2023 Volume 109 Issue 9 Pages 738-746
In this study, we performed scanning transmission X-ray microscopy with a spatial resolution of approximately 50 nm to investigate the two-dimensional mapping of the chemical states of carbon in Fe–C alloy. The lamellar texture (pearlite) consisting of ferrite (α-Fe) and θ-Fe3C with an interval of approximately 100 nm was identified by absorption from the carbon 1s→2p excitation in the X-ray absorption image. It was clearly observed that there exist more than two types of chemical states of carbon in θ-Fe3C depending on the microtextures. The differences in chemical states were found between grained θ-Fe3C and lamellar θ-Fe3C in pearlite, which might have originated from the texture and morphology of the θ-Fe3C. To consider the origins of the differences, we performed first-principles calculations by assuming the distortion and crystal anisotropy of the unit cell of the θ-Fe3C structure. The results suggest that the anisotropy of the crystal structure of θ-Fe3C and the lattice strain within lamellar θ-Fe3C fail to explain the differences, and therefore, other factors should be considered.
鉄鋼材料に求められる機械特性は,その用途によって様々である。合金の種類やその添加量,加熱冷却工程や圧延工程におけるヒートパターンにより組織制御し,目的とする機械特性を得る1)。添加元素の中でも炭素は鉄鋼材料の機械特性を制御する最も重要な元素のひとつである。炭素は鉄鋼材料中に固溶,偏析,炭化物など様々な状態で存在している1)。鉄鋼材料中の炭素の分析には,透過型電子顕微鏡法(transmission electron microscopy: TEM)や電子エネルギー損失分光法(electron energy loss spectroscopy: EELS)2),電子線マイクロアナリシス(electron probe micro analysis: EPMA)3),3次元アトムプローブトモグラフィー(three-dimensional atom-probe tomography: 3D-APT)4,5)などが良く用いられるが,炭素の化学結合種や結合長などの化学状態を詳細に調べた例は少ない6–9)。さらに,電子顕微鏡では,試料への電子線照射に伴い測定室内の炭化水素分子が試料表面に吸着し,試料内の炭素の状態のみを選択的に観察することが困難な場合がある。Bastin and Heijlgers10)やLengauerら11)は,酸素ガスを試料に吹き付けることにより,表面の炭化水素を除去できることを報告している。しかし,その処理自体による新たな試料汚染や試料の表面状態の変化が懸念される。また,一般的なX線吸収分光法(X-ray absorption spectroscopy: XAS)では,電子線励起に比べ励起効率は高いが,X線のビーム径を小さく絞ることが困難なため,鉄鋼材料中の複雑な組織内の特定箇所の化学状態を局所的に分析することは難しい。一般的に,XASにおける顕微計測の空間分解能は,TEMに比べ約10-50倍悪い。しかしながらXASでは,TEM-EELS12)の様な電子線に比べ,電子の励起効率が高いため,定量的な化学状態の解析に適している13)。加えて,XASでは,各種回折法では計測困難な結晶性の低い物質中の元素の化学状態の分析も可能である。また,X線照射により放出する光電子数と試料の透過方向のX線の吸収率を同時に計測することで,試料表面数nmと試料の厚み方向全体の平均(本研究の場合,約80 nm)の化学状態に関する情報を同時に取得できる。前者は転換電子収量(conversion electron yield: CEY)法,後者は透過法と呼ばれる。本研究では,両手法を用いることで,汚染や酸化が懸念される金属試料表面と試料内部の化学状態を識別することを試みた。
本研究では,約50 nmの空間分解能でXASが計測可能な走査型透過X線顕微鏡(scanning transmission X-ray microscopy: STXM)を用いて,Fe-C合金中の微細組織の可視化と,その化学状態の分布の計測を行った。透過法とCEY法でXASスペクトルの2次元マップをSTXMで得ることで,Fe-C合金薄片試料(厚み約 80 nm)の表面と内部の化学状態の識別を試みた。得られたXASスペクトルからθ-Fe3Cの結晶構造を考察するために,pearlite中のθ-Fe3Cを想定した1軸(b軸)応力印加やθ-Fe3CのX線吸収における結晶異方性を考慮した第一原理計算を実施した。
試料は真空溶解法で作製した。試料の元素組成は,Fe-1.48C-0.005Si-0.032Al-0.0008N(mass%)であり,熱処理後も変化は確認されなかった。Fig.1に示す様に,N2雰囲気(大気圧)で溶解し,220×100×1.6 mm(i.e., width×length×height)に圧延した後,900°Cで4分間加熱し水冷した。さらに,試料を400°Cで10分間焼き戻しし,炉内冷却した。次に,TEMやSTXMでの観察のため,集光イオンビームで約10 µm×10 µm×100 nmを目標に薄片化し,表面の加工ダメージ層をArミリングで除去した。最終的な薄片試料の厚みは約80 nmであった。

Heat pattern conditions of the sample.
