仏教文化研究論集
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論文
伝守覚法親王著『右記』の写本について
前川 健一佐藤 もな今川 佳世子豊嶋 悠吾(『右記』研究会)
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2011 年 13.14 巻 p. 35-69

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1.はじめに

仁和寺六世・守覚法親王(1150‐1202)は,後白河法皇の第二皇子であり,小野・広沢両流の事相を集大成するとともに,歌人としても活躍し,鎌倉初期の文化を代表した存在として大きな注目を集めている1

彼に帰せられている作品の中に,『真俗交談記』『御記』2『左記』『右記』『追記』という一連の随筆的作品がある3.しかし,これらの作品に登場する人物には,官職や生存期間との関係から不審を与えるものが多く,五味文彦氏は守覚に仮託された作品としている4

五味氏は,これらの著作の中で,俗人では日野資実が高く評価され,僧侶としては覚成および彼に連なる保寿院流が特筆されていることから,資実の猶子で,覚成の孫弟子である光遍が実際の作者であり,保寿院流の道深法親王が建長元年(1249)に亡くなり,他流の性助が御室を継承したことを契機にして作成されたのではないか,と推測している5.もっとも,諸写本の奥書によればこれらの著作は文永二年(1265)に仁和寺理智院の隆澄(1181‐1266)によって書写されたと思われるため6,五味説に従うと,制作年代と筆写年代とが接近しすぎるように思われる.『真俗交談記』などは,短い章段を連ねたもので,現在の形態そのものは守覚の手になるものではないにせよ,個々の記事そのものは守覚時代の伝承を伝えている可能性はある.特に『右記』に関しては,僧侶の作法などの故実が中心を占めており,あえて偽作する必然性は乏しいようにも思われる.

こうした一連の仮託文献について,五味説は法流上での正統性の主張を重視しているが,『右記』に関しては,当時の仁和寺内の規律の弛緩に対する危機感という要因も指摘できるように思う.守覚の真作ではないにせよ,本書は鎌倉期の僧侶生活の一面を伝えるものであり,その意義は大きいといえよう.

『右記』の活字化されたテキストとしては『群書類従』24輯(釈家部20,巻444.以下,群書類従と略記する.底本不明)と『大正新脩大蔵経』78巻所収のもの(以下,大正蔵と略記する.底本は広隆寺所蔵本)があるが,周知の通り,両者は構成に相違がある.また現存する『右記』諸写本には大正蔵所収本とも群書類従所収本とも異なる構成を持つものが存在し,各写本の奥書には本書の伝承を検討する上で参考にすべき情報も含まれている.そこで本研究会では現存する『右記』の写本を収集し,構成や奥書の比較・検討を行った.本稿では現時点で判明した範囲で諸写本に関する情報を提示し,考察を試みたい.

2.『右記』の諸テキストについて

現在,後述する目録・電子データベース等に記載のある『右記』の写本は,以下の39本である.便宜上,所蔵機関に括弧付き番号を付して列挙する.(順不同.同一機関で複数所蔵している場合は丸数字を付した.)

(1)京都大学(2)筑波大学(3)成田山図書館(4)塩竃神社(5)高野山大学(持明院寄託)(6)多和文庫(7)東北大学(狩野文庫)①(8)東北大学(狩野文庫)②(9)内閣文庫①(10)内閣文庫②(11)内閣文庫③(12)宮内庁書陵部①(13)宮内庁書陵部②(14)宮内庁書陵部③(15)善通寺(16)大谷大学(17)彦根城博物館(琴堂文庫)(18)京都大学(勧修寺家旧蔵)(19)叡山文庫(毘沙門堂旧蔵)(20)妙法院門跡 (21)高野山大学(金剛三昧院寄託)①(22)高野山大学(金剛三昧院寄託)②(23)岡山大学(池田家文庫)(24)島原公民館(松平文庫)(25)大阪府立図書館① (26)大阪府立図書館②(27)高野山真別処(28)高野山円通寺(29)陽明文庫(30)無窮会神習文庫(31)旧彰考館文庫(32)尊経閣文庫(33)日本大学(34)東京国立博物館(35)徳大寺家(36)石山寺①(37)石山寺②(38)石山寺③(39)広隆寺

このうち,『国書総目録』補訂版および補遺,もしくは国文学研究資料館の日本古典籍総合目録電子データベースで確認できるものは (1)~(17),(23)~(34)であり7,東京大学史料編纂所の電子データベースで書名を確認できるものが(18),(19),(20),(35)である.また,高野山大学図書館Webサイト内の蔵書検索により確認できるものが(5),(21),(22)であり8,(36)~(38)は『石山寺の研究』所収の目録にみられる9.(39)は大正蔵所収『右記』の底本とされている写本である.

これらの写本のうち,当研究会が現時点で全体を確認した写本は(1)~(23)の計23本であり,奥書情報のみを参照したものは(24),(36)~(38)の計4本である10

3.奥書について

前節で述べた計27本分の奥書を検討した結果,確認できた『右記』の奥書は18種類である.ひとまず本節では『右記』にみられる奥書のうち,より古く,記載の多いものとして便宜上4種類の系統を抽出し,仮にA~Dとして以下に紹介する.その他の奥書は,次節以降に示す.なお奥書本文の表記は,以後奥書Cまで(1)京都大学のものに従う.可能な限り原文の表記に従ったが,異体字等は適宜通行の字体に改め,異本注記は特に示していない.

A:文永二年(1265)奥書

現存写本の奥書中で最古のものであり,27本中23の写本に存在する.

(本文) 文永二年七月二日於鳴瀧御所書写之同三日校合畢

         隆證

末尾に記載された奥書の筆者名が「隆證」となっているものと,「隆澄」となっているものに大別できるが11,この時代,東寺長者となり仁和寺理智院に住した僧侶に隆澄(1181‐1266)という人物がいることから,「隆證」は「隆澄」の誤写と思われる.隆澄は『明恵上人行状(漢文行状)』の作者であり,醍醐寺本『性霊集』が隆澄手沢本の転写本であるなど,中世における書物の伝承上,極めて重要な人物である12

「鳴瀧御所」について,鳴瀧という地名は,現在も仁和寺の西に残っている.『仁和寺諸院家記』によれば,鳴瀧にはかつて仁和寺の院家が複数存在していたが13,奥書の「鳴瀧御所」が具体的にどの院家を指しているかは定かでない.隆澄が『右記』を書写した文永二年(1265)頃に「鳴瀧」と関連する人物としては,大納言藤原隆衡の子で仁和寺八世道助法親王の資であり,大教院や相応院に住した隆助(1213‐1278)が鳴瀧僧正と号されている14.相応院は鳴瀧の地にあったとされるが,「御所」と呼ばれていた可能性は低いようである15.また永仁年間(1293‐1298)に作られた指図「紫金台寺領内北崎指図」の寛永13年(1636)の修理裏書には,仁和寺五世覚性法親王(1129‐1169)の住房であった紫金台寺の脇に別筆で「鳴瀧御所也」と注があるが16,仁治3年(1242)成立と考えられる『仁和寺諸堂記』によれば,紫金台寺はこのころ既に焼失しており17,『右記』書写時の文永年間までに再建されていたかどうかは不明である.

