2024 年 22 巻 2 号 p. S1-S17
トラウマティック・ストレス誌では,2025年7月よりJ-STAGEにて論文の公開(オープンアクセス化)を開始することになりました。公開された論文は,非営利目的で改変しない場合に,自由に再配布(例えば所属先のホームページでPDFを紹介したり,SNSでPDFを配ったり)することが可能です。今回,公開記念企画として2014年発刊の第14巻第2号に掲載された【特集】阪神・淡路大震災20年の座談会を,出席者の皆様の許諾を得て再掲することにいたしました。本誌の貴重な資料として広く閲覧頂けますと幸いです。
(日本トラウマティック・ストレス学会 編集委員長 大江美佐里)
加藤 今日はお忙しいところありがとうございます.阪神・淡路大震災(1995年1月17日発生)から来年でちょうど20年になります.今日の座談会は,この20年を振り返ってどういう長期的な経過を辿ってきたのか,阪神・淡路大震災以降に起きた災害で阪神での経験を聞きたいとよく問われますが,どういったことが活かされてきたのか,活かされなかった教訓とはどういうものかについて,お聞きしていきたいと思います.
本日は震災のさまざまな時点での活動におけるキーパーソンに来ていただきました.最初に自己紹介を兼ねて,それぞれの方が阪神・淡路大震災が起きた際にどのような活動をされたのかお話していただければと思います.まずは宮﨑先生よろしくお願いします.
宮﨑 私は神戸市長田区で精神科を開業しています.震災当時,ちょうど私が開業していた地区で火事が起こりまして診療所が全焼しました.2日くらいはどうしていいのかわからない状態でした.震災前から精神科の嘱託をやっていた長田区の保健所に偶然行ったら,震災当日から区役所が避難所になっており,精神保健福祉相談員によれば,「薬がなくて困っている精神障害の方がいる」という話でした.区役所では当時,一般の災害医療が行われていましたので精神科の医療もそこでやろうとなりました.後に精神科救護所となるのですが,1カ月ほど携わりました.
焼けてしまった診療所はだいたい1カ月後に仮設で再開することができました.長田区はちょうど被災の中心地だったので,被災した患者さんが大勢来ました.私自身も被災者の方が今後どうなっていくか関心がありましたので,震災の影響というものを考えながら10年ほど診療を続けました.10年目以降は正直,もう全く震災の影響が分からなくなってきましたから,特に震災がどうこうということではなく一般の精神科診療所を続けてきた,そして現在に至っているというところです.ただ時々,震災を振り返ってどうかという講演を頼まれた時には,震災のケースを見直してみると,やはりその影響は未だに深刻であるなと思っています.
加藤 ありがとうございます.宮﨑先生は精神科救護所を始めるきっかけを作られた方で,その後も一番の被災地であった神戸市長田区で開業されているというお立場です.では,岩井先生お願いします.
岩井 私は神戸大学病院に勤務している時に震災が起きました.最初は何日間か出勤できませんでした.震災当日は,地震発生直後から,近所の男手10人くらいで生き埋めになった人を掘り出しました.スコップが1つ,バールが1本あったほかはみんな素手でした.10人ほど救出しましたが,幸いにもみんな軽傷でした.1人だけ救急車で運ばれましたけれど,骨折した人もいなかった.それは私が後に被害者支援の仕事に入っていく上では大きいことでした.もしあそこで近所の人の悲惨な遺体を見ていたら,この仕事はしていないと思います.それに全く被害の少ない地域であっても,この仕事をしていないような気がしますね.そこは偶然ですけど,今までずっと私の仕事に影響しているかなという気がしています.
その後は大学病院に戻って,病棟を診ながら救急部の手伝いをしていました.クラッシュシンドロームをはじめ,さまざまな身体症状で運び込まれてくる人を診ながら,当時医局長だった安克昌先生と一緒に地域の小学校を訪問したり,避難所に巡回相談に行ったり,いろいろな現場に出て行きました.震災後1年半経った時点で,こころのケアセンターに入れて頂いてからは,被害者支援が本職になりました.
つまり私は,まずは被災地住民として震災に出くわし,次に被災地で働く医師として,そして被災地が復興期に入ったところで被災者支援を本業にする者となり,というような段階を踏んで震災と関わっていったわけです.
加藤 ありがとうございます.では,次に藤田先生お願いします.
藤田 当時は,県庁の旧地域保健課,今は障害福祉課になっていますけれど,そこの精神保健係に勤務していました.震災直後すぐには出勤できませんでした.加古川線経由,神戸電鉄経由,地下鉄経由で新神戸まで出て,新神戸から歩いて県庁へ40分から45分.片道3時間半ぐらいかけながら通勤し,三宮の折れたり,倒れたりしているビルの間を通って県庁に通っていました.
宮﨑先生が行かれた保健所が精神科救護所のきっかけになったのですが,当時の精神保健センターの麻生先生と杉浦所長が精神科の薬がない患者さんが大勢いらして「これをどうすんねや」と.ケアのための薬の手配とか精神科医などのチームが必要になってくると県庁に交渉に来られていました.現状や方法について話し合いをして,まだ具体的なイメージができていませんでしたが厚労省に連絡を取って,厚労省から全国の精神保健主管課などにマンパワー派遣の依頼をしてもらいました.しばらくして全国からひっきりなしに電話がかかってくる状況が出始めまして.それが救護所のはじまりですね.ですから宮﨑先生が最初に始められて,2日後くらいに麻生先生が県庁にいらして,厚労省に依頼したのがその翌日くらいで,もう電話がじゃんじゃん鳴り始めたということですね.
加藤 日付でいうと何日になるんでしょうね?
藤田 1月20日か21日だと思いますね.
加藤 その電話を受けて厚労省は全国に情報を流したみたいですね.
藤田 はい.その動きはとても早かったんですけれど,何を揃えてどうしてこうしてと国も県も具体的には決めていなかったため,「宿をどうしてくれるんだ」「寝るところはあるのか」「食べるものはあるのか」などを含めて,部屋にあった約30本の電話が鳴りっぱなしでした.おそらく精神保健センターも同様の状況になったんではないでしょうか.
精神保健センターでは,「救護所チームを作るにしても作戦練らなあかんよね」と麻生先生を中心に神戸大の精神科医や県立光風病院の医師なども応援して作戦本部を作っておられたと思うんです.私もそこに10日間くらい行って,被災地の現場の様子や状況を聞いて,足りないものや必要なもの,精神障害者の制度のことなど,国に依頼したり,求めた方が良いことを関係機関へ伝える,求める役をしていました.その後,どんどんどんどんチームが入ってきました.神戸市の各保健所には,麻生先生や作戦本部の先生が,県の保健所には私が,「本当にチームいるんですか,いらないんですか」という電話を掛けていました.
救護所に関する作戦会議も,1週間後ぐらいから現場の人に声をかけて精神保健センターで開催しました.避難所で夜間興奮状態になる患者さんを病院へ搬送するために,たとえば「ヘリコプターで患者さんを運ぶにはどうしたらいいのか」「夜間往診チームを作ろう」「夜間の救急(相談)窓口を作ろう」みたいな話が作戦会議からいろいろ出てきますから,その時に何を準備したら良いのかなど,医務課や消防・救急部門,NTTなど他機関に調整をする役割でした.また,救護所を置く保健所には“チームが何チーム入って,何人相談にのってうち何人が入院したかしてないか”などその時に様式を急遽作って,毎日保健所から報告をもらいました.
加藤 今でいうロジスティックを担当したんですね.
藤田 ロジになりきっていませんね.思いつくままやっていました.
加藤 その後はどんな活動になっていったのですか?