試料中結晶相の種類を同定するために,TEMを用いてFig.2(a)-(d)の電子線回折パターンを計測した。Fig.2(a)-(c)は粒状のθ-Fe3C,Fig.2(d)はpearlite中のラメラ状のθ-Fe3Cである。Fig.2(a)-(d)の電子線回折パターンをFig.3(a)-(d)に示す。Fig.3(a)-(d)より,薄片試料の法線方向とFig.2(a)-(d)中θ-Fe3Cの[513], [210], [212], [011]の結晶方位がそれぞれ平行であることがわかった。Table 1にFig.2中の#1 - 4のθ-Fe3C単位格子のオイラー角(Φ, θ, Ψ)を示す。Φ, θ, ΨはFig.3に示したデカルト座標系のa, b, c軸周りの回転角である。また本測定では,薄片試料の法線方向の各試料箇所におけるθ-Fe3Cの結晶方位を決定する際,低次の結晶方位からの回折パターンを得るため,Fig.2中の#1-4の各試料位置においてθ/Φ方向に,それぞれ5.0°/1.0°,5.0°/1.0°,5.0°/5.0°,8.0°/3.0°だけ傾斜させて電子線回折パターンを計測した。以上より,Fig.2(a)-(c)の粒状の組織はθ-Fe3C単相であり,Fig.2(d)のラメラ状組織はθ-Fe3Cとα-Feから構成されていることを確認した。

TEM images of (a), (b), and (c) grained θ-Fe3C and (d) lamellar θ-Fe3C in the sample. (Online version in color.)

Electron diffraction images at points #1–4 in Figs. 2 (a) to (d). (Online version in color.)
| Φ (degree) | θ (degree) | Ψ (degree) | |
|---|---|---|---|
| #1 | −112.0 | 62.7 | 75.2 |
| #2 | −6.0 | 90.0 | 56.5 |
| #3 | −21.0 | 126.0 | 56.5 |
| #4 | −110.0 | 56.1 | 0.0 |
STXMの測定は,高エネルギー加速器研究機構 放射光実験施設(Photon Factory)のBL-13Aに設置されたcompact STXM(cSTXM)14)を用いて実施した。一部は,cSTXMをBL-19Aに移設後の実験結果も参考にした。本装置では,透過法とCEY法で同時にXASスペクトルの2次元分布を約50 nmの空間分解能で取得できる。本実験におけるcSTXMの光学系の概念図をFig.4に示す。X線はFresnel zone plate(FZP)を用いて約50 nmに集光される。本実験では,測定装置内部は装置内の熱伝導性を高めるためにHe雰囲気(1.0×104 Pa)で実施した。透過法およびCEY法の原理15)を以下に述べる。透過法では,X線の試料透過前後でのX線強度を光電子増倍管で計測する。X線の吸収率は,試料の線吸収係数µ(E)と試料厚みtで決定される。試料透過前後のX線強度をそれぞれI0(E), I(E)とすると,線吸収係数と試料厚みの間には,式(1)の関係がある。光学密度(optical density: OD)は,式(2)で与えられる。なお実際の計測では,試料が存在しない箇所でのX線吸収強度をI0(E)とした。
| (1) |
| (2) |

Schematic diagrams of transmission method and CEY method in cSTXM. Refer to the text for the abbreviations. (Online version in color.)
