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早稲田大学でチベット仏教世界(チベット人、モンゴル人、満州人等)の歴史を教えている石濱裕美子と申します。本来は歴史家なのですが、二十年以上前から『ダライ・ラマの密教入門―秘密の時輪タントラ灌頂を公開する』(知恵の森文庫、光文社、二〇〇一)や、『ダライ・ラマの仏教入門―心は死を超えて存続する』(知恵の森文庫、光文社、二〇〇〇)など、チベット仏教に関する本を色々出させていただき、早稲田大学仏教青年会の顧問もつとめております。
早稲田大学の仏教青年会にも東京大学の仏青同様に古い歴史があります。早稲田には創立者大隈重信公を仏様に見立てて、それをお守りする四天王として四人の名をあげます。実質上の建学者である小野梓(一八五二―一八八六)、初代文学部長の坪内逍遥、二代目総長高田早苗、初代図書館長の市島春城の四人です。このうち夭折した小野梓の周りにいた人たちが早大仏教青年会を立ち上げたため、仏青は早大最古のサークルと言われています。早大仏青からは古寺仏研究会、座禅会、古美術研究会など仏教に関連した様々なサークルがのれん分けしました。
昨今新入生は、飲んで遊べる楽しいサークルに流れていくため、座学のサークルに人気はなく、仏青ものれん分けしたサークルも会員数が年年減り、私が早稲田に赴任した当時、仏青の実働会員数は三人から四人という目も当てられない状況でした。唯一の救いは、歴史あるサークルを潰したくない大学が、部室を召し上げることもなく生暖かく見守っていたこと。私もこの歴史あるサークルを終わらせたくないと思い、大教室の授業で仏青の歴史や仏教の魅力について話して入会を勧めてみたのですが、悲しいかな反応はゼロ。まだ何も苦労していない若い人に諸行無常や一切皆苦を説いてもピンとこないのでしょう。しかし、仏教自体が力を失っているわけではないことは、拙訳『ダライ・ラマの仏教入門』が売れたこと(この本はダライ・ラマ本の中で最初に文庫化しその後のダライ・ラマ本ブームの火付け役となった)、仏青主催で公開講演を行うと一般の方が聞きにきてくださることなどから感じ取れました。仏教の哲学なり思想なりを理解したいという人は一定数いるのです。
早大仏青はその後も新規の学生が入らないため最終的には文学部の東洋哲学科にお願いして、組織として支えていただくことになりました。しかし、東洋哲学科もお世辞にも人気があるとはいえない学科なので予断を許さない状況は続いています。これに比して、ここ東大仏青は非常に盛会で、こうやってお若い方もいらっしゃっており、あの時期のトラウマが癒されるようです。
非常にタイムリーなことに、ちょうど一週間後にダライ・ラマ法王が来日し、大阪で秘密集会尊(グヒヤサマージャ)を本尊とする灌頂(密教の入門儀礼)を授けられます(注:その後、ダライ・ラマ法王の健康上の理由から本尊が秘密集会尊からターラー尊へと変更された)。この灌頂の施主は、大阪の天王寺区にある清風学園という男子校の校長、平岡宏一先生です。私立の学校法人は一族経営が多いですが、清風学園も宏一先生の祖父である平岡宕峯先生が設立したものです。
宕峯先生は「これから日本を救うのは教育だ」と思い立ち泉佐野にあった高校を買い取りましたが、空襲で焼け、学園は存亡の危機に陥ります。宕峯先生は神仏に対する信仰の篤い方だったので伊勢神宮に参籠して祈り続けると、満願の日に「天王寺区にある廃工場が買い手を探している」という連絡が入ります。これをお告げと感じた宕峯先生は、その土地を買い取り、焼け野原にたつこの廃工場から学園を発足させました。清風学園の裏には近畿で一番施設の整った学校として知られる上宮高校という四天王寺縁の女子校があり(上宮とは聖徳太子様の別名)、その裏に清風学園はたっていたので、「一番綺麗な学校の裏に一番ぼろい学校がある」と当時は自虐していたそうです。お金を貸し渋る銀行に対して宕峯先生は「この土地は将来値があがる」とおしきって校舎をたて、学園は文武両道の名門校へと発展していきます。日本はその後高度成長期に入り、宕峯先生が銀行に対してきった啖呵は真となりました。
宕峯先生の息子さんである平岡英信先生は弘法大師信仰を学園の教育に取り入れ、毎日の朝礼で『般若心経』を唱える、一年に一度学園から高野山までの百キロを踏破するなどの学園の伝統を作り上げました。それからこれを言うと怒られそうなのですが、この学園は軍隊みたいな厳しい校風を特徴としています。たとえば、学内にある清風神社への初詣という理由で元旦から朝礼があります。元旦ですよ。また、ちょうど一週間前の日曜日のことです。灌頂に備えて作成される砂マンダラの開壇儀礼をみに清風学園にいった時、顔見知りの先生がいたので「日曜日なのに学校にいらっしゃっているのですか」と聞くと、「えぇ、まぁ、部活がありますから」と答えられたので「何の部ですか」と伺うと、「銃剣道」。私が無知なのかもしれませんが、銃剣道って部活でするものでしょうか。そもそも銃刀法違反じゃないかと(笑)。
