仏教文化
Online ISSN : 2758-738X
Print ISSN : 0287-5255
57号
会議情報

公開講座
古代南インドの食事(酒付き)
高橋 孝信
著者情報
会議録・要旨集 フリー HTML

p. 74-97

詳細

はじめに

今日は「古代南インドの食事(酒付き)」という題でお話ししようと思います。その前に涅槃会というのをやりましてから、煩悩の極みである食事や酒の話  美しい女性も出て参ります をするというのはちょっとどうかなと思いますが、こじつけて言うならば、日本人が大好きな「精進落とし」ですね。聖なる所へ行ったら、必ず帰りに精進落としをして呑んでくる。騒いで、女を迎えて。まぁどちらが目的なのかはよく分からないですよ。本当は精進落としをしに行きたいけど、その前にちょこっとお参りしておこうかなと、そうじゃないと理由ができないからっていうようなもんです。だから涅槃会の導師をしまして、これから「精進落とし」の導師もしなきゃいけないという、大変なもんです。

それでですね、みなさんご覧になって、ちょっとこの題名からして、まず何をやるのかよく分からない。それから場所とかも分からないと思いますので、はじめに大体まとめてそういうことをお話しします。

今日の発表は(酒付き)であります。今までの時点では、古代の酒というのは全然分からないんですね。この発表の中で蒸留酒がどうのこうのっていうように、蒸留酒の存在を明らかにしています。また後ほどお話ししますが、実は二〇一七年の二月二二日に、ちょっと似たような内容で、私の最終講義で「古代南インドのグルメ文学」をやりましたが、全く同じことは話しません。その時に分かっていないと言いました二、三点がこの一年の間にやっと分かった。その二、三点と、それからインド史の中で初めてカレーを描写しているところがはっきり分かった。そういうこともお話ししたいと思います。(酒付き)ということで、私の話は大体九〇分ですから、頭では九〇分飲み放題というつもりでいらしていただければいいと思います。

 

対象とする地域

「南インド」というのはインドの本当に南端で、図1はインドの地図ですけど、いちばん南の地域です。すぐ隣にスリランカがあります。この地域を対象にします。今日ではタミルナードゥ州とケーララ州の二つに分かれていますが、十世紀ころまでケーララ州はタミルの一部でしたので、ここでお話しするのはいわゆる「南インド」の、今お示しした両方の所が対象になります。

図2の地図を見ますと、北緯十度あたりで、東西に切ると大体こうなりますよというものです。これがちょっと頭に入っていないと今日の話で分からないところが出てきます。実はこの地図で見ますと、タミルナードゥ州とケーララ州との境が西ガーツ山脈なんですね。だからそこがいちばん高くなっていて、西側が今日ではケーララ州、東側がタミルナードゥ州というふうになっています。それから、ここに五つの地域を古代から描くわけです。それが文学の中に反映されていますので、一応地図をつけてみました。

[図 1]

[図 2]

(高橋孝信「タミル文学に描かれた自然」『春秋』第338号、1992、20頁)

「五つの地域」

図2を見ると四つしか出ていませんが、古代には国土は五つの地域に分けられています。なぜ四つなのか

というと、五つめのパーライというのは後で述べる森林・牧地のムッライと、山岳地帯のクリンジが乾期に乾燥して荒れ地になると伝統的に解釈されている土地だからです。「ネイダル」は海岸地帯です。右の方から見て、内陸の平坦な所「マルダム」というのは田園です。田んぼがある所というのは、食事が最も豊かな場所です。ですから後で出てきますが、ここで食事というのがどんどん出てきて、みんな「お米」ということを非常に言います。

ちなみに言っておきますと、今回食べ物ということで調べたんですが、北インドだと豆が主流ですね。しかし南に行ったら穀物としての豆というのはほとんど出てこないんです。後でも説明しますが、どんなにおいしい米なのか、米がどういうふうだったのか、というのをものすごく描くんですね。

「ムッライ」というのは牧地あるいは森林で、牛を飼ったり、乾いた畑を耕したり、あんまり実りは良くありません。それから「クリンジ」は山岳地帯で、山岳ですから山に独特なものが出てきます。例えば蜂蜜だとか、そういうのがずっと出てきます。それから反対側に行って、また海岸(ネイダル)というのが出てきます。そういうふうな地域毎に特有の食材と食べ物が出てきます。

