Japanese Journal of Social Psychology
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Where the souls of the war dead are located: The meaning of the remains for bereaved families
Yuko Shiraiwa
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Article ID: 2024-017

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抄録

A web-based survey was conducted among the bereaved families of Japanese generals, soldiers, and civilian employees of the military who died in wars since the Marco Polo Bridge Incident in 1937. The study aimed to assess the status of the return of the war dead’s remains and to explore why bereaved families have continued to hope for their return. Among the 241 participants analyzed, only 35 (14.52%) had received the remains of their deceased loved ones. The nonreturn rate was notably higher for those who passed away abroad and for individuals who served in the Navy. To explore the reasons noted above, the bereaved families were divided into three groups: those who had received the remains, those who had not but visited the place of death, and those who had neither received the remains nor visited the site. Among the latter two groups, there was a common perception that the souls of the deceased remained at the place of death. This finding indicates that the remains left at the place of death are perceived by many families as embodying the souls of the war dead, underscoring the deep spiritual importance attached to their recovery.

先の大戦終結からまもなく80年を迎える。戦没者の遺骨の多くは今も没地に残されている。本土以外の戦没者約240万人中,収容された遺骨は128万柱,残る推計112万柱が収容されていない(厚生労働省社会・援護局,2023a)。本研究は,日本人戦没者の遺骨がどれほど遺族のもとに帰還したかを把握するとともに,遺骨が「霊魂の依代」であるという仮説の検証を通して,遺族や生還者が遺骨帰還を切望してきた理由を考察する。なお,本稿では,遺骨を日本に引きとることを「収容」,収容した遺骨の身元を特定し,遺族のもとに帰すことを「帰還」と呼んで区別する。

戦没者遺骨収容・帰還の経緯と現状

戦没者遺骨の帰還が,慣行として定着したのは日華事変の頃とされる。この当時,遺骨の帰還は英霊の帰還として郷里を挙げた出迎え,弔いを受けていた(山折,2002)。しかし,戦線の拡大と戦局の悪化に伴い,その履行はしだいに困難となっていく(浜井,2021; 西村,2008)。遺体の収容が困難な場合,現地の砂や土などを遺骨の代わりとする旨が規定され(浜井,2014),砂や土・石,それもむずかしい場合は霊璽2)と呼ばれる,紙や木片に戦没者の名前を書いた品の「帰還」が増大した(神奈川県民生部援護課,1982a, 1982b; NHK出版,1995; 産経新聞取材班,1996; 靖国神社,1994)。

終戦を迎えた1945年以降,生還者が一部をもち帰るなどしたが,遺骨の多くは現地に残された。以下,国の遺骨収容事業を総括した浜井(2021)に依拠して戦後の経緯を要約すると,日本政府は講和条約を締結した翌1952年,遺骨の収容に着手した。計画と実施には種々の困難が伴い3),実際に行われたのは一時的,局所的,部分的な遺骨収容にとどまった。そこで収容されたごく少量の遺骨を,戦没者の遺骨全体を代表する「象徴遺骨」と位置づけることで,政府は遺骨収容事業の幕ひきをはかる。しかし,混乱と生活難が多少なりとも改善し,生活基盤がととのった遺族や生還者の中には,みずから現地に赴いて遺骨捜索や慰霊碑の建立を試みる人びとが現れた。当事者のこうした熱意などに押されるかたちで事業は再開され,以後,積極性と一貫性を欠きつつ現在まで続いている。2016年には,遺族に残された時間がわずかであることをふまえ,同事業を一定期間,集中的に実施する旨を定めた戦没者遺骨収集推進法が施行された。

霊魂の在処

このように,遺骨を見つけ,連れて帰りたいという遺族や生還者の強い要望が本事業の主たる推進力となってきた。なぜ,遺族や生還者は遺骨の帰還を求めるのか。本研究は,遺骨に故人その人,「霊魂」が宿るためだと想定する。このことは遺族や生還者の手記にも見いだすことができる。没地を訪ね,現地慰霊(公的には「慰霊巡拝」と呼ばれる)することができた遺族や生還者は,米,餅,たばこ,水筒につめて持参した故郷の水や酒,故人の好きだった品々や家族写真を供える(浜田・浜田,2024; 辺見,2002; 梯,2008; 澤地,2023)。故人の名を呼び,故人の好きだった歌をうたう(亀井,1992; 神奈川県民生部援護課,1982a)。沖縄戦で息子を亡くした母親は,遺骨の所在が判明すると,生きている息子に会いに行くかのように喜び,埋葬地の前で「やっと会えた」と泣いた(野村,2002)。ようやく来てくれた,待ちわびた,という故人の声を聞いたと述べる遺族・生還者もいる(神奈川県民生部援護課,1982b; 加藤,2015)。そして,遺族らが遺骨の所在に向かって呼びかけるのは,「迎えに来ました」,「一緒に帰りましょう」という言葉である(たとえば楢崎,2018; NHK出版,1995)。