このような環境でこの二人に育てられたのが英信先生の長男平岡宏一先生です。英信先生と宏一先生父子はもう四半世紀近くダライ・ラマ法王とチベットの僧院の支援を行っており、その流れで今回もダライ・ラマ法王の招聘元となっています。私ごとで恐縮なのですが、最近、平岡宏一先生と彼の師であるチベットの高僧ガワン先生の出会いから別れまでを、密教における師子相承の観点からルポした『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書、扶桑社、二〇一六)という本を出しました。これがホント自分でいうのも何ですが面白い(笑)。今回はこの御本に書かせていただいた平岡家とチベットの高僧たちとの師檀関係、師弟関係を題材にしてチベット仏教の哲学と行についてお話しさせていただきたいと思います。
平岡宏一先生がチベットの僧院社会に初めて触れたのは、早稲田大学第一文学部を卒業し種智院大学の大学院に在籍していた一九八五年のことでした。種智院大学の北村太道先生はチベット密教研究のパイオニアであり、当時、灌頂儀礼の研究を行っており、灌頂儀礼の際に作成される砂マンダラの調査を行うべく平岡宏一先生を含む大学院生を引率してチベット密教の二大本山のうちの一つ、ギュメ大僧院(カルナタカ州フンスール)を訪れたのです。
当時のギュメ本堂は立て付けが悪く雨漏りし、お坊さんたちは軒下で雨宿りをしていました。彼らの僧衣はぼろぼろで、栄養失調で頭に皮膚病がでており、観光客相手にTシャツを売って生計を立てていました。しかしこのような惨状にあってもお坊さんたちの表情が不思議に明るい。感銘を受けた宏一先生は帰国後に英信先生にこの状況を話しました。すると、英信先生はすぐにギュメにとんで本堂再建の支援を申し出て、寄付を募り始めました。
「外国の寺を再建するのに日本人がお金を出すだろうか」という意見は身内からもあがりましたが、当時の日本はバブル景気のまっただ中。日本中にお金が余っていたため、またたくまに二億の再建資金が集まりました。
余談ですが、平岡家の周りに集っている人々を見ると、大阪には東京にくらべて信心深い方が多いように感じます。今回も砂マンダラの作成のために十一人のギュメの僧侶が前のりしていらっしゃるのですが、これらのお坊さんたちのお食事のお世話は、学園周辺の料亭やレトスランの旦那衆が食材を自分で持ち込んで交代で作っておられます。しかもこの旦那衆たち「作らせていただいてありがとうございます」ってお礼を言って帰っていきます。東京で同じ状況になって同じことが起きるかといえば甚だ疑問でしょう。大阪の人々の心には、まだまだ「僧侶を供養する」という仏教徒としての感覚が生きていることを感じます。
英信先生がギュメ再建資金を集めている最中の一九八八年の五月七日、息子である宏一先生は高野山大学の大学院を休学してギュメ大僧院に留学しました。施主の息子なので管長の弟が世話係につき、ゲストハウスに寝起きして、年の近いケルサンというお坊さんがチベット語の口語の教師としてつく恵まれた環境でギュメでの生活が始まりました。
宏一先生がチベット語をある程度聞き取れるようになってくると、ケルサンは仏教の話をするようになりました。ある日ケルサンが「闇夜に迷う人々に、月の光が道を示すように、煩悩によって道を失っている人に僧侶は進むべき道を示すものだ」と言うのを聞いて、「自分と大して年の違わない二十七、八歳のお坊さんがなんて深い言葉を口にするのか」と、チベット仏教のただならぬ力に気づきます。
さらに宏一先生が「チベット語が聞き取れるようになってきたので、密教の勉強をしたいです」とお伺いをたてますと、僧院当局から「密教を学ぶ前に顕教を学びなさい」と言われます。この時、宏一先生は自分のいる場所は「大学」ではなく、「僧院」であることに気づきます。学生が授業を選択する大学とは異なり、「僧院」では弟子の学習内容は僧院や師が決めるのです。
チベット仏教には日本同様、顕教(ド)と密教(ガク)という概念があります。顕教は文字通り誰に対しても開かれた「顕れた教え」で、対照的に密教は「秘密」の教えです。
顕教は多くの人に対して、紙媒体や言葉を通じて人に広めることができるものです。たとえば、「人生は苦であり、苦しみの原因は我執であり、我執を消せば苦しみはなくなり、そのための道が仏の教えである、これが四つの聖なる真理(四聖諦)である」という教義は言葉や文字を介して多くの人に伝えることができます。
