仏教文化研究論集
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論文
明治・大正期東京の青年仏教者
徳風会から東京大学仏教青年会へ
中西 直樹
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2020 年 20 巻 p. 3-39

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はじめに

2019(平成31)年に,第一高等中学校の学生有志が1889(明治22)に「徳風会」を設立してから130年,1919(大正8)年に「東京帝国大学仏教青年会」(以下「東大仏青」と略称する)が創設されてから100年を迎えた.両会の間に直接的な連続性は認められないものの,ともに東京大学の前身学校の在学生によって結成された青年仏教者の団体であり,同じく東京諸学校設立仏青の連合組織を誕生へと導き,その中核的存在として大きな役割を果たした.

まず明治期には,徳風会が中心となって,東京専門学校(現早稲田大学)の教友会,慶應義塾の三田仏教会等の協力を得て「大日本仏教青年会」を結成し,釈尊降誕会や夏期講習会などの斬新な事業を手がけた.次いで大正期には,東大仏青が教友会,三田仏教会とともに「東京各大学仏教青年会連盟」を組織し,社会教化・国際交流などの諸事業に取り組んだ.さらに昭和期に入ると,その動きは全国に波及し,仏青の全国組織である「全日本仏教青年会連盟」の結成へと結実していった.

また,これら青年仏教者の活動で特筆すべきは,旧態依然たる宗派仏教と一線を画し,宗派を超えて結束して,当時の仏教界に新風を吹き込んだ点である.そして,彼ら起こした新たな潮流は,近代日本仏教の改革運動の原動力ともなっていった.

本稿では,徳風会と東大仏青の明治・大正期の動向を中心として,当時の仏教界の状況も踏まえて,青年仏教者の連合組織が近代仏教史上に果たした役割についていささか論じてみたい.

1. 『向陵会』に見る徳風会創立の動機とその検証

徳風会の関係資料は,東京大学には残されていていないようだが,第一高等学校寄宿寮編・発行の『向陵誌』には,「徳風会記事」と題する一文が収録されている.少々長文になるが,徳風会創立の動機について記した冒頭の箇所を以下に掲出しよう.

創立の動機

徳風会は実に明治十八年龍口了信氏の首めて唱へしもの,その動機やまことに穉気を帯びたるものあり.当時のキリスト青年会は会員尠かりしと雖も頗る旗幟鮮明,秩序あり,活動あり其の風を見て起つ者も少ななかざりしと云ふ.龍口氏一日控室に到りて基督青年会に関する信書の整然として襟を正さしむるものあるを見て道心勃々禁ずる能はず忽ち仏教的会合の必要を思ひ立ち上級生藤原宣正氏に諮る然るに藤原氏は動機の軽躁に失するを笑ひて却つて法を傷くるものとなし所謂リディキュラスなるものと称して応ぜざりき.爾来徳風会設立後と雖も藤原氏は一言の援助もこれに与へざりしと云ふ.然れ共龍口氏は今にして或は法を傷くるもの他日法を盛ならしむる原因たるやも知るべからず,大覚の衣の裾に角を触れたるが縁となり七世の後遂に悟の境涯に達せる牛の話さへあるに非ずやと称し同級の友薗田宗恵氏に諮り築地本願寺の勝友会を賛同せしめ,亦一方同級の諸友,福原鐐二郎,正木直彦,中村是公,中川栄次郎諸氏の盛なる後援を得て得意満々直に檄をならして七十余名の会員を募り名付けて仏教講究会とせり.

木下校長と徳風会

徳風会の初期に於ては直接,間接,木下校長に負ふ所甚大なり当時宗教に関する講演は校内に於て固く禁ぜられたるに係らず,其の第一回講演を開くべく校長に請ふや直に賛成せられたるのみならず,幾多の忠言を以て会員を鼓吹されたり,然るに後日基督教青年会に於て同様の切願に及びたるも校長頭をふり許されざりしと云ふ.蓋し恐らくは先生当時国権派の人たりしを以てなるべし 1

この「徳風会記事」は,徳風会の設立に至った経緯を知る上で貴重なものであるが,いくつかの点で事実誤認を確認できる.このためか,この記事を取り上げた先行研究などはないようである.筆者は,山崎茂人と記載されているが,いかなる人物かは不明である.誤記が多いことから,伝聞によって執筆した可能性も考えられる.

「徳風会記事」の文中には,会の創設を主導した「龍口了信」のほか,龍口が相談した人物として,「藤原宣正」「薗田宗恵」の名前が挙がっている.龍口が他の2名に相談を持ちかけたのは,彼ら3名がいずれも真宗本願寺派寺院の出身者で,近い関係にあったためと推察されるが,「藤原宣正」については該当者が見当たらない.おそらく,「藤井宣正」の誤記と考えられる.以下に,この3名の略歴を示そう.

藤井宣正 1859(安政6)年新潟県光西寺に生まれた.81(明治14)年に本願寺留学生として慶應義塾に入り,84年夏に大学予備門に入学した.86年,大学予備門の第一高等中学校への改組を経て,87年9月に帝国大学文科に入り哲学を専攻,91年7月に卒業した.本願寺派寺院出身者で最初の帝国大学卒業者であった.翌92年6月に井上瑞江と結婚.白蓮会堂で挙げた結婚式は,最初の近代的な仏前結婚式であったとされる.同年八月に文学寮教授に就任.その後,埼玉県立浦和中学校長を経て,1900年に本願寺より英国留学に派遣された.02年には,大谷光瑞(鏡如)のインド仏遺探検隊に参加したが,翌年に再び英国に向かう途中,仏国マルセイユで客死した.島崎藤村の小説「椰子の葉陰」の主人公のモデルとなった人物としても知られる 2

