2024 年 110 巻 8 号 p. 621-631
The effects of retained austenite upon softening during low-temperature tempering at 373 K were investigated using martensitic carbon steels with and without retained austenite. To increase the amount of retained austenite, 10 mass% Ni was added to the base carbon steel (Fe-0.3C alloy). During tempering, the hardness decreased more rapidly in the Ni-added steel containing 6 vol.% retained austenite than in the base steel without retained austenite. Analyses of the microstructure and the carbon content in the solid solution (i.e., the solute carbon concentration) revealed that the retained austenite tended to suppress carbide precipitation and significantly reduced the solute carbon concentration in the martensitic matrix. We demonstrated that retained austenite acts as an effective absorption site for solute carbon in the martensitic matrix; however, the partitioned carbon is unevenly localized near the martensite/austenite interface, owing to the poor diffusivity at 373 K.
炭素鋼マルテンサイトに473 K以下の温度で施される低温焼戻しは,焼入時に導入された残留応力を低減する効果がある一方で,微細な下部組織や高い転位密度を維持することができるため,高い硬さを保ったまま靭性を向上させることができる1)。しかし,低温焼戻しによる靭性向上効果は限定的であり,現在ではその用途としては靭性よりむしろ耐摩耗性や耐疲労特性が要求されるシャフトや工具などの機械的構造材料に適用されるのが一般的である。一方で,構造用鋼ではより高い靭性が求められており,673 K以上の高温焼戻しにより強度を犠牲にすることで靭性の向上が図られている。よって,低温焼戻しによって高温焼戻しと同等の靭性向上を実現できれば,焼戻マルテンサイト鋼のさらなる用途拡大に繋がるであろう。
マルテンサイト鋼の硬さは転位密度や残留応力と比較して,固溶炭素量の影響を強く受けるため,低温焼戻マルテンサイト鋼の機械的性質の向上においては固溶炭素量の制御が鍵を握っているといえる。しかし,特に低炭素鋼の場合には焼入れにおいて炭化物析出を伴うため,一般的に固溶炭素量の定量分析は容易ではない。近年ではマルテンサイト鋼中の炭素分布を評価する手段として,3次元アトムプローブ(3DAP)2,3,4)やField Emission Electron Probe Micro Analyzer(FE-EPMA)5)が普及しているが,これらの解析では必ずしも固溶・偏析・析出等の炭素原子の状態を識別できるわけではなく,得られる情報が極めて局所的である。一方で,平均的な固溶炭素量を得ることができる電気抵抗測定法は,硬さや引張強度といった機械的性質の調査において非常に有効な手段である。Masumuraら6)は,異なる添加炭素量のマルテンサイト鋼を用いて,マルテンサイトにおける固溶炭素量と比抵抗の関係を定式化することで,比抵抗を用いた簡便な固溶炭素評価法を確立し,炭素鋼マルテンサイトの低温焼戻しにおける固溶炭素量の連続的な変化を定量評価できることを実証した。
本研究では,残留オーステナイトを含む炭素鋼マルテンサイトの低温焼戻挙動の調査に電気抵抗測定法を適用した。ここで,焼戻しにおいては固溶炭素がマルテンサイトから残留オーステナイトへと拡散することで,マルテンサイト中では固溶炭素量が減少し,残留オーステナイト中では固溶炭素量が増加するような炭素分配が生じると考えられるため,マルテンサイト基地中に分散した残留オーステナイトは,特に添加炭素量が比較的高い場合には,焼戻時のマルテンサイト中の固溶炭素変化量に影響を与える可能性があるといえる。また,炭素分配によりマルテンサイト中の炭化物析出量や残留オーステナイトの安定度が変化すると考えられる。したがって,マルテンサイト鋼の機械的性質を制御する上では,この炭素分配挙動の理解が重要であるが,マルテンサイト鋼の低温焼戻挙動に及ぼす残留オーステナイトの影響について議論した例はほとんどない。
本研究では,焼入れしたFe-2 mass% Mn-0.3 mass% C合金および,炭素分配の効果を高めるため,これに10 mass%のNiを添加することで意図的に残留オーステナイト量を増加させた二種の合金を使用した。両鋼の結果を比較することで低温焼戻時の軟化挙動に及ぼす残留オーステナイトの影響を明らかにし,焼戻マルテンサイト鋼の固溶炭素量と硬さの関係について議論した。
