鉄と鋼
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論文
Mo鋼とV鋼における合金炭化物の水素トラップと析出
谷口 俊介 亀谷 美百合小林 由起子伊藤 一真山﨑 真吾
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2023 年 109 巻 5 号 p. 438-449

詳細
Abstract

Martensitic steels of Fe-0.1%C-2%Mn-1.6%Mo alloy and Fe-0.1%C-2%Mn-0.2%V alloy were subjected to tempering at 873 K to investigate hydrogen trapping of Mo carbides and V carbides. We carried out the detail analysis of the alloy carbides by atomic-resolution scanning transmission electron microscopy and atom probe tomography, and the evaluation of hydrogen trapping energy by ab initio calculation. The hydrogen content of the Mo added steel tempered for 1.8 ks increases from that of the quenched Mo added steel and the hydrogen content monotonically decreases as the tempering time increases. The hydrogen content of the V added steels increases during the tempering to 7.2 ks and then keeps almost constant. Plate-shaped B1-type Mo carbide with a chemical composition of MoC0.50 is precipitated in the Mo added steel tempered for 3.6 ks. Needle-shaped HCP Mo2C is precipitated and the B1-type Mo carbide decreases in the Mo added steel tempered for 14.4 ks. Plate-shaped B1-type V carbides with a chemical composition of VC0.75 is precipitated in the V added steel tempered for 14.4 ks. We found the positive correlation between the hydrogen content and the product of the interface area and the carbon vacancy fraction of B1-type alloy carbide. The hydrogen trapping energy of the carbon vacancy at the interface between BCC-Fe and B1-type Mo carbide is higher than that of the interstitial sites in BCC-Fe. These results suggest that the main trapping site in the tempered Mo added steel is the carbon vacancy at the interface of B1-type MoC0.50, not HCP Mo2C.

1. 緒言

構造体の軽量化や安全性向上を目的として,鋼材の高強度化が求められている。しかしながら,引張強さ1200 MPaを超える鋼材では水素に起因する遅れ破壊が懸念される。マルテンサイト組織を有する高強度鋼材では,鋼材中に侵入した水素が鋼材の応力集中部の旧オーステナイト粒界に集まり,微小な亀裂を生じ,亀裂が旧オーステナイト粒界を伝播して最終的な破壊に至る1)。そこで,遅れ破壊を防ぐ方法の1つとして,マルテンサイト組織を773 K以上の比較的高温で焼戻して析出するナノメートルサイズの合金炭化物により,鋼材に侵入した水素をトラップして,水素が旧オーステナイト粒界に集まることを抑制する方法が提案されている2,3)

合金炭化物による水素トラップ挙動に関して,TiCに代表されるB1型の合金炭化物(以下ではMCと表記する)において多くの研究が報告されている。マルテンサイト組織を焼戻してラス内に析出するMC炭化物は,母相の焼戻しマルテンサイト(以下ではαと表記する)との間に (100)MC(100)α[011]MC[001]αで表されるBaker-Nuttingの方位関係を持つ4,5)。MC炭化物は(100)αを晶癖面として,比較的整合性の良い(100)MCを板面とする板状の形態である5)。Stevens and Bernsteinは,焼戻し温度を変えたTi添加鋼(Fe-0.05C-0.22Ti; mass%)を用いて電気化学的水素透過実験を行い,整合界面を持つ3 – 12 nmの微細TiCが不可逆に水素を強くトラップすると報告している6,7)。Tsuchidaらは,焼戻し温度を変えたV添加鋼(Fe-0.4C-1.0Cr-0.7Mo-0.35V; mass%)を用いて合金炭化物の高分解能透過電子顕微鏡(HRTEM)観察を行い,823 K – 923 Kにおけるトラップ水素量の増加は整合界面を有する微細な(V, X)Cに起因すると結論し,その水素トラップエネルギーの値からトラップサイトを析出物周囲の整合ひずみ場であると報告している8)。Kosakaらは,Fe-0.1 mass%C合金をベースにV,Mo,Ti,Nbを単独,および複合添加した鋼材において,整合ひずみの影響を取り入れた析出強化量の計算値と水素トラップ量の間に正の相関を見出し,MC炭化物の水素トラップの主要因は整合ひずみ場であると報告している9,10)。Wei and Tsuzakiは,焼戻し温度を変えたTi添加鋼(Fe-0.05C-0.2Ti; mass%)を用いてTiCのHRTEM観察と陰極チャージによる水素吸蔵量の昇温分析を行い,TiCの界面面積とトラップ水素量の定量的な対応,および水素トラップエネルギーの値から,板状TiCの半整合界面である板面のミスフィット転位芯がトラップサイトであると報告している11)。さらに,TiC,NbC,VCのモル分率を合わせた鋼材(Fe-0.05C-0.4Nb-2Ni, Fe-0.05C-0.2Ti-2Ni,Fe-0.05C-0.24V-2Ni; mass%)において,973 Kで焼戻した試料のトラップ水素量がNbC>TiC≫VCという関係にあることを見出し,板面におけるミスフィット転位の密度と対応すると報告している12)。Takahashiらは,焼戻し温度を変えたV添加フェライト鋼(Fe-0.06C-3Al-0.5V; mass%)を用いて3次元アトムプローブ法(3DAP)によるVCにトラップされた重水素の直接観察とVCのV/C比の定量,およびVCのHRTEM観察を行い,板状VCの整合界面である板面のC空孔が水素トラップサイトであると報告している13)