一方、密教は顕教で説かれた理論を意識に実現するための行の体系です。行は体をつかって行うものですから、プロのスポーツ選手に、選手の身心の状態を把握して指導するコーチが必要なように、密教においても弟子の状態を把握しながら行を指導する師僧が必要です。弟子の資質も、置かれている環境も、行の進み具合も様々ですから、ある人に対して効果を上げたことが別の人でも効果がでるとは限りません。この人に薬として効いたことが、別の人には毒になることもあります。ですから密教の法は一般化することができず、師について、その指導を受けることが重要になってきます。
後期密教の根本経典(タントラ)が符牒を用いたり文字の順序を入れ替えたり、あるいは反社会的な内容を意図的に記し、一見してその真意がわからないように書かれているのは、師について初めて本当の意味が理解できるようにしているためです。たとえば、『秘密集会タントラ』には盗みや殺人を肯定したかのような一文がありますが、ここでいう「盗む」は、仏教の境地は与えられるものではなく自分で取りにいくものだということを意味しています。
ゲルク派の宗祖ツォンカパは顕教の中心となる「空」の思想を正しく理解した後に、その理解に基づいて空を実際に認識するために密教の行に入るというカリキュラムを提唱しました。
ここでゲルク派の顕教について簡単に説明したいと思います。ツォンカパの哲学の中核には中観帰謬論証派の理論に基づく「空」理解があります。中観派には自立論証派と帰謬論証派という二大流派があり、前者は「空」はそれ自体として証明できると考え、後者は「空」は有辺と無辺、つまり実在論と虚無論の真ん中という表現によってのみ規定できると考えます。中観帰謬論証派は、「あらゆる物事には永遠不変の実体(自性)がなく、ただ名のみの存在である」と主張します。
「それはおかしい、ここにある机には実体があるじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。この場合「机がある」というような世俗的な意味でのあり方は認めており、机の本質というような永遠不変のものを否定しているのです。
キリスト教徒は神という永遠不変の存在を措定し、神様が創造した人間にも魂という不変の本質があると考えますが、仏教徒は神を措定せず、人間にも五蘊の集積体に名前がついたものとしてしかとらえません。仏教徒が認める唯一のものは因果の法則です。
チベットでは五歳ぐらいの幼少期に出家すると基本的なテクスト群を暗唱しその知識を用いてディベートを繰り返しながら十五年ぐらいの時間をかけて中観帰謬論証派の空理解に習熟していきます。優秀な人ですと二十歳ちょっと過ぎた時に博士号(ゲシェ)を獲得し、顕教のエキスパートとなります。
しかし、空を正しく理解しても、それだけでは仏様のような完璧な人格にはなりません。我々は怒りや執着が悪いことだとわかっていても、ついかっとなって暴言を吐いたりします。いくら博士号を取って空や空を認識した意識について正しく語る事ができても、実際に仏に近づいていくためには行が必要となってきます。それが密教の行です。
以上のような背景があるため、宏一先生は「まず顕教を学べ」とギュメ当局から言われたのです。
ここで、チベットのゲルク派の僧院についてお話ししたいと思います。チベットでは僧院(ゴンパ)とお寺(ツクラクカン)は別のものと認識されています。「お寺」は、由緒ある仏様や経典などが祀られ、それを目的に巡礼が集まってくる場所を指します。一方僧院はお坊さんが戒律を守りながら勉強や修行をする場所であり、イメージとしては西洋の「修道院」に近いものです。僧院はいくつかの学堂が集まって構成されており、これらの学堂の下には、無数の地域寮があります。かつてチベットの都ラサにはセラ、デプン、ガンデンという名の三大僧院がありました。一九五九年にダライ・ラマがインドに亡命すると、僧院の僧たちも難民となってインドに亡命し、難民収容所の中でも出身僧院ごとに固まって過ごしました。各僧院は七十年代に入ると南インド・カルナタカ州のチベット人居留地内に再建されていき、現在では三大僧院と二大密教学堂は再建され、それぞれの学問の伝統はかろうじてその中で維持されています。
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チベット社会では、最も敬意を払われているのは僧侶たちです。そしてこの僧侶の出世の頂点はガンデン大僧院の管長の座です。ガンデン大僧院はゲルク派の開祖ツォンカパが生前に建てた唯一の僧院なので、もっとも高い格式を誇っています。
ここで一人の男の子が出家をしてからガンデン座主になるまでの経緯を簡単に説明してみましょう。チベットでは若くして出家をする例が多く、大体、五歳か六歳ぐらいで、地方であれば地方の拠点僧院、中央チベットであれば三大僧院のいずれかに入門します。どこの僧院に入るかは先に出家している親戚や同郷の人がいることなどによって自ずと決まります。
