鉄と鋼
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論文
Mo, V複合添加焼戻しマルテンサイト鋼の炭化物析出と水素トラップ挙動
亀谷 美百合 谷口 俊介小林 由起子松井 直樹山﨑 真吾
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2023 年 109 巻 4 号 p. 301-310

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Abstract

To investigate the effect of the combined addition of V to Mo-added steel on the hydrogen trapping behavior, 0.1C-2Mn-1.6Mo mass% steel (Steel A) and 0.1C-2Mn-1.6Mo-0.2V mass% steel (Steel B) were prepared, quenched, and tempered at 873 K for 0.5 to 10 hours. The thermal desorption analysis of hydrogen-charged specimens confirmed that Steel B showed a higher hydrogen trapping capacity than Steel A. According to thermodynamic equilibrium calculations, it was predicted that only M2C precipitated in Steel A and B after tempering at 873 K. However, according to TEM observation of specimens tempered for 4 hours, coarse M2C and fine MC precipitated in Steel A, whereas only fine MC precipitated in Steel B. Based on the three-dimensional atom probe analysis, MC of both Steel A and B show a composition close to MC0.5, in which Mo is the primary element in metal sites. It was found that the carbon-site vacancy (C vacancy) ratio of MC in the present work is higher than that of V4C3 (VC0.75). The hydrogen trapping capacity showed a good correlation with the product of the area of interface of MC and the C vacancy ratio in MC. The reason of the higher hydrogen trapping capacity of Steel B than that of Steel A is considered to be below; 1) The combined addition of V suppressed the precipitation of M2C and increased the amount of MC. 2) C vacancies in MC which act as hydrogen trapping sites increased by the partitioning of Mo into MC.

1. 緒言

鉄鋼材料の高強度化を進める上で,水素脆化が課題となる。特に,引張強さが1200 MPa以上の高強度鋼では,水素脆化感受性が高まることが知られている1)。一般的に,マルテンサイト組織を有する調質ボルトにおいて,水素脆化起因の遅れ破壊は,旧オーステナイト粒界でのき裂発生・伝播のプロセスで進行する2)。そのため,水素脆化起因の破壊の抑制には,旧オーステナイト粒界における割れの抑制が重要になる。調質ボルトにおいては,粒界強化の目的で粒界偏析元素であるP, Sの低減,粒界セメンタイトの抑制3),Mo-V複合添加鋼の高温焼戻しによる析出炭化物を活用した組織改善4)等の材料設計が行われている。873 K程度の高温焼戻しで析出するB1型(金属原子がFCC構造)の結晶構造を有するMC炭化物(Mは金属元素を意味する。以下MCとする)は,高い水素トラップ能を示すことが知られている5)。また,MCは,旧オーステナイト粒内に多数析出する6)こと,粒界と比較し水素との結合力が強い7)ことが知られている。

合金炭化物による水素トラップ挙動については,種々の報告例がある。Kosakaら8,9)は,MC炭化物であるNbC,TiC,VCが高い水素トラップ能を示すことを報告し,水素トラップの主要因は整合ひずみ場であると推定している。Yamasaki and Bhadeshia10)は,VとMoの複合添加鋼を用い,MCの金属原子サイト(Mサイト)中のMo分率増加にともない,炭化物1個当たりの水素トラップ量が増加することを明らかにしている。また,Takahashiら1113)は,三次元アトムプローブを用い,重水素チャージしたTiCおよびVC析出鋼を観察し,いずれも板状のMCの板面上に水素がトラップされること,V炭化物の析出形態がVとCを1:1の比で含有するVCよりも,炭素原子サイトに炭素原子が存在しないC空孔を有するV4C3組成の方が高い水素トラップ能を示すことを報告し,水素のトラップサイトは母相と炭化物界面近傍のC空孔であると推定している13,14)

このように,合金炭化物による水素トラップ挙動は,主にV,Ti,Nb等を主体としたMCについて種々報告されており,Mo添加鋼をベースとした検討例は少ない。Moは,金属原子がHCP構造を有するM2C炭化物(Mは金属元素を意味する。以下M2Cとする)であるMo2Cとして析出し,二次硬化を示す15)ことが報告されている。一方で,V鋼に対して添加することでMCにも分配される10)ことが知られている。

