鉄と鋼
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力学特性
高Si含有中炭素マルテンサイト鋼の機械特性に及ぼすFe炭化物の影響
寺本 真也 井村 政仁増田 優起石田 倫教大沼 正人根石 豊鈴木 崇久
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2020 年 106 巻 3 号 p. 165-173

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Abstract

Using a medium-carbon steel containing 2 mass% Si, we investigated the effect of its tempered martensite microstructure on its mechanical properties. We found that the tensile strength of tempered martensite continuously decreases with increasing tempering temperature and that its yield strength markedly decreases in a tempering temperature range of 673 K to 723 K. To investigate the correlation with the microstructure, we examined the effect of tempering temperature on the microstructure by SEM and TEM and identified Fe carbide phases by TEM nanobeam diffraction pattern analysis and X-ray diffractometry. In the tempering temperature range where the yield strength significantly decreases, the morphology of the ε carbide precipitated in martensite blocks changed from platelike to granular and the χ carbide was precipitated in a small amount in the samples tempered at 723 K. SAXS quantitative evaluation of the ε carbide revealed that the decrease in the size and volume fraction of the ε carbide with the increase in the tempering temperature was far greater than with the samples tempered at 673 K and below. The sharp decrease in the yield strength was suggested to be correlated with the increase in the mobility of dislocations with the decrease in the precipitate volume fraction resulting from the dissolution of ε carbide in the transformation process of the Fe carbides.

1. 緒言

中炭素鋼は機械構造部品の材料として広く使用されている。その中でも自動車用ばねやボルト等の高い強度が必要な部品は焼入れ処理を施すことによってマルテンサイト組織とする。その後,必要な機械特性を得るために焼戻しを施す。

炭素鋼の場合,マルテンサイトの焼戻し中の組織変化は温度の上昇とともに3つの段階に分類できることが知られている1,2)。第1段階では六方晶のε炭化物(FexC)3)または斜方晶のη炭化物(Fe2C)4)が析出し,第2段階では残留オーステナイト(γ)が分解し,第3段階ではε炭化物やη炭化物が斜方晶のセメンタイト(θ-Fe3C)5)へと遷移する。Imaiらは,焼戻しの第3段階でθの生成前に単斜晶のχ炭化物(Fe5C2)が生成することを報告している6,7)。Kenneford and Williamsは,焼戻しの第1段階と第3段階が起こる温度に対する合金元素添加の影響を調査し,ほとんどの合金元素を添加しても各段階いずれもほとんど変化しないのに対してSiを添加するとε炭化物が安定化し第3段階(εθ遷移)が高温側へ移行することを報告している8)

マルテンサイトは,焼戻し過程での組織変化にともなって機械特性が変化する。概括的に言えば焼戻し温度が高くなるほど硬さや強度は低下し,延性や靭性は増加する。焼戻し温度に対する機械特性の変化を詳細に確認すると,延性や靭性は炭素量にかかわらず約523 K~673 Kの焼戻しにおいて顕著な低下(低温焼戻し脆性)が現れる。この原因としては,残留オーステナイトの分解(焼戻しの第2段階)やFe炭化物の遷移(焼戻しの第3段階)と関係していると考えられている911)

以上のように,マルテンサイトの焼戻し過程における組織変化や機械特性の変化に関する研究は多く報告されているが,Fe炭化物の遷移過程(焼戻しの第3段階)における炭化物の形態変化が降伏強度に及ぼす影響についての系統的な研究はほとんどない。本研究では,多量のSiを添加した中炭素鋼を用いて,焼戻しにより種々のFe炭化物(εθ等)を分散させた焼戻しマルテンサイト組織を作製し,Fe炭化物がマルテンサイトの機械特性に及ぼす影響について明らかにすることを目的とする。