高強度な調質ボルトでは,合金炭化物形成元素として主にVやMoを添加する成分設計がされている2,14)。マルテンサイト組織の焼戻しにおいて,Vは前述のB1型の合金炭化物であるMC炭化物を形成する4)。MoはB1型の合金炭化物ではなく,Moが六方最密充填(HCP)構造をとる合金炭化物Mo2C(以下ではM2Cと表記する)を形成することが知られている1519)。M2C炭化物は母相の焼戻しマルテンサイトとの間に (0001)M2C(110)α [112_0]M2C[001]α[11_00]M2C[1_10]αで表される方位関係を持つ16,18)。M2C炭化物は [112_0]M2Cを長手方向とする針状の形態である。報告例は少ないが,M2C炭化物だけでなく,(100)α上に形成する板状のMoクラスターやMC炭化物であるMoCの析出が報告されている2025)

MC炭化物とは異なる合金炭化物が析出するMo添加鋼の水素トラップ挙動については,TiCやVC,NbCに比べて,研究例が少ない。Totsuka and Nakaiは,C量とMo量を変化させたMo添加鋼を用いて焼戻し温度を変えて水素トラップ挙動を調べ,873 Kのピーク時効におけるトラップ水素量の増加は電顕では観察できない程度に微細に析出した整合性を持ったMo2Cの水素トラップ効果であると考察している26)。Hinotaniらは,焼戻し温度を変えたMo添加鋼(Fe-0.2C-4Mo; mass%)においてMo2Cが析出した試料で得た水素トラップエネルギーが22 – 28 kJ mol-1と転位とほぼ等しいこと,およびトラップサイト数がピーク時効において最大となり過時効で減少することから,整合析出した微細なMo2Cの界面がトラップサイトであると提案している27)。KosakaらやWei and Tsuzakiは,同量のTiC,NbC,VCに比較してMo2Cのトラップ水素量が小さいことを報告している10,28)。Depover and Vervekenは,C量とMo量を変化させたMo添加鋼を用いて焼戻し温度と時間を変え,異なるMo2Cのサイズ分布を持つ試料の陰極電解水素チャージのトラップ水素量から,50 nmより小さいMo2Cは解離の活性化エネルギーが60 kJ mol-1以上の不可逆な水素トラップであり,75 nmより大きなMo2Cは水素トラップしないこと,50 nmから75 nmのMo2Cは可逆的に水素トラップすることを報告している29)。Kameyaらは,873 Kの等温焼戻し時間を変えたV添加鋼(Fe-0.1C-2Mn-0.55V; mass%)とMo添加鋼(Fe-0.1C-2Mn-1.6Mo; mass%)を用いて陰極電解水素チャージしたトラップ水素量を調査し,焼戻し初期のトラップ水素量はほぼ等しいが,焼戻し時間の長時間化に伴ってV添加鋼ではトラップ水素量が増加して一定になる一方で,Mo添加鋼では単調に減少することを報告した30)。この傾向はV添加鋼(Fe-0.3C-1.2Cr-0.2V; mass%)とMo添加鋼(Fe-0.3C-1.2Cr-1Mo; mass%)を用いた木南の研究でも確認されている31)。さらにKinamiは,V添加鋼とMo添加鋼に加えて,VとMoの複合添加量を変えたV-Mo添加鋼を用いて陰極電解水素チャージのトラップ水素量,および焼戻し時の析出物のTEM観察を行い,V-Mo添加鋼において幅約1 nm長さ約20 nm以下の板状のB1型の(V, Mo)Cが析出すること,Mo添加鋼においてはB1型の板状MoCと幅5 – 20 nm長さ数10 nmのHCP構造のMo2Cが析出し,微細なMoCが減少して比較的粗大なMo2Cが増加することがトラップ水素量の低下の要因であることを報告している24,25)

以上のように,従来のMo添加鋼の水素トラップ挙動の研究において,HCP構造Mo2CやB1型MoCという2つのMo炭化物の析出がTEMにより確認されている2431)。さらには微細なB1型MoCの析出が水素トラップに重要であることが示されている25)。しかし,MC炭化物であるTiCやVCの先行研究5,11,13)のようなHRTEMや3DAPによる観察は行われておらず,2つのMo炭化物の界面の整合性やC空孔濃度といった水素トラップサイトの詳細は明らかにされていない。そこで,本研究では,焼戻したMo添加鋼の水素トラップ挙動をV添加鋼と比較しながら,原子分解能のTEMや3DAPで合金炭化物を解析することで,Mo添加鋼の合金炭化物と水素トラップの関係を明らかにすることを目的とする。

2. 実験方法

本研究ではMo炭化物を析出させる鋼材としてFe-0.1C-2Mn-1.6Mo(mass%)合金(以下,Mo鋼と記す)を,V炭化物を析出させる鋼材としてFe-0.1C-2Mn-0.55V(mass%)合金(以下,V鋼と記す)を用いた30)。MoがMo2C,VがV4C3として析出すると仮定して,0.1 mass%Cに対して当量のMo,Vをそれぞれ添加した。25 kg真空溶解炉を用いて合金を作製した。得られた合金の化学組成をTable 1に示す。溶製した合金塊を鍛造し,直径20 mmの丸棒を作成した。添加したMoとVが完全に固溶する1373 Kで丸棒を3.6 ks加熱した後に,油焼入れした。続いて,873 Kで1.8 ks~36 ksの焼戻しを施した。Mo鋼において,データベースをTCFE8,構成相としてBCC,セメンタイト,FCC(MC炭化物),HCP(M2C炭化物)の4相を選択してThermo-Calcで873 Kの平衡析出相を計算したところ,HCP(M2C炭化物)のみが析出する結果であった。

Table 1. Chemical composition (mass%) of the alloys in this study30).
AlloyCSiMnPSMoVNFe
Mo steel0.0960.0051.99< 0.0020.00171.600.0005Bal.
V steel0.0910.0031.96< 0.0020.00180.550.0011Bal.