B:建武四年(1337)奥書

12本の写本に存在する18.このうち,書写者名のある写本は5本存在する.(1)京都大学,(2)筑波大学,(3)成田山図書館,(9)内閣文庫①,(22)高野山大学(金剛三昧院寄託)②である.いずれも梵字(悉曇)で記されている.(1)京都大学の人名は判読困難であるが,他の4本は「左秋(yasai)」と読める19.書写地は「鎌倉雪下新宮」とあり,鶴岡八幡宮の若宮と思われる.

(本文) 建武第四天●(拔+溲+壬)●(拔+冀)中旬候於相州鎌

倉雪下新宮

           ●●(梵字)

C:応永十六年(1409)奥書

21本の写本に存在する20.まず本文を挙げる.

(本文)

應永十六暦林鐘中旬候於雪下禅坊令書写

之海賢私云彼隆證者理智院大僧正一長法

流者忍辱山新快之始御師範也

右御記右記左記者北院御室守覚法親王御

筆跡也輒不可及外見能々擇人見機可傳写

者欤

高野山無量壽院長―當山廃絶彼三巻求請

御志在之云々

于時武州石川宝生寺住侶両輩為求法登山

之間承貴命自彼寺進草本彼御書写之後草

本返賜畢然或人住山之時感得云々

内容から応永十六年の海賢奥書と,「私云~御師範也」,「右御記右記左記者~見機可傳写者欤」21,「高野山無量寿院長―~草本返賜畢」の3つの部分に分けられる.写本によってはこの奥書の一部分しか有さないものもある22

また,奥書Cを有する写本のうち,(4)塩竃神社,(7)東北大学(狩野文庫)①,(8)東北大学(狩野文庫)②,(10)内閣文庫②,(12)宮内庁書陵部①,(23)岡山大学(池田家文庫)の6本には,奥書Cに続いて,「然或人住山之時感得云々/快楽不退庵照円」とある.写本によって行取りが異なるため,奥書が本来どのように分かれていたのかは定かでない.

「雪下禅坊」は鶴岡八幡宮寺の僧房のいずれかと思われることから,筆写者は鎌倉鶴岡の宝蔵坊(海光院)23に住した海賢(1378‐1447‐?)の可能性があろう.『鶴岡八幡宮寺供僧次第』『鶴岡八幡宮寺諸職次第』によれば,鶴岡の海賢の活動は応永七年(1400)~応永二十三年(1416),永享九年(1437)~文安四年(1447)まで確認できる24

「私云~御師範也」と「右御記右記左記者~見機可傳写者欤」の部分は,最初の書写者である隆澄についての注記と,『御記』『右記』『左記』を守覚法親王の作として,たやすく人に見せたり書写することを戒めている.

「新快」は,小野流の系統にある地蔵院流親快方の祖,親快(1215‐1276)のことと思われる25.隆澄と親快の関係については,醍醐寺文書「本朝伝法灌頂師資相承血脈」の道深の項に,道深付法弟子の中に隆澄がおり,隆澄の弟子に親快の名がある26.また,「東寺真言宗血脈」の「三宝院相承次第」に,親快が隆澄から受法した経緯がみえる27

「長―」については,照円奥書の次に文明十六年(1484)の範済の書写があることから,下限を文明十六年とすると,高野山無量寿院に住し高野山教学の寿門派の祖である長覚(1340‐1416),あるいはその門弟の長誉(? ‐1423)・長任(1391‐1483)が考えられるが,周辺事情からすると長任であろうか.詳しくは第5節で検討したい.

「武州石川宝生寺」は,現在の横浜市南区にある寺院で,鎌倉幕府御家人である平子氏の庶流である石川氏の菩提寺と考えられている寺である.覚尊(? ‐1417)を開山とし,15世紀中頃から16世紀初頭にかけては学僧印融(1435‐1519)が活躍した.開山の覚尊は,応永十年(1403)鎌倉雪下相承院で俊誉から西院流の伝法灌頂を受け28,同十六年(1409)には仁和寺の闕坊であった「宝金剛院」の名を院号とすることを許されている29.また,先に述べた長覚も,俊誉から西院流元瑜方を受法している30

D:正徳元年(1711)奥書

「重忍」なる人物によるもので『右記』『左記』にみられ,6本の写本に存在する31.両者の文章が大きく異なるため,『右記』にある奥書をD①,『左記』にある奥書をD②とする.

これらの奥書は(1)京都大学に存在しないため,D①,D②ともに(4)東北大学(狩野文庫)①の奥書本文を挙げる.

D①:(本文)写本魯魚之差多往々脱字不少転写之因改之且疑者傍写之得善本欲校合而已正徳元九月廿九日

鳩嶺南渓頭陀重忍

D②:(本文)正徳元辛卯季秋廿六嶷書冩畢 写本烏焉之誤

脱落之字多少往々改之且疑者傍書矣

  鳩嶺南渓寳光草庵染禿毫了

    小野末資 重忍六十一歳

「鳩嶺南渓寳光草庵」「重忍」について,『覚禅抄』巻六の奥書に,「於写本者鴿嶺松本坊阿闍梨重忍秘本也/晋享保第九甲辰南呂晦終写功/権大僧都空元五十歳」とある32.「松本坊」は石清水八幡宮本堂南にあった五智輪院(堂)を指すと思われる.この『覚禅抄』奥書の「重忍」と『右記』奥書の「重忍」が同一人物かどうかについては精査が必要だが,周知の通り石清水八幡宮は鳩が峰(男山)山頂付近に位置しており,また『覚禅抄』奥書では松本坊に「鴿嶺」を付していることから,『右記』奥書の「鳩嶺南渓寳光草庵」も石清水八幡宮内の場所を指している可能性は考えられよう.なお「重忍」の名は(7)多和文庫所蔵『左記』の享保元年(1715)奥書にもみえる33

4.書誌について

次に,第2節で示した(1)~(23)の各写本の書誌を以下に記す.

数量は分冊となっている場合,『右記』のみの数量を記した.また,所蔵機関の回答を得た(1),(5),(7) と,実測した(3),(9)~(11),(13),(14)については,法量(縦cm×横cm)を記載した.

奥書について,前節で挙げた4種類については記号で示した.更にA~Cについては(1)京都大学と比較し,Dについては(4)東北大学(狩野文庫)①と比較して,文字の異同がある場合は括弧内に示した.ただし略字・異体字などの相違については示していない.その他の奥書については,年代と書写者のみを記載した.