本研究では,熱力学平衡計算結果からMo2C,(Mo,V)2Cが析出すると予想されるモデル鋼を作製し,Mo添加鋼に対するVの複合添加が,炭化物の析出挙動と水素トラップ挙動に及ぼす影響を調査した。併せて,炭化物による水素トラップの支配因子を検討した。

2. 実験方法

2・1 供試材

供試材の化学組成をTable 1に示す。0.1C-2.0Mn(mass %)をベースに,0.1 mass %Cに対してMoがMo2Cとして析出するのに必要な当量を単独添加したSteel A,Steel Aに,Thermo-Calcによる熱力学平衡計算でM2Cのみが析出すると予想される範囲でVを添加したSteel Bの2鋼種を供試材とした。なお,C空孔の存在により,MC,およびM2C中の金属成分MとCの比率は必ずしも1:1,および2:1ではないが,本論文では,B1型をMC,HCP型をM2Cと称する。

Table 1. Chemical compositions of test steels (mass%).
CSiMnPSMoVAlNFe
Steel A0.0960.0051.99<0.002<0.0021.60<0.0020.0005Bal.
Steel B0.0960.0041.97<0.002<0.0021.600.19<0.0020.0007Bal.

25 kg真空溶解炉を用いて鋼塊を作製後,熱間鍛造で直径20 mmの丸棒を作製した。その後,直径20 mmの丸棒を,完全溶体化のため1373 Kで1時間加熱後に油中に焼入れ,873 Kで0.5~10時間焼戻しを施した。Thermo-Calc(Database TCFE8,母相としてBCC,析出相としてセメンタイト,FCC,HCPを選択)で計算した873 Kでの平衡析出物と析出物の化学組成をTable 2に示す。焼入れ焼戻し後の供試材から,水素トラップ量調査用に直径7 mmの丸棒試験片を採取した。

Table 2. Crystal structure and chemical compositions of equilibrium precipitates for test steels at 873 K calculated by Thermo-Calc.
Crystal structure Chemical composition (at.%)
MoVMnC
Steel AHCP55.910.133.3
Steel BHCP48.913.73.833.3

2・2 水素分析

水素分析は,ガスクロマトグラフを検出系とした昇温脱離分析(Thermal desorption analysis, TDA)で行った。直径7 mmの丸棒試験片に,3% NaCl+3 g・l-1 NH4SCN水溶液中で,電流密度0.2 mA・cm-2で鋼材へ72時間陰極水素チャージした後,合金炭化物にトラップされていない拡散性水素の放出のため,室温で48時間放置した。その後,鋼中に残存した水素を室温から773 Kまで100 K・h-1の昇温速度にてTDAで測定し,得られた水素量を水素トラップ量と定義した。なお,事前検討で,水素チャージ時間を48~120時間の範囲で変化させ水素吸蔵量を調査し,72時間の水素チャージで吸蔵水素量が飽和することを確認している。

2・3 透過型電子顕微鏡観察

炭化物の形状や分散状況等の析出形態,結晶構造,母相フェライトとの界面構造を明らかにするため,透過型電子顕微鏡(TEM)観察を行った。まず,焼戻し時間の影響を把握するため,1時間,および10時間焼戻し材から,テヌポール電解研磨(Struers製)にてTEM観察用試料を作製し,加速電圧200 kVのFE-TEM(日本電子製 JEM-2100F)にて観察した。

