2007 年 11 巻 p. 18-39
『伅眞陀羅所問如來三昧經』(T624.以下,この漢訳経典を指すときは『伅眞』と略称)は, *Drumakinnararājaparipṛcchāsūtra(以下,『伅眞陀羅王所問經』一般を指すときはDKPと略称)の現存する漢訳完本2本のうち,より古い漢訳として知られる.次節で見るように先行研究の間で若干の議論があるものの,現在のところ,おおよそ,その訳者は支婁迦讖(*Lokakṣema.以下,「支讖」と略称)に帰せられている.
また,筆者は拙稿(宮崎[2007].以下,「前稿」と略称)において,『阿闍世王經』(T626.以下『阿闍世』と略称)の訳者や訳経状況を探るために,『阿闍世』の訳語を『道行般若經』(T224.以下『道行』と略称)と比較することを中心に据えて,いくつかの観点から他の支讖訳とされる経典1と比較しながら,同経の翻訳上の特徴に関して分析を行った.その結果として,『阿闍世』が支讖による翻訳か否かの判断は非常に困難であり,結論を保留せざるを得なかった.しかし,従来考えられてきたように単に経録の記述にのみ基づいて,同経を他の支讖訳経典と同列に扱うことに問題があることを指摘した.
それと同時に,本稿で扱う『伅眞』と『阿闍世』の間にいくつかの共通点があることが判明した.
それらを簡単にまとめておくと,ⓐ『道行』に見られない訳語に関して両経間で共通するものいくつか見られたこと,ⓑ冒頭句「聞如是一時」が見られること,ⓒ音訳語に対する割注が複数見られること,のおよそ3点にまとめられる.けれども,前稿においては主な研究対象を『阿闍世』としていたことや紙数等の関係で,『伅眞』個別の翻訳上の特徴に関する調査・検討や,『伅眞』『道行』『阿闍世』三経典についての翻訳上の関係やその背景にある翻訳事情・状況などについては考察を行うことができなかった.
そこで本稿では,まず『伅眞』個別の翻訳上の特徴についての調査・検討を行う.方法としては前稿にならい,『伅眞』に関する経録の記述をまず手続きとして確認したうえで(第2節),支讖訳であることが確実視される『道行』との間で共通する術語の訳語の比較を行い,訳語について調査する(第3節).第2節で触れるように先行研究においては主に経録の記述に基づく議論しか行われてこなかったのに対して,本稿では訳語レヴェルで『伅眞』の翻訳上の特徴を明らかにする.それらの調査に基づいて,これまで明らかにされることのなかった『伅眞』『道行』『阿闍世』の三経典をめぐる翻訳上の近接関係について検討し,さらに『伅眞』と『阿闍世』の翻訳者に関して考察する(第4 節).最後に,三経典間で見られる相違点について,第4節で提示した可能性を踏まえて,その背景となる翻訳事情等を考察する(第5 節).
訳語の具体的な調査検討に入る前に,『伅眞』の訳者に関する議論が,先行研究の間に若干見られるのでそれについて概観しておく.
平川[1989]が紹介しているように,古くは境野黄洋氏が「眞陀羅」という訳語に注目し,『伅眞』が支讖訳ではなく,竺法護訳としたのに対して,常磐大定・林屋友次郎両氏は『出三蔵記集』(T2145.以下『祐録』と略称)における支敏度作「合首楞厳經記」の記述を反証としてそれに反論し,同経は支讖訳であることを主張した2.また,比較的近年の海外の研究においては,Zürcher [1992]が『祐録』での『伅眞』に関する記述の乱れを理由に『伅眞』を支讖訳とすることに躊躇しているのに対し,Harrison [1993]は『伅眞』の訳語の調査した結果と,上記の常磐・林屋両氏と同様,支敏度による記述を理由に,同経を条件付きながらも支讖訳として認めている3.
このように先行研究の間では議論が見られるものの,現在では『伅眞』はおおよそ支讖訳として認められているようである.けれども,Zürcher [1992]が指摘しているように,『祐録』での同経に関する記述には若干の問題点があり,それに関して従来あまり詳細に言及されたことがないようなので,以下に確認しておく.
伅眞陀羅經二卷(舊録云伅眞陀羅王經別録所載安録無今闕)(T2145 6b13)
伅眞陀羅所問寶如來經二卷(或云伅眞陀羅所問寶如來三昧經或云伅眞陀羅經)(do. 18a1-2)
今之小品,阿闍貰,屯眞,般舟,悉讖所出也.(do. 49a20-21)
以上の例では,大正蔵に記された経題とは若干異なるが,いずれも『伅眞』について述べたものと見て差し支えない.
①は支讖の訳経を列挙する箇所での記述であるが,割注に注目してみる.「別録所載,安録無」という文言から,この経は『祐録』編纂の際に基づいたとされる道安撰『綜理衆經目録』(「安録」.以下,『道安録』と略称)においては支讖訳としては登録されていなかったようだが,「別録」には支讖の訳経として登録されていたのを,僧祐は採用したようである.また,「今闕」という文言からは『祐録』編纂時には僧祐は経典そのものを手にしていなかったと推測できる.