薗田宗恵 1963(文久3)年大阪府教円寺に同寺住職浅井宗泰の長男として生まれた.1880(明治13)年に本願寺大教校兼学部で学んだ後,84年大学予備門に入学した.86年第一高等中学校を経て,89年9月に帝国大学文科に進学して哲学を学んだ.この間,87年には和歌山県妙慶寺の薗田香潤の養子となり「薗田」に改姓,92年7月に帝国大学を卒業し,同年8月に文学寮教授に就任した.さらに97年に文学寮長となり,99年には本願寺より最初の北米開教使に命ぜられ,西島覚了とともに桑港に赴任した.1901年,ドイツ留学を命ぜられ,03年に帰国した後,京都帝国大学講師,仏教大学(現龍谷大学)学長などの要職を歴任した 3

龍口了信 1867(慶應3)年広島県正順寺に生まれ,広島県第一中学校を卒業後,普通教校を経て,88(明治21)年4月,第一高等中学校に入学した.91年に卒業して帝国大学文科に進学,史学を専攻した.同窓生には正岡子規・夏目漱石・幣原坦・中村是公らがいた.94年7月に帝国大学を卒業した後,文学寮教授・広島県三次中学校長を経て,99年に本願寺派寺務所に入り,執行所賛事・布教講習所長等を歴任し,1901年には初代台湾布教監督兼台北別院輪番に任命された.06年,本願寺立の第一仏教中学(東京)廃止に際し,その経営を引き継いで高輪中学校(現高輪高等学校)に改組し,校長・校主を務めた.20(大正9)年の第14回総選挙に立候補し,衆議院議員に当選して一期を務めた 4

「徳風会記事」によれば,徳風会は「明治十八年」(1885年)に龍口了信の提唱によって設立されたと記されている.しかし,龍口はこの時点で,まだ第一高等中学校に入学していない.後述するように,徳風会の設立は「明治22年」(1889年)のことである.また,薗田は龍口と同級ではなく,先輩にあたる.

おそらく,龍口が徳風会の設立を提唱した背景には,普通教校に設立された「反省会」の影響があったと考えられる.すでに龍口の普通教校在学中の1886年3月に反省会は発足しており,翌87年には会の機関紙『反省会雑誌』も創刊されていた 5.龍口は,反省会を念頭に置いて仏教青年会を設立する構想を抱いたと推察される.龍口の協力要請を拒否した藤井も,帝国大学卒業後の92年に第1回夏期講習会が開催された際には,会計長としてその開催を支えている 6.当初,藤井が会の活動に対するイメージがつかめず,協力要請を断った可能性も考えられる.一方,薗田の場合は在学時から龍口の活動を支援したようであり,夏期講習会開催に当っても,支援を要請する書簡を当時の本願寺派執行長の大洲鉄然に送っている 7

ところで,『向陵誌』には「基督教青年会記事」も収録されている.それによれば,基督教青年会は1888年頃から活動をはじめ,翌89年に学校が一ツ橋より本郷に移転した際に演説会を企画したが,当時の木下廣次校長から快諾を得ることができなかった.「徳風会記事」にも,木下校長から徳風会に対し支援のあったことが記されている.当時,欧化全盛の風潮のなかで,キリスト教への脅威が高まっており,これへの危機意識が設立の背景にあったと考えられる 8

「徳風会記事」にも記されているように,会の設立には,真宗本願寺派の「勝友会」の協力も大きく作用したようである.勝友会は,1887年3月3日,上京中であった同派法主大谷光尊(明如)が,東京で在学中の同派寺院子弟ら27名を築地別院に集めて智徳並進に励むよう訓示したことが機縁となって発足した.当日,光尊の訓示に続いて,島地黙雷の復演があり,教学科長武田篤初より在京本派関係者の親睦・知識交換のための会を設置する提案があった.一同の賛同を得て,会の名は島地により「勝友会」と命名された.このとき集まったのは,山内晋(晋卿)・七里圓長・東陽圓成・佐々木清麿・藤井宣正・浅井(薗田)宗恵・今里游玄・和田秀麿らであった 9.彼らは,帝国大学や慶應義塾などで学ぶために上京した青年たちであり,龍口了信も第一高等中学校に入学した翌88年4月頃に,勝友会に加入したようである 10

当時,真宗大谷派では,井上円了が1885年に僧侶として初めて帝国大学を卒業したのをはじめ,87年7月には清沢満之も帝国大学を卒業した 11.これに比べると,本願寺派の場合は,91年7月卒業の藤井宣正が最初の帝国大学卒業生であり,帝国大学をはじめ東京での修学を促したい宗派内事情もあって勝友会が結成され,徳風会設立に対しても支援をしたと考えられる.

なお,「徳風会記事」に記された福原鐐二郎,正木直彦,中村是公,中川栄次郎は,いずれも卒業後に政財界で活躍した人物であるが,その後,仏教と格別な関係があったことを確認できない.在学中に龍口から勧誘されて一時的に徳風会に参加しただけなのかもしれない.

2. 東京での仏青設立機運の高揚と徳風会の創立

徳風会が設立された1889(明治22)年は,日本仏教にとって大きな基節点となった年であった.この年は,キリスト教への危機意識が最高潮に達し,僧侶の徴兵免除,衆議院・府県会の被選挙問題,東京での寺院家屋税賦課など,仏教各宗派で協力して取り組むべき課題が次々に浮上していた.2月には,オルコットが来日して各宗派の連合結束を呼びかけた.しかし,85年の教導職廃止後に一定の自治を認められた各宗派は,内部対立と機構整備の対応に追われ,宗派相互が結束する契機を見いだせずにいた 12.こうしたなか,各宗派の本山が多く存在する京都から離れた東京で,宗派を超えて結束する仏教青年の動きが活発化した.