対象とする時代、文献

対象とするのは大体、紀元後一世紀から三世紀ころです。仏教のサンガは聞いたことがあると思いますが、南インドの古代文学では、「宮廷学芸院」(サンガム)というものがありまして、そこで詩人たちが勉強して作ったので、サンガム文学と言われています。今日残っているのは約四七〇名で、三行から七八二行の二三八〇くらいの作品があります。すべて詩です。詩というよりも今日扱う部分は唄のようなものです。

唄というのはどういうものかというと、例えば今流行っている流行歌の歌詞だけを二千年後に分析しろ、といってやっているのが我々の仕事なんですよ。抑揚も何もない、どこでどう伸びて、どこでどう切ったらいいのか分からないのを文字だけでやっているのが我々の仕事です。

では、今日は一応訳を持ってきましたが、この訳は正しいのかというと、多分に私個人の解釈も入っています。だから原文を知らないで、日本語だけでやろうとすると大変危険なんですね。訳というのはみんな「解釈」が入っていますから。

「案内文学」

話を戻します。「案内文学」っていうものがあるんですが、これは貧しい「旅芸人」が、王のもとで歓待されて贈り物、つまり食事と酒を得たのを、「あそこの王の所に行ったら、こんなにも貰ったから、あなたも行ったほうがいいよ」と他の人に勧めるわけです。そのときに途中の道とか宮殿の様子を知らせるわけですけど、「海岸(ネイダル)を通ったら、こういうのがあった」というふうに食材が出てくるわけです。それを今回は拾っています。

次に「案内文学」を含む作品として『十の長詩』(三世紀ころ)というのがあるんですが、そこに食事の様子が描かれています。まず、宮廷でのご馳走。それから途中の村で客人として供される食事で、ここには酒が出てこないんですね。[村で供されるときは]酒なしでひたすら食べる。偶に途中の村で人々がどんな食事をしているかっていうことも出てきます。そういうことを言っていきます。

それで、なんで「案内文学」なんかを作ったかといいますと、答えから先に言うと、要するにみんな腹減らしで、しかも今とは違って旅行もなかなかできない。多分山岳地帯に生まれた人は一生海を見ることがなかったでしょう。そういう人に対して、今日の「旅行ガイドブック」みたいなもんですね。「こういう村があるんだぞ」っていう感じで進める。王様の所へ行ったというのはそれに付け加えるんです。だから先に言いましたけど、「案内文学」では特別な食事や、あるいは「こういうのが食べられたらいいな」という、夢のようなことも言っています。

インドの食文化

実は衣食住というのは案外分からないんですね。その中でも南インドでは食が結構出てきます。なぜかというと、「案内文学」では宮廷でご馳走になったり、あるいは途中で通過していく村々で客としてご馳走になる、そういうご馳走の類が描かれるんです。しかし普通の人が何を食べたかというのは、やっぱり分かりません。どうやって食べたかとかもです。これを唄っている「旅芸人」は非常に貧しいという描写が何回も出てきます。それは後で見ます。

またインドに限らず、食文化は非常に変わります。例えば唐辛子はインド原産だと思っている方が多くいますが、インドには一六世紀に新大陸から入ってくるわけですね。だからそれ以前は唐辛子は使ってなかったんだというのは頭に置いておいた方がいいと思います。とにかく食文化は一般に非常に変わります。今日インド人の食事はみんなカレーだから、古代にカレーがあっても当然だろうというような思いだけは捨てていただきたいと思います。

それからインドといえばサンスクリット文学と言われますが、サンスクリット文学は非常に大雑把で、時空に囚われないというのが多いのに対して、タミル文学は実物を知っていないと読めないという、そういう描写がたくさんあるんです。ですからそういう部分は非常に違います。

宮廷での歓待とご馳走(Poru.79­124から)

次に「宮廷での歓待とご馳走」ということで、宮廷ではどんなことがやられたかということが書いてあるんですが、これは前に最終講義でやりましたのでごく簡単にいきます。

虱の卵と虱とがいて君臨し、//汗で濡れて、[元の糸とは]異なった撚り糸で刺した//縫ったぼろぼろの衣をまるごと捨てさせ、//見た目に[糸が]通った[とは思え]ない、芸の細かい花柄で埋め尽くされ//蛇の抜け殻のような[薄]衣をあてがってくれ[た。そして]//