本研究では,供試材としてFe-2 mass% Mn-0.5 mass% Si-0.3 mass% C合金(0.3C鋼)およびFe-2 mass% Mn-0.5 mass% Si-0.3 mass% C-10 mass% Ni合金(0.3C-10Ni鋼)を使用した。各合金の詳細な化学組成および熱膨張試験により得られたマルテンサイト変態開始温度(Ms)をTable 1に示す。
C | Si | Mn | Ni | P | S | Fe | Ms [K] | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
0.3C | 0.30 | 0.50 | 1.97 | <0.003 | <0.002 | 0.0010 | Bal. | 653 |
0.3C-10Ni | 0.30 | 0.49 | 2.03 | 10.00 | <0.002 | 0.0009 | Bal. | 488 |
15 mm×15 mm×60 mmの棒材に対して,まず1373 Kで1.8 ksのオーステナイト化処理を施した後に水冷し,さらに後述する電気抵抗測定時において安定な残留オーステナイトのみを残す目的で,液体窒素を用いて77 Kで600 sのサブゼロ処理を行った(焼入材)。0.3C-10Ni鋼については,残留オーステナイト量を調整する目的で最大20%の冷間圧延を施した(CR材)。その後,シリコーンオイルバスを用いて373 Kで焼戻処理を施した(焼戻材)。なお,実験に供しない時間は室温時効を抑制するために258 Kで保管した。
2・2 組織解析電界放出型走査電子顕微鏡(SEM;加速電圧;20 kV;SIGMA 500,Zeiss社製)による電子線後方散乱回折(Electron Backscatter diffraction:EBSD)法により組織観察を行った。SEM-EBSD観察の試料については,表面をエメリー研磨紙による湿式研磨後,ツインジェット法による酢酸過塩素酸(CH3COOH:HClO4=9:1)での電解研磨(25 V-30 mA-120 s)を施すことで作製した。また,インコラム型エネルギーフィルターを搭載した透過型電子顕微鏡(TEM;加速電圧:300 kV;JEM-3200FSK,JEOL社製)を用いて残留オーステナイトおよび析出炭化物の観察を行った。TEM観察に用いた試料は,まず3φ×15 mmの領域を切り出し,次いで3φ×1 mmに切断した。その後,厚さが約80 µmになるまで両面を湿式研磨,ダイヤモンドスラリーによるバフ研磨仕上げを行った。さらに,ツインジェット法による酢酸過塩素酸(CH3COOH:HClO4=9:1)での電解研磨(15 V-20 mA-180 s)を施すことで薄膜化した。
残留オーステナイトの有無については,Cu管球を搭載したX線回折装置(XRD;管電圧:40 kV;管電流:15 mA;Aeris,Malvern Panalytical社製)を用いて確認した。XRDの試料については,表面を湿式研磨した後に,機械研磨による加工層の影響を考慮して,リン酸クロム酸(H3PO4:CrO3=2:1)を用いることで50 µm以上の電解研磨を施して作製した7)。残留オーステナイト体積率(fγ)については,磁場550 kA / m2の条件で試料の飽和磁化(Is)を実測して次式から算出した。
(1) |
ここで,Is*は被測定物がマルテンサイト単一組織の時に得られる標準飽和磁化である。なお,Isの測定には4 mm×4 mm×30 mmの角棒を用いた。
TOF型中性子回折装置(ビームサイズ:20 mm×20 mm;iMATERIA,J-PARC)を用いて,焼戻しにおけるマルテンサイトからオーステナイトへの炭素分配を評価した。回折ラインプロファイルはBackscatter(BS)バンク(145°<2θ<175°)から取得し,測定には6 mm×8 mm×65 mmの角棒試験片を用いた。
試料の転位密度(Ndis)をmodified Williamson-Hall/Warren-Averbach法(mWH/WA法)8,9)により算出した。XRD装置および試料作製方法は,上述の残留オーステナイト有無の調査と同様である。Masumuraら10)は焼入れままの炭素鋼マルテンサイトでは,その高い正方晶性に起因して,mWH/WA法ではNdisを過大評価してしまうが,0.55 mass% C鋼において焼戻パラメータ(TP=T×(logt+20)11),T:焼戻温度[K],t:焼戻時間[hr])が12000~13000程度の焼戻材では回復に伴う転位密度の低下は生じず,かつマルテンサイトの正方晶性の影響を無視できることから,焼入材の真の転位密度を算出できることを報告している。そこで,本研究における焼入材のNdisの算出には,573 K-600 ks焼戻材(TP=12700)を利用した。
試料の固溶炭素量(Csol)を77 Kでの四端子法を用いた電気抵抗測定法る6)により算出した。試料については,まず1 mm×1 mm×50 mmの角棒を切り出し,その後エメリー研磨紙で湿式研磨することで作製した。試料を液体窒素中(77 K)に60 s保持したのち,電流の向きを変え2回測定し,その平均値を比抵抗の測定値とした。ここで,比抵抗においてはマティーセンの法則(ρ=ρL+ρi)が成立することが知られており,ρLは格子振動に由来するため温度依存性を有するが,ρiは不純物等に由来し温度依存性はないため,液体窒素中で測定することによりρLの影響を極力除外した。ここで,マルテンサイトのみからなる炭素鋼のCsolは次式で表されることが報告されている6)。
