鉄と鋼
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論文
0.2 mass%炭素鋼における低温焼戻し脆性と脆性−延性遷移挙動
田中 將己安井 隼人東田 賢二
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2016 年 102 巻 6 号 p. 340-346

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Synopsis:

Low temperature temper embrittlement of low carbon steels was investigated. 0.2 mass % carbon steels with fully martensitic structure were employed. The specimen was tempered at 473 K, 623 K and 873 K for 7.2 ks. Impact absorbed energy tested at room temperature shows the lowest value for the specimen tempered at 623 K while the value of Vickers hardness decreases with the increasing in the temperature tempered. Temperature dependence of impact absorbed energy was also measured, exhibiting the brittle-to-ductile transition temperature was highest in the specimen tempered at 623 K, which is low temperature temper embrittlement. Inter-granular fracture was observed in the specimens tempered at 623 K and 873 K, which indicates that tempering at not less than 623 K tends to increase the BDT temperature due to the inter-granular fracture. The temperature dependence of yield stress was also measured, showing that the athermal stress in the specimen tempered at 873 K was drastically decreased, which tends to decrease the BDT temperature. These opposite temperature dependences against BDT temperature induce the low temper embrittlment.

1. 緒言

近年,自動車用薄鋼板は軽量化による低環境負荷への対応および安全性向上といった背景から高強度化が求められている。しかし,一般に自動車用薄鋼板の成形性は強度上昇に伴って低下するため,強度と成形性を兼ね備えた鋼板の開発が強く望まれている。フェライトにマルテンサイトやベイナイトを配置し複合化した鋼は,単相鋼に比べて強度−延性バランスに富む等の優れた力学特性を有することが知られており,その中でもフェライトとマルテンサイトによる複合組織(dual phase:DP)鋼は,さらなる高強度化を求められる自動車用鋼板としての需要が拡大している。開発当初のDP鋼はフェライト中心の組織中に5~30%のマルテンサイトを分散させたものが主体だったため,その変形は主にフェライトが担っており,マルテンサイトの力学特性は重視されていなかった1)。しかし,DP鋼の変形に際して硬質であるマルテンサイトも塑性変形を一部担っており,その寄与がマルテンサイト体積率の増加に伴って大きくなることが近年明らかにされてきている2,3)。そのため,マルテンサイト組織の力学特性にも関心が高まってきている。そのような中,DP鋼中のマルテンサイトの力学的特性は,DP鋼板作製時の加工・熱処理条件により大きく影響を受ける事が予想され,例えばその硬度は組成にも依存するが200 Hv~700 Hvと幅が大きい。従って,硬度が異なるマルテンサイト単相の変形・破壊挙動を明らかにする事はDP鋼の力学特性を明らかにする上で必須のことであると考えられる。特にマルテンサイトは,低温での焼戻しによって靭性が著しく低下する,いわゆる低温焼戻し脆性を示す事が知られており,DP鋼における組織制御においてもマルテンサイトが焼戻しに伴う脆化を起こさないように,熱処理条件には十分な注意が必要である。一方,低温焼戻し脆性のメカニズムについては不明な点も多く,炭化物の組成変化4,5),不純物6,7),残留オーステナイトの分解8,9)やそれらの複合的な影響が指摘されているが,統一的な見解が得られたとは未だ言い難いのが現状である10)

ところで,フェライト鋼などのbcc金属は,室温で延性的であるが低温では脆性的に破壊し,いわゆる脆性−延性遷移(BDT:brittle-to-ductile transition)挙動を示す。BDT挙動のメカニズムを解明しようと言う試みは,St.John11)による先駆的な研究に端を発し,様々なグループにより行われてきた12,13,14,15)。その結果,BDT温度の歪速度依存性の起源は,亀裂先端から放出される転位の運動速度にある事,破壊靭性値の上昇は転位による応力遮蔽効果によるものである事,などがモデル結晶を用いて明らかとなった16,17,18)。鉄鋼材料においても,そのBDT挙動を亀裂先端での転位運動挙動で理解しようという試みが進められ19,20,21,22,23,24,25),例えばTi添加極低炭素鋼へのNi添加に伴うBDT温度の低下は,Ni添加に伴う転位易動度の上昇で説明できる事が明らかとなってきている23)。そのような中,本研究では,DP鋼中に存在する特定のマルテンサイトを想定するのではなく,添加元素量を極力減らしたマルテンサイト単相鋼を用いて,まずは最も基本的なマルテンサイト単相鋼においてBDT挙動が焼戻し温度によって受ける影響を,転位による応力遮蔽効果の観点から検討する。

