現代,少子高齢化が進み,さらに東日本大震災などの自然災害もあって,「生と死」に対する人々の関心が高まっている.しかしその関心のあり方は,これまでといささか異なってきている.
従来「幸福」とされてきた「長寿」は「幸福リスク(生存リスク)」と見なされるようになった.想定以上に長生きすることで,生活資金が不足したり,介護負担が増大したりする不安が高まってきたのだ.この不安に対応するために「長生き保険」と呼ばれるタイプの保険も人気を呼んでいる.
しかし,生きること自体がリスクと考えられる時代は幸福な時代といえるのだろうか.アメリカの作家ノーマン・メイラーが語るように,「われわれの精神そのものは,死が理由のないものなら,生もまた理由がないだろう,そして,時間は因果関係をはぎとられて,停止してしまったのだ,という耐え難い不安にさらされている」.(Mailer 1959)
もちろん,長い歴史のなかで,「生と死」にかかわる不安は常に存在したともいえる.しかし,これまで生と死をつなぐサービス(供養:Memorial Service)をになってきた宗教は今日衰退の方向にある.そのため,人びとは,親しい人びとや自分自身の生きている不安,死に向かう不安,死による喪失の悲しみなどを和らげ,生と死を社会的に接続する方法論を失いつつある.そのことが翻って現代人にとって生の意味が希薄化する原因となっているかもしれない.今日,宗教機関に替わって死の祭儀(メモリアル・サービス)を取り仕切るのは葬祭業とよばれるサービス事業である.公正取引委員会による『葬儀の取引に関する実態調査報告書』(2017年)によれば,市場規模は近年漸増しており,他業種からの参入も活発である.
このような時代のなかで,死者と遺された者たちはどのようなサービスを求めているだろうか.本稿はこの問題に対して,サービソロジーと情報科学が何らかの貢献ができるのかを問うものである.
死者のためのサービスを考えるには,サービスを受ける人びとの死生観をベースにしなければならない.そもそも,現代人はどのような死生観をもっているだろうか.まずはこの点について,筆者が2015年5月に行った「生命倫理に関する世論調査」*1から概観してみよう.
2.1 先祖は生きているか日本人の社会形成およびその維持に「先祖」という概念が重要な役割を果たしてきたと,民俗学者の柳田國男は指摘している.人びとと土地とを結びつけるうえでも,「先祖」が大きな意味をもってきたといえる(柳田 1946).
現代においても,この「先祖」意識はまだ存在しているのだろうか.
2015年5月調査によれば,全体の4分の3程度の人が,「先祖代々の墓がある」と答えている(図1).また,お盆や彼岸に墓参りをする人も全体のおよそ3分の2である(図2).
また,図3に示すように,法事などもきちんと行っている人が半数以上いる.先祖について知っている人は少ないが,半数近くの人が先祖についてもっと知りたいと考えている.
では,自分自身の葬儀についてはどう考えているだろうか.
かつてなら「盛大な葬儀こそがその人の人生が成功だった証し」と見なされていたはずなのに,2015年5月全国調査によれば,そのような「盛大な葬儀」を望む人はきわめて少なく,「きわめて親しい人だけによる葬儀」が6割強,「葬儀はしてほしくない」が2割強という結果であった(図4).すなわち,8割以上の人が,盛大な葬儀は不要と考えているということである.
さらにこれを年代別に見ると(図5),若年層では「葬儀はしてほしくない」は比較的多く,高齢層では「きわめて親しい人だけによる葬儀」が比較的多い(いずれもχ二乗検定で0.1%水準で有意)という違いはあるものの,「葬儀の極小化を望む」意識は年齢を問わないのかもしれない.
こうした傾向は,公正取引委員会『葬儀の取引に関する実態調査報告書』からも裏付けられる(公正取引委員会 2017).同書によれば,年間死亡者数は年々増加しているのに,年間売上高が減少していると回答する葬儀業者が50.0%に達している(増加しているとの回答は26.9%).また,取扱件数が増加傾向にある葬儀の種類として,「家族葬」と回答した業者が51.1%,「直葬」*2と回答した業者が26.2%に達する.反対に,取扱件数が減少傾向にある葬儀として,「一般葬」と回答した業者が68.3%,「社葬」と回答した業者が22.4%であった.葬儀の簡略化や葬儀を行わない傾向が進んでいる.