それから、顕教の哲学の勉強が始まり、優秀な方ですと二十歳を過ぎた頃に博士号(ゲシェ)を取ることができます。博士号を取った後の身の振り方は、(一)、在籍する僧院で教授職につく、(二)、顕教で学んだ境地を意識に実現するため二大密教学堂(ギュメ、ギュト)のどちらかに一年間の期限付きで留学をする、(三)、隠遁修行に入る、の三択から選ぶことになります。二の場合、密教学堂での一年の留学期限が満了すると、元の僧院に戻りますが、密教学堂への入門が古い順から僧院内ナンバースリーのゲコ職(規律僧)がまわってくるので、その役をつとめる間は再び密教学堂に戻ります。ギュメ、ギュト二大密教学堂の管長はこのゲコをつとめた人の中から選ばれます。
そしてギュメの管長になった人の中からガンデン大僧院の二大学堂一つであるチャンツェの、ギュトの管長になった人の中からシャルツェの管長が選ばれ、このチャンツェとシャルツェの管長経験者からガンデン座主がダライ・ラマによって指名されるのです。つまり、顕教の学位を取り、密教の行を行った顕密双修の人の中から最高位の人が生まれるシステムです。
ちなみに、密教学堂には三大僧院をへず直接密教学堂に入門する密教僧(ガクパ)という一群の僧侶たちもいます。ガクパになると顕教は速習して、すぐに密教の様々な事相を学ぶことができますが、彼らの出世はゲコどまりで、僧院長になる道は開けていません。密教を学ぶことを目的として直接ギュメに入門した宏一先生は、ギュメ当局よりこのガクパのような感覚で受け入れられていたと思われ、その結果顕教の速習が課せられたものと思われます。
宏一先生に顕教の勉強を教えたのは、セラ出身で当時ギュメの副管長をつとめていたドルジェ・タシ師、もう一人はデプンで学位を取り期限付きの留学をしていたガワン・ルンドゥプ師でした。前者は彼にコンチョク・ジクメワンポ(一七二八―一七九一)が記した綱要書『宝の数珠』(リンチェン・テンワ)を、後者はツォンカパの著した『入中論』の注『密意をあきらかにするもの』(ゴンパラプセル)の手ほどきをしました。
こうして顕教を「速習」した宏一先生はいよいよゲルク派密教の所依の経典『秘密集会タントラ』を学びたいと申し出ます。しかし副管長ドルジェ・タシ師の答えは意外にも「ノー」でした。
ここで、チベットの密教についてまとめてお話ししたいと思います。
チベットにおいて密教の経典は発展段階に応じて所作タントラ、行タントラ、ヨーガ・タントラ、無上ヨーガ・タントラの四つに分類します。日本でよく読まれた『薬師経』は所作タントラ、真言宗の二大経典のうちの一つ『大日経』は行タントラ、もう片方の『金剛頂経』はヨーガ・タントラに分類されます。無上ヨーガ・タントラは日本には伝わりませんでしたが、チベットにはたくさんの無上ヨーガ・タントラの経典が翻訳され、それらはさらに父タントラ、母タントラに二分されています。
ご存じの通り、顕教では福徳と智慧の二つ(二資糧)が揃って仏になると説かれます。福徳というのは慈悲をもってすべての他者を救う行為であり、智慧は空を認識した意識です。この福徳と智慧のどちらか一方が欠けても仏になることはできません。他人を一切意に介さず、ただ智慧を得るための瞑想をしても、あるいは、仏教を理解しないまま他人を救っても、仏にはなれないのです。
顕教の福徳と智慧は密教においてはそれぞれ父尊(ヤブ)と母尊(ユム)の姿で表され、この二つが揃った仏の境地は父母尊が合体した姿(ヤブユム)で表されます。つまり、母タントラは智慧(仏の心)を身につける修行に重きをおくタントラであり、父タントラは福徳を積むための仏の体を得る修行に重きをおくタントラなのです。宏一先生がギュメで学ぼうとしていた『秘密集会タントラ』はゲルク派において父タントラの代表的経典とされるもので、仏の体である幻身を獲得するための理論と行が説かれています。
密教の父母尊の姿をみて、チベット密教においては「いかがわしい」ことが行われていると邪推される方がおられますが、戒律を遵守するゲルク派の僧侶に破戒はありません。
実例をあげますと、宏一先生の師であるガワン先生が来日された折、流れで同じタクシーにのることになった際、「女は後部座席に離れて座るのもいかん」というので私は助手席に座りました。また、ガワン先生が入院された際にも女性の看護師さんが先生の体に手を触れることがこれまたいかんということで、看護師さんには医療行為のみ行ってもらい、清拭などはお付きのお坊さんが行うことになりました。ゲルク派の宗祖ツォンカパも生涯不犯であり、死後報身になった後に成仏したと言われています。これらのエピソードが示すように、少なくともゲルク派の僧侶は密教の修行を口実に「いかがわしいこと」をすることはありません。