次に,4時間焼戻し材について,加速電圧300 kVの収差補正TEM(FEI社製 Titan3 60-300)を用いて,走査透過電子顕微鏡法(STEM)により原子分解能観察を行った。収差補正TEM観察用試料は,予め電子ビーム後方散乱回折法(EBSD)にてBCC-Feの結晶方位を測定し,〈001〉α晶帯軸入射の観察が可能なTEM薄膜試料を集束イオンビーム(FIB)加工装置を用いて作製した。作製したTEM薄膜試料は加速電圧1 kVのアルゴンイオン研磨によりFIB照射ダメージ層の除去と試料厚さの調整を行った。STEM観察においては,検出角19 - 80 mradとする低角環状暗視野(LAADF)STEM像,検出角80 - 200 mradとする高角環状暗視野(HAADF)STEM像を撮影した。析出物の構成元素はエネルギー分散型X線分光法(EDS)で定性分析を行った。TEM薄膜の試料厚さはEELS log-ratio法で測定した。得られたSTEM像から,Gatan社のソフトウェア Digital Micrographを用いて炭化物の形状を測定した。本報では,針状のM2C炭化物の成長方向のサイズを長さ,成長方向に直交するサイズを厚さと定義する。板状のMC炭化物では板厚方向のサイズを厚さ,板面のサイズを長さと定義する。MC炭化物は,MCの3つの成長方向のうち2つの成長方向のみ観察可能であることから,数密度は観察されないバリアントを含めるため,3/2倍して補正した。MC炭化物の界面面積は,板面のみで算出した。

2・4 三次元アトムプローブ測定

炭化物の化学組成を解析するため,1時間,および4時間焼戻し材の三次元アトムプローブ(3DAP: Three-dimensional atom probe)測定を実施した。3DAP測定用の針試料は,機械研磨および加工により約0.3 mm×0.3 mm×1 mmの棒状片とした後,25%過塩素酸―酢酸溶液を用いた電解研磨の粗研磨の後,2%過塩素酸―2-ブトキシエタノール溶液を用いた二段階のマイクロ電解研磨法16)により作製した。測定はLEAP4000XHR(CAMECAインスツルメンツ製)を用い,レーザーモードではレーザー強度30 pJ,試料温度50 Kとし,電圧モードではパルス電圧比20-25%,試料温度65 Kの測定条件とした。得られた測定データに対して,ソフトウェアIVAS3.6(CAMECAインスツルメンツ製)を用い,イオンの検出効率を0.38として原子マップの再構築を行った。マススペクトルにおいて,24 DaのピークにはC2+イオンに加えてC42+イオンが含まれ,24.5 Daピークを使用してC42+イオンがどれほど含まれるかを見積もることもできる17)が,微小なピークを使用するため統計誤差が大きくなり,鋼種間の違いの相対比較がしにくくなるため,ここでは24 DaのピークをC2としてカウントした。48 DaにおいてはC4+とMo2+イオンのオーバーラップの可能性があるが,Moの同位体比から見積もるとほとんどがMo2+イオンと考えられたため,Moとした。合金炭化物内の構成原子組成比を求めるため,原子マップから炭化物の領域を特定する手法として,原子マップ上の等原子濃度面を描くIsosurface法18)を用いた。ボクセルの一辺を1.5 nmとした。原子マップとの比較により,1時間焼戻し材ではIsosurface法によりC, Mo, V原子の合計濃度を4at%,4時間焼戻し材では6at%とした等原子濃度面を描き,それより濃度の高い領域を炭化物と判断した。

2・5 硬さ試験

焼入れ焼戻し後の丸棒を用いて,硬さ試験をおこなった。硬さは,ビッカース硬さ試験機を用い,試験荷重300 gfでC断面の中心部を5点測定し,その平均値を算出した。

3. 実験結果

3・1 水素分析

Fig.1に供試材の焼入れまま材,および1, 4, 10時間焼戻し材の水素放出曲線を示す。水素放出ピーク温度は焼戻し条件によって異なり,焼戻し時間の長時間化により,Steel Aでは水素放出ピークが低温側に移動,Steel Bでは水素放出ピークが高温側に移動する傾向が確認された。Fig.2に焼戻し時間と水素トラップ量の関係を示す。873 Kでの焼戻し時間が0.5~10時間の範囲において,Steel Aでは0.5時間焼戻しで水素トラップ量が最大となり,焼戻し時間の長時間化で水素トラップ量が減少した。Steel Bでは焼戻し時間の長時間化で水素トラップ量が増加する傾向が確認された。Steel AとSteel Bの水素トラップ量を同じ焼戻し条件で比較すると,Steel Bの水素トラップ量はSteel Aの2.3~10倍であった。

Fig. 1.