また,『右記』と同時に書写されたと思われる『左記』や『御記』の写本に,『右記』より時代の下る奥書があるものもあった.その場合,『左記』と『御記』の奥書については,年次が最も新しい奥書のみを記載した.なお『右記』の写本が『左記』や『御記』と合冊になっているものは備考にその旨を記載し,丁数は『右記』部分のみの丁数を記した.

(1)京都大学本

【所蔵番号】菊||サ||7【数量】1冊【外題】左記右記【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面8行【丁数】右記部分33丁(墨付32丁)【法量】27.4×20.0【奥書】ABC,『左記』文明十八年法印範済【備考】異本注記あり,左記右記合冊

(2)筑波大学本

【所蔵番号】ヨ216-91【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面8行【丁数】全34丁(墨付32丁)【奥書】AB(●(拔+溲+壬)→茖)C(北院→此院,住侶→住呂),『左記』文明十八年法印範済【備考】(1)と行取り等が酷似するが異本注記なし,送りガナ・返点を有す

(3)成田山図書館本

【所蔵番号】043-0004【数量】1冊【外題】左記/右記/合本【装丁】袋綴装【行格】1行約21字,1面9行【丁数】右記部分26丁(墨付25丁)【法量】27.7×19.2【奥書】AB(●(拔+溲+壬)→茖)C(住侶→住呂),年代不明快鏡,『左記』文明十八年法印範済【備考】左記右記合冊

(4)塩竃神社本

【所蔵番号】40【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約21字,1面10行【丁数】全23丁(墨付22丁)【奥書】A(「證」の右に澄と訂正あり)B(●(拔+溲+壬)→茴,ナシ→別當坊馳筆了,人名ナシ)C(隆證→隆澄,長法流→長者法流,院長→院,草本彼→草本,快楽不退庵照円)D①(往→徃,傍写→傍書)【備考】(7),(12)と奥書の行取り・字体等が酷似

(5)高野山持明院本

【所蔵番号】489-2/ウ特/1【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約17字,1面9行【丁数】全30丁(墨付30丁)【法量】23.6×17.6【奥書】AB(●(拔+溲+壬)→茴,人名ナシ)C(北院→此院(北院と訂正),院長→院,草本彼→草本),享保十年久保金吾茂照

(6)多和文庫本

【所蔵番号】23-11【数量】1冊【外題】右記守覚親王御製【装丁】袋綴装【行格】1行約20字,1面10行【丁数】右記部分23丁(墨付23丁)【奥書】A(畢→了,隆證→隆澄)C(私云~御師範也,新快→親快)『左記』文政三年金剛子重伝【備考】左記右記合冊

(7)東北大学(狩野文庫)本①

【所蔵番号】狩2-3222-2【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約21字,1面10行【丁数】右記部分23丁(墨付22丁)【法量】29.4×20.4【奥書】A(瀧→滝,隆證→隆澄 *冒頭に「亀山」と墨書あり)B(●(拔+溲+壬)→茴,ナシ→別當坊馳筆了,人名ナシ)C(證→澄,長法流→長者法流,院長→院,命→令,草本彼→草本,快楽不退庵照円)D①【備考】表紙右下に「速水家茂」と墨書あり,左記右記合冊

(8)東北大学(狩野文庫)本②

【所蔵番号】狩2-25751-1【数量】1冊【外題】左記・右記【装丁】袋綴装【行格】1行約21字,1面10行【丁数】右記部分24丁(墨付23丁)【奥書】AB(天→暦,●(拔+溲+壬)→效,ナシ→別當坊馳筆了,人名ナシ)C(長法流→長者法流,院長→院,宝生寺→室生寺,或人→或又,快楽不退庵照円)D①,文化九年光棣【備考】巻末に「廣橋家本書写了/文化九年季秋」と墨書あり,奥書の「光棣」は(1745‐1823)の実子で,竹屋家へ養子に入った竹屋光棣か.異本注記あり,左記右記合冊

(9)内閣文庫本①

【所蔵番号】特21-4 *ラベルに「和32027」【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面8行【丁数】全34丁(墨付32丁)【法量】27.5×19.6【奥書】AB(●(拔+溲+壬)→茖)C(北院→此院,住侶→住呂)『左記』文明十八年法印範済

(10)内閣文庫本②

【所蔵番号】193-554 *ラベルに「和50799」【数量】1冊【外題】左記 完/右記 完【装丁】袋綴装【行格】1行約21字,1面10行【丁数】右記部分22丁(墨付22丁)【法量】27.0×19.7【奥書】AB(●(拔+溲+壬)→茴,●(拔+冀)→薲,ナシ→別當坊馳筆了,人名ナシ)C(隆證→隆澄,長法流→長者法流,院長→院,草本彼→草本,快楽不退庵照円),D①(魯→曽,往→徃,傍写→傍書),年号不明加賀守清茂【備考】朱注あり,左記右記合冊

(11)内閣文庫本③

【所蔵番号】193-644 *ラベルに「和27564」【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約17字,1面10行【丁数】全32丁(墨付28丁)【法量】29.7×20.4【奥書】A(書→●(尺+因),隆證→隆澄),年号不明花押 

(12)宮内庁書陵部本①

【所蔵番号】柳-472【数量】1冊【外題】右記 完【装丁】袋綴装【行格】1行約21字,1面10行【丁数】全22丁(墨付22丁)【奥書】A(隆證→隆澄 *冒頭に「亀山」と墨書あり)B(ナシ→別當坊馳筆了,人名ナシ)C(隆證→隆澄,長法流→長者法流,院長→院,草本彼→草本,快楽不退庵照円)D①

(13)宮内庁書陵部本②

【所蔵番号】260-31【数量】1冊【外題】左右御記拾要 合冊【装丁】袋綴装【行格】1行約20字,1面12行【丁数】右記部分20丁(墨付20丁)【法量】27.7×20.2【奥書】文明十六年範済,享保二十一年寂厳【備考】送りガナなし・返点あり,左記右記御記合冊

(14)宮内庁書陵部本③

【所蔵番号】F9-194【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面11行【丁数】全25丁(墨付23丁)【法量】26.1×18.7【奥書】A(ナシ→本云,隆證→隆澄)C(私云~御師範也,新快→親快)

(15)善通寺本

【所蔵番号】1-42【数量】1冊【外題】拾要集/守覚法親王御記/左右御記/合冊全【装丁】不明【行格】1行約18字,1面11行【丁数】右記部分24丁(墨付24丁)【奥書】A(ナシ→本云,隆證→隆澄)C(私云~御師範也,新快→親快),延宝六年増栄,『左記』寛政五年増識【備考】異本注記あり,左記右記合冊,(20)と行取り・注記など酷似

(16)大谷大学本

【所蔵番号】外大/1141/1【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約20字,1面10行【丁数】全21丁(墨付21丁)【奥書】A(ナシ→本云,隆證→隆澄)C(私云~御師範也,新快→親快),宝暦六年南林興子