(2) |
ここで,ρtotalは実測比抵抗,ρFeは77 Kでの純鉄の比抵抗(=0.00704 mΩmm),Δρsub,Δρdis,Δρ HAGBはそれぞれ置換型元素,転位,大角粒界による比抵抗変化であり,これらの影響についてはそれぞれ次式で与えられる6)。
(3) |
(4) |
(5) |
ここで,NHAGBは大角粒界密度である。残留オーステナイトを含む試料におけるマルテンサイトの比抵抗は,複相組織における比抵抗の混合モデル12)を適用して次式から算出した。
(6) |
ここで,ρα’,ργはそれぞれマルテンサイトおよびオーステナイトの比抵抗である。先行研究13)において,Fe-2 mass% Mn-0.5 mass% Si-(0.3-0.9) mass% C-10 mass% Ni合金の焼入材を用いてργとCsolの関係を次のように定式化した。
(7) |
しかし,後述する通り,0.3C-10Ni鋼の焼入材では自己焼戻しが生じており,式(7)ではその影響を考慮できていない。そこで,自己焼戻しがほとんど生じていないと考えられるFe-2 mass% Mn-0.5 mass% Si-(0.45-0.9) mass% C-10 mass% Ni合金のデータを利用することで,ργとCsolの関係式を以下のように修正した(詳細についてはSupporting Informationを参照)。
(8) |
一部の試料については炭素原子の分布を評価するために,3次元アトムプローブ解析(3DAP;レーザーパルス周波数:250 kHz;パルスエネルギー:30 pJ;試料温度:50 K;ベース電圧:3~7 kV;CAMECA LEAP 4000 XHR)を実施した。3DAP解析には,まず酢酸過塩素酸(CH3COOH:HClO4=3:1,AC:10 V)を使用し,次に過塩素酸ブトキシエタノール(HClO4:C4H9OC2H4OH=1:49,DC:15 kV)を使用する2ステップの電解研磨によって作製した針状試料を使用した。
ビッカース硬さ試験機(荷重:98 N;保持時間:10 s;AVK-A hardness tester,AKASI社製)を用いて試料の硬さ測定を行った。測定は一つの試料について中心部に12点行い,そのうち最大値・最小値を除いた10点から平均値を算出した。残留オーステナイトを有する試料については,実測ビッカース硬さ(HVtotal)がマルテンサイトの硬さ(HVα’)と残留オーステナイトの硬さ(HVγ)および残留オーステナイト体積率(fγ)を用いて以下の近似式で表されると仮定してHVα’を見積もった。
(9) |
ここで,HVγはCohen14)によって報告された次式から算出した。
(10) |
Fig.1にSEM-EBSDにより得られた0.3C鋼の焼入材(a,d),0.3C-10Ni鋼の焼入材(b,e)および0.3C-10Ni鋼の20%CR材(c,f)の結晶方位マップおよびphaseマップを示す。phaseマップでは,赤色でBCC鉄,緑色でFCC鉄を表している。いずれの焼入材[Fig.1(a, b)]においても典型的なラスマルテンサイト組織が得られた。0.3C-10Ni鋼では0.3C鋼と比較してわずかにブロックが微細化し,平均ブロック幅はそれぞれ0.3C鋼で1.23 µm,0.3C-10Ni鋼で0.91 µmであった。なお,0.3C鋼の焼入材ではマルテンサイト単一組織が得られているのに対し,0.3C-10Ni鋼の焼入材ではFig.1(e)において黄色矢印で示すように,ブロック境界に塊状の残留オーステナイトの存在が確認できる。一方で,Fig.1(f)に示す0.3C-10Ni鋼の20%CR材ではほとんどの残留オーステナイトが消失していることが分かる。Fig.2に0.3C-10Ni鋼の焼入材の明視野像(BF)(a),同視野で取得した制限視野電子線回折図形(SAEDP)(b),キーダイアグラム(c)およびSAEDPにおいて灰色で囲んだスポットにおける暗視野像(DF)(d)を示す。Fig.2(d)で示すように,マルテンサイトラス間にフィルム状の残留オーステナイトの存在が確認できる。8つの視野を用いて平均の残留オーステナイト幅を算出すると約50 nmであった。これらの残留オーステナイトは,周囲のマルテンサイトと次式に示すKurdjumov-Sacksの結晶方位関係を満たしていることを確認している。
Crystallographic orientation maps of (a) as-quenched 0.3C, (b) 0.3C-10Ni, and (c) 20%CR 0.3C-10Ni steels, and phase map of (d) as-quenched 0.3C, (e) 0.3C-10Ni, and (f) 20%CR 0.3C-10Ni steels. In the phase maps, red and green regions indicate BCC and FCC iron, respectively. In Fig. 1 (e), retained austenites are denoted by yellow arrows. (Online version in color.)
