2017 年 58 巻 3-4 号 p. 43-52
堺市東区にある光念寺には2篇の『小學教法』が残されている。著者は、学制期、河州金田小学 校(現堺市立金岡小学校)において教員として勤めていた松野聖如である。この教法からは、当時の小 学校における現場の教育の様子がわかり、明治初期の教育制度や算術教育について、一地方の立場から その内容を検証することができる。本稿では(その1)として、まず、この2篇の『小學教法』を執筆 した当時の国内の教育情勢及び算術教育の実態を明らかにし、後、堺県における教育情勢及び算術教育、 取り分け堺県師範学校編集の『算術書』について詳しく述べる。