戦の欧州戦線では、1914年8月に戦争が始まった当初は激しい戦闘になった。ところが、塹壕戦のため戦線が膠着し敵味方が長期間にわたって対峙すると、敵味方のあいだに「たすけあい」が出現した。双方とも敵が攻撃してくるなら攻撃するが、敵が手加減してくれるなら自分たちも手加減するようになった。敵の射程範囲であるのに兵士がぶらぶら歩きまわるようになり、12月頃には敵味方のあいだに親交ができた。さらに敵陣に砲弾が落ちてしまうと謝罪する兵士まで出てきた。兵士たちは、敵とたすけあっていることが上官にバレないように、あたかも攻撃しているかのようなふりをしていた。攻撃が儀式化してしまったのである。
これらのうわべだけで、毎日お決まりになっていた発砲という儀式は、二つのメッセージを送っていたのである。最高司令部に対しては彼らが攻撃していることを知らせ、敵に対しては平穏無事なことを伝えていたのである。攻撃しろという方針を履行しているかのように見せかけ、実は履行していなかったのである。(Axelrod, 1984 松田訳 1998, p. 91)
権力者(司令部)には命令どおり攻撃しているふりをしながら、実際には儀式的な攻撃しかしていなかった。国家権力が命じる戦闘を骨抜きにする間接的抵抗である。この事態をAxelrodは、くり返しのある囚人のジレンマにおける応報戦略という観点から解釈した。Axelrodの解釈が正しいとすれば、間接的抵抗は、状況(くり返しのある囚人のジレンマ)に誘発される場合があるのであって、確固たる思想や良心を必要条件としない12)。
沖縄戦の戦場で1945年、沖縄で凄惨な地上戦がおこなわれた。沖縄住民に対して皇軍がおこなった数々の残虐行為(スパイ名目の殺害、食料強奪、避難壕からの追出し、投降住民殺害など)、また沖縄戦をどうとらえるかについてはたくさんの優れた概説(e.g., 安仁屋,1974; 林,2010; 大城,1988)があるのでここでは論じない。以下では、皇軍兵士による間接的抵抗に論述を絞る。なお、以下の事例を読むにあたって、軍部は「軍官民共生共死」による徹底抗戦を唱え、沖縄の住民や学徒を戦場動員していたことを念頭においていただきたい。
沖縄戦が始まったとき、沖縄本島北部には宇土武彦大佐の国頭支隊が展開していた。宇土の率いる国頭支隊主力は名護西方の山中にいた。また国頭支隊配下で村上治夫大尉の率いる第三遊撃隊は名護東方の山中にいた。宇土と村上について、沖縄戦記録の嚆矢『鉄の暴風』(沖縄タイムス社,2001 初版 1950)は対照的な描写をしている。村上の描写はとても肯定的なものであり、責任感が強く、部下や住民からの信頼も厚かったという。筆者自身、沖縄戦の最中に村上と対面した人物に面接をしたことがある。辻本(2017)は東江平之の生活史を記録したものであるが、それによると当時、中学生だった東江は鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員され、戦場の陣地で村上と対面した。当時の東江に村上は立派な人物にみえたという。
一方、『鉄の暴風』における宇土の描写は相当に否定的で、陣中で堕落した生活をおくり、ろくな反撃もせずにひたすら敗走したことになっている。宇土はスパイではないかとささやく者もいたらしい(ひめゆり平和祈念資料館,2020, p. 154)。米軍の攻撃を被り敗走した宇土の部隊は村上のもとに向かったが、その戦意低下を慨嘆した村上は「敗残兵許可なく立入を禁ず」と大書して要所にはり付けた(防衛庁防衛研修所戦史室,1968, p. 365)。当時、宇土に憤慨する住民もいたという。
しかしながら、宇土の行動を多面的に評価すべきとの指摘もある。比嘉(2004 初版 1958)は、宇土の戦闘指揮が消極低調であったので住民は戦禍を避けることができたのであり、「無謀な抗戦を拒否した大佐の深謀遠慮こそは住民の福音であった。唯惜しむらくは若い十代の鉄血勤皇隊と護郷隊を駆って真部山前線の餌食に供したことであった」(pp. 280–281)と記している。宇土が徹底抗戦をしていたら住民の犠牲がさらに膨らんでいた可能性がある。
林(2001)は、宇土部隊の敗残兵による残虐行為などの問題があった一方で、名護にあった第三高等女学校(三高女)の女学生の動員を宇土が避けたことを踏まえ、「三高女の学徒隊への動員数も犠牲者も他の学校に比べてきわめて少なかったのは、宇土隊長の判断のおかげであったと言えるだろう。そういう意味では彼はたんなる臆病な将校ではなかったのかもしれない」(p. 280)と記している13)。
宇土が何を考えていたのかまったく定かではないし、またそうしたことは本稿の論点ではない。本稿にとって重要なのは、宇土のとった行動が徹底抗戦を骨抜きにし、結果的に犠牲者を減らした可能性である。これが事実だとすれば宇土の行動は間接的抵抗だったといえる(本稿の定義は、主観ではなく行動に着目していることに留意されたい)。
間接的抵抗をしたらしき軍人は他にもいる。沖縄県立第二中学校の学徒隊(鉄血勤皇隊)を率いた高山配属将校は沖縄戦で以下のような行動をとった(林,2001, pp. 288–289; ひめゆり平和祈念資料館,2020; 沖縄二中三岳会の記録編集委員会,1992)。高山には、沖縄戦直前、学徒隊を非激戦地に配属しようと画策したふしがある。実際、高山の率いる学徒隊は激戦地である沖縄本島南部ではなく北部に向かい、宇土の部隊に加わった。また高山は、武器や食料の不足にかこつけて学徒隊をさっさと解散しようとしたり、敵を目前にして学徒の肉弾攻撃を取り止めにしたりするなど、終始、のらりくらりとした行動をとった。
当時、第二中学校の生徒だった島田政朝は、『沖縄二中三岳会の記録』に寄せた文章で、砲爆撃のなか家族と壕に隠れているところに銃をもった米兵が来たときの模様を記している。そのとき島田は、高山の言葉を思い出し、手榴弾を捨てて投降したという。
戦陣訓に「生きて虜因の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。」とあるが、配属将校の高山代千八中尉・・・がそっと教えてくれたことがある。「国際法で捕虜は殺さないことになっているから、沖縄が戦場になり、そういう場面に遭遇しても、鉄血勤皇隊員であったことは絶対に言うな。中学生であることで押し通せ。そのために、陸軍二等兵の階級章のついた軍服は着けさせないから。」(沖縄二中三岳会の記録編集委員会,1992, p. 124)
高山が何を考えていたのかまったく定かではないし、またそうしたことは本稿の論点ではない。本稿にとって重要なのは、高山のとった行動が徹底抗戦を骨抜きにし、結果的に犠牲者を減らしたことである。
沖縄戦では、投降しようとする住民を殺害した皇軍兵士がいた一方で、ひそかに住民に投降を勧めた皇軍兵士もいた。ひそかに住民に投降を勧めた兵士は間接的抵抗をしていたといえる。投降を勧めた兵士は住民から非難されることがあった。兵士として沖縄戦に投入され、沖縄戦末期に軍から逃亡した渡辺憲央は以下のような出来事を記している。砲弾飛び交う沖縄本島南部を彷徨していた渡辺は、そのとき山羊小屋に潜んでいた。そこに住民の男が二人の少女をつれて入ってきた。渡辺はこう語りかけた。
「もうこうなっては袋の鼠ですよ」と私はいった。「いくら逃げても、あとは海だけです。捕虜になりなさい。宣伝ビラを見ているでしょう」
だが、男はとたんにけわしい表情になった。
「兵隊さん、なにをいうのですか。兵隊さんがそんなことをいっては困ります。私は捕虜になるくらいなら死にます」
男はそういうと、兵隊からもらったという手榴弾を出して見せ、「私はさっき、一番上の娘を殺してきました」と、小さいほうの少女を指差しながらいった。
「この子を長女に背負わせて歩いていたんです。大砲の破片が長女の顔に当たり、顔の半分がなくなってしまいました。娘は泣き声をたてていましたが声になりません。ただ、ヒーヒーという悲鳴だけです。私はあまりの不憫さに、思わずこの手で長女の首を締めて殺してしまいました」
この手で、と男は震える両手を私の前に差し出して見せた。・・・私は激しい怒りを覚えた。捕虜になったら殺される。民間人も兵隊とともに徹底的に戦えと命じたのは、いったい誰だ。(渡辺,2000, pp. 130–131)
間接的抵抗という概念には誤解を招きやすいところが多々ある。無用の誤解を防遏するため、本節前半では間接的抵抗の精密な概念規定をおこない、本節後半では非暴力主義やテロルといった事象と比較対照しながら間接的抵抗の特徴を明らかにしていく。本節後半は、間接的抵抗を光源にして非暴力主義やテロルの特徴を照らし出す作業でもある。本節の議論はいささか迂遠な印象をあたえるかもしれないが、間接的抵抗の本態をとらえるうえで欠かせない。
定義の再検討本稿冒頭で、間接的抵抗を「処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動」だと定義した。この定義について注意すべき点が三つある。
第1に、定義の「処罰を被らないかたちで」という部分は、厳密には「処罰を被る可能性が低いかたちで」というように程度問題とみなすべきである。ここまで間接的抵抗として提示した事例は、処罰を被る可能性がかなり低いものだが、処罰を被る可能性がゼロだとまではいいきれない。
第2に、定義の「骨抜きにする行動」という文言の外延を広くとらなければならない。この文言を「権力者の非人道的行為を完全に阻止する行動」の意だと狭く解釈してしまうと、提示した事例のかなりが間接的抵抗ではなくなる。たとえば、一人の兵士が戦場で発砲しなかったからといって権力者が戦争を遂行できなくなるわけではない。ほとんどの場合、個々の間接的抵抗は権力者に大きな打撃をあたえない。しかし、間接的抵抗を数多く集積させれば権力者に大きな打撃をあたえられる。以上のような含意のもとに定義では「骨抜きにする行動」という文言を使っている。間接的抵抗の集積と打撃力については総合考察でくわしく論じる。
第3に、間接的抵抗と直接的抵抗が重層構造をなす事態に注意しなければならない。具体例を挙げて考えよう。第3節で言及した金子光晴について、鶴見俊輔は討論会で以下のような発言をしている。
金子光晴は『思想の科学』に天皇を批判する文章を書いたけれども、そのあと右翼から脅迫状がきたらば、さっさとそれに謝り状を書いているというふうにね。そうかといってそのあと天皇制を批判しないかというと、またベ平連へ出てきて演説をやったりいろんなことをやっているわけだ。(思想の科学研究会,2013, pp. 207–208)14)
天皇制批判の部分だけを切り出せば直接的抵抗なのだが、右翼に脅迫されたらさっさと謝り状を書いてしまうことなど、一連の出来事を全体としてみれば処罰(右翼の襲撃など)の回避を優先しており間接的抵抗だといえる。一般に、一つの出来事は下位水準の複数の出来事から成る。もちろん、下位水準の出来事それぞれが、さらに下位水準の複数の出来事から成る(辻本,2021)。上に引いた出来事では間接的抵抗が下位水準において直接的抵抗を含んでいる。どの水準で直接的抵抗/間接的抵抗の判定をすべきかは、当該状況のあり様や判定者の問題関心による。
以上、定義にかんする注意点を述べた。上では「可能性が低いかたち」「当該状況のあり様や判定者の問題関心による」といった曖昧文言を使っている。定義に曖昧さが残るとしても、間接的抵抗概念の導入により、これまで看過・軽視されてきた抵抗形態を論じられるようになる利点はきわめて大きいというのが本稿の立場である。