上記の言動は,次の二点を含意している。ひとつは霊魂の存在である。霊魂とは,故人の生前の感覚や意識,嗜好などをとどめる存在とみなされる(たとえばBering, 2011 鈴木訳 2012; 堀江,2015)。遺族や生還者が故人に呼びかけ,故人の好物を供えるのは,それらを見聞きし,受けとることのできる存在を暗黙裡に想定しているからだろう。もうひとつは,その霊魂が,没地に残された遺骨に所在することである。このことは,「ようやく会えた」,「一緒に日本へ帰ろう」という,遺族らが現地で口にする言葉からも推測することができる。遺骨が帰還していない遺族らは,故人の霊魂は今も没地にいる,という心象を抱いていることが予想される。

先行研究と本研究の目的・仮説

事業で収容された遺骨の概数は公表されているが(厚生労働省社会・援護局,2023b),戦没者全体で遺骨がどれほど帰還したのかについては,一部自治体などの暫定記録(たとえば兵庫県民生部援護課・兵庫県留守家族連盟,1964)があるのみで,包括的かつ最新の統計は存在しない。本研究は遺族を対象に調査を行い,遺骨の帰還状況を没地と所属(陸海軍)ごとに把握する(目的1)。

この問題は,前掲のとおり遺族や生還者の手記でたびたび言及され,またこれを主題とする取材報告も複数ある(たとえば浜田・浜田,2024; 亀井,1992; 栗原,2015; 楢崎,2018; 酒井,2023)。先行研究としては,遺骨収容の経緯や総論(たとえば浜井,20142021; 一ノ瀬,2005; 波平,2004; 西村,2008; 山折,2002),特定の地域,戦闘,遺族の事例検討(たとえば粟津,2010; 中山,2014; Suzuki, 2022; 田村,2012; 横山,2008),遺族と生還者を各都道府県から一人ずつ抽出して行われた面接記録(国立歴史民俗博物館,2004–2005)など,歴史学,人類学,民俗学の領域で定性的検討が行われてきた。これらの記録・報告は一様に,遺骨が多くの遺族にとってかけがえのない存在であることを示している。戦没者遺骨がそれほど重視されるのはなぜなのか,本研究はこの点を明らかにするために,遺骨が霊魂の依代であるという前掲の予測を検討する。具体的には,遺骨帰還の有無にもとづいて調査協力者(遺族)を2分し,未帰還の場合はさらに現地で慰霊した経験の有無によって2分した計3群で,霊魂の所在についての認識を比較する。未帰還の遺族2群(現地慰霊あり/なし)は帰還した遺族にくらべ,故人が没地にいることを肯定するだろう(仮説)。

さらに,もし故人が没地にいるならば,霊魂が一般的に所在するとされる他の場所——遺族の近く,天国・浄土,来世など——にはいないのか,それともいるのか,という論点を探索的に検討する(目的2)。これは,霊魂の遍在性について検討することを目的としている。このことと関連して,遺骨未帰還の場合どのような品が遺骨代わりに埋葬されたのか,つまり遺骨の代替品を明らかにする(目的3)。戦没者の遺骨が戻らない場合,遺族は故人の髪や爪,砂や石の順に遺骨の「読み替え」を行った旨が指摘されている(波平,2004)。代替品を尋ねることで,この指摘の妥当性を裏づけることができるだろう。

遺骨の帰還をもっとも望んだであろう戦没者の親世代はすでにいない。そうした人びとに焦点化するならば,遅くとも1960年代には調査を行っている必要があり,その意味で,実態把握であれ仮説検証であれ,調査に最適な時期は逸して久しいと言わざるをえない。しかし,今であればまだ戦没者の子ども世代に属する遺族の協力を得ることができる。それもごく近い将来,不可能となるだろう。遺族の高齢化や減少,経年に伴う忘却など不利な条件はあるものの,上記の考えにもとづき,本研究は現時点で可能な範囲で戦没者遺族を対象とする調査を行うこととした。