葬儀の後に続くのは,埋葬である.
先に見たように,現代でも日本人の多くは,「先祖代々の墓」を持ち,先祖の墓に対する儀礼を大事にしている.
では,「自分自身の墓」についてはどのように考えているだろうか.
図6に示すように,「先祖代々の墓に入りたい」という人も26.4%いるとはいうものの,最も多いのは「家族と一緒の墓」(34.2%)であり,「散骨」(24.4%)や「樹木葬」(10.7%)も多いといえる.
また,「先祖代々の墓」,「家族と一緒の墓」,「散骨」を希望する人を,年代別に集計した結果が図7である.これによると,興味深いことに,若年層と高齢層で「先祖代々の墓」,「家族と一緒の墓」を望むものの割合が高く,中年層で「散骨」を望むものの割合が高い.それが,ライフステージによるものか,コーホートによるものなのかは,さらに分析が必要である.
先にも述べたように,これまで,上記のような〈生〉から〈死〉への移行を意味づけし,儀式化し,後に残った者たちのためのサービスを執り行ってきたのは,〈宗教〉という社会的装置だった.
今日でも,たとえ形式的にであれ,多くの人にそれは継承されている.それはどのような気持ちからなのか.意識調査の結果を見てみよう.
図8によれば,何らかの宗教を信じている者は全体の11.9%にすぎず,反対に「宗教に関するものには近寄りたくない」と宗教に拒否反応を示す者は31%と3割以上に達している.
だがその一方で,「初詣に行ったり,神社や教会で手を合わせたりはする」人は73.2%と,約四分の三もいる.また,41.7%の人が「まだ若いうちから,「死」について考えることが重要だ」と考えており,28.2%の人が「自分の死が近づいたら,誰かと「死」について話したい」と望んでいる.
こうした結果から,現代では宗教に替わって〈生〉と〈死〉をつなぐ何らかのサービスが求められているといっていいだろう.
本章から得られた知見をまとめれば,以下のようになるだろう.
人間にとって,〈生〉と〈死〉を意味づけ,〈生〉から〈死〉への移行を儀礼化することはきわめて重要である.これまで,そのための〈墓〉や〈葬儀〉などの供犠はさまざまな宗教によって担われてきた.今日でも先祖の墓を守っている人が大多数であり,盆や彼岸の墓参り,法事も行っている人が多い.
その一方,自分自身の葬儀については,近親者のみの簡単なものやあるいはまったく葬儀をしないことを希望する人が多い.葬儀にまつわる虚礼や大きな負担を避けたいという心理だろう.同様に,墓についても,「先祖代々の墓」を望む人より「家族の墓」を望む人が多く,散骨を望む人も「代々の墓」に迫る勢いである.
こうした傾向は,「死の核家族化」あるいは「死の個人化」と呼んでもいいかもしれない.しかし,人間にとって〈生〉も〈死〉も本来的に社会的である.〈生〉と〈死〉が社会的意味づけを失ったとき,人は「虚無としての死」(死んだらすべては終わりだという感覚)と孤独に向き合わなければならなくなる.図9は,2015年5月調査から,宗教を信じていることと,死の恐怖感を感じるとの回答,死の虚無感とのクロス集計結果をグラフ化したものである.これによれば,宗教を信じていてもいなくても「死の恐怖感」を感じる人の割合は変わらないが,「死の虚無感」を感じる人の割合は無宗教の人の方がかなり高い(χ二乗検定でp < 0.1%)ことがわかる.
合理的世界観が浸透した今日において,宗教がかつてのように復活することは考えられない.とすれば,死者を送る行為(儀式)のなかに,「死の虚無感」をやわらげ,死者と生者の繋がりが永続することを確認することで,〈死〉が〈生〉をより豊かなものになると感じさせるようなサービスが必要ではないか.まさに,〈生〉と〈死〉の価値共創をめざすサービソロジーが要請されているのである.