藤田 それから数カ月経って,保健所で早くは3月末,遅くは5月末まで精神科救護所が続いています.保健所から「今までたくさん入ってきたチームのマンパワーをサーって引き上げられたらどうなるの」という声が出始めました.一方,全国の各自治体からは「兵庫県は一体いつまでチームが欲しいの」それから「3月末で年度変わるよね」「年度変わってもやっぱり人がいるのかな」という電話が3月後半から入ってきました.これは困ったなと思いましたね.その後の救護所のマンパワーを引き継ぐ,しかも日替わり交代ではない引き継ぎ可能なマンパワーの確保が必要だと考えました.そこで思いついたのが,マンパワーや支援場所などに関する要求を阪神・淡路大震災復興基金の中で予算要求しようと考えました.3月ごろに復興基金ができましたので,当時はこころのケアセンターという名前ではなく,地域生活支援センターという名前で要求をし,発足後はそこに自ら出向という形になりました.
加藤 最初からずっといろいろと事務的な調整をされていたという立場ですね.ありがとうございます.では田中先生,どんな活動をしていたか教えていただけますか?
田中 震災当時,神戸ではなく石垣島の病院に勤務していました.テレビで知って,落ち着かなかったです.震災の翌日がレクリエーションの日で,患者さんと作った大凧を揚げていたんですけど,その時,神戸から赴任していた人たちと一緒にそれを眺めながら「僕らは神戸にもう帰れなくなっちゃったね」と話したことを覚えています.つまり何か分からないけど仲間じゃないというか,同じ体験をしていないというような感じがしていました.たまたま震災の日の朝に神戸に旅行に行ってきた患者さんから黄色の袋に入った,有名な珈琲店のコーヒー豆を「大変ですね」と貰った思い出があります.
沖縄県の職員でしたから,なかなか神戸に戻ることができず年休を取って神戸にやってきたのが10日目くらいだったと思います.後づけで県からの派遣とすると指示を受けました.当時の沖縄県の支援拠点はハーバーランドの盲学校でしたが,私は荒田町の精神保健福祉センターにずっといて,大学病院に泊まって通っていました.その時に初めて県からの支給で携帯電話を持ったんですよ.それまで携帯電話を持ってる人はあまりいなかったと思うけど,その時に初めて私は県からの支給で携帯電話を持ったんです.
藤田 私が所属する課ではそういうのを集める役でもありました.当時は重くて大きな携帯電話でした.
田中 学校との連絡は携帯電話でやりとりしていました.そこでは結局,何でも屋だったと思います.当時,毎日,精神保健福祉センターニュースを出していたでしょう.各避難所からのいろいろな情報をまとめて,いまどういう動きになっているか書いていました.あの資料は全部残っていますよね.最初は手書きでした.精神保健福祉センターに大学からパソコンを持ちこんで,挙がってきた情報を打ち込んで毎日出していた.その頃はFAXで各避難所に配信することになっていたんですけど,FAX用紙が詰まって詰まって,1日中FAX送信してたこともありました.何10カ所かまとめて送るんですけど,1日中FAX送信しっぱなしだから,逆にFAXを受けられなくなってしまった.それで遠方はFAXで,近いところは持っていく話になって,自転車であちこちの避難所に行きました.その時,避難所に医師がいたので情報を貰って「これセンターニュースです」と配って歩いたことが思い出ですね.
藤田 県庁にも持ってきてくれていましたよね.
田中 持って行きました.メッセンジャーとして自転車で回っていたから,各被災地の状況を結構細かく見ているんですよ.「とにかく何でもええから街へ出てください」とセンター職員に言われて,「見てきなさい」ということだったと思うんですけど,自転車でとにかく街をずっと走っていました.
各避難所から挙がってくる情報の中に向精神薬のばら撒きの問題がありました.「向精神薬をたくさん出さないでくれ.他で貰ってる人がいるかもしれない」と言って歩いた覚えがあります.向精神薬を処方していたのは,精神科医ではない他科の先生たちだったんですけど,それだけが理由ではなくて,全く統制がない横の連絡がないままに避難所で支援にあたっていたからだったと思います.センターニュースが横の連絡という役割を少し果たしたかなと思いますね.
他にも10日目以降ですけど,アルコールの問題が出始めていました.あとはトイレの問題,衛生の問題が上がってきていました.加えて,外からボランティアできた人の精神不安定,躁状態への対応もありました.被災地での治療も困難なので,帰るように勧めました.メッセンジャーとして各避難所を周り,出先で情報を集めて来て,そういう対応をしていた.何でもしていたな,と思います.また,そういう情報を精神保健福祉センターに挙げていく役割だったかなと覚えています.
最初神戸には10日もいませんでした.いったん戻って,それから半年して神戸に戻ってきました.戻ってきて最初の仕事は,加藤先生から依頼された美容理容組合での講演でした.「被災した方のお話を丁寧に聞いてください」という話だったんですけど,美容理容組合の人に「そんなん毎日の私らの仕事や」と言われて,被災者としての美容・理容師さんと支援者としての美容・理容師さん,つまり自分自身も被災しているけれど,同時に丁寧にお客さんの話を聞くという支援をする立場,二重の立場にあることを私はあまりわかっていなかったと思います.
あとは,西宮で「住民健診におけるストレスチェック」をしていましたので,それを10年目までお手伝いをして,データをまとめていました.最初は安先生がやっていたものですけれど.アンケートをいつまでやるのかという話になった時,もうぼちぼち終わろうかと言ったのが10年目でした.そういう記憶があります.
加藤 ありがとうございます.私の活動についてもお話しておきます.被災したことが活動の原点になっていると岩井先生がお話しされていましたけれど,田中先生と同じく震災当時は東京にいたので被災してないんですね.外から見ていて「これはえらいことや」と,もう本当にいてもたってもいられなくなって上司に相談して,3週間目に神戸に来たと思います.救護所がもうできていて神戸市長田区や兵庫区の救護所をお手伝いしながら,地域の中学校にある避難所回りをしたり,麻生先生のお仕事を手伝って情報収集などしていました.いったん帰って,その次は8週間目に来て,その年の6月に神戸に戻って来ました.
その頃は,どのような立場で戻るかというのがいろいろありましたが,結局こころのケアセンターが立ち上がっていましたから,そこへ入りました.行ったのが運の尽きで…….その後はずっとこころのケア活動に携わりました.終わりの年であるはずの2000年に1年延長になったんですけれど,その頃いろいろな災害が起きたんです.明石市の歩道橋事故や池田小学校事件ですね.こころのケアがもう一度注目を集めて,それで引退できなかった.その後2004年に今のこころのケアセンターができて,そこに移りました.移ったらまた,中国での地震があり,そして東日本大震災が起きて今に至っていると,こころのケアから逃げ遅れた人間と自虐的に言っております.
さて,それぞれの背景を話して頂きました.阪神・淡路大震災のあとの活動というのは,1つは急性期の精神科救護所と言われる医療的な活動を中心とした活動と,その後の復興期の活動としてこころのケアセンターができたことに大別できると思いますが,それぞれの活動について今知っていることを当時知っていたら,こんなふうにできただろうかという視点で,お話をして頂きたいと思います.
加藤 救護所についてですけど,宮﨑先生いかがですか.
宮﨑 救護所のはじまりについてもう一回お話したいんですけれど,震災発生から2 日目くらいに私が訪れた時,長田保健所,長田区役所は避難所になっていて,そこで一般の災害医療活動がなされていました.当時は自分自身,精神科が必要なのか半信半疑だったんですけれど,どこの精神科診療所も診療できない状態でしたから,とにかく薬は困るだろうと思いました.ところが一般の災害医療活動で用意された薬の中にはいわゆる向精神薬がほとんどない.セルシンがあったくらいで全然ない.そこに偶然,知り合いの医師が「長田はどうなっとるんや」と来てくれて,どういう薬が必要か書き出して,彼が勤務している病院が薬を送ってくれたんです.その時にとにかく眠剤と抗精神病薬がいると思うだけで,抗うつ剤なんて全く思いつかなかった.
