鉄と鋼
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論文
高Si急速焼戻し鋼の水素脆化特性およびその特性に及ぼす炭化物と残留γの影響
砂子 真魅 水本 政隆大井 梓多田 英司
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2024 年 110 巻 8 号 p. 632-641

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Abstract

Automotive suspension springs are required to be high-strength and lightweight, and currently have a maximum strength of 2000 MPa. In addition, they must have high resistance to hydrogen embrittlement in the service environment. From previous researches, Si addition or rapid tempering improve the hydrogen embrittlement resistance of low alloy steel. In this study, we investigated the hydrogen embrittlement properties of steel samples with different Si contents and tempering rates and the effects of the fine iron carbides and retained austenite on its properties for 2000 MPa suspension spring steel. JISSUP7 (2.0Si) and SAE9254 (1.4Si) spring steels were tempered at different tempering rates by induction (IH) and furnace heating (FH) methods. Four-point bending tests under corrosion cycles were performed on these steels, and the time to failure was measured. The results show that the 2.0Si-IH steel with higher Si content and higher tempering rate has the longest fracture life and highest resistance to hydrogen embrittlement, even with relatively high diffusible hydrogen content. The size and volume fraction of iron carbides and retained austenite were evaluated by TEM, EBSD, and synchrotron XRD, and the 2.0Si-IH steels were found to have the smallest size and the highest volume fraction of fine iron carbides Fe2-3C(ε) and the highest amount of retained austenite. It is considered that the fine iron carbides of Fe2-3C(ε) work as hydrogen trap sites and that their high dispersion suppresses dislocation movement. They suppress hydrogen accumulation in stress concentrated areas and are expected to improve resistance to hydrogen embrittlement.

1. 緒言

自動車は従来から燃費向上のため軽量化の取り組みが進められている。近年は電動化やハイブリット化により高燃費の車体が増えているが,バッテリーによって車体重量は増加傾向にあり,部品の軽量化は益々重要な課題となっている。自動車の足回り部品である懸架ばねに対しても軽量化が進められている。同時に,耐荷重および耐疲労性の維持が求められており,引張強度2000 MPaまで高強度化が進んでいる。懸架ばねの課題としては,腐食反応で生じた水素による水素脆化が挙げられる。懸架ばねは防食のため樹脂塗装を施しているが,走行中の飛び石や,ばねとその支持台との摩擦による塗装の剥離を避けることが難しい。この部分に,雨水や大気中の水分が付着すると鋼の腐食が発生し,それにともなって鋼中に水素が侵入し,水素脆化が発生する恐れがある。そのため,高強度ばねを安全に運用し,更なる軽量化を図るには耐水素脆性の向上が必要である。

既往より,高強度鋼材の耐水素脆化向上策としては,炭化物による水素トラップや転位の運動抑制が報告されている1,2,3)。懸架ばね鋼においても,水素トラップや転位のピン止め効果が高いVやTiを添加し,それらの炭化物を析出させた鋼種が開発されている4,5)。しかしながら,将来的な資源枯渇や供給変動のリスクを考慮すると,VやTiなどの貴金属を含有しない低合金鋼の活用が重要と考えられる。そこで,本研究ではSi添加と急速焼戻しを組み合わせた鉄炭化物Fe2-3C(ε)の微細分散化に着目した。