方法

手続きと協力者

2023年7月,調査会社(マクロミル社)の日本人登録者を対象にウェブ調査を行った。以下の条件すべてに該当し,かつ調査協力に同意した309名が調査に回答した。第一に,日華事変から太平洋戦争までの戦没者(戦死,戦傷死,戦病死のほか,訓練・移動・捕虜・抑留・拘禁中の死去,公務死すなわち戦勝国による裁判が科した刑死などを含む)が身内(義理の縁戚関係も含む)にいること,第二に,当該戦没者が軍人か軍属であること4),第三に,協力者が終戦前に出生していること5)である。以上の基準に合致した309名中,遺骨は帰還したかという質問(後述)に「分からない」と答えた59名を除外し,さらに,没地についての質問(後述)で「国内」と答えた人のうち,故人を自宅や病院で看取った9名を除外した241名(男性203名,女性38名)を分析対象とした。平均年齢は81.46歳(SD=3.17,77歳から93歳まで)であった。実態の把握・記録という研究目的をふまえ,サンプルサイズ設計はせず,予算内で極力多くの協力者を得ることを優先した。

調査内容

はじめに,戦没者遺族を対象とする没地や遺骨の帰還状況などに関する調査であることを伝え,上記した3点を尋ねた。全条件に該当した人には性別や年齢などを聞き,さらに以下への回答を求めた。

戦没者と遺骨帰還の状況・代替品

戦没者との関係,軍人か軍属か,(軍人の場合)陸軍か海軍か,没地,遺骨が遺族6)のもとに帰還したか否か,(未帰還の場合)墓地などに納めた内容,そして遺族が没地に赴き慰霊したか(しているか)どうかを尋ねた。

霊魂の在処

霊魂の所在についての認識を尋ねた。「終焉の地」は,「故人の霊魂は,最期を迎えた場所で眠っている」,「故人はいまも終焉の地にいる」,「故人は故郷や遺族のもとに帰ることを願っている」という3項目から成る(α=.68)。これらは前掲した手記や取材報告にもとづき自作した。このほかに,故人の霊魂が遺族らのそばにいることを示す「魂との共生(α=.90)」5項目,あの世で穏やかに過ごしているという「良き他界(α=.88)」4項目,転生を意味する「生まれ変わり(α=.90)」4項目,宇宙,自然,悠久の時間に一体化するという「大きな存在への統合(α=.85)」4項目,そして「記憶・記録(α=.73)」3項目の5因子から成る死後世界観尺度(白岩,2023)を使用した(5件法:1=まったくそう思わない,3=どちらともいえない,5=とてもそう思う)。

倫理的配慮

調査開始前,回答に際して辛くなる場合があること,そうした事態が予想される場合は回答を控えてほしいこと,途中で回答をやめることもできる旨を前掲の目的に併記した。調査に先立ち著者の所属機関の倫理委員会の審査を受け承認を得た(通知番号23004)。

結果

戦没者について

戦没者との関係は,実の関係190名(78.84%),義理の関係50名(20.75%),その他1名(0.41%)であった。実の関係の内訳は,伯父・叔父85名(35.27%),父79名(32.78%),兄18名(7.47%),従兄弟6名(2.49%),祖父2名(0.83%),義理の関係の内訳は,父21名(8.71%),伯父・叔父14名(5.81%),兄9名(3.73%),従兄弟5名(2.07%),祖父1名(0.41%)であった。夫や弟は該当者がいなかった。霊魂の在処6変数において実の関係と義理の関係に差があるか検討した。正規性を満たさない変数・群があったためMann–Whitney検定を行ったところ,いずれの変数でも差はみられなかった(ps=.178~.868, rs=.011~.087)。以後,実・義理は区別せずに分析した。

戦没者の所属は,軍人209名,軍属14名,はっきりしない18名であった。うち軍人の内訳は,陸軍146名,海軍63名であった。戦没者全体での陸海軍の比率推計(原・安岡(2003)をもとに算出,Table 1)と比較すると,本サンプルは海軍の比率がやや高い。陸/海軍についても各変数に差はなかったため(ps=.088~.974, rs=.002~.118),これらを区別せずに分析した。

Table 1 本サンプル(n=241)と戦没者全体の内訳(人数・比率)