2. 実験方法

Table 1に供試材の化学組成を示す。Fig.1で示すように,供試材は1473 Kに到達後,60分間保持した後に熱間圧延により厚さを45 mmから6 mmまで減じ,1173 Kから水焼入れを施すことによって,マルテンサイト単相組織を得た。焼入れた試料を更に塩浴中(攪拌無し)に473 K,623 K,873 Kで7.2 ks保持した後,水焼入れを行った。これらの試料を以後,473 K焼戻し材,623 K焼戻し材,873 K焼戻し材とする。なお,本研究では硫化物,リン化物の影響を排除するため,SおよびPの濃度をできるかぎり低減した供試材を用いた。

Table 1. Chemical composition of the steels used in this study.
CSiMnPSAlNFe
0.2000.51.99< 0.0020.00120.0270.0007Bal.

mass%

Fig. 1.

 Heat treatment diagram of specimen employed in this study.

次に各温度で焼戻した試料からそれぞれミニチュアの衝撃試験片,および引張試験片を作製し,種々の温度で衝撃吸収エネルギーおよび降伏応力を測定した。引張試験はクロスヘッド速度一定の条件で行い,歪速度は6.7×10−4 s−1とし,引張試験片の平行部はTD方向に平行にとり,その長さ・幅はそれぞれ5 mm,1.2 mmとした。Fig.2(a),(b)に衝撃試験における切欠入りの試験片サイズと衝撃試験の模式図を示す。試験片の長手方向がTDと平衡になるように切りだし,RD方向から深さ0.3 mm,曲率半径0.04 mmのノッチを導入した。衝撃試験は,試料を幅18 mmのスリットに設置し,曲率半径が1 mmの撃芯を速度20 m/minで衝突させた。なお,板厚方向の組織および内部応力の不均一性を排除するため,試験片は厚さ6 mmの試料中心部からそれぞれ切りだして作製した。なお,引張試験は島津社製AG-1S,衝撃試験はタナカ製MIT-D05KJ型,ビッカース硬さはMitsutoyo製HM-200,ナノ硬さはエリオニクス社製ENT-1100bを用いて行った。

Fig. 2.

 (a) Schematic illustration of the impact specimens used in this study. (b) Schematic illustration of the impact test geometry and blade shape.

組織観察を行うため,衝撃試験片のND方向を耐水研磨紙2000番までの湿式研磨,バフ琢磨を行ったのち,コロイダルシリカを用いて20分間の腐食琢磨を行った。Fig.3(a),(b),(c),(d)に反射電子像を用いて結像させた,焼入れまま材,並びに473 K,623 K,873 K焼戻し材のSEM像を示す。焼入れまま材と473 K焼戻し材においてSEMレベルでは明確な析出物などは見られなかった。一方,623 K焼戻し材では,ブロック内部および界面に微細な炭化物と考えられる板状析出物が見られた。更に873 K焼戻し材では,界面に球状析出物が見られた。

Fig. 3.

 Backscattered electron images of specimens (a) as quenched, (b) tempered at 473 K, (c) tempered at 623 K, (d) tempered at 873 K.