宝石を身に飾った、美しい、心地よい笑みを湛えた女官たちが//傷ひとつない金の容れ物に満たして何度も何度も//注いでは、また注いでくれ[た。そして、われわれは]疲れが抜け//腹一杯になるように食べ、大きな苦労を吹き飛ばし、//満足感をもっていたが、やがて彼の王の//富の溢れる王宮の一角に泊ま[った。]//

(翌朝、昨夜のことは夢かと思っていると)未熟な若い衆が[昨夜のことは事実だと]説明していた、そのとき、//[王は]「すぐに」と[家臣を]召喚し、「来なさい」と[われわれを]呼んで//ギョウギシバの束を食べた羊の素晴らしいよく煮たもののうち//腰の部分(腿肉)を調理したものを「食べなさい」と言って勧め[た。]//[われわれは、]鉄串で焼いた脂身のある肉の大きな塊を//[口の]端から端へ口の中で、熱いのを押し付けて[食べて]、//[もう]それもあれも欲しくないと言ったら、ああ! 甘い//他のさまざまな形のケーキをくれ、[われわれを]座らせ[た。]//

喜びに満ちた時をもつ多くの日々を過ごしていた、そんなある日//ご飯の料理を食べてほしいと[王が]言ったとき、[ムッライの]蕾のような//米の線が消えた、崩れていない脱穀した米が//指のように立った、列の[ように]集まったご飯と//小石[ほどもある]揚げた肉の揚げ物とが、喉にせり上がって来るほどに//食べて過ごす流れにすっかり慣れて、快適に滞在し、//畑を耕すすきの刃のような[私の]歯は、ああ!//昼も夜も肉を食べて先端が磨り減[ってしまった。そして]ある日//

(中略)王よ! われらは去りましょう、われらの古い村に戻って」と//穏やかに、[しかし]はっきりとわれわれが言うと、「すぐに//汝らは去るのか、われらを捨てて」と言って//むっとした人のように、怒った眼差しをした//(その後、王はたくさんの象を贈りものとしてくれる)

後にも出てきますが、甘いものというのが結構出てきます。甘いものは大変なご馳走で、おいしいものの代名詞なんです。なぜかというと、この会場の中にも砂糖の足りない時代に生まれ育った人はいらっしゃるでしょう。つまり今の時代から見るとなんとも思いませんけども、当時としてはこんなに甘いものがあるというのは大変なご馳走だというわけです。

「米の線が消えた、崩れていない脱穀した米が指のように立った」と随分細かいですね。それと、ここもちょっと見ておいてくださいね。「(列のように集まった)ご飯」と「(揚げた)肉」、と言うんです。これは後で、「カレーとはなんなのか」という問題になってきます。

カレーの語源はタミル語の「胡椒」(kaṟi)だと言われていて、これが後にヨーロッパに伝わってカレーになるんです。それは間違いないです。だけどそんなに単純ではないんですね。先ほどお話ししたように、「カレー」という食べ物はインドにはなかったのに、どうしてカレーというのがインドの食べ物になってしまったのか、というのは実によく分かりません。

もう「食べるのに嫌気が差し」たは、「ああ、一回そんなにも飽食してみたいものだ」という一種の願望があるんであって、必ずしも王様の所に行ったらいつもそうだったかは分からない。どっちにしてもここで描かれるのはご馳走の類です。

各地域の食事と食材

次に各地域の食事と食材の描写にいきます。

祭りのときに来客すべてにあげるように「新鮮な肉が散らされた、ギーたっぷりのご飯を食べ…残りを貴方に」(Kuṟi.203–7)

古くなったバターは端の方に薄茶色い物が固まるでしょう。あれを溶かしたのが「ギー」だと思ってください。液体です。ギーはインドでは腐らない油として珍重されていまして、現在はカレーなんかを作るときには、ギーは高級ですから使いません。菜種油だとか、胡麻油だとかを使うんですね。古典の中でも、「ギーたっぷりの」という表現が出てきて、これも一種の「夢」なんですよ。そういうのが出てきます。

[パラミツの]果実が割れた、なかの白い種子//罠で仕留めた野牛の肉付きのいい肉//ヤマアラシを殺した新鮮な脂身の多い切り身//メス犬が追いかけ捕らえたイグアナ、これらと混ぜて//(Malai.174­–83)