②は「新集安公失譯經録第二」という箇所での記述であり,『道安録』で「失訳」として登録されていた経典を記したものである.すなわち,『道安録』編纂時に道安はこの経典を目にしてはいたが,訳者については「失訳」と考えていたことになる.
①②の記述を総合的に勘案すると,『祐録』の編纂者・僧祐は当該の経典を実際に手にすることなく,『道安録』における記述に反して「別録」の記述に従って『伅眞』の訳者を「支讖」と比定した,と考えられる.この比定方法は『祐録』の中で支讖訳とされる他の諸経典とは異なるものであることは,注意を要する4.
③の記述は常盤氏や林屋氏,Harrison氏が『伅眞』が支讖による翻訳であることを支持するものとして提示した,支敏度作「合首楞厳經記」での記述である.支敏度は道安と並ぶ晋代の高僧として知られ,彼が③のような見解を持っていたことは注目に値するが,その見解の根拠は明らかでなく,資料としての価値は上記①②と変わりのないものである.
以上,『祐録』における『伅眞』に関する記述を概観してきたが,『祐録』では,『伅眞』には他の支讖訳の経典とは異なる記述がなされていることには注意を払う必要がある.
また,『祐録』以外の諸経録のうち,法經撰『衆經目録』(T2146) の系統を受ける一部の経録では『伅眞』の翻訳年代に関して「後漢建寧年(168年–172年)」という表記が見受けられるものの,その他の経録には年代に関する記述はない.訳者に関しては,いずれの諸経録も『祐録』同様,支讖としている5.
異訳に関しては,現存する鳩摩羅什訳『大樹緊那羅王所問經』(T625)以外のものは諸経録には記されていない.
次に,『伅眞』の訳語について調査・検討していくが,その方法としては,Harrison [1993]が『般舟三昧經』(T418.以下『般舟』と略称)の訳語を検討した際の方法を広く適用したもので,具体的には,支讖による翻訳であることが確実とされる『道行』に対応するAṣṭasāhasrikāprajñāpāramitāsūtraとチベット語訳DKP (Harrison [1992])に共通する術語について,『道行』と『伅眞』の間でその訳語を比較検討するという方法をとる6.
また,前稿では「『道行』には見られない訳語について」という限定のもとで,『阿闍世』と『伅眞』の間で共通する訳語が多く確認されることを指摘したが,本稿では,さらに調査範囲を広げて訳語全般について両経典間でどの程度共通するかについても併せて調査する.
以下,その調査結果を記すが,その表記について断っておく.
『伅眞』と『道行』との間で共通するものに関してはゴチック体で表記した.
『伅眞』と『阿闍世』の二経間でのみ共通する場合は下線を,『道行』と『阿闍世』の二経間でのみ共通する場合は二重線を施した.なお,『道行』『伅眞』『阿闍世』の三経で共通するものは下線つきゴチック体で表記することにする.
1. anuttarā samyak-saṃbodhiḥ
阿耨多羅三耶三菩(T224 437b24, 437c1, etc./T624 364a28, 365c15ff)
T624「阿耨多羅三耶三菩提」(351b6, 361b11ff, 363b14ff, etc.)「阿耨多羅三藐三菩提」(352a3, 359b6ff, etc.)「阿耨多羅」(361b15ff)
2. anutpattika-dharma-kṣānti
無所從生法樂(T224 451a14, 453c1, etc./T624 366a24)
T624「無所從生法樂忍」(351a23, 351b7ff, 352c19, 359b7, etc.)「無所從生法忍」(366a6ff, 367a29)
3. avaivartikā
阿惟越致(T224 426a4ff, 426c21ff, etc/T624 351a24, 352a2)7
4. asura
阿須倫(T224 432a3, 433b16ff, etc./T624 349b10, 355c16, 366c17)
5. upāyakauśalya
漚惒(和)拘舍羅(T224 433c7, 438a11, etc./T624 348c25, 350b28ff, 352c3ff, etc.)
6.kalyāṇa-mitra
T224「善知識」(452b3ff, 460b3ff, etc)「善師」(427a29ff, 438b13, etc.)
T624「迦羅蜜」(360a14)
7. kinnara
T224「甄陀羅」(434c29, 435b1, 438c12, 475b18)
T624「眞陀羅」(349b10, 351c3ff, etc.)
8. gaṅgā-nādī-vāluka
恒邊沙(T224 430c17, 433a22ff, etc./T624 352c26)8
9. gandharva
T224「揵陀羅」(475b17 )「乾陀羅」(435a1)「健陀羅」(438c12)
T624「犍陀羅」(349b10, 351c3, etc.)
10. garuḍa
T224「迦樓羅」(434c29, 438c12)「迦留勒」(475b18)
T624「迦留羅」(349b11)
11. cakravarti(-rājan)
遮迦越羅(T224 447b7ff, 465a21, etc./T624 350b7, 354a7, 363b10ff)
T224「遮迦越王」(451a19)
12. Jambudvīpa
閻浮利(T224 432a26ff, 434a17, 435c1ff, etc/T624 367b4)
13. tathatā
本無(T224 449c29ff, 453a28ff/T624 351a4, 358b16, etc.)