救護所のイメージとしては,往診もやる精神科診療所というものです.1 人は救護所にいて,あと1 人医師がいればPSW と地域を回る.PSWはその地域でどこに誰がいるとか,そういうことを把握していましたから,往診を始めたんです.始めた時は私自身,とにかく診療所が通常の活動に戻るまでの仕事という気持ちでやっていました.だから当時はもともとの精神障害者のケアということ以外に,新たに震災によって調子を崩した人が緊急で精神科的ケアが必要になるというようなことは全然考えていなかった.アメリカから来た方に「PTSD が出るぞ」と言われても「ああそうですか」という感じでした.そこで初めてPTSDを知ったんです.
精神科にかかっていない人の治療は主に,不眠と不安やったと思います.時々,パニックのような状態になっている方もいました.一般の救護活動が少し一段落したあたりから,むしろ精神科のケアがかなり必要になってくるという気がしました.ただ精神科のケアというのは,そこの地域の人が中心になってやらないと,外から来て交代での治療はなかなか難しいと思いますね.少し眠れないとか一過性の人は別に問題ないと思いますけど,その後にずっと尾を引いてくような精神科的なケアはやはりそこの地域で,いわゆる普通の精神科医療と同じような形での診療になっていくのではないかなという気がするんですけどね.
加藤 先ほど藤田先生が救護所を始める時の状況を話してくましたけどれも,要するに被災地の外に向けて精神科のケアをする人が必要だと言ったら,話が広がって人が殺到したというお話でした.そのコントロールについては今,考えるとどうですか.
藤田 ともかく初めてのことで,上手くいった感はないですね.東日本大震災の場合は,国が結構コントロールしてくれていましたね.
田中 立ち上がりはすごく早かったように思います.この話が出てすぐ,私は兵庫区の救護所に行くことを指示されたのですが,行くと「大学・田中」ともう名簿に名前が載っていて,驚きました.救護所はいくつあったんですか?
宮﨑 救護所,各保健所にできましたから.
藤田 10 カ所ですね.
岩井 知っている人しか入れない場所もありましたね.初めは知ってる人間だけでやっていましたから,やりやすさはありました.
加藤 そういうコントロールをしていたわけですね.
藤田 そうですね.ともかく1 保健所ごとに「チームが要るか要らないか」とニーズを訊いて手配していました.
加藤 神戸市の場合,パワフルな精神保健福祉相談員の方が各区にいたので,現場でそういうコーディネートをしたという状況でしたね.県側はどうでしたか?
藤田 県側は「こういうチームが来たいと言うてるけど,入れてもらえるか」みたいなことを保健所の保健婦長・課長クラスの人にどんどん聞いていって,1 チームずつ「ここ増やしていこう」「この体育館に行ってもらおう」「この事務はどうしよう」とやってましたね.
宮﨑 薬に関しては,全国から集まってきた薬を,精神保健センターのどこかに集めていましたよね.
岩井 カンファレンス室に,薬を1 カ所に集めてね.
藤田 人と薬の問題がかなり問題になったなぁと,よく覚えています.人の問題は,人が外から大勢やってきた時に,どこがコーディネートするのかということ.コーディネートをどこがするのが一番正しいのか,悩ましいところです.
加藤 その時いる人が考えてコーディネートしていたということですね.
藤田 他県から入りたいと希望してきたチームについて,コーディネーターをしていた先生に伝えて「何チームいるとか答えていいのかどうか」など,そういうやりとりを電話でやっていましたね.
加藤 麻生先生がコーディネートし始めたのはいつごろなんだろう.
藤田 私の記憶では22 日ですね.
加藤 比較的早い時期から手探りの中で,自然発生的にコーディネートの体制ができたんですね.
藤田 そうですね.
岩井 ただ「コーディネートしよう」と思って,すぐにできたわけではないですよね.
藤田 何本も電話がかかってきて,これはえらいことやなぁと.やはり現場が必要かどうか,何が足りないのかというのを作戦会議しないといけないなと.国や他県に向けての調整,現場のニーズに合わせたチーム調整,その両方がいる.戦略を立てないとコーディネートできないことになるから作戦会議がいるとなって始まったのが精神科の救護所会議です.
その作戦会議は1 週間目くらいから,最初は週1 回の頻度で始めているんですよ.「来てくれますか」「とにかく来れる人だけ来てください」と県精神科病院協会や県精神神経科診療所協会に電話をしました.現場の方や他府県から支援に入っているいろいろな方に集まってもらって10 数回,戦略会議をやりました.会議では現場で出ている問題や何が足りないかという話が出てくるので,次の戦略を立てたり,国に調整したりしていました.
加藤 やはり地元のネットワークを強化して,コーディネートしないといけなかったということですね.
藤田 その会議で,たとえば急に患者さんが出た時どうするか,など話し合いました.避難所は夜間に人であふれるので,患者さんが不穏になることもある.そうすると排斥の論理が生まれるからどうしていったらいいのかなど話し合いました.そこで生まれたのが夜間往診チームでした.
岩井 そうですね.2 月から夜間往診チームが動き出しました.あの時はすでに,麻生先生の補佐で泊まり込みが来ていました.麻生先生だけだと大変だから,コーディネーター役を1 人配置することになって.それでも24 時間は対応しきれないので,夜間救急担当としてもう1 人交代で当直することにしました.
藤田 なんとなくACT のはしりみたいなイメージですよね.
岩井 そうですね.オープン・ダイアローグにもちょっと近かったかも.
藤田 あの時やったことは絶対ACT だと,今になればそう思います.排斥の論理に加担しないにはどうしたらいいか,という感じでした.
岩井 夜間避難所で興奮している患者さんがいて,夜間対応チームが出ていったときのことです.大勢の避難者が「なんもせんと帰ったらただでは済まさんぞ」という雰囲気で取り巻いている中で,対応チームのメンバーが,「さあ,こういう時どうしたもんかな」と議論を始める.そうすると,周りの避難者の雰囲気が和らいでいくんですよ.あれはなかなかおもしろかった.
藤田 薬については困りましたね.麻薬および向精神薬取締法があるんですけど,国に無償譲渡が行われていると伝わったようで.要は違うチームが残した薬を別のチームが残って使っているとか,薬が足りないから他府県が無償で渡しているとか,そういうことだったんですけどね.
岩井 「通常の卸ルートでないといけない」「精神保健センターに蓄積しているのもいかん」と言われました.それで製薬会社の社員の方がリュックサックに入れて運んでくれたんですよ.それでも,「通常の卸ルートと違うからだめ」と言われて.被災地で治療にあたっていた現場の医師たちで,救援物資の薬剤に関して精神科だけ制限があるのは不当だと国に言いましたら,いったん,国はひいたんですけど.そのあとで2 年目くらいになってまた言いだしてね.
田中 10 日目か2 週間目くらいの時点では「超法規的措置だからもういい」みたいな話になってた.
藤田 そのあとも他府県のチームから「おかしい」と指摘があったりして,揺り戻しが何回もありました.最終的には「やむを得なかった.緊急避難的な意味だ」という感じにはなりましたけど,薬の備蓄はどうあるべきなんだろうかと思いますね.
岩井 救護所でも薬を備蓄していました.責任者を決めて,鍵の管理をする人を決めて,必ず施錠すると決めました.
藤田 でも「精神科医がいないとダメ」と,それはすごく言われましたね.