討論場面や実践現場での使い勝手を考慮すると定義は簡潔でなければならない。たいていは本稿冒頭で提示した簡潔な定義で事足りるはずである。簡潔な定義を使うのを基本とし、必要に応じて如上の注意点を参照することを推奨する。
状況と間接的抵抗間接的抵抗は状況から切り離して考えることができない。とりわけ処罰の強度と抵抗との関係は間接的抵抗研究の基本定理というべきものである。一般に、処罰が苛烈になるほど、直接的抵抗をする敷居が高くなり、直接的抵抗はできないが間接的抵抗ならできるという人が増える。たとえば戦前戦中の日本では、治安維持法の成立(1925年)とその後の同法改悪(1928年、1941年)によって、国体という融通無碍な概念を使って何でも取り締れるようになり、特別高等警察(特高)や思想検察による弾圧と肉体拷問が苛烈化していった。こうなると直接的抵抗はできないが、間接的抵抗ならできるという人が増えてくる。一方、処罰が軽微であるなら、直接的抵抗をためらう人は相対的に少なくなる。権力者の処罰に実効性がまったくない場合(e.g., 国家崩壊状態)には、定義により直接的抵抗と間接的抵抗の区別が意味をなさなくなる。なお、緒言で述べたように、本稿は、権力者が苛烈な処罰をくわえてくる状況に焦点をあてていることをここで再確認しておく。
もう一つ、基本定理というべきものがある。それは禁圧・強制の範囲と間接的抵抗との関係である。禁圧・強制の種類を増やすほど、間接的抵抗の種類も増える。たとえば、徴兵を強制するから徴兵忌避が間接的抵抗になる。徴兵の強制がないなら徴兵忌避はありえない。君が代斉唱を強制するから、起立して口パクをすることが間接的抵抗になってしまう。君が代斉唱を強制しなければ、口パクは間接的抵抗ではなく、たんなる奇矯なふるまいでしかない15)。
以上のほかにも、状況と間接的抵抗との関連として論ずべき点がたくさんある。ここでは科学技術の進歩による状況変化にのみ言及しておく。第3節で触れたように、かつては反体制落書きが間接的抵抗になった。しかし、現代ではそうはならないだろう。近年の日本では、監視カメラの大量設置により民衆一人一人の行動を細かく監視・記録できるようになっている。昨今の報道からわかるように、都市部で犯罪が発生したとき、あちこちに設置してある監視カメラの記録を分析して犯人を特定できる場合が少なくない。今後、もし日本が全体主義国家になったとしたら、監視カメラを駆使して反体制落書き犯を検挙できる可能性がかなりあるだろう。また、第4節で提示したような戦場の間接的抵抗をやれる余地は現代では少なくなってきている。現代の地上戦では、顔の見える距離で兵士が殺しあう戦闘は減少し、誘導ミサイルや無人攻撃機による殺戮と破壊が中心になっている。
価値判断と間接的抵抗間接的抵抗の同定は価値判断に依存する。その理由は、間接的抵抗の定義「処罰を被らないかたちで権力者の非人道的行為を骨抜きにする行動」に含まれる「非人道的」という言葉にある。
非人道的という言葉を使わないと間接的抵抗を定義できない。非人道的という言葉を削除して「処罰を被らないかたちで権力者の行為を骨抜きにする行動」を間接的抵抗の定義にすると、いったいどうなるか。たとえば、非人道的でない国家の官僚が職務を手抜きすること、まっとうな企業の従業員が上司に虚偽報告をすること、きちんとした教育機関の教職員が機密情報を漏洩すること、こうした反社会的行動がすべて間接的抵抗になってしまう。間接的抵抗を同定するには、権力者が非人道的行為をしているとの先行価値判断を要する。
非人道的か否かの価値判断が異なる人のあいだでは、間接的抵抗の同定も異なってしまう。たとえば、筆者にいわせればかつての15年戦争は非人道的侵略戦争であり、だから当時の徴兵忌避は間接的抵抗にあたる。一方、ある人々は15年戦争を正しい戦争だったと考えており、そうした人々は当時の徴兵忌避を間接的抵抗ではなく反社会的行動だとみなす。間接的抵抗と反社会的行動は紙一重である。ある人からみれば間接的抵抗であるものが、別の人からみれば反社会的行動である。ある人からみれば反社会的行動であるものが、別の人からみれば間接的抵抗である。価値判断を回避した間接的抵抗研究はありえない。
実証性と公共性価値判断をともなう間接的抵抗研究は、実証的な学問、公共性のある学問たりえるのか。この疑念を生みだすのは四つの謬見である。以下、四つの謬見をひとつひとつとりあげ、謬見である所以を論証していく。
第1の謬見は「実証的な学問は価値判断をともなわない」というものである。実証研究と価値判断は相容れないとするこの命題は明らかに誤りである。たとえば、ある価値判断のもとで間接的抵抗だとみなした行動について、当該行動をした人数、当該行動をした人の所属集団、当該行動が社会にいかなる影響を及ぼすのか、こうした点は実証研究の俎上にのせられる。実際のところ、社会科学の概念のかなりが暗黙のうちに価値判断をともなっているが、だからといって実証研究ができなくなっているわけではない。
第2の謬見は「異なる価値観をもつ者のあいだで間接的抵抗の同定について合意するのは不可能だから、間接的抵抗研究には学問としての公共性がない」というものである。異なる価値観をもつ者のあいだで間接的抵抗の同定について合意するのが難しいのは事実である。しかし、真正な対話により最終的に合意できることもある。ここでいう真正な対話とは、自分がもつ知識の有限性をわきまえ、自分の立場のみならず相手の立場からも自他の主張を吟味し、互いに説明と批判をかさねる謂いである。異なる価値観をもつ者のあいだでの合意は不可能だとする極端な相対主義者は、価値観が異なっていても真正な対話により合意に到達できることがあるという自明の経験的事実を無視している。さらにいえば、第2の謬見に陥る者は、対象同定についてつねに合意できなければ公共的な学問とはいえないという突飛な考え方に固執している。対象同定について合意できる可能性さえあれば学問としての公共性がある。これを認めないと社会科学研究のほとんどを否定することになってしまう。社会科学の多くの領域で、ある概念が何を指すのか、侃々諤々の論争がなされていることを想起すべきである。
第3の謬見は、社会科学研究における価値判断を、私的な信仰や心情にもとづく価値判断と混同することである。社会科学研究における価値判断は、私的理由ではなく公共的理由を挙げて正当化できるものでなければならない。これはごく当たり前のことである。たとえば国家権力のある行為が非人道的であるか否かの価値判断は、歴史的経緯・国内外情勢・意思決定過程・人権侵害性といった公共的理由を挙げて正当化できるものでなければならない。「私がそう信じているから」「神の啓示をうけたから」といった私的理由による価値判断を社会科学研究にもちこむべきではない。公共的理由にもとづく価値判断をめぐる真正な対話は、合意到達を保証しないが、合意到達の可能性はもつ。第2の謬見と第3の謬見は無関係ではない。極端な相対主義者には、私的な信仰や心情にもとづく価値判断を念頭においているふしがある。
第4の謬見は「間接的抵抗の同定について合意できなければ、研究者の協働による研究発展を図れない」というものである。これについては仮想例を挙げて論じたい。集団Aと集団Bがあり、互いに相手を非人道的だと非難しているとする。また、集団Aを人道的とし集団Bを非人道的とみなす研究者αと、集団Bを人道的とし集団Aを非人道的とみなす研究者βがいるとする。集団Aのある成員aは、集団Aの規則に対して面従腹背行動をとっている。成員aの行動は、研究者βからみれば間接的抵抗だが、研究者αからみれば反社会的行動である。集団Bのある成員bは、集団Bの規則に対して面従腹背行動をとっている。成員bの行動は、研究者αからみれば間接的抵抗だが、研究者βからみれば反社会的行動である。さて、研究者αと研究者βが間接的抵抗について研究したとき、ともに合意できる知見に到達する可能性はあるだろうか。大いにある。たとえば、次節の総合考察で「一人の人間による間接的抵抗が権力者にあたえる打撃は無に等しいが、たくさんの人間が間接的抵抗をすれば権力者に大きな打撃力をあたえられる」という命題を主張するが、これについては研究者αも研究者βも合意するに違いない。一般性をもたせるため理論的知見は抽象的に定式化される。個々の対象同定について合意できなくとも、抽象的に定式化された理論的知見については合意できる可能性がある。これが意味するのは、たとえ価値判断が異なっていても、研究者同士が研究成果をつき合わせ、理論の発展を図っていけるということである。もちろん、研究者αと研究者βが異なる理論的知見を主張する場合もたびたびあろう。この場合は、異なる理論的知見が導出された原因が何なのか、研究成果をつき合わせて検討し、理論の発展を図ることができる。
以上、四つの謬見をめぐる議論を踏まえれば、間接的抵抗研究が実証性や公共性を欠いているとの批判が不当であることは明白であろう。
消極的抵抗について間接的抵抗は従来の文献で謂う消極的抵抗のことであり、間接的抵抗という言葉を新たに導入するのはいたずらに議論を混乱させるだけではないか——こんな批判が本稿に対して投げかけられるおそれがある。従来の文献を概観しながら消極的抵抗と間接的抵抗の違いを明らかにしていく。
従来の文献では、権力者に積極的に協力しないことを指して消極的抵抗と呼んでいる場合がある。たとえば丸山眞男は「日本ファシズムの思想と行動」において、戦前日本のインテリについてこう述べている。
インテリは日本においてはむろん明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹し、積極的に表明した者は比較的少く、多くはファシズムに適応し追随しはしましたが、他方においては決して積極的なファシズム運動の主張者乃至推進者ではなかった。むしろ気分的には全体としてファシズム運動に対して嫌悪の感情をもち、消極的抵抗をさえ行っていたのではないかと思います」(丸山,1995a, p. 297)。
いささか不明瞭な文章なのだが、ファシズムを積極的に推進せず内心では嫌悪していたインテリの全体的なあり方を指して消極的抵抗という言葉を使っているといえよう。こうしたインテリは、本稿の用語系からすれば間接的抵抗者ではなく無抵抗者である。内心で嫌悪するだけでは「非人道的行為を骨抜きにする行動」とはいえないからである。後に丸山(1995b, p. 255)は、上に引いた文章に補註を追加して、インテリの精神的姿勢にとらわれすぎており消極的抵抗の過大評価になりかねないこと、当時のインテリが体制への黙従に流れこんでいった過程を解明しなければならないことを指摘した。この指摘は本稿の立場と軌を一にする。精神的姿勢や内心などといったものは抵抗研究にとって副次的論点にすぎない。
無抵抗と消極的抵抗を同一視する例は他にもある。家永(1968)は、15年戦争中にみられた積極的抵抗と消極的抵抗を数多くの事例に言及しながら論じている。家永のいう消極的抵抗とは、文筆人の転業や芸術・学問への専念といったことである。これらは本稿の用語系では無抵抗である。また家永のいう積極的抵抗は、軍隊脱走や公然たる兵役拒否といった(本稿の用語系でいう)直接的抵抗にくわえて、徴兵忌避という(本稿の用語系でいう)間接的抵抗も含んでいる。家永の積極的抵抗・消極的抵抗の区分と、本稿の直接的抵抗・間接的抵抗の区分は一致しない。
いま一つ、家永のいう消極的抵抗と本稿の間接的抵抗には違いがある。家永は消極的抵抗についてこう述べる。
消極的抵抗も、迎合・便乗と区別されたかぎり抵抗に相違ないが、直接戦争の進行を妨害する社会的効果はなく、個人の良心を維持し、または戦後の再建にそなえるという長期的な観点からのみその意義が認められるにすぎぬ。(家永,1968, p. 240, 傍点筆者)