2. 実験方法

2・1 供試材

供試鋼の化学成分をTable 1に示す。本供試鋼はε炭化物を安定化させるためにSiの含有量を2 mass%に増量した中炭素鋼を用いた。真空溶解で溶製した150 kgの鋼塊を1523 K以上に加熱した後,熱間鍛伸により直径30 mmの丸棒に成形した。次に丸棒を1198 Kに加熱し,3.6 ks保持する条件で焼準を行った後,外周切削によって直径13 mm,長さ110 mmの円柱状試験片に加工した。これら円柱状試験片を調質処理するため1173 Kに加熱し0.9 ks保持した後,333 Kの油に焼入れ処理し573 K~823 Kの温度で1.8 ks保持し焼戻しを行った。これら熱処理により,いずれの供試材もFig.1に示すように焼戻しマルテンサイト組織が得られた。

Table 1. Chemical composition of steel (mass%).
CSiMnPSCrN
0.551.981.600.0080.0020.710.0054
Fig. 1.

Optical micrograph of martensite tempered at 523 K.

2・2 組織観察およびFe炭化物の同定

焼戻し温度に対する組織変化を調べるために,電界放出型走査型電子顕微鏡(Field emission scanning electron microscopy:FE-SEM)と電界放出型透過型電子顕微鏡(Field emission transmission electron microscopy:FE-TEM)で組織観察を行った。SEM観察ではJEOL製JSM-6500Fを用いて加速電圧15 kVで,TEM観察ではJEOL製JEM-2100Fを用いて加速電圧200 kVで行った。いずれも観察面は円柱状試験片の長手方向に垂直な断面となるように試料を切り出した。その後,SEM観察試料は機械研磨で鏡面に仕上げた後,電解エッチングを行い作製した。TEM観察試料はエメリー紙で厚さ60 μmまで研磨した後,打抜きパンチを用いて直径3 mmの試料を打ち抜き,ツインジェット電解研磨によって薄膜試料を作製した。Fe炭化物の同定はFE-TEMによるナノビーム回折図形(Nano -beam diffraction:NBD)の解析およびX線回折法(X-ray diffraction:XRD)で行った。XRD測定はRigaku製RINT-2500のMo-Kα線(波長0.07093 nm)仕様を使用し,試料を透過配置で行った。測定角度間隔0.04 degree,1点あたりの測定時間1.15 ksの条件で鋼中Fe炭化物のXRDプロファイルを測定した。試料は機械研磨により100 μm以下の薄膜を作製した。

2・3 引張試験

焼入れ焼戻しした試験片の中心部から平行部直径6 mmの14A号引張試験片(JIS Z 2241)を作製した。引張試験は島津製作所製250 kNオートグラフ(精密万能試験機)を使用し,クロスヘッド変位速度5 mm/min.の一定条件で行った。ひずみはゲージ長30 mmのひずみゲージを用いて測定した。

2・4 Fe炭化物,残留オーステナイトの定量評価

Fe炭化物の定量評価はX線小角散乱法(Small angle X-ray scattering:SAXS)で行った。SAXS測定はRigaku製NANO-ViewerのMo-Kα線(波長0.07093 nm)仕様を使用した。測定した散乱ベクトルqの範囲は0.1<q<10 nm-1である。但し,qは散乱ベクトルのスカラー量である。ここで散乱ベクトルqはX線の散乱角とX線波長で決まる値であり,q=4πsinθ/λ(2θ:散乱角,λ:X線波長)で表せる。試料は機械研磨により100 μm以下の薄膜を作製した。残留オーステナイト量の測定はX線回折法(X-ray diffraction:XRD)で行った。XRD測定はRigaku製SmartLabのCu-Kα線(波長0.15406 nm)仕様を使用した。測定面は円柱状試験片の長手方向に垂直な断面となるように試料を切り出し,機械研磨と化学研磨で作製した。