Matsumotoらは,引張強さ1450 MPaの高周波焼入れ焼戻しマルテンサイト鋼についてSi量が多いほど炭化物が微細化し,耐水素脆性が向上することを報告している6)。Siは焼戻し時に六方晶のε炭化物(以降,Fe2-3C(ε)と記述)から斜方晶のセメンタイト(以降,Fe3C(θ)と記述)への遷移を遅延させ,炭化物の粗大化を抑制する。炭化物が粒内に微細分散し,さらに転位が炭化物にピン止めされることで,粒界破壊が起こりにくくなると考察している。炭化物微細化の手法としては,従来から急速焼戻しの研究も報告されている7)。前述のSi添加と急速焼戻しを組み合わせることで,より微細な鉄炭化物が得られることが期待される。また,近年ではFe2-3C(ε)は水素トラップ能を有する可能性が示唆されている8)。特にSi添加鋼に析出したFe2-3C(ε)は化学量論組成よりも低いC濃度(25 at.%)であり,炭素空孔サイトに水素がトラップされる可能性が指摘されている9,10)。Zhuらは,3Dアトムプローブ分析を用いてSi添加Q-P-T(Quenching Partitioning & Tempering)鋼に析出したFe2-3C(ε)の内部に水素がトラップされていることを確認している11)。さらにTeramotoらは,中炭素Si-Cr鋼は,特に低温焼戻し(673 K付近)で,Fe2-3C(ε)の析出量が増加し,水素トラップ量が最大になることを報告している12)。以上の研究から,低合金鋼を用いて高強度と耐水素脆性を両立させるためには,Si添加と急速焼戻しを組み合わせた炭化物の微細分散化,またFe2-3C(ε)による水素トラップの活用が有効であると考えられる。

一方,Euserらは,Si添加量が多く,焼戻し速度が速いほど,鋼中の残留γ量が増加することを報告している13)。Siはオーステナイト(γ)中のC濃度を高めることで残留γを安定化させる。また,急速焼戻しは,熱による残留γの分解を抑制するため,残留γ量を増加させる。特に低温焼戻しの高強度鋼では残留γが生じやすく,耐水素脆性への影響に留意する必要があると考えられる。残留γが耐水素脆性に及ぼす影響としては,γへの水素の固溶,あるいはγ/α界面への水素トラップによる特性向上が報告されている14)。一方で,残留γは応力負荷によって加工誘起マルテンサイトに変態し,γにトラップされた水素が母相界面に集積して,水素脆化割れを助長することも示唆されている15)。したがって,Si添加と急速焼戻しの組み合わせでは,炭化物微細化だけでなく,残留γの増加の影響についてもあわせて考慮する必要がある。

上記したように,Si添加と急速焼戻しを施した鋼について,炭化物Fe2-3C(ε)もしくは残留γの耐水素脆性を検討した研究はあるが,これら両者に着目し,耐水素脆性への影響を考察した研究は見当たらない。各相が水素脆化におよぼす影響を明らかにすることができれば,高強度ばね鋼の耐水素脆性向上に向けた添加元素の種類,量や熱処理法の創出につながると期待できる。そこで,本研究では,まず2000 MPaの高強度ばね鋼を用いて,Si量と焼戻し速度の異なる供試材を作製し,水素脆化特性の調査を行った。また,供試材に含まれるFe2-3C(ε)および残留γのサイズ,体積率が水素脆化特性に及ぼす影響を調査した。最後に,本研究で得られた結果をもとに高Si急速焼戻し鋼の水素脆化機構の考察を行った。

2. 実験方法

2・1 供試材

供試材は,Si量が異なるJISSUP7(2.0Si)とSAE9254(1.4Si)の2種類のばね鋼を用いた。Table 1にそれらの化学組成を示す。これらの鋼の引抜材(ϕ13 mm)に対し,Fig.1に示す焼入れ焼戻し熱処理を行った。本研究では,結晶粒径の違いが水素脆化におよぼす影響を排除するために,焼入れは誘導加熱(IH)で統一し,焼戻しはIHと炉加熱(FH)を用いた。供試材の硬さは,焼戻し条件を調整し,実用ばね鋼相当であるHV 600(2000~2100 MPa)とした。Table 2は,供試材の機械的特性と旧オーステナイト(γ)結晶粒度を示したものである。旧γ結晶粒度は,JIS G0551:2020(鋼−結晶粒度の顕微鏡試験方法)16)に従い,焼入れ焼戻し材をピクリン酸飽和水溶液でエッチングを行った後,標準図比較法を用いて評価した。機械的特性は,JIS Z2241:2011(金属材料引張試験方法)17)に従い,14A号試験片を用いて引張速度10 mm/minにて測定した応力−ひずみ関係から評価した。また,シャルピー衝撃値は,JIS Z2242:2018(金属材料のシャルピー衝撃試験方法)18)に従い,10×5×55 mmのサブサイズ試験片(Uノッチ深さ2 mm,ノッチ底半径1 mm)を用いた室温における試験から求めた。引張試験の伸び,絞りおよびシャルピー衝撃値は,Si量が最も多く,焼戻し時間が短い20Si-IH鋼で最も大きい傾向であった。

