仏教文化研究論集
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論文
ギェルツァプジェによる唯識派の対象認識の解釈について
村上 徳樹
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2006 年 10 巻 p. 51-67

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1. はじめに

 本稿は,ダルマキールティ(Dharmakīrti)が著したPramāṇavārttika(以下PV)の「知覚章」kk.320-352について,ギェルツァプジェ・ダルマリンチェン(rGyal tshab rje Dar ma rin chen,1364-1432,以下ギェルツァプジェ)の解釈の特異性を明らかにすることを目的とする.PV III 320-352は「正しい認識の結果(pramāṇaphala, tshad ma’i ’bras bu)」の話題を扱ったPV III 301-366の中に含まれる.PVのこの箇所については,これまで多くの先行研究が蓄積されているが1,本稿では,それらの中でも,戸崎[1985]の解釈とギェルツァプジェの解釈の相違点について検討する.戸崎[1985]は,ダルマキールティの認識論に対する穏当な解釈であり,かつ詳細なものであるため,比較するには最も適していると考えられる.戸崎博士の解釈と比較することにより,ギェルツァプジェの独特な解釈を示したい.

2. Sa bcad chen moの構成

 まずSa bcad chen moに依拠して,ギェルツァプジェの理解の概要を示そう.Sa bcad chen moは正式名称をrNam ’grel gyi bsdus don thar lam gyi de nyid gsal byedと言う.本書はThar lam gsal byedなどのPVに対する逐語的な註釈とは異なり,その梗概をサチェーのように樹形図的に配列しており,そのような構成のために後代の者によってSa bcad chen moと通称されるようになったと考えられる2

 そのSa bcad chen moでは,当該の議論に関して,概要以下のような理解がとられている.

A3.正しい認識の結果(tshad ma’i ’bras bu)に対する誤解の否定

B1.作用対象と作用(bya byed)〔についての〕一般的設定(PV III 301)

B2.正しい認識の結果の作用対象と作用の設定(PV III 302-304)

B3.正しい認識と結果の設定を特に確定する

C1.説示(bstan pa)(PV III 305-309)

C2.説明(bshad pa)

D1.他説の正しい認識の結果の否定(PV III 310-319)

D2.自説の正しい認識の結果の設定

E1.対象認識(don rig)の正しい認識の結果の設定

F1.その説明

G1.外界の対象を承認しない設定

H1.所取と能取が別体であること(gzung ’dzin rdzas gzhan)の否定(PV III 320-330b)

H2.〔所取と能取が別体であることを〕否定したことにより成立した意味(PV III 332cd)

H3.外界が存在することの論拠の否定(PV III 333-337)

G2.〔外界の対象を〕承認する設定(PV III 338)

G3.〔外界の対象を〕承認しない別の設定の説示

H1.第二の正しい認識の結果の補足説明(’phros bshad)(PV III 339-340)

H2.外界の対象が存在するとしても,自己認識が認識結果として妥当な第三の〔正しい認識の結果の〕設定の説示(PV III 341-352)

F2.外界の対象が存在しないならば,正しい認識の結果〔の設定〕は妥当ではない〔という論難の〕排斥(PV III 353-362)

E2.自己認識の正しい認識の結果の設定3(PV III 363-366)

 ここで,ギェルツァプジェと戸崎博士の見解との相違を示したい.まず,両者の解釈で最も異なっているのは,戸崎博士がPV III 320以下を「量果=自証」と自己認識(rang rig)を説くものと解釈されているのに対して,ギェルツァプジェはPV III 320以下PV III 362に至るまでを「E1.対象認識の正しい認識の結果の設定」という科文の下位に置いており,それらを対象認識(don rig)の議論と理解している点である.この点で両者は見解を異にしていると言うことができる.さらに,戸崎博士は,PV III 320からPV III 352までを,

•PV III 320-337(唯識説)

•PV III 338(外境実在論)

•PV III 339-340(唯識説)

•PV III 341-352(外境実在論)

というように,唯識説と実在論とが交互に推移すると理解されている4.他方,ギェルツァプジェは,PV III 320からPV III 352に至るまで,PV III 338を除く全てを,外界の対象を承認しない設定,つまり唯識説として捉えている5.この点でも両者の見解は異なっている.この二つの解釈の相違を検討し,ギェルツァプジェの解釈の特異性を示したい.