Hydrogen evolution rate profiles by TDA of test steels as-quenched and tempered for 1 to 10 hours.

Fig. 2.

Relationship between the trapped hydrogen concentration of test steels and tempering time at 873 K.

3・2 炭化物の析出形態

炭化物析出に及ぼす焼戻し時間の影響を把握するため,1時間,および10時間焼戻し材でFE-TEM観察を行った。Steel Aの低倍率のTEM像をFig.3に,高倍率のTEM像をFig.4に示す。Fig.3より,1時間焼戻し材では粒界あるいはラス界面等に数10~数100 nm程度のセメンタイトの生成が確認された。一方,10時間焼戻し後にはセメンタイトはほとんど確認されなかった。Fig.4より,1時間,および10時間焼戻し材ともにM2CとMCの析出が確認された。焼戻しの長時間化にともない,合金炭化物の析出が進行し,セメンタイトは溶解したものと推定される。熱力学計算によれば,Steel Aの平衡炭化物はM2Cのみであり,熱力学的には不安定なMCが遷移相として析出した可能性が考えられる。M2Cは焼戻し時間の長時間化により20 nmから最大100 nm程度への粗大化が認められたが,MCでは顕著なサイズ変化は認められなかった。Steel Bでは,1時間焼戻し材ではセメンタイトとMCが析出しており,10時間焼戻し後にはセメンタイトは消滅し,MCのみが存在した。

Fig. 3.

TEM micrographs of Steel A tempered at 873 K for 1 and 10 hours.

Fig. 4.

TEM micrographs of Steel A tempered at 873 K for 1 and 10 hours observed with an incident direction along [001]Fe. (a) 1 hour M2C (b) 1 hour MC (c) 10 hours M2C (d) 10 hours MC

これら炭化物の析出状況の詳細を把握するため,収差補正TEM観察を行った。Steel Aの4時間焼戻し材の観察例をFig.5,Steel Bの4時間焼戻し材の観察例をFig.6に示す。Fig.5(a)は,BCC-Fe[001]晶帯軸入射で観察したLAADF-STEM像である。①厚さ約1 nm,長さが3~10 nm程度で(010)α,(100)αに沿って析出した析出物,②[010]に伸びた長さ数10 nmの析出物,③数nm×数nmの長方形の析出物,の3つの形態の析出物が存在した。Fig.5(b)に,EDS元素分析結果を示す。Fig.5(a)で観察された3種の析出物には,いずれもMoが濃化していることが確認された。Fig.5(c)に,①の析出物と析出物周辺母相のHAADF-STEM像を示す。Fig.5(c)の高速フーリエ変換(FFT)パターンであるFig.5(d)から,①の析出物はBCC-FeとBaker-Nuttingの方位関係19)を持つB1構造のMCと同定され,VCと同様の構造を有することが確認された。②の析出物は成長方向が[010]αと平行な M2C,③の析出物は成長方向が[001]αと平行な M2Cであることが確認された。また,詳細は別報に記すが,M2Cと母相との界面上の成長方向に平行に,1 nm程度の間隔で多数のmisfit転位が確認され,半整合界面であることがわかった。

Fig. 5.

STEM-EDS micrographs of Steel A tempered at 873 K for 4 hours observed with an incident direction along [001]Fe. (a) LAADF-STEM image (b) Intensity map of Mo Lα line (c) HAADF-STEM image (d) Diffraction Pattern of (c)

Fig. 6.

