鉄と鋼
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力学特性
焼戻しマルテンサイト鋼の水素脆化特性に及ぼすひずみ速度の影響とその律速過程
崎山 裕嗣 大村 朋彦杉田 一樹水野 正隆荒木 秀樹白井 泰治
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2021 年 107 巻 11 号 p. 986-995

詳細
Abstract

The effect of strain rate on hydrogen embrittlement susceptibility of high strength tempered martensitic steel was investigated by tensile tests under cathodic hydrogen charge. Fracture elongation was decreased with a decrease in strain rate and increase in diffusible hydrogen concentration. The mechanism of hydrogen embrittlement susceptibility was investigated based on vacancy-type lattice defects formation by positron lifetime spectroscopy. The clear correlation was not comfirmed between strain rate and the parameters of average positron lifetime, dislocation density and vacancy density. These parameters decreased with a decrease in fracture elongation, it means that these parameters did not reflect hydrogen embrittlement susceptibility. On the other hand, vacancy clustering was promoted with a decrease in strain rate. Therefore, it is assumed that strain rate dependence of hydrogen embrittlement susceptibility is determined by vacancy clustering process.

1. 緒言

鉄鋼材料では,省資源,省エネルギー化の観点から,長年高強度化への取り組みが続いている。この取り組みにおいて,最も重要な課題の一つとなるのが遅れ破壊,すなわち水素脆化という脆化現象である。水素脆化は,水素,応力と材料の三要因の組合せに因って生じるのは明らかだが,その詳細な機構については未だ解明されていない。これまで提唱された水素脆化機構についてはNagumoによってまとめられており1,2),代表的なものには,表面エネルギー低下理論3),格子脆化理論4),水素助長局所塑性変形理論5),水素助長歪誘起空孔理論6)などが挙げられる。近年は,その中でも,水素助長歪誘起空孔理論に基づく水素脆化による空孔性欠陥の研究が増えてきている。

Nagumo and Matsudaは中炭素の焼戻しマルテンサイト鋼を用いて,無ひずみ材,2%の塑性ひずみ材,2%の塑性ひずみ導入後250°Cで1時間の焼なまし材の3種類の材料を用いて,水素チャージ下で引張試験を行い,その水素放出曲線から,水素チャージと塑性変形により空孔性欠陥が増加すると報告している7)。同様に,Doshidaらは伸線パーライト鋼の塑性変形8),焼戻しマルテンサイト鋼の弾性変形9)について,水素による空孔性欠陥の増加を確認している。

Omuraらは焼戻しマルテンサイト鋼10),Sugitaらはオーステナイト系ステンレス鋼11)を用いて,水素チャージ下で引張試験や定荷重試験を行い,陽電子消滅試験によって,空孔性欠陥の種類を同定し,水素は空孔性欠陥の増加というよりも,空孔のクラスタ化に影響していると報告しており,水素脆化への空孔性欠陥の関与だけでなく,その詳細な挙動についても理解されつつある。

これらの空孔性欠陥に関する研究は,いずれも水素脆化の基本的特徴に基づいたものであり,水素濃度,化学組成や金属組織,強度,破面形態に着目して検討されている。ここで,水素脆化には,もう一つの特徴がある。ひずみ速度が小さいほど脆化が顕著となるひずみ速度依存性である12)。この特徴は,水素脆化機構を考える上で,水素,応力,材料の三要因に加え,時間という因子を考慮できる重要な要素である。