本サンプル戦没者全体(推計)
人数比率人数比率出典
所属軍人20986.72%
陸軍14669.86%1,647,20077.66%原・安岡,2003
海軍6330.14%473,80022.34%
小計209100.00%2,121,000100.00%
軍属145.81%
はっきりしない187.47%
没地国内3715.35%208,5009.83%陸軍自衛隊衛生学校,1971
国外20283.82%1,912,50090.17%
東南アジア8039.60%761,80034.73%厚生労働省社会・援護局,2023b
太平洋6934.16%546,30024.91%
旧ソ連,樺太・千島,中国,満州3919.31%789,90036.01%
朝鮮半島,台湾52.48%95,4004.35%
不明94.46%
小計202100.00%2,193,400100.00%
分からない20.83%

没地(近海を含む)は,現在の領土でいうところの国外202名,国内37名,分からない2名であった。前掲のとおり,国内と回答した人のうち,故人を自宅などで看取った9名はあらかじめ除外した。戦没者全体における国内外の戦没者の比率推計(陸軍自衛隊衛生学校(1971)をもとに算出,Table 1)と比較すると,本サンプルは国内戦没者の比率がやや高い。国外における地域別の内訳は,東南アジア80名,太平洋69名,旧ソ連,樺太・千島,中国,満州39名,朝鮮半島,台湾5名,不明9名であった。厚生労働省社会・援護局(2023b)の地域別戦没者遺骨収容概見図をもとに算出した比率と比較すると,本サンプルは東南アジアと太平洋における戦没者の比率が高く,旧ソ連,樺太・千島,中国,満州での戦没者の比率が低い。

遺骨帰還の状況・代替品

遺骨帰還の状況は,戻らず206名(85.48%),戻った34名(14.11%),遺族がとり戻した1名(0.41%)であった。遺骨の未帰還率を,陸海軍別,および没地(国内外)別で算出したところ,陸軍84.25%(146名中123名),海軍95.24%(63名中60名),国内56.76%(37名中21名),国外90.59%(202名中183名)となっていた。没地と遺骨帰還の有無のクロス表をTable 2に示す。

Table 2 没地と遺骨帰還の有無のクロス表

遺骨の帰還状況未収容率(厚生労働省社会・援護局(2023b)をもとに算出)
戻らず戻ったとり戻した未帰還率
没地国内211603756.76%5.67%
国外東南アジア73708091.25%59.96%
太平洋65406994.20%59.73%
旧ソ連,樺太・千島,中国,満州31713979.49%36.50%
朝鮮半島,台湾5005100.00%45.80%
不明9009100.00%
小計18318120290.59%50.84%
分からない2002100.00%
総計20634124185.48%46.89%

未帰還率は,遺骨が遺族のもとに帰っていない戦没者の人数が,戦没者全体に占める比率をさす。

未収容率は,戦没者概数から収容済み遺骨の概数を差しひいた値が,戦没者概数に占める比率をさす。

遺骨が戻らなかった場合,代わりに墓地などに納めた内容は,分からない86名,代替品83名(複数回答),何も納めず50名であった。代替品の内訳は,「名前が書かれた紙,木片,位牌」22名,「髪」20名,「爪」12名,「直筆の文書(遺書,手紙,日記など)」11名,「砂・石・土」8名,「遺品(筆記具,勲章など)」6名,「白木の箱」,「へその緒」各1名,他2名であった。

現地慰霊の経験は,ない189名(78.42%),ある30名(12.45%),分からない22名(9.13%)であった。遺骨帰還の有無で遺族を2分し,さらに未帰還の遺族を現地慰霊の有無によって2分した3群(遺骨帰還群35名,未帰還・現地慰霊あり群28名,未帰還・現地慰霊なし群178名7))を次の分析で使用した。

霊魂の在処

6変数すべてで一定の信頼性係数が得られたため変数ごとに平均値を算出した。正規性を満たさない変数・群があったことから,遺骨帰還/未帰還(現地慰霊あり/なし)の3群で霊魂の在処6変数の各平均順位を比較するKruskal–Wallis検定を行った(Table 3)。その結果,霊魂の在処のうち「終焉の地」で有意な差がみられた(p=.004)。多重比較(補正済みBonferroni)の結果,遺骨未帰還2群は帰還群より,故人の霊魂は今も没地にいると認識していた(現地慰霊あり群p=.007/なし群p=.010)。霊魂の在処のうち,魂との共生,良き他界,生まれ変わりなど,終焉の地以外の5変数で3群間に有意差はみられなかった(ps=.177~.850)。