岩井 だから精神保健福祉センターには常に医師がいるようにしました.
藤田 そうですよ.センターに精神科医がいるからいいじゃないですかと言ったんですけど備蓄も怒られてしまって.
岩井 応援チームが持ってきた薬を自分で使うのは全然問題ないんです.普通の医者の往診と変わらないからね.現地に薬を置いて帰るのが問題にされた.
藤田 そうなんです.「無償譲渡はいかん」言われて.
田中 現実には無償譲渡もありましたが,この問題はどうなったんでしょう.
藤田 そこの問題は今どうなっているのか,まだちょっとわからないままですね.
宮﨑 薬を貰ったけど,あとでそれを整理して,行政がお金を払ってくれたこともあったような気がしますね.
加藤 そのあたりは,あまり答えは分からないという状況ですね.
藤田 すいません,私もそこが分からないままなんですよ.もやもやしたままですね.
加藤 向精神薬は法律がありますから,この問題は検討しないといけないですね.
藤田 麻薬及び向精神薬取締法との兼ね合いがあるからね.
田中 東日本大震災の時は,「配布ルートがないのですが,どうしてましたか?」と電話がかかってきたました.「それは加藤先生に聞いて下さい」って言いましたけど.東日本大震災では実際どうしていたんでしょう?
加藤 学会を通してとか,割とオフィシャルなルートで入手してましたね.
岩井 日本赤十字を通してとかね.
田中 私は持っていきました.兵庫県チームは神戸大学から持っていって譲渡しました.
加藤 DPAT(災害派遣精神医療チーム)ができて,今,どのようなものを持っていくべきかリスト作りをしてますね.でも,薬の譲渡の問題や供給の問題はあまり議論されてないような気がします.
田中 それは,ある場所に集結した時各地域のDPAT が,たとえば兵庫県チームから岡山県チームに薬を渡していいのかとか,そういうことですよね.
宮﨑 それから,薬を置いていっていいのかという問題もありますね.
田中 地元機関とタイアップしていくから,そこに残していくのはあり得ますよね.
宮﨑 絶対あり得えますね.それから,患者さん側としては,やはり自分の処方を知っていることが大事ですね.当時は元の処方が分からなかったから,精神科医がある程度の薬を勝手に出していたんです.
岩井 今は,「お薬手帳」が精神科でも使われるようになりましたよね.医療情勢全体を見ても,この20 年間の変化は大きいと思いますね.
藤田 阪神・淡路大震災の反省として,その後お薬手帳が世の中に出てくるまでの一時期,普段どんな薬を服んでいるかという手帳を患者さんたちに持たせていた県などもあったようです.
田中 東日本大震災は津波で流されてしまって,それも分からない状態だった.だから,自分の処方を知っておくことは大事なことだと思います.
宮﨑 医師側が通常の臨床場面で,処方についてしっかりと説明することが大事なことですからね.
田中 もう1 つ思うのは,救護所のカルテですね.すごくいい加減なカルテで,処方とかを簡単にメモみたいに残しただけだったでしょう.
岩井 だからあとでまとめる時に大変だった.でも,しっかりと診断するのは難しい.
田中 今回,仙台に行った兵庫県チームは全て処方を残してきた.本名かどうかは分からないにしても,とにかく名前と処方,「この人にこれだけ処方した」という情報は必ず記録として向こうに残しました.
加藤 宮﨑先生ご自身も,避難所は結構回られたのですか?
宮﨑 PSW と避難所を回ることもありましたし,神戸市教育委員会が兵庫県精神神経科診療所協会に依頼してきて,避難所になっている学校を回る活動をしました.あとは別に精神科ということではなく,医師会からの指示で「具合悪いことありませんか」と救護所を回る活動に参加した覚えがありますね.
避難所になっている学校を回る活動は結構長くやったように思います.たとえば校長先生とお会いして学校で起きている問題を聞いて,どうしたらいいかについて話し合うような活動でした.避難所になっている学校の先生方のストレスはなかなか大きかったと思いますね.
田中 当時,避難所管理を学校の先生がやっていて,何かトラブルが起こると「校長先生!」「先生!」と,避難所の人たちのトラブルを解決するのも学校の先生でした.それに学校が避難所であり続けた期間が翌年の3 月いっぱいくらい,およそ1 年間と大変長かった.避難所を出るのか出ないのかでトラブルになったりしてましたね.
岩井 最後の避難所は翌年夏まで残っていたはずですよ.例外的に,なかなか避難所を出ようとしない人がいて.
藤田 そうですよね.テント村みたいなところもありましたけれど,公式には震災のあった1995年の8 月22 日までの7 カ月間ですね.
田中 居続けた方もいらしたよね.
宮﨑 一家で避難していて,全然避難所を出ないから困ってた.それから男女が入っていちゃついてたり,いわゆる薬物をやってみたり.アルコールの問題もありましたよね.避難所によってはアルコールは禁止されているところも,容認しとったところもあったし,いろいろでしたね.
加藤 今と比べると随分,避難所管理の問題がいろいろと起きていましたね.
宮﨑 救援物資の中にアルコールが結構入っていたので,それも問題でした.
岩井 それは東日本大震災で少し改善されましたね.
宮﨑 ただ自分自身を考えたら,水がなかった時にビールがありまして……よう飲んだなぁ,あかんのやけど.
岩井 私は2 年目,教員ストレスについて調査しました.学校が避難所になるのは仕方ないとして,その避難所管理業務を学校の先生がするかどうかという議論が長くあった.震災後,兵庫県の教育委員会は防災マニュアルに,「次に災害が起こったら,1 週間(だけ)は教員が担当する」と書いた.そして学校の先生は直後の避難所管理業務をあまりやるべきではないという風潮が広まっていった.学校教育の再建や子どもの見守りといった大切な仕事が,学校の先生にはあるからです.ところが最近になって,防災教育や学校の防災設備のための予算が拡充されてきたために,学校の先生が避難所を管理しないとは言いにくい雰囲気になってしまっています.このことは少し問題にする必要があると思います.
田中 中越地震の時は,一部は先生方じゃなかったところもあったけれど,避難所管理の大半を学校の先生がやっていた.仙台市の避難所しか分からないけれど,大概は行政の職員がやっていましたね.仙台市内の避難所には教師は入っていなかった.
藤田 市がやっていましたね.
岩井 県により地域によっては,納棺業務も学校の先生がやっていましたよ.納棺業務をやった先生のトラウマがあとあと残っています.遺体が浮かんでいるため池にトイレに流す水を汲みにいったとか,納棺業務をやった時の死体のにおいが記憶から離れないとか,今でも東日本大震災の被災地に行くとよく聞きます.
加藤 東日本大震災では,外から行くチームの意識がだいぶ変わったという面もありますよね.阪神・淡路大震災の当時は,外から来たチームはいろいろな問題があったと,藤田先生がさっきお話していたけれども.
藤田 そうですね.相談記録の様式がバラバラなんですよ.神戸市用も,県用もバラバラで統一性がない.あとで情報を拾おうとしても大変でした.その様式や活動統計については,東日本大震災でたとえば宮城県は精神保健福祉センターに一斉に送られてきた情報をセンターで入力作業を一時期やっていました.各チームがどのくらいいるか,というデータを残すようにしましたけど,被災地でデータ集計は大変だなと思いましたね.
加藤 東日本大震災後に,厚労省がDMHISS(災害精神保健医療情報支援システム)を整備しましたね.ウェブ上に入力できるようなシステムになっているので,今後は役に立つかもしれませんね.
田中 避難所回りして,詰め所に帰ってきて,夜中に記録を一気にまとめるんですけど,とても疲れるんですよね,やっぱり.あれはなんとかならんのかと思いますけどね.