STEM-EDS micrographs of Steel B tempered at 873 K for 4 hours observed with an incident direction along [001]Fe. (a) LAADF-STEM image (b) Intensity map of Mo Lα line (c) Intensity map of V Kα line (d) HAADF-STEM image (e) Diffraction Pattern of (d)

Fig.6(a)は,BCC-Fe[001]晶帯軸入射で観察したLAADF-STEM像である。厚さ約1 nm,長さが3~10 nm程度で(010)α,(100)αに沿って析出した析出物が確認された。Fig.6(b)(c)に,EDS元素分析結果を示す。Fig.6(a)で観察された析出物には,MoとVが濃化していることが確認された。Fig.6(d)に,析出物と析出物周辺母相のHAADF-STEM像を示す。Fig.6(d)のFFTパターンであるFig.6(e)から,Steel Bの4時間焼戻し材の析出物は,BCC-FeとBaker-Nuttingの方位関係19)を持つB1構造のMCと同定された。MCの板面は母相と整合界面であり,板の端面のみにmisfit転位が存在することが確認された。

3・3 炭化物のサイズ,数密度

4時間焼戻し材の収差補正TEM観察結果から,MCと M2Cに着目し,炭化物サイズ(長さ)と数密度を定量的に調査した。その結果をFig.7に示す。Fig.7(a)から,MCでは鋼種間の長さの差はほとんど認められなかった。M2Cは,MCと比較し約7~9倍の長さであった。Fig.7(b)から,Moに加えてVを微量添加することで,M2Cが析出しなくなること,Mo単独添加の場合と比較しMCの数密度が増加することがわかる。

Fig. 7.

The length and number density of carbides of Steel A and Steel B tempered at 873 K for 4 hours.

3・4 炭化物の化学組成

アトムプローブにて析出炭化物の組成を調査した。一例としてFig.8にSteel Bの4時間焼戻し材の3次元元素マップ,およびIsosurface法によりC, Mo, V原子の合計濃度6at%の界面を描いたものを示す。C,Mo,Vが同じ位置で濃化しており,収差補正TEM観察結果との比較から,これらはMC炭化物と考えられる。アトムプローブ測定において合金炭化物が電界蒸発し難い20)性質を持つことに由来するLocal magnification effectや,異なる元素が電界蒸発する際の飛行軌道の違いに由来するTrajectory aberration 等の収差の影響により,原子マップ上では炭化物界面近傍では炭化物と母相の原子が混ざり合ってしまい,炭化物構成原子は実際よりも外側まで広がって見える21)。C, Mo, V原子の合計濃度4at%や6at%の等濃度面で特定した炭化物領域には母相の原子が多数含まれるため,FeやMnについては,析出物中の濃度を正しく見積もることができない。そこで,MCの構成原子組成比C/M見積もりの金属成分Mには,析出物への濃化傾向が強かったMoおよび Vのみを含めた。

Fig. 8.

(a) 3D elemental maps and (b) Isosurfaces of C + Mo + V = 6 at% of Steel B tempered at 873 K for 4 hours analyzed by 3DAP.

4時間焼戻し材における,MCの構成元素比解析結果をFig.9に示す。1つのデータは,1回の3DAP測定視野に含まれる析出物の平均値を意味する。Steel Aに対してSteel Bでは,MC中の炭素の比率はほとんど変わらず,Moの一部がVに置き換わっている。Steel BのMC中のMサイトのMo/V比は約2.8であり,Moが主体であった。1時間焼戻し材と4時間焼戻し材のMCのC/M比をFig.10に示す。Fig.10には既報22)のV単独添加鋼(V-added steel)の結果も併せて示す。MはMoとVの合計である。ここで,MCの結晶構造(B1型)は本来C/M=1であるが,MCのC/Mが1未満であり,炭素原子が本来存在すべきサイトに無いことを,本論文ではC空孔と称する。Steel AおよびSteel BのMCは,C/Mが0.5近傍であり,Cサイトの半分近くがC空孔であると考えられる。これに対し,金属サイトがVであるMCのC/Mは0.75近傍で,V4C3に近い組成13,22)であり,Moを多量に含有するMCは高いC空孔率を示した。1~4時間焼戻しの範囲においては,焼戻し時間長時間化による炭化物組成,C空孔率の顕著な変化は認められなかった。

Fig. 9.

Compositional element ratios of MC carbides in Steel A and Steel B tempered at 873 K for 4 hours (n=3).

Fig. 10.

Atomic ratios of carbon and metal in MC carbides (C/M) in Steel A, B and V-added steel18) tempered at 873 K.