3. Thar lam gsal byedにおける解釈

 それではThar lam gsal byedの具体的な記述を考察して,ギェルツァプジェの解釈を検討する.先ほどSa bcad chen moをたよりに比較した戸崎博士とギェルツァプジェの解釈の相違は,大きく次の二点にまとめられる.

1.自己認識と対象認識の解釈の相違

2.PV III 341-352の学派的解釈の相違

 1の相違は,PV III 320以下,PV III 332 svasaṃvid,PV III 339 ātmānubhava,PV III 345 svānubhava,PV III 347 ātmasaṃvid,PV III 349 svavid,PV III 350 svasaṃvedanaというように,再帰的に知自身の認識ないし経験を表現する術語が多用されているが,その意味の解釈が問題となる.

 2の相違については,1の相違を前提として,PV III 341-352における議論の内容を経量部説とみるか,唯識説とみるかが問題となる.

以下では,この二点の問題に焦点を合わせて考察することにする.

3.1 ギェルツァプジェによるrang rigの解釈

 この一連の議論は,PV III 320において,唯識説に立つダルマキールティが経量部に対して「対象認識とは何であるのか(kā ’rthasaṃvid)」と問うことから始まる.経量部はそれに対して,対象を個々に認識する知覚が対象認識であり,その根拠として,対象と相似していることを挙げる.しかし,その根拠は二月や眼病者の認識に現れる毛髪などを問題とした場合,それらは外界の対象として実際に存在していないにもかかわらず,錯誤して外界に存在しているかのように知覚される.故に,外界の対象と相似しているという論拠は否定されることになる6.このように,この議論では経量部の外界の対象を根拠とした対象認識の理論が否定され,外界の対象と知に対応関係が存在しないことが立証される.その結果,認識の対象は外界の対象ではなく,知自身であることをダルマキールティは帰結する.この知自身の認識を自己認識とみるか,対象認識とみるかが問題である.戸崎博士は,その帰結であるPV III 332cdを次のように翻訳されている.

その場合,「他を認識すること」がないから,自証が果であるとみとめられる7(PV III 332cd).

 さらに,同偈について,次のようなコメントを付されている.

  これまで論じられたように,知の領域より外の外境対象の存在は確立されない.したがって,その場合,知は「知より他の対象を認識する」のではなく,「自己を認識する-自証する-」とみとめるべきである.したがってまた,量果についても,正しくは自証が量果であるというべきである.外境対象の認識が量果ではない8

 この戸崎博士の解釈によれば,外界の対象は存在せず,認識の対象は知自身である.従って,その認識は必然的に自己認識となり,認識結果も自己認識となる.戸崎博士はこのように,外界の対象が存在しない場合,その認識は知自身を認識することになるが,その認識を自己認識と理解されている.

ギェルツァプジェもThar lam gsal byedで自己認識(rang rig)が認識結果であると註釈している9.しかし,彼はそれに続けて次のように述べる.

  以前〔にPV III 320-332bで説かれた〕テキストの意味と結びつけるならば,感官知覚〔それ〕自身と一体となっている認識対象の認識が認識結果ということにあるのである.なぜならば,以前に示されたことは感官知覚の所取と能取が別体であることが否定されただけと見られるからである.

  従って,〔唯〕識派独自の自己認識の正しい認識の結果の設定は次のとおりである.すなわち,〔知それ〕自身と一体となっている認識対象を認識する所取の形象が認識対象,増益を新たに排除する能取の形象が正しい認識,自己認識の正しい認識が認識結果である(Thar lam gsal byed 284b5-285a1)10

 この記述は極めて重要である.彼はここで,PV III 332cdでは自己認識(rang rig)が認識結果であると述べられているが,それまでにPV III 320-332bでなされてきた議論の意味を考慮に入れるならば,その意味を「感官知覚〔それ〕自身と一体となっている認識対象の認識(dbang po’i mngon sum rang gi bdag nyid du gyur pa’i gzhal bya rig pa)」と解釈するべきであると主張している.つまり,このPV III 332cdで説かれているrang rigという術語の意味は,唯識派の学説における感官知などの対象認識が,知自身と一体となっている対象を認識するものであること,すなわち所取と能取の別体性が否定された知それ自身の認識であることにあるのであり,その認識がいわゆる自己認識ではないと述べているのである11

