仏教文化研究論集
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序論
中観派におけるprajñāの定義的用例
—『中観五蘊論』に基づく訳語の検討—
横山 剛
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2017 年 18.19 巻 p. 59-74

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はじめに

バウッダコーシャ・プロジェクトチーム[2014]の第四章の冒頭でも指摘した通り,中観派の文献から術語の定義的な用例を回収することは容易ではない.そのような状況にあって,中観派の立場から諸法の体系を解説する月称(Candrakīrti,600–650頃)の『中観五蘊論』(Madhyamaka­pañcaskandhaka,蔵訳でのみ現存)は,中観派における諸法の定義を体系的に伝える貴重な資料となる 1

 本稿のテーマであるprajñāは中観思想においても重要な教理概念の一つであるが,中観派の文献にその明確な定義を見出すことは難しい.そこで本稿では,バウッダコーシャ・プロジェクトチーム[2014]におけるśraddhāの訳語の検討に続いて,『中観五蘊論』の解説に基づいてprajñāについて可能な訳語を提示したい.その際には,諸法の分析において諸法の自性をいかに理解するのか,諸法を分析する際の目的は何か,という二つの点から『中観五蘊論』に説かれるprajñāを説一切有部のprajñāと比較し,訳語を検討する際の参考としたい.

1. 『中観五蘊論』におけるprajñāの解説

1. 1. 解説の概要

まずは『中観五蘊論』におけるprajñāの解説の概要について確認したい.同論において prajñāは行蘊中の心相応行の十番目の要素として説かれる.しかし,心相応行の一つであるにもかかわらず,その解説の分量は論全体の約20%を占める.解説の構成を示せば,以下の通りである 2

1. prajñāの定義 D 248a2–4, P 284a2–6.

2. 人無我の論証 D 248a5–249b3, P 284a6–286a3.

3. 法無我の論証

3.1. 法無我の定義 D 249b3–6, P 286a3–7.

3.2. 無為法の実体性の否定 D 249b6–7, P 286a7–8.

3.3. 四大種と大種所造の実体性の否定

D 249a7–250b2, P 286a8–287a5.

3.4. 極微の実体性の否定 D 250b2–251a1, P 287a5–b6.

3.5. 心と心所法の実体性の否定 D 251a1–3, P 287b6–288a1.

4. 無常性を認めるも事物の存在を主張する異説

4.1. 異説の内容 D 251a3–6, P 288a1–4.

4.2. 異説の教証 D 251a6–b3, P 288a4–b3.

4.3. 異説の理証 D 251b3–4, P 288b3–4.

5. 異説に対する論駁 D 251b4–252a5, P 288b4–289a7.

6. 経典引用による論駁の敷衍 D 252a5–253b7, P 289a7–291a6.

7. 無我の解説の総括 D 253b7–254a5, P 291a6–b4.

冒頭ではprajñāの定義が述べられ,それに続けて人法の二無我が解説される.法無我の解説では,無為法の非存在に続けて,四大種,その他の極微,心,心所が無自性であることが,諸法の相互依存的な関係にもとづいて論証される 3

prajñāの解説の後半では,無常性を認めるも事物の存在を主張する異説が紹介され,その異説の教証と理証が示された後にそれに対する論駁がなされ,さらに経典を引用することで論駁が敷衍される 4.そして最後に無我の意味が総括され,prajñā の解説が結ばれる.

以上のprajñāの解説では,中観派に特徴的な解説が随所に見いだされ,有部アビダルマの法体系を略説することを趣旨とする同論において,例外的な箇所であるといえよう.さらにprajñāの解説では,「唯世俗」(*saṃvṛtimātra, kun rdzob tsam)への言及や 5,月称の他の著作と共通する経典引用が確認され,当該箇所は『中観五蘊論』において月称の思想的な特徴が確認される箇所でもある 6

1. 2. prajñāの定義

次に prajñā の訳語を検討する際に基礎となる定義的用例として,冒頭の「1. prajñāの定義」を見てみよう.