T624「怛薩阿竭」(366a21)「怛薩」(349c13ff, 362c21)
前稿でも説明したように,『伅眞』と『阿闍世』には,異訳で*tathatā に該当する箇所に本来 tathāgata の音訳語である「怛薩阿竭」という訳語が見える用例が確認される9.
14. tathāgata
怛薩阿竭(T224 429a29, 430c17ff, etc./T624 348c18, 350a14, 351b8, etc)
如來(T224 450b3, /T624 354a4, 354b12)
15. Tuṣiṭa-deva
兜術天(T224 439c6, 451b21, etc./T624 362a23)
16. Trayastiṃśa-deva
忉利天(T224 430a25, 431a21, etc./T624 366a4)
17. dāna, śīla, kṣānti, vīrya, dhyāna, prajñā
檀・尸・羼提・惟逮(T224)/精進(T624)・禪・般若(T224 434b3ff etc./T624 356a28ff)
布施/施與(T624)・持戒・忍辱・精進・一心(or 禪)・智慧(T224 434b8ff etc./T624 354c22, 363c11, etc.)
『伅眞』ではvīrya のみ音訳が見られなかった.ちなみに『道行』で確認される「惟逮」という訳語の用例はかなり限られたものである10.
18. Dīpaṃkara
T224「提和竭羅」(431a7ff, 458b1ff, etc.)
T624「提和竭」(366a6)
19. dharma-bhāṇaka
T224「法師」(430a2ff, 435a2, etc.)「經師」(434c5, 451b13, etc.)
T624「明經」(350a13)
20. dhāraṇī
陀隣尼(T224 477a29/T624 348b29, 351a1, etc.)
21. pañca-abhijñā
般遮旬(T224 433b29ff, 436c18ff/T624 358c27)
T624「五旬」(353a3, 357c28, 364a29)
22. preta
T224「薜茘」(448a18, 464b6, etc.)
T624「餓鬼」(356b19)
『伅眞』で確認された「餓鬼」という訳語は後世の訳経の訳経では一般的だが,他の支讖訳経では確認されない.
23. buddha-anubhāvena
持佛威神(T224 425c10ff, 429a15ff, etc./T624 358c3, 362c11)
承佛威神(T224 443b16/T624 366b13)
24. bodhicittam ut√pad
T224「索佛道」(432b6, 438a5)
T624「發菩薩心」(359b24)「發心」(351a9, 363b1)
25. bhūta-koṭi
本際(T224 442c6ff, 448b26, 458a8ff /T624 352b6ff, 363c8, etc.)
26. mahāyāna
摩訶衍(T224 427c1ff, 429b6, 446b21/T624 350a9, 352a6, etc.)
27. mahoraga
摩睺勒(T224 435a1, 438c12, 470a27, etc./T624 349b11)
T624「摩休勒」(359b17, 364a4, 366c25)
28. yakṣa
閲叉(T224 429c19ff, 435b1, etc./T624 349b10, 359b5, etc.)
29. Rājagṛha
羅閲祇(T224 425c4, 478b9/T624 348b24)
T624「羅閲城」(364a19)
30. rūpa, vedanā, saṃjñā, saṃskāra, vijñāna
色・痛痒・思想・生死・識(T224 426a19ff, 437a14ff, etc./T624 354b20ff, 362c6ff, 363a12ff)
31. Śakro devānām indraḥ
釋提桓因(T224 429a11ff, 430a28ff, etc./T624 350b8, 365c20ff, etc.)
32. Śākyamuni
釋迦文(T224 431a10, 443b15, etc./T624 355b1)
33. saṃnāha-saṃnaddha
僧那僧涅(T224 427b29ff, 429b6, 452c17ff/T624 348c17, 366b12)
34. sarvajña
薩芸若(T224 426a24ff, 427c16ff, etc./T624 353a13, 354c22, 361b13)
35. sarvasattva
一切人(T224 429a3ff, 443a23ff, etc./T624 350a20ff etc.)
一切(T224 461c13/T626 389b14, 389b27, etc./T624 350a6ff, 350b25)
一切人民(T224 433c19, 436b5/T624 356b3, 357b6ff, etc.)
十方天下人(T224 427b18, 464c24, etc./T624 357a27ff)
十方人(T224 464b26ff, 465b16ff etc./T624 356b25ff, 358b27ff, etc. )
T224「薩和薩」(433a7ff, 458b27ff, etc.)
36. Sumeru
須彌(T224 465c22, 467a2ff, etc./T624 348c9 354a12, 355a5ff, etc.)
以上,『伅眞』と『道行』の訳語を比較してきたが,両経の訳語に関してはその多くが両者の間で共通する結果となった.また結果として,前稿で『阿闍世』と『道行』の間で,訳語を比較検討した際に調査した術語とほぼ同じものを調査することとなった.
第3節では『伅眞』と『道行』,前稿では『阿闍世』と『道行』の訳語を比較してきたが,本節ではこれら三経典の訳語に関する比較検討を総合して,これらの翻訳上の近接関係について検討する.さらにそれらを踏まえて,『伅眞』と『阿闍世』の訳者について検討する.さらにそれらを踏まえて,『伅眞』と『阿闍世』の翻訳者について考察する.