 それでは,唯識派の自己認識とはどのような構造をしているのか.それは,ここでギェルツァプジェが唯識派独自の自己認識の正しい認識の結果を設定していることから理解できる.まず,自己認識とは一つの知に二側面の認識が同時に存在していることを前提とするものである.二側面とは対象を認識する知と,その対象を認識している知をさらに捉える知との二側面であり,その内の後者が自己認識である.この唯識派独自の自己認識の正しい認識の結果の設定では,その第一の側面である対象を認識する知が,実質的な自己認識である能取の形象の認識対象として「〔知それ〕自身と一体となっている認識対象を認識する所取の形象」と言われている.すなわち,所取の形象が第二の認識側面である能取の形象の認識対象であるが,その所取の形象の認識対象が,さらに知と一体となっているものであるという二重の認識理論がこの自己認識の正しい認識の結果の設定で示されているのである.この所取の形象が経量部と共通のものでないことを表現するために,認識対象に「〔知それ〕自身と一体となっている」という限定語が付されている.経量部の学説では,外界の対象が承認されており,第一の側面の認識の対象は知とは別体のものであり,知と一体となっているものではないのである.

 PV III 320から始まるこの一連の議論では,その第一の認識の側面である対象認識について,所取と能取の別体性が否定されて,その結果,対象が知と一体となっているものであるという「唯識性」が論証されているのであり,その認識はいわゆる自己認識には相当していない.この議論で,自己認識の理論が積極的に論述されることはなく,経量部と唯識派の認識論的対立を軸にして,認識の対象が知自身と一体となっているものであることをダルマキールティは唯識派の立場から議論しているのである.これがギェルツァプジェの理解である12

 この戸崎博士とギェルツァプジェの見解の相違は,PV III 332cdだけではなく,一連の議論を通して見られるものである.PV 332cd以降で,PV III 352に至るまでダルマキールティは知自身の認識を表す術語を何度か使用しているが,ギェルツァプジェはそれらを「知自身と一体となっている対象の認識」と解し,自己認識ではなく,対象認識の意味にとるのである13

この相違の故に,PV III 320以降の議論を自己認識とみるか,対象認識とみるか戸崎博士とギェルツァプジェは見解を異にしているのである.

3.2 PV III 341-352におけるダルマキールティの思想的立場についてのギェルツァプジェの解釈

 次にPV III 341-352における,ダルマキールティの思想的立場について考察しよう.この問題に関して,ギェルツァプジェの兄弟弟子であるケードゥプジェが唯識説として解釈するということは福田[1988]によって既に指摘されている.筆者の理解では,このPV III 341-352に関して,ギェルツァプジェとケードゥプジェの解釈にほとんど相違はない14.よって,福田[1988]で明らかにされた,ケードゥプジェによる,経量部と唯識派の自己認識と対象認識の設定方式を前提にして以下の考察をなしたい.

 この問題で重要なのは,PV III 341abcの解釈である.

  外境に対象が存在する〔とみなす〕場合でも,それ(=外境対象)自身はただ領納(=自証)に従って決知されるのみである(戸崎訳)15

 特に,福田[1988]でも指摘されているように16,このPV III 341aの譲歩節をいかに解釈するかで,この偈頌を始めとした以下の議論を経量部説とみるか,唯識説とみるか異なってくるように思われる.戸崎博士はこの翻訳にも表されているように,ここでダルマキールティは外界の対象を認める経量部説に立脚しているとみて,この譲歩節を解釈されている.他方,ギェルツァプジェによれば,ダルマキールティはここで外界の対象を積極的に承認しているのではなく,唯識派の立場から,経量部にとって認められている外界の対象を暫定的に容認し,その場合でも,認識結果が知と一体となっている対象の認識であると論証しようとしているのであるとされる17.このように彼が解釈するのは,このPV III 341を始めとしてPV III 352に至るまで,経量部により提議される三つの反論をダルマキールティが想定していると理解しているためである.

1.青を認識対象とした時,自己認識は認識結果として妥当ではない.

2.自己認識が認識結果であるならば,能取の形象が正しい認識となってしまう.