一方,京都では前年の1888年10月,独自な動きを見せはじめた普通教校を警戒した本願寺派が,教団統制を強化する目的から文学寮への改組を発表し,12月に改組後の文学寮は大学林に包摂されて独立した学校としての機能を喪失した 13.この措置に憤慨した古河勇(老川)は,翌89年2月に蹶然として東上し,東京法学院英語予備科に入り,国民英学会・明治学院を経て,92年夏に帝国大学選科に入学した 14.古河は,元普通教校学生で反省会の中心的メンバーでもあり,普通教校の消滅後の90年4月に,「文学寮に残れるは甚だ少なく今日に於て彼等は殆んと分散し尽せりと云ふも可なり」 15と書き残している.普通教校を去った学生の一部は,新たな活躍の場を求めて,古河と前後して次々に上京した.そして,彼らを中心として,東京で仏教青年会活動の機運が急速に高まったのである.そのなかには早稲田教友会の山下(平賀)乗圓・菊池謙譲,三田仏教会の梅原融(賢融)らがいた.古河自身も,上京の直後から仏教青年協会の設立に着手し,同じ頃に大内青巒らも仏教青年会の設立計画を発表した 16

第一高等中学校の龍口了信は,普通教校在学中,反省会にあまり積極的に関わっていなかったようである.しかし,かつての同窓生たちが仏教青年会の立ち上げに奔走する情報は,勝友会の会合などを通じて熟知していたと考えられ,大きな刺激を受けたことは想像に難くない.また,オルコットの来日も大きな影響を与えたようである.2月に神戸に上陸したオルコットは3月には東上し,六日に湯島麟祥院,七日に芝増上寺,8日に浅草本願寺,9日に帝国大学講義室,10・11日に木挽町厚生館,13日に小石川伝通院で講演を行い,宗派を超えた日本仏教者の結束を呼びかけた 17.1889年4月12日付『明教新誌』は,オルコツトの渡来が縁由となって東京諸学校の仏教青年会が設立されつつあると報じている 18

こうした状況のなかで,第一高等中学校の徳風会は産声を上げた.「徳風会記事」によれば,当初会は「仏教講究会」と称し,島地黙雷らを招請して講演会を開いていたが,後に徳風会に改名して規則等を整備したようである.5月発行の『令知会雑誌』は,この頃の徳風会について次のように報じている.

疇昔は翁媼の占有物となり腐敗と腐敗に重ねたる仏教も今や活発有為の青年社会の為めに要求せられ青年の友とならんとそ是れ実に仏教の新時機といふへし就中世人の最も注目するものは第一高等中学仏教青年会なるが如し其の初会は本年一月廿一日同校大教場に於て開会し島地黙雷師を請せしに師は喜て其請を容れ三不能の説を弁せらる次て第2回は赤松連城師出席して二身三身といふ題にて弁せられ第三回は大内青巒居士仏教の大意を弁せらる何れも其説くところ明了にして且つ親切なれは毎会聴衆群を為すといふ今其規則を得たれは左に掲く

  徳風会規則

第一条 本会を徳風会と名く

第二条 本会は仏教の真理を研究するを以て目的とす

第三条 本会の目的を達せんか為め講師を請し毎月一回演説会を公開し又殊に会員の為め講義会を開く

第四条 本会の事務を弁するため世話人二名を置く

第五条 会費は会員の喜捨を以て弁す 19

「徳風会記事」によれば,第三条に定める講義会では,村上専精が講師となって大乗起信論,維摩経,勝鬘経等の講義がなされ,鎌倉円覚寺の今北洪川の指導による参禅会も開かれていた 20

1892年発行の『日本仏教現勢史』によれば,徳風会の会員は150余名に達し,主動者として,薗田宗恵・龍口了信・佐々木清麿・藤岡観海・野々村隣太郎・七里辰治郎・伊藤賢道・近角常観・佐々木徹照・高橋慶幢・秦敏之の11名を掲出している 21.彼らは,いずれも第一高等中学校・帝国大学の在学生で,この内,薗田宗恵・龍口了信・佐々木清麿(三重県光蓮華寺)・藤岡観海(福井県光泉寺)の4名は本願寺派勝友会のメンバーであり 22,伊藤賢道(三重県正覚寺)・近角常観(滋賀県延勝寺)・高橋慶憧(岐阜県善明寺)・秦敏之(大阪府道教寺)の4名は真宗大谷派関係者であった 23.残る3名の内,七里辰治郎は七里(本多)辰次郎のことと考えられ,在家者の出身であった.また,野々村隣太郎と佐々木徹照の経歴は不明である.いずれにせよ,メンバーの過半を本願寺派・大谷派の寺院関係者が占めており,彼らが中心的役割を果たしていたことがうかがえる.当時,両派の関係は良好であり,令知会などを通じてともに活動する場合も多く 24,会の主義も「普通仏教」を基本としていた.

3. 釈尊降誕会と夏期講習会

1892(明治25)年1月,東京諸学校に設立された仏教青年会の関係者は一堂に会し,親睦会を開催した.この時の模様について,秦敏之は次のような手記を残している.

明治廿五年一月六日,東京駒込区真乗寺に於て在東都仏教青年の懇親会を開く,会するものは帝国大学,専門学校,慶應義塾,明治法律学校,哲学舘及第一高等中学校等の官私諸学校の学生なり,(中略)一座粛然たるの時,一員進んで曰く(中略)思ふに現今仏教不振の原因は,仏教者に共同的精神なきに依るに非ずや,甲起りて一事を為す乙大ひに之を非難す,乙之を善と唱ふれば甲之を悪と云ふ,(中略)此に余輩青年は夏期の休暇を利用し,清風明月の間,東西書生の連合を為し,門内の大徳を聘し醍醐の妙味を甞めん,然るときは一は仏教を知ること愈深く,一は未知の良友に接するの便あらん,縷々千万言大に夏期講習の必用を説く,満場此説を賛し終に委員を各学校に於て選定することに決しぬ,次で一人あり又進んで曰く四月八日は釈尊の降誕日なり,然るに我仏教徒の祝意を表するもの甚稀なり,是仏教徒の為に惜むべきことなり,願くは吾徒は同日に寺院に詣し及ぶべくんば祝賀の式を挙げんと,是亦可決する所となり 25

この秦の手記によれば,親睦会では宗派的エゴにとらわれて対立を繰り返す既成宗派の問題点が指摘され,宗派の垣根を超えた共同的精神の必要性が主張された.そして,そのための事業として夏期講習会と釈尊降誕会の開催が可決されたのである.こうして同年4月8日に開かれた第1回釈尊降誕会の模様は次のとおりであったという.