「パラミツ」というのは普通、ジャックフルーツです。「脂身の多い」というのもしょっちゅう出てきます。現代ではなるべく油の取り過ぎを控えようというのが普通ですね。ところが古代には油は富の象徴なんですね。だからお客さんが来たときにはなるべく脂身の多い所を出すというのが普通なんです。

今ここの部分も見ていましたら、これも今日で言うところの「カレー」なんじゃないかなという気がしています。

人々は蜂蜜、食用根、肉で一杯の籠を持ち(Malai.152)

「肉」というのは野牛とかでしょうね。そういうのが「一杯」籠に入っていると。山岳地帯では「蜂蜜」というのは代表的な産物でして、ご存じでしょうけど、ヨーロッパなんかでは王侯貴族しか口にできなかったのが蜂蜜です。蜂蜜はそんなに一般人が食べられるものではありません。インドの山岳地帯に行きますと「蜂蜜が流れ出ている」というような描写があります。いかに豊かな土地なのかというのが言いたいんですね。

分厚い肉の塊を注いだギーの中で調理したものと//オオアワ(iṟaṭi)を炊いたものを汝らは得るだろう(Malai.168­–69)

「オオアワ」というように、粟や稗も出てきています。

竹の赤い実をご飯に散らした、山に育つ稲にフジマメ(avarai)の[黒い実を混ぜた、彩りの]美しい酸味のあるご飯(Malai.435–36)

「フジマメ」というのは姿はインゲン豆にそっくりです。日本でいうと豆ご飯を作ったりするでしょう。そのときの豆です。それを材料にしてスープとかを作ったりはしません。これも特徴なんですが、たくさん出てくるインドの食の中で割とよく言われるのが、「酸味のあるご飯」。「酸味」というのがなんなのかは後で考えることにします。

水牛の[乳から作った]竹筒に入れた新鮮で甘いヨーグルト(Malai.523)

「甘い」というのは何かといいますと、ヨーグルトですから置いておくと酸っぱくなります。だから「酸っぱくないヨーグルト」という意味で言っているんです。

山岳地帯で他に出てくるのは、

タロイモとウコン(Malai.343)、ポリッジ(maitavai, Malai.417)、クロオオアワ(Malai.445)、インド・ヤラッパ根(Malai.459)、ゴヨウドコロ芋(Malai.515)、新鮮な肉の塊と長い脱穀した白米が邪魔しあわないように[混ぜたもの](Malai.564–65)、山の野稲(Matu.288)、米の一種(Matu.287)

なんかがありまして、「ポリッジ」というのは、要するにお粥のようなものなんですね。これが何を材料にしているかは分かりません。分からないんだけど、とにかくカレーのようなものではありません。古代にカレーがあったかどうかというのをもう一回考えたときに、「新鮮な肉の塊と長い脱穀した白米が邪魔しあわないように」料理するというのがあって、今日のようにソースを上にかけるようなのとは違うようだと分かります。古典世界では大体そうなんですね。

乾燥したムツブリの焼いたもの(Ciṟu.163)

強い腕の漁師たちが//丸々とした魚を(輪切りに)切る(Matu.319–20)

次に海岸地帯にいきます。海岸地帯では不思議なほどに魚が出てこないんです。名前としては一七種くらい。現代の漁師に聞くと、一五〇とか一六〇くらい挙げますから、古典に出てくるのはその十分の一に過ぎない。

これも魚を食ってないというわけではないんです。描かれたものを文学研究では大事にします。ところが、何が描かれていないかというのも文学の大事な要素なんですね。なぜそれを描かなかったのか。その中でたまたま記述のあったものを参考であげていますが、海の魚は少なくて、田園地帯の鯉や鯰のような淡水魚がよく出てきます。

狩猟族エインが調理した「甘酸っぱい熱々のご飯(piḷi vem cōṟu)」を、野牛の炙り肉とともに(Ciṟu.175–77)

次に荒れ地にいきます。また出てきました、「甘酸っぱい」。それから「野牛の炙り肉」。ここでも「肉とご飯」という対立です。どうもスープ状にしたカレーとは違う。こればっかり出てくるんですよ。

エイン族の町に滞在したら、赤飯のご飯と犬が咥えてきた、巻貝のビーズのような卵をもったオオトカゲの揚げた肉を、各家で得るだろう(Peru.129­–33)