焼入れままの丸棒と焼戻し後の丸棒を用いて,硬さを測定した。硬さは,ビッカース硬さ試験機を用い,試験荷重0.3 kgfでC断面の中心部を5点測定し,その平均値を算出した。

焼入れままの丸棒と焼戻し後の丸棒から直径7 mmの丸棒試験片を採取し,水素分析に供した。水素分析は,ガスクロマトグラフを検出系とした昇温脱離分析(TDA)で行った。3% NaCl+3 g l-1 NH4SCN水溶液中で,電流密度0.2 mA cm-2で259.2 ks陰極電解水素チャージした後,合金炭化物にトラップされていない拡散性水素の放出を目的として,室温で172.8 ks放置した。その後,鋼中に残存した水素を室温から773 Kまで0.028 K s-1(100 K h-1)の昇温速度にてTDAで測定し,トラップ水素量と定義した。なお,事前検討で,水素チャージ時間を172.8 – 432 ksの範囲で変化させ,水素吸蔵量を調査し,水素チャージ時間259.2 ksで吸蔵水素量が飽和することを確認している。

焼戻し後の丸棒を縦に切断し,丸棒の表面から中心に向かって約4 mmの位置において約3 mm×3 mm×2 mmのミクロ組織観察用の試料を切り出した。耐水研磨紙を用いて湿式研磨し,続いて,ダイヤモンド懸濁液による研磨とコロイダルシリカ懸濁液による鏡面研磨を施した。鏡面研磨した試料において,走査電子顕微鏡(SEM)を用いた後方散乱電子ビーム回折法(EBSD)によりBCC構造のFeとして結晶方位を測定した。加速電圧を20 kV,電流11 nAの測定条件とした。

EBSDで得た結晶方位の情報に基づいて,TEM観察用の薄膜試料の法線方向に対して[001]αが平行に近い結晶粒を含むように,集束イオンビーム(FIB)リフトアウト法によりTEM薄膜試料を作製した。FIB加工は加速電圧30 kVの条件で行った。作製したTEM薄膜試料に加速電圧1 kVの条件でArイオン研磨を施し,FIB照射のダメージ除去と薄膜試料の厚さ調整を行った。照射系の収差補正器を備えたTEMを用いて,走査透過電子顕微鏡法(STEM)により観察を行った。加速電圧を300 kV,入射電子ビームの収束角を25 mradとし,検出角を19 mrad~80 mradとする低角環状暗視野(LAADF)STEM像,80 mrad~200 mradとした高角環状暗視野(HAADF)STEM像を撮影した。エネルギー分散型X線分光法(EDS)により元素分析を行い,電子エネルギー損失分光法(EELS)のlog-ratio法により観察視野のTEM薄膜試料の厚さを定量した。[001]α入射で得たSTEM像において,Gatan社のソフトウェアDigital Micrographを用いて析出物の大きさを測定した。3つのバリアントを持つMC炭化物のうち,(100)αと(010)αを晶癖面とする2つのバリアントは観察できるが,(001)αを晶癖面とするバリアントは試料厚さに対してMC炭化物の厚さが小さすぎて観察できない。そのため,MC炭化物の個数密度は観察されないバリアントを含めるため,3/2倍して補正した。

3DAP観察用の針試料は,丸棒内部から機械加工および研磨により0.3 mm×0.3 mm×10 mmの棒状片を取り出した後,25%過塩素酸―酢酸溶液を用いた電解研磨の粗研磨の後,2%過塩素酸―2-ブトキシエタノール溶液を用いた仕上げ研磨を施す二段階のマイクロ電解研磨法32)により作製した。測定は,CAMECAインスツルメンツ製のLEAP4000XHRを用い,測定条件としてレーザーモードではレーザー強度30 pJ,試料温度50 Kとし,電圧モードではパルス電圧比20-25%,試料温度65 Kとした。得られた測定データに対して,ソフトウェアIVAS3.6(CAMECAインスツルメンツ製)を用いて,原子マップの再構築および析出物の特定を行った33)

3. 実験結果

3・1 焼戻しによる硬さとトラップ水素量の変化

Fig.1に焼戻し時間に対する硬さ変化を示す。Mo鋼では,焼入れまま材(As Q.)において321を示し,焼戻しにより7.2 ksにおいて325まで増加してピークを持ち,7.2 ks以降,単調に減少する。V鋼では,焼入れまま材において307を示し,焼戻しを施すと,14.4 ksにおいて325まで増加し,14.4 ks以降も焼入れまま材よりも硬い。Mo鋼とV鋼で硬さの焼戻し時間依存性が異なる。

Fig. 1.

Effect of tempering time to Vickers hardness of Mo steel33) and V steel tempered at 873 K.