当日午前は帝国大学及高等中学の学生にて組織したる,徳風会員が正機にして,傍ら他の信徒も数多加はり,駒込真浄寺に於て寺主寺田福壽氏前席,小栗栖香頂師後席の法話あり,午後は哲学館生徒が発起人となり,神田錦町斯文学会講堂にて降誕式を修せり,講堂の正面に簡略なる花御堂を作り,中に誕生仏を安し,其前に演壇を居えて演説を開けり,最初に生徒某一言開会の趣意を述べ,次に寺田福壽氏次に大内青巒氏後に島地黙雷氏,各々広長舌を延べて仏徳讃歎の演説あり,此会に最も尽力せしは境野哲,安藤弘,鷹見圓教,信本蔦丸,大竹久五郎,和泉司,出村亀,佐々木俊令,今井豊雅の九氏なりし,又同夜は三田の慶應義塾生徒の発起にて,該講堂に於て開会せり,初め小幡篤次郎氏の演説あり,次に真言宗の高徳雲照律師の法話あり,次に大内氏次に島地氏の演説あり,畢りて余興に薩摩琵琶及び一絃琴清楽等あり,而して今度撰述の宇宙の光の第一段呉竹を,薩摩琵琶に合して奏したるは最も感慨に堪へさりし,(中略)此日は天気清朗頗る逍遥に宜しかりければ,右三処とも聴衆夥しく,止むなく入場を遮絶したれは,空しく遺憾を懐きて帰りしもの,幾百人なるを知さりしと云ふ 26

帝国大学・第一高等中学校,哲学館(現東洋大学),慶應義塾の学生が,それぞれ役割分担して会の進行を執行し,大内青巒,島地黙雷,釈雲照,寺田福壽,小栗栖香頂ら各宗派の有力者が協賛していたことが注目される.そして,何より世襲の檀信徒を対象とせず,不特定多数の参加を想定した仏教行事としては,それまでにあまり例の見ないものであった.また同時に,大規模な施本事業を実施したことも注目される.

一方,夏期講習会は7月20日から8月2日まで行われ,その準備には徳風会会員が担当したが,その準備作業はかなり難航したようである.東西学生の連合による講習会を開催したいとの念願から,京都近傍の避暑地での開催を計画し,京都の有力者に協力を要請したが,斡旋の労をとる者はなった.そこで,京都の第三高等中学校,大谷派大学寮,本願寺派大学林・文学寮,京都尋常中学校に協力要請の書簡を送ったところ,京都諸学校の有志は双手を上げて賛同し,懇談会を開き,大谷派教学科長太田祐慶氏が会長,文学寮教授藤井宣正氏が会計長に就任した.会場は須磨と決定し,講師には吉谷覚寿,斎藤聞精,朝倉了昌,赤松連城,村上専精,徳永(清澤)満之,服部卯之吉,前田慧雲ら,仏教界を代表する諸大徳が務めたようである 27

東京と京都の学生の協力によって開催された第1回夏期講習会の意義について,先述の秦の手記は次のように記している.

美なるかな今回の事,始め東都学生之をいひ,而して東都人は之を実行するの手段なかりき,京都の人士始め之を言はず,而して一通の依頼書に依て容易く此事を為し遂げたり,蓋し其機已に熟し共同的精神の仏教青年の間に煥発したるものならんか,嗚呼今回の事は京都同志への共同的精神の産出せし所,予輩は多謝せざらんと欲するも能はざるなり,已後京都人士にして一善事業を起すことあらんか予輩は全国仏教有志者と共に飽迄其事業を助け,以て仏教特有の仁慈博愛和合融解の義を明にせんことを誓ふ,美なるかな共同的精神 28

宗派の枠を超え,東西の青年仏教者が共に学ぶ場を設定した夏期講習会は,宗派・地域ごと分断されてきた近世仏教以来の旧習との決別を告げる画期的なものであったと言えるだろう.

4. 東京諸学校連合会から日本仏教青年会へ

東京諸学校仏青の連合主催による釈尊降誕会と夏期講習会は,1893(明治26)にも第2回が開催され,以後毎年の恒例行事となった.そして,翌94年2月4日には,「東京諸学校仏教連合会」が開催された.当日,帝国大学,第一高等中学,専門学校,慶應義塾,哲学館,法学院(現中央大学),済生学舎等の学生6,70名が東京神田の玉川亭に集まり,降誕会・夏期講習会の実施について相談し,将来的に「仏教青年倶楽部」を建設することを決議した 29

同年4月8日,第3回の釈尊降誕会を期して,東京諸学校仏教連合会は「日本仏教青年会」に改称されることとなり,その発会式が神田錦輝舘で挙行された.当日,発表された趣意書では,東京諸学校仏青の連合組織を改めて広く会員を募り,会則を定め,東京に本部を設け,各地方に支部を置いて全国組織への発展を期するとしていた.また,出版事業や倶楽部設立などの新規事業も計画し,「仏教固より無我を以て宗とす,豈宗派の異同を問はんや」といい,宗派を超えた青年仏教者の参画を呼びかけた 30.このとき,制定された「日本仏教青年会規則」が以下のようなものであった.