Table 1. Chemical composition of the steel used in this study (mass%).

CSiMnCrPS
2.0SiJISSUP70.582.00.90.20.0110.003
1.4SiSAE92540.511.40.70.70.0140.004
Fig. 1.

Schematic illustration of heat treatment of the specimens.

Table 2. Prior austenite grain size number and mechanical properties of the specimens.

Prior austenite grain size
number
Vickers
hardness
(HV0.2)
Tensile
strength
(MPa)
0.2% offset
yield strength
(MPa)
Total
elongation
(%)
Reduction
of area
(%)
Charpy impact value
(J/cm2)
2.0Si-IH10.2597200418591156113
1.4Si-IH10.358619871834105074
2.0Si-FH10.76122103197695241

2・2 水素脆化特性の評価

各供試材の水素脆化特性の評価としては,ばねの使用環境を考慮し,複合腐食サイクル試験(Cyclic Corrosion Test; CCT)下で4点曲げ試験を行った。Fig.2は,評価に用いた試験片形状であり,平行部100 mmのダンベル型である。Fig.3は,水素脆化特性評価の試験方法の概略を示したものである。試験片にひずみゲージを貼り,4点曲げ治具を用いて,試験片に予め所定の曲げ応力を負荷した後,CCT槽内に配置した。破断寿命は,治具に取付けたショックセンサーによって,試験片が破断する時に出力される電気信号を検知することで評価した。CCTサイクルは,自動車技術協会規格JASO M60919)を採用し,35°C,5 mass% NaClの連続噴霧過程を2 h行った後,60°C,20~30%RHでの乾燥過程を4 hと50°C,95%RHでの湿潤過程2 hからなる乾湿過程を1サイクルとして,試験片が破断するまで繰り返した。試験後,破断起点および破面形態を調査するために,破面を10 mm程度に切り出し,中性錆取り剤(エスクリーン,佐々木化学薬品)にて除錆を行い,洗浄・乾燥したものを走査型電子顕微鏡(SEM,SIGMA,Carl Zeiss製)にて観察した。また,破断部近傍の腐食形態を観察するため断面観察を行った。このとき,試験片は熱硬化性樹脂で包埋し,エメリー紙で♯2000まで研磨後,さらにコロイダルシリカを用いて鏡面研磨を行った。

Fig. 2.

Dimensions of the specimen for evaluation of hydrogen embrittlement properties.

Fig. 3.

Schematic illustration of the test for evaluation of hydrogen embrittlement properties. (Four-point bending test in CCT).

破断後の試験片について,拡散性水素量を昇温脱離法(TDA)により測定した。測定用試験片は破断部から5 mm程度離れた試験片平行部から長さ10 mmを切り出し,ベルダー研磨(♯80)にて除錆を行った。水素分析装置には,鋼材中水素測定システム(JTF-20A,ジェイサイエンス製)を使用し,室温から300°Cまで昇温速度100°C/hで昇温し,放出された水素量の積算値を拡散性水素量として求めた。