(17)彦根城博物館(琴堂文庫)本

【所蔵番号】12.6/767/琴【数量】1冊【外題】左記【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面10行【丁数】右記部分25丁(墨付25丁)【奥書】A(書写→昼写,隆證→隆澄)C(私云~御師範也,新快→親快,「良雄」の人名あり),『御記』文化二年(書写者名なし)【備考】異本注記あり,左記右記合冊

(18)京都大学(勧修寺家旧蔵)本

【所蔵番号】521/528/430【数量】1冊【外題】拾要記(右記/左記)【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面11行【丁数】右記部分23丁(墨付23丁)【奥書】A(ナシ→本云)C(私云~御師範始附法也,新快→親快),『左記』安永五年右大弁【備考】左記右記合冊

(19)叡山文庫(毘沙門堂旧蔵)本

【所蔵番号】6170, 61-5-38【数量】1冊【外題】右記左記御記 全【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面11行【丁数】右記部分22丁(墨付22丁)【奥書】文明十六年公済,貞享三年賢継,『御記』正徳四年賢晃【備考】左記右記御記合冊

(20)妙法院門跡本

【所蔵番号】6170, 62-3-86【数量】1冊【外題】拾要記/右記【装丁】袋綴装【行格】1行約18字,1面11行【丁数】右記部分15丁(墨付15丁)【奥書】A(ナシ→本云,隆證→隆澄)C(私云~御師範也,新快→親快)【備考】左記右記御記合冊,錯簡あり,外題は包紙に記載されたもの

(21)高野山図書館(金剛三昧院寄託)本①

【所蔵番号】普72/金/36【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約16字,1面7行【丁数】全40丁(墨付40丁)【奥書】A(ナシ→本云,隆證→隆澄 *冒頭に「亀山」と墨書あり)C(私云~御師範也,新快→親快),明暦元年静守,享保九年亮快

(22)高野山図書館(金剛三昧院寄託)本②

【所蔵番号】普72/金/36【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約18~21字,1面8行【丁数】全29丁(墨付29丁)【奥書】A(文永二年→文永二,隆證→隆澄)B(天→歴,●(拔+溲+壬)→茖,ナシ→別當坊書写之畢)C34【備考】墨書にて書入あり

(23)岡山大学(池田家文庫)本

【所蔵番号】180/4-1【数量】1冊【外題】右記【装丁】袋綴装【行格】1行約21字,1面10行【丁数】右記部分22丁(墨付22丁)【奥書】A(*冒頭に「亀山」と墨書あり)B(●(拔+溲+壬)→茴,ナシ→別當坊馳筆了,人名ナシ)C(長法流→長者法流,院長→院,室生寺→宝生寺,草本彼→草本,快楽不退庵照円)D①,正徳二年大江散人景教【備考】注記あり,左記右記合冊

5.系統について

本稿第1節「はじめに」で述べたように,守覚の著作とされる『右記』を活字化したものは,大正蔵(底本は(39)広隆寺)と,群書類従(底本不明)に収録されている.構成はいずれも,序文に続いて「童形等所作事」と「老若甲乙消息事」という2つの事書の中に一つ書きを並べて内容を記し,末尾に六角中納言来談時の条文が加わる形になっている.序文と,49ある一つ書きと,最後の条文を合わせれば51項目になる.

大正蔵と群書類従では項目の数は同じであるが,配列の順序が大きく異なっている.群書類従の底本は不明であるが,おそらく両者の違いは,底本となった写本の違いによるものと思われる.今回確認した23本の写本では,項目の順序によって,3系統に分けることができた.この3つの系統を,本稿では仮に「大正蔵系」,「群書系」,「内閣文庫系」と呼ぶことにする.各系統の構成を図に表すと,次頁のようになる.

【図1・項目の配列】35

大正蔵系 群書系 内閣系
0序文(夫有記紳之) 0 0
童形等消息事 童形~ 童形~
1毎朝の所作(或聴鶏人之) 1 1
2友を選ぶべきこと(常馴昵有序) 2 2
3内外の勉学に励むべきこと(落飾之事) 3 3
4『教童指帰抄』からの教戒(教童指帰抄云) 4 4
5囲碁・双六などのこと(圍碁双六等) 5 5
6管弦音曲などのこと(管弦音曲等) 6 6
7酒肉五辛のこと(兒童食魚鳥) 7 7
8楊枝のこと(童子等朝食) 8 8
9出行の礼のこと(不伴扶誘之僧) 9 9
10女性の往来のこと(於浄行侶栖) 10 10
11小児の里居のこと(常好里居事) 11 11
12所作は朝になすべきこと(童體朝必有所作) 12 12
13歩き方の注意(堂上堂下往来) 21 21
14暗所に入る時の教戒(持燭入人室) 36 23
15暗夜では灯を持つべきこと(黒夜面道) 37 老若~
16高声・唾棄などの振舞の教戒(高聲吐口唾) 13 24
17剣を持つべきでないこと(持雄剣於) 14 26
18扇のこと(冬持扇事) 15 27
19酒宴などの会合の出席について(酒宴席并) 16 28

扇の挿し方について36(童参御爵之時)

20盃礼のこと(盃禮事)

17 29
18 30
21懐紙のこと(詩歌會之時) 19 31
22禽獣飼育のこと(禽獣類飼之事) 扇の~ 32
23児童の役事について(兒童定随寺院) 20 34
老若甲乙消息事 22 36
24当寺奉行の規式(當所佛寺奉行人) 23 37
25舎利会の所役のこと(舎利會所役) 老若~ 13
26宇多天皇以来の法服着用のこと(自寛平聖主) 24 14
27遠所の住侶の宿泊・食事について(此御所朝夕) 26 15
28御前毎夜の番は三十歳以下に限ること(御前毎夜) 27 16
29自ら番を務め御口授を受けた思い出(御時所御共) 28 17
30毎日の酒肴のこと(毎日酒著事) 29 18
31当寺の前の乞食は許すべきこと(當寺院門前) 30 19
32寺中を掃除すべきこと(此御所廊内) 31 扇の~
33枕の位置について(古典三水) 32 20
34部屋の明かりについて(毎夜隔屋町) 34 22
35学問をする者には紙筆を給すべきこと(不便修學) 25 25
36接客のこと(接入参客事) 33 33
37主賓対面の礼のこと(主賓對面禮事) 35 35
38人の使者と対面する時の礼について(與人使者) 38 38
39衆会の時の作法(衆會之時) 39 39
40草鞋の脱ぎ方(著座脱草鞋事) 40 40
41数珠の持ち方(貴人御前) 41 41
42言葉遣いについて(著會人通語) 42 42
43年中行事について(公家年中行事) 43 43
44密宗の者が顕の供養をすべきでないこと(自元於) 44 44
45修正の御行事のこと(正月修正) 45 45
46潅仏会・仏名会の導師のこと(公庭年中行事) 46 46
47十弟子役のこと(近年痛十弟子) 47 47
48僧俗の席次について(房官與修學者) 48 48
49小便の筒のこと(雖為眼近) 49 49
50六角中納言来談時の条々(今日六角中納言) 50 50