ツォンカパはチャンドラキールティの著作に多くを負って自らの顕教の教学を確立したため、密教においても『秘密集会タントラ』の解釈は、チャンドラキールティの注釈書を重視し、これに対して四巻にもおよぶ複注を著しました。晩年になってツォンカパは弟子たちを前に、この四巻本を手に取り「この伝統を継いでくれる者はいないか」と呼びかけますと、末席にいた若いシェーラプセンゲが立ち上がり、ツォンカパの手からその四巻本を押し頂きました。このシェーラプセンゲがたてたのがギュメ大僧院であり、彼がツォンカパの複注に対してつけた複複注、通称『ティカ』がギュメのお家芸となりました。宏一先生がギュメに留学して学ぼうとしていたのはこの『ティカ』でした。
宏一先生が『ティカ』を学びたいと申し出た時、当時ギュメの副管長であったドルジェ・タシ師は「宏一は灌頂を受けていないし、秘密集会の行は長いので、忙しい日本人は続けることができないだろう」といって一度は反対しました。しかし、奇しくも北村太道先生が施主となってギュメにおいて秘密集会タントラの灌頂が行われ、宏一先生がその通訳をつとめたことから、灌頂を受けたことになりました。
ここで密教の入門儀礼「灌頂」(ワン)について少しお話ししましょう。ある仏を本尊とする密教の行を始めるにあたっては、その本尊の灌頂を受けなければいけません。灌頂とは導師が本尊と一体化して弟子に本尊の力を授け、その本尊の境地を将来達成するための種を植え付ける儀礼です。日本の灌頂は結縁灌頂と伝法灌頂の二種類しかありませんが、チベットでは本尊の数だけ灌頂があります。
宏一先生が秘密集会タントラを学ぶことについては、最終的に当時のギュメの管長ゴソ・リンポチェの鶴の一声「『秘密集会タントラ』を学びたいという人はチベット人にはたくさんいるが、日本人は宏一一人である。やらせてみてはどうか」によって許可されました。
かくして一九八九年五月に宏一先生はロサン・ガワン先生について密教を学び始めました。ガワン先生は博士号を取得した後にガンデンで教授職についていたところ、ダライ・ラマ法王の命令によってギュメに留学にやってきたところでした。時にガワン先生が五十一歳、宏一先生が二十七歳。後に宏一先生が「ダライ・ラマ法王がガワン先生をギュメに送り込んだのは私に会わせるためではなかったかと思うんですよ」と述懐したように、二人はガワン先生が亡くなる二○○九年まで分かちがたい交流を続けました。
ここでガワン先生の前半生について簡単に紹介したいと思います。一九三七年に中央チベットに生まれ、ガンデン大僧院において出家し、実の伯父を師僧と仰いで勉強を始めました。一九五九年にダライ・ラマ法王がインドに亡命し、人民解放軍がガンデン大僧院に迫る中、ガンデンの僧侶の半分は銃をとり、半分はダライ・ラマ法王についてインドに亡命しました。ガワン先生の実兄プー・ツェリンは銃をもって飛び出していき、先生は師僧(実の伯父)とともにインドに亡命する道を選びました。ガワン先生から伺った亡命時の話は過酷なものでした。人民解放軍が国境を封鎖して亡命者狩りをしていたため、二人は食を得ることもできず、極限の飢えの中で夜間に道なき道を歩き続け、ヒマラヤを越えました。最初ガワン先生は空腹に耐えかねて人民解放軍に投降しようと言いましたが、伯父は「般若経の予言によると法王様はインドに逃れた後に世界中に仏教を広めることになる。お前はまだ若い。法王様のお手伝いをしなさい」と諭されたため、気を取り直して歩き続けたとのことです。二人は何とかインドのバクサドアルの難民キャンプにたどりつきましたが、師僧は体調を崩し、亡命ののち一年たたずして病死し、ガワン先生は一人ぼっちになってしまいました。
ガワン先生にふりかかった悲劇は当時多くのチベット人の身に起きていたことでもありました。たくさんのチベット人が、病気や飢えや戦いで命をおとし、生き延びたものは愛する家族と祖国を失う地獄を味わいました。
ガワン先生のお兄さんのプー・ツェリンは幸いにも生き延びて、七十年代に兄弟は再会を果たしましたが、銃をとった瞬間に非暴力(非殺生)の誓いを破ってしまったため兄は僧院に戻ることはできず二人は別々に暮らすことになりました。
ガワン先生は若い頃から非常に優秀なことで知られ、ガンデン大僧院のチャンツェ学堂において博士号を取る前からその秀才ぶりは六学堂に轟いていました。
ゲルク派のお坊さんは大体顕教(哲学)の得意な人と密教の得意な人に二分されます。顕教の得意な人はガンデン座主をめざして試験でかちあがるのに忙しく、試験にでない密教の勉強に熱心ではありません。一方密教僧も顕教を深く学ぶ者は少ないため結果として顕密双修の僧はほとんどいないのが現状です。しかし、ガワン先生はゲルク派には珍しい顕密双修型の高僧でした。顕教の学問については六学堂(ガンデン大僧院のチャンツェ学堂とシャルツェ学堂、セラ大僧院のセラチェ学堂とセラメ学堂、デプン大僧院のゴマン学堂とロセルリン学堂)対抗のディベート大会でトップをとっており、密教についても若い頃から密教の行に親しみ、最終的にはギュメの管長もつとめ『ティカ』の全文読誦の伝統を復興するという偉業を成し遂げました。