2・3 組織観察

各供試材に含まれる炭化物のサイズや分布を調査するために透過型電子顕微鏡(TEM,JEM-2100F,JEOL製)にて観察を行った。ϕ13 mmの丸棒を精密切断機により厚さ0.5 mmに切断し,表面両側から60 µm厚までSiC研磨紙で研磨を行い,その後ϕ3 mmのディスク形状に打抜いたものに両面ジェット電解研磨を行った。

また,炭化物のサイズは,画像処理ソフトImage Jを用いて,TEM写真から20~40個のフィルム状炭化物の幅と長さを計測することで評価した。また,残留γのサイズや分布は,電子線後方散乱回折法(EBSD)にて評価した。この場合も,ϕ13 mmの丸棒から長さ10 mmの部分を切り出し,熱硬化性樹脂に包埋,SiC研磨紙で♯2000まで研磨後にコロイダルシリカを用いて鏡面研磨を行った。観察は走査型電子顕微鏡(JSM-7000,JEOL製)および結晶方位解析装置(OIM,TSL製)を用いて行った。残留γのサイズは,式(1)を用いて,面積から円相当直径として算出した。観察装置の分解能を考慮し,円相当直径50 nm以上の残留γを計数した。

  
D=4Aπ(1)

  •                     D:円相当直径(mm)
  •                     A:面積(mm2

また,各供試材における炭化物と残留γの体積率は,X線回折法(XRD)を用いて測定した。このとき装置は,放射光施設SPring-8 BL19B2の多目的ハイスループット回折計(Polaris)を用いた。ϕ13 mmの丸棒のd/4位置から放電加工機にてϕ0.5 mmの円柱を採取後,電解研磨にてϕ0.2 mmの形状に調整した。解析範囲は2θ=2.095°~55°とした。XRDデータを,JADE Pro(MDI製)によりリートベルト解析し,炭化物と残留γの体積率の半定量解析を行った。

3. 実験結果

3・1 水素脆化特性の評価

Fig.4は,各供試材に対して異なる負荷応力でCCT試験を行ったときの破断寿命を示したものである。同図中には,TDAにより分析した拡散性水素量も示した。図に示すように,いずれの負荷応力においても,破断寿命は2.0Si-IH鋼>1.4Si-IH鋼>2.0Si-FH鋼の順に長くなった。すなわち,IH焼戻し鋼では,Si量が多い方が破断寿命が2倍以上長く,高Si鋼が低Si鋼よりも耐水素脆性が優れるとしたMatsumotoらの報告6)と一致した。また,2.0Si鋼ではIH焼戻しにより,通常のFH焼戻しよりも破断寿命が2~10倍長くなった。図中の拡散性水素量の結果から,2.0Si-IH鋼は,他の供試材と比較して,同等かそれ以上の拡散性水素を含んでいるが,破断寿命が長い傾向が認められた。一方,2.0Si-FH鋼は0.04 ppm以下と極微量な拡散性水素量しか検出されなかったが,いずれの負荷応力においても破断しており,IH鋼の2種と比較すると熱処理の違いによる金属組織の差異が破断寿命に影響したことが示唆された。

Fig. 4.

The relationship between bending stress and fracture time of high-Si bearing QT steel with different Si contents and tempering rates.

Fig.5は,破断後の試験片の破面および腐食ピット形態を示したものである。破断後に発生した腐食により,破面形態の詳細は不明瞭にはなったが,1.4Si-IH鋼では粒界破壊であることを確認しており,水素脆化による破断であると考えられる。いずれの試験片も破壊起点と予想される表層部には,深さ20~40 µmの腐食ピットが認められた。破断部近傍の断面観察にて腐食ピット形態を観察したところ,破断寿命が長い試験片の方が,腐食ピットのサイズは大きいことが確認された。2.0Si-IH鋼は,最も腐食ピットが大きいが,破断しにくい傾向が認められた。

Fig. 5.

SEM micrographs of fractured surfaces and cross-section image of the specimens after 4-point bending test under CCT conditions.

