鉄と鋼
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論文
極低周波数における低炭素鋼の低圧水素ガス環境下での特異な疲労き裂伝ぱ挙動
大西 洋輔小山 元道佐々木 大輔野口 博司
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2015 年 101 巻 11 号 p. 605-610

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Synopsis:

In order to clarify an influence of hydrogen on the fatigue crack propagation in ultra-low frequency region, we investigated the crack propagation rates of S10C at different frequencies in hydrogen and nitrogen atmospheres. In the low-pressure hydrogen gas atmosphere, the crack propagation rate decreased with decreasing in frequency within the present experimental range. In particular, the crack propagation rate in the ultra-low frequency (10–3 Hz) became the same as that in nitrogen atmosphere. To explain the disappearance of the hydrogen effect in the ultra-low frequency, we proposed that carbon diffusion causing strain-age hardening also contributes to the decrease in crack propagation rate in the ultra-low frequency under the hydrogen atmosphere.

1. 緒言

現在,水素エネルギー運用にあたり,水素雰囲気における構造材料の機械的特性評価が希求されている。水素は多くの場合,鉄鋼材料において機械的特性を劣化させる1,2,3,4,5,6)ことが明らかになっており,水素環境下での機械的特性の把握は実用上必要不可欠である。特にBCC(BCT)構造を有する鉄鋼材料は,利用環境が高応力であること,また,FCC構造と比較して水素拡散速度が速いことなどに由来して,水素脆化(または水素による疲労き裂伝ぱ速度や絞りなどで表現される延性の低下)の感受性が高く,一般的な鉄鋼組織であるフェライト1,5),パーライト2,6),マルテンサイト3,5)の引張および疲労特性に対して水素は著しい負の影響を与える。

疲労破壊は水素雰囲気に限らず事故の主因であるので,疲労特性は機械的特性の中でも特に重要である。疲労損傷に由来する事故抑止の観点から,今後の水素利用における安全性確保のために,温度や周波数など様々な水素環境における構造部材の合理的疲労特性評価が求められている。例えば,水素貯蔵タンクは,1 cycleが1日以上の場合が想定される7)。具体的には,水素の消費/補給を一サイクルとして疲労変形をうけるので,一般的な疲労試験よりも非常に遅い周波数の疲労環境にあるといえる。水素脆化感受性は変形速度が遅いほど高くなる傾向が一般的に報告されている3,8,9,10,11)ので,実験室での高い周波数で得られたデータを実環境の疲労強度の評価に用いた場合,危険側の評価につながる可能性がある。

水素環境下における鉄鋼材料の疲労き裂進展速度に及ぼす周波数依存性については,周波数の低下に伴う疲労き裂進展速度の加速が多く報告されている12,13,14,15,16)。これらの報告によると,水素ガス中における疲労き裂伝ぱ速度に及ぼす周波数の影響因子としては,疲労き裂先端におけるすべり挙動に及ぼす材料本来の転位の易動度の変形速度依存性*1,水素の侵入・拡散12,13)挙動,水素中不純物拡散16),ならびにそれらの相互作用によるものなどが想定される。実際に,疲労き裂進展挙動への周波数の影響の有無やその度合いは,材料や試験条件により様々であり,その理由については未だ議論が続いている。

*1 一般に転位の易動度はパイエルスポテンシャルおよび熱活性化過程に律速されるので,周波数の低下にともない,ひずみ速度が低下し,転位の易動度が上昇する。パイエルスポテンシャルは周波数に依存しないので,熱活性化過程の挙動に依存して,すべり変形は容易になるので疲労き裂伝ぱ速度は上昇する。しかし,実用材料,例えば炭素鋼など侵入型原子を含む鉄鋼材料では,動的ひずみ時効が関与し,転位の易動度は変形速度に対して負の依存性を示す17,18,19)。動的ひずみ時効はき裂伝ぱ挙動を支配する重要因子の一つである20,21)ので,この場合,き裂伝ぱ速度は転位の易動度に対応して負の変形速度依存性を有すると考える。