Table 3 各変数の平均順位(中央値)とp

a遺骨帰還遺骨未帰還p多重比較(p値)
b現地慰霊ありc現地慰霊なし
n=35n=28n=178
霊魂の在処終焉の地87.10140.14124.65.004a<b (.007)
a<c (.010)
(3.00)(3.67)(3.33)
魂との共生122.13143.46117.24.177
(3.40)(3.50)(3.20)
良き他界121.06127.93119.90.850
(3.25)(3.25)(3.25)
生まれ変わり135.79104.3120.72.199
(3.00)(2.63)(3.00)
大きな存在への統合123.01130.29119.14.716
(3.00)(3.25)(3.00)
記憶・記録107.43138.36120.94.203
(3.67)(4.00)(3.67)

Kruskal–Wallis検定,Bonferroniの補正による多重比較

考察

遺骨の帰還状況

本研究の目的のひとつは戦没者遺骨の帰還状況を把握することにあった。遺骨が遺族のもとに戻った,あるいは遺族がとり戻したのは15%未満であり,帰還していないケースが大半を占めた。調査に先立って主題を示したため,未帰還の遺族が多く回答を寄せた可能性は残る。しかし,本研究のサンプルが戦没者の慰霊や遺骨捜索を目的とする団体成員ではなく,一般的な調査会社のモニターであったことに照らすと,この未帰還率の高さは一般的な戦没者遺族の状況をある程度反映していると考えられる。

未帰還率は国内(56.76%)に比べ国外(90.59%)で高く,国外はどの地域も全般的に高くなっていた。未帰還率はまた,海軍所属者(95.24%)が陸軍所属者(84.25%)に比べて高かった。将兵らの多くは,自身の遺体が収容されないことを覚悟していたが8)大原,2004),それはとくに海軍で顕著であった(西村,2008)。「海軍々人には遺骨なく太平洋こそ永久の墓場との信念なり」などの遺筆も見いだされる(NHK出版,1995, p. 271)。実際,海没遺骨の収容は難易度が高く,政府はこれを事実上,収容対象外としてきた経緯がある9)。海軍所属者の遺骨の未帰還率が高いことを示す上記の結果は,こうした事情を反映していると考えられる。さらに,得られた地域別の未帰還率を,未収容率(厚生労働省社会・援護局(2023b)をもとに算出)と比較すると,国内外を問わず,また国外すべての地域において,未帰還率と未収容率の乖離は大きなものとなっていた。遺骨が日本に引きとられても,必ずしも遺族のもとに戻っているわけではないことが確認された。

霊魂の在処

戦没者遺族を遺骨帰還/未帰還(現地慰霊あり/なし)の3群に分け,故人の所在についての認識を比較した。6つの所在のうち「終焉の地」で遺骨帰還群と未帰還群に差がみられ,予測どおり,遺骨が戻っていない遺族2群は故人の霊魂が今も没地にいることを肯定した。この結果は,遺族にとって故人の霊魂が今も「没地に残る遺骨」に所在することを意味している。非業死を遂げた遺体が通常の死者儀礼も受けずに放置され,あるいはごく簡易に埋葬された場合,故人の霊魂は亡骸(遺体・遺骨)に留まりつづけるという心象を遺族は抱くのだろう。元来,身体は心が宿る場所,心の在所と認識されやすい(外山,2020)。こうした身体観は死後も変わらず,遺体や遺骨が霊魂の在所とみなされやすいことを本結果は示している。

戦没者本人は,みずからの霊魂と遺体を独立視していたようである。その遺筆からは,霊魂が死後,身体を離れて家族のもとへ帰るという心象を彼らが抱いていたことが読みとれる。たとえば,硫黄島で苛烈な持久戦を指揮した将官は,妻への手紙に「もし霊魂があるとしたら,御身はじめ子供達の身辺に宿るのだから」としたためている(梯,2008, p. 145)。特別攻撃隊隊員の一人は沖縄への出撃に際して「たらちねのみ親のもとに不知火の海原渡り今帰りゆく」という歌を遺している(白鴎遺族会,1995, p. 193)。遺骨は戻らないが霊魂は戻る,というこれらの記述からは,自身の死後,その遺骨を手にすることのできない家族を戦没者たちが気遣っていたこと,またどんなかたちであれ家族のもとへ戻ることが彼らの願いでもあったことがうかがわれる。

戦没者本人はこのように,離脱可能な霊魂という心象を抱いていたと思われるのに対して,遺族のほうは霊魂を「囚われた存在」と捉えている可能性がある。没地に残された遺骨は,故人の霊魂の依代であるとともに,故人の霊魂を束縛し,その帰郷を妨げるものと認識されている可能性がある。だからこそ遺骨は収容,ないし帰還しなければならないのだろう。