藤田 誰か入力してくれる人がいるといいですよね.
加藤 そういうロジ役がいるといいかもしれないですね.そこは今後,検討しなければいけないところですね.
田中 その作業を帰ってきたあとに,パソコン開いて決まったフォーマットに入力しなさい,となると結構しんどいかもしれないなぁと少し思いますけどね.
加藤 実際やってみないとね.これからそのシステムを予行演習的に使いながら,厚労省に現場の声を返していけばいいと思っています.
外部支援者の持っていた認識には当時,どんな問題がありましたか.宿探しに関する問題があったとお話が出ていましたが他にはどうでしょう?
藤田 そうですね.食事や薬といろいろ言われましたけど,熱意に燃えて支援に来られるから,やることがないと不満が出ることがありましたね.あとは,ホームグラウンドが病院やクリニックで診ているお医者さんは,たとえば避難所で周りに患者さんと分かるような話し方で声をかける.それは排斥の論理につながると思いますし,酷い人は縦に並ばせて薬を出したというのがある.それは病院で患者さん並ばして薬を渡すのと同様のことをされたようです.途中から,センターニュースで白衣を着て避難所を回るのはやめましょうと,呼びかけがあったように思います.
加藤 震災の半年後に兵庫県内のPSW の方たちが,あふれ出る気持ちを報告書にまとめています.それを見ると本当に生々しいですね.避難所を回っていた医師が精神疾患の人を見つけて,さも嬉しそうに「いましたよ.分裂が」と報告したのを聞いて,あきれ果てたとか,現場の人たちの実感がまとめられています.他県から来た支援者の多くが非常に熱意に燃えていて,その対応に本当に困ったという話が,書いてあります.
岩井 遠方の自治体から派遣された消防チームを見ていて思ったことは,やはりしっかりと被災地援助のトレーニングを受けてきたところは現地の邪魔をしないし,かつ仕事が回ってこなくても不満を感じない.事前教育が大切だと思いました.もう1 つは,普段一緒に仕事をしているチーム編成のまま来た場合と,選抜混成メンバーで来た場合の違いも印象的でした.もちろん前者の方がパフォーマンスがはるかに高い.これは消防の話ですけど,恐らく医療支援でも似たところがあると思います.
加藤 事前に災害時の支援に関して訓練を受けた上で来て欲しいということですよね.熱意によって空回りすることもあるとか,やることがなくても不平を言わないようにということですね.
岩井 消防隊の中には,消防車の中で寝るように教育されて来るチームもありましたよ.現地の方は「せっかく来てくれたのだからどうぞベッドで寝て下さい」と言うかもしれませんけど,それはある種のコンプリメントであって,車の中で寝るようにと言われて来ているわけですよ.
藤田 被災地が近ければ近いほど,チームのメンバーは短期日替わりになるでしょう.
岩井 そうそう.2 泊3 日で交代したりしてましたね.
加藤 日帰りもありましたよ.
藤田 やはり少なくとも1 週間や10 日ぐらいは泊まれるようにして来てほしいと思いました.それから,そのチームやその県で完結するような,つまりメンバーを1 日か2 日重複させて後続部隊に申し送りをするような形が良いのではないかと.そうでないと現場の保健師さんはとても大変なんです.
田中 その“自己完結型”ということが,言われ出したのは阪神・淡路大震災の時ですよね.加藤 “自己完結型”にするために必要なことが何か,分かるようになりましたよね.
藤田 薬や寝袋なども“自己完結”だけど,それこそ申し送りも“自己完結”できるようにしないと保健師さんが毎日同じこと言わないといけない.それに関しては,当時,現場の保健師さんから苦情の電話がたくさんかかってきました.
加藤 これはだいぶ,改善はしてきているところですよね.
藤田 改善してきていますね.
田中 先ほどの熱意の話は,東日本大震災でもあったみたいですよ.
藤田 私もたくさん聞きました.
田中 怒ってらっしゃいますよね.「1 人ぐらい患者に会って帰らないと」といわれたようで,「患者じゃない」って.
岩井 「やることがない」と言って途中で帰ったチームもありました.
藤田 ありましたよね.
田中 阪神・淡路大震災の時も「なにもなくてもええんや」というのはかなり言いましたよね.
藤田 東日本大震災の時,被災地に行く前のオリエンテーションで,そういうこと言ってはりましたね.熱意が空回りするような状態として「神戸に乗り遅れたらいけない症候群」という言葉が使われてましたね.
加藤 「君は神戸を見たか」というのもありましたね.
田中 それは一般ボランティアの人たちもありましたよね.
藤田 そうです,そうです.
田中 阪神・淡路大震災の時ですけど,一般のボランティアの中には「ボランティアに神戸行きますよ」と選抜されて来る方たちもいたようなんですね.そうすると,その段階で舞い上がって「自分は選抜されてるからがんばるんだ!」と熱意を持って来られていた.
加藤 空回りすることもある.起こりがちなことだと思います.
加藤 次に,復興期の活動についてお話しいただければと思います.阪神の場合にはこころのケアセンターというのができて,ここにいる藤田先生,岩井先生,あと私が関係したわけですけれども,その復興期の活動を振り返って「こうしておいたら良かったな」という点があれば教えて頂けますでしょうか.藤田先生どうですか.
藤田 準備期間がとても少ない中で始めていましたから,先ほど事前教育が必要というお話しがありましたけど,センターが始まってから一生懸命研修をし続けました.最後まで残った人は,やはりon the Job で技術が高まっていくので,素晴らしい形で残ってくれたなと.事前教育も大切ですし,何よりon the Job が一番だなとは思いますね.
加藤 寄せ集めだから軌道に乗るまで結構期間が必要でしたね.
藤田 そうですね.
加藤 活動が軌道に乗ったのは,3 年目ぐらいだったですね.
藤田 そうですね.恥ずかしながらですけど,軌道に乗って来たのはその頃ですね.
加藤 岩井先生どうですか.
岩井 私は震災から2 年目,センター設立後1 年ちょっと経ったとこで入職しましたので,初期のことはあまり知らないんですね.でも,やはり,ずっといてくれた人は技量が上がっていくのがわかりましたもんね.
藤田 わかりましたね.
岩井 そこに,なんというか,非常に明るいものを感じたことを覚えています.
藤田 コミュニティカウンセリングみたいな言葉が出たりしましたよね.
岩井 そうそう,地域支援という考え方ね.でも当時はまだ,「心理職は地域支援なんかやったらいかん」という古い考えが残っていたんですよ.だから初期は,はっきり言って保健師さんが一番良かったです.「訪問」というトレーニングをされていますから.
加藤 こころのケアセンター功罪の1 つとして,シンボリックな存在になったために,本当はこころのケアセンターと一緒にやってきた保健所などがとても大きな役割を果たしていたんですけれども,それが影に隠れてしまったというのがありましたよね.
岩井 もちろんそういうケースもありましたし,逆に,自治体がセンターを前例主義的な発想でコントロールしようとしたために,センター独自の活動がなかなかできなかったところもありました.そういった両面を考えていく必要があると思います.今回の東北被災3 県のこころのケアセンターの話を聞いていても,似たような状況が一部で生じてきているような感じがしています.
藤田 ありますね.保健所にはon the Job の最初の入り口をお手伝いしてもらわないと本当にできないですよね.
加藤 そうでしたね.地域を知らないですからね.
藤田 本来の自分たちの仕事かどうかに関わらず保健所から言われる仕事は「よっしゃ,一緒にやりましょう」と取り組んだところは連携がうまくいって,活動が続きますね.
岩井 保健所の方があまり無理なことを言わなかったところではうまく連携できた,という面もあったように思いますけどね.