2・5 SAXS測定によるFe炭化物の散乱長コントラスト

SAXSで得られる散乱プロファイルを絶対強度化することで,鋼中の第二相粒子のサイズや量を定量化することができる。また第二相粒子がSAXSで検出できるか否かは,以下の式(1)中の母相と第二相粒子の散乱長密度の差(散乱長コントラスト)Δρ2から事前に検討できる。

  
I(q)=Δρ20N(r)V2(r)f(r)F2(q,r)dr(1)

ここでI(q)は散乱強度,N(r)は半径rの第二相粒子の数密度,V(r)は第二相粒子の体積,f(r)は第二相粒子のサイズ分布関数,F(qr)は第二相粒子の形状因子である。なお,散乱長密度ρは以下の式(2)で定義される。

  
ρ=dNelementbelementcelement(2)

ここでdNは原子密度,bは散乱長(散乱波の振幅),cは原子分率(各元素の濃度)である。母相と第二相粒子(Fe炭化物ε12)χ13)θ5),オーステナイトγ14))の散乱長密度ρと各第二相粒子の散乱長コントラストΔρ2Table 2に示す。Δρ2の値が大きいほど微量でも検出可能である。Δρ2>1×1021 cm-4ε炭化物は微量でも検出可能であるのに対して,Δρ2<1×1020 cm-4θ炭化物,γは検出不可能である。χ炭化物の検出にはε炭化物の検出下限の10倍程度の数密度が必要となる。したがって,SAXSを用いることでθ以外のFe炭化物(εχ)の析出状態を定量化できることが考えられた。

Table 2. Difference in scattering length density between matrix and carbides, retained austenite.
PhaseScattering length density, ρ × 1011 (cm–2)Δρ=ρmatrixρcarbide or γ
× 1011 (cm–2)
Δρ2×1022 (cm–4)
matrix6.215
ε-FexC5.624 0.5910.349
χ-Fe5C26.041 0.1740.030
θ-Fe3C6.141 0.0740.005
γ-Fe6.309–0.0940.009

3. 実験結果

3・1 組織観察およびFe炭化物の同定

各焼戻し温度でのFe炭化物の分散状態の調査およびFe炭化物の同定行った。

Fig.2に焼戻し温度に対する組織変化のSEM像を示す。648 Kと673 Kの焼戻しでは,長さ0.2 μm程度の板状炭化物が析出している。それに対して,698 Kと723 Kの焼戻しでは,板状炭化物が消失し,微細な粒状炭化物が観察されるが析出量は少ない。748 K以上の焼戻しでは,焼戻し温度の上昇とともに粒状炭化物が粗大化し,析出量は増加している。また残留オーステナイトは723 K以下の焼戻しで存在し,残留オーステナイトの量は723 Kの焼戻しで減少している。

Fig. 2.

SEM images of carbides in martensite tempered for various periods, (a) 648 K, (b) 673 K, (c) 698 K, (d) 723 K, (e) 748 K, (f) 773 K and (g) 798 K.

Fig.3に673 Kと698 Kの焼戻しにより生成した炭化物のTEM像を示す。ナノビーム回折図形(NBD)の解析により,673 Kと698 Kの焼戻しではいずれもFe炭化物εが析出している。Fig.4に723 Kと798 Kの焼戻しにより生成した炭化物のTEM像を示す。NBDの解析により,723 Kの焼戻しではFe炭化物χが析出しており,798 Kの焼戻しではFe炭化物θが析出している。χ炭化物がε炭化物からθ炭化物への相変化の途中に出現するか否か議論する余地があるが,焼戻しにより生成した炭化物の一部でJack and Wildが報告しているχ炭化物の結晶構造13)とよい一致を示すため本論文ではχ炭化物とθ炭化物を区別する。

Fig. 3.

TEM images of carbides in martensite tempered for various periods, (a) 673 K, (b) NBD taken from (a), (c) key diagram corresponding to (b), (d) 698 K, (e) NBD taken from (d), (f) key diagram corresponding to (e).

Fig. 4.