(11) |
(a) TEM BF image of as-quenched 0.3C-10Ni steel, (b) selected area electron diffraction pattern, (c) key diagram, and (d) TEM DF image of the region in Fig. 2(a), where diffraction vector Z = 110γ.
Fig.3に0.3C-10Ni鋼の焼入材および20%CR材のX線ラインプロファイルを示す。焼入材では残留オーステナイトに由来する明瞭な回折ピークが確認できるが,20%CR材ではピークが確認できず,ほぼ完全に残留オーステナイトが消滅している事が分かる。そこで,0.3C-10Ni鋼の20%CR材はマルテンサイト単一組織であると仮定し,式(1)におけるIs*を0.3C-10Ni鋼の20%CR材の飽和磁化量とすることで,0.3C-10Ni鋼における圧延に伴う残留オーステナイト体積率(fγ)の変化を飽和磁化測定により算出した結果をFig.4に示す。残留オーステナイトが完全に消失する20%冷間圧延材まで圧延率の増加に伴いfγは単調に減少しており,焼入材における残留オーステナイト量は6%と算出された。
X-ray line profiles of as-quenched 0.3C-10Ni steel and 20%CR 0.3C-10Ni steel.
Change in volume fraction of retained austenite as a function of rolling rate in 0.3C-10Ni steel.
ここで,たとえ焼入材であっても,焼入時に自己焼戻しが生じることで炭素が均一に分布しているとは限らない。0.3C鋼のMsは653 Kであり,炭素が十分に拡散できる温度であるため,Ms直下で変態したマルテンサイトでは炭素の偏析や析出が生じる可能性がある15)。実際に,Masumuraら6)は0.3C鋼焼入材の炭素分布を3DAPにより調査しており,焼入時の自己焼戻しにより,焼入材であっても添加炭素量(Ctotal)の約半分が既に偏析・析出していることを報告している。本研究で使用した試料においても同様の自己焼戻しが生じる可能性があるため,0.3C-10Ni鋼の焼入材の炭素分布について3DAPを用いて調査した。Fig.5にEBSDにより得られた0.3C-10Ni鋼の焼入材のImage Quality(IQ)マップ(a),Invers Pole Figure(IPF)マップ(b),phaseマップ(c)およびFig.5(c)で黒い四角で囲んだ領域の炭素原子マップ(d),さらにFig.5(d)で黒い四角で囲んだ部分において灰色の矢印方向に解析した,炭素量およびニッケル量のプロファイル(e)を示す。マルテンサイト・残留オーステナイト界面には6 at.%を超える著しい炭素濃化が生じている一方,マルテンサイト中の炭素量はCtotalと比較して半分以下の濃度にまで減少していることが分かる。なお,ニッケルは両相ともに添加量と一致した。また,Fig.5(d)において黒の矢印で示した部分のように,炭化物と推測される大きさ数nm程度の炭素濃化領域が確認された。以上の3DAP解析により,0.3C-10Ni鋼の焼入材では,一部の炭素原子が既にマルテンサイト格子中から析出または分配により離脱していることが明らかとなった。
(a) IQ map, (b) IPF map, (c) phase map, (d) carbon atom map at the region enclosed by the black square in the phase map, and (e) C concentration and Ni concentration profiles analyzed along the gray arrow in the region enclosed by the black square and belonging to the gray arrow in the carbon atom map of the 3DAP specimen for as-quenched 0.3C-10Ni steel. In Fig. 5(c), red and green regions show BCC and FCC iron, respectively. (Online version in color.)