Fig.2にMo鋼とV鋼の焼戻しによるTDAプロファイルの変化を示す。Mo鋼,V鋼ともに焼入れまま材に比較して,焼戻し材では水素放出量が増加し,プロファイルのピーク位置は373 Kから473 Kの間に位置する。Fig.2(a)のMo鋼では焼戻し時間の増加に伴ってピーク高さが小さくなるが,Fig.2(b)のV鋼では3.6 ksから14.4 sにかけてピーク高さが大きくなる。Fig.3にMo鋼とV鋼の焼戻しによるトラップ水素量の変化を示す。焼入れまま材では,Mo鋼とV鋼の両方ともトラップ水素量は0.2 mass ppm未満と小さい。焼戻しを施すと,Mo鋼では1.8 ksにおいてトラップ水素量は3.6 mass ppmを示した後,長時間化に伴って単調に減少する。V鋼は1.8 ksから3.6 ksにかけてはMo鋼と同じくトラップ水素量が3.4 mass ppmから3.1 mass ppmに低下するが,3.6 ksから7.2 ksにかけてトラップ水素量が3.1 mass ppmから5.8 mass ppmに顕著に増加する。7.2 ks以降のトラップ水素量は約6 mass ppmである。硬さの焼戻し時間依存性と同様に,Mo鋼とV鋼でトラップ水素量の焼戻し時間依存性も異なる。

Fig. 2.

TDA profiles of (a) Mo steel33) and (b) V steel30) tempered at 873 K.

Fig. 3.

Relationship between hydrogen content and tempering time at 873 K30).

3・2 ミクロ組織

Mo鋼における合金炭化物に及ぼす焼戻し時間の影響を調べるために,焼戻し時間3.6 ksのMo鋼と14.4 ksのMo鋼を供試材としてミクロ組織の観察を行った。さらに,Mo鋼とV鋼の比較のため,トラップ水素量の大きな差が認められる焼戻し時間14.4 ksのV鋼を供試材としてミクロ組織の観察を行った。Fig.4にEBSD測定で取得した各供試材の逆極点図マップを示す。逆極点図は測定面垂直方向の結晶方位を示す。Mo鋼,V鋼ともに焼戻しマルテンサイト組織である。Fig.4(a), (b)のMo鋼の旧オーステナイト粒径が50 – 100 μmであるのに対して,Fig.4(c)のV鋼の旧オーステナイト粒径は100 μmを超える大きさである。

Fig. 4.

Inverse pole figure maps of (a) Mo steel tempered at 873 K for 3.6 ks, (b) Mo steel tempered at 873 K for 14.4 ks, and (c) V steel tempered at 873 K for 14.4 ks. (d) shows color key of crystal orientation of BCC-Fe. (Online version in color.)

Mo鋼とV鋼において,ラス内の析出物をLAADF-STEM法で観察し,STEM-EDS法で元素マッピングした結果をFig.5に示す。LAADF-STEM像では回折コントラストを反映し,転位や析出物を明るいコントラストとして観察することができる34,35)Fig.5(a)の3.6 ks焼戻したMo鋼では,LAADF-STEM像において赤矢印で示す位置に,強く明るい粒子状のコントラストが認められる。Fig.5(b)のMo Lα線強度マップのMoが濃化した領域はFig.5(a)の粒子状のコントラストとよく一致し,Fig.5(a)の粒子状のコントラストはMoを含む析出物である。透過像として観察されたMo析出物の二次元の形は[100]αと[010]αに伸びた幅約1 nm,長さ約2 – 10 nmの形である。Mo析出物の形態がM2C炭化物のような針状の形態の場合は,直径約1 nmの強い明るいコントラストが見られるはずである。しかし,さらに高倍率で詳細に観察しても,そのようなコントラストは確認できなかった。したがって,Fig.5(a), (b)で観察されたMo析出物の三次元形態は板状と考えられる。Fig.5(c), (d)の14.4 ks焼戻したMo鋼では,3.6 ks焼戻したMo鋼で観察された板状のMo析出物に加えて,黄矢印で示す幅約2 - 10 nm,長さ約18 – 85 nmの[010]αに伸びたMo析出物と直径約3 – 10 nmのMo析出物が認められる。これらは幅と直径の大きさがほぼ対応することから,針状の三次元形態を横および長手方向から観察していると考えられる。Fig.5(e), (f)の14.4 ks焼戻したV鋼では,Fig.5(a), (b)の3.6 ks焼戻したMo鋼と同様に,赤矢印で示す[100]αと[010]αに伸びた幅約1 nm,長さ約4 – 17 nmの形のV析出物が認められる。板状のMo析出物と同様に,直径約1 nmの強い明るいコントラストが認められないことから,板状のV析出物と考えられる。

Fig. 5.

Distribution of precipitates in (a, b) Mo steel tempered at 873 K for 3.6 ks, (c, d) Mo steel tempered at 873 K for 14.4 ks33), (e, f) V steel tempered at 873 K for 14.4 ks. (a), (c), and (e) are LAADF-STEM images. (b) and (d) are intensity maps of Mo Lα line and (f) is an intensity map of V Kα line. Red arrows show plate-shaped precipitates and yellow arrows show needle-shaped precipitates. (Online version in color.)