このように優秀な方でしたのでガワン先生が宏一先生の師匠になることが決まると、若手の僧侶たちの中には不満の意を表明する者もいました。「ガワン先生は一年という短い期間しかギュメにいないのに、なぜ外国人の講義に時間をさくのか。ギュメの僧侶にその時間を使うのが筋ではないか」という理由からです。しかしここでも管長決裁でガワン先生は宏一先生の師と決定しました。
講義は宏一先生の留学期間も二年目に入った一九八九年の七月九日に始まりました。先生が最初にテクストに選んだのは密教の諸概念を概括的に示したヤンチェンガロ(一七四〇―一八二一)著の『修行によって得られる境地とそこへ続く修行階梯』(サラム)でした。宏一先生はこのテクストの中に「成仏の際には水面から魚が飛びあがるように肉体から幻身が離脱する」という一文を見いだして驚きます。そこに長年にわたる疑問の答えがあったからです。宏一先生は早くから弘法大師の五相成身観に親しんでいましたが、「仏様になったつもりの五相成身観をいくら行っても、仏の身体的な特徴(三十二相八十種好)が備わった体にはならない。即身成仏とは何なのだろうか」と疑問に思っていました。しかし、ヤンチェンガロのこの一文によって、成仏の際には肉体とは異なる「仏の体」が生まれることがわかったのです。こうして宏一先生はさらに密教のテクストにのめりこんでいきました。
ガワン先生は興が乗ると決められた時間をこえて講義を続けるので、宏一先生は予習のために朝から晩まで部屋に閉じこもって辞書をひくこととなり外界の事情にはすっかり疎くなりました。この年昭和が終わり、ベルリンの壁が崩れ、東西冷戦が終わっていましたが、宏一先生はそのほとんどに気づいていませんでした。ある日、チベット人が食堂で「法王様が金メダルをとった」と喜んでいるので何かと思えば、ダライ・ラマがノーベル平和賞を取っていました。十一月、ギュメの事務所の机にのったヒンディー語の新聞記事にルーマニアの体制崩壊が報じられていましたが、宏一先生はヒンディー語が読めなかったのでチベット人に内容をきくと、「インドのどこかの地方で暴動がおきた」と答えたのでそう思っていたとのことです。
留学期間が終わる頃には、彼の中から留学当初の「密教を研究」しようという姿勢は消え、「法を求める」気持ちが生まれていました。そして『秘密集会タントラ』は一年や二年の勉強では会得できないことも理解していました。彼は講義の前には、チベット人の弟子が師に対して行うように、自然と三礼してカターを捧げ、法を請うようになっていました。
一九八九年の暮れ、宏一先生は留学期間をおえ日本に帰国しました。そして翌一九九〇年夏、平岡英信先生が施主となりダライ・ラマ十四世をお迎えしてギュメの本堂の落慶が盛大に行われました。その後、英信先生はステージ四のガンに罹患したものの、手術で一命を取り留め、現在に至るまで学園の理事長として現役で活躍されています。この病気で動けなかった一九九三年をのぞき、英信・宏一父子は毎夏ギュメに一週間から十日滞在し、僧侶の法話に耳を傾け、法要に参加し、灌頂を授かることをならいとしています。私は二〇一四年に同行させていただきましたが、未明から本堂で行われる法要に参加し、朝ご飯の後は高僧から法話を聞き、午後は灌頂を受けるといった具合に、僧院生活を体験できる非常に面白い旅でした。
一九九六年、ガワン先生はギュメの副管長につき、その学識にふさわしい待遇がうけられるようになりました。経済的に余裕ができた先生は即座に兄プー・ツェリンを付き人として呼び寄せ、久々に兄弟は一つ屋根の下で暮らすことになりました。台湾やシンガポールの施主もつき、彼らのお布施によって先生はガンデン大僧院に自坊を建設することもかないました。
宏一先生は帰国後、ガワン先生を何回も日本に招聘しました。とくに任期満了でギュメの管長を退任した二○○三年以後は毎年のように来日され清風学園のホールにおいて生徒の父母や大阪の経済人に灌頂を授け、また、副校長室において宏一先生に『ティカ』の個人レッスンを行いました。
[写真 2]
この写真は宏一先生の自宅マンションの仏壇を許可を得て撮ったものです。後に講演でこの写真をみせた時、宏一先生が「いつ撮ったんですか?」と驚かれていたので「先生、横にいましたよ」と反論しましたが、密教の法具は一般の目に触れないようにするものなので、本当は写真などで広く公開することはよくないのかもしれません。
中央上から秘密集会尊の仏画、その下にダライ・ラマのご真影、その下にゲルク派の開祖ツォンカパの尊像、並びに秘密集会尊の仏像です。チベットでは仏壇に祀られる仏画や仏像は自分が教えを受けた師匠などから授かる場合が多く、これらの尊像や仏画も宏一先生が折々にギュメやガワン先生から授かったものです。脇に積み重ねられた経典群は『秘密集会タントラ』関連のテクスト類です。