第一条,本会は日本仏教青年会と称し本部を東京に定めて支部を便宜の地に置く

第二条,本会は青年学生にして仏教を信奉し且つ其弘通を謀るを以て目的とす

第三条,前条の目的を達する為め左の事項を行ふ,

 一,毎年釈尊降誕会を執行すること

 二,毎年便宜の地に於て夏期講習会を開くこと

 三,定期若くは臨時説教講義及演説会を開くこと

 四,定時或は臨時有益なる出板物を発行することあるべし

第四条,本会々員は賛助員及正会員の二種より成る

 一,賛助員とは高僧名士及篤信者にして本会より特に入会を依頼したる者を云ふ

 二,正会員とは成規の手続を経て入会したる者を云ふ

第五条,本会は委員若干名を置き委員中より互選を以て幹事三名を置く,但し当分委員は二十名と定め帝国大学第一高等中学専門学校慶應義塾法学院哲学舘を以て五団とし各団四名宛を撰出し任期を一ヶ年とし再撰することを得

第六条,委員は会務を評決し幹事は之を実行す,但し委員は幹事の嘱托により一部若くは全部会務の実行に従事することあるべし

第七条,本会は春秋二季に総会を開き必要に応じて臨時総会若くは委員会を開く

第八条,本会に入会せんと欲する者は会員二名以上の紹介を以て其旨幹事に申むべし.退会せんと欲するものは其旨幹事に申し出づべし

第九条,本会の経費は総て喜捨金及雑収入を以て支弁す,但し正会員は臨時必要の経費を負担することあるべし

第十条,本会の目的を害し及其面目を汚す所為あるものは委員の決議を以て除名す

第十一条,本会の規則を改正せんとするときは会員五名以上の建議に依り総会若くは臨時総会の決議を経るを要す

  以上

本郷区西片町十番地に二〇号

申込所                   龍口 了信 31

当時,日本仏教青年会に対する期待は大きく,新仏教運動の旗手と目されていた.例えば1894年10月に仏教学会から刊行された『日本仏教之新紀元』は,京都を中心とする本山主義が自然衰退しつつあるのに対して,東京で学ぶ若き仏教青年が協力して設立した日本仏教青年会はますます光彩を放つであろうと述べている.日本仏教青年会は,演説会・講習会を開催し,釈尊降誕会などの新たな儀式を制定しつつある.さらには新聞雑誌を発行し,会堂を建て宗派から独立した自由教会を設立して,禁酒禁煙などの社会矯風活動を展開することも期待される.まさに仏教の新紀元は,彼ら革新的仏教青年の双肩にかかっているというのである 32

5. 大日本仏教青年会への改称と公認教運動

1895(明治28)年2月,日本仏教青年会は,春季総会で規則を改正し,20名の委員を6名の評議員に改め,幹事も3名から1名に減員した.このとき,会の設立を主導した龍口了信はすでに帝国大学を卒業しており,廣田一乗・安藤正純・松見得聞・中川文任・柏原文太郎(幹事)・岡本真一(会計)が委員に選出された 33.同時に会名も「大日本仏教青年会」と改めたようであり,東京3か所で毎月講義会を開き,年2回の公開演説会を開催することを決めた 34

同年5月に開かれた会員惣会では,日清戦争の戦勝演説会の開催,雑誌発行が満場一致で可決され,柏原幹事の辞任を受けて,月見覚了(真宗大谷派)を幹事に選出した 35.月見の後,96年に廣田一乗(真宗本願寺派)を経て,98年に近角常観(真宗大谷派)が幹事に就任したようであり,彼らは,いずれも真宗寺院の出身者で帝国大学の在学生であった.

月見覚了幹事は,特に雑誌発行事業の推進に力を注いだようである.年3回の発行する方針を決定し,杉村広太郎(縦横・楚人冠),西依一六,秦敏之,近角常観,伊藤賢道,安藤正純(鉄腸)の六名が編輯員に選任された.雑誌名は『大千世界』が有力であり,1896年2月に初号を出すとの報道もあったが,実現しなかった 36

このとき,すでに大日本仏教青年会の行く末には暗雲が立ち込めはじめていた.日清戦争後の仏教界は,宗派を超えて仏教改革を目指す機運が後退し,宗派利害を重視する風潮が強まった.通宗教的な方針を採る青年会活動に対し,宗派当局からの支援も得にくい状況になりつつあった 37.内部の対立も表面化した.1894年には,仏教清徒同志会の前身である経緯会が発足した.杉村・西依とはその有力メンバーであり,月見も会員であった.しかし,大谷派の改革運動の対応をめぐって,次第に西依と月見との対立が経緯会内部で表面化し,この対立には近角常観も関っていたようである 38.さらに巣鴨教誨師事件が起こると,大日本仏教青年会の内部にも亀裂が生じていった.こうしたなかで,雑誌の刊行も頓挫していったのである.

1898年に,大日本仏教青年会の幹事は,廣田から近角常観に交替した.この年の9月4日,巣鴨監獄の典獄有馬四郎助は,真宗大谷派浅草別院に輪番の大草慧実を訪問し,巣鴨監獄の四名の真宗大谷派教誨師のうち3名を解職し,1名をキリスト教牧師に変更することを申し入れた.翌日,有馬は3名に辞職を勧告し,6日に真宗大谷派教誨師全員が辞表を提出し,キリスト教牧師の留岡幸助が新たに採用された.この措置に対して,真宗大谷派を中心として仏教側から大規模な抗議運動が起こったが,その一翼を担ったのが大日本仏教青年会であった.

同年9月30日,大日本仏教青年会は協議会を開き,真宗大谷派教誨師を解職した処置の不当性を世論に訴え,内務大臣等にも陳情し,各宗派・全国信徒と連携して反対運動を起こす方針を決議した.10月9日に「監獄教誨問題に就て世の公論に訴ふ」と題する檄文を発表し,19日には,柏原文太郎,本多辰次郎,近角常観の3名が,鈴木内務次官を訪ね意見を縷陳して有馬典獄の処分を求めた.10月末には,大日本仏教青年会幹事近角常観の名義で内務省に対し,有馬典獄の措置,政府非公認であるキリスト教への優遇措置,政府の宗教政策の是非について詰問する三通の質問書を提出した 39

10月29日には,東京の仏教信徒有志500余名が柳橋柳光亭に集結して「仏教徒国民同盟会」(1899年5月に大日本仏教徒同盟会と改称)の発会式を挙げた.当日,決議した「仏教徒国民同盟会綱領」には,仏教公認教の制度確立が目的の1つに掲げられ,さらに本部を大日本仏教青年会(東京市森川町1番地)に置き,「今回の運動は大日本仏教青年会の趣意に賛同し飽迄同働一致其意見を貫徹する事」も決議された 40

ちなみに,仏教徒国民同盟会本部と大日本仏教青年会の置かれた本郷森川町の土地家屋は,真宗大谷派新門の大谷光演(のちの22代法主)が,宗教法案反対運動推進の拠点として,近角に与えたものであった 41.すでに巣鴨教誨師事件の直後から,大谷派宗政トップの石川舜台は仏教公教運動の実施を示唆しており 42,仏教徒国民同盟会と大日本仏教青年会は,石川の意向に沿って公認教・宗教法案反対運動を展開することになったのである.