ちなみに蛇は食用としては出てきません。サンスクリット文学だとそのまま「蛇」と訳しますが、「蛇が蟻塚にすんでいる」なんていうのがジャータカなんかに出てくるときの「蛇」はコブラです。二〇世紀のある作品の中で、ヴァールミーキの『ラーマーヤナ』をけなして、「アヨーディヤーの王様は蛇を食っている。だから野蛮なんだ」と言っているところがありますから、もともと蛇なんかはあんまり食用にはしないんでしょう。

それで森林牧地にいくと、

森の民が夜中にイノシシ狩りをし、昼にウサギ狩りをしてジャングルで食らう(Peru.108­–16)

牧夫が粥を食べる

「粥」を食べていると言いますが、これがよく分からない。分からないけれども、お粥みたいなものと言われています。

先ほど申しましたが、田園地帯はいちばん豊かな所です。生産量とすると、まずインドなんかだと畑にするには灌漑が必要ですが、田園地帯以外にはその灌漑施設がない。そこに自然に出てきたものなんかは粟とか稗とか貧相なものばっかりです。それに対して、インドは気候的には二期作ができまして、現代でも片方では田植えをして、片方では稲刈りをしているなんてことがあります。それくらい豊かな所が田園地帯です。だからそこに出てくるものは非常にたくさんありまして、

逞しい手の農夫たちの愛しい可愛らしい子供たちが//古いご飯のおにぎりを嫌って、田んぼの縁に//新しい草で葺いた、覆いのある小屋の庭で//揚げ米を(Peru.223–26)

という記述なんかは贅沢でしょう。普通は痩せて痩せて、どのくらい貧しいかというのは後でも出てきます。

素晴らしい、脱穀されたおにぎりの白い米と//鋏のついた足のカニの混ぜもの(Ciṟu.194–95)、白米のご飯と家の庭にいるメス鶏の揚げたもの(Peru.255–56)、サトウキビの搾り汁(Peru.262)、赤い島のあるカヤル魚と緑のエビが跳ねる(Peru.270)

「カヤル魚」というのは鯉です。また「サトウキビの搾り汁」というのもしょっちゅう出てきます。

減ることのない富のある、切れることのない新たな収入[と]//費えて[欲が]尽きることのない、豊富な肉[と]//[量が]低くなって(減って)尽きることのないたくさんのご飯//飲んで尽きることのない豊富な椰子酒のある//食って尽きることのない多くの日々(Matu.210–14)

「減ることのない富のある」、「新たな収入」というのが田園地帯の特徴としてしょっちゅう言われます。それから「食って尽きることのない」収穫がある。要するに、肉・ご飯・酒・黄金が尽きないというのが、富の象徴なんですね。逆にいうと、肉やご飯に飢えていた。これが富の象徴ということは普段はなかったってことですね。

ご飯から吹きこぼした多量な米の煮汁が//川のように広がって流れ//オス牛がそれを争うためにどろどろになる(Paṭ.44–46)

日本なんかではご飯を炊くときは水が切れるまで炊きますけども、インドのお米はそうやると粘り気が出てしまうので、「炊きこぼし」ます。つまり途中で湯を捨てていくわけです。そうするとパラパラな米になる。それ(吹きこぼした水)が「川のように」「流れ」ているというわけです。

地域をまたぐ

さて、さっき言った五つの地帯の各々がタミル文化の中でいかに関わり合っているかということを見ていきます。

[山岳地帯の]蜂蜜とキリャング根を[売って]、物々交換する者たちは//[海岸地帯の]魚油と椰子酒を[買って]運[ぶ。]また//[田園地帯の]甘いサトウキビと揚げ米を分ける者たちは//[森林地帯の]動物の[肉の]切り身と酒とを運び(Poru.215–17)

[自分に]耳を貸さない王たちの、人を寄せ付けない[守りの堅い]地に入り、//朝に乳牛を奪って[戻り]、[その牛を売って]酒の代金を払い、//家で蒸留し[作っ]た酒と[その]甘い酒を飲み、//豊かな村の広場で力強い雄牛を屠って食べ[る。](Poru.140–43)

「朝に乳牛を奪って戻り」というのは英雄文学の中で緒戦のことを言います。牛というのはインドでは財産なんですね。私がインドへ行っていた一九八〇、八一年にも「あそこの家は牛が二頭もいて、金持ちなんだぞ」と言っていました。二〇世紀でもそうなんですから、昔はましてそうです。「甘い酒」とは、注釈家は「米の酒」と言っていて、いわゆる日本酒と同じで、米から作った酒なんでしょうね。この次は文化史的に非常に大事で、「雄牛を屠って食べる」。こんなのは北インドの人が聞いたら驚くでしょうね。この作品は大体三世紀くらいです。