上述,水素環境における変形速度または周波数の低下にともなう水素感受性の上昇,疲労き裂伝ぱ速度の加速が多く報告されている一方,周波数の低下による疲労き裂伝ぱ速度の低下が炭素鋼において近年報告された22)。これはCT(Compact Tension)試験で確認された事実であり,小規模降伏条件を満たし,応力比0.1で評価された結果である。この事実は,上記水素タンクなどの低周波数疲労環境で使用される材料の設計戦略の一部として極めて重要であるので,この事実を異なる条件で評価する必要性がある。例えば,実用構造部材はほとんどの場合,製造工程や運用過程において表面傷が導入される。また,実用材は介在物を多く含む。これら表面傷や介在物を起点に伝ぱする疲労き裂の多くは小規模降伏条件を満たさない。すなわち,微小人工欠陥を導入し,小規模降伏条件を満たしていない,実機での表面傷や介在物などを模擬した条件での試験が必要である。

本論文では,フェライト/パーライト組織を有する焼きなまし炭素鋼S10Cについて,上述の周波数低下にともなう疲労き裂伝ぱ速度の上昇が確認された周波数帯の疲労特性に注目する。特に低~極低周波数領域に焦点をあて,実用上重要かつ未解明の問題である水素ガス雰囲気中における疲労き裂進展速度の周波数依存性,特に人工欠陥からのき裂伝ぱ挙動について議論する。本研究は以下の点に主眼をおく。

①疲労試験における表面き裂伝ぱを光学顕微鏡により水素雰囲気中その場観察し,疲労き裂伝ぱ挙動の周波数依存性を,両振り曲げ試験(応力比-1)で測定した。本実験結果においても,水素環境下における周波数低下にともなう疲労き裂伝ぱ速度の低下が観察されたので,その詳細を報告する。

②破面を詳細観察した結果を,上述のその場観察でみられた表面き裂の挙動と相関付けることで水素ガス環境下疲労き裂伝ぱの周波数依存性の一因を明らかとする。

2. 試験方法

材料は低炭素鋼JIS S10Cを用いた。Table 1に化学成分を示す。機械研磨および3%ナイタールによるエッチングによって得た,熱処理後の金属組織をFig.1に示す。初期組織はフェライト/パーライト鋼であり,フェライト粒径は約25 μmである。直径22 mmの丸棒材を1173 K,1時間の熱処理後,室温まで炉冷した。本材料の機械的性質をTable 2に示す。Table 2に引張試験は,ひずみ速度10−3 s−1,室温,ゲージ長さ10 mmで行った結果である。転位などの水素のトラップサイトを導入するため,10%の予ひずみを与えた後,Fig.2(a)に示す形状の試験片を機械加工によって作製した。予ひずみはインストロン型の引張試験機を用い,引張変形にて与えた。その後試験片表面をエメリー紙#2000まで研磨した後,表面観察を容易にするために更にバフ研磨を施した。試験片中央部にはクラックスターターとして,Fig.2(b)に示す直径d=100 μm,深さh=100 μmの微小ドリル穴を2つ導入した。ドリル穴は試料ゲージ部中央に,長手方向に対して垂直に並ぶように導入した。

Table 1. Chemical composition of S10C (mass%).
CSiMnPSCuAlNi+CrFe
0.130.220.390.010.020.090.010.01Bal.
Table 2. Tensile properties of the steel used.
Upper yield strengthLower yield strengthUltimate tensile strengthTotal elongation
223 MPa207 MPa352 MPa33%
Fig. 1.

 Undeformed microstructure of the steel used. The black region is pearlite, and the other region is ferrite.

Fig. 2.

 (a) Top view of the sample geometry used for the fatigue testing. (b) Detailed schematic of the drill hole shape indicated in Fig.2(a). (c) Magnified side view showing the position of drill holes and the loading direction. (d) Definition of the crack length l in this study.