[A]śes rab ni chos rab tu rnam par 'byed pa'o //[B]rnam par 'byed pa ni dṅos po'i ṅo bo maṅ po ril po gcig lta bur gyur pa'i don la 'dis so sor rtogs pas rnam par 'byed pa'o // khyad par can du rnam par 'byed pa ni rab tu rnam par 'byed pa ste / blo yis dṅos po'i cha rnam par phye nas 'di'i raṅ gi ṅo bo ci źes te / ñe bar dmigs pa'i don la ṅes par sñiṅ po ci źig yod ces de lta bu'i rnam par źugs pa'o //[C]dper na chu śiṅ gi sdoṅ po la sñiṅ po 'dod pas rnam par phye ba lta bu ste / ji ltar 'ga' źig sñiṅ po 'dod pas chu śiṅ gi sdoṅ po śun pa daṅ śun pa tha dad du legs par rnam par phye nas btsal ba na sñiṅ po cuṅ zad kyaṅ mi rñed pa ltar blo gros daṅ ldan pas gaṅ zag daṅ chos rnams kyi raṅ gi ṅo bo yoṅs su btsal ba na sñiṅ po cuṅ zad kyaṅ mi dmigs so //

MPSk, D 248a2–4, P 284a2–6(cf. Lindtner[1979]p. 110, ll. 15–26,

山口[1966]pp. 301–302, 宮崎ほか[2017]pp. 96–99)

[A]prajñāとは,法を深く分析すること(*pravicaya, rab tu rnam par 'byed pa)である.[B]分析すること(*vicaya, rnam par 'byed pa)とは,事物のたくさんの要素が一つの塊のようになっている対象を,これによって個別に観察するから,分析である.さらに進んで分析することが,深く分析することである.理性により事物の部分に分解して,これの自体とは何かと,認識対象に何らかの中心が本当に存在するのかと,以上のような形では働くものである.[C]たとえば,バナナ(芭蕉)の茎に中心を求めて分解することの如くである.中心を求めるある者が,バナナの茎を皮から皮へとばらばらに十分に分解して探し求める場合には,いかなる中心も得ないが如く,思考力を有する者が,人(プドガラ)と法の自体を探し求める場合には,いかなる中心も認識することはない 7

はじめに[A]では,dharmapravicayaというprajñāの定義が述べられる.この定義自体は中観派に独自のものではなく,有部論書に見られる定義を踏襲したものである.次に[B]では,prajñāの定義であるpravicayaの内容がvicayaと対比されて段階的に解説される.vicayaは複数の要素が集まって成立している対象を個別に観察し,それが要素の集合体であることを理解することであるとされる.一方,冒頭に接頭辞pra- が付いたpravicayaは,そこからさらに踏み込んで,buddhiにより認識対象に中心となる何らかの自体が存在するのか問うことであるとされる.以上の解説から,vicaya には「分析」,pravicaya には「深く分析すること」という訳語をあてるものとする.またpravicayaがbuddhiに関係する性質を持つことが知られる.buddhiは「理性」,「知性」,「理解力」などの知的な機能を意味する術語であり,ここでは「理性」という訳語をあてたい.したがって,pravicayaすなわちprajñā も知的な性質を持つものということになる.最後に[C]では,以上の内容がバナナの茎の譬えにより解説される.そして「mati を有する者」は人(プドガラ)と法に中心となる自体を認識することがなく,無我を理解すると結ばれる.√ manに由来するmatiは思考に関係する知的な機能を意味し,ここでは「思考力」という訳語をあてるものとする.この「思考力を有する者」という表現は,先の「理性」(buddhi)と並んで,prajñāが知的な性質を持つものであることを示す.