 各系統の項目配列順の異同をみると,前半の0~12と,後半の38~50が動いていないことについては3つの系統に共通するが,中間部の13~37の順序がそれぞれの系統で異なっている.項目の移動は,13~20のようにまとまって動く場合もあれば,21・22のように単独で動く場合もある.また,「童形等消息事」と「老若甲乙消息事」の2つの事書に属する項目の数をみると,「童形~」は大正蔵系で23項,群書系で25項,内閣文庫系で14項になり,「老若~」は大正蔵系で27項,群書系で25項,内閣文庫系では36項ある.このことから,内閣文庫系は他の2系統に比べて「老若~」の項目が多くなっていることがわかる.

系統の個々の配列順について比較をしてみると,大正蔵系と他の2系統との配列の違いが大きく,群書系と内閣文庫系の配列の違いは小さい.具体的には,大正蔵系と群書系では配列の違いは9箇所あり,そのうち「童形等消息事」と「老若甲乙消息事」の2つの事書をこえて動くものは1箇所のみで,それ以外は事書の中での移動である.一方で配列順が変わらない箇所は3箇所ある.同様に群書系と内閣文庫系を比べると,配列の違いは6箇所,うち事書をこえて動く箇所は3箇所あり,同じ箇所は6箇所となっている.大正蔵系と内閣文庫系を比較すると,配列の違いは10箇所あり,うち事書をこえて動くものは9箇所である.配列順が変わらない箇所は,大正蔵系・群書系・内閣文庫系に共通して冒頭(0~12)と末尾の部分(38~50)のみである.

 次に,内容に照らして項目の異同を考えてみる.『右記』には,「童形等消息事」と「老若甲乙消息事」の2つの事書があるように,童形を対象にした内容と,童形に限らない内容がある.どの系統でも動かない冒頭の0~12については,特に3・4・6~12は童形を対象にしたことが明確であり,前半は概ね童形を対象にした内容の項目群といえる.その後に続く項目を各系統毎にみてみると,次のようになる.

大正蔵系の場合,13「歩き方の注意」には「但是不可限童形」とあるが,14・15・18は童形について触れない項目である.大正蔵系の13~20は童形だけでなく対象を広げた項目や,必ずしも童形に向けた内容とは明確に判断できない項目群になっている.その次の21「懐紙のこと」は,再び明確に童形を対象とした内容になっている.

 一方,群書系では,前半の12項と,13~20までの間に,明確に童形を対象とした内容の21「懐紙のこと」を入れ,続く項目には36「接客のこと」を配している.「接客のこと」には,「若出世当番衆・若童形房官等所役也」とあり,童形を対象にした内容とも,童形を含め対象を広げた内容ともとれるが,ここでは童形を対象にした内容と判断されたのか,群書系は,大正蔵系に比べて童形を主な対象にした項目が連続するような配列になっている37

 内閣文庫系では,群書系と共通する配列もみられるが,大幅に「童形等消息事」の項目が少なくなっている.前半の12項と,21「懐紙のこと」・23「児童の役事について」の14項目だけである.これは,明確に童形を対象とした項目だけに絞り,対象が曖昧な内容の項目は全て「老若甲乙消息事」に配されているものと思われる.

 事書をこえて移動した項目を,各事書の中でどのような判断で配列したか,その基準については定かではないが,童形を対象にした項目とそうでないものの配置を明確に分けるかどうかが配列の違いをもたらしたのではないだろうか.この点からみれば,大正蔵系は童形向けの項目とその他の項目との区別が曖昧であり,群書系は明確に童形に向けた項目を連続させ,内閣文庫系は更に厳密に童形とそれ以外の対象を区別するよう再配列を施したものといえる.

次に,各系統に属する写本の一覧に奥書情報を含めたものが表1~3である38

【表1・大正蔵系写本一覧】

年代 書写者 大正蔵系               
大正蔵 11内閣文庫③ 19叡山文庫 13書陵部② 16大谷大 14書陵部③ 18勧修寺家旧蔵 15善通寺 17琴堂文庫 21金剛三昧院① 20妙法院
A文永2(1265) 隆澄 ○左御 ○左 ○左御*1 ○*1
「御手替之忠賞」のくだり ○御   ○御 ○御   ○御 ○御 ○御 ○御
B建武4(1337) (梵字)       ○左            
応永16(1409) 海賢 ○左*2
C応永16(1409) 海賢                  
「私云~御師範也」のくだり
「御記右記左記は守覚法親王御筆跡也」のくだり                  
「高野山無量寿院長―」のくだり                  
不明 快楽不退庵照円                    
不明 快鏡                    
文安2(1445) 長恵       ○左            
文明16(1484) 公済     ○左御            
文明18(1486) 範済                    
天文19(1550) 快堅
慶長12(1607) 恭畏                  
寛永6(1629) 尭辰                    
寛永15(1638) 醍醐味糟糠小僧寛済 ○御         ○御        
慶安5(1652) 亮典                    
明暦元(1655) 静守
万治元(1658) 信恵     ○左御              
不明*3 (花押) ◆御                
延宝6(1678) 増栄                  
貞享3(1686) 賢継                  
D正徳元(1711) 重忍                    
正徳2(1712) 大江景敦                    
正徳4(1714) 賢晃     ○御              
享保元(1715) 重忍                    
享保9(1724) 亮快
享保10(1725) 智純
享保10(1725) 久保金吾茂照                    
享保21(1736) 寂厳                  
宝暦6(1756) 南林興子                  
安永5(1776) 右大弁兼-             ○左      
寛政5(1793) 五岳山法印増識               ○左    
文化2(1805) 不明                 ◆御  
文化9(1812) 光棣
不明*4 良雄                 ○*5  
文政3(1820) 重傳                    
不明 加賀守清茂                    

*1 隆證

*2 梵字表記もあり.

*3 左大史小槻重房本を書写したもの.重房の任官時期から書写は寛文三年(1663)~延宝四年(1676)頃か.

*4 良雄の生没年は ? ‐文化十二年(1815).

*5 左右記の末尾に「良雄」とあるが,巻末の御記にはない.