疲労試験は,全て変位制御による完全両振りの平面曲げで行った。荷重方向をFig.2(c)に模式的に示す。波形は三角波を用い,周波数は6 Hz,5×10−3 Hzならびに10−3 Hzとした。本研究では,10−3 Hzが最低周波数である。しかし今回用いたステッピングモーターの最小周波数は4×10−3 Hzであったため,10−3 Hzはモーターを4×10−3 Hzで0.37 s動かし,1.07 s静止させることを繰り返すことによって,擬似的に10−3 Hzを作りだした。この試験条件を5×10−3 Hzよりも遅い変形速度と位置付けて本文中では10−3 Hzと記載する。本実験では,疲労き裂進展におけるクラックスターターの形状効果を除くため,クラックスターターよりも十分に大きい700 μm以降の疲労き裂進展に注目した。10−3 Hzの実験においては実験時間短縮のため,700 μmまで6 Hzで疲労き裂を進展させた後に周波数を切り替えてその場観察を行った。本実験では,き裂長さlFig.2(d)に示すように,二つのドリル穴の直径を含む投影長さとした。試験雰囲気は0.18 MPa(絶対圧),313 Kの純水素ガス(純度99.9999%)を用いた。金属顕微鏡を用いて,圧力チャンバーの窓越しに疲労き裂進展のその場観察を行った。負荷条件は試験片中央裏面に貼ったひずみゲージから得られる全ひずみ幅Δεt=0.70%で設定した。今回の実験では,疲労試験開始時の,水素固溶量,試験片温度などの条件をそろえる目的で,予め試験ガス中(0.18 MPa,313 K)で板厚3 mmの試験片を1時間保持した。また,比較対象として窒素ガス(純度99.9999%)中においても同条件で試験を行った。さらに疲労き裂進展のその場観察後,液体窒素浸漬により低温脆化を利用して試験片を破断させ,走査型電子顕微鏡(SEM)を用いた破面観察を行った。

3. 実験および考察

3・1 疲労き裂伝ぱ挙動の環境と周波数依存性

Fig.3に周波数6 Hzの疲労試験における水素ガスおよび窒素ガス環境中の疲労き裂伝ぱ挙動を示す。Fig.3(a)は横軸を全繰返し数に設定している。後述する10−3 Hzにおける実験結果(Fig.4)と比較のため,疲労き裂長さl=700 μmになった状態からの繰返し数を横軸とした図をFig.3(b)に示す。周波数6 Hzでは,窒素中の疲労き裂伝ぱ速度と比較して,水素中の疲労き裂伝ぱ速度が大きい。水素は転位の易動度を有意に上昇させ,水素存在領域の変形が局所的に促進されることが知られる(Hydrogen-enhanced localized plasticity:HELP)17)。水素環境下の6 Hzにおける疲労き裂伝ぱの加速は,このHELP効果によって促進されるき裂先端におけるマイクロボイド形成/連結で説明される23,24)

Fig. 3.

 (a) Crack length plotted against number of cycles at a frequency of 6 Hz in hydrogen and nitrogen gas atmospheres. (b) The number of cycles from the crack length of 700 μm was set as the zero of the x axis. (Online version in color.)