Hagiharaらは切欠き付丸棒試験片を用いて,水素チャージ下での低ひずみ速度試験(Slow Strain Rate Test, SSRT)と通常ひずみ速度試験(Conventional Strain Rate test, CSRT)を行い,水素脆化に及ぼす応力誘起拡散による水素集積の影響を検討している13)。この研究では,試験片内にあらかじめ応力誘起拡散によって高濃度化する局所水素濃度と同等の水素を添加しておくことで,応力誘起拡散に要する時間を必要としなくなると述べている。これは,水素脆化のひずみ速度依存性の律速過程が試験片内部での水素の応力誘起拡散であることを示唆している。TsuchidaはSSRTとCSRT後に昇温脱離法によって水素分析を行い,水素放出曲線をピーク分離することで水素存在状態を比較しており,転位トラップと粒界トラップへのひずみ速度の影響は大きいものの,空孔性欠陥への影響は小さいと述べている14)。一方,Sugitaらは,マルテンサイト系ステンレス鋼を用いて,水素チャージ下でひずみ速度を変化させて引張試験を行い,試験片の陽電子消滅試験により空孔性欠陥の種類を評価し,ひずみ速度が小さいほど空孔のクラスタ化が進むことを報告している15)。以上のように,水素脆化のひずみ速度依存性の律速過程については,複数の要因が示唆されているものの,未だ明らかになっていない。特に空孔性欠陥形成の観点からひずみ速度依存性を検討した研究は非常に少ない。そこで本研究では,強度,水素濃度,ひずみ速度,試験片形状を変化させて水素チャージ下で引張試験を行い,陽電子消滅試験によって,空孔性欠陥形成への影響を検討し,水素脆化のひずみ速度依存性の律速過程について検証した。

2. 実験方法

2・1 供試材

供試材の化学組成をTable 1に示す。供試材にはJIS-SCM435鋼を用いた。真空溶解後,熱間鍛造にて25 mm厚さのブロックに加工し,熱間圧延により10 mm厚さの板材とした。この板材に,880°Cで45 min保持後油冷による焼入れを行い,410°Cおよび540°Cで60 min保持後放冷の焼戻しを行った。いずれも焼戻しマルテンサイト組織を有する鋼である。

Table 1. Chemical compositions of steel used. (mass%)
CSiMnPSAlCrMoN
0.330.190.760.0110.0050.031.050.200.003

板材の板厚中心部から圧延方向に,平行部長さが40 mm,直径6 mmの引張試験片を採取し,引張試験を行った。0.2%耐力(Yield Strength, YS),引張強さ(Tensile Strength, TS),全伸び(Elongation, El)および絞り(Reduction of Area, RA)の結果をTable 2に示す。410°C焼戻し材のTSは1441 MPa,540°C焼戻し材のTSは1101 MPaであった。Williamson-hall法16)により求めた転位密度(ρ)も併記した。

Table 2. Mechanical properties and dislocation density.
YS(MPa)TS(MPa)EL(%)RA(%)ρ(x1014 m/m3)
1329144112.058.225.0
1006110117.067.12.1

2・2 拡散性水素濃度測定

試験片に侵入する拡散性水素濃度を測定するため,供試材から1 mm厚さの薄板試験片を採取し,Table 3に示す条件で水素チャージを行った。水素チャージ方法には陰極電解法を選定した。電解液には,常温の3%NaCl水溶液,またはこれに3 g/Lのチオシアン酸アンモニウム(NH4SCN)を加えた水溶液を,カソード電流密度0.1,1.0 mA/cm2とし,これらを組み合わせて三水準とした。チャージは室温で行い,時間は24 hとし,チャージ後の試験片は液体窒素中で保管した。

Table 3. Hydrogen charging conditions.
No.SolutionAmount of NH4SCN (g/L)Cathodic current density (mA/cm2)
13%NaCl00.1
201.0
331.0

拡散性水素濃度は,ジェイサイエンス社製の水素分析装置を用い,昇温脱離法により測定した。試験片は測定直前に600番エメリー紙によって研磨し,汚れや腐食生成物を除去した。分析は,常温から400°Cまで,昇温速度は100°C/hとした。本報では水素濃度はwt ppmを指す。

2・3 水素脆化試験

(1)連続水素チャージ平滑丸棒引張試験

板材の板厚中心部から圧延方向に,平行部長さが25 mm,直径4 mmの平滑丸棒引張試験片を採取した。この丸棒引張試験片を用い,大気環境と連続水素チャージ環境下で引張試験を行い,相対破断伸びを求めた。引張試験には,島津製作所製のオートグラフを用いた。連続水素チャージ条件では,試験片中心部まで水素を充填するため,引張試験前にも24 hのプレチャージを実施した。引張試験は室温で行い,クロスヘッド変位速度は15~0.0015 mm/minとした。平行部のひずみ速度は10-2~10-6 s-1である。水素チャージ条件はTable 3に示す通りである。相対破断伸びは以下の手順で求めた。まず,大気環境下で引張試験を行い,試験前後での全長の差を測定,その差を試験片平行部の長さで除することで破断伸びとした。水素チャージ下でも同様の手順で破断伸びを求め,大気環境下で得られた破断伸びで除することで相対破断伸びとした。