はじめに,三経典のうち各二経典間に共通する訳語の数と割合について整理する.(A)『伅眞』と『道行』との間で共通する訳語(第3節・ゴチックすべて)については,調査した術語36語のうち,28の術語に共通する訳語が見られ,その総数は35語である.次に (B)『阿闍世』と『道行』との間で共通する訳語(同・下線付きゴチック+二重線)は,27の術語に共通する訳語が見られ,その総数は28語である.最後に (C)『伅眞』と『阿闍世』の間で共通する訳語(同・下線つき文字すべて)は,34の術語に共通する訳語が見られ,その総数は39語にもなる.以上を表にしてまとめると以下の通り11.
表 2 三経典間での共通する訳語の総数と割合
共通する訳語が見られる術語 | 共通する訳語の総数 | |
(A)『道行』と『伅眞』の間で共通する訳語(ゴチックすべて) | 28/36 (78%) | 35語 |
(B)『道行』と『阿闍世』の間で共通する訳語(下線付きゴチック+二重線) | 27/36 (75%) | 29語 |
(C)『伅眞』と『阿闍世』の間で共通する訳語(下線つき文字すべて) | 34/36 (94%) | 39語 |
まずは,(C)『伅眞』と『阿闍世』の間で共通する訳語の数および割合についてであるが,割合については実に9割を超しており,その総数も最も多い.前稿では,「『道行』には見られることがない訳語については」という「限定付き」のもとで,『阿闍世』と『伅眞』の間で共通する訳語が多く見られる,という指摘にとどまっていたが,本稿で訳語全般についても両経典がかなり近接していることが確認された.さらに,前稿で確認されたように,形式上の特徴に関しても共通するものがあること(第1節ⓑⓒ)から,両経典の翻訳上の近接関係は極めて近いものであると認められる.
次に,(A)『道行』と『伅眞』の間で共通する訳語の数および割合と (B)『道行』と『阿闍世』の間で共通する訳語の数および割合についてであるが,割合については両者ともおよそ7割程度であり,『伅眞』『阿闍世』ともに『道行』に対する翻訳上の近接関係はほぼ等しく見える.しかし,上で見たように,密接な翻訳上の関係が確認される『伅眞』と『阿闍世』のそれぞれと『道行』との,相対的な親近性については,その総数や個別の訳語の検討を優先して判断していくべきものである.
まずは,共通する訳語の総数に注目すると,『伅眞』と『道行』の間で共通する訳語の総数は,『阿闍世』と『道行』のそれを上回り,『伅眞』の方が『阿闍世』よりも『道行』に近接していることを窺わせる.
次に,個別の訳語を見ていく.具体的には第 3 節で検討した訳語のうち,『伅眞』と『道行』の間でのみ共通する訳語(下線無しゴシック)の一部 について見てみる.2. のanutpattika-dharma-kṣānti に相当する「無所從生法樂」,17.の dāna, śīla, kṣānti, (vīrya), dhyāna, prajñāに相当する「檀・尸・羼提・(惟逮/精進)・禪・般若」,23. buddha-anubhāvenaに相当する「持佛威神」,35. sarvasattva に相当する「十方天下人」は,それぞれ,支讖訳以外の経典での用例が限られ,支讖訳に特有と考えられる訳語である12.また,35. sarvasattva に相当する訳語としては,「十方天下人」以外にも「十方人」や「一切人民」など複数の訳語が両経間で共通している.また,21. pañca-abhijñā に相当する「般遮旬」は,固有名詞以外では,大蔵経全体でも両経にのみ確認できる特殊な音訳語である.以上で掲げた訳語の原語に相当するものがチベット語訳『阿闍世王経』には確認されるが,『阿闍世』では上記で見たような訳語は確認できない.
このように訳語個別を検討した際にも,割合が示す以上に『伅眞』と『道行』の翻訳上の親近性の高さが読み取れ,『伅眞』は『阿闍世』よりも『道行』と近しい翻訳上の関係にあると推論できる.以上で分析した三経典の翻訳上の近接関係を図示すると次のようになる13.
図 1 三経典の翻訳上の近接関係
つづいて,『伅眞』と『阿闍世』の翻訳者について考察する.既に述べているように『道行』については支讖による翻訳であることが確実視されていることから,『道行』を基準にして他の二経典の訳者について考えていく.
まず,『伅眞』の訳者であるが,『道行』との間で共通する訳語の割合は7割5分程度となっており,その数字からのみでは『道行』と同じ訳者か否かの判断はどちらにも解釈でき、非常に困難である.
一方で,支讖訳に特有と考えられる訳語が,『阿闍世』よりも多く見られたことから,図1に示したように,翻訳上の距離については,『伅眞』は『阿闍世』よりも『道行』に近しい関係あることが推論される.一方で,脚注12で詳しく見たような『伅眞』と『道行』のみに見られる「支讖訳に特有と考えられる訳語」は『阿闍世』に見ることができない.このことは,前稿で『阿闍世』の訳者についての判断を難しくする要因の一つ,すなわち,支讖による翻訳であることを支持しない要素になった.けれども,逆にこれらの訳語が『伅眞』に見られることは,同経が支讖による翻訳であることを支持するものとなる.すなわち,特に支讖訳特有とされる訳語が多く見られることからは,『伅眞』が支讖と無関係の人物によって翻訳されたと考えることは難しい14.よって,『伅眞』については「支讖もしくは彼に近しい人物あるいはグループ」である可能性が高いと考えられる.一方,『道行』との間で共通しない訳語や形式上の特徴など,いくつかの相違点が見られるが,上記の可能性が認められた場合,その背景として考えられる翻訳事情等については次節において検討する.