藤田 そうですね.
加藤 宮﨑先生はいかがですか?
宮﨑 仮設住宅と復興住宅と両方で,こころのケアセンターが茶話会みたいなものを開いたりしていて,私も一緒にお茶を飲んだりしました.問題はそういうところに出て来てくれる人はいいけど,出てこない人の中に問題を持っている人がいることでした.アルコールを飲んで,自宅で閉じこもっているとかね.出てこない人をどうするのかという問題がずっとありましたね.なかなか難しかったな.
田中 復興住宅にいわゆるコミュニティセンターのような場所が大体ついていましたよね.そこに医者とか保健師さんたちが入って,グリーフケアなどいろいろなことをやっていました.それでもやっぱり亡くなっていく人は亡くなっていくので,保健師さんが長期間,全戸訪問に近い形で地域を廻っていたような印象があります.
藤田 そうでしたね.
宮﨑 だからこころのケアセンターの職員として,心理士やPSW,それに医師も訪問活動をしていました.また別に生活支援員というものを作ったりしていましたね.
藤田 そうなんですよ.たくさんマンパワーを作っていましたよ.
加藤 介護保険が当時はなかったので,それを補うような形で.本当に思いつくままに,たくさんマンパワーを作りましたよね.
藤田 生活復興相談員,健康アドバイザー,高齢者ケア推進員などなど.
加藤 在野の看護士さんを雇ったり,ふれあい交番相談員とかね.
藤田 それは警察のOB の方がやっていましたね.
岩井 シルバーハウジングを巡回するのはどなたでしたっけ?
藤田 LSA(ライフサポートアドバイザー:生活援助員)さんです.復興住宅側にシルバーハウジングができたので.
岩井 夜中に何かあったら駆けつける,ということになっていましたよね.
藤田 そうです.近くの特別養護老人ホームから派遣されていました.
加藤 行政としては本当に柔軟に,いろいろなマンパワーを作っていったことは良かった点ですよね.
藤田 柔軟にマンパワーを作ったことは良かった点であると同時に,次々と雨後の筍のように作っていきましたから,新しいマンパワーと古いマンパワーの連携が問題でした.
加藤 あとはトレーニングの問題もありましたね.
藤田 そのあたりが難しかったなと思います.
加藤 東北の場合も,同じような問題があるようです.専門職ではなかった方をサポート役としてお仕事してもらっているから,長くかかればかかるほど難しいケースに直面して大変になっていると最近,良く聞きます.
藤田 しかもこれは雇用や経済面の対策の一環として被災者の方が雇用されてやっていますから,被災者が被災者の訪問をするという難しさがあります.一方は給料が入る側,一方は訪問される側で,というあたりがとても難しいという話がありますね.
加藤 そうですね.
田中 神戸市は学校に復興担当教員をつけていますよね.東日本大震災では心理スタッフやスクールカウンセラーを配置しているけれど,復興担当教員という仕組みはないようですね.阪神・淡路大震災以後,平成14 年ぐらいまで続いているんですけど,神戸市の中ではとても良い役割をしたと思っています.東北で機会があると「復興担当教員はこんな仕事をした」とお話します.神戸では養護教諭も,とてもしっかりとしたつながりがあったんですけれど,東北の場合はまだ十分に組織化されていないので養護教諭同士がつながる関係を作ったらどうかと.阪神・淡路大震災の時もそうでしたけど,マンパワーをつけることは教育の中でもとても大事なことのように思います.
岩井 復興担当は教員ですから,学校に教員が1人増えるという増員効果があった.それは大きかったと思います.
田中 時間が経ってみると,やはり復興担当教員のいた学校の方がすごく良くなってる印象があります.
岩井 不登校への対応から生徒指導の援助など,いろいろとやっていましたもんね.
田中 復興担当教員は,授業を何時間か担当するんですけれど担任は持たない.不登校児童のお家まで行って一緒に遊んだりとかしていましたよね.底上げにとても役立ったと思います.
岩井 フリーポジションのミッドフィルダーのような,自分の判断で空いてるところへという感じでした.
加藤 宮﨑先生はいかがですか.
宮﨑 復興期は,神戸市の中で最初に区画整理事業を完了することになる,鷹取第一地区街づくりに参加していました.9 割方全焼した地域ですけど,いわゆる街づくり協議会ができて,そこで福祉部長をやっていました.神戸市の作業所が壊れたので,作業所を作ろうと.被害の大きかった地に精神科作業所の名目で,被災した方が集まってお茶を飲んだり,いろいろなことができるスペースができればいいのではないかと提言していったんですけど,しかしやはり精神科とつくとものすごい反対にあいました.
加藤 復興期における活動の1 つの見えない柱だったけれども,こころのケアセンターの運営費の3 分の1 は,作業所やグループホームの運営に使われました.当時,作られた作業所などは,今も残っているんですよね.
藤田 そうですね.名前が変わったりしていますけれど今も残っています.作業所9 カ所,グループホーム13 カ所作りました.そのうちの1 カ所は,なんとか宮﨑先生が関与している街づくり協議会に働きかけて長田区で作りたかったんですよね.
宮﨑 そうだね.
加藤 震災前の都市部はそうした施設を作りにくかったところがありましたね.
藤田 そうそう.反対運動があったりしましたね.
宮﨑 考えてみると,鷹取東第一地区はやはり,土地の換地問題や施設があると土地の価値が下がると言われたり,いろいろなことがありました.
藤田 ええ試みや,と思ったんですけどね.
宮﨑 そうですね.
藤田 東日本大震災でも今後の地域づくり・街づくりが真摯に考えられているところも多いですよね.震災が起きてその結果いろいろなものをなくしたけれど,障害の有無に関わらず誰でも住むことができて一緒に生活していく,一歩進んだ街や土地をどうしたら作れるのか,たとえば岩手県の気仙地区や宮城県の女川町ではそういうことを一生懸命考えようとしていらっしゃる.もともと自殺も多かった地域で対策をとろうとしていましたし,そこをどう底上げするかを取り組んでいらっしゃる.そういう視点は阪神・淡路大震災の時にはなかったものですし,はたしてそれが都心部で可能かどうか.
街づくりには,街路をどう区画して作って行くかというハード面と,それからソフト面があると思うんですね.そのソフト面はやろうとしてもなかなか難しい面があると思うんですけれど,行政はお金がどんどん目減りしていて,いろいろな高齢者の施設を作ろうとしてもなかなかできないじゃないですか.どうやって地域の力や住民の力を持ち上げて行くのか,ということは郡部に限らず大きな課題になるんだろうなと思います.
加藤 阪神・淡路大震災の当時は,仮設住宅や復興住宅の入居が抽選で行われたことについて「地域のコミュニティを壊してしまうやり方だ」という批判がありました.
宮﨑 優先順位が考慮されていなかったけど,東日本大震災ではその反省が少し活かされているかな.
加藤 地域によっては地域固定できる場所もあるんですけれど,被災者の多い所はやっぱり抽選なんですよ.ただ,もともとの地域の人が集まって入った仮設住宅が良いかというと必ずしもそうではなくて,田舎だと離れて住んでるからいいんだけど,知っている人だけに密集して住むと近所過ぎて却って険悪になることはあるみたいですよ.
宮﨑 なるほどね.診療していると被災した方が口を揃えて,もとに戻したいとおっしゃる.暮らしていた地域をもとの状態に戻したいと.行政からしたら,もっといい街づくりと考えるけれど,被災した方はもとに戻りたいという気持ちも強いですね.
藤田 なかなか,そこが難しいところです.
宮﨑 子どもを亡くした方も,子どもがいたもとの状態に戻りたいとお話しされていました.