3. 実験結果および考察

Fig.4に各焼戻し材の室温におけるビッカース硬さ(試験荷重:9.8 N)と,室温での衝撃吸収エネルギーを示す。なおビッカース硬さ試験は各試料5回ずつ行い,最大値と最小値をそれぞれエラーバーの最大値,最小値として示している。また,DP鋼中のマルテンサイトとの比較が可能となるよう,Table 2にナノ硬さ試験の結果を併せて示す。なおナノ硬さは,荷重0.5 mNでそれぞれ676点の測定を行った。ビッカース硬さ,ナノ硬さともに焼入れまま材が最も高く,焼戻し温度が上昇するにつれて単調に減少している。また,ナノ硬さにおける平均値の分散は焼戻し温度が高くなるにつれて低下していくことが分かる。一方,室温における衝撃吸収エネルギーは焼戻し温度と供に上昇,低下,上昇し,衝撃吸収エネルギーは温度に対してアルファベットのm字型に変化した。なお,室温における衝撃吸収エネルギーが最も低くなる焼戻し温度は623 Kであった。

Fig. 4.

 Vickers hardness and absorbed impact energy from specimens tempered at various temperature for 7.2 ks. The tests were performed at room temperature. The test force was set to be 9.8 N.

Table 2. Nano-hardness measured at room temperature.
Average valueMaximum valueMinimum valueStandard deviation
AQ5.358.321.250.7
TP4734.938.253.250.733
TP6234.636.960.9820.668
TP8732.694.010.9890.318

Unit: GPa

パイエルス応力(τp)と剛性率(G)の比(τp/G)が10−3以上となるパイエルスポテンシャルが比較的大きい結晶では破壊靭性や衝撃吸収エネルギーに温度依存性がみられ11,26,27),bctまたはbcc構造であるマルテンサイトの衝撃吸収エネルギーにも顕著な温度依存性がある事が予想される。一般にbcc構造をもつ鋼の衝撃吸収エネルギーは,大別して低温から下棚部,遷移領域,上棚部に分類できる。下棚部では,衝撃吸収エネルギーの値は小さく,試験温度の上昇に伴って衝撃吸収エネルギーは急激に増加し(遷移領域),高温では衝撃吸収エネルギーが一定またはやや減少する(上棚部)。そのため,低温焼戻し脆化のメカニズムをより詳しく理解するためには衝撃吸収エネルギーの温度依存性をまず求め,それが焼戻し温度によって受ける影響を明確にする事が重要である。そこで次に,焼戻し温度の異なるこれら試料を種々の温度下で衝撃試験に供し,衝撃吸収エネルギーの温度依存性を求めた。

Fig.5に焼入れまま(AQ),473 K,623 K,873 K焼戻し材における衝撃吸収エネルギーの温度依存性を示す。なお,絶対値がシャルピー衝撃試験で得られる値よりも小さいが,これは本研究で用いた試料のノッチ形状,試験片サイズがJISと異なる事に起因すると考えられる。何れの試料から求めた衝撃吸収エネルギー曲線も典型的な下棚部,遷移領域,上棚部を示し,明瞭な脆性−延性遷移(brittle-to-ductile transition:BDT)挙動を示した。まず下棚部に着目してみると623 K焼戻し材の下棚部の衝撃吸収エネルギーが他の試料よりも低く,他の試料ではほぼ同じであった。また,遷移温度は873 K焼戻し材が最も低く,473 K焼戻し材,焼入れまま,623 K焼戻し材の順で上昇した。ここで,623 K焼戻し材では,(1)上棚部における衝撃吸収エネルギーの低下,(2)BDT温度の上昇,(3)下棚部における衝撃吸収エネルギーの低下,の三つの挙動が見られる。

Fig. 5.

 Temperature dependence of absorbed energy. The legend shows tempered temperature.

Fig.4で見られた室温での衝撃吸収エネルギーは,Fig.5より何れの焼戻し試料においても上棚部における衝撃吸収エネルギーの値である事が分かる。即ち,Fig.4において623 K焼鈍材で最も衝撃吸収エネルギーが低下していた現象は,上棚部での衝撃吸収エネルギーが623 K焼鈍材で最小である事に起因する。この衝撃吸収エネルギー曲線における上棚部の衝撃吸収エネルギーは局部変形能を含む塑性変形で吸収される全エネルギーが関係している。そのため(1)は,焼戻しに伴う延性低下に強く関連しているため本論文では対象とはせず,(2)の下棚部の低下,および(3)の遷移温度の上昇,に着目して議論する。ここで,平面歪条件における破壊靭性値,KIC,は応力遮蔽理論に基づくと次式で表される28)。   