〈死〉はなぜ恐ろしいのか.その理由の一つは,〈死〉によって,〈生〉が終わるだけでなく,その喜びや悲しみ,かけがえのない価値が〈虚無〉のなかに消えてしまう—いいかえれば誰にも意味を持たなくなってしまうことにある.いわば,〈死〉が〈生〉の価値を無効化してしまうところにある.
この命題を裏付けるのが,図10に示した調査結果である.図10は「生命倫理」調査から,「死に対する恐怖感」と,「自分が死んでも,自分のことを覚えていてほしい(自己の他者記憶化欲求)」および「近しい人が死んだら,いつまでも思い出し続ける(他者の自己記憶化欲求)」とのクロス集計をグラフ化したものである.いずれも,χ二乗検定でp < 0.1%であり,統計上有意な差がある.
すなわち,死を恐れる人ほど,「いつまでも覚えていてほしい」と願う蓋然性が高く,また「いつまでも覚えている」と思う蓋然性が高いのである.このことから,人の死に際して必要とされるサービスとして,生者と死者の間をつなぐ記憶のネットワークが重要であることがわかる.従来からある葬儀も墓も,この記憶のネットワークの端末として機能してきたと解釈できる.
しかし,先に見たように,現代人は,家族や近親者,親しい人びとにかかる負担を恐れて,あるいは「死んだらすべて終わり」という死生観によって,直葬にしたり,墓を建てないことで,記憶のネットワークから自らを削除することを望んでいる.これは,自らの「覚えていてほしい」「覚えていたい」という願望と矛盾するものである.
この矛盾を解決する方法として,遺族の負担を軽減しながら,死者の「生きていた証」(記憶)を永続させることが考えられる.
この考え方はすでに近世頃から「供養絵額」などと呼ばれる形で具象化されてきた.供養絵額とは,「江戸時代末から明治時代にかけて死者を供養するために,その家族や友人が施主となって寺院に奉納した,色鮮やかな絵額」*3のことである.柳田國男は,明治三陸大津波の25年後に被災地を訪れて著した『雪国の春』に,次のように書いている.
鵜住居の浄楽寺は陰鯵なる口碑に富んだ寺だそうだが,自分は偶然その本堂の前に立って,しおらしいこの土地の風習を見た.村で玉瓔珞(たまようらく)と呼んでいるモスリンを三角に縫った棺の装飾,または小児の野辺送りに用いたらしい紅い洋傘,その他いろいろの記念品にまじって,新旧の肖像画の額が隙間もなく掲げてある.その中には戦死した青年や大黒帽の生徒などの,多勢で撮った写真の中から,切り放し引き延ばしたものもあるが,他の大部分は江戸絵風の彩色画であった.不思議なことには近頃のものまで,男は嵩があり女房や娘は夜着のような衣物を着ている.ひとりで茶を飲んでいる処もあり,三人五人と一家団欒の態を描いた画も多い・後者は海曙で死んだ人たちだといったが,そうでなくとも一度に溜めておいて額にする例もあるという.立派にさえ描いてやれば,よく似ているといって悦ぶものだそうである.こうして寺に持って来て,不幸なる人々はその記憶を,新たにもすればまた美しくもした.まことに人間らしい悲しみようである.(柳田 1928).
上記柳田の観察にも書かれているように,供養絵額はやがて写真メディアの発達とともに,死者の肖像写真へと替わっていく.現代でも,古い家の長押にずらりとご先祖様の肖像写真が並んでいるのを見ることがある.これらに特徴的なのは,個々の死者が孤立して飾られているのではなく,常に,死者と死者,死者と生者の関係が意識されていることである.このような風習が,死者たちと生者たちが相互に繋がり合いつつ過去から未来への時間を共生することへの願いを暗喩しているのだろう.
3.3 大震災後の写真復元ボランティア−−「写真」とコミュニティ関連して思い出されるのが,2011年の東日本大震災後,被災地で,津波に流された写真を復元するボランティア活動が盛んに行われたことである.