ラス内の析出物の結晶構造,および界面の整合性について,原子分解能のHAADF-STEM像とその高速フーリエ変換(FFT)図形から解析した結果をFig.6に示す。Fig.6(a)は3.6 ks焼戻したMo鋼で観察された[100]αと[010]αに伸びた幅約1 nm,長さ約2 – 10 nmのMo析出物のHAADF-STEM像の例である。Fig.6(a)のFFT図形であるFig.6(b)から,Fig.6(a)のMo析出物はBaker-Nuttingの方位関係を持つMC炭化物である。晶癖面である(100)αの界面において,破線で示す結晶面の対応のように,BCC-Feの結晶面とMC炭化物の結晶面は1対1に対応し,整合界面である。端部の界面では{110}αが余剰であり,⊥の記号で示すように,ミスフィット転位が存在する。Fig.6(c), (e)は14.4 ks焼戻したMo鋼で観察された[100]αと[010]αに伸びた幅約1 nm,長さ約2 – 10 nmのMo析出物と直径約3 – 10 nmのMo析出物のHAADF-STEM像の例である。Fig.6(d)のFFT図形から,Fig.6(c)のMo析出物はFig.6(a)と同様に,Baker-Nuttingの方位関係を持つMC炭化物である。晶癖面である(010)αの界面は整合であり,端部にはミスフィット転位を有する。Fig.6(e)のMo析出物は,FFT図形のFig.6(f)から,針成長方向から観察したM2C炭化物である。界面は比較的広い界面と狭い界面で構成される。比較的広い界面はレッジ構造により丸みを帯びつつも,(110)α (0001)Mo2Cが接する界面で構成される。比較的狭い界面は(110)α(11_00)Mo2C が接する界面で構成される。両方の界面においてミスフィット転位が確認できるが,比較的広い界面には,より多くのミスフィット転位が存在する。Fig.6(g)は14.4 ks焼戻したV鋼で観察された[100]αと[010]αに伸びたV析出物のHAADF-STEM像の例である。Fig.6(h)のFFT図形から,Fig.6(g)のV析出物がBaker-Nuttingの方位関係を持つMC炭化物であることが確認できる。晶癖面である(100)αの界面は整合である。

Fig. 6.

Crystal structure and interface coherency of precipitates in (a, b) Mo steel tempered at 873 K for 3.6 ks, (c - f) Mo steel tempered at 873 K for 14.4 ks, (g, h) V steel tempered at 873 K for 14.4 ks. (a), (c), (e) and (g) are HAADF-STEM images. (b), (d), (f) and (h) are FFT patterns of (a), (c), (e), and (g), respectively. (Online version in color.)

TEMの観察結果から結晶構造がB1型である板状MC炭化物と結晶構造がHCP構造Mo2Cである針状M2C炭化物の形状と個数密度を定量した結果をFig.7に示す。析出物の形状を表す長さと厚さの定義はFig.7の模式図に示す通りであり,合金炭化物の形状として正方形断面を持つ直方体であると仮定した。Fig.7(a)に示すMC炭化物の形態から,Mo鋼では焼戻し時間3.6 ksから14.4 ksにかけて平均厚さはほぼ変化しないが,平均長さは4.9 nmから6.6 nmに成長する。同じ焼戻し時間14.4 ksでMo鋼のMC炭化物とV鋼のMC炭化物を比較すると,平均厚さはほぼ同じであるが,V鋼の平均長さは8.7 nmとMo鋼よりも大きい。Fig.7(b)ではM2C炭化物の析出が認められた焼戻し時間14.4 ksのMo鋼のデータのみ示す。焼戻し時間14.4 ksのMo鋼のM2C炭化物の平均厚さは6.2 nm,平均長さは61 nmと,MC炭化物に比較して粗大である。Fig.7(c)はMC炭化物とM2C炭化物の個数密度を示す。Mo鋼において焼戻し時間3.6 ksから14.4 ksにかけてMC炭化物の個数密度は6.9×1022 m-3から2.9×1022 m-3へ減少する。焼戻し時間14.4 ksでは,M2C炭化物が析出するが,個数密度は4.1×1021 m-3であり,MC炭化物に比較して少ない。焼戻し時間14.4 ksのV鋼のMC炭化物の個数密度は8.8×1022 m-3であり,同じ焼戻し時間14.4 ksのMo鋼よりも多い。

Fig. 7.

Size and particle density of precipitates in Mo steel and V steel tempered at 873 K for 3.6 ks and 14.4 ks, (a) size of MC precipitates, (b) size of M2C precipitates, and (c) particle density of MC and M2C precipitates33,36). Thickness and length of MC and M2C precipitates are defined as schematics shown in (a) and (b).