KIC=2Eγ1ν2kd(1)

なお,Eはヤング率,γは破壊表面エネルギー,νはポアソン比,kdは転位による局部応力拡大係数である。式(1)右辺における第一項はGriffith理論29)から導かれる値で広い意味での破壊に関連する結合性を表す因子である。そのためγは,粒内破壊,粒界破壊の場合で値が異なり,それぞれについて次式で与えられる。   

2γ=2γsc:=2γsgγg:(2)

ここでγscは粒内で劈開破壊を起こすときの破壊表面エネルギー,γsgは粒界破壊を起こす際,その粒界面が自由表面になったときの破壊表面エネルギー,γgは破壊前の粒界エネルギーである。第二項は転位の運動による応力集中緩和量を表す因子である。亀裂や応力集中部から転位が発生すると,kd<0となるため30),亀裂先端や応力集中部からの転位の発生によって,破壊靭性値は上昇する。なお,界面等に塑性変形が難しい第二相が存在し,その第二相を通した塑性変形,即ち転位の伝播が困難になる場合,単相の場合と同じ負荷応力下でもkdの値が単相の場合と異なる事が予想される。そのことについては,本論文で直ちに議論できないため,今後の検討課題とする。

式(1)より,焼戻し条件の相違によって右辺の各項が変化し,各温度でのKICが変化するならば,それに伴って遷移温度も変化する。BDT温度の上昇をもたらす大きな因子としてKICの低下,または転位遮蔽量の減少が挙げられるため,焼戻しの条件に伴う式(1)の右辺第一項,第二項の変化をそれぞれ明らかにする事が,BDT温度低下に起因した低温焼戻し脆化の支配因子を特定する鍵となる。そこで,まず,第二項の効果,即ち転位易動度の効果が少ないと考えられる下棚部において衝撃試験によって破断させた試料の破面観察を行った。

Fig.6(a),(b),(c),(d)に100 Kで衝撃試験を行った,焼入れまま,473 K焼戻し材,623 K焼戻し材,873 K焼戻し材の破面をそれぞれ示す。Fig.6(a),(b)で示すように,焼入れまま材,473 K焼戻し材では破面形状に明確な差は無く,Fig.7(a)−(d)で示すように,どちらも劈開破面,延性破面が混在しているが粒界破面は観察されなかった。このことは,式(2)において,2γsc<2γsgγgの関係が成り立っていることを示している。一方,623 K焼戻し材,873 K焼戻し材では,Fig.6(c),(d)で示すように粒界破面,劈開破面,延性破面が混在しており,粒界破面の割合はFig.7(e)−(h)で示すように623 K焼戻し材,873 K焼戻し材でそれぞれ13%,8%であった。焼入れまま,473 K焼戻し材で見られなかった粒界破面が,623 K焼戻し材・873 K焼戻し材で見られた事は,623 K以上の焼戻しによって,式(2)における,2γsc>2γsgγgとなる関係が成り立つ粒が一部存在している事を示唆している。Fig.8(a),(b)Fig.6(c),(d)において点線で囲んでいる粒界破面近傍の拡大像を示す。Fig.8(a)で示すように,623 K焼戻し材の粒界破面は非常に滑らかであり,応力集中源となり得るような粗大な析出物は見られなかった。一方,873 K焼戻し材では,Fig.8(b)で示すように,粒界破面は滑らかに波打っているものの破面そのものはフラットであり,粒界には数百nm 程度の析出物が分散していた。この破面の浪打は,高温での焼戻しによって起こる界面の移動が界面上に点在する析出物によって成長時にピン止めされた影響であると考えられる。

Fig. 6.

 Enlarged images of fracture surfaces tested at 100 K. (a) as quenched, (b) tempered at 473 K, (c) tempered at 623 K, (d) tempererd at 873 K.

Fig. 7.