私ごとになりますが、私が初めてギュメ大僧院を訪れた二〇一四年のある晩、英信先生の部屋に来てくださいと言われました。行ってみますと、そこにお寺の事務長のニマさんがいらしており、その前には美しいターラー尊の仏像が置かれていました。ニマさんが「あなたはこのターラー尊の行を行っていると聞きました。これをお持ち帰りください」とおっしゃるので、非常に恐縮しつつ押し頂きました(カバンに入らないという気持ちが一瞬よぎったことは否定しません)。以来私はその尊像の前で勤行していますが、このような経緯で拝領したせいか、行を忘れたらバチがあたりそうな気がして自ずと気合いがはいります。師匠から本尊の仏像を下賜されると、弟子は修行のモチベーションがあがることが、この経験を通じて分かりました。
宏一先生は秘密集会尊の生起法を含めて毎日一時間四十分に及ぶ勤行を行っています。このような長い行を始めるに至るまではそれなりの歴史がありました。始めに、宏一先生がガワン先生に「秘密集会の行をやりたいです」と申し出たことに対し、ガワン先生が十分で読み終わる短い経典を提示しました。宏一先生はしばらくこの短い経典を読んでいましたが、やがてものたりなくなり「もっと長いのを読みたいです」と言いました。するとガワン先生は読誦に三十分くらいかかる少し長いテクストをもってきました。これも毎日読んでいるうちに二十分ぐらいで読めるようになってきたところ、来日中のダライ・ラマ法王にガワン先生と宏一先生は謁見することになりました。ガワン先生は宏一が今どんなテクストを読んでいて、今どんな行をしているのかをダライ・ラマ法王に報告すると、法王は「おぉ、そうか、じゃあそろそろ生起法をやったほうがいいな」とおっしゃるので、宏一先生が勢いで「はい、やります」と答えたことで、この長い行が始まったのです。ガワン先生は「ダライ・ラマ法王の前でやると誓ったことをやらないとバチがあたる」と釘を刺すことも忘れませんでした。生起法とは自らを本尊の姿に「生起」して仏の心と言葉と体と一体化する瞑想で、仏の宮殿からマンダラの諸尊まで観想するのでとても長いものになります。
つまり、ガワン先生は初めは短いテクストを授け、それになれて短い時間で読めるようになるとだんだん長いテクストに移行させ、頃合いを見計らってダライ・ラマ法王の前で修行の履行を誓わせ、結果として長い複雑な経典と瞑想を毎日行う習慣を身につけさせたのです。
実は、この毎日の勤行と瞑想こそが密教の行なのです。煩悩にみちた普通の人の意識を仏の境地に近づけていくのは至難の業です。一朝一夕にできるものではなく、毎日仏様になるシミュレーションを行いながら徐々に近づけていくしかありません。しかし、いきなり一時間四十五分の読経と観想をやれといってもなかなかできる人はいないでしょう。しかし、短いものから始めて徐々に長いものに移行していけば自然と長いテクストを短時間で読むことができるようになります。
子供に歯を磨くことを教えるのは大変です。しかし歯磨きは習慣化すると意識せずに毎朝できるようになり、何らかの事情で磨けない日は気持ち悪くさえ感じるものです。密教の行もこれと同じです。毎日行を続けていると自然にできるようになり、それを行わないと逆に落ち着かなくなります。毎朝の歯磨きが健康な歯を作り上げるように、毎朝の観想の積み重ねは煩悩を少しずつ鎮める手助けになります。
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この善業を習慣化することは、実は俗世間においても実行可能です。ギュメに滞在していた時、とある俗人の方が「世俗にいながら仏教の修行ができますか」とギュメのお坊さんに質問しました。するとお坊さんは「あなたもしが看護師さんなら今日も人を助けるために働こうといって働けば、それは仏教の修行と同じです。どのような仕事をやっていてもそれが自分のためではなく、人のためにやっていれば修行になります。朝起きる時は今日も一日人のお役にたとうと近い、夜寝る前には今日の自分の行いをチェックしましょう。これを毎日繰り返すだけでだんだんと心は整ってきます。」この答えが密教の行を毎日の仕事に喩えたものであることは明らかでしょう。
また、ある男性が「私は募金することが好きですが、募金をする時、自分はいい人だと満足する自分が感じられて、偽善者になったような気がして嫌な気持ちになります。どうしたらいいでしょうか」とギュメの管長に質問すると答えはこうでした。
「どんな心がけでやっても募金自体はよい行動です。毎日毎日やりなさい。そうしたら習慣になって驕る心も起こらなくなるでしょう。」
最初は偽善でも毎日習慣化すればやがて本当の善になる、という至言でした。このお話もまた、「毎日仏になったつもりの瞑想を行っていれば、いずれ本当の仏様になれる」という密教の行の考え方が反映していることは明らかでしょう。ギュメのお坊さんはこのように仏教の教えや行を卑近な言葉で説明することがとてもお上手です。