同時に,霊魂は遍在,併存,あるいは分散するという特徴をもつことが本結果から示唆された。戦没者が,一般的な死者の所在——遺族のそば,他界,来世など——にいるという心象は,遺骨帰還/未帰還(現地慰霊あり/なし)の遺族3群間で差がみられなかったからである。これらの矛盾する結果が意味するのは,遺骨が戻っていない遺族にとって,故人の気配は没地(遺骨)に色濃くあるものの,霊魂は必ずしもそこだけに存在するわけではない,ということだろう。このことは,霊魂が空間的な広がりや遍在性をもつ存在であること,すなわち異なる場所に併存,ないし分散しうることを示している。

この点は,死者に対する日本人一般の認識や向き合い方と通底している。遺影や墓地などの前で,人びとは故人がそこにいるものとして手を合わせたり語りかけたりするが,別の折には故人があの世,他界にいる前提でその挙動を推測したり,また盆などには近くの山や丘陵,海の向こうなどから故人を迎え入れたりする。つまるところ,霊魂はどこにでも存在しうるのだろう。文脈や枠組みによってその所在には濃淡が生じうる。その中で,本研究が着目した「没地に残された遺骨」はとくに濃厚な霊魂の在処と言えるだろう。

遺骨の代替品

遺骨の代わりに墓地などに納められた内容は,霊璽と推測される紙や木片がもっとも多く,次いで髪・爪,直筆文書,砂・石,遺品などが挙げられた。

霊璽は,白木の箱に納めて遺族に引き渡されるのが一般的であった。中身を見ることはしばしば禁じられたが,順守する遺族は少数だったと考えられる(たとえば浜田・浜田,2024)。髪や爪は,将兵らが出征・出撃時や刑の執行前,家族に残したり送ったりしたことが多数記録されている(たとえば辺見,2002; 巣鴨遺書編纂会,1984)。これらを実際に遺族が遺骨の代替品としていたことが確認された。砂や石は,部隊や自治体を介して白木の箱で渡されるほか,遺族や生還者がみずから入手する場合があった。前者の場合,箱の中身が砂・石であることに,霊璽と同様,おそらく多くの遺族は耐えがたい思いを抱いたが(たとえば神奈川県民生部援護課,1982a; 寒川,1952),後者のように,これらをすすんで求める遺族らがいたことも事実である。現地を訪れることができた遺族や生還者の中には,砂,石,土,貝,珊瑚,木の葉などをほかの遺族の分も拾い,帰国ののち配る人もいた(たとえば船坂,2014; 辺見,2002)。このうち砂は「留魂砂」(波平,2004),石や土は「霊石」と呼ばれている(西村,2020)。これらの呼称は,故人の霊魂が砂や石などにも宿りうることを含意している10)。人類学者の波平(2004)は,戦没者の遺骨が戻らなかった場合,遺族が故人の髪や爪,砂や石の順に「読み替え」する旨を指摘している。本結果はこの指摘と整合的であるが,さらに直筆文書や遺品もこうした品々の延長線上にあることが示された。

総括と展望

意義

収容された戦没者遺骨の柱数概数(厚生労働省社会・援護局,2023b)は,その算定根拠に問題があると言われている。通常,全身の遺骨が発見されるのは稀であり,見つかるのはたいてい大腿骨の一部などの部分遺骨である。その場合,一柱を数える明確な基準がなく,人によって異なる計算が行われてきた(栗原,2015; 酒井,2023)。遺骨が収容された戦没者の実際の人数は,概数から乖離している可能性がある。さらに,戦没者の総数と地域別の内訳も概数であり,これらをもとに算定される未収容遺骨の柱数も大雑把な数値とならざるをえない(栗原,2015)。また,上記の対象は日本に引きとられた遺骨であり,遺族のもとに帰った遺骨ではない。本研究は,正確性に疑義のある遺骨(柱数)ではなく,戦没者(人数)に着目してこれを単位とし,日本人遺族を対象に定量的な調査を行うことで,遺骨が帰還していない戦没者の比率を,没地と所属ごとに明らかにした。小規模サンプルではあるが,遺骨を手にしていない遺族が実際どのくらいいるのか推計する上で本結果は有益な資料となるだろう。