3.所取の形象が正しい認識であるならば,正しい認識と認識結果は対象が別々となってしまう18

 この三つの反論の内,1の反論に対する解答がPV III 341-345,2の反論に対する解答がPV III 346-349b,3の反論に対する解答がPV III 349c-350aでなされ,一連の議論は経量部から提示されるこの三つの反論に対して,ダルマキールティが唯識派の立場から解答を与えるという構成をとっていると理解されている.

 ギェルツァプジェによれば,この1の反論は,ダルマキールティがPV III 320-337で外界の対象を否定したことから提議されたものである19.外界の対象を認める経量部の学説において,外界の対象の認識が対象認識,知それ自身と一体となっている対象の認識が自己認識である.他方,唯識思想に立つダルマキールティにとって,外界の対象が存在するとは認められず,全ての認識の対象は,知それ自身と一体となっているものである20.このような認識論的相違を前提として,PV III 320-337で,外界の対象が否定され,感官知などの対象認識が,知それ自身と一体となっている対象を認識するものであることが立証された時,経量部の学説では,この知それ自身と一体となっている対象の認識は自己認識に相当することになる.そこで,1の反論が立てられることになる.すなわち,青を認識対象とした時,その認識は対象認識となるはずであるが,知と一体となっている対象の認識,つまり自己認識であると言うのはなぜかと経量部は問うことになるのである.

 そこで,ダルマキールティがPV III 341abcで次のように答えるとギェルツァプジェは解釈する.

  経量部が外界の対象として認めている青が認識対象として存在している場合でも,〔知〕自身と一体となっている青の認識が認識結果として妥当である.なぜならば,青を望ましいもの,望ましくないものとして直接に経験するようなその青に対して,望ましいもの,望ましくないものと個別に確定されることを性質とするものとして設定する〔ことができるの〕であり,外界の側から〔形象が投影される場合,そのように青を望ましいもの,望ましくないものとして個別に〕設定することは〔でき〕ないからである(Thar lam gsal byed 285b2-4)21

 譲歩節をこのように解釈することで,経量部によって提示された1の反論に対して,ダルキールティが唯識派の立場から解答を与えるという構図をとることができる.また,この註釈で示されているように,ここでダルマキールティは外界の側に根拠を置く経量部の対象認識の不都合を指摘することにより,経量部に対して見解の訂正を促しているのであるとギェルツァプジェは解釈している.このような解釈は,経量部の認識論において,対象認識が知自身と一体となっている対象を認識するものではなく,外界の対象を認識するものであることが前提とされて成り立つものである.従って,彼の解釈では,経量部の学説において,外界の対象の認識が対象認識,知と一体となっている対象の認識が自己認識という図式は変わらない.この点は,戸崎博士の解釈とは異なったものである.戸崎博士は,ここでダルマキールティは経量部の学説に立っており,外界の対象の存在を認める場合でも,知は外界の対象を認識しているのではなく,知自身を認識しているのであり,認識している対象が何であるか確定することも自己認識に従ってなされると解釈される22.この解釈では,ダルマキールティが唯識説に立っている場合はもちろんであるが,経量部の学説に立っている場合でも,対象認識は自己認識に還元されることになる.

他方,ギェルツァプジェの解釈では,知自身を経験することによって,対象が確定されるという理論はダルマキールティが唯識説に立っている場合にのみ成り立つものである.しかも,その認識は自己認識ではなく,対象認識であることは先述したとおりである.このような相違が,両者の根本的な解釈の相違である.

 ギェルツァプジェは,PV III 341-352の一連の議論について,唯識派と経量部の自己認識および対象認識を峻別することにより成り立つものであると考えている.ここで,説明を容易にするために,彼が想定する唯識派の対象認識の認識構造を挙げておく.

●認識対象:青

●正しい認識:〔知〕自身の対象の形象が昇っていることにより,青に対して新しく欺かない知(=所取の形象)

●認識結果:〔知〕自身と一体となっている青を直接認識する正しい認識23

 この議論では,特にこの認識結果である「知自身と一体となっている青を直接認識する正しい認識」が,経量部の自己認識に相当している点に注意を払わなければならない.1の反論もそうであるが,残りの2と3の反論も,この一致により立てられたものである.すなわち,1の反論に対する解答の帰結として,知と一体となっている対象の認識が認識結果であると結論づけられた時24,その知と一体となっている対象の認識は,経量部にとっては自己認識となる.従って,認識結果が自己認識なのであるから,正しい認識は能取の形象であると経量部は誤解することになるのである.そこで2の反論が立てられることになる.