一方,CEY法の原理は,X線吸収強度がX線照射により生成するAuger電子数に比例することを利用している。Auger電子が装置内のHe原子と衝突して生成した二次電子を,試料電流として検出する。その際,本研究ではorder-sorting aperture(OSA)に100Vの電圧を印加した。OSAは試料とFZPの間に設置され,FZPからの1次回折光のみを選択するための素子である。Auger電子とHe原子の衝突過程は式(3)であらわされる(Fig.4中に※で図示)。
| (3) |
CEY法は,Auger電子の試料からの脱出可能深さで検出深さが決まり,約2-3 nmである16)。CEY法のスペクトル強度は,式(4)の様に,I0(E)と試料電流i(E)の比に比例する。
| (4) |
本研究では,上記2手法でXASスペクトルを同時に計測することで,試料中の化学状態の不均一性の観察と,試料表面と試料内部の化学状態の識別を試みた。本研究では,炭素K端,鉄L端のXASスペクトルを透過法,CEY法で計測した。dwell timeはそれぞれ10 ms, 50 msとした。
2・4 第一原理計算XASスペクトルは,密度汎関数理論(density functional theory: DFT)計算によりθ-Fe3Cの単位格子の構造最適化後,その構造を用いて全ポテンシャル多重散乱理論(full-potential multiple scattering theory: FP-MST)で計算した。DFT計算では,応力印加されていないθ-Fe3Cの単位格子に加え,格子歪の効果を評価するために,θ-Fe3Cのb軸を1%,5%,10%伸ばした場合の4条件で計算を行った。本計算は,Vienna Ab initio Simulation Package(VASP)を用いてprojector augmented wave(PAW)法により行った17,18)。交換相関ポテンシャルには一般化勾配近似(generalized gradient approximation: GGA)型のPerdew-Burke-Ernzerhof(PBE)型汎関数を採用した19)。なお,波動関数のカットオフエネルギーは550 eVに設定した。逆格子点は逆格子空間を Monkhorst-Pack法20)により10×10×10 meshに分割して計算した。単位格子の構造最適化の閾値は,各原子に作用する力が0.1 eV/nm未満になることを条件とした。上記の条件でXASスペクトルは,実空間多重散乱(real space multiple scattering: RSMS)法によって計算した。物質の光励起を観測する分光過程を考えるためには,物質の励起状態 と基底状態に関する情報が必要である。内殻励起分光法では,X線吸収係数の波長依存性を,電気双極子近似と吸収係数µ(ω)を用いて,次の式(5)の様に記述できる。
| (5) |
ここで,|Ψi〉, Ei, |Ψf〉, Efは,それぞれ励起状態と基底状態の波動関数とそのエネルギーである。ϵはX線の偏光ベクトルである。|Ψf〉には,固体内の光電子の散乱過程,内殻空孔のスクリーニング効果,および交換相関ポテンシャルなどの多体効果を考慮した状態関数を含んでいる。以上より,光電子のエネルギーに依存する光学ポテンシャルΣoptを用いて,|Ψf〉は次の式(6)の様に記述できる。
| (6) |
本計算では,Hedin-Lundqvist(HL)ポテンシャルの虚部を含めて,原子の光学ポテンシャルを計算した21)。一方,基底状態のポテンシャルは,HLポテンシャルから得られた各原子の電荷密度の重ね合わせとして計算した。励起状態は,1s内殻電子を非占有状態に遷移させ,価電子状態のみを安定化させることで,core hole効果を考慮した。この近似はfrozen-core近似として知られている。frozen-core近似によって得られた励起状態ポテンシャルは,原子レベルでself-consistentlyに計算され,得られた各原子の電荷密度の重ね合わせから全体のポテンシャルが生成される。計算方法は直方晶などの歪んだ結晶系を扱うため,全ポテンシャル実空間多重散乱(full-potential real-space multiple-scattering: FP-RSMS)法のFPMS package22)を用いた。本手法では,散乱サイト間の領域をVoronoi多面体で分割することにより,計算系の全領域でポテンシャルを定義することができる。さらに,計算の収束性を改善するため,empty cell(EC)を導入した。散乱サイトの半径は,鉄と炭素でそれぞれ0.14 nm,0.1 nmとした。各散乱サイトでの散乱波はl≦4の部分波まで考慮した。計算に使用されたクラスターの半径は0.8 nm(約300原子)であった。これらのパラメーターは,XASスペクトル形状の収束を確認することでその妥当性を確認した。さらに,計算されたXASスペクトルのエネルギー軸は,すべての系で表面のポテンシャルの平均値を真空準位と近似することによって較正した。炭素K端における励起過程の寿命は半値幅で0.1 eV23)であるため,計算されたスペクトルの半値幅もLorentz関数を用いて調整した。