3DAP解析の結果(Fig.5(d))からも分かる通り,0.3C-10Ni鋼の焼入材でもマルテンサイト中に炭化物が析出していると考えられるので,析出炭化物の状況を明らかにするために,TEMによる組織観察を行った。Fig.6に0.3C-10Ni鋼の焼入材のBF(a),同視野で取得したSAEDP(b),キーダイアグラム(c)およびSAEDPで灰色で囲んだスポットにおけるDF(d)を示す。Fig.6(d)に示す通り,マルテンサイト母相中に大きさ数nmの粒子の存在が確認できる。Fig.6(b)における回折斑点の解析を行った結果,準安定炭化物であるη炭化物(Fe2C:斜方晶)がマルテンサイト母相と(110)α’//(020)ηの結晶方位関係を有して析出していることが分かった。Luら16)はFe-15 mass% Ni-1 mass% C合金の室温時効材においてマルテンサイト母相とη炭化物の結晶方位関係を調査し,母相の入射方位が[001]α’の場合に結晶方位関係(110)α’//(020)ηが成立すると報告しており,今回得られた結果と一致する。ここで,マルテンサイトは非常に不均一な組織を有しており,析出炭化物の測定量は変態温度に依存して,マルテンサイトブロック毎に異なる可能性がある。そこで,複数試料・複数視野を用いて約50枚のTEM写真を解析することで,平均析出炭化物量の定量評価を試みた。Fig.7に白の丸で0.3C鋼の焼入材,白の四角で0.3C-10Ni鋼の焼入材のTEMで得られた平均炭化物体積率(fη)について,観察回数とその試行回数での平均値の関係を整理した結果を示す。観察回数が少ないうちは平均値の変化が大きいが,約30回以上の観察で平均値が収束する傾向が見られた。fηは0.3C鋼の焼入材で3×10−3,0.3C-10Ni鋼の焼入材で1×10−3と算出され,0.3C-10Ni鋼では0.3C鋼と比較して3分の1程度しか炭化物が析出していないことが明らかとなった。以上のことから,0.3C-10Ni鋼焼入材では低いMsに起因して自己焼戻しが抑制され,炭化物析出量が0.3C鋼と比較して低減した可能性に加えて,Fig.5(e)で示したように,残留オーステナイトへの炭素分配によりマルテンサイト中の固溶炭素量が低下した可能性が考えられる。
(a) TEM BF image of as-quenched 0.3C-10Ni steel, (b) selected area electron diffraction pattern, (c) key diagram, and (d) TEM DF image of the region in Fig. 6(a), where diffraction vector Z = 001η.
Average volume fraction of η carbide (as calculated from TEM results) as a function of the number of observations.
焼入材の固溶炭素量(Csol)を電気抵抗測定法で見積もった結果,Table 2に示す通り,0.3C鋼で0.13mass%,0.3C-10Ni鋼で0.15mass%であり,Ctotalに対するCsolの割合(Xsol=Csol/Ctotal)は,0.3C鋼で0.44,0.3C-10Ni鋼で0.50であった。自己焼戻しに伴うCsolの低下が0.3C-10Ni鋼では0.3C鋼と比較して抑制されていることが分かる。また,焼入材のビッカース硬さ(HVtotal)については0.3C鋼で569 HV,0.3C-10Ni鋼で607 HVであり,残留オーステナイトの影響を式(8,9)を用いて補正すると,0.3C-10Ni鋼の焼入材におけるマルテンサイトの硬さ(HVα’)は631 HVと見積もられ,0.3C鋼の焼入材の硬さよりも約60 HV高い値が得られた。Fig.2に各焼入材の大角粒界密度,ブロック幅,転位密度,η炭化物体積率,残留オーステナイト体積率,比抵抗,固溶炭素量,Ctotalに対するCsolの割合(Xsol=Csol/Ctotal),平均ビッカース硬さおよびマルテンサイト硬さ(HVα’)をまとめた。
High-angle grain boundary density (/ m) | Block width (µm) | Dislocation density (/ m2) | Volume fraction of η carbide. | Volume fraction of retained γ | Electrical resistivity (mΩmm) | Solute C concentration (mass%) | Xsol | Vickers hardness (HV) | HVα’ (HV) | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
0.3C | 1.73 × 106 | 1.23 | 4.24 × 1015 | 3 × 10−3 | − | 0.234 | 0.13 | 0.44 | 569 | 569 |
0.3C-10Ni | 3.94 × 106 | 0.91 | 4.45 × 1015 | 1 × 10−3 | 0.06 | 0.404 | 0.15 | 0.50 | 607 | 631 |
Fig.8に373 K焼戻しに伴う比抵抗変化を示す。本研究における焼戻条件では置換型元素の拡散や回復に伴う転位密度の変化および粒界移動はほとんど生じない1)ことから,比抵抗変化は主にCsolの減少に起因すると考えられる。なお,本研究における焼戻条件では残留オーステナイトの分解は生じないことを飽和磁化測定により確認している。残留オーステナイトが存在しない0.3C鋼および0.3C-10Ni鋼の20%CR材の比抵抗は緩やかに単調減少した。それに対して,残留オーステナイトを含む0.3C-10Ni鋼の無加工材では急激に比抵抗が減少している事が分かり,マルテンサイト中のCsolの減少速度が大きいことがうかがえる。
Variation in electrical resistivity as a function of tempering time.