1898年12月10日,大日本仏教青年会は秋季大会を上野公園内三宜亭で開いた.仏教徒国民同盟会の機関誌『政教時報』の報じるところによれば,大会では,定例の釈尊降誕会,夏期講習会の開催の件に加えて,巣鴨教誨師問題の報告があり,政教問題の研究や会堂建設などの事業推進などについても協議されたという 43.一方,経緯会の事実上の機関誌であった『佛教』は,会議で近角より仏教徒国民同盟会への加入要請があったが,綱領に関して多少の議論があったことに言及している.その上で,「要するに,同会は敢て青年会と一体のものにあらざれば,唯個人として賛否を決すべきものにて,畢竟公認教に関する意見の如きも,各人をして一致せしむる能はずとの言多きを占めたりしか如し」 44と記している.仏教徒国民同盟会・公認教への対応をめぐって,近角ら青年会指導部と経緯会グループとの間に意見の相違のあったことがうかがえる.

また会議では,各宗派の本山に対して監獄教誨・軍隊布教・工場布教等についての改善を促すことを決議した 45.仏教公認教を妥当性を政府に訴えるためには,仏教の有用性を社会的にアピールする必要があり,大日本仏教青年会は,同月16日に各宗派の宗政当局者に対し,長文の書簡を送り,社会的事業に着手し,そのための布教者養成機関の設置を要請した 46.しかし,同年に仏教各宗協会は解散され,各宗派の協調路線が崩壊するなか,この要請の実現は望むべくもなかったのである 47

翌99年1月1日,仏教徒国民同盟会の機関誌『政教時報』が創刊され,同誌第2号には,大日本仏教青年会の広告が掲載された.それによれば,当時の大日本仏教青年会は,本部直轄の連絡機関を帝国大学,第一高等学校,東京専門学校,慶應義塾,哲学館,法学院,千葉第一高等学校医学部,曹洞宗大学林,浄土宗高等専門学校,音羽大学林等に置き,地方には,関西仏教青年会,第二高等学校道交会,第四高等学校内支部,第五高等学校内支部,愛知医学校内支部,北陸仏教青年会,大聖寺威徳青年会,大阪仏教壮年会等の支部を有していた 48

こうした青年仏教者の全国的連絡網を駆使して,公認教・宗教法案反対運動が展開されたのであったが,一方でこれへの批判も高まった.経緯会の機関誌『佛教』は,1899年1月号掲載の論説のなかで,「吾輩は未だ遽かに同盟会なるものに,全然雷同することを欲せざるものなり」 49いい,公認教運動への批判的見解を改めて示した.さらに翌年三月には,「我徒は総べて政治上の保護干渉を斥く」を綱領に掲げる「仏教清徒同志会」が結成された.経緯会の流れをくむ仏教清徒同志会は,政府の保護を求める大日本仏教青年会のあり方を機関誌『佛教』を通じて公然と批判するようになっていったのである 50

6. 近角常観指導体制と大日本仏教青年会の分裂

1899(明治32)年3月2九日,上野公園三宜亭で大日本仏教青年会の春期大会が開催された.約80名が参集し,近角常観幹事による開会の辞,地方の中学校に赴任することになった廣田一乗,水月哲英,武宮環への送別の辞があり,3名の答辞の後,議事に移った.議題は,第一に第8回釈尊降誕会の準備,第二に第8回夏季講習会についての報告,第三に会堂建築の件,第四に監獄問題運動の経過,第五に政教問題に関する研究会の件,第六に会計決算についてであった.予定の議題の後,幹事は青年会の事務拡張に対応して評議員を設ける必要あることを提案し,満場で承認した後に選挙に移り,柏原文太郎,秦敏之,真岡湛海,杉村廣太郎,櫻井義肇の5名が当選した.その後,夕食をともにし,釈尊降誕会で再会することを約し,談笑歓晤,和気藹々の間に散会した.4月8日に開催された第八回降誕会の祝賀は例年にまして,盛大なものであったという 51

ところが,この頃から公認教運動を推進する近角常観の強引な指導体制が問題化していったと考えられる.同年10月21日に上野三宜亭で開催された秋季大会では,六十余名が参集した.近角幹事の開会の挨拶,会計,降誕会・講習会の事業拡張,会堂問題などの報告の後,柏原文太郎が評議員全体の決議として,毎年幹事が交替する慣例では会の発展のために不利であり,また降誕会等の事業拡張のため幹事1名を増員することを提議した.この結果,近角は幹事に留任し,近角に近い真宗高田派出身の真岡堪海が幹事に就任した 52.これは近角が反対派の意見を封じ込め,会の主導体制を維持するために採った措置であったと推察される.

翌1900年2月には,仏教徒国民同盟会の反対運動が奏功して,政府の宗教法案が国会で否決となり,3月に仏教清徒同志会が結成された.同志会の結成には,近角の指導体制に対する不満が背景にあったと考えられる.少し後のことになるが,杉村廣太郎は,04年に同志会の機関誌『新佛教』のなかで,近角のこととを次のように評している.