(2)連続チャージ切欠き付丸棒引張試験

平滑丸棒引張試験片と同様に試験片を採取した後,並行部の長さ中心に切欠き深さ0.3 mm,切欠き角度60°,切欠き底R0.125 mmの環状切欠き加工を行い,切欠き付丸棒引張試験片を作製した。TS1441MPa材では,この切欠き付丸棒引張試験片を用い,平滑丸棒と同様のクロスヘッド変位速度にて,大気環境と連続水素チャージ環境下で引張試験を行い,相対公称破断応力を求めた。水素チャージ条件はTable 3に示すNo.1の条件とした。相対公称破断応力も相対破断伸びと同様の考え方で求めたが,こちらは,引張試験によって得られた破断荷重を切欠き底の断面積で除することによって公称破断応力とした。

(3)破面観察

走査型電子顕微鏡を用い,引張試験後の破面の破壊起点部の観察を行った。観察結果から,延性破面(Ductile Fracture, DF),擬へき開破面(Quasi Cleavage, QC),粒界破面(Intergranular fracture, IG)を判定した。

2・4 陽電子寿命測定

陽電子消滅試験には,平滑の試験片を用い,破断に至るまでの過程における空孔性欠陥の変化を調査するため,試験片の破断部を切り落とした後,試験部を放電加工により応力負荷軸に平行に切断,その切断面を測定面とした。切断面の表面は2000番までエメリー紙による湿式研磨を行った後,電解研磨仕上げとした。ポリイミドフィルムで密封した22Na陽電子線源を,電解研磨仕上げした切断面に挟み,陽電子寿命を測定した。測定には,デジタルオシロスコープとBaF2シンチレータをマウントした2対の光電子増倍管で構成されたシステムを用い,それぞれ300万カウントの陽電子寿命スペクトルを収集した。陽電子寿命スペクトルの解析にはRESOLUTION17)およびPOSITRONFIT Extended18)を用いた。測定システムの時間分解能と陽電子線源成分の陽電子寿命と相対強度は,純鉄の完全焼鈍材から得られた陽電子寿命スペクトルのRESOLUTIONによる解析で決定し,引張試験後の試験片の陽電子寿命スペクトル解析に利用した。測定システムの時間分解能は175-185 psFWHMであった。平均陽電子寿命は陽電子寿命スペクトルから線源成分を差し引き,1成分解析することによって求めた。次に,トラッピングモデル19)を仮定して自由陽電子成分,転位成分,空孔クラスタ成分の3成分に陽電子寿命スペクトルを分解した。このとき,転位成分の陽電子寿命は,SCM435鋼の焼入れ材,焼戻し材の測定結果から得られた150 psに固定した。空孔クラスタサイズは,空孔クラスタ成分の陽電子寿命から推定した。転位密度と空孔密度は3成分解析結果から以下の式(1)-(2)を用いて評価した。

  
Cd=1/τf1/τd+Iv(1/τd1/τv)1IdIv×Idμd(1)
  
Cv=1/τf1/τv+Id(1/τv1/τd)1IvId×Ivμv(2)

ここでCは欠陥密度,τは陽電子寿命,Iは相対強度,μは欠陥への陽電子比捕獲速度であり,添字fは自由陽電子(欠陥フリー)状態,dは転位,vは空孔クラスタを表す。τd=150 psとして陽電子寿命スペクトルを解析し,τvIdIvを同定した。τfは純鉄の焼鈍材の陽電子寿命の実験値のτf=107 psとした。残りのパラメーターである陽電子比捕獲速度は文献値から採用した。μdは純鉄中の転位の陽電子比捕獲速度の文献値μd=5.1×10-5 m2 s-1 20),μvは純鉄中の単空孔の文献値μv=1.1×1015 s-1 21)とした。この時得られる空孔濃度Cvは単空孔換算の空孔密度であり,物理的には空の格子点が全体に占める割合である。n個の空孔を含む空孔クラスタでは陽電子比捕獲速度μが単空孔のn倍になり22),空孔クラスタの数密度はCv/n,空の格子点の割合はCvで表わされる。ただし,空孔クラスターサイズが大きくnが極めて大きい領域(τv~500 ps)では陽電子比捕獲速度が単空孔のn倍を下回るため,空の格子点の割合はCvを下回り,空孔密度を過小評価することになる点には注意が必要である。