3・5 ビッカース硬さ

Fig.11に焼戻し時間とビッカース硬さの関係を示す。Steel Aと比較しSteel Bの硬さが高く,焼戻し時間の長時間化でSteel Aでは硬さが低下,Steel Bでは硬さがほぼ一定の値を示した。鋼種間の硬さの大小,および焼戻し時間の長時間化にともなう硬さ変化は,水素トラップ量変化と同様の傾向を示した。Steel Aと比較しSteel Bの硬さが高かった理由は,Steel Aでは粗大なM2Cが析出し微細なMCの数密度が少なくなったためと考えられる。これは焼戻し時間が長時間化するほどSteel AとSteel Bの硬度差が大きくなった結果からも示唆される。

Fig. 11.

Relationship between Vickers hardness of test steels and tempering time at 873 K.

4. 考察

4・1 炭化物の種類

Steel Aでは,平衡計算で析出が予想されたM2Cの他にMCも析出すること,焼戻し時間の長時間化に伴いM2Cが粗大化することが確認された。Steel Bでは,平衡計算での予想に反しMCのみが析出した。MCは焼戻し時間の長時間化による顕著なサイズ変化は認められなかった。Steel AにてMCが析出した一因として,界面エネルギーによるGibbsの自由エネルギー増加(Gibbs-Thomson効果)が影響した可能性が考えられる。Thermo-Calcにて,Steel Aの873 Kにおける炭化物種がM2C(HCP)のみ,もしくはMC(FCC)のみとした計算によれば,M2C,MCのGibbsエネルギー(炭化物構成元素の元素分率と化学ポテンシャルの積の総和)は各々-45.3 kJ・mol-1,-35.5 kJ・mol-1となる。微小な炭化物の成長における界面エネルギーの影響を見積もるため,半球状の端部を有する棒状析出物と,半円筒状の端部を有する板状析出物を仮定すると,Gibbs-Thomson効果によるGibbsエネルギー変化は下式で表される23)

  
dG=υσrVmP(1)

ここで,υは定数(板状析出物の場合1,棒状析出物の場合2),σは界面エネルギー,rは端部の曲率半径,Vmは析出物のモル体積,を意味する。VmをVCおよびMo2Cの格子定数の文献値(VCはa=0.42 nm24),Mo2Cはa=0.30 nm,c=0.472 nm25))を用いて求め,TEM観察の結果から,MC,M2Cいずれも端部は半整合界面(界面エネルギー 0.5 J・m-2 26),r=0.5 nmとすると,M2CとMCの析出物長さが5 nm,アスペクト比5の場合,Gibbs-Thomson効果による自由エネルギー上昇は,M2Cで約17 kJ・mol-1,MCで約5 kJ・mol-1と計算される。即ち,平衡状態でのGibbsエネルギー差を補い,MCがM2Cと競合する可能性が高くなると考えられる。

Steel Bにおいては,VによってMCが安定化され,M2C,MCのGibbsエネルギーは各々-54.8 kJ・mol-1,-52.2 kJ・mol-1と差が小さくなる。Gibbs-Thomson効果による自由エネルギー上昇は上記とほぼ同じと考えられることから,MCが相対的により安定となり,M2Cの析出・成長が抑制された可能性が高い。

4・2 MCの組成

既述したように,MCにMoが濃化することで,C空孔率が従来報告されている値より高くなることを示した。この理由については,原子半径の大きいMo原子による母相とのmisfitの増加が,C空孔の導入で緩和される可能性が考えられる。第一原理計算による検討では,MCのうち,VC,TiC,NbCはC空孔が存在しないMC構造が安定である一方,MoCは,Cサイトのうち50%が空孔であるMoC0.5構造が最も安定であることが報告されている27,28)。Jangら28)は,MoCのCサイトに空孔を導入し,MoC0.5構造とした場合に格子定数の計算値が小さくなる結果から,C空孔の存在により母相とのmisfitが緩和されると推定している。また,TiCのTiの一部をMoに置換し複合化することで,C空孔がmisfitを緩和することを報告している。これらの報告例から,Steel A,Steel BでC空孔率が高かったのはMoが主体であるMC特有の現象と考えられる。