Fig.2(a)-(d)の観察領域を含む薄片試料のTEM像をFig.5に示す。一方,Fig.5の白点線領域を280.0 eV(炭素K端吸収前のエネルギー),285.4 eVで撮像したOD像をそれぞれFig.6(a),(b)に示す。Fig.6(c)は,Fig.6(b)からFig.6(a)を差し引いた像である。Fig.6の各像は30 nm/pixelで撮像した。Fig.6(a)では,Fig.5で観測されたようなラメラ構造は観測されないが,Fig.6(b)ではpearliteのラメラ構造が観測された。それらの差分を取ったFig.6(c)ではより鮮明にラメラ構造が確認でき,STXMにより,炭素K端由来のコントラストで約100 nm間隔のpearlite組織の可視化に初めて成功した。OD像のコントラストは,原子の化学状態に敏感に影響を受けるが,TEM像に比べて結晶方位や欠陥の影響を受けにくいと考えられる。

TEM image of the thin-film sample. (a)–(d) correspond to the areas in Figs. 2 (a)–(d), respectively. The white dotted line indicates the observation area for STXM.

(a) X-ray absorption image at 280.0 eV (pre-edge), (b) X-ray absorption image at 285.4 eV, and (c) the residual image between (a) and (b). (a)–(c) were measured at 30 nm/pixel. #1–4 shows the areas represented in Figs. 2 (a)–(d), respectively. W in Fig. 2 (a) is tungsten for the protective layer for FIB processing. (Online version in color.)
Fig.7に粒状とpearlite中のラメラ状のθ-Fe3Cを透過法で計測したXASスペクトルと,CEY法で計測した試料表面のXASスペクトルを示す。Fig.7(a)に,Fig.6(c)の#1-4の透過法,試料表面のCEY法の炭素K端のXASスペクトルを示す。炭素K端のXASスペクトルは288.2 eVの強度で規格化した。CEY法の炭素K端のXASスペクトルには,水酸基(約287.0 eV)やアルデヒド基(約288.0 eV)といった炭化水素が持つ官能基に由来すると考えられるピークが観測された24)。透過法で得られた炭素K端のXASスペクトルには,上記の官能基由来のピークは観測されず,283.0-290.0 eVにブロードな2つのピークが観測された。類似のピーク構造がEELSの測定結果で報告されている7)。pearlite領域のCEY法での炭素K端のXASスペクトルは,粒状のθ-Fe3C領域のそれと同じであったため,試料表面の炭素K端のスペクトルは薄片試料全体の平均としてFig.7(a)に示した。また,粒状のθ-Fe3C領域とpearlite領域の透過法における炭素K端のXASスペクトルの形状に差異を確認した。以下では,透過法で得られた炭素のXASスペクトルが試料内部の炭素の構造情報を反映しているかを検証するために,試料表面に吸着した炭化水素由来の炭素原子の個数と試料に含有される炭素原子の個数を比較した。表面吸着層がすべてエタノール(0.789 g/cm3,46.07 g/mol)から成り,その膜厚は1 nmであると仮定した。表面吸着層の厚みが,転換電子収量法の検出深さである数nmより厚い場合,鉄L端のXASスペクトルは計測されないはずであり,1 nmの仮定は妥当である16)。単位面積あたりの表面吸着層のエタノールの物質量nconは,ncon=0.789×10-7 g/cm2=0.171×10-8 mol/cm2であり,表面吸着層に含まれる単位面積あたりの炭素原子数NconはNcon=0.514×1015である。Pearlite中の炭素数を同様に計算すると,単位面積あたりの物質量は nsam=0.115×0.430×10-6 mol/cm2=0.495×10-7 mol/cm2であり,pearlite中の単位面積あたりの炭素原子数はNsam=0.745×1016(pearlite組織中のθ-Fe3C分率は,初期組成の平衡状態で11.5 mass%)。なお,薄片試料の厚みは80 nm,θ-Fe3Cの密度,モル質量はそれぞれ7.73 g/cm3,179.4 g/molとして計算した。Nsam/Nconは14以上である。また,pearlite中α-Feの固溶元素としての炭素量は,試料の初期組成の平衡状態で0.01 mass%未満であるため,透過法で検出されたpearlite領域の炭素は,表面吸着層やα-Fe中の固溶炭素ではなく,θ-Fe3C中の炭素を最も反映していると結論付けられる。

(a) Carbon K-edge spectra in areas #1–4 in Fig. 6(c) for the transmission method and surface of the sample by the CEY method, and (b) Iron L-edge spectra in areas #1 and #4 in Fig. 6(c) for the transmission method and surface of the thin film sample by the CEY method. (Online version in color.)