【表2・群書系写本一覧】

年代 書写者 群書系
群書類従

1

京大

2

筑波大

3

成田山

4

塩竈神社

7

狩野①

5

持明院

6

多和文庫

A文永2(1265) 隆澄 ○*1 ○*1 ○*1 ○*1 ○*1
「御手替之忠賞」のくだり              
B建武4(1337) (梵字) ○*2 ○*2 ◆*3  
応永16(1409) 海賢 ○左
C応永16(1409) 海賢  
「私云~御師範也」のくだり
「御記右記左記は守覚法親王御筆跡也」のくだり
「高野山無量寿院長―」のくだり
不明 快楽不退庵照円            
不明 快鏡              
文安2(1445) 長恵                
文明16(1484) 公済                
文明18(1486) 範済   ○左 ○左 ○左 ○左 ○左 ○左  
天文19(1550) 快堅
慶長12(1607) 恭畏 ○御             ○左
寛永6(1629) 尭辰               ○左
寛永15(1638) 醍醐味糟糠小僧寛済                
慶安5(1652) 亮典               ○左
明暦元(1655) 静守
万治元(1658) 信恵                
不明 (花押)                
延宝6(1678) 増栄                
貞享3(1686) 賢継                
D正徳元(1711) 重忍            
正徳2(1712) 大江景敦                
正徳4(1714) 賢晃                
享保元(1715) 重忍               ○左
享保9(1724) 亮快
享保10(1725) 智純 ○左
享保10(1725) 久保金吾茂照              
享保21(1736) 寂厳                
宝暦6(1756) 南林興子                
安永5(1776) 右大弁兼-                
寛政5(1793) 五岳山法印増識                
文化2(1805) 不明                
文化9(1812) 光棣
不明 良雄                
文政3(1820) 重傳               ○左
不明 加賀守清茂                

*1 隆證

*2 梵字はyasaiと読める.

*3 範済と同じ行にあり.

【表3・内閣文庫系写本一覧】

年代 書写者 内閣文庫系 書写地

9

内閣文庫①

12

書陵部①

23

池田家

10内閣文庫② 22金剛三昧院②

8

A文永2(1265) 隆澄 ○*1 ○*1 ○*1 鳴瀧御所
「御手替之忠賞」のくだり      
B建武4(1337) (梵字) ○*2 ◆*3 ◆*3 ○*2 鎌倉雪下新宮
応永16(1409) 海賢 不明
C応永16(1409) 海賢 雪下禅坊
「私云~御師範也」のくだり
「御記右記左記は守覚法親王御筆跡也」のくだり
「高野山無量寿院長―」のくだり
不明 快楽不退庵照円   不明
不明 快鏡         相馬長明寺
文安2(1445) 長恵         不明
文明16(1484) 公済         不明
文明18(1486) 範済 ○左 ○左 ○左 ○左*4 ○左 不明
天文19(1550) 快堅 高野山小田原窪坊
慶長12(1607) 恭畏         鎌倉雪下荘厳院
寛永6(1629) 尭辰         高雄山地蔵院
寛永15(1638) 醍醐味糟糠小僧寛済         不明
慶安5(1652) 亮典         和寺密乗院
明暦元(1655) 静守 不明
万治元(1658) 信恵         金剛王院南窓
不明 (花押)         不明
延宝6(1678) 増栄         不明
貞享3(1686) 賢継         金剛王院南窓
D正徳元(1711) 重忍   鳩嶺南渓寶光草庵
正徳2(1712) 大江景敦       不明
正徳4(1714) 賢晃         不明
享保元(1715) 重忍         不明
享保9(1724) 亮快 不明
享保10(1725) 智純 不明
享保10(1725) 久保金吾茂照         不明
享保21(1736) 寂厳         不明
宝暦6(1756) 南林興子         不明
安永5(1776) 右大弁兼-         不明
寛政5(1793) 五岳山法印増識         不明
文化2(1805) 不明         御室御所光臺院
文化9(1812) 光棣 ○奥 不明
不明 良雄         不明
文政3(1820) 重傳         城州石清水五智輪院
不明 加賀守清茂       不明

*1 隆證

*2 梵字はyasaiと読める.

*3 範済と同じ行にあり.

*4 「金資法印範済」となっており,建武四年奥書と混ざったものか.

表から大正蔵系・群書系・内閣文庫系の奥書A~Dを比較すると,奥書Aは各系統に共通してみられる.奥書B・Cについては大正蔵系写本には殆どなく39,群書系・内閣文庫系写本にはほぼ共通してみられる.ただし,大正蔵系でも(13)宮内庁書陵部②には奥書Bが存在し,奥書Cの一部である「私云~御師範也」のくだりは大正蔵系写本の多くに存在する.とすれば,書写されなかったというよりは,後から奥書B・Cが省略された可能性もあろう.

奥書Cについては第3節「奥書について」でふれたが,ここで,改めて書写状況に着目して内容を検討してみたい.まず(13)宮内庁書陵部②と(1)京都大学の,『右記』と同時期に書写されたと思われる『左記』奥書に,「応永十六年林鐘初三日/以有清法印自筆本書写之校合了/●●(梵字)子海賢三十二」とある.海賢については第3節で述べた.「有清法印」については,『鶴岡八幡宮寺供僧次第』『鶴岡八幡宮寺諸職次第』の乗蓮坊の項に「有情」の名がみえ40,康永二年(1343)に乗蓮坊院主に補任され,貞治六年(1367)に寂す,とある.奥書Cと時期が近いことから,海賢は,自分と同じ鶴岡八幡宮寺の僧侶であり,乗蓮房に住した有清の自筆本を書写した可能性がある.

「高野山無量寿院長―~草本返賜畢」のくだりでは,高野山無量寿院の「長―」が,同院で廃絶していた「彼三巻」を求めていたところ,「武州石川宝生寺」の住侶二名が求法のため高野山に来たので,武州石川宝生寺の本を草本として書写し,書写の後草本は返却した,とある.

「長―」については第3節でふれたように,高野山無量寿院に住した長覚か,その門弟の長誉・長任の可能性が考えられる.このうち長誉については関東との関係は未詳であるが,長覚と長任はそれぞれ鎌倉に下向している.特に長任については,鶴岡八幡宮寺の学頭職を務め,多くの門弟を育てている41.長任の門弟には,印融と師弟関係にある宝生寺の覚日(長円)がいるだけでなく,印融自身も長任の弟子となっている42

長任の鎌倉下向の時期について,『鶴岡八幡宮寺供僧次第』『鶴岡八幡宮寺諸職次第』宝蔵坊項・安楽坊項では,「長任」を「長忍」と記しているものの,「高野山住山者,依為教相学匠,自社家被召下者也」とあり,応永三十五年(1428)宝蔵坊(海光院)に補任,正長三年(1430)安堵下文,永享五年(1439)安楽坊(安楽院)へ移り,嘉吉43三年(1443)学頭職補任,享徳二年(1453)より高野山に住山するとしている44.長任が入った宝蔵坊(海光院)は,応永十六年(1409)に『右記』を書写した海賢の住房であり45,長任は,海賢の二代後の院主にあたる.第3節でもふれたように,高野山無量寿院と鶴岡八幡宮寺と宝生寺とは,西院流の法流で繋がっている46.長任であれば,関東で『右記』が書写されていることを知って,高野山帰山の後,宝生寺僧に『右記』等を求めることがあっても不自然ではないと思われる47

以上のように,『右記』の写本の構成や奥書を詳細に比較していくと,構成と奥書には相関性があることがわかる.執筆当初の構成がどのような形だったかは不明であるが,どのように変化したかを辿っていくと,次のようになるのではないだろうか.