3・2 組織観察

本供試材について熱処理の違いによる炭化物および残留γのサイズや分布への影響を調査した。炭化物の観察結果をFig.6に示す。図より,いずれの供試材も主要な炭化物は幅10~20 nm,長さ50~200 nmのフィルム状Fe2-3C(ε)が認められた。特に,2.0Si-IH鋼のFe2-3C(ε)は最も微細であった。1.4Si-IH鋼は2.0Si-IH鋼と比較すると,Fe2-3C(ε)の長さが長い傾向が見られた。また,球状のFe3C(θ)炭化物がまばらに認められた。これはSi量が1.4%と低いため,焼戻し過程で一部のFe2-3C(ε)がFe3C(θ)に変態した可能性が考えられる。2.0Si-FH鋼は比較的長時間の焼戻しにも関わらず,炭化物はFe2-3C(ε)のみであり,Fe3C(θ)は認められなかった。このことは,Si添加量が2.0%と高いため,Fe2-3C(ε)からFe3C(θ)への変態が抑制されたためであると考えられる。ただし,2.0Si-FH鋼のFe2-3C(ε)は,長さ,幅ともにIH鋼よりも粗大化していた。なお,いずれの供試材も炭化物の析出サイトは主にラス粒内であり,粒界析出量に顕著な違いは確認されなかった。この結果は,Matsumotoらの研究において,高Si鋼では炭化物の粒内析出,低Si鋼では粒界析出が生じるという報告と異なる。現在その理由は定かではないが,Matsumotoらの低Si鋼(0.2%Si)よりも本供試材のSi量が多いため,いずれも粒内析出が主となり顕著な差異が生じなかったことが原因であると考えられる。

Fig. 6.

TEM micrographs of the carbides of each specimen with different Si contents and tempering rates.

また,炭化物による転位のピン止めを確認するため,2.0Si-IH鋼を用いて転位の分布を観察した。結果をFig.7に示す。Fig.7(a)に示す通り,図の中心部に部分的に転位密度の高い領域が見られ,この領域にはFe2-3C(ε)も同様に密集していることが分かった。Fig.7(b)は前述の領域を拡大した図であるが,炭化物の長手方向に対して直交する転位が多く認められた。また,転位が炭化物間に停留している様子が見られ,炭化物によって転位運動が抑制されていることが推察された。

Fig. 7.

TEM micrograph of dislocation pinning by Fe2-3C(ε) in 2.0Si-IH steel.

Fig.8はSEM-EBSDにて残留γの分布を観察した結果である。残留γのサイズは2.0Si-IH鋼が最も大きく,1.4Si-IH鋼,2.0Si-FH鋼の順に小さくなることを確認した。いずれの供試材も残留γはラス粒界や旧γ粒界に分布する傾向であった。

Fig. 8.

The distribution of retained γ of each specimen with different Si contents and tempering rates (green: γ, red: α).

各供試材中の炭化物と残留γの体積率を求めるため,放射光XRD測定を実施した。Fig.9は,各供試材の回折プロファイルを示したものである。炭化物はいずれの鋼種もFe2-3C(ε)のみ検出された。Fe2-3C(ε)の回折ピーク強度において,供試材間の差異は軽微であったが,1.4Si-IH鋼が若干小さい傾向が認められた。なお,回折プロファイルからは,Fe3C(θ)は検出されなかった。TEM観察では1.4Si-IH鋼に球状のFe3C(θ)がまばらに認められたが,それが微量であるためXRDでは検出できなかったと推定される。一方,残留γの回折ピークは,2.0Si-IH鋼>1.4Si-IH鋼>2.0Si-FH鋼の順に高く,SEM-EBSDの結果とも傾向が一致した。Si添加量が多く,焼戻し速度が速いほど残留γが増加するという傾向はEuserら13)の報告とも一致していた。

Fig. 9.

Synchrotron XRD profiles of each specimen for estimating the volume fraction of Fe2-3C(ε) and retained γ.