大震災後から約2ヶ月後に放映されたドキュメンタリー作品「ハマナスの咲くふるさとにもどりたい」(NHK)*4のなかに,次のような印象的な場面がある.
震災直後,鵜住居・根浜地区の旅館・宝来館では,女将を中心に,被災者同士が助け合いながら暮らしていた.根浜地区自治会長だった前川さん夫婦は,津波に巻き込まれて行方不明になっている娘がいた.「全部,写真も思い出も何も全部なくなってしまいました.お金はいらないけど,子供たちと過ごした時間とか風景とか,海や山,川 それが悔しいです」.震災から1週間後の3月18日,彼らのもとに娘の写真が届けられた.美しい成人式の時の写真だった.「みっちの写真,これだけあったの」.良子さんはその写真をともに暮らす人びと皆に見せて歩く.「いい写真,見つかって良かったね」「だからね,これが(遺影の)写真になるのかな」.良子さんはそう言ってむせび泣き,若い被災者に「お父さん,お母さん,大事にするんだよ」と語るのである.
この母親の心のなかで,「写真」は単なる写真ではない.それは,むしろ,死者の代わりに両親のもとに戻って来た「形代」「依り代」であり,それを人びとに見てもらうことによって共同体の集合記憶のなかにとどめられるべき姿なのである.
震災後に数多く立ち上がった写真復元ボランティアは,この文脈のなかで評価されるべき活動であろう.
その一つである「思い出サルベージ」プロジェクトの発起人である柴田邦臣は,次のように述べている.
なぜ「写真」が人の心を打つことがあるのか.それは写真が,「人の繋がり」を記憶し喚起する,最強のメディアだからである.
私たちが写真を洗浄・複写してきた中でも,「一人で写っている」写真は意外なほど少なかった.家族写真,旅行の写真,地域のお祭りの写真……大半は,何人かで写っている笑顔のものばかりである.その意味で写真は個人的なものではない.写真が示しているのは,自分と一緒に写っている人との「繋がり」,それも特別に切り取って残しておきたかった「繋がり」である.津波が流してしまったのは,単なる画像ではない.写真という「人びとの繋がりの思い出」であり,その証だったのである.(柴田他 2014)
海水のなかから拾い出され,洗浄された写真は,単なる「現実の複製」ではない.それは,過去から未来へと続く時間のアウラをまとっている.それらは,ごく私的な作品であると同時に,所有主を失うことで,パブリックな空間に投企される.
さらに,それらの蓄積は,私的なパーソナルネットワークの記憶を,共同体のメンバーたちに長く深く共有される地域アイデンティティの物語へと変えるのである.
3.4 記憶の統合—墓碑銘としてのライフログただし,現代の技術から考えれば,「写真」が記憶できる容量は余りにも小さい.デジタル化の潮流によって,われわれの人生をすべて記録することさえ,不可能とはいえなくなった.私たちの行動を,時々刻々,身体の移動情報とともに記録し,また思考の流れを記録し,身体情報を記録していく.現在では,やろうと思えばそれはそれほどの困難なくできてしまう.このようなデジタル化された〈生〉の記録情報を「ライフログ」と呼ぶ.限定的なものからかなり多面的なものまで,アプリも増えている.
部分的であれ,総体的であれ,個人のライフログを適切に管理し,編集し,可視化することによって,遺族はこれまでより活き活きと故人を偲ぶことができるかもしれないし,また故人は自分自身が伝えたいメッセージを残すことができるだろう.実際このようなサービスは,まだ素朴なものであるが,個別にはすでに試みられている.いわば,墓碑銘としてのライフログである.
ライフログが墓碑銘として過去のそれより格段に優れているのは,個人のライフログと,その個人と関わりを持った多様な人びとのライフログとが,互いに交差し,リンクし合う様相が,自動的に可読化されるよう拡張できる点にある.