Fig.7(b)に,Fig.6(c)の#1, 4の透過法,試料表面のCEY法での鉄L端のXASスペクトルを示す。鉄L端のXASスペクトルは708.0 eVの強度で規格化した。炭素K端と同様に,pearlite領域のCEY法での鉄L端のXASスペクトルは,粒状のθ-Fe3C領域のそれと同じであったため,試料表面の鉄L端のスペクトルは薄片試料全体の平均としてFig.7(b)に示した。粒状とpearlite中ラメラ状のθ-Fe3Cの透過法のXASスペクトルにおいて,酸化由来のスペクトル形状は確認されなかった。CEY法で計測した試料表面の鉄L端のXASスペクトルには710.0 eVに鉄酸化物由来のピークが観測された。以上より,試料表面は酸化しているが,透過法でXASスペクトルを計測することで,試料内部を反映した鉄L端のXASスペクトルが計測できることがわかった。
次に,Fe-C合金中の粒状やラメラ状のθ-Fe3Cにおける炭素の化学状態をXASスペクトルの第一原理計算の結果に基づいて議論したい。Fig.7(a)に示す様に,θ-Fe3Cの炭素K端のXASスペクトルには,(A)E=283.0–286.5 eV,(B)E=286.5–290.0 eVの領域に2種類のピークが存在する。この2つのピーク比は,粒状とラメラ状のθ-Fe3Cで異なることがわかった。この差異はFe-C合金中のθ-Fe3Cの形態や組織形成過程に生じた応力や欠陥に由来すると推測される。Taniyamaら25)やKosakaら26)は,pearlite中θ-Fe3Cがb軸方向に数%程度弾性的に歪んでいると報告している。そこで,粒状とラメラ状のθ-Fe3Cの炭素K吸収端スペクトルの差異を考察するために,第一原理計算(PAW法,VASP)と多重散乱計算(全ポテンシャル法,FPMS)を行った。具体的には,(1)b軸の伸び率(Δb/b)の変化する場合(Table 2)と,(2)Fig.8に示した各結晶面に垂直にX線が照射された場合を想定して計算を行った。前者は応力の効果を考慮した場合であり,後者はθ-Fe3CのXASスペクトルの結晶異方性の影響を考えた場合である。本計算では,格子定数aとcは固定した。
| Δb/b | 0 | 0.01 | 0.05 | 0.1 |
| a (nm) | 0.5036 | 0.5036 | 0.5036 | 0.5036 |
| b (nm) | 0.6725 | 0.6791 | 0.7060 | 0.7396 |
| c (nm) | 0.4480 | 0.4480 | 0.4480 | 0.4480 |
| Total energy (eV) | −135.344 | −135.327 | −134.977 | −134.108 |

(a) Crystal structure of θ-Fe3C as seen from the a-axis, (b) b-axis, and (c) c-axis. (Online version in color.)