ここからは『中観五蘊論』のprajñāを有部アビダルマにおけるprajñāと比較することで,同論におけるprajñāの特徴をより明確なものとしたい 8

2. 有部のprajñāとの比較

2. 1. 諸法の分析における諸法の自性に対する理解

 まずはprajñāによる諸法の分析において,諸法の自性がどのように理解されているかという点から,『中観五蘊論』に説かれるprajñāと有部のprajñāを比較してみたい.先に示した『中観五蘊論』のprajñāの定義において注目すべき点としては,dharmapravicayaという有部と共通する定義で始まった解説が法無我へと結び付けられている点を挙げることが出来る.諸法の分析と無我の関係については,有部も諸法の体系にもとづいて無我を説くのであり,『中観五蘊論』において諸法の分析が無我と結びつけられること自体は特別なことではない.しかし,『中観五蘊論』のprajñāの解説中の「3. 法無我の論証」の冒頭では,「法無我とは,諸法が無自性であることである」と説かれ 9,それに続く箇所では,相互依存的な関係を理由に,諸法の自性が否定される.一方で,有部は三世にわたり恒常不変な諸法の自性を認める.有部の教理におけるprajñāと諸法の自性の関係を伝える解説として,ここでは『倶舎論』「界品」の冒頭で説かれる「アビダルマ」(abhidharma)の定義を見てみよう。

ko 'yam abhidharmo nāma /

prajñāmalā sānucarābhidharmaḥ / I. 2a

tatra prajñā dharmapravicayaḥ / amaleti anāsravā / sānucareti saparivārā / evam anāsravaḥ pañca-skandhako 'bhidharma ity uktaṃ bhavati / eṣa tāvat pāramārthiko 'bhidharmaḥ //

sāṃketikas tu …

nirvacanaṃ tu svalakṣaṇadhāraṇād dharmaḥ / tad ayaṃ parama­arthadharmaṃ vā nirvāṇaṃ dharmalakṣaṇaṃ vā praty abhimukho dharma ity abhidharmaḥ /

(AKBh ad I.2ab, p. 2, ll. 9–20, cf. 櫻部[1969]p. 137, 桂[2015]

pp. 3–5)

このアビダルマというものは何か.

従うものを伴う汚れなきprajñāがアビダルマである.I.2a

その中で「prajñā」とは,法を分析すること(pravicaya)である 10.「汚れなき」とは無漏である.「従うものを伴う」とは従者を伴うということである.このように無漏の五蘊に属するものがアビダルマと呼ばれることになる.これが,まず,第一義のアビダルマである.

一方,慣例的な意味としては,…

また,語源解釈としては,固有の特徴(svalakṣaṇa)を保持する(dhāraṇa)から,ダルマ(dharma)である.したがって,これ(アビダルマ)は,究極の目的たる法である涅槃,あるいは,法の特徴に向かう(abhi-mukha)ダルマであるということで,アビダルマ(abhi-dharma)である.

以上の解説では,まず,諸法を分析するprajñā がアビダルマの中心を担う法であることが述べられる.そして,語源解釈では,prajñāをはじめとする諸法の分析に関わる法が最終目標である涅槃や法の特徴(相)に向かうものであるから「アビダルマ」であるとされる.このように有部が説くprajñāによる諸法の分析は自相を持って存在する実体としての諸法にもとづくものであり,特に「法の特徴に向かう」という一節からは,有部アビダルマにおけるprajñāによる諸法の分析が諸法の根源的な性質へと向かうものであることを理解することが出来る.したがって,諸法の自性を認めるか否かという点では『中観五蘊論』に説かれるprajñāは有部のprajñāと対照的である.『中観五蘊論』におけるprajñāの解説は,中観派の立場に立脚したものであり,有部と共通する定義に始まり諸法の自性の否定へと至る解説の流れからは,有部の教理を中観派の立場に引き付けて理解している様子が見て取れる.