Fig.9に373 K焼戻材の硬さの測定値(a)および焼入材からの硬さ変化(b)を焼戻時間で整理した結果を示す。残留オーステナイトが存在しない0.3C鋼および0.3C-10Ni鋼の20%CR材では,短時間の焼戻し(~1 ks)で硬化し,その後軟化に転じている。著者ら17)は,0.3C鋼における焼戻しに伴う硬化が,微細な準安定炭化物の析出に起因することを過去に報告しており,0.3C-10Ni鋼の20%CR材でも同様に準安定炭化物の析出により硬化したと考えられる。それに対して,残留オーステナイトが存在する0.3C-10Ni鋼の無加工材では,硬化せずに急速に軟化した。
(a) Vickers hardness (HVtotal) and (b) change in HVtotal as a function of tempering times.
0.3C-10Ni鋼における単調軟化の原因を調査するために,TEMを用いて焼戻しに伴う炭化物析出について調査した。前掲のFig.7に黒の丸で0.3C鋼の3 ks焼戻材,黒の四角で0.3C-10Ni鋼の3 ks焼戻材のη炭化物体積率(fη)について示している。0.3C鋼では3 ksの焼戻しによりfηが約1.7倍に増加しており,これが硬化に寄与したと考えられるが,0.3C-10Ni鋼では焼入材と焼戻材でfηがほとんど変化しておらず,焼戻しによって析出硬化を生じるに至らなかったと考えられる。しかしながら,0.3C-10Ni鋼では0.3C鋼と比較して焼戻しに伴い比抵抗,すなわちCsolが急速に低下していることは事実であるから,0.3C-10Ni鋼ではマルテンサイト母相から残留オーステナイトへの炭素分配の影響が顕著であり,それによって軟化が加速したと考えるのが妥当である。
3・3 焼戻しに伴う固溶炭素挙動に及ぼす残留オーステナイトの影響0.3C-10Ni鋼の焼戻しに伴う残留オーステナイト中のCsolの変化を調査する目的で,中性子回折法を用いて焼戻前後のマルテンサイトおよび残留オーステナイトの回折ラインプロファイルの変化を調査した。Fig.10に中性子回折で得られた,0.3C-10Ni鋼の焼入材および600 ks焼戻材のマルテンサイト(a)および残留オーステナイト(b)の200ピークの中性子回折ラインプロファイルを示す。Fig.10(a)に示すように,焼戻しに伴いマルテンサイトの正方晶性に由来する高面間隔側のピークの広がりが小さくなっており,マルテンサイト母相のCsolが低下したことで正方晶性が低下したことがうかがえる10)。一方でFig.10(b)に示すように,残留オーステナイトの200ピークは焼戻前後で変化しなかった。焼戻しに伴いマルテンサイト母相から残留オーステナイトへの炭素分配が生じているにもかかわらず,焼戻前後でピークに変化が生じていないことから,固溶炭素が残留オーステナイトの内部にまで拡散できず,マルテンサイト・オーステナイト界面に偏在している可能性が疑われる。
Neutron diffraction line profiles of (a) 200α’ and (b) 200γ in 0.3C-10Ni steel.