 Fracture surfaces tested at 100 K from specimens tempered various temperatures. Cleavage and intergranular surfaces are indicated beside the fracture surfaces. (a), (b) as quenched, (c), (d) tempered at 473 K, (e), (f) tempered at 623 K, (g), (h) tempered at 873 K. (Online version in color.)

Fig. 8.

 (a) and (b) are enlarged image of fracture surfaces of (c) and (d).

ここで注目すべき点として次のことが挙げられる。623 K焼戻し材,873 K焼戻し材では供に粒界破壊が見られ,623 K以上の焼戻しでは,式(2)の右辺第一項(Griffith level)が低下していると考えられる。亀裂先端から転位が発生・増殖させる転位動力学計算31)を用いて,このGriffith levelの低下がBDT温度に与える影響を計算した結果では,Griffith levelの低下はBDT温度を上昇させる事が明らかになっている25)。もし,低温焼戻し脆化が焼戻し温度623 K付近で特異に生じている現象のみに依存するのであれば,遷移温度を上昇させる粒界破壊は623 K焼戻し材のみで観察され,873 K焼戻し材では再び見られなくなると期待される。しかし,実際には873 K焼戻し材でも粒界破壊が生じており,粒界破壊そのものは,623 K以上の焼戻しで生じる現象であると言える。なお粒界破壊が生じるメカニズムは焼戻し温度が異なっても同じとは限らないが,本研究の供試材ではSおよびPを可能な限り低減しているため,873 Kでの焼戻しに際して硫黄またはリン化合物の粒界析出は考えにくい。いずれにしても,供試材を623 K以上で焼戻すと,粒界の破壊に対する抵抗が低下する。この破壊抵抗の低下は下棚部における衝撃吸収エネルギーの低下と遷移温度の上昇に寄与する。なお,873 K焼戻し材で下棚部の衝撃吸収エネルギーは焼入れまま,250°C焼戻し材と変わらないように見えるが,より低温で衝撃試験を行う事ができれば,623 K焼戻し材と同程度の値になると考えられる。

873 K焼戻し材において見られた,「粒界破壊が促進されているにも拘わらず遷移温度が低下している現象」を理解するためには,式(2)における第二項,即ち転位易動度の変化を考慮に入れる必要がある。そこで次に,焼戻しに伴う転位易動度の変化を明らかにするため,降伏応力の温度依存性を測定した。Fig.9に焼入れまま,473 K焼戻し材,623 K焼戻し材,873 K焼戻し材における降伏応力の温度依存性を示す。何れの試料も77 Kから250 Kにかけて降伏応力は低下するが,250 K以上ではほぼ温度依存性が消失している。焼入れまま,473 K焼戻し材,623 K焼戻し材の降伏応力には,何れの温度域においても顕著な差は見られないのに対して,873 K焼戻し材の降伏応力は,全ての温度域で低下していた。このことは,623 K以下の焼戻しは転位易動度に大きな影響を与えない事を示している。ここで,ある温度における降伏応力をσyとすると,σyは温度依存性のある有効応力σeと温度依存性の無い非熱的応力σathとに分けられる。なお,本研究では引張試験中に生じる焼戻しの影響を排除するため,試験を最高で300 Kまでしか行っていないが,300 Kではσyにほぼ温度依存性が見られなくなったため,300 Kでの降伏応力をσathと見なし,その値は873 K焼戻し材では610 MPa,焼入れまま材,473 K焼戻し材,623 K焼戻し材では約1170 MPaとした。これより,873 K焼戻し材では非熱的応力が約600 MPa低下している事がわかる。転位にかかる有効剪断応力をτe(=σeM,M:テーラー因子),非熱的剪断応力をτath(=σathM),外力による剪断応力をτapp(=σappMσapp:負荷応力)とすると,   

τe=τappτath(3)

Fig. 9.

 Temperature dependence of yield stress. The legend indicates tempered temperature.