次に『阿闍世』の訳者であるが,表2に示したように,『伅眞』と『道行』の間同様,両経の間では7割程度の術語の訳語が共通してみられた一方で,前稿でも指摘したように,『阿闍世』には『道行』と共通しない訳語が相当数見られたことや,既に見たような「支讖訳に特有とされる訳語」のいくつかが見られなかったこと,さらに形式上の特徴における差異などから,『阿闍世』の訳者が支讖か否かの判断は非常に難しく,その結論を保留せざるを得なかった.
一方,図1に示したように,共通する訳語の数やその割合から『伅眞』と『阿闍世』は,翻訳上の関係について非常に密接な関係にあることが,本稿で新たに明らかになった.すなわち,両経典の訳者については同一の人物あるいはグループによるものであると考えてほぼ間違いないであろう.言い換えれば,同じような翻訳の状況,翻訳の事情を持った経典であると言える.そして,上記で見たように『伅眞』の訳者については,支讖と何らかの関わりがあった人物もしくはグループによる翻訳である可能性が高いことが判明したことから,前稿では判断を保留していた『阿闍世』の訳者についても,同様に考えることができるであろう.すなわち,『阿闍世』もまた「支讖もしくは彼に近しい人物あるいはグループ」によって翻訳された可能性が高いと考えられる15.
前節までに,『伅眞』『道行』『阿闍世』それぞれの翻訳上の近接関係や共通する訳語について検討した結果,『伅眞』と『阿闍世』の翻訳者を支讖と全く無関係の人物を想定することは難しく,両経の翻訳者については「支讖もしくは彼に近しい人物あるいはグループ」である可能性が高いとした.一方で,これら三経典の間には様々な相違点が見られ,上記の可能性を認める場合,それらをどのように解釈するかが問題となる16.そこで本節では,三経典間に見られる相違点について検討し,その背景として考えられる翻訳事情や状況について考察していく.
三経典に見られる相違点としては大きく分けて,Ⓐ訳語の相違とⒷ形式上の相違の二つがあるが,まずは前者「訳語の相違」について見ていく.
「訳語の相違」については,いくつかの訳語から,㋐三経典間での音訳語の減少傾向,㋑音訳語同士での相違,という2点が読み取れる.これについて以下に論じる.
まず,㋐「三経典間での音訳語の減少傾向」についてであるが,具体的には,『道行』には『伅眞』や『阿闍世』には見られない音訳語がいくつか見られることから,この三経典間では音訳語の減少傾向が確認されるということである.
以下,具体的に見ていく.まず,『道行』でのみ確認される音訳語を,対応する原語とともに列挙する.
阿耨多羅三耶三菩阿惟三佛(anuttarām samyaksaṃbodhim abhisaṃ-buddhaḥ, T224 437a9, 443b23ff , 458b9ff, 461b21ff, etc.)
阿惟三佛(abhisaṃbuddhi/abhisaṃbuddha, T224 437a9, 438a17, 442 c18ff, etc)
怛薩阿竭阿羅呵三耶三佛 (tathāgata-arhat-samyaksambuddha, T224 429a28ff, 432a11ff, etc.)
薩和薩(sarvasattva, 第3 節37)
以上は三経典のうちで『道行』のみで確認され,いずれもその用例は漢訳経典全体でも限定的であるが17,特に「阿耨多羅三耶三菩阿惟三佛」「怛薩阿竭阿羅呵三耶三佛」といった,長大な音訳語が『伅眞』『阿闍世』では見られないことは注目すべきである.
また,『道行』『伅眞』の二経典でのみ確認される音訳語としては,既に見たように,dāna, śīla, kṣānti, vīrya, dhyāna, prajñā に対応する「檀・尸・羼提・惟逮/(精進)・禪・般若」(第3 節・17)や,pañca-abhijñāに対応する「般遮旬」(同・21)などがある.
以上の具体例からは,『道行』で見られる音訳語が『伅眞』や『阿闍世』では見られなくなり,三経典の間で音訳語が減少している傾向を読み取ることができる18.
次に,㋑「音訳語同士での相違」について見ていく.具体的には,『道行』とは異なる音訳語が『伅眞』『阿闍世』で共通する形で見られることを指す.以下に列挙する19.
眞陀羅(⇔甄陀羅:kinnara 第3節・7)
迦留羅(⇔迦樓羅・迦留勒:garuḍa 同・10)
提和竭(⇔提和竭羅:Dīpaṃkara 同・18)
摩休勒(⇔摩睺勒:mahoraga 同・27)
以上のように,定型的術語に相当する音訳語のいくつかが,『道行』のものと異なる形で見られる.
以上,2点の訳語の相違について見てきたが,これらの背景としては翻訳者をめぐる状況として,およそ2つの事情が考えられる.