加藤 宮﨑先生は本当に,長い間,地域の患者さんを通していろいろなことを聞いてこられたと思うんですけど,長期的な影響という視点でみると,どういうことが心の問題として残ったのでしょうか.
宮﨑 1 つは,PTSD と診断した数はそんなに多くはなかったんですけど,診断のついた人は経過が長いですね.精神疾患ごとに分類して経過をみると,PTSD の人が一番長いですね.現在の状態は混合性の不安抑うつ障害ということになるかもしれませんけど,カルテを見るとやはり震災を経験して最初の診断がPTSD とついている人は長い.
それから,震災体験の精神的な特徴として,恐怖もありますけど,やっぱり恨みみたいな気持ちがでますね.自然災害の場合,対象がはっきりしなくて恨みの持っていきようがない.だから復興期は行政とか,そういうところが恨みの対象になることもあるし,その後は逆に身近な人に向けられていく.「あいつら」というように.家族にいくこともあるし,極端な形では自分自身にいくことがあって,それが自殺に行き着いたりするんですけれどね.
自殺の問題に関しては,3 年間のうちに震災に関連して受診された新規の患者さん274 人のうち3 名が自殺されています.これは確率的にはかなり高いですよ.
加藤 いまは全国では,だいたい自殺者は年間3万人で高止まっていますね.
宮﨑 そうです.人口10 万人対2 ~ 3 人くらいになると思います.当院では,通院している方の中で年間におおよそ2,3 人の自殺があるんです.他の病院でもやはり同じくらいの人数でして,大体このくらいかなと思います.そうすると年間で10 万人に11 ~ 27 人くらいの間で自殺が起きることになると思いますが,震災関連の人では自殺率はその7,8 倍なんです.
どうして高くなるのか考えたんですけど,亡くなった3 人の方は全て50 代の男性で,症状としては不眠や焦燥感がありました.当時,初診の時も,自殺される前もこのような症状が中心だったんですけど,震災のいろいろな問題が出て,必ずしもずっと通院している人ではなかったんですよね.一定期間通院していて,来なくなって,また具合悪くなって通院して,というペースで来ていた方でした.問題というのは住宅のこととか,もちろん仕事がなくなっていたり,生活上の問題に対処できてないとか,そういう人が多いと思います.それから,たとえば初診時に生活保護の人は2 名でしたけれど,10 年以上経過したら7 名になって,単身者も11 名に増えています.ただ震災の時に単身だった人は4 名いらしたんですけど,この方たちは全員もう通院していない.亡くなったりしてるのかなと思ったりするんですけど.
震災というのはもちろん精神的な問題に関して考えていかないといけない部分がたくさんある.さらに社会的な問題,経済的な問題もある.だけど精神的な問題があるがゆえに,そうした問題に対処しきれなくって,悪循環というか,どうしようもないような状況の中で,自殺率も高くなってくるのではないかと思ったりもしますね.
加藤 岩井先生も診療所で患者さんを診てきたと思いますが,長期的な影響という点に関して先生の印象はどうですか?
岩井 私のところにはいろいろなタイプのPTSDの患者さんが紹介されてきます.DV や犯罪被害者の方が多いんですけれど,それと比べると,震災PTSD は“尾を引く”という実感を持っています.重症でなくても長引くと言いますか.だから,息の長い援助が必要です.震災関連症状は消褪しても,たとえば家族,近所の人,遠くの親族,実家の親などとの対人関係に微妙なしこりを残している,などということがよくありますね.被災者は非常に微妙なところで,対人関係の結びづらさのようなものを長期にわたって抱えているのかもしれません.
震災後早期には私も,講演会や授業で,「一回性の犯罪被害と自然災害は似ている(レノア・テアのいうⅠ型トラウマ).一方,DV や幼少期からの児童虐待など長期反復性の被害はⅡ型トラウマを構成する」と言ってたんですけど,震災被災者のトラウマ反応には,実際にはⅡ型の要素も相当混入しています.
宮﨑 確かに震災後初期の3 年間に来院された方を,ずっと中長期をみてきましたけど,多くの人が1 年以内にはある程度良くなるんです.その後良くなったり悪くなったりをくりかえしたり,あるいはそのままずーっとだらだら続いたり,決して初期のままではないんですけど.
加藤 この2,3 年で何人か診ましたけれど,なんとか自分なりの対処をして震災の影響を長い間,抑え込んできた方が多いんですね.たとえば,ずっと被災地だった三宮に近づかないようにして暮らしていたけれど,東日本大震災の報道を見て封じ込めてきた恐怖感が一挙に燃え上がって完璧なPTSD になった方や,同じようになんとか押さえ込んでいたのが,職場でハラスメントを受けて,燃えさかってしまったというような方が何人か来ておられました.自然災害だから自然に回復して行く側面もあるんだけれども,次のトラウマ体験にぶつかった時にすごく派手な症状を呈していたことを実感していますね.
宮﨑 脆弱になるというか,そういう人は弱くなっているんですね.同じような災害ストレスでなくても,他のいろいろなことに対処しにくいし,ストレスに弱くなってしまうような感じですかね,自分自身も含めて.
岩井 阪神・淡路大震災の時も,神戸空襲の話を良く聞きました.
藤田 聞きましたね.
岩井 同様に,東日本大震災のあとには,阪神・淡路大震災の時のことが思い出されて仕方ない,ということを言った方がたくさんいました.
田中 阪神・淡路大震災の時からずっと診てる方が思い浮かびました.その方は3 時間ぐらい生き埋めになった経験があり,9 カ月目に受診した方ですが,最初のうちは12 月の終わりから調子を悪くしていました.記念日反応が続き,さらに地震が起こる度に調子が悪くなる.震災関連の報道を避けるために1 月になるとテレビを消していた人です.ところがあるテレビ局が10 年目に取材に来た時「なんかわからないけど,しゃべれるような気がする」とわぁーって話されて,それからすごく楽になったみたいです.診察の際にはいつも阪神・淡路大震災の話をしていたけれど,それからは揺れなくなりました.12 月ぐらいになると精神的に調子を崩すだけではなくて,重篤な感染症を起こして何度も入院するので内科の主治医とフォローしてきた方だけど,10 年目以降から強くなった.東日本大震災の時も割と客観的に「大変だよね,私の時こうだった」という話ができている.さっき加藤先生おっしゃっていましたけど,ずっと押さえ込んで誰にも語らずに我慢していた人と,抑え込んでいたものについて話ができた人というのは,違うなと思いますね.
加藤 回避をしてきた人と,回避をしないで済んだ人は違うのかもしれません.では,子どもの長期的な影響についてはどうですか,田中先生.
田中 阪神・淡路大震災に関するきちんとした長期的な調査はあまりなかったと思います.小児科が10 年後の調査をやっていたと思いますけど,その調査は別として,阪神・淡路大震災の時に子どもで,その影響が続いて苦労している人を診ていないので,なんとも言い難いです.いくつかの伝え聞く話からのまとめですが,自分が被災をメディアに語ることによって,その中で「20 歳になったよ」「結婚した」と時を刻みながら成長していく人もいると感じます.
現在,東日本大震災の被災地の学校に定期的に行ってますが,徐々に震災の直接的な影響というよりはむしろ二次的な環境の変化,たとえば学校が変わったり,転居したり,家族成員が変わったり,家族の経済的な条件がかなり変わったり.そういったことがかなり影響している.それから,本来その人が持っている発達課題が現れてきています.
藤田 二次的な環境の変化の影響がどうなっていくのか,とても気になるんですけれど,東北に行くとそれこそDV や虐待が増えたと,子どものケアをやってる方たちから聞きますね.
田中 DV は増えているようです.虐待も増えているかもしれないけど,子どもの心理的な状態をみんながすごくよく見るようになったということもあると思います.