2. 2. 諸法の分析における目的について

 次に諸法を分析する際の目的という点から『中観五蘊論』と有部のprajñāを比較してみたい.『倶舎論』「界品」の冒頭では,アビダルマにおいて諸法を分析する目的が次のように説かれる.

kimarthaṃ punar abhidharmopadeśaḥ kena cāyaṃ prathamata upadiṣṭo yata ācāryo 'bhidharmakośaṃ vaktum ādriyata ity / āha /

dharmāṇāṃ pravicayam antareṇa nāsti kleśānāṃ yata upaśāntaye 'bhyupāyaḥ / kleśaiś ca bhramati bhavārṇave 'tra lokas taddhetor ata uditaḥ kilaiṣa śāstrā // I.3

yato na vinā dharmapravicayenāsti kleśopaśamābhyupāyaḥ / kleśāś ca lokaṃ bhramayanti saṃsāramahārṇave 'smin / atas taddhetos tasya dharmapravicayasyārthe śāstrā kila buddhenābhidharma uktaḥ / na hi vinābhidharmopadeśena śiṣyaḥ śakto dharmān pravicetum iti /

(AKBh ad I.3, p. 3, ll. 3–12 , cf. 櫻部[1969]pp. 139–140)

また,何のためにアビダルマが説かれるのか.そして,軌範師(世親)がそれに従って『阿毘達磨倶舎論』を説こうと尊敬するこれ(アビダルマ)はだれが最初に説いたのかということに関して,〔以下のように偈頌に〕言う.

諸法を分析すること以外に煩悩を鎮めるための方法はない.そして,煩悩により世間〔の有情〕はこの生存の荒巻く海にさまよう.したがって,それ故に,師によってこれ(アビダルマ)が説かれたと言う.I.3

法を分析すること以外に煩悩を鎮める方法はない.そして,煩悩が世間〔の有情〕をこの輪廻という荒立つ大海にさまよわせる.したがって,それ故に,その法の分析のために,師である仏陀がアビダルマを説いたと言われる.というのも,アビダルマを説くことなしに弟子は法を分析することが出来ないからである.

以上の解説,ならびに,先に示した『倶舎論』における「究極の目的たる法である涅槃に向かう」という一節からは,アビダルマの目的がprajñāの働きにより生存を構成する要素である諸法を分析し,涅槃に資する要素と断ずべき要素を選り分け,最終目標である涅槃に向かうことであるということが知られる.したがってprajñāによる諸法の分析は,知的な好奇心にもとづく分析することそのものを目的とする分析ではなく,あくまで涅槃を目指す仏教という枠組みにおける分析であるという点に注意が必要である 11

 この涅槃に至るための諸法の分析という点で,『中観五蘊論』に説かれるprajñāは有部のprajñāと目的を同じくする.同論がprajñāの解説中の「6. 経典引用による論駁の敷衍」において示す教証は,「1. prajñāの定義」の解説においてprajñāにより導かれた無我の理解が最終的には涅槃へと通じるものであることを伝える.

gzugs ni dbu ba'i1) goṅ bu 'dra // tshor ba chu bur lta bu ste //

'du śes2) smig rgyu lta bu yin // 'du byed3) rnams ni chu śiṅ 'dra //

rnam śes sgyu ma lta bu źes // ñi ma'i gñen gyis gsuṅs pa yin //

de ltar phuṅ po la rtog pas // ñin mo daṅ ni mtshan rnams su //

brtson 'grus brtsams pa'i dge sloṅ gis // śes bźin so sor dran pa yis //

'du byed ñer źi źi ba yi // źi ba'i go 'phaṅ rab tu 'thob //

bde ba bla med daṅ ldan pa'i // mya ṅan 'das pa 'gro bar 'gyur //4)

MPSk, D 252a6–b1, P 289b1–3(cf. Lindtner[1979]p. 117, ll. 26–32, 山口[1966]p. 315)

1) ma'i P 2) byed P 3) śes P 4) om. P

色は水泡の塊の如くであり,受は泡沫の如くであり,

想は陽炎の如くであり,諸行はバナナ〔の茎〕の如くであり,

識は幻の如くであると日種族の人(仏陀)はお説きになった.

そのように蘊を理解することで,昼夜,

勤めに励む比丘は,正しく知り,正しく心に留めることにより,

行の静まった寂滅なる境地を得る.