この記憶のネットワーク空間では,実は,生者と死者は区別されない.時間もまた自在に遡りうるものとなる.このようなアイディアは,すでに1945年にアメリカの情報科学者ヴァネヴァー・ブッシュによって提示されている.彼が書いた論文"As We May Think"(私たちの思考のように)には,彼が考えたMemexというシステムについて,「個人が彼のすべての書籍,記録,および通信を保管」することができる装置で,「機械化されているため,素早く柔軟な検索が可能であり,彼の記憶にぴったりした補足をしてくれる」と述べている.ブッシュの構想したMemexは,その後,コンピューター科学者のアラン・ケイによってHypertextとして具体化され,現在ではWorld Wide Web空間としてすでに日常化している.つまり実は,われわれはすでにライフログで充満した記憶空間を生きているのである.
今後われわれが考えるべきことは,このすでにかなりの程度実現している記憶の空間を,〈生〉と〈死〉を統合するサービソロジーによっていかに洗練していくかということになる.
ブッシュのMemexと,フランスの哲学者M・フーコーが「アルシーヴ」と呼んだものはよく似ている.フランス語archive(アルシーヴ)は,英語のarchive(アーカイヴ)であり,記録/文書保管庫を意味する.
フーコーは次のように述べている.
アルシーヴ,それは,ただちに逃れ去る言表の出来事を保護し,逃げ去ったものとしてのその身分を未来の記憶のために保存しておくようなものではない.そうではなくて,それは,出来事としての言表の根元そのものにおいて,そして,出来事としての言表が自らに与える身体において,そもそもの最初から,言表の言表可能性にかかわるシステムを定めるものである.アルシーヴはまた,生気をなくしてしまった諸言表の塵を集め,場合によってはそれらに対して復活の奇跡を起こすようなものでもない.そうではなくて,それは,事物としての言表について,その現在性の様式を定めるものである.それは,言表が機能する仕方にかかわるシステムなのだ.ただ一つの言説の大いなる不明瞭なつぶやきのなかで語られたことのすべてを統一するものであるどころか,また,保持されている特定の言説のただ中で存在することを我々に対して保証してくれるだけのものであるどころか,アルシーヴは,複数の言説を,それらの多数多様の存在において差異化し,それらに固有の持続において種別化するものなのである.(Foucault 1969)
稀代の情報科学者と哲学者がそれぞれに夢想した記憶のアルシーヴは,まさに時間と空間を超えた人びとの繋がりの本態であり,またその拡張でもある.繰り返しになるが,宗教のまどろみから冷めた現代人にとって,このアルシーヴを活かすサービソロジーこそがいま求められているのではないか.
4.2 ライフログの公共化このように構成された記憶(ライフログ)のアルシーヴは,個人を起点とした他者/世界との関係性の総体であると同時に,全体を構成する個々の記憶(ライフログ)の動的な総体でもある.匿名化されたライフログ全体の動態は,いわば公共化され,人類を含む地球世界全体の状態管理のためのセンサーともなる.互いにリンクし合った諸個人のライフログは,まさに,天文学的な量のビッグデータを産み出し,自然環境,人工環境を含め,人間が生きる地球全体のサステナビリティを保障するための,これまでよりはるかに精密な予測やシミュレーション実験を可能にするだろう.
このとき,私たちのライフログは,死んだ後も永久的にこの社会の運営を影ながら支える要素であり続ける.『ヨハネ伝』の第12章24節には「一粒の麦もし地に落ちて死なずば,ただ一つにてあらん,死なば多くの実を結ぶべし」というキリストの言葉がある.それと同様に,人びとが死後(生前でも),自らのライフログを公共化するならば,それは地球世界のために役立つビッグデータとして集積されることになるだろう.
4.3 監視社会の危うさもっとも,現実には,私たちの生の記憶のビッグデータ化はすでに部分的には進行している.そしてその結果は望ましいことばかりとはいえない.たとえば,近年,私たちの生活空間には膨大な数の監視カメラが設置されている.携帯電話にはGPSが装備されており,所有者の行動をリアルタイムで把握できる.交通系ICカードやクレジットカードも,利用者がいつどこで何をしていたかを逐一記録に残す.何か問題が起これば,個人の行動はほとんど追跡することができる.ネットでどのようなサイトを閲覧したか,ソーシャルメディアでどのような受信/発信をしたか,すべて監視下におかれているのである.