さらに,なぜ遺族らは戦没者遺骨の帰還を求めてきたのか,という根源的な問いに対する実証的な解のひとつを提示した。それは,望郷の念を抱きながら亡くなったであろう戦没者の霊魂が,その亡骸にとどまっているからである。これを帰還させることは,故人を帰郷させることと同義なのだろう。故人の所在を遺族に問い,その認識を遺骨帰還の有無で対照比較することを通して本研究はこのことを明らかにした。

遺骨や遺体に故人の霊魂を見いだす遺族の心性は,戦没者遺族にとどまらず,非業死者の遺族全般に通底していると考えられる。津波や豪雨が遺体を連れ去るケースでは,遺族はしばしば「はやく見つけて帰してやりたい」と口にする(石井,2014; 丹野,2016; 鵜飼,2018)。大切な人の遺体に遺族が寄せる愛情は,遺体を傷つける交通・殺人などの死亡事件,解剖,臓器提供への態度にも見いだすことができる(たとえば土師・本田,2005; 白岩・唐沢,2018)。なぜ非業死者の遺族は遺体保全を願うのか,なぜ一片の遺体・遺骨を手にするために多大な労力を投じるのか,この問いはこれまで,臓器提供,飛行機事故などの主題ごとに議論されてきた。そこでは主として,国民性,死生観や死者の尊厳といった抽象的な概念にもとづく定性的な検討が行われている。本研究は,遺体損壊(解剖・臓器提供)に対する遺族の否定的態度と霊魂観念の関連を見いだした実証研究(白岩,2023)とあわせ,遺体や遺骨に故人の霊魂を見いだす心性が日本人遺族に共通してみられることを示唆した点にその意義がある。

限界と課題

前述のとおり,調査の時宜を逸したことが本研究の限界である。戦後80年を迎え,戦没者の親世代,また同世代の多くが没した今,身内の遺骨帰還をかつてのような切実さで待ちわびる遺族は減少していると考えられる。こうした条件下でも仮説が支持されたことは特筆すべき点であり,先の戦争が遺族に残した禍根の深さをうかがわせる。しかし,戦没者の親や同世代の協力を得ることができていたならば,結果はより顕著なものになっていただろう。

また,高齢の戦没者遺族を対象にウェブ調査を行ったことで,協力者の属性に偏りが生じたことは否定しがたい。無作為抽出標本にもとづく郵送調査では十分なサンプルサイズを得ることはできなかったと考えられ,本研究が採用したウェブ調査は,現実的な手段のうちでは最善だったと著者は考えている。しかし,戦没者遺族一般にみられる特徴と本結果が必ずしも一致しない可能性は残る。

課題としては,本研究が遺骨の帰還/未帰還の差に着目し,帰還と収容の差については検討しなかったことが挙げられる。政府が長年行ってきたのは収容であり,帰還ではない。厚生労働省は2003年度からDNA鑑定を始めたが,「名前入りの遺留品が近くで見つかった旧戦場の遺骨に限る」という条件が2020年まで付されていた。その結果,同事業によってこれまで収容された345,244柱のうち,身元が判明して帰還したのは1,638柱にとどまり(厚生労働省社会・援護局,2023a),残る99.53%は無縁遺骨として千鳥ヶ淵戦没者墓苑11)に納められている。この場合,遺族はその事実を知りようがないものの,遺骨が没地にある場合と帰還した場合,そして収容された場合(仮想)で比較することは,過去の遺骨収容事業を評価する上では有用だっただろう。

展望

人びとが家族の遺体・遺骨に寄せる愛情とその規定因を文化比較することは,「遺体に対する日本人のこだわり」をめぐる多分野での議論に資すると考えられる。

遺体の保全や帰還を求める遺族の傾向は,日本人に固有,ないし顕著だと指摘されることがある(たとえば飯塚,2001)。そうした言説が,国内で臓器提供が浸透しない要因として挙げられることも多い(たとえばベッカー,2000)。これに対して,遺体に寄せる遺族の愛着は文化普遍的だという指摘もあり(波平,1996; Xygalatas, 2022 田中訳 2024),これを裏づける事例がベトナム(Hüwelmeier, 2020)やコソボ(Kajtazi-Testa & Hewer, 2018)などで報告されている。