3. 結果

3・1 拡散性水素濃度測定

二種の強度の供試材に三水準の条件で水素チャージされた拡散性水素濃度をTable 4に示す。カソード電流密度の増加,NH4SCNの添加によって拡散性水素濃度は増加した。また,TS1441MPa材の方が拡散性水素濃度は高い。これは高強度材ほど転位密度が高いためだと考えられる23)

Table 4. Diffusible hydrogen concentration.
MaterialsHydrogen charging conditionDiffusible hydrogen concentration (ppm)
TS 1411 MPaNo.10.3
No.20.6
No.31.7
TS 1101 MPaNo.10.2
No.20.3
No.30.6

3・2 水素脆化の引張速度依存性

TS1441MPa材における水素脆化試験の結果をFig.1に示す。横軸を引張試験で設定したクロスヘッド変位速度,縦軸を平滑丸棒試験片では相対破断伸び,切欠き付丸棒試験片では相対公称破断応力で整理した。試験片形状別に異なる値で整理したのは平滑丸棒では破断荷重,切欠き付丸棒では試験前後の全長の変化が乏しいためである。また,横軸の第二軸にひずみ速度を記したが,このひずみ速度は,クロスヘッド変位速度を試験片の平行部長さで除した値であり,平滑丸棒試験片にしか適用されない。各引張試験後の破面形態についても併記した。各破面形態の代表写真をFig.2に示す。平滑丸棒の0.3 ppm条件においては,クロスヘッド変位速度15 mm/minで相対破断伸びが1と水素脆化を生じていないが,クロスヘッド変位速度の低下に伴い水素脆化が生じ相対破断伸びは小さくなり,脆化はより顕著となった。0.6 ppm条件においては,クロスヘッド変位速度15 mm/minで相対破断伸びが0.54であり脆化が生じている。クロスヘッド変位速度0.15 mm/minでは相対破断伸びはさらに低下し,0.15 mm/min以下でも同様の相対破断伸びを示した。1.7 ppm条件では,クロスヘッド変位速度15 mm/minで相対破断伸びは0.14と顕著な脆化を示し,クロスヘッド変位速度を低下しても概ね一定の相対破断伸びであった。これらの結果は,引張速度の低下に伴い,水素脆化は顕著化,すなわち遷移領域が存在すること,水素濃度の増加に伴い,その遷移領域は高引張速度側に推移することを示している。切欠き付丸棒の0.3 ppm条件においても,平滑丸棒同様の傾向を示した。ただし,切欠き付丸棒における水素脆化の遷移領域は,平滑丸棒より低引張速度側であった。また,平滑丸棒における破面形態は,概ね水素脆化の度合いに伴って遷移し,ほとんど脆化しない条件では延性破面で,脆化が顕著な条件では粒界破面であった。遷移領域に相当する条件では,脆化の程度が同等でも条件によって破面形態が変化し,水素脆化の度合いで一義的に破面形態が決定する結果とはならなかった。切欠き付丸棒における破面形態は,脆化を生じない領域においても擬へき開破面であり,延性破面は確認されなかった。水素を添加しない場合でも同様の破面形態が確認されることから,塑性拘束によって,切欠き底の主応力が高まり24),水素の影響がなくとも脆性的な破壊を起こしたと考えられた。

Fig. 1.

Dependence of hydrogen embrittlement on cross head speed in TS 1441 MPa.

Fig. 2.

The fracture surfaces of the (a) Ductile, (b) Quasi Cleavage, (c) Intergranular and (d) Quasi Cleavage at notch Fractures.