Fig.10(a)および(b)は,各供試材に含まれるFe2-3C(ε)および残留γの形状,体積率を箱ひげ図を用いて整理したものである。Fig.10(a)に示すように,2.0Si-IH鋼(高Si急速焼戻し鋼)の炭化物の長さ,幅の中央値はともに最も小さく,体積率は,FH焼戻しと同等の高い体積率となっていることがわかる。すなわち,2.0Si-IH鋼は微細炭化物が多く分散した組織であると考えられる。これはSi添加と急速焼戻しの相乗効果によって炭化物の微細析出が促進されたためであるいえる。一方,1.4Si-IH鋼は2.0Si-IH鋼よりもFe2-3C(ε)の体積率が小さく,2.0Si-FH鋼はFe2-3C(ε)のサイズが粗大化していることがわかった。

Fig. 10.

The size and volume fraction of Fe2-3C(ε), (a) and retained γ, (b) of the specimen.

Fig.10(b)は,本供試材に含まれる残留γのサイズ,体積率を示したものである。2.0Si-IH鋼は最も微細炭化物が多く分散した組織であるが,同時に残留γ量も多い特徴があることが分かった。

4. 考察

4・1 水素脆化特性に及ぼすFe2-3C(ε) の影響

Fig.4およびFig.10(a)の結果から,Fe2-3C(ε)のサイズが最も小さく,また体積率が最も高い2.0Si-IH鋼において水素脆化の破断寿命が最も長かった。緒言で述べた通り,炭化物は微細分散化による析出強化,すなわち転位運動抑制によって耐水素脆性を向上させる可能性が示唆されている。本研究で用いた4 点曲げ試験は静荷重であるが時間経過に伴って微小なクリープ変形が生じており,転位運動が水素脆化に影響しうると推察している。炭化物の微細分散による析出強化機構は,炭化物の硬さやサイズの違いによって粒子切断機構とOrowan機構が提唱されている20)。粒子のサイズが非常に小さい場合,粒子は転位の通過により切断されることで転位運動を抑制する。一方,粒子が大きくなると,転位は粒子を切断できなくなり,転位が粒子間に張り出し,ループを形成して通過する。粒子による析出強化量は,粒子切断機構からOrowan機構に遷移する臨界粒子径において最大になる。鉄鋼に含まれる炭化物の臨界粒子径について,Fe3C(θ)は18 nm,TiCは6 nm,Mo2Cは12 nmであり,いずれも数nm~十数nmであると報告されている21)。これまでFe2-3C(ε)を対象に析出強化機構を調査した研究は少なく,Fe2-3C(ε)の臨界粒子径を報告した例は見当たらない。しかし,Fe2-3C(ε)の臨界粒子径も前述の炭化物と同等と仮定すると,本供試材のFe2-3C(ε)の幅は12~20 nmであり,臨界粒子径に非常に近いサイズであることがわかる。ただし,Fe2-3C(ε)の長さは50 nm以上であり臨界粒子径より大きい。そのため,転位のすべり方向と炭化物の向きの関係にもよるが,粒子サイズから考えると本供試鋼における転位運動は主にOrowan機構であると推察される。Orowan機構において,変形に必要な応力は,式(2)で定義され,炭化物間距離が短いほど大きくなる22)

  
σ=Gbλ(2)

  •                     G:剛性率(80.6GPa)
  •                     b:バーガースベクトル(0.24824 nm)
  •                     sλ:粒子間距離(nm)

炭化物間距離は,炭化物のサイズが小さく,体積率が大きいほど短くなる。以上の考察に基づくと,2.0Si-IH鋼は本供試材の中で炭化物間距離が最も短いため,転位が最も動きにくい状態であることが予想される。Teramotoらは本研究と同様の2.0%Si添加マルテンサイト鋼を用い,Fe2-3C(ε)が転位運動を阻害することで,降伏強度が高くなることを報告している22)。このTeramotoらの報告と前述の析出強化機構を基にした考察を合わせると,本供試材の微細分散した鉄炭化物が転位運動を抑制し,それによって耐水素脆性の向上に寄与したことが考えられる。