そこで,0.3C-10Ni鋼の600 ks焼戻材における残留オーステナイト中の炭素分布を3DAPにより調査した。Fig.11にEBSDにより得られた0.3C-10Ni鋼の焼戻材のIQマップ(a),IPFマップ(b),phaseマップ(c)およびFig.11(c)で黒い四角で囲んだ領域の炭素原子マップ(d),さらにFig.11(d)で黒い四角で囲んだ部分において灰色の矢印方向に解析した,炭素量およびニッケル量のプロファイル(e)を示す。マルテンサイト・残留オーステナイト界面に幅数nm程度の炭素濃化領域が確認できるが,残留オーステナイト中心部分の炭素量はCtotal(=1.4 at.%)からほとんど変化していないことが分かる。なお,ニッケルの分配は確認されなかった。このように焼入材の結果とほとんど変化がないことから,600 ksの焼戻後においても残留オーステナイト中心まで炭素が拡散できていないことが明らかとなった。
(a) IQ map, (b) IPF map, (c) phase map, (d) carbon atom map for the regio shown by the black square in the phase map, and (e) C concentration and Ni concentration profiles analyzed along the gray arrow at the region shown by the black square in the carbon atom map of the 3DAP specimen for 0.3C-10Ni steel tempered at 373 K for 600 ks. In Fig. 11(c), red and green regions show BCC and FCC iron, respectively. (Online version in color.)
この炭素の拡散挙動を理論的に考察するために,拡散方程式を用いた熱力学モデルから焼戻材の残留オーステナイト中の炭素濃度プロファイルの予測を試みた。Fig.12(a)に示すような板状のマルテンサイトおよび残留オーステナイトが交互に並んだモデルを考える。残留オーステナイトの幅はTEM観察で得られた平均値である50 nmとした。さらに,373 Kの焼戻しにおいては,マルテンサイト・オーステナイト間で界面平衡が成立していると仮定する。炭素分配の計算には,Speerら18)が提唱しているConstrained-Carbon-Equilibrium(CCE)モデルが用いられる場合が多い。CCEモデルにおける平衡状態は,
(1)鉄原子および置換型原子の拡散は全く起きず,マルテンサイト・オーステナイト界面が移動しない。
(2)炭素の拡散は自由に起きる。
(3)炭化物の析出が完全に抑制される。
という3つの条件が成り立つ場合における,系の自由エネルギーの最小化状態を表している。しかし,本研究では上述したように準安定炭化物であるη炭化物が析出するため,平衡状態の計算にはTojiら19)が提唱している,CCEモデルを基に炭化物の析出も考慮したConstrained-Carbon-Equilibrium accompanied by cementite(θ)precipitation(CCEθ)モデルを適用した。CCEθモデルとは,マルテンサイト・オーステナイト・セメンタイト三相の化学ポテンシャルが等しい熱力学的条件を考慮した平衡モデルであり,(1)セメンタイトがマルテンサイト中に析出し,(2)マルテンサイト・オーステナイト界面の移動が無く,(3)炭素原子の拡散のみが生じることが仮定されている。CCEθモデルを仮定することで,以下の熱力学的条件式から平衡固溶炭素量(C*)を求めることができる。
(12) |
(13) |
ここで,
(14) |
(a) Schematic drawing of 0.3C-10Ni steel and (b) solute carbon concentration profiles in a film-like austenite for as-quenched and tempered 0.3C10Ni steel, as estimated using Fick’s second law.