TEM images of carbides in martensite tempered for various periods, (a) 723 K, (b) NBD taken from (a), (c) key diagram corresponding to (b), (d) 798 K, (e) NBD taken from (d), (f) key diagram corresponding to (e).

Fig.5にXRDによる回折プロファイルを示す。NBDによるFe炭化物の同定とよい一致を示す。またε炭化物の回折ピークが焼戻し温度の上昇とともに低角側へシフトしており,ε炭化物の格子定数が変化していることがわかる。

Fig. 5.

XRD profiles of the high silicon-added medium-carbon steel with different tempering temperatures, (a) 623 K to 698 K, (b) 698 K to 798 K.

以上の結果から,焼戻し温度に対するFe炭化物の遷移と残留オーステナイト量の変化をTable 3に示す。種々のFe炭化物(εθ等)を分散させた焼戻しマルテンサイト組織を有する供試材を準備できた。

Table 3. Transition of carbides and amount of retained austenite in the tempering of high silicon-added medium-carbon steel.
Tempering temperature (K)648673698723748773798
Carbide phaseεεεχχχθ
Retained austenite (vol.%)9884

3・2 機械特性

種々のFe炭化物を分散させた焼戻しマルテンサイト組織に対して,室温引張試験を行った。これら供試材の公称応力-公称ひずみ曲線をFig.6に示す。673 K以下および773 K以上の焼戻し材は,一般的な焼戻しマルテンサイトの応力-ひずみ曲線と同様に引張強度に対して高い応力で降伏した後,緩やかに加工硬化し,加工硬化率は比較的小さく,降伏比の大きな材料であることがわかる。これに対して,698 Kと723 Kの焼戻し材は,引張強度に対して低い応力で降伏した後,加工硬化率が大きく,降伏比の小さい材料であることがわかる。焼戻し温度に対する引張強度(σUTS),0.2%耐力(σ0.2)および降伏比(σ0.2/σUTS)の変化をFig.7に示す。引張強度は焼戻し温度の上昇にともなって連続的に低下する。一方で,0.2%耐力は焼戻し温度の上昇にともなって上昇または低下が小さい領域(573 K~673 K,723 K~773 K焼戻し)と顕著に低下する領域(673 K~723 K焼戻し)がある。降伏比で整理すると,焼戻し温度の上昇とともに降伏比は上昇し,698 Kの焼戻しで顕著に低下し,再び748 K以上の焼戻しで降伏比は上昇する。これら機械特性の大きな変化はFe炭化物の遷移における組織変化(Fig.2-4Table 3)と対応しているように見える。特筆すべき点として,0.2%耐力が顕著に低下する温度域(673 K~723 K)では,焼戻しで生成したFe炭化物の形態が板状から微細な粒状へと大きく変化し,Fe炭化物の析出量が顕著に減少しているように見える(Fig.2(b)-(d))。要するに,マルテンサイトブロック内のFe炭化物が転位と相互作用し転位の運動を阻害すると考えると,0.2%耐力(降伏強度)の顕著な低下はFe炭化物の遷移におけるFe炭化物のサイズと量の減少が起因していると考えられる。

Fig. 6.

Nominal stress-strain curves of martensite tempered for different temperature periods, (a) 573 K to 723 K, (b) 698 K to 823 K.

Fig. 7.

Strength and yield ratio of martensite tempered for different temperature periods.

3・3 Fe炭化物の定量評価

降伏強度の顕著な低下をもたらす因子として考えられるFe炭化物のサイズと量の変化をSAXSで調査した。

Fig.8に種々の温度で焼戻しした試料のSAXSによる散乱プロファイルを示す。823 Kの焼戻し材では散乱コントラストが小さくSAXSでは検出不可能なθが析出しているため,ナノサイズの第二相粒子に対応する測定領域(0.1<q<10 nm-1)には上に凸な散乱は観察されない。散乱プロファイルの形状は,より大きな組織により生じるq-4の依存性を示すバックグラウンドとqに依存しないバックグラウンドの複合したものとなっている15)。その一方,εまたはχ炭化物が析出している573 K~723 Kの焼戻し材では823 Kの焼戻し材と比較してナノサイズの粒子に対応する上に凸な散乱が明瞭に観察される。また698 K以上の焼戻し材では焼戻し温度の上昇とともに散乱強度が顕著に小さくなっており,炭化物の析出状態が大きく変化していることが推測できる。

Fig. 8.