第一には,㋐「三経典間での音訳語の減少傾向」に対応する背景事情として,「翻訳者の中国語の習熟具合」が考えられる.すなわち,月支からやって来たとされる外国人僧の支讖は,初期の訳経では中国語に慣れずに音写語を多用していたが,翻訳に携わるうちに,次第に中国語に慣れ親しみ,後期の訳経では音写語,特に中国人には難解な長大な音訳語が減り,意訳語に置き換わるという現象は常識的な範囲で考え得るものである20. もう一つの背景事情として考えられるのは,「翻訳協力者の相違」である.経録の記述から『道行』と『般舟』の翻訳は共通する何人かのグループで行われたことが既に知られており,実際にこの二経典の間には特有の訳語が確認される21.一方,既に見てきたように『伅眞』と『阿闍世』の翻訳上の関係が非常に近接し,また,上記で見たように『道行』との間で訳語などの相違点が見られることから,これら二経典は『道行』『般舟』とは協力者が異なる翻訳グループによって行われた可能性が考えられる.特に㋑「音訳語同士の相違」については上記の「翻訳者の中国語の習熟具合」のみでは説明が難しく,「翻訳協力者の相違」に起因する部分が多いと考えられる.また,㋐「音訳語の減少傾向」についても「翻訳協力者の相違」という背景を考えることができる.
以上,訳語の相違の中に読み取れる2点に関して「翻訳者の中国語の習熟具合」と「翻訳協力者の違い」という2つの背景事情が考えられるとしたが,これら2つの背景事情はいずれも「翻訳年代(翻訳順序)の相違」とも結びつくものである.すなわち,「翻訳者の中国語の習熟具合」は一般的に年月の経過に伴って高まっていくものであるし,「翻訳協力者の違い」についても,年月の経過や翻訳者の移動に伴って協力者の構成が変化することは十分に考えられるものである.具体的にこれら三経典の間にどのような翻訳順序が想定されるかというと,次のような順序が想定できる22.
また,後二者については,第4 節で見たように翻訳上の関係が密接であることや定型的語句の音訳語が共通していることから,翻訳状況が相似していることが予想され,その年代(順序)が非常に近接していた可能性が高い23.
次に,Ⓑ形式上の特徴の相違点についてみていく.
まずは『伅眞』と『阿闍世』に見られる複数の割注について.現在問題にしている三経典は翻訳年代の古さから,いずれも伝承過程において改変された可能性が考えられるものであるが,割注という客観的な証拠が見られることで,『伅眞』と『阿闍世』の二経典については,伝承の過程で第三者による改変が行われた可能性が積極的に認められる.また,相違する訳語の中にも「伝承過程での改変」に起因する可能性が高いものが見られる24.
一方,既に触れた二点の訳語に関する相違点やそれ以外の訳語の相違についても,「伝承過程での改変」が一因である可能性もある.けれども,既に考察してように,「訳語の相違」に関しては,「伝承過程での改変」以外の要因で起こりうるものであることは十分に考えられるので,単に「伝承過程での改変」として片づけるのは適切ではないと思われる.
最後に,冒頭句「聞如是一時」が見られることについては,これには様々な可能性が考えられる.伝承過程で付加されたとも考えられるものであるし,翻訳協力者,特に誦出者が変わったことでも起こりうるものでもある.
以上,三経典の間で見られる訳語や形式上の特徴の相違点に関して,その背景となった翻訳状況や事情について考察してきた.上記を図にまとめると,次の図2のようになる.
図 2 三経典間の相違点とその背景の対応関係
以上で考察したような背景の他にも,文献を取り巻く複雑な事情や状況等が隠されていると考えられ,それらが複合することで,現在見るような三経典間に見られる相違点となるに到ったと考えられる.
以上,『伅眞』の訳語の調査,前稿での『阿闍世』の翻訳上の特徴に関する検討を合わせて,『道行』を交えた三経典の翻訳上の関係,『伅眞』と『阿闍世』の訳者などについて考察してきた.その結果,明らかになったことは,次の4点にまとめられる.
Ⅰ共通する訳語の検討を通して,以下のような,三経典の翻訳上の相対的近接関係が明らかになった.(→ p.30図1参照)
『伅眞』と『阿闍世』は非常に密接な関係にある.
『道行』との翻訳上の関係については,『伅眞』のほうが『阿闍世』よりも近しい関係にある.
Ⅱ『伅眞』の訳者については,『道行』と共通する訳語の総数やその共通する訳語の中に支讖訳固有のものが多く見られることから,同経の訳者は『道行』と同一の訳者(=支讖)もしくは彼に近しい人物あるいはグループである可能性が高い.
Ⅲ『阿闍世』の訳者については前稿では結論を保留していた.けれども,本稿で『伅眞』と極めて近しい翻訳上の関係にあることが確認されたことにより,その翻訳者については,『伅眞』と同じく「支讖もしくは彼に近しい人物あるいはグループ」である可能性が高い.