二○○七年ガワン先生に胃ガンが見つかり、一月にタタ財閥の病院で胃の三分の二を摘出する大手術を受けました。その際、予後は良いとの見立てだったのですが、同年五月、来日したガワン先生にPET検査を受けていただくと、肝臓に転移したウズラ大の腫瘍がみつかりました。
ここから始まるガワン先生の闘病生活が宏一先生とガワン先生の師弟関係のクライマックスになります。
宏一先生はガワン先生に抗ガン剤治療を受けるべく日本にとどまるように説き伏せ、自宅マンションの一室で一緒に生活を始めました。先生は難民ですから日本の健康保険証をもっていません。そうでなくとも高額なガンの治療費はどんどん膨らんでいきます。また、病気で食欲もおちますから、いろいろ考えて食事もお出ししなければなりません。宏一先生の奥様はこの時は本当に苦労をされておりました。
チベットでは師匠が死病にかかると弟子は全力でこの世に引き止めることがならいとなっています。ダライ・ラマ法王がまだ四十代だった時に、上の世代の高僧達の寿命がつきてどんどん死んでいかれる時期がありました。ダライ・ラマがセラ大僧院管長ロサンワンチュクの死が近づいているのを察したある時、「チベットがこのような状況の時に死なれると困ります。この世にとどまってください」とロサンワンチュクに命令しました。すると彼はその時は死なず、一年後に亡くなりました。通常の師弟関係であれば、毎朝の勤行において「師匠がずっとこの世にとどまって法を説いてくださいますように」と祈願するところですがダライ・ラマですから先生に対しても命令口調です。
このような文化背景があるため、宏一先生はガワン先生がガンになった時、何とかそれを治そうと十八もの病院を回って治療法を探しました。そしていよいよ万策尽きた時も、主治医である四天王寺病院の尾上先生に「この方は普通の人じゃありません。一分一秒でも長生きさせたい」と訴えました。尾上先生は「ガワン先生の肝臓はもう蟹の甲羅みたいに硬くなっています。この状態になると、普通は昏睡状態になるのに、どうしてここまで歩いてこられてニコニコして座っていられるのか不思議です。インドにお返ししましょう」とたしなめられたそうです。
ガワン先生の死や病に対する向き合い方は成熟した人間の最後の姿として目を見張るものがありました。治療が効果を現さず検査の結果が悪かった日にはふさぎこむことはありましたが、決してやつあたりをしたり、取り乱したりすることはありませんでした(その分おつきの僧がわんわん泣いていましたが)。そして激痛がある日は「トンレン」の行を行っておられました。トンレンとは自分の安楽を他者に「与え」(トン)、他者の苦しみを自分がひき「受ける」(レン)という菩薩の修行です。この行においては肉体的な苦痛はそのまま善行となるので、痛みに耐えることができるのだそうです。実際、激痛にさいなまれているであろう時にも先生はりんとしていらっしゃいました。
亡くなる直前の一年の間にガワン先生は日本人に六回もにわたり灌頂を授けてくださいました。私はどんどん悪化していく先生の健康状態をみながら毎回「これが最後か」という気持ちで参加していましたが、不思議なことにガワン先生は法座に座ると痩せ細った体がしゃんとして、声にはりもでて大きくみえました。死を前にしても動じることのないこの姿に、宏一先生は、密教の行から学ぶ以上のいろいろなことを感じ取り、師に対する敬意をさらに深めていました。
ガワン先生が病気療養を行いつつ宏一先生の家に滞在していた間、宏一先生はほぼ一年間にわたり、先生の体の調子のよい日を選んで『ティカ』の伝授を受けていました。伝授の最後は秘密集会尊の灌頂を「自分に授ける」(bdag 'jug)ことができるようになるための百日行でした。宏一先生は、ガワン先生が結界を張った部屋の中で、百日の間毎日秘密集会マンダラを構成する三十二尊のマントラを、計六十二万回唱えたのです。マントラは必ずこの部屋で唱えねばならないので、泊まりがけの仕事はすべてキャンセルです。行の間も学園の校務は続けていましたから、この間宏一先生の睡眠時間は二時間でした。百日行が終わると、行の間に犯したミスの穢れを浄化するためにギュメ僧院で息災の護摩も焚きました。この行を終えるのを見届けるとガワン先生は「私が教えることはもうなくなった」と言い残し、インドに帰国しました。二ヶ月後の二○○九年一月、英信先生、宏一先生夫妻への感謝の言葉を残され、弟子たちに看取られて自坊で静かに息を引き取られました。ガワン先生と宏一先生の非常に濃い一対一の師弟関係は、傍から見ていても壮絶なものでした。
同年四月、ダライ・ラマ法王はガワン先生の弟子たちに、彼が再び生まれ変わるように祈るように、と短い詩を授けました。その祈りに感応したのか、二○一三年にネパールのチベット・コミニュティに生まれた男児が、ガワン先生の生まれ変わりに認定されました。この生まれ変わりは現在ガンデン大僧院に迎えられ先代の弟子や実兄プー・ツェリンに大切に護り育てられています。