これらの事例は,非業死者の亡骸をとり戻すことへの遺族の情熱が,少なくとも日本人固有のものではないことを伝えてくれる。しかし,個々の事例から一般論をひきだすのは避けるべきだろう。肉親の亡骸に日本人が寄せる愛着の強さ,独自性,あるいは通文化性を明らかにするには定量的な文化比較が必要である。発達心理学者の外山(2020)は,生命や身体についての認識を比較することによって,心身二元論的な米国人と心身一如の日本人という対比的な特徴を導きだした。霊魂と亡骸をめぐる心象についても同様の検証が必要だろう。そうした今後の展開において,本研究は定点としての意味をもつものと考えられる。

脚注

1) 本研究はJSPS科研費(20K14126, 24K06455)の助成を受けた。

2) 神道における霊魂の依代。仏教の位牌に相当する。

3) 将兵らが送りだされた戦線は,北はアリューシャン列島や樺太・千島,南はニューギニア,西はインド,東はハワイ諸島という広範囲におよぶ(栗原,2015)。戦没者の人数も膨大であったこと,連合国が自軍戦没者の収容を優先させたこと,抑留者など生存者の帰還が優先されたこと,賠償問題,現地国の意向,朝鮮戦争など,種々の悪条件と敗戦国の劣位に外的要因が重なった(浜井,2014, 2021)。

4) 多くの現地民間人も戦闘参加を余儀なくされたり巻き込まれたりして亡くなっているが,異郷での戦没という基準に照らして対象外とした。また,台湾や朝鮮半島などの出身者も軍人・軍属として亡くなっており,その遺骨収容・帰還も重要課題であるが,文化的同一性を担保する観点から本研究では日本人遺族に限定した。

5) 戦没者との接触や,戦没後の状況を知る機会があった世代に限定する目的で設定した。

6) 遺骨は遺族のもとに戻ったか,遺族は現地慰霊したかという質問内の「遺族」とは,戦没者の親族全体を意図している。協力者本人に限定しなかったのは,ここで明らかにしたかったのが,遺骨が親族のもとへ帰った事実,親族が現地で慰霊した事実があったか否かについての協力者の認識であったことによる。なお,霊魂の所在については協力者本人の心象を尋ねている。

7) 遺骨が戻り,かつ現地慰霊したことがあると答えた2名は遺骨帰還群に含め,現地慰霊の有無について「分からない」と答えた遺族は現地慰霊なし群に含めた。

8) 彼らがより戦況を把握していたこと,戦場での規範を示した『戦陣訓』に「屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり」という一文があったこと(陸軍省,1941, p. 28),当時の流行歌「海行かば」の中に「水漬く屍」,「草生す屍」という歌詞があったこと,固有の事情(自機もろとも敵艦に体当たりする特別攻撃や,部隊全滅の見込みなど)が影響したと考えられる。多くの出征者が髪や爪をとり置いたのも,そうした覚悟の表れだっただろう。

9) 厚生労働省は海没遺骨の収容に消極的であったが,観光ダイバーによる艦内遺骨の撮影とSNSなどへの投稿が表面化し,2023年に閣議決定された「戦没者の遺骨収集の推進に関する基本的な計画変更」の中で,可能な場合は収容する旨,方針転換された。

10) 2011年の東日本大震災では,津波が墓地に到達し遺骨が流失したケースにおいて,遺族が代わりに付近の砂をもち帰った例が報告されている(斎藤,2016)。遺族はさらに,終焉の地そのものに故人を見いだすことがある(「肉親の眠る島,緑のジャングルに,我が分身のようないとしさを感じた」:神奈川県民生部援護課,1982a, p. 95)。この傾向は,遺骨が残された場所でとくに顕著である。1985年に起きた日航機墜落事故では,犠牲者の多くが部分遺体となって収容された(『日航123便事故と医師会の活動』編集委員会,1986)。無数の離断遺体の中から故人を識別し,手足の一片なりともつれて帰ろうとする遺族の壮絶な労苦が記録されている(たとえば美谷島,2010; 浦野,1986)。その墜落現場であり,遺骨や遺品がなお地中に残るとされる急峻な御巣鷹山に,上記と同じ心情を寄せ,慰霊登山を心待ちにしている遺族がいる。もしそうであれば,砂や石は,こうした没地やその自然を構成する一要素として捉えるべきかもしれない。宗教心理学者の西脇(2004)は,自然の中に霊的存在を感じる心性が日本人にあることを指摘している。その場所で没した死者もまた,この霊的存在となりうる可能性を本結果は示唆している。

11) 沖縄で戦没した将兵らの遺骨は出身地によらず国立沖縄戦没者墓苑に納められている。

利益相反

開示すべき利益相反事項はない。

引用文献
 
© 2025 The Japanese Society of Social Psychology
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