TS1101MPa材における水素脆化試験の結果をFig.3に示す。概ね,TS1441MPa材と同様の傾向を示したが,同チャージ条件における相対破断伸びを比較するとTS1101MPa材の方が高い傾向にあった。特に,クロスヘッド変位速度15 mm/minではいずれの水素チャージ条件においても相対破断伸びが1で脆化を生じていない。これは水素脆化の特徴の一つである,高強度材ほど水素脆化感受性が高くなることが影響していると考えられる。また,こちらの破面形態も,水素脆化の度合いに伴って遷移した。特に,TS1101MPa材では相対破断ひずみが0.9以上では延性破面,0.5~0.9では擬へき開破面,0.5以下では粒界破面となり,脆化の度合いによって,破面形態は一義的に定まる結果となった。

Fig. 3.

Dependence of hydrogen embrittlement on cross head speed in TS 1101 MPa.

3・3 空孔性欠陥生成のひずみ速度依存性

各引張試験後の試験片からいくつかの条件を選定して陽電子消滅測定を行った。平均陽電子寿命の測定結果をFig.4に示す。いずれも平滑丸棒試験片のため,横軸はひずみ速度で整理した。なお,ひずみ速度はクロスヘッド変位速度を試験片の平行部長さで除して求めた。大気環境下における水素濃度0 ppmでの引張試験では,ひずみ速度が空孔性欠陥に及ぼす影響は無視できるほど小さいと考えられたため,一水準のみを測定,他のひずみ速度では同等と仮定し破線で表記した。TS1441MPa材では,ひずみ速度の低下と共に,平均陽電子寿命は低下した。一方,TS1101MPa材ではひずみ速度の変化によらず平均陽電子寿命は概ね一定値を示し,同じ傾向を示さなかった。また,TS1441MPa材では水素濃度の影響を検討するため,ひずみ速度10-2 s-1の条件において,各水素濃度における引張試験後に陽電子消滅測定を実施したが,0.3 ppmの平均陽電子寿命のみ高い値を示し,0.6 ppmと1.7 ppmでは0 ppmの値と同等であった。以上から,ひずみ速度,水素量,ならびに平均陽電子寿命の関係を一義的に解釈することは難しく,強い相関はないと推定される。

Fig. 4.

Average positron lifetime of flat specimens after tensile testing.

陽電子寿命スペクトルを多成分解析し,転位密度と空孔密度を算出した。転位密度をFig.5,空孔密度をFig.6に示す。空孔密度は,空孔性欠陥を単空孔として換算して求めた。いずれも横軸をひずみ速度で整理した。転位密度は,いずれの供試材,条件においても,変化は小さく,概ね一定値を示した。空孔密度は,TS1441MPa材では平均陽電子寿命と同様,ひずみ速度の低下に伴い減少する傾向を示す一方,TS1101MPa材では概ね一定値を示し,変化は小さかった。また,TS1441MPa材のひずみ速度10-2 s-1においては,水素濃度の増加により空孔密度は減少した。一般的には,空孔性欠陥の増加に伴い水素脆化は顕著になると考えられるが,本結果では逆の傾向を示したことになる。

Fig. 5.

Dislocation density of flat specimens after tensile testing.

Fig. 6.

Mono-vacancy equivalent vacancy density of flat specimens after tensile testing.

多成分解析によって得られた空孔クラスタの陽電子寿命をFig.7に示す。これまで同様,横軸はひずみ速度で整理した。空孔クラスタの陽電子寿命は,いずれの供試材においても,ひずみ速度の低下に伴い増加する傾向にあった。また,TS1441MPa材のひずみ速度10-2 s-1においては,水素濃度の増加に伴い,空孔クラスタの陽電子寿命は増加した。水素濃度の増加は水素脆化を顕著にすることから,空孔のクラスタリングと水素脆化には密接な関係があると考えられた。

Fig. 7.

Positron lifetime of vacancy cluster of flat specimens after tensile testing.