まず,(1)の場合を考える。θ-Fe3Cの炭素K端のXASスペクトルをTable 2に示す4条件で計算した。本計算では,単結晶に無偏光のX線を照射したと仮定し,a, b, c軸に平行にX線をそれぞれ照射した場合の平均値として算出した。Fig.9(a)に示す様に,288.2 eV付近のピーク強度がΔb/bの増加に伴い,減少することがわかった。Fig.8(a)に示す様に,θ-Fe3Cの結晶構造は,中心に炭素原子が配置し,頂点に鉄原子が配置されている三角柱が組み合わさってできた層(P層)がb軸に沿って積み重なって構成される。b軸方向の伸びは,上記三角柱の変化ではなく,それが構成するP層の間隔に影響を与えると推測される。従って,288.2 eV付近のピーク強度は,P層間の距離の増加と共に小さくなると理解でき,加えて,288.2 eV付近のピークに帰属した炭素に関連する結合は,P層間で広がっていると考えられる。つまり,P層間の結合はFe-Feの結合だけでなく,C-CやC-Fe-Cの結合にも由来していると定性的に考えることができる。また,炭素1sに由来するXASの強度は,炭素2pの非占有状態の状態密度にほぼ比例することもわかった。

(a) Carbon K-edge spectra of θ-Fe3C when the Δb/b ratio changed by +0, 1, 5, and 10%; (b) Carbon K-edge spectra assuming that X-rays were irradiated from each direction specified from (a) to (c) in Fig. 8. In calculations (a) and (b), unpolarized X-ray and polarized X-rays were assumed along each axis, respectively. (Online version in color.)
計算したXASスペクトルから,P層間のC-CおよびC-Fe-Cの結合に由来する288.0 eV付近のピーク強度は,P層内のFe-C結合に由来する286.0 eV付近のピーク強度に比べ弱いことがわかった。従って,Cに関連した結合において,P層間に広がる混成軌道はP層内に広がる混成軌道より希薄だと考えられ,Fe-Feに由来する金属結合が支配的であると推測される。また,この系のFe-C結合の特徴として,P層間の結合は,P層内の結合に比べ高エネルギーであることがあげられる。これは,炭素2pの電子がP層内よりもP層間で強い結合エネルギーを持つことを意味し,θ-Fe3Cにおける弾性率の異方性の起源であると推測される。しかし,実験の285.0 eVのピーク強度は288.0 eVのピーク強度と同等であるため,実験で得られたXASスペクトルの形状を計算で再現することはできなかった。Taniyamaら25)やKosakaら26)が報告したように,pearlite中のθ-Fe3CのΔb/bは正の値である。本計算結果では,粒状のθ-Fe3C(Δb/b~0)の方が288.0 eV付近のピーク強度は,pearlite中θ-Fe3C(Δb/b>0)の同強度に比べて強いことが予想される。これらの計算はYoshimotoら9)の報告と同様の条件で実施され,その結果と一致している。
次に,(2)の場合を考える。Fig.9(b)は,各結晶軸に平行は方向からX線を照射した場合に得られる炭素K端のXASスペクトルである。X線吸収における結晶異方性の影響は,288.0 eV付近のピーク強度に敏感であるが,実測された粒状とラメラ状のθ-Fe3CのXASスペクトルを再現することはできなかった。従って,粒状とpearlite中ラメラ状のθ-Fe3Cの化学状態(炭素K端のXASスペクトル形状)で計測された差異を,応力や結晶異方性で説明することはできなかった。結晶欠陥等の組織形成過程で影響を受ける因子を考慮することで,実験結果を再現できる可能性がある。各試料位置におけるθ-Fe3Cの炭素K端のXASスペクトルは,Fig.2(a)-(d)の各試料位置におけるθ-Fe3CのEuler角(Table 1)から計算される係数と,Fig.9(b)に示した各軸に平行に照射したと仮定した3つのスペクトルを用いて,線形結合で記述できる。その線形結合の係数は,次の様に計算される。Fig.3のデカルト座標系の基底ベクトル((a 0 0),(0 b 0),(0 0 c))をTable 2のEuler角を式(7)に適用することで回転させる。a, b, cはθ-Fe3Cの格子定数である。求める係数は,(0, 1, 0)(X線の入射方向)を回転後の規格化された基底ベクトルで表現する際の係数である。
| (7) |
算出された係数をTable 3に示す。Fig.7(a)に示した実験で得られたXASスペクトルと,Table 3の各係数をFig.9(b)の各XASスペクトルに乗じた線形結合のXASスペクトルをFig.10に示す。θ-Fe3CのX線吸収における結晶異方性を考慮しても,実験で得られたXASスペクトルを再現することはできなかった。これらの計算結果はYoshimotoら9)の結果と一致していることから,応力を仮定した際の結論と同様,格子欠陥などの他の要因を考慮するべきことが示唆された。以上の様に,実験で計測された粒状とラメラ状のθ-Fe3Cの化学状態の差異の起源を,b軸方向の応力や結晶異方性で再現することはできなかった。
| Ca (a-axis) | Cb (b-axis) | Cc (c-axis) | |
|---|---|---|---|
| #1 | 0.87 | 0.31 | 0.38 |
| #2 | 0.89 | 0.44 | 0.13 |
| #3 | 0.91 | 0.26 | 0.33 |
| #4 | 0.50 | 0.24 | 0.83 |

(Solid line) Measured carbon K-edge spectra by STXM same as those of #1-4 in Fig. 7 (a), (Doted line) Calculated carbon K-edge spectra (without stress) of θ-Fe3C in each crystal orientation of #1-4 in Fig. 2. (Online version in color.)