近角常観君は気の人也,血の人也,火の人也.一たゞ道を求めんとすれば一切を抛下して他が狂人視するを顧みず一たび法を伝へんとする時は驀然猛進群小の異義を排し去りて傍,人なきが如し.君の為す所に熱情あり,生命あり,君が破鍋の如き声を放つて,鬼瓦の如き面を振つて,而して玉蜀黍の如き髯を掀して演壇に立つ時,必ずしも論理の明鬯あるなし,必ずしも弁舌に雄快あるなしと雖も,其の至誠を披歴して半点の修飾を加へざるところ,殆ど聴衆を魅して(目+夢)然酔へるが如くならしむるものなくんばあらず.

常観君を悪人となすが如きは天下之より誤れるの甚しきものはあらず.彼れ事務の才に疎く往々にして周密の注意を欠く.此が為に彼れの行ふ所に一種他に見るべからざる活気を見ると雖も,之と同時に屢々他の非議を蒙るべき間隙を存し来る.是れ彼れが彼を知らざる者の為に誤つて悪人視せらるゝ所以,彼の為には誠に惜しむべきのこととなす.現に見よ大日本仏教青年会が最も多く活動し最も多く攻撃せられたるは実に彼が同会幹事たりし時に非ずや,彼は監獄教誨師問題に於ても公認教問題に於ても唯自己確信底に向つてのみ驀進し,其の自己確信底が他の確信底の同じからざるべきことをも,青年会なる者が斯の如き愚なる示威運動に使用せらるべき性質のものに非ざることをも,又自己が幹事として会内に統一せられざる議論を会の決議なるかの如く揚言するの甚だ不法なるも全然―然り全然顧慮せざりしなり,此に於て彼によりて初めて世に知らるゝ青年会は,彼によりて遂に全く破壊せられ了んぬるに至りし也,彼の青年会に於ける左ながらマセドンに於けるアレキサンダーの如かりし也.(以下略) 53

杉村の舌鋒は,近角の側近であった真岡湛海にも向けられ,「頑冥不霊なる近角常観君の尻馬に乱ついて公認教問題の為に躍起運動をなしたるアホウの一人文学士真岡湛海君」 54と批評している.翌05年刊行の『新佛教』掲載の「教界人物短評」では,杉村以外のメンバーも近角の人物像を評している.そのなかには,東京仏教界で一番人を集めることができる人物などの比較的好評価もあるが,旧思想に新しい装いをした人,石川舜台のふんどしをかつぐ人,正直のような攻略家など,厳しい評価が並んでいる 55.いずれにせよ,近角の主導体制の過程で,大日本仏教青年会は内部分裂していったのは間違いないであろう.,

7. 大日本仏教青年会の衰退と求道会館

1900(明治33)年3月21日,大日本仏教青年会の春季大会が上野三宜亭で開かれ,会員70余名が参集した 56.この大会は,4月に洋行する近角常観の送別会も兼ねて行われた.近角の公認教運動での活動が認められて,真宗大谷派から欧州の宗教事情視察に派遣されることになったのである.

しかし,前年の政府の宗教法案で政教問題が一応終結して興奮が醒め,中心人物の近角が日本を去ると,急速に大日本仏教青年会は求心力を失い衰退していった.代わって,東京での新たな仏教潮流の牽引役は,仏教清徒同志会や仏教青年伝道会(02年発足)へと移っていった 57.近角の留守中,真岡堪海が幹事として会運営に当たり,1902年に和田鼎(真宗大谷派)に交替した.和田は,同年1月,青森県八甲田山で雪中行軍の際に遭難した陸軍第八師団歩兵第五連隊の死亡者の弔慰慈善音楽を3月に開催した 58.しかし,これ以外に目立った活動はなく,会堂建築計画も頓挫していった.春と秋の大会の出席者も,近角の洋行直後の1900年秋季には65名を数えたが,01年の春季には50余名,02年の春季には20余名と,急速に減少した 59

1902年3月,近角常観は真宗大谷派の命により急きょ帰国し,4月には石川舜台が財政破綻により失脚した 60.活動の基盤であった大日本仏教青年会は衰退し,石川の失脚によって真宗大谷派の支援を期待することもできなくなった.かつての仲間からの批判にさらされ煩悶を抱えた近角に残されたのは,わずかに本郷森川町の建物だけとなった.この地は,近角の洋行中に清沢満之が同志たちと居住し浩々洞と称していたが,6月に本郷東片町に移転し近角に明け渡した.近角はこの家屋で日曜講話をはじめるとともに,十数人の学生を寄宿させ共同生活を開始し,求道学舎と命名した 61

かつて大日本仏教青年会の幹事時代,近角が積極的に取り組んだ事業の1つに会堂建設があった.1903年10月,近角は,求道学舎に多くの聴衆が参集するようになり手狭となったことを受け,「求道会舘設立趣意書」を発表した 62.趣意書と同時に『政教時報』に発表した「求道会舘設立の趣旨を披瀝す」では,会館建設が大日本仏教青年会の幹事時代からの宿志であることを次にように述べている.

従来帝国の首都に於て仏教徒に属する会舘の設あることなく,為めに其不便を感ずること一日の事にあらず.回顧せは大日本仏教青年会の組織せられたるや,実に今より十二年前の事に属す.吾人当時学生間に於ける会盟を回想する毎に,一種森厳の霊気を感せずむはあらざる也.而して帝都の中央に於て会堂を建設して,以て清新なる気運の中枢に充てむと欲せしこと実に其宿望たりき.而して其計画屢々進みて,而して未だ実行の緒に就かず,事頗る遺憾に属す.然れども畢竟是其規模の大にして且つ仏教各派の統一を要せるが為めのみ.盖し他日大成の時機に期して可也 63

求道会舘の設立は,仏教青年者を糾合した一大会堂に向けた一里塚として構想されたものであった.また,心に深刻な煩悶を抱く近角は,学生を中心とする修養の場としたい趣旨を次のように述べている

特に近時最も学生青年の間に於て,其風潮を高め来りたるは内心に於ける安心修養の問題なりとす.吾人は胸中煩悶を抱ける同胞に対して実に全身の同情を寄するもの也.盖し煩悶なるものは煩悶せむと欲して煩悶するものにあらず,之を造らむと欲して遣り得べきものにあらず,之を治する唯独り仏陀慈愛の救済力あるのみ,仏陀霊光の摂取あるのみ 64

日露戦争後に多大の犠牲を払って,日本は「一等国」入りを果たしたが,その緊張と興奮から覚めると国民の精神は弛緩した.また厖大な戦費返済と軍事費・植民地経営のための増税が国民生活を圧迫し,社会への不満と不安とが広まった.都市では独占大企業が出現し,近代技術とそれにともなう労務体制が導入されて労使関係が動揺し,農村では都市での成功を夢見て離村向都の風潮が高まり農村の荒廃と共同体秩序の弱体化が進行した.大きな社会変動を迎え,思想的にも動揺が広がるなかで,近角の活動は,成功を夢見て上京した青年たちの心をとらえた.特に徳風会は,次第に近角に私淑するサークルと化していったようであり,『向陵誌』の「徳風会記事」には,当時のことが次のように記されている.