次節で述べるように、間接的抵抗は「個人の良心を維持」するという意義を必ずしももたない。むしろ良心といった大仰な事柄と結びつく必然性がないところに間接的抵抗の強みがある。
他にも消極的抵抗の用法がある。ガンディーが敢行したような非暴力主義の抵抗を消極的抵抗と呼ぶことがある(非暴力主義はつぎに論じる)。歴史学では,1923年のフランス・ベルギーによるルール出兵に対しドイツ側がおこなったストライキなどを消極的抵抗と呼ぶことがある。ようするに消極的抵抗という言葉の用法は論者によりまちまちなのである。
非暴力主義について間接的抵抗は、非暴力主義による抵抗(以下、非暴力抵抗と表記)と混同されやすい。すべてではないが、ほとんどの間接的抵抗は暴力をもちいないからである。しかしながら、間接的抵抗と非暴力抵抗は、概念として厳しく区別すべきものである。
間接的抵抗と非暴力抵抗が異なる概念であることは、非暴力抵抗の主要形態を見てみればわかる。従来、非暴力抵抗の主要形態とされてきたのは、乱闘や殺傷などをともなわないかたちでのデモ行進・ストライキ・座り込み・ボイコット・断食・法律不服従などである。これらの非暴力抵抗は本稿の用語系では間接的抵抗ではなく直接的抵抗である。
非暴力抵抗を世に知らしめたのはイギリスのインド支配と闘ったガンディーである。ガンディー流の非暴力抵抗は、法律に対する不服従を公然と敢行し、権力者から暴力をふるわれても非暴力で耐え抜く。ガンディーの非暴力抵抗でもっとも有名なのは1930年の「塩の行進」であろう(Fischer, 1951 古賀訳 1968; 竹中,2018)。塩法に抗議するために、ガンディー率いる数十名の一団が海岸へ向けて行進を開始した。ガンディーを一目見ようとたくさんの民衆が押し寄せた。ガンディーらは3週間ほどかけて海岸に到着した。ガンディーは海水で身を清めた後、海岸の塩を拾いあげた。政府専売以外の塩の所有を禁じた塩法に対する不服従の表明である。塩の行進をきっかけに、自分たちで塩をつくって売買する塩法不服従運動が拡がり、これに対して警察は暴力と逮捕で応じた。塩法不服従運動のなかには製塩所への押しかけもあった。その模様を竹中(2018)が以下のように書いている。
先遣隊は、ガンディーの妻のカストゥルバと高齢の裁判官が率いたが、彼らが逮捕されると、女性のサロジニ・ナイドゥーとイスラーム教徒のマウラナ・A・K・アーザードが先導して非暴力の行進を行った。警察は製塩所の入り口を閉鎖し、指導者たちを逮捕し、隊列を組んで前進する人々を何とか押し止めようとした。白いカーディーをまとった人々が黙々と進み、警棒で殴られて次々と血を流して倒れていく情景が、海外の新聞記者によって即座に報道され、世界中に伝えられた。(竹中,2018, p. 117)
ガンディー流の非暴力抵抗は二つの点で間接的抵抗とするどい対照をなす。第1に、非暴力抵抗者は非暴力主義の思想を深く信奉し、処罰を怖れず自分の体を張り、身体的苦痛を積極的に引き受ける。いくらひどい処罰を被っても非暴力で耐え抜くのが非暴力抵抗の真骨頂である。一方、間接的抵抗の核心は処罰を被らないことにある。間接的抵抗者は自分の体を張らない。
第2に、非暴力抵抗者は公の場で行動し、自分たちの闘う姿を人々に見せつける。上に引いた製塩所押しかけにおいても、世界中に報道されるのが肝要だったのである。警察や軍隊が非暴力抵抗者を殴打したり逮捕したりしている光景を国内外の人々に見せることにより、権力者の不当性と残虐性を暴露し、国内外の世論を味方につけられる。卓越した非暴力抵抗指導者は「見せる」ことの戦略的効果をしたたかに計算している。一方、たいていの間接的抵抗は、権力者の眼が届かない世の片隅でこっそりおこなわれる。
非暴力抵抗者は警察や軍隊に殴られ逮捕されることに戦略的意味を見いだすが、間接的抵抗者は殴られたり逮捕されたりする行動をとらない。
暴力をともなう間接的抵抗間接的抵抗と非暴力抵抗が異なる概念であることは、暴力により権力者と対決する間接的抵抗の存在からもわかる。本稿における間接的抵抗の定義をきちんと読めばわかるように、間接的抵抗の概念は暴力を排除するものではない。ここでは暴力をともなう間接的抵抗として江戸時代の一揆をとりあげてみる。
江戸時代、一揆は禁じられていたが、苛酷な収奪を課す領主に対する百姓一揆が頻発した。安丸(1999)によれば、百姓一揆参加者が、一揆に参加したがらない者に対して焼き払いや打ちこわしをするといった脅しをかけ、一揆への参加を強制することがあった。だが、なかには、脅しによる参加強制を待ち望む百姓がいたという。そして一揆の後で役人から糾明された場合には「強制されてやむをえず参加した」という弁明をして処罰を逃れた。つまり「参加強制とは、人々が容易に一揆に参加してゆくための方式」(安丸,1999, p. 346)だった。同様の指摘が山田(1981)にもある。
おそらくは、初めは共同体規制からの解き放ちの手段として有効であった焼打ちの威嚇は、後には強制された不本意な一揆参加だった、という領主への弁明の口実として用いられたであろう。領主側でも頭取層とそれに続く重立層を見せしめに極刑・厳刑に処する一方、右の弁解を理由として一般の一揆参加百姓は過料・手鎖・叱りなどの軽い刑罰を科して処置したのである。(山田,1981, pp. 87–88)
上は、出来事の重層構造(定義の再検討を参照)を考慮して解釈しなければならない。一揆実行場面において百姓は暴力を公然と行使する。一揆実行場面(下位水準の出来事)だけを切り出せば直接的抵抗にみえる。しかしながら、脅しによる参加強制・一揆実行・糾明に対する弁明・処罰回避といった一連の出来事全体を一つの出来事(上位水準の出来事)とみなせば、処罰を被らないかたち(あるいはごく軽い処罰しか被らないかたち)をとっており間接的抵抗だといえる。
テロルについてテロルには、権力者を暗殺するものと、一般民衆を無差別に殺害するものがある。両者は内実がまったく異なっており、区別して論ずべきものである。以下では前者をとりあげる。権力者暗殺と間接的抵抗を比較対照することにより間接的抵抗の姿形が鮮明になる。
近代日本はテロリスト大国だった。幕末から維新の時期には陰惨な暗殺が多発した。明治から昭和にかけても、大久保利通、板垣退助、濱口雄幸、原敬、井上準之助、團琢磨など、多数の要人が暗殺や暗殺未遂に見舞われた。こうした数々の事件のうち、権力者を狙ったという点からすれば、なんといっても虎ノ門事件をとりあげるべきだろう。これは1923年12月27日、東京・虎ノ門において、難波大助が、摂政であった皇太子(後の昭和天皇)をステッキ銃により狙撃したものである。大助はなんらかの組織の一員として暗殺を企てたのではない。彼は孤高の暗殺者だった。虎ノ門事件の翌年、大助は死刑に処された。
山口県の名家に生まれた大助は紆余曲折の人生を歩んだ。1910年に幸徳事件があり、虎ノ門事件の直前には、関東大震災時の官民による朝鮮人虐殺事件、軍と警察が労働運動家を殺害した亀戸事件、憲兵が大杉栄らを殺害した甘粕事件など、国家権力が直接間接に関与した虐殺事件が続発していた。こうした国家権力の不正義に大助は憤激していたという(今村,2012 初出 1925; 中原,2002)。
大助が、市ヶ谷刑務所内で父に宛てて書いた遺書(1924年2月13日付)が残されている。
親というものの存在に呪いあれ。私は不孝者で沢山だ。親というどえらい権威者に対して、私の憎悪を叩きつけておくことは極悪非道者としての私の義務と存ず。・・・一切を解放へ——束縛から自由へ。専横と貪慾から博愛へ。私の切望することは所詮これに過ぎないのです。人間は何時迄も羊ではない。鉄鎖もよく人間を縛ることは出来ないのです。暴圧に対する恐しき反撥力の所有——一個の人間の力に戦慄せよ。・・・私は死を決して恐れず、従容として絞首台に昇ります。(中原,2002, pp. 199–205)
「一個の人間の力に戦慄せよ。・・・私は死を決して恐れず、従容として絞首台に昇ります」暗殺者を象徴する言葉である。暗殺者にかんする記録・思想・評論・文学(Camus, 白井訳 1973, 佐藤・白井訳 1973; 埴谷,1962; 笠井,1993; 中島,2013; 大佛,1953; Ropshin, 1913 工藤訳 1968; Savinkov, 1926 川崎訳 1975; 鈴木邦男,1988; 高橋,1969)が表象する暗殺者の精神遍歴を、いささか乱暴であることを承知で一つの理念型にまとめあげると、こんなふうになろう——暗殺者は、搾取されている民衆が権力者にひたすら黙従することに絶望し、目的は手段を浄化するのか考え抜き、自分が捨て石となって不義不正を匡すとの観念をせり上げ、みずからの死を贖罪に権力者暗殺に及ぶ——。暗殺者の精神遍歴には、現実から乖離した観念が歯止めを失って暴走していく様相がある。一個の肉弾と化して権力中枢を襲う暗殺者、その姿が世の人々を震撼させる。
一方、「一個の人間の力に戦慄せよ。・・・私は死を決して恐れず、従容として絞首台に昇ります」などという言葉を間接的抵抗者が吐くことは絶対にない。間接的抵抗者は死ぬ覚悟など語らない。自分一個の力でこの世から不正義を廃絶するなどという主張もしない。処罰を被らないという現実的損得勘定を最優先にする間接的抵抗者もいる。権力者暗殺は世の人々を震撼させるが、間接的抵抗は姑息だとして世の人々から否定的に評価される。
ところで、虎ノ門事件については、難波大助もさりながら、事件後に周囲の人々がとった行動にも注意を向けるべきである。虎ノ門事件後、何が起こったのか。内閣は総辞職、警視総監は免官、山口県知事は減俸、大助の生家があった村の村長は「国賊」を出した責任をとって辞任、大助が通った小学校の校長は辞表を提出し謹慎した。代議士であった大助の父は閉門蟄居し半年後に死去した。閉門蟄居した家の表門には青竹が斜十文字に打ち付けられていたという。丸山(1961)によれば、当時、東京大学で教鞭をとっていたE・レーデラーは、大助の行動よりも、こうした周囲の人々の行動に衝撃を受けたという。事件後、大助の親族が被った苦難は言葉を絶するものがある。
上に挙げた周囲の人々の行動は天皇制ファシズムへのファナティックなのめり込みを示すが、民衆には別の一面もあった。中原(2002, p. 232)によると、虎ノ門事件の報道解禁時(1924年9月)、大助の生家がある周防村で行われた宣誓式の決議文に「村民の共同責任たることを感じ、此の汚辱を償い、皇室中心の至誠を表さんとす」とあるのだが、そもそも「周防村民は難波大助の起した事件であると知っていたが、自分たちに責任があるとは思っていなかった。しかし、全く思いがけず国賊を出した村の人間としての責任を感じさせられることになってしまった」のだという。村人が責任を感じたというよりも、責任を感じているふりをせざるをえなかったというのが真相だったようである。
永井荷風は、日記「断腸亭日乗」(1924年11月16日)に、虎ノ門事件を冷ややかに眺める文を綴っている。
都下の新聞紙一斉に大書して難波大助死刑のことを報ず。大助は客歳虎之門にて摂政の宮を狙撃せんとして捕へられたる書生なり。大逆極悪の罪人なりと悪むものもあれど、さして悪むにも及はず、又驚くにも当らざるべし。皇帝を弑するもの欧洲にてはめづらしからず。現代日本人の生活は大小となく欧洲文明皮相の摸倣にあらざるはなし。大助が犯罪も亦摸倣の一端のみ。洋装婦人のダンスと何の択ぶところかあらんや。
難波大助死刑大助ハ社会主義者ニアラズ摂政宮演習ノ時某処ノ旅館ニテ大助ガ許婚ノ女ヲ枕席ニ侍ラセタルヲ無念ニ思ヒ腹讐ヲ思立チシナリト云フ(永井,1993, p. 296)