で表される32)。このため,873 K焼入れに伴うこの非熱的応力の低下は,同じ負荷応力下における有効応力の上昇(転位易動度の上昇)を引き起こす。ある温度Tにおける有効応力と転位速度との間には,キンク生成エネルギーをHk,活性化体積をV*,ボルツマン定数をkv0mを定数とすると,   

v=v0τemexp(2HkτeV*kT)(4)

の関係が成り立つ33)。式(3),(4)より,873 K焼戻し材で見られた非熱的剪断応力の低下は有効剪断応力の上昇を引き起こし,その結果,同じτapp下において転位速度が上昇する。転位速度の上昇によって,亀裂先端より多くの転位が放出されることによって,式(1)右辺第二項の絶対値(応力遮蔽効果)が大きくなる。このことは,BDT温度の低下に寄与する23)

以上の結果を基に,粒界破壊エネルギーの変化と転位易動度の変化が式(1)を通してBDT温度に与える影響を考察する。なお,本モデルでは転位が放出されるのは,粒界または粒内に発生した亀裂を想定している。式(1)の第二項は正確には転位の位置座標でその値が決まり,転位の易動度にも依存する*。転位の易動度は転位が動く結晶(結晶構造,添加元素,第二相など)に依存する。そのため,焼戻し温度が等しく組織が同一であれば,転位易動度も同じになる。そこで次に,粒内亀裂・粒界亀裂から放出される転位の数や配置にも変化は無く,kdの値は粒内破壊と粒界破壊で同じ値になるとして転位易動度の効果を考える。まず,Fig.10の模式図で示すように,623 K以上で焼戻しを行う事によって一部の粒において粒界破壊エネルギーが低下し,粒界破壊が促進される。これは,遷移温度の上昇へ寄与する。転位易動度は623 K以下の焼戻しで変化せず,遷移温度への影響はない。結果,623 K焼戻し材では,遷移温度が上昇する。次に,873 Kでの焼戻しでは,非熱的応力の低下に伴って転位易動度が上昇する。これは遷移温度の低下へ寄与する。その結果,遷移温度は再び低下する。このように,粒界破壊エネルギーと転位易動度,即ち式(1)右辺の第一項,第二項が焼戻し温度に受ける影響が相反し,その効果の現れる温度域が異なることを考慮することによって,Fig.10の点線が示すように,623 K付近で遷移温度が最も高くなり,いわゆる低温焼戻し脆化がこの温度近傍のみで生じる事を説明できる。

Fig. 10.

 Schematic drawing to show the relationship between surface energy for fracture, dislocation mobility and BDT temperature. The opposite tendency of surface energy and dislocation mobility against tempering temperature leads to low temperature temper embrittlement.

* 例えば,転位の易動度が変われば同じ応力下での転位の位置座標が変わる。

4. 結言

0.2 mass%炭素を含むフルマルテンサイト鋼における脆性−延性遷移温度が焼戻し温度に受ける影響を,応力遮蔽効果に基づき検討した。623 K付近の焼戻しにおいて著しく脆性−延性遷移温度が上昇する理由は,焼戻し温度上昇に伴う(1)粒界破壊エネルギーの低下に起因する遷移温度の上昇,と(2)非熱的応力の低下に起因する遷移温度の低下,がクロスオーバーするために生じると考えられる。低温焼戻し脆化は本研究では,PとSの量を可能な限り低減した試料を用いたが,もしリン化物,硫化物の析出によって同様に粒界破壊エネルギーの低下が生じれば,式(1)右辺の第一項が変化すると考えられる。また,それら添加物によって転位易動度が変化するため式(1)右辺の第二項も変化する事が予想される。これらのバランスによって低温脆性が生じる温度域が変化すると期待される。粒界破壊を引き起こす原因が何れにあるにしろ,遷移温度が焼戻し温度に対して極小値を持つためには,(1)式の第一項と第二項の温度依存性が異なる事に起因する事となる。なお,第二相が存在することによって生じる(1)式の第二項(応力遮蔽量)の変化については,今後の検討課題である。

謝辞

本研究は,日本鉄鋼協会「第23回鉄鋼研究振興助成」による御支援の下行われた。また,本研究で使用した試料は新日鐵住金株式会社・東昌史博士よりご提供頂いたものを用いた。ここに感謝申し上げる。

文献
 
© 2016 一般社団法人 日本鉄鋼協会

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