 しかし,この唯識派の対象認識の構造に示されているように,知に顕現している青に対する正しい認識は所取の形象である.能取の形象はその所取の形象を認識する自己認識として単一の知の中に存在してはいるけれども,青に対して機能するものではない.青に対して機能するのは所取の形象である25

 さらに,経量部が,所取の形象が正しい認識であり,かつ,知と一体となっている対象の認識が認識結果であるならば,所取の形象は外界の青を認識しており,認識結果である自己認識は知自身を認識していると誤解することになる.このようにして,3の反論が立てられることになる.しかしながら,正しい認識も認識結果も共に,知と一体となっている青を認識しているのであるから,当然このような反論は斥けられることになる26

 このように,PV III 341-352は,経量部により立てられる三つの反論に対して,ダルマキールティ唯識派の立場から解答を与えるという構成をとっていると理解されている.

おわりに

 以上,PV III 320-352について,戸崎博士とギェルツァプジェの解釈の相違を検討してきた.両者の解釈では,特に同箇所についての対象認識と自己認識の解釈の相違,およびPV III 341-352の学派的解釈の相違が顕著である.このような相違に関して,どちらの解釈に正否があるのか,現段階で筆者に判断する力はない.しかしながら,ギェルツァプジェの解釈は,難解なダルマキールティの議論に対する整合性のとれた,一つの有力な解釈ということができるのではないか.特に,ダルマキールティが唯識思想に立脚している場合,全ての認識の対象は知と一体となっているものなのであるから,その認識は自己認識ではなく,対象認識であるとする彼の解釈は非常に深い思索の跡を伺わせるものである.さらにその場合,自己認識にどのような機能を認めているのか,あるいは対象認識の構造がどのようなものであるのか,彼の解釈には興味深い点が多い.今後,さらに検討する必要があるであろう.

Footnotes

1 1Hattori Masaaki “Dignāga, On Perception, being the Pratyakṣapariccheda of Dignāga’s Pramāṇasamuccaya from the Sanskrit fragments and the Tibetan versions”, America:Harvard University Press, 1968, pp.100-107, 桂紹隆「ダルマキールティにおける「自己認識」の理論」『南都仏教』第23号,pp.24-26,戸崎宏正「ダルマキールティの認識論」『講座・大乗仏教 認識論と論理学』第9巻,春秋社,1984年,pp.180-184,同[1985].

2 2rJe btsun rnam ’grelrNam ’grel dgongs pa rab gsalにおいて,Sa bcad chen moの名称で呼ばれている.

3 3以上はSa bcad chen mo 58b5-63a4を筆者が抜粋して提示したものである.

4 4戸崎[1985]pp.1-2.

5 5筆者は拙稿「ケードゥプジェのPV III 338-340の解釈について」『印度学仏教学研究』第54巻第2号,2006年, pp.9-12で,PV III 338についてケードゥプジェ・ゲレクペルサンポ(mKhas grub rje dGe legs dpal bzang po,1385-1438,以下ケードゥプジェ)とラマダンパ・ソナムギェルツェン(bLa ma dam pa bSod nams rgyal mtshan, 1312-1375)の解釈を比較検討した.このSa bcad chen moでも,ラマダンパ・ソナムギェルツェンと同様に,PV III 338を経量部説を説く偈頌として解釈している.他方,Thar lam gsal byedでは,唯識説を説くものとして解釈する(Thar lam gsal byed 286a6-b2).このギャルツァプジェの解釈の相違については,rNam ’grel dgongs pa rab gsal pp.367-369を参照されたい.

6 6PV III 320:kā ’rthasaṃvid yad evedaṃ pratyakṣaṃ prativedakam/ tad arthaveda- naṃ kena tādrUpyād vyabhicāri tat//

7 7tadā ’nyasaṃvido ’bhāvāt svasaṃvit phalam iṣyate//

8 8戸崎[1985]p.17.