Fig.4に10−3 Hzにおける水素ガスおよび窒素ガス環境中の疲労き裂伝ぱ挙動を示す。10−3 Hzでは,水素ガス中と窒素ガス中の疲労き裂伝ぱ速度に有意な差が観察されなかった。換言すれば,6 Hzで観察されたHELP効果による疲労き裂伝ぱの加速現象が周波数の低下によって消失した。HELP効果の消失現象を詳細に議論するために,6,5×10−3,10−3 Hzにおける水素ガスおよび窒素ガス環境の疲労き裂伝ぱ挙動をFig.5Fig.6に示す。窒素ガス環境中では,周波数の低下に伴って,疲労き裂伝ぱ速度が上昇した。一方,水素ガス環境中では,周波数の低下に伴い疲労き裂伝ぱ速度が低下し,窒素ガス環境中とは全く逆の傾向を示した。窒素ガス環境における周波数低下にともなう疲労き裂伝ぱ速度の上昇は,炭素の動的ひずみ時効による局所変形の助長が一因と考える。周波数の低下にともないき裂先端のひずみ速度が低下するので,動的ひずみ時効が促進される。動的ひずみ時効の発現条件では,炭素が転位から脱離した際に局所塑性変形領域が形成されることが知られており(引張試験の場合は,Portevin Le Chatelier bandとして知られる)25),この現象に由来するき裂先端の局所塑性変形がき裂伝ぱを助長していると考える。対して,水素環境における疲労き裂伝ぱ速度の周波数依存性を説明するために,第一の因子としてき裂先端周辺における水素分布が挙げられる。HELPは,水素がき裂先端に局在化することで促進されることが知られる26,27)。10−3 Hzはフェライトにおける水素拡散にとって十分に小さいので,水素はき裂から離れたところまで拡散し,き裂先端の水素局在化の度合いが小さくなったことが一因と考える22)。しかし,周波数の低下によりき裂伝ぱ速度に対して水素の効果が消失したことは,上述の単純な水素拡散だけでは説明しきれない。次節以降に疲労き裂・破面観察結果とともに詳述する。

Fig. 4.

 Crack length plotted against number of cycles from the 700 μm crack length at a frequency of 10–3 Hz in hydrogen and nitrogen gas atmospheres. (Online version in color.)

Fig. 5.

 Crack length plotted against number of cycles from the 700 μm crack length in the nitrogen gas atmosphere. (Online version in color.)

Fig. 6.

 Crack length plotted against number of cycles from the 700 μm crack length in the hydrogen gas atmosphere. (Online version in color.)

3・2 疲労き裂伝ぱ径路と破面の解析結果

まず,6 Hzで観察された水素助長疲労き裂伝ぱについて考える。S10Cの水素助長疲労き裂伝ぱは,疲労き裂伝ぱモードの変化が原因である。この疲労き裂伝ぱモードが変化した結果,脆性ストライエーションを形成することが従来報告されている23)。本研究においても6 Hzの水素ガス環境中においてFig.7に示すように,破面の約8割において脆性ストライエーションが観察された。この脆性ストライエーションを伴う疲労き裂伝ぱモードは,HELP効果に起因するき裂先端における微小ボイドの形成およびボイドの連結に支配されている23,24)。一方,10−3 Hzの疲労試験では,水素ガスおよび窒素ガス環境中の疲労き裂伝ぱ速度について有意な差が観察されなかった。この極低周波数における,水素の効果の消失の原因は大きく分けて以下の2つが考えられる。

Fig. 7.

 An example of fracture surface showing brittle striations at the frequency of 6 Hz.

[1]本質的には疲労き裂伝ぱが水素によって助長されているが,伝ぱ径路が変化したことで,結果として見かけ上伝ぱ速度に水素の効果がみられない可能性がある。例えば,水素環境における疲労き裂伝ぱ径路がジグザクすることで,真の疲労き裂長さとき裂の投影長さに大きな差が存在すると,見かけ上,疲労き裂伝ぱ速度に対する水素の効果が小さくなる。

[2]水素分布変化などに起因して,疲労き裂伝ぱに対してHELP効果が働かなかなくなる。

まず,因子[1]を考える。伝ぱ径路については,その場観察にて疲労き裂伝ぱの様子を観察した。Fig.8に疲労き裂伝ぱ径路を示す光学顕微鏡写真を示す。図中,疲労き裂は赤線で強調している。図から明らかなように,疲労き裂伝ぱ径路に大きな差はなく,少なくとも水素環境中における疲労き裂伝ぱ径路が窒素環境に比べてジグザクしているという事実は観察されなかった。すなわち,[1]は主因ではなく,[2]のき裂伝ぱ速度におけるHELP効果の消失が本質である。

Fig. 8.