SAXS profiles of the high silicon-added medium-carbon steel with different tempering temperatures, (a) 573 K to 673 K, (b) 673 K to 723 K. SAXS profile of the sample tempered at 823 K is shown as a reference for other. (Online version in color.)

4. 考察

4・1 Fe炭化物量の評価

Fig.8の散乱プロファイルからεまたはχ炭化物の定量化を試みた。バックグラウンドのリファレンスとなる823 Kの焼戻し材の散乱プロファイルを種々の温度で焼戻しした試料の散乱プロファイルから差し引くことで炭化物からの散乱のみを抽出した。その結果をFig.9に示す。抽出した散乱プロファイルを式(1)でフィッティングすることで炭化物のサイズ分布曲線を導出した。ここで炭化物はε炭化物とし,炭化物の形状は円盤状または球状とし,サイズ分布関数は対数正規分布と仮定した。このサイズ分布曲線を積分し体積分率を算出した結果をFig.10に示す。Fig.10の横軸は炭化物サイズを球直径に換算した値とした。723 Kの焼戻し材の散乱プロファイルをχ炭化物による散乱と仮定してフィッティングした場合,炭化物の体積分率は約30%となる。一方,ε炭化物と仮定した場合,炭化物の体積分率は約3%となる(Fig.10(b))。例えば,添加した炭素がすべてセメンタイト(θ)になった場合,θの体積分率fθfθ(%)=15.3×[mass%C]16)で表されるので,供試材(0.55 mass%)でθの体積分率は8%程度になる。したがって,723 Kの焼戻し材の散乱プロファイルはε炭化物による散乱であると考えた。723 Kで焼戻しして生成した炭化物はχ炭化物の他に,TEMによる組織観察やXRDで検出できないオーダーでε炭化物が存在していることが示唆された。各温度で焼戻しして生成したε炭化物の平均球換算直径をFig.11に示す。673 K以下の焼戻しでは,焼戻し温度の上昇にともなってε炭化物のサイズが大きくなる。一方,698 K以上の焼戻しでは,焼戻し温度の上昇にともなってε炭化物のサイズ,体積分率が顕著に減少する(Fig.10(b))。これら結果は,SEMやTEMによる組織観察結果とよく一致している。

Fig. 9.

SAXS profiles of the high silicon-added medium-carbon steel with different tempering temperatures, (a) 573 K to 673 K, (b) 673 K to 723 K, subtracted by the profile of the sample tempered at 823 K. (Online version in color.)

Fig. 10.

Relationship between sphere equivalent diameter and volume fraction of the high silicon-added medium-carbon steel with different tempering temperatures, (a) 573 K to 673 K, (b) 673 K to 723 K.

Fig. 11.

Change in the average spherical equivalent diameter of ε carbides tempered for different temperature periods.