まず,隆澄が文永二年(1265)に鳴瀧御所において書写した奥書Aは,全ての系統にみられる.それに続く建武四年(1337)書写の奥書Bは群書系・内閣文庫系に偏って存在するが,大正蔵系の多くで奥書の一部分が存在するので,後から奥書B・Cが省略された可能性があり,建武四年・応永十六年の奥書を省略するものが大正蔵系,省略しないものが群書・内閣文庫系といえるのではないだろうか.大正蔵系と群書・内閣文庫系に分かれる時期については,奥書B・C以降,奥書Dの正徳元年(1711)の重忍まで奥書に共通性がみられなくなることから,奥書B・Cからさほど下らない時期か,あるいは奥書B・Cの書写の時点の可能性があろう.そして,奥書Dの正徳元年(1711)の重忍奥書が,群書系と内閣文庫系に共通していることから,群書系と内閣文庫系の系統に分かれたのは,正徳元年の重忍による奥書以降になるのではないだろうか.

このように,奥書から推測してみると,まず大正蔵系と群書・内閣文庫系の二系統に分かれ,その後,群書系と内閣文庫系とに分かれた可能性がある.

 『右記』は,近年の研究では守覚の著作かどうかが疑問視されるものの,中世から近世に到るまでは守覚の残した教訓であると信じて書写され,少なくとも2度にわたって項目の順番を整理されながら引き継がれてきたものであるといえるのではないだろうか.

6.おわりに

以上,『右記』の諸写本のうち23本について紹介と考察を行った.まとめるならば,『右記』の写本の系統は構成から3種類に大別でき,その差異は,明確に童形を対象とした項目とそれ以外の項目を峻別する過程で生じた可能性を考察した.また,諸写本にみられる奥書のうち代表的なものについて検討し,書写状況について推測を試みた.

本稿では現存する全ての写本を検討できたわけではなく,系統や奥書の考察についても課題が多く残されてはいるが,これまで注目されなかった問題の一端を指摘することはできたのではないかと考える.紙面の制約上,不備な点も多々あるかと思われるが,大方の御批正を賜れば幸いである.

本研究会は今川佳世子,佐藤もな,豊嶋悠吾,前川健一の4人で構成されており,本稿は4人の共同作業によるものである.各節における執筆担当者は以下の通りである.

1.はじめに           前川健一 

2.『右記』の諸テキストについて 佐藤もな

3.奥書について         今川佳世子・佐藤もな・豊嶋悠吾

4.書誌について         豊嶋悠吾    

5.系統について        今川佳世子

6.おわりに       佐藤もな

Acknowledgments

本稿を作成するにあたり,様々な御高配をいただいた.貴重な所蔵資料の閲覧,複写を御許可いただいた関係機関の各位には,厚く御礼申し上げる所存である.また,成田山図書館所蔵本については大東文化大学非常勤講師の髙橋秀城氏に調査・御協力を頂き,重要なご教示を賜った.十文字学園女子大学短期大学部准教授の平野多恵氏にも貴重な御助言をいただいた.甚深の感謝を申し上げたい.

Footnotes

1 仁和寺紺表紙小双紙研究会編『守覚法親王の儀礼世界』(勉誠社,1995),阿部泰郎・山崎誠『守覚法親王と仁和御流の文献学的研究』(勉誠社,1998)参照.

2 『北院御室拾要集』ともいう.以下,本稿では『御記』の呼称を用いる.

3 『御記』には「凡真俗交談恐琢磨裁継之座玉与錦胥二者歟」(大正78・610下10‐11),『左記』には「此書者真俗記類也.於真俗内与左右号於今記耳」(大正78・608上1‐2)とあり,『真俗記(=真俗交談記)』『御記』『左記』『右記』が一連のものであることが明示されている.

4 五味文彦「作為の交談 守覚法親王の書物世界」(同著『書物の中世史』所収,みすず書房,2003).

5 五味氏前掲書210頁参照.

6 本稿第3節「奥書について」参照.隆澄については五味氏前掲論文209頁に『御記』奥書に関する言及がある.

7 ただし(28)については『国書総目録』には記載があるが,国文学研究資料館の日本古典籍総合目録電子データベースには載っていない.また,データベースでは上記機関のほかに慶應義塾大学魚菜文庫と大阪女子大学(現在は大阪府立大学)も掲載されているが,調査の結果,写本の所蔵を確認できなかったため,このリストには入れなかった.

8 (21),(22)は所蔵番号が同じであり,Webサイト上では1本として掲載されている.しかし調査の結果,別筆による2本の『右記』写本であることが判明したため,本稿では別個に扱った.

9 『石山寺の研究』深密蔵聖教篇上(石山寺文化財綜合調査団,法蔵館,1991).

10 (18)~(20)については東京大学史料編纂所所蔵の写真帳で確認し,(12)はマイクロフィルム,(9)~(11),(13),(14)は実物を確認した.その他の14本については,マイクロフィルムの紙焼を参照した.また,(24)については国文学研究資料館の日本古典資料調査データベースに掲載されている書誌情報から,(36)~(38)は前掲書『石山寺の研究』深密蔵聖教篇上により,それぞれ奥書情報を確認した.なお(35)は,写本の破損が著しいとの理由から閲覧することが出来なかった.

11 (13)宮内庁書陵部②,(19)叡山文庫(毘沙門堂旧蔵),(36)石山寺②(第五十一函11番),(24)島原公民館(松平文庫)以外の23本にみられる.そのうち書写者が「隆證」となっているものが10本,「隆澄」となっているものは12本である.次節の書誌および第5節の表を参照.なお(24)島原公民館(松平文庫)は,データベース上の情報では文永二年の年号が掲載されているが,奥書本文・書写者とも原文未確認のため,ここでは数に入れていない.

12 隆澄については五味氏前掲論文209頁でも触れられている.注6参照.

13 「鳴瀧」と示されている院家は,写本によって異なる.心蓮院本によれば護持院・相応院・常楽院,顕證本によれば無量寿院・西院・紫金台寺・願成院・性徳院・華厳院・静定院・相応院・光明蔵院,顕證尊寿院本によれば西院・願成院・性徳院・華厳院である.『仁和寺史料』寺誌編一(奈良国立文化財研究所史料第三冊,奈良国立文化財研究所編,1964)参照.

14 『仁和寺諸院家記』恵山書写本の相応院項による.前掲『仁和寺史料』寺誌編一256頁参照.