藤田 ああ,なるほど.
岩井 大人が自分の問題を否認するために,自分自身よりも子どもの心配するという方向に流れることもありますよね.
宮﨑 子どもといえば,中学生ぐらいの時に被災して妹とお母さんを亡くした方が受診していますが,1 人になったから県外の親戚のところに行ったんですけどもなじめなくて神戸に帰って来て,生活保護を受けながら自閉的な生活をしていたんですけど,生活保護を受けとるからどこかで診てもらえと言われて来院したんです.「外に出て家族連れを見かけると嫌な気持ちになる.なんで自分だけがと思う」と言ってまして,「また震災が起きたら嫌だから家の中でゲームを主にやっている生活をしている」と話してくれました.
田中 子どもの場合は喪失の問題が特にありますよね.
加藤 それは大きいですね.
田中 物の喪失ももちろんありますが,親や兄弟など親しい人の喪失はやはり大きい.
宮﨑 保護する者がいなくなる.やはり震災が大きいのは,その時だけではなくて,その後ケアがどうできていくか,あるいはご本人がどういうことができるかという問題を抱えている.
岩井 何をもってその指標とするかという問題が残っています.「30 年間フォローアップしたけれどPTSD の発症率は低かったです」では不十分ですよね,やっぱり.
加藤 PTSD 発症率なんかも含めて,震災被害の長期的な影響はそんなに大きくないといわれることが多いですけれど,実際は非常に長く引きずってる人たちもいることを忘れてはならないと思います.
加藤 最後に,阪神・淡路大震災の経験もふまえて東日本大震災の被災地に対してどういうことを気をつけたらいいかなど,提言みたいなことがあれば,お1人ずつお願いしたいと思います.まずは田中先生お願いします.
田中 おそらく長期的な支援とは精神医学的なフォローということではなく,その地域でいかに暮らしていくのか,その暮らしを支えていくことそのものだと思います.地域の保健師さんや福祉関連の方たちが,被災者のいるコミュニティをどう保っていくのか,コミュニティの中でその人がどう暮らしていくのかについて,全体の底上げを考慮しながら活動を進めていく,地域の精神保健活動そのものが重要だということかなと思います.ですから精神医療活動というよりは保健活動そのものをどう底上げしていくのかが大事だと思いますし,子どもに関して言えば,学校や教育委員会が学校教育の中で個別的な関わりができるような工夫をどのくらいできるか,ということが一番大事だと思う.そして大人も子どもも同じですが,1人1人が大事にされている環境が大切なことだと思います.狭義の精神保健,精神医療もありますが,震災支援はもっと広いものではないかなと思う.
加藤 なるほど.ありがとうございます.藤田先生どうですか?
藤田 田中先生もお話しされていましたけど,ソフトな街づくりが大切だと感じます.街づくりのハードな部分は比較的大変なのですが計画を立てることができます.でもソフトな部分,人と人とのつながりを,どう作っていくか,積み上げていくか.東日本大震災の被災地は都心部と違って,もともと人と人とのつながりが強い地域ですから,ソフト面をどう強化したり,つなげていくかということを考えてほしいと思います.兵庫県の郡部でもそういうのが薄れてきていますが,その辺をもう一度強化しないと.最近では「ソーシャルキャピタル」という言葉を使いますね.
もう1つは,悲惨な状況の中でも夢を描こうとずっと言い続けています.その気持ちで何と言いますか,種まきで残せるもの・プラスαとか,そういったものをイメージしながら支援を長く続けてもらえたらと思っています.
加藤 ありがとうございます.では岩井先生どうでしょうか.
岩井 はい.特に「被災者の〈語る〉を支える」ということを最後に強調しておきたいと思います.PTSD は60年代以降のアメリカの文化依存症候群ではないかと言われた時期がありました.なぜそれまでの早い時期に定式化されなかったのかと.私は次のように考えています.レイプ・トラウマシンドロームにせよ,ベトナム帰還兵にせよ,60年代の終わりから70年代になって,ようやく語ることができる状況が確保されたのだ,と.それがもし第二次大戦後の日本にあれば,日本でも多数の戦争PTSDが見出されたにちがいない.
我々は職業的に治療者ですけれど,“愚鈍な聞き手”になる(岡真理『記憶/物語』)ことがプロの治療者の仕事の1 つであると考えます.プロだけではなく,ボランティアも被災者もそうでない人も,語れる状況あるいは語れる相手がいるような社会になっていくことが1つの課題であると思います.
そうした社会状況が,被災体験を次代に語り継いでいくということにつながると思います.今回の東北の震災で,宮古市にある「此処より下に家を建てるな」と書かれた石碑が有名になりましたけど,国立民族学博物館の吉田憲司先生によると,津波の記念碑は三陸海岸に数十個もあるというんですね.しかしそのほとんどは忘れ去られている.あそこだけが語り継がれていたから有名になった.過去の南海トラフ地震に関しても,熊野灘から瀬戸内海にかけてたくさんの石碑がある.たくさん残っているのに,語り継がれていない.ほとんど唯一の例外が,大阪の大正橋に残る「大地震両川口津浪記」という,嘉永地震(安政地震)の後に建てられた石碑です今日に至るまで,地域住民が毎年の地蔵盆注1)の時にこの石碑を祀るということで,津波体験を子孫に語り継いできたのです.語ることができる状況,聴く人のある状況,そしてちゃんと語り継いでいかれるような状況を作っていくことが大事ではないかと考えています.
加藤 ありがとうございます.では宮﨑先生いかがですか?
宮﨑 東日本大地震が起きた時は「何かせなあかん」という気持ちになって,とりあえずできることをしようと動いて,日本精神神経科診療所協会に支援に行くと手を挙げたりしたんです.震災直後は選にもれて被災地に行けなかったんですけれど,しかしその後,何だかしんどくなってしまって結局行くことができませんでした.やはり自分はその……大震災が起きた時心のケアはそれほど重要なのかと,自分が行って何かできるのかということを考えたりするんですね.これも自分が阪神・淡路大震災の時に必死に頑張ってきた中で,大事なことはそれぞれの人が生活を取り戻すこと,心のケアよりもとにかく生活を取り戻すことが急務で,それこそが大事ではないかなと思いまして.阪神・淡路大震災の時に調べたんですけれど,関東大震災の時も震災直後に,マスコミが心の復興が大事とえらい騒いどったみたいでね.どうもあれを見ると,逆に,いわゆる行政なんかの責任を心の復興の方に隠すというか……そういうような変な気持ちにもなりましたね.とにかく生活を取り戻す,それぞれの人の生活を取り戻すような援助をしていかないといけないと思います.
加藤 その点について,私もこころのケアを20年背負ってきた人間として,コメントする資格があると思います.こころのケアというものは,単独で提供できるものではなく,生活再建,そしてコミュニティの復興が基盤になります.その上で,人間としての役割や尊厳を取り戻すことが不可欠だと思います.このことは,東北でお話しする時には,いつも強調してきましたけれど,ほとんどの方が同意していただけるので,非常に心強く感じる機会が多いですね.
さて,今日は阪神・淡路大震災からずっと神戸で活動して,活躍しておられる方に集まって頂き,活かされた経験あるいは活かされなかった教訓という観点からお話をして頂きました.今日はどうも本当にありがとうございました.
(この座談会は2014 年8月24日に行われました.)
注1)伝統的に地蔵信仰の盛んであった地域(主に畿内)で,今日では新暦7 月24 日または8 月24 日前後に開かれる地蔵菩薩の祭り.地蔵に詣った子どもたちは,供養の菓子やおもちゃ,手料理などを振る舞われる場合が多い