上記の実験と計算の結果から,P層内(286.0 eV付近)とP層に垂直な方向(288.0 eV付近)に伸びたFe-Cの結合由来のXASスペクトル強度は,θ-Fe3Cの形態(粒状,ラメラ状)によって変化することが示唆された。さらに,ラメラ状のθ-Fe3CのP相内のFe-Cの混成軌道は粒状のそれよりも希薄だと示唆された。微細組織の形成過程において,局所的な炭素含有量の空間分布は分配則27)に従って組織の形態によって変化する。これが,結晶構造中の炭素の各原子サイトの占有率に影響を与える可能性がある。本研究では,ラメラ状θ-Fe3CのXASスペクトルは1箇所のみで計測した。上記の炭素の組織内の空間分布と炭素の化学状態の関係を考察するためには,より広い観察視野での化学状態の情報収集が重要である。
鉄鋼材料中の炭素の化学状態を調べるために,STXMでFe-C合金中の炭素の微細組織が観察できるかを検証した。STXMを用いて,α-Feとθ-Fe3Cの約100 nm間隔のラメラ組織であるpearliteの微細構造を炭素K端の吸収で可視化することに初めて成功した。具体的には約50 nmの空間分解能で特定の試料位置におけるXASスペクトルが抽出可能であった。
さらに,試料表面と内部の化学状態の比較をするために,STXMの透過法とCEY法の同時計測技術を開発し,それらのXASスペクトルを比較することで,透過法で試料内部の原子情報を反映したXASスペクトルが得られることを実証した。また,粒状とラメラ状のθ-Fe3Cで化学状態(炭素K端のスペクトル形状)が異なることを明らかにした。
上記の粒状とラメラ状のθ-Fe3C中炭素の化学状態の差異の起源を考察するために,b軸に平行な応力やθ-Fe3Cの結晶異方性を考慮した第一原理計算を実施したが,実験結果を再現することはできなかった。応力やX線吸収における結晶異方性だけでなく,形態による微小な結晶構造の差異や欠陥を考慮することで,実験を再現できる可能性があると推測される。
今後の展望として,STXMにおいて,大気被暴露で試料を装置に搬入できるシステムの構築により,従来よりも試料表面の汚染を軽減した状態での計測が可能になり,α-Feやmartensiteなど炭素含有量の低い組織への適用が期待される。このシステムを用いて,TEMでは困難な各結晶相における炭素の組成や化学状態の分布と応力分布の関係を調査することが可能である。一般に,元素分配量やその空間分布を計測するためにはTEMやAPTが広く用いられてきたが,炭素の化学状態そのものに関する情報は殆ど得られていなかった。特に,熱処理中に溶解し結晶性が低い相中の添加元素の化学状態や粒界でのCとFeの結合状態を考察するためには,TEMやAPTでの計測が困難であり,本研究でその適応可能性と有用性が確認されたSTXMの利用が期待される。
薄片加工における技術的な助言と支援を賜った日鉄テクノロジー⑭の松本道明氏に感謝致します。また,高エネルギー加速器研究機構の間瀬一彦教授に放射光実験についての有益な議論をしていただきましたので,感謝の意を表します。なお,高エネルギー加速器研究機構の放射光実験は,課題番号2015C206, 2019C202で実施した。