最後の文が示すように、虎ノ門事件をめぐる流言を永井荷風は耳にしていた。虎ノ門事件後、難波大助が事件を引き起こした理由についてある流言が拡がった。流言の内容は、皇室に対する「不敬」のきわみともいうべき劣情喚起的なものだった。この流言に言及している史料や文献(井上,1995; 内務省警保局,1940, 1942; 中原,2002; 大岡,1983, p. 537; 大塚,1967; 牛島,1977)をみると、この流言が日本各地、しかも上流社会から下流社会に至るまで急速拡散し、戦後も囁かれていたことがわかる16)。
総じていえば、戦前戦中の人々には、天皇制ファシズムにファナティックにのめり込む面と、天皇制ファシズムから冷ややかに距離をとる面があった。この両面性を自身の体験に即して書いているのが藤田(1967)である。
私達は子供の時から近所の小父さんや小母さんから、しばしば、大正天皇はどういうことをしたとか、何々天皇は何だとか実に卑猥なコンテクストで天皇のことを話して聞かされた。中学校の修身の教師も公式には宮城遙拝の号令を厳粛な声でかけながら、授業中にはさむ冗談の中ではわざとオッチョコチョイらしい声を出して「天皇陛下も小便する」などというつまらない「ユーモア」を喋って見せたりした。少年時代の私は、こういう話を聞くたびにひどく腹立たしかった。天皇を欽仰するのなら蔭日向なくそうするべきだと思った。日本の国民は蔭では軽く扱っている天皇を公式の場所では深く敬い、日向では本心から尊敬している天皇を裏では本心から軽く扱って来たのである。(藤田,1967, pp. 114–115)17)
こうした両面性は、総合考察の「マスとしての民衆はどっちに転ぶかわからない」という論点に関連する。
総合考察に向けて間接的抵抗と直接的抵抗という区分法に対する批判に答えて、次節の総合考察への橋渡しとする。
間接的抵抗と直接的抵抗という区分法は粗すぎる、もっと細かく抵抗形態を分類しなければまともな研究にならないとの批判があるかもしれない。どれほど細かく分類すべきかは、何を主張したいかによる。本稿の核心は次節の総合考察である。間接的抵抗と直接的抵抗という区分法が適切かどうかは、総合考察が意義ある内容をもっているかどうかにより判断されるべきである。
間接的抵抗と直接的抵抗のさまざまな組み合わせを考慮すべきとの批判もあるかもしれない。一人の人物が間接的抵抗と直接的抵抗を使い分けている場合がある。一人の人物が、最初は無抵抗だったが、やがて間接的抵抗をするようになり、最後には直接的抵抗に決起するという通時的変化もある。こうした複雑な組み合わせがきわめて重要な論点であることはいうまでもない。しかしながら次節の総合考察では、間接的抵抗者と直接的抵抗者という2種類の人間が存在するという極度に単純化した想定で議論をおこなう。これは、本稿の核心的主張を簡潔かつ明確に示すための措置である18)。
総合考察は理論的観点と実践的観点を融合させたものとなる。社会心理学、あるいは社会科学一般には、理論的原理探求志向と実践的課題解決志向があることが論じられてきた(Lewin, 1951 猪股訳 1956; 杉万,2000; 竹村,2004)。前節の価値判断論からわかるように、正義や倫理をめぐる価値判断を明確にしないと間接的抵抗研究はおこなえない。特定の価値判断に立脚した実践的観点を間接的抵抗研究がもつのは至極当然であろう。抵抗研究が、非人道的権力者のもとにおかれた人々が直面している課題の解決——権力者にどう抵抗すればよいのか——と無縁であったら、およそ的外れの誹りを免れない。
総合考察の主眼は、間接的抵抗が発生する因果関係の特定にあるのではない。権力者による非人道的行為を阻止するうえで間接的抵抗がどれほど有効なのか、間接的抵抗の限界はどこにあるのか、間接的抵抗と直接的抵抗の関係はいかにあるべきか、こうした点を理論と実践の両面から見定めることが総合考察の主眼である。
考察の見通しがよくなるように、あらかじめ本節の論述構造を図2に示しておく。図2の各項は本節内の見出しに対応する。図2は、諸事象を関連づける解釈枠組みであって、因果関係を示すものではない。
まずもって確認すべきは、多数の人々が間接的抵抗をすれば非人道的行為をする権力者に大きな打撃をあたえられることである。これは、すでに言及したLevi(1986 竹山訳 2000)や金子(1976)が示唆していたことでもある。一人の人間による間接的抵抗が権力者にあたえる打撃は無に等しい。だから「そんなことをしたって何も変わりはしない」と間接的抵抗は批判される。しかし、たくさんの人間が間接的抵抗をすれば権力者に大きな打撃をあたえられる。
これをきちんと理解するには、権力者に対して多数の人々が間接的抵抗をしている状況をありありと想像してみればよい。この状況では権力者に表立って逆らう者はおらず、みんな口さきでは権力者への忠誠を誓っている。しかしながら、権力者が下した命令は円滑に実行されずいつも滞ってしまう。権力組織内部の機密情報はどんどん洩れる。警官は、権力者に従わない民衆を発見しても、見て見ぬふりをする。治安部隊に民衆への発砲を命じると、発砲はするのだがなぜかまったく命中しない。若者たちは、なんだかんだと理由をつけてどんどん国外に脱出していく。権力者は、間接的抵抗をしている者がたくさんいることを察知しているものの、それが誰なのかはわからない。そのため苛烈な処罰を加えようにも加えられない。かくして非人道的行為をする権力者に大きな打撃をあたえられる(この後につづく考察では以上を指して仮想状況と表記する)。
ある社会行動の効果を論じるにあたっては、一人の人間がその社会行動をとった場合の単独効果と、多数の人々がその社会行動をとった場合の集積効果を区別しなければならない。間接的抵抗が権力者に打撃をあたえるのは集積効果による。間接的抵抗は、権力者暗殺のように一撃で勝敗を決しようとするものではない。集積をつうじて権力者の支配をじわりじわりと蝕んでいくものである。つぎに論ずべきは集積の機制——いかにして間接的抵抗が集積していくのか——であるが、その前に思想・信仰の問題に触れておく必要がある。
思想や信仰を必要条件としない間接的抵抗の打撃力を大きくするために必要なのは、間接的抵抗をする人々を増やすことである。重要なのは人数であって、間接的抵抗をする内的理由(思想・信仰など)はどのようなものであってもよい。非人道的行為をおこなう権力者に打撃をあたえるという実践的観点からすれば、間接的抵抗をする内的理由を問うことにたいした意義はない。
間接的抵抗は確固たる思想や信仰を必要条件としない。「必要条件としない」という言葉に留意されたい。提示した事例のなかには信仰上の理由にもとづくようにみえる間接的抵抗がある。しかしながら、提示した事例のほとんどは確固たる思想・信仰とは無縁だと思える。船倉のユダヤ人を見なかったことにしたナチ・ドイツ警備艇長、戦場で発砲しなかった大岡昇平、溝に飛び込んだ連合国兵士、ヴェトナム戦争のウィリス大尉のように、とっさにやってしまう間接的抵抗がある。Axelrod(1984 松田訳 1998)が論じた「殺しも殺されもせぬ戦争」のように状況(くり返しのある囚人のジレンマ)が誘発する間接的抵抗がある。徴兵忌避のように「死にたくない」の一点張りから生じているかのごとき間接的抵抗がある。金子光晴の徴兵忌避に対する「父親のエゴイズムの発露」との批判をとりあげたが、もしこの批判が正しいのなら、間接的抵抗はエゴイズムからも生じることになる。現時点で事例は示せないが、「とにかくシンドイことはイヤ」とか、はたまた「いばりくさっている権力者をおちょくってやる」といった愉快犯のごとき間接的抵抗もあるに違いない。
権力者に打撃をあたえるという立場からいえば、確固たる思想や信仰を必要条件としないことは間接的抵抗の強みである。本稿が問題にしているのは処罰が苛烈な状況である(緒言および前節を参照)。直接的抵抗をすると命を落としかねないほど処罰が苛烈な状況では、確固たる思想・信仰なくして直接的抵抗をするのは難しい。だが現実問題として、確固たる思想・信仰を多数の人々が身につけることはない。そのため、処罰が苛烈になるほど直接的抵抗は少なくなる。一方、処罰が苛烈になっても、間接的抵抗なら確固たる思想・信仰がなくともできる。確固たる思想・信仰を必要条件としないこと、これは間接的抵抗のきわめて大きな強みである19)。
如上の議論を深化させるうえで好個の手がかりとなるのが転向問題である。戦前日本の共産主義者や宗教者など直接的抵抗をした人々のなかには、最後まで非転向を貫いた人もいたが、肉体拷問など苛烈な弾圧を被り転向した人もいた。これまで数多くの知識人が転向を論じてきた。転向者の語りみられる背教者としての精神的屈折、革命党が転向者に向ける憎悪、日本人を転向させるには温情や家族の泣き落としが効果的であることなど、幾多の重要論点がそこにあるからである。
従来の転向研究は「思想の変化」として転向を定義してきた。代表的な転向の定義をあげると「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」(鶴見,2012, p. 29)、「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換」(吉本,1990, p. 286)といったものがある。
思想の変化としての転向が起こりえるのは確固たる思想をもつ者だけである。かなりの間接的抵抗者については転向がそもそも問題になりえない。なぜなら、かなりの間接的抵抗者は確固たる思想などもっておらず、目先の難局にその場しのぎ的に対応する状況人にすぎないからである。状況人について転向など問いようがない。
主観ではなく行動に着目して間接的抵抗を定義したのだから「確固たる思想や信仰を必要条件としない」という結論になるのは当然ではないか、との批判があるかもしれない。この批判は正しい。本稿は、巧妙に工夫した新しい概念の導入により、これまでよく見えていなかったこと——その一つが思想や信仰を必要条件としない抵抗形態の重要性——をくっきりと見えるようにしたものである。
集合行動と戦略目標間接的抵抗を集合行動という観点からとらえ直してみよう。ここまで、(1)多数の人々が間接的抵抗をすれば権力者に大きな打撃をあたえられること、(2)実践的観点からすれば間接的抵抗をする内的理由にたいした意義はないことを指摘した。(1)は行動の集積を問題にしているから集合行動論の圏域に属する命題である。集合行動論にはさまざまな理論モデルがあるのだが、(2)との親和性が高いのは閾値モデル(Granovetter, 1978)である。閾値モデルは内的理由ではなく行動に着目し、多数の人々が一斉にある行動をとる機制をモデル化している。
閾値モデルによれば、(厳密には閾値分布の形状に依存するが)ある行動が社会の一定割合以上の人々に採用されると、その行動が社会全体に一挙に拡がる。閾値モデルを間接的抵抗に機械的にあてはめるなら、抵抗側(抵抗組織体や抵抗運動家など)が目指すべきは間接的抵抗を一定割合以上の人々に採用させることであり、権力側が目指すべきは間接的抵抗を一定割合以下に抑えることである。ただし、閾値モデルは抽象的な理論モデルであり、現実に対して機械的にあてはめるべきものではない。つぎに間接的抵抗にかんする戦略目標をより現実に即したかたちで述べる。
抵抗側の戦略目標は、間接的抵抗が増加することにより間接的抵抗がより一層しやすくなるという好循環を生みだすことである。さまざまな間接的抵抗が増加すると、さきの仮想状況のようになり、監視と処罰が不完全になって、間接的抵抗が一層しやすくなる。間接的抵抗をしている者がたくさんいることはわかるが、それが誰なのかはわからない——こうした事態をつくりだせれば、権力者は処罰を実行できないうえに、同調・摸倣により間接的抵抗がさらに拡がっていく20)。