 Surface cracks at 0.001 Hz in (a) nitrogen-gas and (b) hydrogen gas atmospheres. The red lines highlight the main cracks. (Online version in color.)

従来報告されているHELP由来の水素助長き裂進展が観察されなかった原因を考えるために,Fig.9に10−3 Hzにおける窒素ガスおよび水素ガス環境下における破面観察の結果を示す。全体図下方部に見られるドリルホールはクラックスターターとして用いたものである(Fig.8参照)。また,中央部にある黄色の点線は周波数の切換え点(6 Hz→10−3 Hz)を示している。Fig.9(a)の黄色点線部で囲まれた領域を拡大した像をFig.10に示す。Fig.10では一般的な延性ストライエーションを含む疲労における典型的な延性破面のみが観察された。この窒素ガス環境における破面を参照して,次に水素環境中の10−3 Hzにおける破面に注目する。Fig.11Fig.9(b)の左部を拡大した像を示す。Fig.11(a)では窒素環境下における破面と同じく,延性的な破面が観察された。6 Hzの水素環境においては大部分が脆性ストライエーションを含む脆性的な破面であったことと比較すると,HELP効果の中でも特に,脆性ストライエーション形成の原因である疲労き裂先端の微小ボイド形成・合体が抑制されたことが10−3 Hzにおいて水素の効果が消失した一因である。このHELP効果が消失した原因の一つは3・1節で述べたように,周波数低下に伴い水素拡散の時間が十分に与えられたため,き裂先端の水素の局在化の度合いが小さくなったことが考えられる。この効果により,き裂伝ぱ速度における水素の影響が小さくなることは説明される。しかし,水素の効果が“消失”し,窒素環境と同程度の疲労き裂伝ぱ速度を示した事実が説明できない。次節に水素の効果が消失した事実の特異性およびその原因について考察する。

Fig. 9.

 Overviews of the fracture surfaces provided at 0.001 Hz in (a) nitrogen and (b) hydrogen gas atmospheres. The broken lines indicate the changing points of frequency from 6 to 10–3 Hz (l=700 μm). (Online version in color.)

Fig. 10.

 Magnified image of the region outlined by the yellow broken lines in Fig.9(a).

Fig. 11.

 Magnified image of the region outlined by the yellow broken lines in Fig.9(b). (a) Ductile striations. (b) Brittle striation as indicated by the yellow arrows. (Online version in color.)

3・3 水素環境中における炭素拡散の影響の提案

前節に言及したように,疲労き裂伝ぱ速度における水素の影響が周波数低下によって消失した事実は,拡散時間が長くなることによる水素分布の変化だけでは説明できない。その理由を以下に示す。

1)Fig.9(b)右部を拡大したFig.11(b)に示されるように,一部分において脆性ストラーエーションの形成が観察された。脆性ストライエーションが形成された箇所における疲労き裂伝ぱ速度は,少なくとも水素の影響がないき裂伝ぱ速度より速いはずである。

2)たとえ水素が試料全体に完全に均質に分配されたとしても,水素助長塑性により材料の塑性変形は水素のない状態よりも容易であるので,疲労き裂伝ぱは加速するはずである。

3)き裂開口時に存在するき裂先端の応力勾配に起因して,き裂先端における水素の局在化が完全になくなることはない。

4)疲労き裂先端には塑性ひずみが集中するので,高転位密度領域が形成される。転位は水素の典型的トラップサイトであるため,応力勾配がなくとも疲労き裂先端の水素量は内部よりも多い。