Fig.8に3DAPで測定した焼戻し時間3.6 ksと14.4 ksのMo鋼中のMoとCの原子マップ,および焼戻し時間3.6 ksと14.4 ksのV鋼中のVとCの原子マップを示す。Fig.8(a) –(d)の原子マップにおいて,MoとC,あるいはVとCが同一の領域に濃化している様子が明瞭に観察される。Mo炭化物やV炭化物の析出であると考えられる。3DAPではMC炭化物とM2C炭化物の結晶構造を区別することはできないが,Fig.5,6のSTEM観察の結果に示すように,両者は明確に形状と大きさ,個数密度が異なる。Fig.8(b)の焼戻し時間14.4 ksのMo鋼においては,他のMo炭化物やV炭化物に比較して粗大な針状のMo炭化物が観察されている。STEM観察結果との対応から,針状のMo炭化物はM2C炭化物であり,他の比較的小さく多く析出しているMo炭化物やV炭化物はMC炭化物であると考えられる。Mo鋼とV鋼で観察されたMC炭化物とM2C炭化物の金属元素M(MoまたはV)に対するCの原子数の比,C/Mを定量した結果をFig.9に示す。四角形のマーカーは1つの3DAP測定試料に含まれるMC炭化物のC/Mを表し,円形のマーカーはM2C炭化物のC/Mを示す。実線と破線は各焼戻し時間のMo鋼あるいはV鋼の測定体積を足し合わせて定量したMC炭化物のC/Mの値を結ぶ線である。観察視野によってC/Mの値にばらつきはあるが,焼戻し時間に依らず,Mo鋼のC/Mの値はV鋼のC/Mの値よりも小さい。焼戻し時間14.4 ksのMo鋼において観察された針状のM2C炭化物のC/Mの値は0.50であり,化学組成の点でもHCP構造Mo2Cである。Mo鋼のMC炭化物のC/Mの値は焼戻し時間3.6 ksで0.51,焼戻し時間14.4 ksで0.49であり,MC炭化物の化学組成はM2C炭化物の化学組成とほぼ同じである。HCP構造Mo2CであるM2C炭化物と区別するため,C空孔を含むB1型のMC炭化物としてMoC0.50と表記する。V鋼のB1型のMC炭化物のC/Mの値は焼戻し時間3.6 ksでは0.76,焼戻し時間14.4 ksでは0.74である。従来から報告されているV4C3とほぼ同じ化学組成である4)。C空孔を含むB1型のMC炭化物としてVC0.75と表記する。

Fig. 8.

Three-dimensional atom maps of Mo steel tempered at 873 K for (a) 3.6 ks and (b) 14.4 ks; V steel tempered at 873 K for (c) 3.6 ks and (d) 14.4 ks. (Online version in color.)

Fig. 9.

Atom ratio of C to M in alloy carbide in Mo steels and V steels tempered at 873 K. M means Mo and V. Lines show atom ratio of MC carbide using whole measured volume of samples33).

4. 考察

4・1 焼戻したMo鋼中のMo炭化物による水素トラップ

本研究では,873 Kで焼戻したMo鋼のトラップ水素量は焼戻し時間の長時間化に伴って単調に減少することが観察された30)。このとき,ラス中のMo炭化物としては,焼戻し初期にMoC0.5が析出する。焼戻し時間が長くなると,M2C炭化物が析出し,MoC0.5の個数密度が小さくなる。この結果は,先行研究と同様に,873 Kで焼戻したMo鋼において析出する2つのMo炭化物のうち,M2C炭化物よりもMoC0.5の方が水素トラップに大きく寄与することを示す25)。MC炭化物では,MC炭化物内部へ水素が拡散する際のエネルギー障壁が大きいことが第一原理計算で示されている37,38)。この高いエネルギー障壁により,室温での陰極電解水素チャージではMC炭化物内部のC空孔へ水素をトラップさせることができないと考えられる11)。HCP構造Mo2CであるM2C炭化物内部への水素拡散に対するエネルギー障壁の値は示されていないが,MC炭化物と同じく最密充填構造であるため,MC炭化物と同様に高いエネルギー障壁を持つと考えられる。そこで,本研究の473 K以下にピークを示すMo鋼とV鋼の水素トラップは合金炭化物界面における水素トラップであると考え,MC炭化物とM2C炭化物の2つの合金炭化物の界面に着目して水素トラップサイトを考察する。

合金炭化物の界面面積とトラップ水素量の関係をFig.10に示す。ここで,合金炭化物の界面面積を評価するにあたり,Fig.7で仮定したように,合金炭化物の形状として正方形断面を持つ直方体であると仮定した。先行研究において,板状のMC炭化物の板面8,1013,25),針状のM2C炭化物の針側面26,27)が水素トラップサイトとして提案されていることから,これらの界面について単位体積あたりの界面面積を算出した。焼戻し時間14.4 ksのMo鋼については,MC炭化物とM2C炭化物の両方が観察されたので,それぞれの界面面積とその和をプロットした。焼戻し時間3.6 ksのMo鋼と焼戻し時間14.4 ksのV鋼はMC炭化物の界面面積である。焼戻し時間14.4 ksのMo鋼はMC炭化物の界面面積とM2C炭化物の界面面積を合わせた界面面積は8.8×106 m2 m-3と大きいが,トラップ水素量は2.0 mass ppmと他の鋼よりも小さい。Mo鋼とV鋼のMC炭化物の界面面積に着目すると,トラップ水素量と正の相関が認められる。Mo鋼においてMC炭化物とM2C炭化物の両方が析出するが,MC炭化物の板面が主要な水素トラップサイトであることを示す。

Fig. 10.

Relationship between hydrogen content and interface area of alloy carbide per unit volume of Mo steel and V steel tempered at 873 K33). (Online version in color.)

