抄録
本論文は山鹿素行の『武教全書』に表れる忍の定義と教訓、身分的位置づけについて複数の注釈書から検討したものである。窪田清音の『武教全書正解』によれば、忍は物見武者が困難な城中や陣中に侵入する役割を想定した。彼らは身体技術よりも人選が優先され、献身的に勤めても敵地出身の者であれば警戒された。一方譜代として仕える忠節者を評価し、忍の教訓は武士道論と一部共通する。しかし忍は、その性質上戦功の秘匿が原則であるため、武功を喧伝する兵卒の名誉観とは異なる。そもそも兵学書上の忍は下位に位置するが、津軽政方の『武教全書諸説評論家伝秘鈔』は用間篇に表れる間者の最上の恩賞重視に着目する。一見矛盾とも取れる間者の位置づけに対し、政方は知謀をなせばあらゆる「武士」が間者になりえるとした。忍は単なる雇い者ではなく譜代意識を備える「武士」でもあり、謀略の臣として最大限の働きが時に理想視されていたのである。