すなわち,疲労き裂伝ぱにおいて水素の効果が周波数低下により消失した事実は,水素の拡散のみでは理解されない。この問題を理解するため,著者らは炭素拡散の影響を導入することを提案する。炭素鋼において水素の次に拡散性の高い元素は炭素である。疲労き裂開閉口1サイクルの時間は10−3 Hzの場合,103 sである。炭素鋼におけるひずみ時効硬化は,本実験の測定温度40°Cにおいて103 sで有意に起こる28)ので,炭素拡散の影響が10−3 Hzで現れることは十分に考えられる。炭素が転位に集積することを考えると水素および疲労き裂伝ぱに対して以下の考察ができる。

A)炭素が転位またはその近傍に拡散することで,炭素による水素のトラップエネルギー低下により水素が転位より脱離しやすくなる1,29,30)。転位は弱いトラップサイトであり,トラップされた水素は拡散性である31)。このため,水素は転位周りにおいて偏析・脱離を自発的に繰り返す。一方,炭素は転位に偏析後は容易に脱離しないので,時間経過とともに炭素は水素よりも転位への偏析の傾向が強くなる。この影響によりHELP効果が抑制されると考える。

B)炭素がき裂先端の転位に集まり,ひずみ時効硬化が起こることで,疲労き裂伝ぱが抑制される21,32)。Nishikawaらのモデル23,24)では,水素がき裂前方に集中している状態において,塑性ひずみがき裂前方に集中し,マイクロボイドが形成し,それらが連結することでき裂伝ぱが促進される。ひずみ時効硬化度は塑性ひずみ量の増大にともない大きくなる。すなわち,塑性ひずみが集中し始めてからマイクロボイドがき裂となるまでの間に炭素拡散のための十分な時間が与えられる極低周波数(10−3 Hz)では,HELP効果によるき裂先端の塑性ひずみ集中はむしろ炭素のひずみ時効硬化促進に寄与すると考える。例えば,Fig.4では窒素ガス中に比べて,水素ガス中のき裂進展速度が遅い時があり,これはHELP効果によるひずみ時効硬化の促進が一因だと考える。この考え方は,窒素環境下の周波数依存性に対する議論と混同しないように気を付ける必要がある。窒素環境ではき裂先端の応力集中に由来して,き裂先端の領域の転位のみが炭素から脱離する。このため,塑性変形がき裂先端に集中し,き裂伝ぱを加速する。一方,水素環境ではHELP効果によって,ひずみ時効発現前にき裂先端に塑性変形が集中する。このため,き裂先端の局所塑性ひずみ量の増大にともない,ひずみ時効硬化量が大きくなり,き裂伝ぱが抑制される。

すなわち,極低周波数(10−3 Hz)において,水素ガス環境中の疲労き裂伝ぱ速度が窒素ガス環境中の疲労き裂伝ぱ速度と同程度になった事実は,I)き裂先端周辺における水素分布変化,およびII)転位への炭素拡散によるひずみ時効硬化の影響を複合的に受けた結果であると考える。

4. 結言

本論文では,フェライト/パーライト組織を有する焼きなまし炭素鋼S10Cを用いて,繰返し速度切換え試験を行い,窒素ガスおよび水素ガス環境中における疲労き裂伝ぱ速度の周波数依存性を調べた。窒素ガス環境中では,周波数の低下に伴って疲労き裂伝ぱ速度は上昇した。一方,水素ガス環境中では,窒素ガス環境と比べて大きな疲労き裂伝ぱ速度の加速が観察されたが,周波数が低下するに伴って疲労き裂伝ぱ速度は低下した。また,周波数10−3 Hzでは,水素ガス中の疲労き裂伝ぱ速度は窒素ガス中の結果とほぼ同程度であった。本研究では,これら周波数依存性および極低周波数における疲労き裂伝ぱに対する水素の効果の消失は1)き裂先端における水素分布変化,2)炭素のひずみ時効硬化,の複合的な結果であると提案した。

極低周波数において水素ガス環境の疲労き裂伝ぱ速度が窒素ガス環境と大差なかった事実は,炭素が水素環境中においても特定周波数においては利用可能であることを示唆している。

文献
 
© 2015 一般社団法人 日本鉄鋼協会

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