無上の楽を有する涅槃に赴くことになる 12

したがって『中観五蘊論』と有部のprajñāは,諸法の自性を認めるか否かという点では対照的であるが,どちらも最終的には涅槃を目指すものであるという点で目的を同じくし,共に仏教的な目的意識に沿った営みであるといえる.

3. prajñāの訳語について

 さて,これまでの議論をもとにprajñā の訳語について検討してみたい.『中観五蘊論』の「1. prajñāの定義」における「理性」(buddhi),「思考力」(mati)という語から,prajñā が知的な性質を持つものであることが知られ,まずは「知」という訳語を提案することが出来る.さらにpravicayaが持つ,集合体を要素に分割し,中心となる自体を追求して,無自性であることを理解するという機能に注目すれば,「知」の内容を限定して,「分析的な知性」,「分析知」という訳語を提案することが可能である.そして,分析の性格や目的を括弧を使って補うならば,「〔無我を理解して涅槃へ至るための〕分析的な知性」や「〔涅槃へと通じる空性を理解するための〕分析知」となる.

おわりに

 本稿では中観派におけるprajñāの定義的用例として『中観五蘊論』の解説に注目し,prajñāに対して「知」,「分析的な知性」,「分析知」という訳語を提案した.そして,その中で,諸法の分析において諸法の自性を認める有部とは対照的に『中観五蘊論』が諸法の自性を認めないという点と,『中観五蘊論』と有部のprajñāがともに涅槃を得ることを目的とする諸法の分析を担う法であるという点を指摘した.

 最後に本稿における議論の限界について述べておかねばならない.『中観五蘊論』が中観派の立場から有部アビダルマの法体系を解説する特異な中観論書であるために,さらに言えば,重要な教理概念を体系化してその定義を明確に規定するという行為そのものがアビダルマ的な営みであるために,本稿で議論するprajñāの内容や訳語は必然的にアビダルマ的な傾向が強いものとなる.本節で明らかにした内容が中観派におけるprajñā理解の一側面であることは確かである.しかし,それを直ちに中観派におけるprajñā全般に適用することは避けなくてはならない.中観派におけるより普遍的なprajñā理解を明らかにするためには,中観派の諸文献において「般若波羅蜜」(prajñāpāramitā)等の様々な文脈でなされる解説を分析し,その内容を総合的に議論することが今後の課題として挙げられよう.

Footnotes

1 『中観五蘊論』に関する基本的な情報や問題点については,拙稿[2015b]の注1,2を参照.本稿の著者である横山は,現在,『中観五蘊論』の研究に取り組んでおり,有部の法体系に対する中観派の理解について検討を進めている.同論については,上述の研究に加えて,拙稿[2014],[2015a],[2016a],[2016b],[2016c],[2017]も併せて参照されたい.また,バウッダコーシャプロジェクトにおいて,京都大学の宮崎研究班は,『中観五蘊論』に説かれる七十五法対応語について,同論が与える定義にもとづいて可能な現代語訳を提示し,定義的用例集にまとめて,宮崎ほか[2017]として発表した.

2 『中観五蘊論』におけるprajñāの解説の構成については既に拙稿[2015b]pp. 92–93に示したが,prajñāの定義的用例について議論するためには,prajñāの解説全体の構成とprajñāの定義の位置を把握しておく必要があるため,解説の構成を再掲する.

3 『中観五蘊論』のprajñāの定義から法無我の論証については,拙稿[2015b]pp. 93–103を参照.

4 ここで論駁の対象となっている異説については,拙稿[2016c]の「3.3.2. 無為法の数について」(印刷中につき項数未定)を参照.

5 MPSk, D 248b4–6, P 284b8–285a3. 唯世俗については,岸根[2001]pp. 96–100を参照.

6 月称の他の著作と共通する経典引用としては,本稿の「2. 2. 諸法の分析における目的」において提示する経典引用が代表的な例である(注12参照).

『中観五蘊論』のprajñāの解説に見られるこのような特徴をうけて,池田[1985]などの先行研究はprajñāの解説のみが月称に帰される可能性を指摘する.同論の著者問題の詳細については,拙稿[2016c]を参照されたい.