かつて,SF作家ジョージ・オーウェルは『1984年』という作品のなかで,ビッグブラザーと呼ばれる独裁者によって市民一人一人の一挙手一投足がすべて監視される世界の恐怖を描いた.しかし現代の新しい監視は,セキュリティの名の下に,人びとがむしろ積極的に歓迎するように仕向けているともいえる.先にも挙げたフランスの哲学者フーコーも,「生権力」という概念によって,現代の管理社会の身体問題を論じている.フーコーによれば,かっての権力は「従わなければ殺す」というルールによって統治したが,現代の権力は生命の安全や人口調整という目標,あるいは福利厚生や福祉という目的を理由として,生かして統治する.たとえば,予防接種や健康診断の法制化などは,その例といえる.これらを受けた個人の身体情報は,個人を超えて集中管理されるのである.
しかしそれでもフーコーは,「知のアルシーヴ」に目をこらすことによって,〈知〉の暴走を監視し,同時に〈知〉の可能性を拡大することができると期待する.サイバー法学の権威で,ネット上の所有権強化に対する批判で有名なローレンス・レッシグもまた次のように述べている.
サイバー空間の現状というのは,サイバー空間の必然ではない.ネットが一つの形しかとれないなんてことはない.ネットの性質を定義づける単一のアーキテクチャなんかない.われわれが「ネット」と呼ぶものがとれるアーキテクチャはいろいろあって,その各種アーキテクチャのなかでの生活の特徴も多様だ.(Lessig 1999)
ライフログのアルシーヴは,いずれ個人を従順な一片のデジタル信号にしてしまうのか,それとも,時空を超えて生きる存在として解放するものなのか.その答えは風のなかにある.わかっているのは,未来はあらかじめ定まった運命ではなく,私たちが日々の生活のなかからつくり出していくものだということである.〈生〉と〈死〉のサービソロジーのための試みは,いま始まったばかりである.
本稿では,個々人の〈生〉と〈死〉の記憶をデジタル技術によって社会全体と接続し,それによって死者と生者の総体によって構成される社会のサステナビリティを確保するための提案を行った.
記憶に関する情報科学の発展は,現在も驚異的に進展しつつある.
やがて死後も個人の脳だけを生きながらえさせ続けるというSFのような技術も日常化するのかもしれない.すでに2018年4月,米イェール大学の研究者たちが,胴体を除去した豚の脳に対する血液循環を人工的に回復させ,最大36時間にわたって生存させることに成功したと報道されている*5.このような研究が今後どのような倫理的問題を引き起こすのか,またそれをどのように解決するのか,今後の議論*6が待たれるところである.
それでも,たとえ記憶の形式は変わっても,記憶によって人はつながれていく.死者たちと生者たちの連綿たる再想起の営みが,共同体の根底を支えている.
哲学者モーリス・ブランショは,ジョルジュ・バタイユの次のような言葉を引用している.
ひとは孤りで死ぬのではない.そして,死に行く者の隣人であることが人間にとってこれほどまでに必要なのは,どのようなささいなかたちではあれ,互いに役割を分かち合い,死にながらも現在に死ぬことの不可能性につきあたっている者を,禁止のなかでも最も優しい禁止によって,その傾斜の上に引き止めるためである.今,死んではいけない,死ぬことに今などあってはならない.『いけない』という最後のことば,たちまち嘆願へと変わってしまう禁止のことば,口ごもる否定辞,いけない-きみは死んでしまう(Blanchot 1983)
究極のサービソロジーともいえる〈生〉と〈死〉をつなぐ葬送のサービス(Memorial Service)について,われわれはさらに多面的に思索を深めていく必要があるだろう.
学習院大学法学部 教授.専門領域:理論社会学,社会情報学.近著:『ソーシャルメディアと公共性—リスク社会における社会関係資本』東京大学出版会(2018)