それから輸入もしています。

ガンジスの農産物もカーヴェーリー河の産物も//セイロンの食べ物もビルマ(Kāḻakam)の産物も//いろいろ珍しいものも集まってきて(Paṭ.190–92)

セイロンの食べ物も入っています。また注釈は「ビルマ」と言っていますが、このときビルマはないから、ここのところはちょっと調べないと分かりません。実はこの三世紀ころに輸出入、海洋貿易を誰がやっていたかということに非常に興味がありまして、結論から言うとインド人もやっていたようです。例えば、インドでは錫が採れない。北インドでは錫はアフガニスタンまで最初は採りにいっていたんですが、険しい山道もあり、やめてしまいます。だから北インドにはブロンズの神像はほとんどない。でも南に行くとたくさんある。なぜかというと、マレーシアは錫の生産国ですから、マレーシアに行っていたのは間違いない。ただしそれがいつごろなのかははっきりは分かりません。四世紀末に法顕が海路でスリランカを経てマレーシアの方に戻っていますから、それまでにははっきりと海路は開かれていたんだろうとは思います。

道具

道具もいくつか出てきます。

ホースグラムのような[黒い]香りのいい石で、たくさんのカレーの香料(kūṭṭū)が挽かれ(Neṭu.50)

「挽く」というのは、インドでは石の上でカレーの香料なんかを潰すというのをよくやっていましたが、その描写が出てきます。「香料」(kūṭṭū)というのが本当にカレーの香料なのかどうかは、注釈家が言っているだけで分かりません。でも石で挽くんだから香辛料だと思われます。

また、サトウキビ搾り機(entiram, Peru.260他四例: ālai, Paṭ.9, Malai.119, 340)も出てきます。酒の観点からいうと、ラム酒というのはサトウキビの余って捨てるところからできているわけですね。今インドで主流なのはラム酒なんですが、古代にはラム酒に相当するものはどうも出てきません。

カレーの作り方

アルンダティーのような貞節に満ちた、香りのいい額の//腕輪をした手の[バラモンの]女たちが、肝所を知って調理した//光る先端の、鳥の名がついた高級米と//褐色の牛乳の香りのいいバターミルクを/に、バターでシトロンの、//炒めた青い実の[薄い]切り身と一緒に胡椒(kaṟi)を混ぜて、//カレーリーフの香のいい柔らかな葉を加え[たカレーとを]、新鮮な花をつけた//丈の高い木であるマンゴー樹の香のいい青い身を小さく切った//程よい素晴らしいピクルスと一緒に、取り分けて汝らは得るだろう。(Peru.303–10)

「アルンダティー」というのは女性の貞節を示す星です。それからここでも細かく米が描写されています。

また、簡単に説明するとインドでの乳製品は次のように作ります。生の牛乳を煮沸して、加熱乳を作ります。そこに種菌、インドでは乳酸菌、簡単にいうと残り物のヨーグルトを加えると、加熱乳が発酵してヨーグルトになります。そのヨーグルトになったものを攪拌するんです。そうすると、下にバターができて、上の方に残った液体が「バターミルク」と言われます。最近では「バターミルク」のカレーというと、ヨーグルトやヨーグルトを薄めたものを言っていることもあります。

ここの「胡椒」は注釈家はみんなそう言っているんですが、今日でいうガラムマサラのような、香料の混ぜ物(kūṭṭu)ではないかなというのを最近調べています。「カレーリーフ」は香料です。大体現在のカレーの作り方と一緒です。現在でもいちばん主流のピクルスはマンゴーですから、マンゴーを小さく切っています。そうすると、ご飯とカレーとピクルスという三点セットがきちんと描かれている初めての作品です。

「バターミルクを/に」というのは、加熱したバターミルクに油で炒めたものを注ぐのと、フライパンの上で炒めたものにバターミルクを注ぐので二種ありますから、どっちでも訳せます。

 ということで、どうみても現代のカレーと作り方が極めて似ていますから、カレーの語源のkaṟiというのが胡椒だというのがすべてに当てはまるかというと非常に怪しい。それをもう一回見直してみたわけです。