権力側の戦略目標は、間接的抵抗が少ないうちに素早く根絶してしまうことである。たいていの間接的抵抗は世の片隅でこっそりおこなわれる。そこで権力側が推進するのが草の根レベルの監視と圧力である。民衆を相互に監視させて間接的抵抗者を密告させたり、「国賊」「非国民」といった言葉により民衆自身が間接的抵抗者に圧力をかけるよう仕向けたりする。周知のように、強固な全体主義社会では民衆自身が監視や圧力を行使している。
マスとしての民衆はどっちに転ぶかわからない。多数の民衆が一斉に抵抗に参加することがある。しかしながら多数の民衆がよってたかって抵抗者に圧力をかけることもある。前節で言及したように、民衆は、権力者にファナティックにのめり込む側面と、権力者を突き放すような側面をあわせもつ。如上の抵抗側の戦略目標は、マスとしての民衆を間接的抵抗に吸引しようとするものであり、権力側の戦略目標は服従に吸引しようとするものである。閾値モデルは、マスとしての民衆がどっちに転ぶかわからないことを限界質量点で示しており、この点でも優れものだといえよう21)。
理想形態と情報問題上で示唆したように、「間接的抵抗をしている者がたくさんいることはわかるが、それが誰なのかはわからない」というのが間接的抵抗の理想形態である。換言すると、その存在が完全に秘匿された間接的抵抗は理想的ではない。理想形態が出現していれば、間接的抵抗の存在が知れわたり、同調・摸倣により間接的抵抗がさらに拡がっていく。
この場合の同調・摸倣には、理論上、二つの経路を想定できる。一つは意識的なものであり、もう一つはなかば自動的なものである。前者の一例は、権力者に敵対的な思想や信仰をもつ者が、他者の間接的抵抗に触発されてみずからも間接的抵抗をすることを意識的に決断するというものである。後者の一例は、他者の間接的抵抗に影響されて自分も「ついやってしまう」というものである。なかば自動的に起こる同調・摸倣の存在を従来の研究はさまざまなかたちで示している。たとえばMilgram et al.(1969)が示した「つられてやってしまう」行動がそうである。こうした研究知見は、そのまま間接的抵抗にあてはめられるものではないが、なかば自動的に起こる同調・摸倣により間接的抵抗が拡がる可能性の傍証となろう。なかば自動的に起こる同調・摸倣により間接的抵抗が拡がっていく可能性は、さきに指摘した「思想や信仰を必要条件としない」という論点に関連する。
間接的抵抗をめぐる戦略目標は情報と深く関連している。情報は、不確実性——過去の経緯・現在の状況・今後の推移を完全に把握できない——と表裏一体である。情報が少ないと不確実性が大きくなる。あるいは不確実性を減らすのが情報だといってもよい(情報概念については野口(1974)に優れた概説がある)。組織論や契約論には、情報の非対称性をめぐる諸研究があり、その一つがプリンシパル・エージェント関係の研究である(Milgrom & Roberts, 1992 奥野他訳 1997)。プリンシパルとエージェントのあいだで利益や目標が対立し、なおかつプリンシパルよりもエージェントのほうが多くの情報を所有している場合がある。たとえば、従業員が勤務時間のあいだ業務に専念しているのか、それともスマホで遊んでいるのか、従業員(エージェント)は完全にわかっているが経営者(プリンシパル)はわからない。そのため経営者は不確実性に直面し、効率的な組織運営ができなくなる。間接的抵抗にも情報の非対称性をともなうプリンシパル・エージェント関係がみられる。権力者(プリンシパル)が間接的抵抗者(エージェント)の情報——いつ、どこで、誰が、間接的抵抗をしているのか——をピンポイントで検知できないことに間接的抵抗者はつけ込んでいる。情報問題に狭く限定して述べるなら、抵抗側の戦略目標は、権力側の監視能力を低下させて情報の非対称性を拡大することである。権力側の戦略目標は、みずからの監視能力を向上させて情報の非対称性を解消することである。情報をめぐる戦略目標が対立しているとき、複雑な戦略的駆け引きが発生すると理論上は考えられる。抵抗側は情報隠蔽工作や偽情報流布を試みるかもしれない。権力側は、本当は監視が不十分なのに完全な監視があると民衆に思い込ませようとするかもしれない。こうした戦略的駆け引きについては、分析材料となる事例を現時点では収集できていないので、今後の課題としたい。
提示した事例をふり返ると、情報の非対称性——権力者が間接的抵抗者をピンポイントで検知できない——は、おおむねすべての事例にあてはまる。しかしながら、理想形態を実現していたか否かという点については事例により違いが大きい。理想形態を実現していたのは徴兵忌避移民である。さきに詳述したように、誰なのかは特定できないが徴兵忌避移民が多数いることを軍部側は察知していたが、実効性のある処罰を実施できなかった。状況証拠からすると、民衆にとっても徴兵忌避移民が多数いることは公然の秘密というべきものだった。「殺しも殺されもせぬ戦争」も理想形態に近いものだったと推定される。攻撃の儀式化は現場の兵士にとって周知の事実だったに違いない。一方、被収容者を助けようとした強制収容所長の事例、戦場で個人的に発砲しなかった兵士の事例は、理想形態からほど遠いものだったろう。こうした間接的抵抗が周知の事実になっていたとは考えにくい。なお、どれほど理想形態を実現していたのか、文脈情報の不足により判然としない事例も多く、この点は文献研究の限界である。
補完関係間接的抵抗と直接的抵抗は補完関係にある。補完関係を論じるにあたりまず指摘すべきは、間接的抵抗のみでは権力者を打倒できないということである。間接的抵抗は、即興的な個人プレーであって組織性に欠ける。そのため間接的抵抗は間歇的・分散的に発生する。権力者を打倒するためには、多数の人々を組織化したうえで闘争を集中させなければならない局面があるのだが、間接的抵抗にそのようなことはできない。多数の人々が間接的抵抗をすれば権力者に大きな打撃をあたえられるが、間接的抵抗のみでは権力者を打倒できない。
間接的抵抗が権力者打倒にまで至らないもう一つの理由は、間接的抵抗者が権力奪取を目指していないことにある。この点は、理想社会構想を掲げて権力奪取を目指す直接的抵抗者(レジスタンス、革命党など)と対照的である。現実政治における権力者の打倒とは、権力者のいないユートピアの実現ではなく、権力の所在が移行すること、すなわち権力奪取である。間接的抵抗者は、そもそも権力奪取を目指していないのだから、権力者の打倒という点で限界があるのは当然である。
本節冒頭で間接的抵抗が権力者に大きな打撃をあたえている仮想状況を描写したが、間接的抵抗だけで権力者を打倒する状況など想像のしようがない。第2節から第4節で提示した事例においても、間接的抵抗だけで権力者を打倒するに至ったものはない。権力者を打倒するには間接的抵抗と並行して直接的抵抗もやらなければならないのであって、間接的抵抗の過大評価は禁物である。
補完関係についてつぎに指摘すべきは、間接的抵抗の支えがないと直接的抵抗は成功しにくいということである。ル・シャンボン村がユダヤ人を最後まで守れたのは、なによりも村人の勇敢な直接的抵抗によるものだが、あわせて官憲や軍の内部における間接的抵抗があったからだった。デンマークからユダヤ人が大量脱出できたのは、デンマーク人やスウェーデン人の支援によるものだが、ナチ側の人々の間接的抵抗も大きな役割を果たしていた。北御門が逮捕されずに最後まで反戦を貫けたのは、北御門個人の良心と勇気にくわえて官憲側の間接的抵抗があったからだった。直接的抵抗を成功させるには間接的抵抗の支えが必要なのであり、間接的抵抗の過小評価も禁物である。
独裁政権に対する民主化運動(=直接的抵抗)においては、しばしば、権力組織内部の間接的抵抗が民主化運動の成否を左右する。軍隊による政権転覆は許容できないが(軍隊のクーデターは軍事政権を生みだす)、民主化運動を武力鎮圧せよとの下令に対して軍隊が間接的抵抗をしてくれれば、民主化運動が成功する可能性が高まる。Sharp(2010 瀧口訳 2012)は、民主化運動勢力と軍隊の意思疎通によって以下のような行動が軍隊に期待できるとしている。本稿の立場からすれば以下は軍隊の間接的抵抗である。
士官たちが(民主化運動に)共感を抱くと、彼らは軍隊の中に不満と非協力を蔓延させ、意図的に非能率を起こし、密かに命令に従わないよう仕向け、また抑圧の実行を拒否するといった重要な役割を担うことにもなる。軍隊の人員はまた、安全な通り道や情報、食糧、医療用品など、民主化運動のために、積極的な非暴力的支援をさまざまに提供してくれるだろう。・・・たとえば、兵士や警察は、抑圧の命令に非効率的に従ったり、指名手配人物を見つけ出せなかったり、抵抗者たちに弾圧や逮捕、追放が差し迫っていることを漏らしたり、重要な情報を上官に報告しそびれたり、といったことができる。兵士らが、抵抗者たちを的から外して、頭上高くを狙って撃つこともあろう。(Sharp, 2010 瀧口訳 2012, pp. 113–114, 括弧内筆者)
独裁政権に抵抗するさい軍人を敵視するのは戦略的誤謬である。軍人を間接的抵抗に誘い、補完関係を構築していくのが正しい戦略である。軍隊による抵抗運動の武力鎮圧がいかなる惨劇を招くか、これまでの事件を直視すべきである。
なお、日常会話の「直接間接に〇〇する」という言い回しからわかるように、日本語の「直接的」と「間接的」には補完関係の含意がある。そのため本稿では直接的抵抗・間接的抵抗という名称を採用したことを付言しておく。
否定的評価すでに何度も指摘したように間接的抵抗は否定的に評価される。間接的抵抗者は、表向きは権力者に服従しているし、実質的にもかなり服従している。間接的抵抗者は処罰を被らない範囲でしか抵抗をしない。だから直接的抵抗をする人々から「日和っている」「決意性がない」「臆病者」と非難される。命を賭して直接的抵抗をしている人々の眼に間接的抵抗者が臆病に映るのは当然である。さらに間接的抵抗者は、権力側から「裏切り者」「面汚し」「第五列」として罵倒され、権力側に取り込まれた民衆からも「国賊」「非国民」「卑劣」とこき下ろされる。戦場に駆り出され酷い目に遭わされてきた帰還兵にしてみれば、徴兵忌避者は許しがたいかもしれない。
四方八方から浴びせられる非難に対して、間接的抵抗は「なさけないものではない」などと抗弁してはならない。そもそも間接的抵抗の強みは、権力者がこわくて仕方がない、なさけない人間でもやれるところにある。現時点で明確な証拠はないが、間接的抵抗が上手な人は非難されてもムキになって抗弁したりせず、受け流しているように思える。非難に対して抗弁すべきでないもう一つの理由がある。かりに抗弁が功を奏し、「間接的抵抗はなさけないものではない」との主張が定着すると、間接的抵抗をしていることにより直接的抵抗をしないことを正当化する者が出てきかねない。間接的抵抗をしているのだから自分にはなんら後ろめたいところはない、自分は不正義に対して立派に闘っているのだ、というわけである。すでに指摘したように間接的抵抗には大きな限界があるのであって、間接的抵抗と直接的抵抗の補完関係をつくることが大切である。間接的抵抗の美化は補完関係の構築に水を差しかねない。
間接的抵抗の精髄ここまでの考察の要点をまとめると以下のようになろう。否定的評価に抗弁したりせず、間接的抵抗の増加により間接的抵抗が一層しやすくなるという好循環をつうじて「間接的抵抗をしている者がたくさんいることはわかるが、それが誰なのかはわからない」という事態を出現させ、よってもって間接的抵抗と直接的抵抗の補完関係を築く——これが間接的抵抗の精髄である。