Mo,V複合添加によるMCの組成については,3DAPで測定したSteel BのMC中のMo/V比は約2.8であったが,この値は平衡計算値と合致しない。Thermo-Calcで,873 Kで母相(BCC)からMC(FCC)のみが析出した場合を仮定し計算したSteel BのMC平衡組成は33.3Mo-20.7V-0.5Mn-45.1C atomic%,MC中のMo/V比は約1.6であり,実測値は平衡組成よりもMoの比率が高い結果であった。平衡計算と実験結果が乖離していたことから,Fe-C-Mo-Vの4元系での局所平衡を考慮29)する必要があると考えられる。

板状析出物の成長速度は,下式のZener-Hillertモデル30,31)で表される。

  
Gl=Di8rcΩi1Ωi(2)

Gl:板の成長速度

Di:iの鋼中での拡散係数

rc:板の成長端の臨界半径

Ωi:iのスーパーサチュレーション

  
Ωi=Ci¯CiαMCCiMCαCiαMC(3)

Ci¯:母相における元素iの平均モル濃度

CiαMC:MC/母相界面における母相側の元素iのモル濃度

CiMCα:MC/母相界面におけるMC側の元素iのモル濃度

簡略のため,Fe-C-Mo-C 4元系を仮定すると,(Mo,V)Cの析出においては,拡散係数の異なるMo,V,Cに関し,式(2)の成長速度が同じ解を得る母相/炭化物の界面組成を維持しながら成長が進行する(局所平衡状態)と考えられる。Cについては拡散係数がMo,Vと桁違いに大きいこと,析出母相から析出物へのMoとVの分配は必須であることから,PLEモード(界面の母相側のC活量と析出母相のC活量が等しい)32)が前提となる。

その上で,MoとVの拡散係数DとΩが式(2)について同一の解(成長速度Glの値)を得るには,下式の関係が成立する必要がある。

  
ΩMoΩV1ΩV1ΩMo=DVDMo(4)

そこで,式(4)の右辺で示されるVとMoの鋼中での拡散係数比を満足する界面組成(局所平衡組成)をThermo-Calcによって求めた33)。ここで,VおよびMoの鋼中での拡散係数は,873 Kでの報告例が少ないことから,1073 Kでの複数の報告例3439)の平均値DV/DMo=1.6を採用した。DV/DMo=1.6を満たす局所平衡組成のMC中のMo/V比は,2.4であった。この値は,平衡計算値のMo/V=1.6よりも実測値の2.8に近いことから,MCの析出は局所平衡を維持しながら進行すると推定される。上記の局所平衡を考慮し計算したMCの組成は,析出初期における析出母相のMo,V量を基にした値である。MCの析出にともない合金元素が消費され析出母相濃度が変化し,これに対応する界面組成も変化することから,析出中期には,局所平衡組成のMCのMo/V比は計算値の2.4より若干高くなり,より実測値に近づくと予想される。

4・3 合金炭化物による水素トラップの支配因子

Kosakaら8,9)は,炭化物析出鋼の水素トラップ量が析出強化量とよい相関を示すことから,析出物による水素のトラップサイトが整合ひずみ場である可能性を報告している。Kosakaらの報告では,Gerold-Haberkornが提案した式を用い,計算上の格子定数とThermo-Calcで求めた析出量を用い,炭化物形状を10 nmの球形と仮定し析出強化量を評価したが,本検討にて,MC中にはC空孔が多く存在することが明らかとなったことから,格子定数が計算値よりも縮小している可能性があり,仮定を多く含む検討結果であると考えられる。

Takahashiら13)は,3DAPによるV炭化物の観察結果と第一原理計算結果14)から,整合析出したB1型のV炭化物の水素トラップサイトは,母相と炭化物界面近傍のC空孔である可能性を報告しており,本検討においても,炭化物/母相界面が主要な水素トラップサイトであることが予想された。また,M2Cの水素トラップへの寄与は小さく,水素トラップは主としてMCが担うと考えられ22),MCに着目した。Fig.12に,4時間焼戻し材のMC炭化物界面面積と水素トラップ量の関係を示す。比較のため,Steel A, Bと同じ熱処理を施しV4C3(VC0.75)が析出したV単独添加鋼(V-added steel)22)の結果も併せて記した。Steel BとV-added SteelでMC界面面積はほぼ同等であるにも関わらず水素トラップ量は約2倍であり,MC界面面積のみでは水素トラップ量増加への寄与を説明できないことがわかった。

Fig. 12.