カレーの材料

次にカレーの材料をみると、

多数出るもの:胡椒(言い方多数)、生姜(iñci)、ターメリック(ウコンmañcal)、タマリンド(puḷi)、マスタード(aiyavi

少数:カレーリーフ(kañcakam, Peru.308)、ニンニク(uḷḷi, Neṭu.122)

なんかがあって、「タマリンド」は酸っぱさを出すために使うんですが、そうするとさっきから言ってきた「甘酸っぱいご飯」というのはこのpuḷiを使ったんだと注釈は言っていますが、私はそんなに簡単ではないだろうと思っています。「クミン」なんかはなかったようですね。八八七年の碑文には出ます。九世紀くらいになると南インドでは食べ物を神様に供養するわけです。その中でカレーの材料の一つとして出てきます。全く出ないのは「チリー」、いわゆる唐辛子です。今日では唐辛子なしではインドカレーは作れませんけど、やっぱり一六世紀くらいまでは出てきてないようです。

味付け

よくインドで大事なのはスパイスだって言うんですが、どうも文学を見ると「塩のない料理」というのは貧しさを示す食事として言うんです。例えば、

楽しみのない者(貧者)が己を捨て去らなければ//塩と薄粥とは尽きる。(『ティルックラル』1050〈高橋孝信訳注『ティルックラル―古代タミルの箴言集―』東洋文庫、平凡社、一九九九、一六四ページより一部改変〉)

[女の]不機嫌も少しなら、塩加減がちょうどいいようなものだけど、//あまり長引くと、多すぎ[て、料理をだいなしにす]るようなもの。(『ティルックラル』1302〈高橋孝信訳注『ティルックラル』二〇〇ページより一部改変〉)

ここから味付けの基本は、どうやら塩だろうと分かってきます。

料理の出し方

今日では料理はバナナの葉っぱに出しますけども、文献に出てくるのは二種で、

神へのお供え物のようにチーク(tēkku)の葉に山盛りにして…汝らは料理を得るだろう(Peru.105–6)

というように、お客さんが来たときにチークの葉で出すというのは、三、四箇所で出てきます。また、

その日に岸辺で捕らえた胴の太い巨大な鯰(varāl)を//トゥディ太鼓の目の[ような]大きな切り身を売って、飲んで踊って//[魚を]捕るのを忘れ寝ている旦那に、歌い女の妻が//スイレン(āmpal)の大きな葉に、たくさんの熱々のご飯を//…注ぐ(Ak.196:2–6)

ここでは亭主に料理を出していますね。

貧しさと食事

案内文学の描写に反して実際には生活は惨めだったろうということで見ていきます。

開かない目の、垂れた耳の子犬が//乳の出ない乳房を求めてくるのに耐えられず//子を産んだばかりの[母]犬が吠えている[。そんな]がらんとした台所には//梁がおちた古壁に群れなすシロアリが集めた//土砂に生え出た細い管状のキノコが。[そのキノコのような]//衰弱で震える[ほど]飢えに苦しむ、痩せて細くなった胴の、//腕輪をした手の女芸人の細い爪できりとった[。その]//山となったヴェーライ草を塩をもたない女が茹でたのを//何も知らない人たちの目を恥じて、扉を閉めて//黒い大勢の一族郎党と集まって、一緒に食べる。(Ciṟu.237)

「塩をもたない女」とは既に見たように、貧しい女という意味です。これがおそらく普通だったと思われます。だからさっきのような宮廷で嫌になるまで食べてみたいというのは夢なんですね。

長い竹[の中]で熟成された蜂蜜酒の蒸留した[強い]酒を(Tiru.195, Malai.171, 522)

「コブラが怒ったような[強い]蒸留した椰子酒をくれ」(Ciṟu.237)

というわけです。そこで「強い酒」というのは何かといいますと、まず自然発酵した椰子酒なんかはアルコールが二、三パーセントと低く、この原酒を火で蒸留した酒が「強い酒」です。

また酒作りの描写として、

盛り上がる波が運んでくる、香りのいい[沈香の]木の薪で

黒い煙をもった赤い火を[釜戸で]くべて、大きな肩の、

月も望む[ほどに]、非の打ち所のない美しい顔の

[尖った]穂先の槍[のような]目の、漁師の女が作った

熟成した、蒸留した椰子酒を漁夫たちが飲んで[いる。そして](Ciṟu.155–59)