さらに,図中に点線で示すように,同じMC炭化物でもMo鋼のMoC0.5はV鋼のVC0.75に比較して原点からの傾きが大きく,単位界面面積あたりにトラップできる水素量が多いことを示唆する。この原因として,MC炭化物の界面における水素トラップサイトとして提案されている整合ひずみ場8,10),C空孔13)について考察する。ミスフィット転位11,12)については,Fig.6に示すように,原子分解能のSTEM観察からMC炭化物の板面が整合であることから,MoC0.50とVC0.75の水素トラップ能の違いを生む原因から除外する。

まず整合ひずみ場について考察する。本研究で観察されたMoC0.50と近い化学組成MoC0.54のMC炭化物の格子定数は0.4256 nm39),化学組成VC0.75のMC炭化物の格子定数は0.4136 nm40)であると報告されている。板面におけるBCC-FeとMC炭化物の格子ミスフィットはMoC0.54で4.1%,VC0.75で2.0%である。VC,TiC,NbC,TaCにおいて格子ミスフィットが大きいMC炭化物の方が,水素トラップエネルギーが大きくなることが第一原理計算により示されている41)。格子ミスフィットが大きいMoC0.50の方がVC0.75よりも強く水素をトラップすると期待される。しかし,Fig.2に示すTDAプロファイルにおいて,Mo鋼のTDAプロファイルのピーク温度は,V鋼のTDAプロファイルのピーク温度よりも低温側に位置する。予想に反して,Mo鋼の水素トラップサイトの方が,V鋼の水素トラップサイトよりも弱く水素をトラップすることを示唆する。整合ひずみ場はMoC0.50とVC0.75の水素トラップ能の違いを生む主要因ではないと考えられる。

次に,C空孔について考察する。Fig.9に示すように,本研究で観察されたMC炭化物の化学組成はMoC0.50とVC0.75である。このことはMoC0.50のMC炭化物ではC位置の50%が空孔であり,VC0.75のMC炭化物ではC位置の25%が空孔であることを意味する。MoC0.50の方がVC0.75の2倍のC空孔を有する。MC炭化物中にC空孔が均一に分散すると仮定すると,C空孔濃度が高い方が板面の整合界面を形成する(100)MCにおいてもC空孔濃度が高くなる。整合界面のC空孔に水素がトラップされる場合,本研究で得られた,MoC0.50とVC0.75の水素トラップ能の違いを説明できると考えられる。著書の一人であるKameyaは,Mo添加鋼,V添加鋼,およびMo-V複合添加鋼のトラップ水素量について,MC炭化物の界面面積とC空孔濃度の積として表されるパラメータがトラップ水素量と強い正の相関を持つことを示している33)Fig.10において横軸をMC炭化物の界面面積とC空孔濃度の積を取ると,Fig.11のようにMo鋼とV鋼のMC炭化物は1つの直線で整理できる。

Fig. 11.

Relationship between hydrogen content and product of the interface area and carbon vacancy fraction of MC carbide in Mo steel and V steel tempered at 873 K33).

以上のことから,Mo鋼において,MC炭化物とM2C炭化物の両方が析出するが,主な水素トラップサイトはMC炭化物の界面のC空孔であると考えられる。焼戻し処理時間を長くすると,Mo鋼においてより安定なM2C炭化物が析出するために,焼戻し処理初期に析出したMC炭化物が溶解し,MC炭化物の界面面積が減少する。そのため,Mo鋼のトラップ水素量が焼戻し処理時間と共に単調に減少すると考えられる。Mo鋼のトラップ水素量を増加させるには,MC炭化物とM2C炭化物の競合析出において,MC炭化物の析出の促進に着眼した検討が必要である。

4・2 C空孔を含むMC炭化物であるMoC0.5の水素トラップエネルギー

MC炭化物であるMoC0.5の板面の界面のC空孔が水素トラップサイトとして有効に働くのか,第一原理計算により検討した。第一原理計算には密度汎関数理論に基づくProjector-Augumented-Wave(PAW)法を採用したVienna Ab initioSimulation Package(VASP)を用いた42,43)。交換相関エネルギーにはPredew-Burke-Erunzwerhof(PBE)による一般化勾配近似を採用した44)。波動関数のカットオフエネルギーは520 eVとした。K点メッシュは後述する界面モデルについて,Monkhorst Packのスキーム45)で,5×5×2とした。収束性向上のため,Methfessel-Paxtonのsmearing法を0.2 eV幅で用いた46)。構造最適化計算は各原子に働く力が0.01 eV Å-1となるまで実施した。

最初にMoC0.5の原子構造モデルの妥当性を調査した。計算されたMoC0.5の格子定数は0.424 nmであり,実験結果の0.426 nm39)とよく一致した。次に得られたMoC0.5の原子構造とSTEMの観察結果に基づき,BCC-FeとMoC0.5の界面モデルの初期構造を作成し,セルサイズおよび原子位置を最適化することで,Fig.12(a)に示す界面モデルを得た。構造緩和により,界面に平行な方向に対し,それぞれの完全結晶の格子定数と比較して,BCC-Feは4.5%膨張し,MoC0.5は0.9%収縮した。これはMoC0.5が大きい弾性係数を持つことと整合している47)。またNb,Ti,Vを主体としたMC炭化物については,第一原理計算により水素トラップエネルギーが計算されており,この界面モデルの大きさで実験値をよく再現できることが知られている37,38,41,4850)

Fig. 12.

(a) Interface structure between BCC-Fe and MoC0.5, (b) trapping sites, and (c) hydrogen trapping energy at trapping sites. (Online version in color.)