Ⅳ上記Ⅱ,Ⅲをうけて,三経典の間に見られる相違点の背景としては大きく「翻訳年代(順位)の相違」「後世の改変」という2つが想定される.(→p.37図 2参照)
以上,およそ4点にまとめられる.Ⅰについては,従来,経録の記録からのみでは明らかにされていなかった,支讖訳とされる三経典の翻訳上の近接関係について,訳語レヴェルから明らかにしえた.Ⅳに関しては,提示したもの以外の背景事情が作用した可能性も十分に考えられ,それらの解明には,他の支讖訳とされている経典や古訳経典全般に関する,今後の研究の進展が待たれる.
「支讖訳経とされる経典」とは具体的には以下の通り.
表1 支讖訳経とされる経典
T224 | 『道行般若經』 | T458 | 『文殊師利問菩薩署經』 |
---|---|---|---|
T280 | 『兜沙經』 | T624 | 『伅眞陀羅所問如來三昧經』 |
T313 | 『阿閦佛国經』 | T626 | 『阿闍世王經』 |
T350 | 『遺日摩尼寶經』 | T807 | 『内蔵百寶經』 |
T418 | 『般舟三昧經』 |
前稿では『阿闍世』の翻訳上の特徴を明らかにするために,平川[1989],Zürcher[1992],Harrison[1993]などの諸先行研究によって,以上の9経典を支讖の訳経として扱った.ただし,これらのうち,『阿閦佛国經』は訳語などの観点から支讖を訳者とすることにすでに疑問が呈されている(Harrison[1993]).また,『般舟三昧經』はその一部が支讖訳として認められているけれども,第六品以降の後半部分や偈頌部分は弟子たちの手によるものである可能性が高いことが既に指摘されている(Harrison[1990]).宮崎[2007]参照.
平川[1989]参照.平川氏はこれらの論争を紹介しながら,自身は常磐・林屋両氏の説を支持し,『伅眞』を支讖の訳経として考えておられる.
Zürcher[1992],Harrison[1993]参照.Harrison氏の「条件付き」とは,具体的には,『伅眞』には割注などが見られることから後世に訂正された可能性があることを認めながら,支讖もしくは彼の学派(school)の人々による翻訳である,とすることである.また,Harrison氏は具体的な訳語の調査結果については提示していない.一方,最近年の研究として,Nattier [2006]は,『伅眞』『阿闍世』の2経典を“borderline texts”として分類し,これらの経典は支讖訳とすることに慎重な姿勢を示し,後世に手が加えられたものである可能性を指摘している.
『祐録』での支讖訳経典の提示方法には,他に二つある.一つは訳出年月日を併せて提示するものであり,もう一つは「安公云似支讖出」(T2145 6b26)とあるように,道安による比定に基づいたものである.前者は後者との対比から,何らかの客観的資料に基づいていた可能性が高く,その確度は高いと思われる.前者には『道行』『般舟三昧經』『首楞嚴三昧經』,後者には『阿闍世』『阿閦佛国經』などがある(T2145 6b).
法經撰『衆經目録』の系統を承ける諸経録における該当箇所を列挙しておく.法經撰『衆經目録』(T2146 117a22),彦琮撰『衆經目録』(T2147 156b16-17),静泰撰『衆經目録』(T2148 190a6-7),『大唐内典録』(T2149 223c14, 287b21-22),『古今譯經圖紀』(T2151 348c11)『大周刊定衆經目録』(T2153 394a16-19).
また上記以外の諸経録で『伅眞』が言及されている箇所も次に列挙しておく.『歴代三寶紀』(T2034 52c20-21),『續大唐内典録』(T2150 347a5-6)『開元釋教録』(T2154 478c12-13, 592a19-20, 704a18-19).
前稿においては『阿闍世』に対して同様の方法を適用した.
『伅眞』の「阿惟致」(T624 351a24)という用例は,異読から「阿惟越致」とすべきであろう.
大正蔵では『伅眞』の用例(T624 352c26)は「洹河邊沙」としているが,異読より「恒邊沙」とすべきであろう.
詳しくは宮崎[2007]の脚注24を参照のこと.
「惟逮」は『道行』以外には『放光般若經』(T221)や『光讃般若經』(T222)などの『道行』の影響が考えられる般若経系のもので多数確認される以外には,嚴佛調訳『菩薩内習六波羅蜜經』(T778)や求那跋摩訳『菩薩内戒經』(T1487)などで数例確認されるのみである.
「共通する訳語が見られる術語の数」と「共通する訳語の総数」とを分けて提示したのは,前者では「調査した術語の数」という明確な分母があって,「割合」の提示が可能であるから.表にもそれを反映する形を取った.後者の絶対的な数字のみからでは,割合の提示が困難である.
これらの訳語が見られる他の経典については既に前稿でも触れたが,煩を厭わず再掲する.「無所從生法樂」は支讖訳経典では『般舟』(T418)『内蔵百寶經』(T807) でも確認されるが,その他の経典では『大明度經』(支謙訳・T225)で複数確認される他は,その他二経典に一箇所ずつ見られるのみで,用例は非常に限定的である.「檀・尸・羼提・(惟逮/精進)・禪・般若」は六波羅蜜の項目を音訳したもので,用例は多いものの,音訳語を好む支讖の傾向と一致するものである.「持佛威神」「十方天下人」はNattier [2006]で指摘されているように,その原語の用例は非常に多いであろうに,上記の訳語の用例は他の訳経では非常に限定的である.反面,支讖訳では前者は『兜沙經』『般舟』でも確認でき,後者は『遺日摩尼寶經』(T350)でも確認できる.