4. 考察

試験片形状の違いにより水素脆化を生じる引張速度に違いが生じた理由,水素脆化がひずみ速度依存性を持つ理由について,以下のように考察した。

4・1 水素脆化のひずみ速度依存性に及ぼす試験片形状の影響

Fig.1に示したように,平滑丸棒試験片と切欠き付丸棒試験片では,水素脆化の遷移領域に,クロスヘッド変位速度で一桁の差があった。この要因について考察し,水素脆化のメカニズムに違いがあるのか検討した。二つの試験片形状による評価の違いは,主に二点である。一点目は破断部のひずみ速度が異なること,二点目は水素脆化の評価に相対破断伸びと相対破断応力と違う指標を用いていることである。これら二点の違いを解消するため,同じ評価指標での比較が可能となるように検討した。すなわち,切欠き付丸棒試験片の破断部となる切欠き底のひずみ速度と相対破断ひずみを,有限要素法を用いた弾塑性解析により見積もった。解析モデルは,Marcを用いて2次元の軸対称モデルとし,応力-ひずみの関係については,TSまでを引張試験の結果から,TS以降をn乗硬化測により推定した。まず,引張荷重を切欠き底の断面積で除して求めた公称応力と,各公称応力を負荷した状態における切欠き底の相当塑性ひずみの関係を導出した。解析結果をFig.8に示す。切欠き底の降伏点に相当する応力が負荷された場合の公称応力は603 MPa,実際の公称破断応力は1880 MPaであった。なお,引張破断延性限界時の切欠き底の最大主応力は2197 MPaであった。

Fig. 8.

Relationship between nominal stress and equivalent plastic strain at notched bottom.

公称応力が600~1800 MPaにおける相当塑性ひずみとの関係は,6次関数が決定係数R2=0.99で良い対応を示した。本関数を用いて,各クロスヘッド変位速度における切欠き底のひずみ速度を算出した。クロスヘッド速度1.5 mm/minの結果を例に,算出手順を示す。Fig.9に示すように引張試験時間と公称応力の関係から,公称応力を6次関数で相当塑性ひずみに変換し引張試験時間と相当塑性ひずみの関係を求めた。その後,毎秒の相当塑性ひずみの変化量を求めひずみ速度とした。得られたひずみ速度とFig.8から求まる公称応力とひずみ速度の関係をFig.10に示す。各公称応力でひずみ速度が変化した。これは,切欠き付丸棒引張試験片を用いてクロスヘッド変位速度一定の引張試験を実施した場合,切欠き底のひずみ速度は一定ではなく,負荷応力の増加に伴い,ひずみ速度も増加することを意味している。切欠き底のひずみ速度は一定とならないことが明らかになったが,各クロスヘッド速度における切欠き底のひずみ速度の代表値を決定するため,平均値を求め,平均ひずみ速度として採用した。最後に,各引張試験によって得られた公称破断応力にFig.8の結果を用いて切欠き底の破断ひずみに変換し,得られた破断ひずみを大気環境下での引張試験における破断ひずみで除して相対破断ひずみに変換した。以上の手順で得られた切欠き底におけるひずみ速度と相対破断ひずみの関係をFig.11に示す。平滑丸棒材の結果も併せて記す。これらの関係は良い相関を示し,水素脆化の遷移領域も概ね一致した。以上から,同じ物理量で比較すると,平滑丸棒試験片と切欠き丸棒試験片では同様の水素脆化のひずみ速度依存性を示すと考えられた。よって,試験片形状の違いに依らず,水素脆化のひずみ速度依存性は同じ律速過程に基づいて生じたと推定された。ただし,脆化の度合いについてはその限りではない可能性がある。低ひずみ速度域の相対破断ひずみにおいては,切欠き丸棒試験片の方が小さく,平滑丸棒試験片の半分程度である。この差は,試験片形状による応力三軸度の違いにより,応力誘起拡散による水素集積の差が影響したとも考えられる。なお,今回は切欠き底最表面のひずみ速度で解析したが,実際の起点は最表面ではなく,わずかに内部である。これは,最表層よりも少し内部で最大主応力が最大となるためとされている24)。最大主応力が最も大きくなる切欠き底表面からの距離,すなわち破壊の起点部は負荷する公称応力で変化するため,暫定的に最表層での解析とした。一方,相当塑性ひずみは最表層が最も大きく,内部に向かうにつれて小さくなるため,定性的には,実際の破壊起点部のひずみ速度はわずかに小さくなると推定されるが,今回の解析に大きな影響を与えるものではないと考えられる。

Fig. 9.