続いて,Fig.12(b)に示す界面構成するBCC-Feの(001)αの四面体格子間位置(T1,T2),八面体格子間位置(O1,O2,O3),およびMoC0.5の(001)MCのC空孔位置(Va)を対象とし,1個の水素を配置した場合のトラップエネルギーを計算した。トラップエネルギーは,BCC-Fe完全結晶中に1個の水素を配置した場合のエネルギー変化と,界面近傍の対象位置に 1個の水素を配置した場合のエネルギー変化の差として計算した。ここではトラップエネルギーが正に大きいほど,水素がより安定にトラップされることを意味するよう正負を定義した。Fig.12(c)に各対象位置のトラップエネルギーを示す。界面のC空孔位置のトラップエネルギーは50 kJ mol-1であり,先行文献で報告されている52 - 59 kJ mol-1とよく一致する25)。界面のC空孔位置のトラップエネルギーは,正の値を持つ四面体格子間位置T2の1.5 kJ mol-1や八面体格子間位置O3の8.9 kJ mol-1よりも大きな値を持つ。この傾向は他の合金元素のMC炭化物と同様である37,38,41,48,50)。第一原理計算による水素トラップエネルギーの計算結果は,MoC0.5において界面のC空孔が水素を強くトラップするサイトであることを示す。

4・3 Mo炭化物の結晶構造と水素トラップ

これまでに考察したように,MC炭化物の界面のC空孔が主な水素トラップサイトであり,MC炭化物はM2C炭化物よりも水素トラップ能が高いと考えられる。しかしながら,本研究のMC炭化物とM2C炭化物は結晶構造が異なるものの,3DAPの観察結果から化学組成はMo:C=2:1であり,同じ濃度のC空孔を有する。何故,M2C炭化物のC空孔はMC炭化物と同等の水素トラップ能を示さないのか,結晶構造の違いから考察する。

Fig.13にMC炭化物とM2C炭化物の結晶構造モデルを示す39,51)。2つの結晶構造はMoの最密面の積層が異なる構造として理解することができる。Fig.13(a)のMC炭化物はMoの最密面がABCA…と積層するのに対して,Fig.13(b)のM2C炭化物のMoの最密面はABAB…と積層する。CはMoが作る八面体の格子間位置に入り,Mo位置の数と同じ数のC位置が存在する。本研究では,MC炭化物も化学組成はMo2Cであり,八面体格子間位置のC位置の半数は,M2C炭化物と同じく,空孔である。

Fig. 13.

Crystal structure of (a) MC carbide and (b) M2C carbide. (Online version in color.)

MC炭化物とM2C炭化物のC位置は八面体格子間位置という局所的には似た環境であるが,水素トラップサイトとなるBCC-Feとの界面のC位置として見ると,MC炭化物とM2C炭化物では環境が大きく異なる。Baker-Nuttingの方位関係を持つMC炭化物の板面の界面は,Fig.6でも確認できるように,(100)MCである5)Fig.13(a)に破線で示すように,C位置が(100)MCの界面に現れ,板面の界面にC空孔が存在し得る。M2C炭化物の針側面は,Fig.6(e)に示すように,(110)α(0001)Mo2Cが接する界面と(110)α(11_00)Mo2Cが接する界面で構成される。これらの界面では,Fig.13(b)に破線で示すように,Mo原子で終端する場合とC原子で終端する場合の大きくは2通りの界面を取り得る。M2C炭化物のC規則化を考慮した結晶構造における第一原理計算による界面エネルギーの計算では,(0001)Mo2Cに相当する界面はMo原子で終端する方が,界面エネルギーが小さく安定であることが示されている52)。針側面の中でも比較的広い界面である(0001)Mo2CにおいてC位置が界面に現れず,水素トラップサイトとなる界面のC空孔が存在しない可能性がある。界面にC空孔が現れない場合は,MC炭化物と同様に,M2C炭化物中の水素拡散に対する高いエネルギー障壁によって水素トラップに寄与しないと考えられる37,38)(11_00)Mo2Cの界面では終端面の影響を考慮した計算例はなく,不明である。今後,第一原理計算を用いて,界面構造の終端面,および水素トラップエネルギーについてさらなる詳細な検討が必要である。

5. 結論

本研究では,Mo添加鋼の合金炭化物と水素トラップの関係を明らかにすることを目的として,焼戻したMo添加鋼の水素トラップおよび合金炭化物をV添加鋼と比較しながら調査し,原子分解能TEMや3DAPを用いて焼戻しで析出するラス内の合金炭化物の詳細な解析を行い,以下の結論を得た。

(1)Mo鋼とV鋼ともに焼入れまま材に比較して焼戻し材ではトラップ水素量が増加するが,Mo鋼ではトラップ水素量が焼戻し時間とともに単調に低下し,V鋼では7.2 ksまでトラップ水素量が増加した後はほぼ一定になる。

(2)Mo鋼ではC空孔を含む板状のMC炭化物であるMoC0.5が焼戻しの初期に析出し,焼戻し時間が長くなると針状のM2C炭化物であるHCP構造Mo2Cが析出してMoC0.5の個数密度が低下する。V鋼ではC空孔を含む板状のMC炭化物であるVC0.75が析出する。

(3)Mo鋼とV鋼のトラップ水素量は板状のMC炭化物の界面面積とC空孔濃度の積で表されるパラメータと強い正の相関を示し,Mo鋼で析出するMoC0.5とHCP構造Mo2Cのうち,MoC0.5の界面のC空孔が主な水素トラップサイトと考えられる。

(4)第一原理計算により得られたBCC-FeとMoC0.5の界面における水素トラップエネルギーは,BCC-Feの格子間位置よりもMoC0.5のC空孔の方が大きく,水素トラップエネルギーの観点でもMoC0.5のC空孔が主な水素トラップサイトであると考えられる。

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