7 拙稿[2014]で指摘した通り,アバヤーカラグプタ(Abhayākaragupta,11–12世紀,一説には1125没)の『牟尼意趣荘厳』(Munimatālaṃkāra)における一切法の解説は『中観五蘊論』に基づくものであり,『牟尼意趣荘厳』の梵文原典から蔵訳でのみ現存する『中観五蘊論』の原文を部分的に回収することが出来る.prajñāの定義についても,以下に示す『牟尼意趣荘厳』の梵文から原文を部分的に回収することが可能である.

Cf. MMA:

prajñā dharmāṇāṃ pravicayaḥ saṃśayavyāvartanakarmikā / bhāvasya pudgala­dharmātmakasya svabuddhyāvayavaśo vibhañjayat svarūpānveṣaṇam / pudgalasya dharmāṇāṃ ca svarūpaṃ parīkṣyamāṇaṃ niḥsvabhāvatayā na kiñcid upalabhate //

(p. 22, ll. 9–13, cf. 李ほか[2015]p. 153)

8 有部のprajñāの詳細については,本論集所収の一色大悟氏による論考を参照されたい.

9 MPSk:

chos la bdag med pa ni chos rnams kyi ṅo bo ñid med pa'o //

(D 249b3–4, P 286a3, cf. Lindtner[1979]p. 113, l. 7, 山口[1966]p. 306)

10 『中観五蘊論』におけるprajñāの解説では,pravicayaとvicayaが対比されて説明されているために,その差を意識して,前者を「深く分析すること」,後者を「分析すること」と訳した.しかし,『倶舎論』においてそのような説明がなされているわけではなく,同論で説かれるpravicayaに対して『中観五蘊論』と同じ訳語を機械的に与えることには問題がある.したがって,ここでは接頭辞pra- を強調せずに,単に「分析すること」という訳語をあてるものとする.

11 Cox[2004]pp. 127–128は,有部アビダルマにおける法の理論の史的展開を論じる中で,諸法を分析する際の目的が,本来,自性などについて議論する存在論にあるのではなく,断ずべき悪しき要素と涅槃に資する善なる要素を選別することにあるとし,その修道論的な意義を指摘する.

12 共通する経典引用が『明句論』(PP ad I.1, p. 203, l. 5–p. 204, l. 5)と『四百論注』(CŚṬ, D 61b7–62a2, P 66b5–7)にも確認される.パーリ経典の対応箇所としては,SN, Vol. III, p. 142, ll. 29–31, p. 143, ll. 8–9を挙げることが出来る.

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  • Yokoyama, Takeshi 横山剛
  •    [2014]「『牟尼意趣荘厳』(Munimatālaṃkāra)における一切法の解説―月称造『中観五蘊論』との関連をめぐって―」,『密教文化』233,pp. 51–77.
  •    [2015a]“A Reconstru ction of the Sanskrit Title of Candrakīrti's Phuṅ po lṅa'i rab tu byed pa: with Special Attention to the Term ‘rab tu byed pa’”,『印度學佛敎學研究』63-3,pp. 208–212.
  •    [2015b]「『中観五蘊論』における諸法解説の性格―無我説との関係をめぐって―」,『密教文化』235,pp. 89–114.
  •    [2016a]“An Analysis of the Textual Purpose of the Madhyamaka­pañcaskandhaka: With a Focus on its Role as a Primer on Abhidharma Categories for Buddhist Beginners”,『印度學佛敎學研究』64-3,pp. 164–168.
  •    [2016b]「『中観五蘊論』の思想的背景について―『五蘊論』ならびに『入阿毘達磨論』との関係についての再考察―」,『真宗文化』25,pp. 23–42.
  •    [2016c]「『中観五蘊論』の著者について―月称部分著作説の再考察―」,『密教文化』237,印刷中.
  •    [2017]“An Analysis of the Conditioned Forces Dissociated from Thought in the Madhyamakapañcaskandhaka”,『印度學佛敎學研究』65-3 , pp. 177–182.
 
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