Nominal stress and equivalent plastic strain at notched bottom during tensile test at 1.5 mm/min cross head speed.

Fig. 10.

Strain rate at notched bottom at 1.5 mm/min cross head speed.

Fig. 11.

Evaluation of hydrogen embrittlement by relative fracture strain.

以降は,水素脆化のひずみ速度依存性が生じる律速過程についての考察を述べる。

4・2 ひずみ速度依存性の律速過程

4・2・1 ひずみ速度依存性への空孔性欠陥の関与

水素脆化のひずみ速度依存性の律速過程への空孔性欠陥の影響を考える。Fig.6, 7では,空孔密度と空孔クラスタの陽電子寿命をひずみ速度で整理したが統一的な解釈は難しかった。ここで,Omura10)やSugita11,15)の検討では,格子内欠陥の形成はひずみ量の影響を強く受け,これらの値がひずみ量と良い相関を持つことが示されている。そこで,Fig.12に空孔密度,Fig.13に空孔クラスタの陽電子寿命を,横軸をひずみ量として再整理した。このとき,陽電子消滅試験に用いた試料は全て破断材のため,ひずみ量は破断ひずみと等しい。よって,ひずみ量は水素脆化の度合いを表す指標と捉えてもよく,ひずみ量が小さいほど水素脆化が顕著であることを意味する。空孔密度は,鋼種や試験条件に依らず,ひずみ量の増加に伴い増加する傾向にある。よって,空孔密度は,水素脆化挙動ではなく,ひずみ量に一義的に依存すると考えられる。一方,空孔クラスタの陽電子寿命(クラスターサイズが大きいほど高くなり最大値500 psに漸近する)が高いほど水素脆化は顕著であり,水素脆化挙動と空孔クラスタサイズが良い相関を示している。また,水素脆化感受性の高いTS1411MPaでは,TS1101MPa材と比較して,空孔クラスタの陽電子寿命が大きい傾向にあることも,空孔のクラスタリングが水素脆化に密接な関係があることを支持する。さらに,前述した平滑丸棒と切欠き付丸棒の比較では,水素脆化のひずみ速度依存性は良い相関を示した一方で,破面形態は異なった。すなわち,律速過程は同様であるものの,破壊様式は異なるということである。これは,水素脆化のひずみ速度依存性の要因が,破面観察で捉えられるようなサイズの現象ではなく,よりミクロな現象であることを示唆しており,空孔性欠陥の関与を支持するものと考えられる。

Fig. 12.

Relationship between strain and vacancy density.

Fig. 13.

Relationship between strain and Positron lifetime of vacancy cluster.

以上から,水素脆化のひずみ速度依存性は,空孔のクラスタリング過程の律速に依るものと予想された。すなわち,空孔が生成し,拡散,凝集するために必要な時間がひずみ速度依存性を生じさせ,水素濃度の増加は空孔のクラスタリング過程を加速させると考えられた。

4・2・2 転位と水素の移動速度の比較

空孔クラスタリング以外の水素脆化のひずみ速度依存性の律速過程についても考えてみる。別の律速要因として,転位の移動と水素の拡散の関係が考えられる。これは,水素拡散が転位の移動速度に追従する低ひずみ速度では水素脆化が生じ,逆に追従できない高ひずみ速度では脆化に至らないという考えを基にしている。そこで,水素と転位の速度を見積もり,水素脆化を生じるひずみ速度と比較することで検証を試みた。ここでは,それぞれの単位から,速度での比較が難解となるため,一次元における1秒当たりの移動距離という指標でそれぞれを比較することとした。一次元における1秒当たりの転位の移動距離(xdis)と,1秒当たりの水素の拡散距離(xdiff)をそれぞれ式(3)式(4)と仮定した。転位の移動距離はひずみ速度に依存すると考えられ,粘性運動を仮定し文献25)の式を採用した。転位密度にはWilliamson-hall法で求めたTable 2に示す試験前の無ひずみ状態の値を用いた。一方,水素の拡散距離は,ひずみ速度には依存しないと考えられるため,その単位から平方根をとり,ある経過時間t0から,その1秒後までの一次元の移動距離と定義した。単純に拡散係数の平方根としなかったのは,経過時間t0の値によって,拡散係数が変化するためである。これは,拡散係数は1秒間における面積の広がりを定義したものであり,一次元で考えた場合,その広がりは時間と共に小さくなるためである。そのためt0には,水素の拡散距離が最大となる試験開始直後の0 sと,最小となる引張試験時間が最も長くなるひずみ速度10-6 s-1の場合の破断直前である45500 sの二つを採用した。なお,水素拡散係数はKushida26)の結果を参考とし,TS1441MPa材では5×10-7 cm2/sをTS1101MPa材では1×10-6 cm2/sを用いた。