本稿では、巧妙に工夫した新しい概念を導入し、ふつうなら抵抗とは到底みなされない行動を間接的抵抗として意味づけ、抵抗研究の射程拡大を図った。たとえば、固定観念や常識に囚われている読者にすれば、徴兵忌避移民は権力者に対する抵抗ではなく逃避にすぎないと思えるのではないか。しかしながら、定義があてはまる以上、徴兵忌避移民は間接的抵抗者なのである。
如上の射程拡大は抵抗戦略の改善に役立つ。あくまで印象論であるが、抵抗組織体や抵抗運動家は、民衆を直接的抵抗にいかに動員するかについては熱心に検討するものの、間接的抵抗をいかに活用するかについては十分に検討していないうらみがある。苛烈な処罰をくわえてくる非人道的権力者と闘う抵抗組織体や抵抗運動家は、ふつうなら抵抗とはみなされないものも含む幅広い間接的抵抗を視野に入れて戦略を立案し、直接的抵抗と間接的抵抗の補完関係を構築していかねばならない。
負の側面間接的抵抗の正の側面に力点をおいて考察を展開してきた。しかしながら間接的抵抗には負の側面もある。本節を閉じる前に、民主主義の機能不全と暴力の弊害に絞って負の側面を考察しておく。
間接的抵抗者はみずからの意見を公の場で表明しないので、民主主義を機能不全に陥れる。多様な意見が公の場で表明されないと民主主義はうまくはたらかない。みずからの意見を公の場で表明しない者が増えると、集団思考(Janis, 1982)により意思決定の質が低下したり、沈黙の螺旋(Noelle-Neumann, 1984 池田・安野訳 1997)が作動して世論形成が歪んだりする。民主主義をうまくはたらかせるには、権力者に反対する者がいることを社会全体に知らせなければならないのだが、人々が間接的抵抗に終始していると反対者の存在が見えにくくなってしまう。
間接的抵抗に起因する民主主義の機能不全を緩和する方法がある。第1に、間接的抵抗と直接的抵抗の補完関係があれば、間接的抵抗による民主主義の機能不全を緩和できる。間接的抵抗者が沈黙していても、直接的抵抗者が公の場で意見を表明するからである。これは上述した補完関係の重要性を別の角度から示す。第2に、間接的抵抗の理想形態「間接的抵抗をしている者がたくさんいることはわかるが、それが誰なのかはわからない」を実現できれば、間接的抵抗による民主主義の機能不全を緩和できる。理想形態を実現できれば、権力者を支持しない者が多数いることが知れ渡るからである。
つぎに暴力の弊害を論じる。暴力は多義的な概念であるが、以下では武器をもちいた闘争を指して暴力という用語をもちいる。抵抗の現場あるいは研究で、これまで激しい論争の的になってきたのは、暴力による抵抗は正当か否かである。この論点は間接的抵抗とも深いかかわりをもつ。前節で指摘したように暴力的な間接的抵抗がある。非暴力的な間接的抵抗であっても、それが暴力的な直接的抵抗を強力に支えている場合、すなわち非暴力的間接的抵抗と暴力的直接的抵抗が補完関係をなす場合がたくさんある。暴力の問題に向き合わない間接的抵抗研究は不誠実である。以下では、直接的抵抗であれ間接的抵抗であれ、暴力をもちいた抵抗が一般的に孕む弊害を指摘する。
まず確認すべきは、暴力の行使が不当だとはいえない状況の存在である。たとえば、ナチがユダヤ人の大量殺戮を時々刻々、遂行していた状況下では、暴力を行使してナチ体制を一刻も早く転覆するという方針がありえたであろう。それが成功していれば途方もない数のユダヤ人の命を救えたのである。ナチ・ドイツで非暴力抵抗をしたとしても、短期間のうちに体制を転覆できる可能性はなかった。ガンディー流の非暴力抵抗が、ナチ・ドイツ、スターリンのソ連、戦前の日本に対するものであったとしたら、その結末は虐殺や屈服だったろう——そうArendt(1972 山田訳 2000, p. 142)は指摘している。
「いかなる場合でも暴力は許されない」という暴力全否定命題を正当化するのは困難である。信念や信仰にもとづき暴力全否定の生き方(e.g., 良心的徴兵拒否)を選択する権利は完全に保障されなければならない。だけれども、学理的立場から暴力全否定命題を吟味する場合は、①いかなる場合でも許されないのだから、この命題は、大量虐殺に対する蜂起、植民地解放闘争、パルチザン、レジスタンス、自衛と称する戦争など、あらゆる蜂起・襲撃・戦争を否定するものであることを確認したうえで、②事例をひとつひとつとりあげて暴力を本当に否定できるのか検討する作業を欠かしてはならない。これら二つの作業を踏まえたうえで、(私的な信念や信仰ではなく)公共的理由にもとづく論証により、暴力全否定命題を正当化するのは困難である。
だがしかし、自由・政治的平等・真の民主主義が実現している場合には、暴力による抵抗は許容できない。暴力による抵抗は、死傷者の発生や社会混乱など大変な犠牲をともなう。権力者に対する暴力的抵抗のさなかに、民衆が被差別者にまで暴力を行使することもある(藤野,2020)。さらに懸念すべきは、暴力が社会変革の手段として定着することである。社会変革の手段として暴力が定着すると、その状態がゲーム理論のいう均衡点のごときものとなり、暴力を行使しあうことが自己維持的となる。暴力を厳格に制限しないと、非人道的権力者への抵抗がよりいっそう悲惨な事態を招きかねない。
方法論の吟味により前節までの議論を補強する。まず事例研究法について検討し、それを踏まえて歴史社会心理学の構想を提起する。最後に史料の制約を論じる。
事例研究法本稿で提示した事例は、間接的抵抗を代表する事例なのだろうか。結論からいえば、提示した事例が代表性をもつといえる根拠はない。というか、そもそも間接的抵抗研究において事例の代表性に拘泥するのは不毛である。その理由を理論と実践の両面から論じる。なお以下では、代表性のある事例とは発生頻度が相対的に高いタイプの事例だとしておく22)。
まず理論的観点から論じる。事例研究の目的は、事例をただ記述することではなく、理論的に重要な特徴をとらえることである。事例を選択するさいの基準は、理論的特徴がするどく顕在化しているかどうかであって、代表性はあってもなくてもよい。代表性のある事例において理論的特徴がするどく顕在化していることもあれば、代表性のない事例において理論的特徴がするどく顕在化していることもある。
理論的特徴がするどく顕在化している事例を探し出す手がかりになるのは状況である。まず、解明したい理論的特徴がするどく顕在化する状況を特定する。そして当該状況におかれた事例をひとつひとつ探索していく。本稿では「権力者が苛烈な処罰をくわえてくる状況」下の事例をとりあげると何度も述べた。間接的抵抗の理論的特徴は「権力者が苛烈な処罰をくわえてくる状況」においてするどく顕在化するからである。権力者の処罰に実効性がまったくない状況から間接的抵抗事例を探し出そうとするのは無意味である。研究の目的や内容にもよるが、社会科学分野の事例研究では状況に着目したサンプリングが有効である。
つぎに実践的観点から論じる。間接的抵抗研究では事例の意外性を大切にしなければならない。固定観念や常識のために実行可能な選択肢が見えなくなっていることがある。固定観念や常識からの解き放ちを触発するのが意外性のある事例である。たとえば、権力者から非人道的行為を命じられる場面を考えてみよう。「処罰がこわくて逆らえない。だけど服従もしたくない。どうしたらいいのか」というせっぱつまった場面である。この難局を打開するには、固定観念や常識に囚われていては駄目で、大胆な発想転換をせねばならない。そのさいに役立つのが意外性のある事例である。「えぇ、そんなやりかたもあるの!」「そうか、その手があったか!」といった意外性に満ちた事例をたくさん知っておくことにより、固定観念や常識に囚われない打開策を着想しやすくなる。意外性のある事例は選択肢拡張作用をもつ。
意外性のある事例を見つけるにはどうすればよいのか。これについては一概に答えられない。偶然、見つかるという場合もよくあるだろう。文献研究である本稿についていえば、巧妙に工夫した新たな定義の導入により、意外性のある事例を見つけたという側面がある(前節の間接的抵抗の精髄も参照)。意外性のある事例を発見する一つの手段として定義の工夫を提案したい。
意外性のある事例の提示は、そのまま摸倣すべき正解の教示ではない。最終的にいかなる行動をとるかは、おかれている状況を斟酌して各人が考えなければならない。第5節において、間接的抵抗は状況から切り離せないと述べた。ナチへの間接的抵抗の事例、戦前戦中の日本でみられた間接的抵抗の事例を現代の私たちがそのまま摸倣することはできない。20世紀の戦場でみられた間接的抵抗を現代の戦場でそのまま摸倣することもできない。意外性のある事例が果たす役割は、摸倣すべき正解の教示ではなく、固定観念や常識からの解き放ちである。
もちろん、意外性のある事例を知ったからとて、間接的抵抗をやれるとは限らない。知識として学ぶことと、実際の行動にうつせることとのあいだには隔たりがある。意外性のある事例を知ったとしても、権力者に完全服従してしまう人間もいる。そうであったとしても、奇想天外な間接的抵抗により難局打開をなしとげた人が過去にいたことを知れば、間接的抵抗により闘える可能性は認識できる。この可能性の認識は抵抗に向けた一歩、ちっぽけではあるけれども大切な一歩ではないか。
歴史社会心理学Mills(1959)は、社会構造内における個人史と歴史の交差が社会科学の対象であり(p. 143)、社会科学は歴史的視野をもち歴史的題材を活用すべきだとしている(p. 145)。これまでの社会心理学において歴史的視野や歴史的題材の活用が皆無だったわけではない。たとえば生活史(自伝)資料を含んでいたThomas & Znaniecki(1958 初出 1918–1920 桜井訳 1983)の研究は社会心理学史や社会学史で重要であるし(Allport, 1942 福岡訳 2017; Karpf, 1932 大橋監訳 1987; 大橋,1968)、『社会心理学研究』誌にも石井(1993)、辻本(2000)、辻本他(2007)など生活史を使った研究が掲載されてきた。しかしながら、現代社会心理学が歴史を十全に活用しているとは到底いえないだろう。
本稿は、歴史上の事例を使った歴史社会心理学の試みである。筆者は歴史社会心理学を体系化するには至っていないが、歴史社会心理学は少なくとも三つの部門を含むと構想している。第1部門は、人間・社会・時代に対する新しい見方を着想する手がかりとなる生活史を編纂する(辻本,2021)。第2部門は、極限状況で顕在化する社会行動を、歴史上の事例を使って研究する。第3部門は、社会行動の経路依存を歴史上の事例を使って研究する。経路依存についてはすでに研究蓄積がある(e.g., Acemoglu & Robinson, 2012 鬼澤訳 2013; David, 1985, 1994; Putnam, 1993 河田訳 2001)。
本稿は第2部門に属する研究であり、なおかつ第1部門に属する生活史研究の成果を手がかりに着想したものである。一人の人物を深く調べる生活史研究では、分析の焦点を事前に設定してそれに対応する口述を収集するのではなく、個々の出来事を写生する口述を網羅的に収集していく(辻本,2021)。そうした生活史研究により新しい見方を着想する手がかりが得られる。辻本(2013)の語り手は徴兵忌避移民について語った。辻本(2017)の語り手は沖縄戦の体験を語った。これらを手がかりにおこなった研究の成果が本稿である。個別の出来事を手がかりに概念や命題を生成し、翻って生成された概念や命題により別の個別の出来事を解釈して、概念や命題を確認・修正・一般化していく——この循環作業のくり返しが歴史社会心理学的接近法の根幹をなす。