また,Fe2-3C(ε)は水素トラップ能を有すると報告されている8)。トラップ機構としては,炭素空孔サイトへのトラップ,化合物Fe2HCの形成や炭化物周りの整合ひずみ場へのトラップなどが示唆されている8)。いずれの水素トラップ機構の場合も,Fe2-3C(ε)の体積率は大きいほうが水素トラップ量は多くなると考えられる。また,ひずみ場へのトラップの場合,析出サイズは小さいほうが比表面積が増加するため,水素トラップ量が多くなると予想される。

Fe2-3C(ε)について転位の運動抑制および水素トラップに着目し考察を行ったが,いずれにおいても炭化物は体積率が大きく,析出サイズが小さいことは,耐水素脆性において優位に作用すると推察される。既往の研究では,転位の運動過程において,転位が粒界にパイルアップし,粒界への応力やひずみの集中が粒界破壊を助長する23)ことや,転位が水素を応力集中場に輸送することなどが報告されている24)。したがって,耐水素脆性向上には,2.0Si-IH鋼のように微細炭化物を高密度に析出させ,応力集中部への転位の運動を抑制することならびに水素の輸送を抑制することが重要と考えられる。

4・2 耐水素脆化に及ぼす残留γの影響

Fig.4およびFig.10(b)の結果から残留γのサイズや体積率が大きいほど耐水素脆性が高いことが示唆された。しかし,緒言で述べた通り,残留γは水素の固溶,あるいはγ/α界面への水素トラップ効果25)がある一方で,加工誘起マルテンサイトへの変態によって耐水素脆性を悪化させるとの報告もある15)。また,最も耐水素脆性が高い2.0Si-IH鋼では,残留γと同時に微細炭化物も多く含有しており,いずれの相が特性向上に寄与しているか明らかではなかった。そのため,残留γを含む供試材(2.0Si-IH鋼,1.4Si-IH鋼)を焼鈍し,γ相を低減させることで耐水素脆性への影響を考察した。焼鈍は供試材の硬さが低下しないよう焼戻し温度より低温で実施した。

残留γ低減材の水素脆化特性をFig.11に示す。いずれの鋼種および焼鈍条件においても,残留γが減少するほど破断寿命が増加した。したがって,残留γは耐水素脆性の向上に寄与しておらず,むしろ破断寿命を低下させると考えられる。既往の研究を参考にすると,応力集中部において残留γが加工誘起マルテンサイト変態し,破断寿命を低下させた可能性が考えられる。しかし,現状では変態の有無に関しては明らかではなく,今後の調査課題である。

Fig. 11.

Hydrogen embrittlement properties of retained γ reduced specimen with annealing. (Annealing condition ①300°C×20 min, ②440°C×10 s)

4・3 高Si急速焼戻し鋼の水素脆化機構

4・1および4・2の考察から,高Si急速焼戻し鋼(2.0Si-IH鋼)において炭化物は水素脆化特性を向上させるが,残留γは特性向上に寄与しないことが推察された。最後に,Si添加量と焼戻し速度の異なる他の供試材と対比しながら,高Si急速焼戻し鋼の水素脆化機構を考察した。