9 9従って,自己認識を認識結果として認めることが妥当である.なぜならば,〔知とは〕別の対象である認識されるものは存在しないからである.(Thar lam gsal byed 284b5:des na/ rang rig ’bras bu yin par ’dod rigs te/ don gzhan gyi rig bya med pa des na’i phyir/)

10 10gzhung snga ma rnams kyi don ’brel gyi dbang du byas na/ dbang po’i mngon sum rang gi bdag nyid du gyur pa’i gzhal bya rig pa ’bras bu zhes par gnas te/ sngar bstan pa rnams dbang mngon gyi gzung ’dzin rdzas gzhan ’gog pa sha stag tu snang ba’i phyir/ des na/ rnam rig pa’i thun mong ma yin pa’i rang rig gi tshad ’bras kyi rnam gzhag ’di ltar bya ste/ rang gi bdag nyid du gyur pa’i gzhal bya rig pa’i gzung rnam gzhal bya/ sgro ’dogs gsar du gcod pa’i ’dzin rnam tshad ma/ rang rig gi tshad ma ’bras bu’o//

11 11パンチェン・ソナムタクパ(Paṇ chen bSod nams grags pa, 1478-1554)は次のように述べている.「この箇所(=PV III 332cd)でrang rigと言われているのは,自己認識を指すのではない.なぜならば,rNam bshad(=Thar lam gsal byed)で「以前〔にPV III 320-332bで説かれた〕テキストの意味と結びつけるならば,感官知覚〔それ〕自身と一体となっている認識対象の認識が認識結果ということにあるのである.なぜならば,以前に示されたことは感官知覚の所取と能取が別体であることが否定されただけと見られるからである.」と説かれているからである.」(rNam ’grel dgongs pa rab gsal p.362, 6-10:skabs ’dir rang rig ces pa rang rig pa la mi byed de/ rnam bshad las/ gzhung snga ma rnams don ’grel* gyi dbang du byas na dbang po’i mngon sum rang gi bdag nyid du gyur pa’i gzhal bya rig pa ’bras bu zhes par gnas te/ sngar bstan pa rnams dbang mngon gyi gzung ’dzin rdzas gzhan ’gog pa sha stag tu snang ba’i phyir// *’brelと訂正して読んだ.)

12 12ただ,ギェルツァプジェの論述は若干明快さを欠いている.まず,Thar lam gsal byedの科文を見れば,PV III 320-340を「第二の正しい認識の結果の設定,自己認識の正しい認識の結果」と自己認識の科文の下位に置いている(東洋文庫チベット研究室[1997] pp.266-267).これはSa bcad chen moとは異なっている.また,引用にもあるように,唯識派独自の自己認識の正しい認識の結果を設定したり,自己認識が認識結果であると述べたり,曖昧な註釈となっていることは否めない.このような曖昧な記述は後代のゲルク派の論師の間に,ここでギェルツァプジェが認識結果を自己認識と解釈しているのか,それとも対象認識と解釈しているのかという問題を引き起こしている.この問題について,ジェツン・チューキギェルツェン(rJe btsun Chos kyi rgyal mtshan,1469-1546,以下ジェツンパ)は次のように述べている.

「第二の認識結果の解釈で直接説かれる主題となっている正しい認識の結果の設定であるならば,他者認識の正しい認識の結果の設定でなければならないことがギェルツァプジェの究極の真意である.二つの広註で自己認識に関する正しい認識の結果を前のように説かれているのは,「従って,他者の認識が存在しないので」(PV III 332c)云々で唯心派の自己認識の正しい認識の結果の設定が間接的に導かれることを意図しているのである.」(rJe btsun rnam ’grel p.400, 10-15:’bras rtog gnyis pa’i dngos kyi bstan bya’i gtso bor gyur pa’i tshad ’bras kyi rnam gzhag yin na/ gzhan rig gi tshad ’bras kyi rnam gzhag yin dgos pa rgyal tshab rje’i dgongs pa mthar thug yin no// Tikka gnyis kar rang rig gi tshad ’bras sngar ltar gsungs pa ni/ des na gzhan rig med pa’i phyir/ zhes sogs kyis sems tsam pa’i rang rig gi tshad ’bras kyi rnam gzhag shugs la ’phangs pa la dgongs so//)

 このジェツンパの解釈は正確であると思われる.この解釈では,Thar lam gsal byedと同様に,Pramāṇaviniścayaの註釈rNam nges TIk stodでも同様の唯識派独自の自己認識の正しい認識の結果の設定をギェルツァプジェはなしているが(rNam nges TIk stod 122b5),それは間接的に導かれるものであり,直接この議論で扱われているのは,唯識派の対象認識に関するものであると理解されている.筆者もこのジェツンパの解釈に従いたい.