図1では各経典の翻訳上の近接関係を,各経典を結ぶ直線の長さと太さで表現した.すなわち,直線が短く太いほど近しい関係にあり,長く細いほど遠い関係にあることを意味する.
その他,三経典間で共通する,支讖訳に特有と考えられる訳語としては「阿耨多羅三耶三菩」(第3節・1)「漚惒(和)拘舍羅」(同・5)「遮迦越羅」(同・11)「摩訶衍」(同・26)「僧那僧涅」(同・33)「薩芸若」(同・34)がある.
前稿での『道行』との直接比較のみでは判断が非常に困難であり,『阿闍世』の訳者については結論を保留せざるを得なかったが,この場合の「保留」というのは「支讖による翻訳であるとも考えられるし,そうでもないと考えられる」という意味であることを断っておく.よって,本稿において得られた結論は,新たに『伅眞』の訳語について詳細に検討し,さらに三経典の翻訳上の関係を詳細に検討するという手続きを経て得られた結果であり,前稿の検討と矛盾するものではない.
言うまでもなく,前節で提示したもの以外の可能性—具体的には,両経典が支讖以外の翻訳者によって翻訳された可能性など—が認められる場合には,三経典の間に見られる差異に関しては「翻訳者の違い」によって起こったものであると考えられる.けれども,前節までの検討をもとに「両経典が支讖もしくは彼に近しい人物あるいはグループによる翻訳の可能性が高い」と提示した以上,それに付随する問題についての考察が必要となる.
「阿耨多羅三耶三菩阿惟三佛」は,支讖訳では他には『般舟』のみで見られ,その他では般若経系の経典,安法欽訳『道神足無極變化經』(T816)などで見られる稀な音訳語である.また「阿惟三佛」は,同じく支讖訳経では『般舟』でのみ用例が確認され,その他では般若経系の経典,『興起行經』(T197)や『道神足無極變化經』(T816)などで複数確認される.頻出する術語としては,用例はかなり限定的である.「怛薩阿竭阿羅呵三耶三佛」は『道行』以外の支讖訳経では『般舟』(T418)『問署經』(T458)のみ確認できる.般若経系の経典の他には,『阿闍貰王女阿術達菩薩經』(T337)や『増壹阿含經』(T125)などで複数確認されるが,上記と同様,頻出する術語に対する訳語の用例としてはかなり限定的である.「薩和薩」は支讖訳では『道行』のみで確認され,「薩和(惒)薩」は『道神足無極變化經』に3例確認される他は『光讃經』(T222)『薩曇分陀利經』(T265)『修行本起經』(T184)に一例ずつ確認されるのみである.
『伅眞』と『阿闍世』でのみ確認される音訳語「迦羅蜜」(*kalyāṇa-mitra)や,『道行』と『阿闍世』でのみ確認される音訳語「薜茘」(*preta)など,この傾向に反する用例も若干確認される.ただし,前者については漢訳経典全体でも極めて用例が限定される訳語であり,後者も『伅眞』では原語そのものの用例が少ないことを考慮する必要がある.
括弧内には『道行』で見られる音訳語と対応する原語を表記した.
同様の現象が竺法護の訳経でも確認される.彼の初期の訳経には,支讖の影響からか音訳語が多用されることが確認される.河野[2006]参照.
『道行』や『般舟』については,支讖とともに訳経に携わった具体的な人物の名が経録などに記載されているが,経録等に記されたようにこの二経典はほぼ同じ翻訳者グループによって訳されたようである.『祐録』中の「道行經後記」(T2145 47c5-8)および「般舟三昧經記」(T2145 48c10-13)参照.また,訳語については,先に列挙したような「阿耨多羅三耶三菩阿惟三佛」「怛薩阿竭阿羅呵三耶三佛」「阿惟三佛」などの,長大で用例が限定される音訳語が,『道行』と『般舟』の間で共通している.
矢印の長さは「時の長さ」を表した.あくまで相対的なもので,具体的な年月は不明である.
ただし,第2節で触れたように,一部の経録に記された『伅眞』の訳年とされる建寧年間(168年—172年)は,『道行』の訳年とされる光和二年(179年)に先立つものであり,上記の想定とは相反する.けれども,経録での訳年に関する記述は根拠が不明であり,それらの記述の信頼性には疑問が残る.
特に,『阿闍世』には,支讖訳とされる経典のうち,それのみに見られる意訳語がいくつか見られる.具体的には次の通り.
無上平等道意(anuttarā samyaksambodhi, T626 391b26)
金輪王(cakravarti-rāja , T626 390b23)
一切智(sarvajña , T626 389b5, 391b6ff)
これらの意訳語は,翻訳年代(順序)の相違に起因するとも考えられるが,他の支讖訳では確認されず,後世の漢訳経典に比較的頻繁に確認できるものであることから,「伝承過程での改変」によるものである可能性が高いと考えられる.(詳細については,宮崎[2007]の第5節(1) (11) (35) および表1を参照のこと).