Relationship between the trapped hydrogen concentration in Steel A, B and V-added steel18) tempered at 873 K and the interface area of MC.

次に,MC界面面積とMC中のC空孔率の積で水素トラップ量を整理した。その結果をFig.13に示す。Fig.13の結果から,MC界面面積×MC中のC空孔率は,水素トラップ量と良い相関を示すことが判明した。この相関は,異なる鋼種間,MCの他にM2Cやセメンタイト等複数の炭化物が析出した場合にも成り立つ。このことから,MC炭化物界面のC空孔が析出物による水素トラップの支配因子であると考えられる。C空孔率が大きいMoC0.5や,(Mo, X)C0.5(Xは第2元素)は,C空孔率が小さいV4C3(VC0.75)など他のMC炭化物よりMC1個あたりの水素トラップ量が高いと予想される。

Fig. 13.

Relationship between the trapped hydrogen concentration in Steel A, B and V-added steel18) tempered at 873 K and the product of the interface area and the C vacancy ratio of MC.

以上の結果から,Steel Aでの焼戻しの長時間化にともなう水素トラップ量減少は,M2Cが成長し析出量が増加することにともない,水素トラップ能の高いMCの析出量が減少するためと予想される。MCのみが析出したSteel Bでの焼戻しの長時間化による水素トラップ量増加は,MCの長さやC空孔率に顕著な変化が認められなかったことから,MCの数密度が増加するためと考えられる。また,Steel Aと比較しSteel Bの水素トラップ量が増加した理由は,Moに対しVの複合添加によってM2C析出が抑制され,C空孔率の高いMCの析出量が増加するためと考えられる。

5. 結言

炭化物による水素トラップの支配因子を明らかにするため,熱力学平衡計算の結果から,873 Kの焼戻しでMo2C,(Mo,V)2Cが析出すると想定されるモデル鋼を作製し,Mo添加鋼に対するVの複合添加が,炭化物の析出挙動と水素トラップ挙動に及ぼす影響を調査した。その結果,以下の知見を得た。

(1)Moに対しVを複合添加することで,水素トラップ量が増加した。焼戻し時間の長時間化より,Mo単独添加鋼では水素トラップ量が減少,Mo-V複合添加鋼では水素トラップ量が増加した。

(2)焼戻し初期において,Mo単独添加鋼ではセメンタイト,M2CとMC,Mo-V複合添加鋼ではセメンタイトとMCの析出が確認された。焼戻し時間の長時間化により,セメンタイトは消滅,M2Cは粗大化したが,MCでは顕著なサイズ変化は認められなかった。

(3)三次元アトムプローブ解析の結果,Mo単独添加鋼とMo-V複合添加鋼のMCはMC0.5に近い組成であり,V4C3(VC0.75)と比較しC空孔率が高いことが明らかとなった。

(4)平衡計算での予測と異なりMCが析出した一因として,M2CとMCにおける,Gibbs-Thomson効果による自由エネルギー上昇の違いが考えられる。また,Mo-V複合添加鋼のMC組成は局所平衡を考慮した計算が実測値と近い値が示すことから,MCの析出は局所平衡を維持しながら進行すると推定される。

(5)MC界面面積とMC中のC空孔率の積が,水素トラップ量と良い相関を示すことを明らかにした。Mo-V複合添加鋼で水素トラップ量が増加した理由は,Moに対しVの複合添加によってM2C析出が抑制され,MCの析出量が増加したことに加え,MCにMoが分配することで水素トラップサイトとなるC空孔率が増加したためと考えられる。

文献
 
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