 なお,福田[1988]で指摘されているように,ケードゥプジェ・ゲレクペルサンポ(mKhas grub rje dGe legs dpal bzang po,1385-1438,以下ケードゥプジェ)は,PV III 320-337でダルマキールティが唯識派の立場で自己認識を説いていると解釈する.特に,PV III 329-332で唯識派の自己認識の本論が説かれていると理解している(東洋文庫チベット研究室[1998] p.61,福田[1988] p.10).この点は,ギェルツァプジェと異なっている.両者の解釈の相違については別稿を期したい.

13 13PV III 339:ātmānubhava=Thar lam gsal byed 286b2-3:rang gi bdag nyid nyams su myong ba, PV III345:svānubhava=Thar lam gsal byed 289a5:rang gi bdag nyid du gyur pa’i sngon po nyams su myong ba, PV III 347:ātmasaṃvid=Thar lam gsal byed 289b6:rang gi bdag nyid du gyur pa’i sngon po rig pa, PV III 349:svavid=Thar lam gsal byed 290a4:rang gi bdag nyid du gyur pa’i sngon po rig pa, PV III 350:svasaṃvedana=Thar lam gsal byed 290b3:rang gi bdag nyid du gyur pas sngon po rig pa.

14 14この解釈はさらに師であるツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa bLo bzang grags pa, 1357-1419)にまで遡源することができる.Tshad ma’i brjed byang 35b2-38a5参照.

15 15PV III 341abc:vidyamāne ’pi bāhye ’rthe yathānubhavam eva saḥ/ niścitātmā.

16 16福田[1988] pp.10-13参照.

17 17「外界の対象が存在しているとしても」(PV III 341a)というのは,外界の対象は存在していないが,存在するとしても,というように仮定的な仕方で容認して,最初に認識結果を考察なさろうとしているのである.(Thar lam gsal byed 288 a6-b1:phyi rol don ni yod na yang/ zhes pa ni/ phyi rol don ni med mod kyi/ yod du chug na yang zhes brtag pa mtha’ gzung gi tshul du khas blangs nas/ thog mar ’bras bu la dpyad pa mdzad bzhed pa yin no//)

18 18〔ダルマキールティは〕これらの第三の設定のテキスト(PV III 341-352)で,青を認識対象とした時,自己認識は認識結果として妥当ではない,自己認識が認識結果であるならば,能取の形象が正しい認識となってしまう,所取の形象が正しい認識であるならば,正しい認識と認識結果は対象が別々となってしまう,というこの三つの論難を排斥なさっているのである.(Thar lam gsal byed 287b6-288a1:rnam gzhag gsum pa’i gzhung ’di dag gis sngon po gzhal byar byas pa’i tshe rang rig ’bras bur mi rigs pa dang/ rang rig ’bras bu yin na ’dzin rnam tshad mar thal ba dang/ gzung rnam tshad ma yin na/ tshad ’bras yul tha dad du thal ba’i rtsod pa gsum po ’di nyid spong bar mdzad pa’o//)

19 19この〔第三の〕設定(PV III 341-352)は,第二〔の設定〕で外界の対象が否定されたことから派生したのである.(Thar lam gsal byed 286b6-287a1:rnam gzhag ’di/ gnyis par phyi rol gyi don bkag pa las ’phros pa’o//)

20 20このような経量部と唯識派の自己認識と対象認識の設定方式については,福田[1988]を参照されたい.

21 21mdo sde pas phyi rol don du ’dod pa’i sngon po gzhal byar yod pa’i tshe na yang/ rang gi bdag nyid du gyur pa’i sngon po rig pa ’bras bur rigs par thal/ ji ltar sngon po ’dod mi ’dod du dngos su nyams su myong ba nyid kyi sngon po de la ’dod mi ’dod so sor nges pa’i bdag nyid du ’jog gi/ phyi rol gyi ngos nas bzhag tu med pa’i phyir/

22 22戸崎[1985]pp.26-27.