15 文永年間当時の仁和寺御室は十一世性助法親王(1247‐1282)であるが,住房は未詳である.古藤真平「仁和寺の伽藍と諸院家(上)」(『仁和寺研究』第1輯(古代學協會,1999年))41‐52頁によれば,文永年間までに御室御所として用いられた記録のある院家は北院・成就院・南院・大聖院・紫金台寺・光明寿院である.

16 前掲『仁和寺史料』寺誌編一431頁参照.

17 前掲『仁和寺史料』寺誌編一140頁参照.

18 奥書Bの存在する写本を,紙面の都合により前節で使用した番号で挙げる. (1)~(5),(7)~(10),(12),(22),(23)である.(24)はデータベース上の情報では建武四年の年号が掲載されているが,奥書本文・書写者とも原文未確認のため,ここでは数に入れていない.

19 写本以外では群書類従所収本(底本不明)に梵字の記名があるが,判読困難である.

20 (11)内閣文庫③,(13)宮内庁書陵部②,(19)叡山文庫(毘沙門堂旧蔵),(36)~(38)石山寺①~③の6本を除いた21本にみられる.

21 次節の書誌情報で示すように写本により若干の異同があるが,ここでは(1)京都大学の表記に従った.

22 次節及び第5節の表参照.

23 応永二十二年(1415)に後小松上皇より院号を与えられ,宝蔵坊は海光院に名称を改めた.『鶴岡八幡宮年表』(鶴岡八幡宮社務所,1996)220頁参照.

24 鶴岡叢書第四輯『鶴岡八幡宮寺諸職次第』(鶴岡八幡宮社務所,1991)参照.海賢はもとは賢潤と称し,応永十五年(1408)十月に海賢と改めた.

25 ここで挙げた(1)京都大学,および(2),(3),(4),(5),(7),(8),(9),(10),(23)の奥書では「新快」と表記されているが,(6),(14),(15),(16),(17),(18),(20),(21),(22)では「親快」となっている.次節の【奥書】欄参照.

26 「醍醐寺文書」二函一〇五号(『大日本古文書』家わけ第十九『醍醐寺文書』一)391頁.

27 『成相記』とも呼ばれる.本稿では,坂本正仁氏による願成寺本の翻刻(『豊山学報』第31号所収東密血脈譜叢刊一「東寺真言宗血脈」)を参照した.

28 龍華寺蔵『伝法灌頂記 西院』(金沢文庫特別展図録『龍華寺―武州金沢の秘められた古刹』44頁掲載図版,神奈川県立金沢文庫,2000)参照.また,印融撰『西院血脈』(高野山真別処蔵本を底本として『続真言宗全書』第二十五巻(続真言宗全書刊行会,1985)に所収)「能禅方・覚尊法印」項によれば,針加野弘光寺祐尊より西院流能禅方を学び,後に雪下相承院の俊誉に西院流元瑜方を受けるとある.213頁参照.

29 東京大学史料編纂所所蔵影写本『宝生寺文書』参照.

30 前掲の印融撰『西院血脈』「元瑜方・長覚法印」項,222‐223頁参照.

31 (4)塩竃神社,(7)東北大学(狩野文庫)①,(8)東北大学(狩野文庫)②,(10)内閣文庫②,(12)宮内庁書陵部①,(23)岡山大学(池田家文庫).

32 『大日本仏教全書』仏書刊行会版50,375頁.

33 奥書本文は以下の通りである.「以亮典密師親写之本令書写亮享保元申十一月書/金剛乗重忍(六十/六歳)」

34 他と相違が大きいため,以下に奥書全文を挙げる.「應永十六年林鐘中旬候於雪下禅坊令書写校合了/彼左右之金玉者北御之記也可秘蔵ゝゝ海賢四八/私云彼隆澄者理智院大僧正一長者法流者忍辱/山也親快之始御師範也云々此朱點者隅別住加快堅下」

35 一つ書きの内容を勘案して私にタイトルを付し,括弧内に各本文の初めの数文字を挙げた.紙面の都合上,2列目以降は項目番号のみを挙げ,事書と番号の付されていない項目(扇の挿し方について)は略記した.

36 一つ書きではなく,いずれの系統でも19の末尾に連なっている内容であるが,内容的には18に接続すべき文章か.

37 続く37「主賓対面の礼のこと」は明確に童形にふれている項目ではないが,直前の「接客のこと」に関連する内容なので,36に続いていると思われる.

38 表には,当研究会で本文を確認した23本について掲載した.記号は,『右記』に該当する奥書があるものを○,『右記』にはみられないが,同筆の『左記』『御記』の奥書や,合冊にある同年の奥書により補ったものは○とともに左・御・奥の文字を付し,奥書はあるが記名のないものは◆とした.書写地については【表3・内閣文庫系写本一覧】に載せた.

39 (13)宮内庁書陵部②が例外である.

40 鶴岡叢書第四輯(書誌は注24参照)211頁,256頁.「有情」は「有清」の誤写と思われる.

41 「無量寿院長覚傳」・「無量寿院長譽傳」・「無量寿院長任傳」(『続真言宗全書』三十六「紀伊続風土記」高野山之部巻之三十六高僧行状之三浄慧之三,1979).

42 印融撰『血脈私鈔 下』(高野山金剛三昧院蔵本を底本として『続真言宗全書』第二十五巻に所収)参照.三宝院流道教方については覚日は印融の弟子で,教相と西院流能禅方・同元瑜方については覚日が印融の資とある.

43 「嘉慶」と表記されているが,永享と享徳年間の記事の間にあることから,「嘉慶」は「嘉吉」の誤記と思われる.

44 前掲の『西院血脈』によれば,永享十一年(1439)鎌倉で俊誉に受法し,雪下学頭を19年勤め,その後高野山に帰り無量寿院に住して学頭を20年勤め,文明十五年(1483)寂としながらも,文明年間(1469‐1486)に関東で印融等に授法する記事がある.『密教大辞典』長任の項では永享十一年に下向,寛正六年(1465)には高野山に帰っているとしているが,正確な下向期間については今後の課題としたい.

45 第3節,奥書C参照.

46 伊藤宏見『伝記篇 印融法印の研究(下)』439頁(非売品,1971).伊藤氏によれば,宝生寺には長任が書写した『聖旡動尊大威怒王念誦儀軌』が残されているという.宝生寺にもたらされた時期や経緯等は不詳だが,高野山無量寿院と宝生寺の間にテキストの移動をともなう交流が存在したということはいえるだろう.

47 東京大学史料編纂所所蔵写真帳『宝生寺所蔵聖教』(六)に,西院流能禅方の聖教等を列挙した『高室院聖教目録』(成立年代未詳)がある.そのうちの「西湏 印ノ箱 目録」には,「守覚御記巻物 一巻」「右記左記 二巻」の記載がみえる.

 
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