  
xdis(Δt=1)=x1x0=γ1γ0ρb=γ˙{(t0+1)t0}ρb=γ˙ρb(3)

ここで,γ̇はせん断ひずみ速度(s-1),t0は引張試験中の経過時間(s),ρは転位密度(m/m3),bはバーガースベクトル(m)である。bは2.48×10-10 mとした。

  
xdiff(Δt=1)=x1x0=DH×(t0+1)DH×t0(4)

ここで,DHは水素拡散係数(m2/s),t0は引張試験中の経過時間(s)である。

水素濃度0.3 ppmにおけるTS1441MPa材でのxdisとxdiffの比較をFig.14示す。t0の長時間化により,xdiffは減少するが,少なくとも10-2 s-1以下のひずみ速度では,xdisよりxdiffの方が大きく,水素拡散が転位の移動に追従できる計算となった。一方,Fig.14に併記したように,実際に水素脆化を生じたひずみ速度は10-3 s-1以下のひずみ速度である。すなわち,水素の拡散が転位の移動に追従するにも関わらず,水素脆化を生じない領域が存在することになる。他の条件についても同様の検討を行ったが,水素濃度0.6 ppmと1.7 ppmにおけるTS1441MPa材の条件以外は,いずれも同様の結果となった。

Fig. 14.

Comparison of hydrogen diffusion and dislocation movement.

これらの結果は,水素脆化のひずみ速度依存性の律速過程が,転位と水素の移動速度の関係だけでは説明できない可能性を示唆し,他の要因,つまり空孔クラスタリングの関与を支持するものと考えられた。なお,緒言で述べたように,水素脆化のひずみ速度依存性の律速過程は試験片内部での応力誘起拡散であるという考え方もある。本研究の結果はこの考えを否定するものではない。空孔のクラスタ化は水素濃度の増加に伴い加速することから,応力誘起拡散に伴い破壊起点部の水素濃度が増加すれば,空孔のクラスタ化も早まると考えられるためである。さらなる理解のためには,より詳細な水素濃度が空孔性欠陥に及ぼす影響の調査と,応力集中部の局所的な空孔性欠陥のクラスタリング挙動を明らかにする必要がある。

5. 結言

焼入焼戻しマルテンサイト鋼を用いて,水素添加条件と引張速度を変化させ,水素チャージ下の引張試験を行い,陽電子消滅試験により各種格子欠陥生成を調査した。得られた知見は以下である。

(1)試験片形状によらず,水素脆化のひずみ速度依存性は生じ,引張速度の低下,水素濃度の増加に伴い,水素脆化は顕著になった。また,その破面も,脆化が乏しい条件では延性破面,脆化が顕著な条件では粒界破面と,脆化の度合いによって遷移した。

(2)試験片形状の違いによって水素脆化を生じるクロスヘッド変位速度に差が存在し,その遷移領域は切欠き付丸棒試験片の方が低クロスヘッド変位速度であった。ただし,切欠き底のひずみ速度を算出し,平滑丸棒と同じようにひずみ速度,相対破断ひずみで比較すると概ね一致する結果となった。

(3)空孔性欠陥とひずみ速度の関係は,統一的な解釈は難しかった。一方,空孔性欠陥とひずみ量は良い相関を示した。空孔密度はひずみ量に一義的に依存し,ひずみ量の増加と共に増大し,水素脆化挙動とは対応しなかった。一方,空孔クラスタサイズはひずみ量の減少,すなわち,水素脆化の顕著になるに伴い増大し,水素脆化挙動と一致した。

文献
 
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