ここで,G(Fe2C)はFe2Cの自由エネルギーである。式(13,14)を用いて373 KにおけるC*を見積もると,1.6 mass%(7.2 at.%)と算出された。なお,熱力学データはThermo-CalcのTCFE12データベースの値を使用した。
そこで,マルテンサイト・オーステナイト界面での固溶炭素量を7.2 at.%と固定し,Fickの第二法則から導かれる以下の式を適用することで残留オーステナイト中における炭素濃度プロファイル(C(x, t))の算出を試みた。
(15) |
ここで,x[m]はマルテンサイト・オーステナイト界面からの距離,t[s]は焼戻時間,D[m2/s]はオーステナイト中における373 Kでの炭素の拡散係数(D=3.68×10−24[m2/s]20))である。式(15)においては初期炭素量(C(x, t=0))がCtotalに等しいと仮定しているものの,Fig.5(e)に示したように0.3C-10Ni鋼の焼入材では既に残留オーステナイトへの炭素分配が生じており,マルテンサイト・オーステナイト界面に約5 nmの炭素濃化領域が存在していることから,初期炭素量プロファイルではこの自己焼戻しの影響を考慮する必要があるといえる。式(15)から算出したt=600 ksにおける炭素濃度プロファイルをFig.12(b)に破線で示す。この場合の炭素濃化領域の幅は約5 nmであり,Fig.5(e)に示した炭素濃化領域とほぼ一致することから,これを残留オーステナイト中の初期炭素濃度プロファイルと仮定して議論を進める。つまり,0.3C-10Ni 鋼の373 K焼戻材の炭素濃度プロファイルは次式で見積もることができる。
(16) |
式(16)から算出した373 K-600 ks焼戻材における炭素濃度プロファイルをFig.12(b)に実線で示す。373 Kでは炭素の拡散が不十分であり,炭素が幅約10 nmの領域に偏在していることが分かり,これは3DAPの結果(Fig.11(e))と一致する。このように,残留オーステナイト中に分配した炭素が残留オーステナイト中心部まで拡散できず,マルテンサイト・オーステナイト界面に偏在していることから,中性子回折では焼戻前後で残留オーステナイトの格子定数にほとんど変化が見られなかったと考えられる。
Fig.13に,焼戻しに伴うマルテンサイト中のCsolの変化を式(2, 3, 4, 5, 6, 8)を用いて電気抵抗測定法で見積もった結果を示す。残留オーステナイトが存在する0.3C-10Ni鋼では,0.3C鋼と比較して焼戻しに伴うマルテンサイト中のCsolの低下が著しく,焼入材では0.3C鋼のものを上回っていたCsolが,600 ks焼戻後では下回っていることが分かる。Fig.14に,焼戻しに伴うマルテンサイトの硬さ(HVα’)を式(9, 10)で見積もった結果を示す。残留オーステナイトが存在する0.3C-10Ni鋼においては,0.3C鋼と比較してHVα’が大幅に低下した。我々の先行研究17)において,Fe-2Mn-0.5Si-C合金における硬さとCsolの関係を調査しており,炭素による固溶硬化(ΔHVsol.C)は以下の式で与えられることを報告している。
(17) |
or
(18) |
Variation of solute carbon concentration in martensite as a function of tempering time.
(a) Vickers hardness of martensite (HVα’) and (b) change in HVα’ as a function of tempering time.
Fig.15に本研究で得られたHVα’とCsolの関係を既報のデータ17)と比較した結果を示す。両鋼ともに式(17,18)の曲線に沿って軟化していることが分かり,373 K焼戻しに伴う軟化は主にCsolの低下に起因していることがうかがえる。
Relationship between solute carbon concentration and Vickers hardness of martensite.
0.3C-10Ni鋼においては,焼戻しに伴って残留オーステナイト中への炭素分配が生じることにより,著しくマルテンサイト中のCsolが減少することで軟化が促進されたと考えられる。すなわち,過飽和固溶炭素を含むマルテンサイトを焼戻すと,残留オーステナイトが炭素の吸収サイトとして働くことで軟化を加速させることが明らかとなった。以上のように,残留オーステナイトは低温焼戻しにおける組織および機械的性質の変化に大きく影響することが示された。
(1)残留オーステナイトを含む炭素鋼マルテンサイトの低温焼戻しでは,残留オーステナイトへの炭素分配が進行することで,マルテンサイト母相中の固溶炭素減少速度が大きい。一方で,残留オーステナイトを含まない炭素鋼マルテンサイトと比較して,低温焼戻しに伴う準安定炭化物析出は抑制される。
(2)残留オーステナイトを含む炭素鋼マルテンサイトの低温焼戻しでは,残留オーステナイトを含まない炭素鋼マルテンサイト鋼と比較して軟化速度が大きい。これは,マルテンサイト母相中の固溶炭素減少速度が加速されることに加え,炭化物析出が抑制されることに起因する。
(3)残留オーステナイトを含む炭素鋼マルテンサイトの低温焼戻しでは,残留オーステナイト中に分配した炭素がマルテンサイト・オーステナイト界面に偏在している。
(4)残留オーステナイトは低温焼戻しに伴うマルテンサイト母相における固溶炭素挙動に大きく影響するため,残留オーステナイトは低温焼戻しに伴う組織や機械的性質の変化において重要な要素である。
Modification of the relationship between electrical resistivity and solute C concentration in retained austenite.
This material is available on the website at https://doi.org/10.2355/tetsutohagane.TETSU-2024-029.
本研究における中性子回折実験に際しまして施設・装置を利用させて頂きました,J-PARC物質・生命科学実験施設(proposal No. 2018PM0008)に心から謝意を表します。