とあって、注釈なんかは「漁師の女が作った」というのは「口で作った」というようにとって、口嚙酒を作ったと読んでいます。しかし、これは当時は蒸留なんかはできないというように初めから決め付けているから誤解しているのであって、蒸留酒の作り方は次に示すように簡単なので、ここでは蒸留酒の作り方がよく描かれていると読むのが妥当です。

蒸留の仕方

これは非常に簡単な装置です。つまり、アルコール度数の低い液体を入れた鍋を竈(かまど)の上に置き、その上に水を入れた容れ物を、下の鍋から蒸気が外に出ないように載せます。そして下の鍋を竈で熱すると、アルコールは約七八度で蒸発しますので、上昇して水を入れた容れ物に触れ水滴となり滴りおちます。その滴ったものを受けるような容器を鍋の中の上の方につけておき、そこから外へ流れるような管をつけて、別な器や壺で受けるようにすればいいのです(図3)。要するに七世紀ころのアラビアでできた本格的な蒸留の方法以前にも、ごく簡単な方法で蒸留というのは昔からできたんだ、ということです。この蒸留のやり方はさっきの描写とも似ていますね。

まとめると、蒸留酒というのはかなり昔から簡単にできたということを知っていれば、注釈家のような間違いをしなかったというわけです。文献にも書いてあって、他所からも証拠が出てきてはじめて、「〜と思う」と言うことができます。

甘味のもの

その他にも甘味のものがたくさんあります。

[図 3]

青い蜜が流れ出たような連なる山で//車輪のような[形の]、蜜が流れ出るたくさんの目のある蜂の巣(Malai.524–25)

苦しむ獅子の攻撃で、たくさんの//群れに満ちた象があわてふためくような//サトウキビ圧搾機が軋む、止むことのない騒音のある//サトウキビの搾り汁を煮詰める煙に囲まれた小屋ごとに//サトウキビの甘いジュースを望む汝らは、享受すべし。(Peru.258–62)

素晴らしい縞のある蜂の巣のような[模様の]柔らかいウエハース(薄焼き)と、//結晶した砂糖がある、料理用に作られたジャッガリー(ココヤシの粗黒砂糖)の//中身と詰めた、いくつもの塊にした丸いライスケーキと//甘い練り物のあるパンケーキ屋がまどろんで寝て[いる。](Matu.624–27)

これだけ甘いものがあった。ここのところは田園地帯の町の描写です。

嗜好品

それから嗜好品では、キンマが出てきます。口に嚙んで赤い血みたいなものを吐くあれがキンマです。

今のところ分かっていることをお話ししましたが、そのようなところです。ちょうど時間になりましたかね。

今いちばんの関心事は、なぜタミルのkaṟiが西洋のカレーの語源になったのか、kaṟiと言われるのは古典の大部分では胡椒なんですが、しかしkaṟiが胡椒以外をさす他の所はちょっと怪しいのでこういうことを調べると時間がかかるんですが、退職して時間はたっ

ぷりできたので、そこを調べていこうと思います。

略号

Ak. Akanāṉūṟu 一三〜三一行の恋愛詩四〇〇からなる詞華集、『八詩華集』の一つ。

Ciṟu. Ciṟupāṇāṟṟuppaṭai『小竪琴奏者の案内記』、『十の長詩』の一つで二六九行からなる。

Kuṟi. Kuṟiñcippāṭṭu『クリンジの歌』、『十の長詩』の一つで二六一行からなる。

Malai. Malaipaṭukaṭām『山から染み出る音』、『十の長詩』の一つで五八三行からなる。

Matu. Maturaikkāñci『マドゥライ詠唱』、『十の長詩』の一つで七八二行からなる。

Neṭu. Neṭunalvāṭai『長き良き北風』、『十の長詩』の一つで一八八行からなる。

Paṭ. Paṭṭiṉappālai『町と別れ』、『十の長詩』の一つで三〇一行からなる。

Peru. Perumpāṇāṟṟuppaṭai『大竪琴奏者の案内記』、『十の長詩』の一つで五〇〇行からなる。

Poru. Porunarāṟṟuppaṭai『歌舞人の案内記』、『十の長詩』の一つで二四八行からなる。

Tiru. Tirumurukāṟṟuppaṭai『ムルガン神への誘い』、『十の長詩』の一つで三一七行からなる。

 
© 一般財団法人 東京大学仏教青年会
feedback
Top