23 23Thar lam gsal byed 290a6-b1:tshad ’bras dngos ni/ sngon po gzhal bya/ rang yul gyi rnam pa shar ba’i sgo nas sngon po la gsar du mi slu ba’i shes pa tshad ma/ rang gi bdag nyid du gyur ba’i sngon po dngos su rtogs pa’i tshad ma ’bras bu zhes bya’o//

24 24ギェルツァプジェは帰結であるPV III 345を次のように註釈している.「従って,経量部が外界の対象として認めている青を認識対象とした場合でも,〔知〕自身と一体となっている青の経験が認識結果として妥当である.なぜならば,その青は知に顕現していることによって,望ましい〔自性〕,望ましくない自性のものとして顕現する通りに,その通りに対象である青を,望ましいもの,望ましくないものとして設定し,確定するのである〔.そうではなく〕外界の対象によって〔そのように〕設定することは〔でき〕ないからである.それが帰結する.なぜならば,〔以上で〕そのように既に論証したからである.」(Thar lam gsal byed 289a5-6:des na/ mdo sde pas phyi rol don du ’dod pa’i sngon po gzhal byar byas pa la’ang/ rang gi bdag nyid du gyur pa’i sngon po nyams su myong ba ’bras bu yin par rigs te/ gang gi phyir na/ ji ltar sngon po ’di blo la snang ba’i dbang gis ’dod mi ’dod kyi rang bzhin du snang ba de ltar/ don sngon po ni/ ’dod mi ’dod kyi rnam par ’jog cing nges pa yin gyi/ phyi rol don gyi dbang gis bzhag tu med pa’i phyir/ der thal/ de ltar sgrub zin pa de’i phyir/. PV III 345:tasmāt prameye bāhye ’pi yuktaṃ svānubhavaḥ phalam/ yataḥ svabhāvo ’sya yathā tathaivā- rthaviniścayaḥ//)

25 25青を認識対象とした時,そ〔の青〕に対して能取の形象は正しい認識ではない.なぜならば,その〔ように青を認識対象とした〕時には,対象である青が顕現している所取の形象,つまり感官知覚こそが正しい認識だからである.能取の形象自体は,外界の青に関する正しい認識ではない.なぜならば,〔青を認識している時〕能取の形象は存在するけれども,そ〔の能取の形象〕において,自己の顕現対象は〔所取と能取との〕二顕現が没した仕方で顕現するのであり,別の対象であるかのように顕現しないからである.(Thar lam gsal byed 289b4-5:sngon po gzhal byar byas pa’i tshe/ de la ’dzin rnam tshad ma ma yin par thal/ de’i tshe don sngon po snang ba’i gzung rnam dbang po’i mngon sum ’di nyid tshad ma yin pa’i phyir/ ’dzin pa’i rnam pa’i bdag nyid phyi rol gyi sngon po la bltos par bya ba’i tshad ma ma yin par thal/ ’dzin rnam yod du zin kyang/ de la rang gi snang yul gnyis snang nub pa’i tshul du snang gi don gzhan ltar snang ba ma yin pa’i phyir//. PV III 346:tadā ’rthābhāsataivāsya pramāṇaṃ na tu sann api/ grāhakātmā ’parārthatvād bāhyeṣv apekṣyate//)

26 26正しい認識とその結果は,対象が個々別々に他ならないと確定されることもない.なぜならば,青を把握する正しい認識である知覚は,青を肯定的に確定してから,自己と一体となっている青を認識するが,その同じものが認識結果だからである.

Thar lam gsal byed 290a5-6:tshad ’bras yul so so tha dad pa kho nar nges pa’ang ma yin te/ sngo ’dzin mngon sum tshad mas sngon po yongs su bcad nas rang gi bdag nyid du gyur pa’i sngon po rig pa de nyid ’bras bu yin pa de’i phyir/. PV III 350a: tasmād viṣayabhedo ’pi na.)

References
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  • 東洋文庫チベット研究室[1998]『西蔵仏教基本文献 第3巻Sa-bcad of rJe yab sras gsung ’bum(3)』東洋文庫.
  • 戸崎宏正[1985]『仏教認識論の研究』下巻,大東出版社.
  • 福田洋一[1988]「ケードゥプジェの『プラマーナ・ヴァールティカ』註釈における自己認識と他者認識の設定方式について」『日本チベット学会報』第34号,pp.8-15.
 
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