第2部門には二つの利点がある。第1の利点は、ふだんは眼につかないが、極限状況で明確な姿をとって現れる社会行動に光をあてられることである。その代表格が戦争・虐殺・圧政の渦中で発生する社会行動である。極限状況で発生する社会行動のなかには理論的・実践的にきわめて重要なものがある。間接的抵抗はその一つである。極限状況で発生する社会行動を観察法や実験法により調べるのはきわめて難しいが、歴史上の事例を使えばそれなりに調べられる。第2の利点は、遠い過去になったがゆえに入手できるデータを活用できることである。本稿には戦前戦中の権力内部文書を使った箇所があるが、そうした文書は時の経過と体制転換を経て公開され入手可能になったものである。本稿には抵抗の口述を使った箇所があるが、そうした口述も時の経過と体制転換があったがゆえに語られるようになったものである。
本稿では主観ではなく行動に着目して間接的抵抗を定義した。その理由は本稿冒頭で述べたとおりである。くわえて第2部門には主観より行動に着目せざるをえない事情がある。検査・面接・観察をじかに実施できる場合であってさえ、特定の一人の心理過程を正確に把握するのは難しい。検査・面接・観察をじかに実施できず、しかも断片的な史料しか残っていない過去の一人の社会行動について、その背後にあった心理過程を正確に推定するのはなおさら難しい。本人の手記などに当時の気持ちや考えが記されている場合がある。そうした内省記述は、参照すべき重要史料であるものの、必ずしも心理過程を正確に反映していない。このことはAllport(1942 福岡訳 2017)がすでに指摘しているし、内省記述一般の限界については無意識過程研究(e.g., Nisbett & Wilson, 1977; Wilson, 2002 村田監訳 2005)が明らかにしてきたとおりである。一方、過去の社会行動の把握は、その背後にある心理過程の推定に比べるなら相対的に容易である。過去の社会行動の把握ができてはじめて、その背後にある心理過程の推定が可能になるのだから、これは当然であろう。
第2部門は、特定の時に特定の場所で起こった個別一回性の社会行動を事例とする。個別一回性の社会行動事例について因果関係を特定するのは困難である23)。しかしながら、意外性に満ちた過去の事例の提示は、今を生きる私たちが固定観念や常識に囚われない選択肢を捻り出すのに役立つ。まさに今、世界各地で間接的抵抗が本領を発揮できる事態が起こっている。歴史社会心理学は懐古趣味の研究ではない。今を生きていくために歴史社会心理学はある。
史料の制約歴史社会心理学は史料の制約に自覚的であらねばならない。あらゆる史料がなんらかの歪みを孕んでいる。文書史料や口述史料は、無限ともいえる過去の出来事の中から特定の出来事を選択し、それらをつなぎ合わせて物語化したものである(辻本,2021)。こうした取捨選択や物語化の過程において、物語の筋書きにそぐわない出来事がふるい落とされたり、権力者や史料作成者にとって不都合な出来事が省かれたりする。また本稿では自伝的な回想や手記を多用したが、過去の記憶に相当な歪みがあることは目撃証言やフラッシュ・バルブ記憶の研究がつとに明らかにしてきたとおりである(Loftus & Ketcham, 1991 厳島訳 2000; Loftus & Loftus, 1976 大村訳 1980; Loftus & Palmer, 1974; Talarico & Rubin, 2007)。
あらゆる史料に歪みがあるのだから、過去の出来事を構成する際は一つの史料に依存するのではなく、複数の史料を活用するようにしなければならない。たとえば自伝的な回想と文書史料とを照合する、一人の人物の回想にたよるのではなく複数人の回想を使う、文脈情報となる史料を幅広く吟味するといった作業である。こうした作業をおろそかにしたまま過去の出来事を構成すると足をすくわれかねない。
本稿の事例提示にあたっては複数の史料を活用するよう努めたが、万全は期せなかった。その理由は単純で、たいていの間接的抵抗は世の片隅でこっそりおこなわれるものであり、一つの間接的抵抗について複数の史料が残っていないのである。提示した事例のなかには、間接的抵抗をした本人以外に証言者がいないものや、文脈情報が欠けたものがある24)。こうした史料の制約を認めたうえで、たとえ個々の事例の信憑性に疑問符がつくとしても、さまざまな事例の検討と理論的な論証をつうじて間接的抵抗の主要な特徴をとらえることは可能である——これが本稿の立場である。
1) 本研究はJSPS科研費JP22K03018の助成を受けた。本稿の一部は2021 Thailand International Conference on Psychology、2022 Annual Conference for the Society for Qualitative Inquiry in Psychology、日本質的心理学会第19回大会(2022)で発表された。
2) 審査者とのやりとりで、本稿の定義がきわめて誤解されやすいことが判明した。くどいようだがさらに補足説明をする。①間接的抵抗の定義にある「処罰を被らないかたちで」という部分は、最終的に処罰を被ったか否かとは無関係である。一般的(客観的とか間主観的と言ってもよい)にみて処罰を被らないかたち、というように「処罰を被らないかたちで」という部分を解釈されたい。たとえば、ふつうならありえないひどい不運に見舞われて最終的に処罰を被ったとしても、一般的にみて処罰を被らないかたちをとっていたのなら間接的抵抗である。おなじことは直接的抵抗についてもいえる。なんらかの僥倖に恵まれて最終的に処罰を被らなかったとしても、一般的にみて処罰を被りうるかたちをとっていたのなら直接的抵抗である。事後にしか直接的抵抗・間接的抵抗の区別がつかないとすると、「これから直接的抵抗をすべきか、それとも間接的抵抗をすべきか」という事前検討が一切不可能になってしまう。②間接的抵抗か否か判定する主体はさしあたり研究者だとみなしておいて差支えない。本稿では、研究者が間接的抵抗概念を使うことを想定しており、一般民衆が使うことは想定していない。しかし将来的には、間接的抵抗概念が世の中に流布して一般民衆が使うようになる可能性がある。もちろん筆者はそうなることを願っている。研究者が判定するにせよ、一般民衆が判定するにせよ、その判定は定義に沿っていなければならない。③判定者により判定が異なる場合は、討議や事実確認をつうじて判定を一つに定める。間接的抵抗概念に限らず、一般に、概念があてはまるか否かは、そのようにして定められている。行動した本人と観察者のあいだで判定が異なった場合に、本人の判定を優先するとは限らないことに注意されたい。本人の判定が定義に沿っておらず、観察者の判定が定義に沿っているなら、観察者の判定を採用しなければならない。以上、3点にわたり補足説明をした。なお、本稿の事例を読んでいるときに、間接的抵抗の事例といえるのか疑義が生じたさいは、第5節の「定義の再検討」も参照されたい。
3) この出来事の出所はJerusalem Post (January 30, 1979)に掲載されたUlrich Plesnerの手紙。
4) 本稿では、徴兵を逃れる意図をもつ移民を指して徴兵忌避移民と呼ぶ。では「徴兵制により非人道的戦争を遂行している国家の一般男性が、徴兵を逃れる意図なく移民として合法的に出国すること」(高収入の獲得を意図した移民など)はどうか。これは徴兵忌避移民ではないが、本稿の定義によれば間接的抵抗者である。なぜなら、意図が如何なるものであれ、一般男性の出国は徴兵による戦争遂行を阻害するからである。だからこそ戦争遂行中の国家は男性の出国を嫌がるし、実際に男性出国禁止令を出すこともある。上で注意してほしいのは、徴兵忌避移民を定義にするにあたっては意図に訴えているが、間接的抵抗か否か同定するにあたっては意図に訴えていないことである。以上は、本稿の定義をきちんと理解する一助になるだろう。
5) 出所:JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C06084797800、明治42年乾「貳大日記11月」(防衛省防衛研究所)。沖縄警備隊は徴兵事務をおこなっていた組織である。以下に出てくる「甲種」とは、兵役にもっとも適していると徴兵検査で判定された者のことである。
6) 出所:JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C01004782000、軍部関係思想要注意者策動等に関する報告内容等に関する件(留守第6)(防衛省防衛研究所)
7) ロシアについては、たとえば朝日新聞DIGITAL (2022年5月6日)「ロシア、388万人が国外へ 反プーチン・生活苦…わずか3カ月で」https://www.asahi.com/articles/ASQ5666J1Q56UHBI024.html (2022年5月9日取得)。ミャンマーについては、NHK NEWS WEB「ミャンマー クーデターから2年 各地で『沈黙のストライキ』」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230201/k10013967251000.html (2023年2月2日取得)、NHK NEWS WEB「“裁判官の夢”を失って…日本を目指すミャンマーの若者たち」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230217/k10013979021000.html (2023年2月18日取得)。
8) 上に「村落などの共同体に人々が縛りつけられていた」と書いたが、日本の農民が土地に強く縛りつけられるようになったのは近世以降である。中世農民は、逃散(ちょうさん)するとの脅しを権力者にかけたり、実際に逃散したりしていた(入間田,1986; 黒田,1981; 斉藤,1981; 鈴木,1971; 鈴木哲雄,1988; 山陰・酒井,1981; 柳原,1988)。逃散の解釈は史家により異なるが、入間田(1986, p. 21)は「いつでも年貢さえ納めれば不都合な領主のもとを立ち去る(逃散)ことができるという『去留』の自由は、不都合な領主を捨てて、より良い領主のもとに赴くことができるということ」だったと述べている。また、農民が耕地を放棄して山野などに籠り、権力者が要求を容れると還住(げんじゅう)するというかたちの逃散もあった。これらが事実だとすれば、中世においては、退出の一形態である逃散が権力者への抵抗になっていたといえる。網野(1978, 1996)は、中世の平民には移動の自由があったとし、さらに網野(1996)は中世前期には山林がアジール(避難所)になっていたとの見方を提起している。退出による抵抗がうまくいくためには、退出した者が生きていける場所(アジールはその一例)がなければならない。ただし、安良城(2007)は、中世に移動の自由があったという見方を批判している。移動の自由の有無は、日本は伝統的に固定的社会であったのか否かという論点とのからみで、文化心理学者にとって重要であろうことから本注で言及した。