Fig.12は供試材の組織および水素脆化過程における転位と水素の分布状態を推定した図である。水素脆化特性評価では4点曲げ荷重を負荷しており,支点間の応力集中部に転位や水素が集中すると考えられる。また,このとき組織内ではラスや旧オーステナイトなどの粒界に転位や水素が蓄積すると推定される。2.0Si-IH鋼は4・1で述べた通り,微細炭化物が高密度に分散した組織である。水素脆化特性評価において,2.0Si-IH鋼には他の供試材よりも多く水素が侵入していた。それにもかかわらず破断寿命が最も長かった理由は,高Si添加と急速焼戻しの組み合わせにより微細分散した炭化物によって,転位と水素の移動が抑制され,局所的な転位密度や水素濃度の増加が抑えられたためと考えられる。2.0Si-IH鋼は残留γも多く含有していたが,4・2の考察に基づくと残留γは耐水素脆性の向上に寄与しなかったと考える。3・1で述べたように,Si量の少ない1.4Si-IH鋼は水素脆化特性評価において粒界破壊の様相を示していた。このことから,1.4Si-IH鋼は粒界への転位や水素の集中が起こりやすく,2.0Si-IH鋼より短時間で破断したと推定される。1.4Si-IH鋼では,2.0Si-IH鋼よりもFe2-3C(ε)が粗大であり,体積率も小さいことから,転位の易動度が高かったと考えられる。また,2.0Si-IH鋼よりもFe2-3C(ε)の体積率が小さく,水素のトラップサイトも少ないと推測される。さらに,長時間焼戻しを施した2.0Si-FH鋼は残留γをほとんど含まないにもかかわらず,水素脆化寿命は他鋼種よりも著しく短くなった。2.0Si-FH鋼はFe2-3C(ε)の体積率が2.0Si-IH鋼とほぼ同等であるが,サイズが最も大きいことから,粗大な炭化物がまばらに分散した金属組織であるといえる。したがって,炭化物による転位のピン止めや水素トラップが最も働きにくかったと推察される。粒界近傍の局所的な転位と水素の蓄積が発生することにより0.04 ppm以下の微量水素でも早期破断したのではないかと考えられた。なお,本研究ではFe2-3C(ε)および残留γへの水素トラップや,残留γの加工誘起マルテンサイト変態の有無に関しては明らかになっておらず,今後の調査課題としたい。

Fig. 12.

Schematic illustration of microstructure and expected distribution of dislocation and hydrogen in the specimens used in this study (considering the mechanism about high hydrogen embrittlement resistance of rapid tempered high-Si steel).

5. 結言

本研究では,低合金鋼の耐水素脆化向上策として,高Si急速焼戻しに着目した。2000 MPaの高強度ばね鋼を用いて,Si含有量と焼戻し条件の異なる供試材を作製し,水素脆化特性を評価した。また,Fe2-3C(ε)と残留γが水素脆化特性におよぼす影響を調査した。本研究の結果をもとに高Si急速焼戻し鋼の水素脆化機構を考察した。その結果,以下の知見を得た。

(1)水素脆化特性評価における破断寿命は,2.0Si-IH鋼>1.4Si-IH鋼>2.0Si-FH鋼の順に長く,Si添加量が多く,焼戻し速度が速いほど耐水素脆性が高くなることを確認した。2.0Si-IH鋼は他の供試材に対し同等以上の拡散性水素を含んでおり,粗大なピットが発生しているにもかかわらず破断しにくい傾向が認められた。一方で,2.0Si-FH鋼は極微量な拡散性水素量であっても破断に至った。

(2)2.0Si-IH鋼はSi添加量の増加と焼戻しの急速化によって,Fe2-3C(ε)のサイズが他の供試材に比べて最も小さく,体積率が最も大きいことから,微細炭化物が高密度に析出した組織であることが推察された。また,2.0Si-IH鋼は残留γも最も多く含有していた。Si添加量が多く,焼戻し速度が速いほど残留γが増加する傾向は既往の研究と一致していた。

(3)高Si急速焼戻し鋼は,微細炭化物が高密度に析出することで,水素脆化破壊をもたらす局所的な転位の集積や水素濃化が抑えられ,耐水素脆性が向上すると考えられた。一方,残留γは体積率が減少すると水素脆化寿命が増加したため,残留γは耐水素脆性の向上に寄与しないと推察された。

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