4・2 降伏強度低下メカニズム

以上の結果から,降伏強度が顕著に低下した焼戻し温度域(673 K~723 K)におけるFe炭化物の析出形態と転位の易動度の関係を示した模式図をFig.12に示す。マルテンサイトブロック内に多量析出した板状のε炭化物は転位と相互作用し転位の運動を阻害しており,高い降伏強度となる。焼戻し温度が上昇すると,ε炭化物が不安定となり一部溶解することで炭化物量が減少する。さらに焼戻し温度が上昇すると,ε炭化物はさらに溶解しχ炭化物が析出するが,炭化物の析出量はさらに減少する。これらFe炭化物の遷移過程における析出量の減少によって,転位の易動度が上昇し,降伏強度が低下したと考えられる。Fig.2のSEM像からFe炭化物の析出サイトに着目すると,焼戻し温度の上昇にともなってラス境界での析出物量が増加しており,降伏強度が低下した原因の一つとしてラス中の炭化物の減少もあると考えられる。またこの析出量の大きな変化は降伏後の変形における転位の増殖と回復に影響を及ぼし,転位の増殖と回復のバランスが変化したことによって,加工硬化率もまた大きく変化したと考えられる。ε炭化物が溶解することで炭化物の析出量は減少するが,析出量減少分の炭素はどのような状態であるのか考える必要がある。そこでε炭化物が溶解する過程で炭素の移動先について考察する。

Fig. 12.

Schematic diagram showing between carbide morphology and dislocation mobility in the transition process from ε to χ.

炭素の移動先としてマトリクス中の再固溶や残留オーステナイト,ε炭化物中の濃化が考えられ,後者の可能性を検証した。Fig.5(a)のXRDによるε炭化物の回折ピーク変化を見ると,焼戻し温度の上昇とともにε炭化物の回折ピークが低角側へシフトしている。これはε炭化物中の炭素量が増加し格子定数が増加していると考えられる。これまで報告されているε炭化物FexC(2≦x≦3)3,1721)の組成の幅が広いことからも,ε溶解中の炭素濃化は妥当だと考えられる。

これら現象はFe炭化物の遷移過程での析出量の変化が起因していることから,本研究の対象である高Si含有中炭素鋼に限ったことではなくSiを含有していない中炭素鋼やC含有量の異なる炭素鋼でも起こりうると推察される。

5. 結論

本研究では,焼戻しにより種々のFe炭化物(εθ等)を分散させた焼戻しマルテンサイト組織を有する高Si含有中炭素鋼を作製し,組織と機械特性の関係を調査した。その結果,以下の結論を得た。

(1)焼戻しの温度によって,低温(698 K以下の焼戻し)でε炭化物が析出し,中間温度域(723 K~773 K焼戻し)ではχ炭化物が析出し,高温(748 K以上の焼戻し)ではθ炭化物が析出した焼戻しマルテンサイト組織が形成されていた。

(2)本研究で得られた焼戻しマルテンサイト組織では,引張強度は焼戻し温度の上昇にともなって連続的に低下するのに対して,降伏強度(0.2%耐力)は顕著に低下する領域(673 K~723 K焼戻し)があった。

(3)673 K以下の焼戻しではマルテンサイトブロック内に板状のε炭化物が多量に析出していた。698 Kの焼戻しでは粒状のε炭化物が析出し,炭化物のサイズ,体積分率ともに673 K以下の低温焼戻し材と比べて顕著に減少していた。723 Kの焼戻しではχ炭化物が析出している他にSAXSによりε炭化物が析出していることが示唆された。このε炭化物のサイズ,体積分率ともに698 Kの焼戻し材と比べてさらに減少していた。

(4)以上の実験結果から,以下のモデルを考察した。マルテンサイトブロック内に多量析出した板状のε炭化物は転位と相互作用し転位の運動を阻害しており,高い降伏強度となる。焼戻し温度が上昇すると,ε炭化物が不安定となり一部溶解することで炭化物量が減少する。さらに焼戻し温度が上昇すると,ε炭化物はさらに溶解しχ炭化物が析出するが,炭化物の析出量はさらに減少する。これらFe炭化物の遷移過程における析出量の減少によって,転位の易動度が上昇し,降伏強度が低下する。

謝辞

本研究の一部は,日本鉄鋼協会主催「鉄鋼中の軽元素と材料組織および特性」研究会の支援により行われました。ここに感謝の意を表します。

文献
 
© 2020 一般社団法人 日本鉄鋼協会

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https://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/4.0/
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