9) 孤立の認識が離脱につながりうることを衝撃的なかたちで示したのが、戦前、日本共産党の指導者だった佐野学と鍋山貞親の転向である。戦前の日本共産党は、国家権力と真正面から対決し、苛烈な弾圧を被った。獄中にあった両名は、1933年、突如として転向声明(佐野・鍋山,1933)を出した。これが共産党関係者の大量転向の引き金になった。両名の転向声明には複数の論点があるが、その一つは日本共産党が民衆からみはなされているということだった。高畠(2012, p. 340)は「もはや労働者から支持されなくなったという実感は、佐野をはじめとする転向者たちにとって転向の最大の直接的契機をなしている」と評している。戦後においても、社会運動からの離脱理由の一つとして、民衆からみはなされていることが語られる場合がある。一例だけ挙げると、東大闘争関係者の生活史を分析した小杉(2018)に、新左翼党派から離脱していった経緯の口述がある。その口述には「大衆が離れていく・・・活動家が孤立していくし、今度は内ゲバとか走っていくでしょ」 (p. 329)という箇所がある。また、1960年代後半のアメリカで反戦運動などに取り組んだ前衛青年たち(young radicals)に面接調査をおこなったKeniston (1968)によれば、仲間が運動から離脱した理由などを面接対象者が話すとき、もっとも重視されていたのは孤立感であるという。
10) https://www.understandingwar.org/backgrounder/russian-offensive-campaign-assessment-april-9(2022年4月13日取得)
11) 第2次大本事件の弾圧はとりわけ苛酷なものだった。なぜ、かくも苛酷な弾圧を官憲が強行したのか。この点についてはさまざまな見解がある。奥平(1977)は、第2次大本事件で治安維持法や不敬罪が弾圧の建前として使われたが、「莫大な財力と社会力を包蔵するにいたった皇道大本が、急速過激に右翼化・国家主義化・行動化の傾向をたどっていたので、機をみて有効にこれを阻止しなければならないという治安警察的な契機」 (p. 195)に当局の本音はあったと論じている。村上(1963)は、搾取された農村再建に基礎をおく大本は異端的ファシズムの民衆運動として急成長したが「大本教の基底にある民衆的性格は、教義として天皇崇拝を強調しながらも、天皇制とその神話にたいする、異質の神話に立つ変革の主張として、支配階級のはげしい憎悪の対象となつた」 (p. 248)としている。松本(1986)は、北一輝らの右翼運動や2.26事件との関連を視野に入れて第2次大本事件をとらえ、王仁三郎というカリスマによる「日本=原理主義革命」という観点から考察を展開している。なお、時代背景を踏まえて戦前の大本を詳述した近年の労作として川村(2017)がある。
12) 塹壕戦をめぐるAxelrod (1984)の解釈に対する反論として盛山(2021)がある。
13) ひめゆり平和祈念資料館(2020)によると、沖縄本島の各学校における女子学徒の[動員数,学徒隊戦死者数]は以下のとおり。沖縄師範学校女子部[157, 81];沖縄県立第一高等女学校[65, 42];沖縄県立第二高等女学校[46, 17];沖縄県立第三高等女学校[10, 1];沖縄県立首里高等女学校[61, 33];私立沖縄積徳高等女学校[25, 3];私立昭和女学校[17, 9]。なお、沖縄県立第三高等女学校の動員数・戦死者数を左右した要因は宇土の指揮だけではないだろう。ひめゆり平和祈念資料館(2020)によると、学徒動員にさいしておこなわれた第三高等女学校の職員会議で生徒を家に帰すべきだと主張した教員がいたという。また当然のことながら、米軍の戦闘行動も戦死者数を左右したに違いない。
14) しまね(1977)もこの出来事に言及している。
15) 教育現場における君が代強制問題は間接的抵抗を考えるうえで格好の題材である。田中(2012)を引用しながら考察をくわえておく。近年、教育現場で攻防点になったのは君が代斉唱時における教員の起立の有無である。不起立は客観的な事実確認ができるので処分の対象にされた。よって不起立は直接的抵抗にあたる。一方、大声で歌っているか、口パクをしていないかといった点は客観的な事実確認ができない。だから起立して歌わない、あるいは起立して口パクすることが間接的抵抗になる。君が代強制に反対する教員に対して「歌わなくても処分はされないが、起たないと助けられないから、何とか起ってほしい」(p. 51)と校長が説得する、すなわち間接的抵抗を勧める場合がある。また不起立があっても「見て見ぬ振り」(p. 160)をして処分をしない、すなわちみずから間接的抵抗をする管理職もいる。こうした間接的抵抗が蔓延すると、みんな厳粛な顔つきで起立しているのに歌声が聞こえないという喜劇が起きかねない。当然、君が代斉唱の喜劇化を阻止せんとする者が現れる。教育長が各校長に求めた通知に「国歌斉唱の歌声」の大きさをチェックする項目があったりするという(p. 124)。ただし、君が代強制に反対する教員にとって間接的抵抗は到底満足できるものではない。思想・良心の自由、正義をつらぬく勇気、信仰上の理由あるいは過去の一族の体験から君が代を歌うことに痛みを感じる人々への思い遣り、こうしたことを教員は身をもって生徒に示したいのである。だからこそ不起立という直接的抵抗に挑む。一方、面倒クサイということで君が代を歌わない者もいる(本稿の定義からすればこれも間接的抵抗である)。実際、行事での君が代斉唱において、ダルそうな顔つきで起立だけして歌っていない人をよく見かける。君が代強制に反対する教員は、こうした間接的抵抗には批判的なのではなかろうか(cf., p. 170)。
16) この流言が急速かつ広範囲に拡散したことから、大塚(1967)は「全国的な組織を動かし得る人々が、計画的に操作してデマを巧妙に流しているにちがいないということは見当がついたが、それ以上のことは当時の私には判断できなかった」 (p. 301)と記している。しかしながら、スモールワールド・ネットワークの研究知見(e.g., Watts & Strogatz, 1998)を踏まえれば、意図的操作者がいなくとも流言は急速かつ広範囲に拡散しうる。流言とスモールワールド・ネットワークの関連は木下(1977)が論じている。一方、Heath et al. (2001)によれば、嫌悪感のような感情を喚起する都市伝説が拡散しやすい。虎ノ門事件をめぐる流言が、さまざまな感情のなかでも嫌悪感を特に喚起したかどうかはわからないが、劣情喚起的内容だったのは間違いない。
17) おなじようなことは今もあるのだろうか。週刊新潮(2022年6月23日号)は「皇宮警察に前代未聞の不祥事が発覚した。なんと、愛子さまを『クソガキ』と呼ぶなど、皇族に対する悪口が横行しているというのである」 (p. 20)と報じている。
18) ここでサボタージュと間接的抵抗の違いを述べておく。間接的抵抗の一部はこっそり「サボる」という形態をとる。「サボる」という言葉はサボタージュに由来する。しかし、公然と怠業する労働争議、すなわち直接的抵抗をサボタージュと呼ぶことも多い。サボタージュと間接的抵抗は同一概念ではない。なお、1944年に米国戦略諜報局(OSS)が作成した『サボタージュ・マニュアル』(越智監訳 国重訳2015)なる文書がある。レジスタンスの人々に向けたサボタージュ指南書であるが、間接的抵抗の手法を知るうえでも役立つ。
19) 確固たる思想・信仰をともなわない直接的抵抗が皆無なのではない。たとえば「みんな直接的抵抗をしているから自分もつられてやってしまう」という付和雷同型の直接的抵抗がある。学生運動はなやかりし時代には、一部にそういう学生がいたのではないか。しかしながら処罰が苛烈になると付和雷同型の直接的抵抗はなくなる。
20) 「間接的抵抗が増加することにより間接的抵抗がより一層しやすくなる」という命題は、種類と頻度の両面で間接的抵抗が増加している大域状況(たとえばさきの仮想状況)にかんするものであり、個々の間接的抵抗にかんするものではない。一種類の間接的抵抗の頻度だけが増加したとしても、権力側が効果的な監視処罰技術を開発した結果、当該の間接的抵抗が減少に転じることがありえよう(この場合、間接的抵抗であったものが処罰を被りやすい直接的抵抗になったとみなしてもよい)。「間接的抵抗が増加することにより間接的抵抗がより一層しやすくなる」という命題の背後には、異なる種類の間接的抵抗のあいだで相互強化が発生するとの想定がある。たとえば、ある間接的抵抗Wが単独ではうまくいかなくても、間接的抵抗X(内部情報漏洩)、間接的抵抗Y(命令不履行)、間接的抵抗Z(抵抗者見逃し)などと組み合わさるとうまくいくことがある。
21) ここで『「非」良心的兵役拒否の思想』(村田,1982)という独創的内容をもつ書物に言及しておきたい。一見したところ「非」良心的兵役拒否は本稿で論じた徴兵忌避と同一の間接的抵抗だと思えるが、そうではない。村田(1982)はこう書いている。「非」良心的兵役拒否は「『私は死ぬのはいやだ。だから兵役を拒否する』と大きな声で叫ぶことです・・・野蛮な徴兵検査官が暴力を振るうかもしれません。自分で体を傷つけるよりはましだと思って我慢しましょう。裁判官が監獄行きを命ずるかもしれません。戦場で死ぬよりはるかにましだと思って我慢しましょう。数がポイントです。検査官の鉄拳がしびれてはれ上がり、監獄があふれればこちらの勝ちです」(p. 199)。つまり、「非」良心的兵役拒否は処罰を覚悟した直接的抵抗なのである。また、村田(1982)は閾値モデルの機制を洞察しており、「予めの『非』良心的兵役拒否者が一割に達していれば、その存在と行動が多数派の内にある『死ぬのはいやだ』という心に火をつけ、燃え上がらせ、同志を二倍、同調者を含め三倍にすることは全くの夢ではないと思います」 (p. 201)と書いている。
22) ここで筆者は、代表性の正しい定義をあたえようとしているのではなく、議論の足場を設定しているにすぎない。事例研究における代表性の概念がいったい何を意味するのか、これは容易には答えられない難問である。代表性のある事例と高頻度事例を同一視することには以下の問題点がある。高頻度事例であるかどうかは、母集団を定めたうえで、適切なサンプリングによる大標本観測をしないとわからない。しかし、適切なサンプリングによる大標本観測ができないがゆえに事例研究法を採用している研究がある。また、個性記述と称する研究など母集団を定めない事例研究もある。母集団を定めない場合に代表性という概念が意味をなすのか、かなり疑わしい。
23) 一般論としていえば、個別一回性の過去の出来事について因果関係の特定が不可能だとは限らない。たとえば恐竜絶滅は他に類例がない究極の個別一回性の出来事である。その原因は隕石衝突にあるとする説がきわめて有力だという。しかし、本稿で提示したような過去の社会行動事例について、その原因をあれこれ推測できるとしても(本稿でも推測している箇所がある)、高い確実性をもって特定するのは困難だろう。ともに過去の出来事を扱っていながら、原因特定が前者ではそれなりにできるのに後者では困難なのは、偶然的事情(入手できたデータの質や量など)のせいなのか、それとも自然科学・社会科学それぞれの学問性格に由来するのか。これは科学哲学的に興味深い問いだが、本稿では論じない。
24) 本人以外に証言者がいないからといって当該証言が無価値になるわけではない。たとえば大虐殺の生存者がたった一人だったとしよう。この場合、たった一人の生存者の証言は無価値どころかとてつもない価値をもつ。たった一人しか証言者がいないことを踏まえたうえで、たった一人の証言を丁寧かつ慎重に解釈し、生かしていかねばならない。