〔明治―筆者注〕四十五年.公開講演は会の経済に堪へざるを以てこれを見合はせ近角師につきて専ら歎異鈔の講話をきゝ弥陀矜哀の泪に咽び慈光の下に報恩の日暮を営む者多し四月以降は唯信鈔講話を初む,別に教授数藤斧三郎氏邸に於て毎月浩々洞諸先覚の法話催さるゝを以て会員中列席聴聞するものあり.(中略)近況 現在に於て徳風会が如何なる歩みをしてゐるか,それは今までと何等変る所はない.毎週1度求道会館に集まつて例会を開き,近角先生に歎異鈔の講話をして戴いてゐる 65

しかし,その一方で,各宗派の関係者を幅広く結集して社会的発信をするような活動は低調をきわめた.大日本仏教青年会の活動も夏期講習会と降誕会に限定され,しかもその活動も停滞した.1893年の第2回以来,毎年刊行されていた夏期講習会の講話録も1905年に下関開催のものを最後に刊行されなくなり 66,降誕会普及の主導的役割も仏教青年伝道会に移った.仏教青年伝道会は,1905年に第1回釈尊降誕会を行い,浅草公園の天幕内に花御堂を設けて300余名の聴衆を集め,以後会の恒例行事として降誕会の普及に大きな役割を果たした 67

求道会館建設についても,仏教界の大物が賛助者に名前を連ねたのにもかかわらず,建設資金が集まらず計画が難航し,趣意書発表から10年を要してようやく1915(大正4)年に落成にこぎ着けた.これに対し,仏教青年伝道会は,1907年4月に約3800名を集めて浅草本願寺で大日本仏教徒大会を開催して会堂建設計画を発表し,広く一般や各宗派関係者からの協賛を集めた.早くも,1911年6月には,総2階建ての会堂が浅草に落成し,インドから石造を将来して盛大な開堂式が挙行された 68

8. 仏教青年会への復興要望の世論

明治末から大正初年にかけて,かつて仏教革新運動の旗手であった仏教青年会の停滞を嘆き,その復活を願う意見が提起されるようになった.そのいくつかを紹介しよう.

1909(明治42)年7月,加藤咄堂は『中外日報』に「大日本仏教青年会に望む」と題する論説を寄稿した.加藤は,大日本仏教会が雑誌発行や会堂建設,各種伝道などの事業着手を放棄し,衰退に向かいつつあることを「悲しみむべき現象」と指摘した上で,仏教青年伝道会と比較して次のように述べている.

されど此の健全にして有力なる団体をして何時までの萎靡不振の状にあらしむるは教界の為めに喜ぶべきことにあらず.萎靡不振なりと雖も,大日本仏教青年会が十数有余年来に扶植し来れる勢力は,もとより浅草の一隅に運動せる青年伝道会の比にあらず,一たび起ちて天下に号令せば敢て多くの助力を他に借らず創立以来籍を会に置けるものゝみにても会堂を建設し寄宿舎を設くるの資を得るに難らず,よし是等有形の事業に出でずとも日本仏教徒を代表して世界運動を試みるは此の会最も恰当の地位にあらずや.今日に於て唯だ降誕会と講習会とに満足して其の発展を企画するなきは策の得たるものにあらじ.往日の青年今や中年となつて会の後援たり,事を成すの機今日より宜きはなし,敢えて幹部の奮起を促す 69

明治初年以来,有力居士のひとりとして通仏教的活動を展開してきた加藤は,各宗派の職業的青年僧侶で組織された仏教青年伝道会が,いくら着実な伝道成果を収めようとも,学生主体の仏教青年会の活動により強い期待を表明するのである 70.学生の運動に期待するほかないとは情けのない話であるが,それほど,宗派仏教に自浄機能はないと目されていたのである.

一方,早稲田教友会の草創期からのメンバーであった土屋極東(詮教)は,1912(大正元)年に『新佛教』に発表した「青年仏教徒の奮起を望む」で,大日本仏教青年会の不振の原因として,次の四点を挙げている.

大日本仏教青年会が今日の如く活気を失ふに至つた原因は,第一に動やもすると二三子が之を利用せんとして,一部の野心家に左右せられ,維持とか降誕会とか,夏期講習会等に,各団体から寄付金を徴集しながら,動もすると各団体に誠意を以て予め相当の協議を凝らすといふ精神がないことがあつた様にも思はれる.それが為か各団体の中に信用を失ふことゝなつた.第二には近来各宗にそれ私立大学とか中学とかが出来て,此等の団体が各所に分立して宗派内に跼蹐するに至つたので,各宗の先輩も自宗をのみ重くし,仏教青年全体の協和を図り,門外学生を指導するなどには,甚だ冷淡となつた様に思はれる.第三一時島地,大内,南條,村上等の耆宿が元気のあつた時代の様に,青年会の後援となるべき先輩に代る人物の乏しい為め,学生の感化し動かす力がない.会々活気のある新思想の仏教徒があつても,各宗派では之と協同して青年を誘掖しようという度量がない.第四に青年相手は老翁老媼の様に金銭上の利益がない,只消極的に宗派の維持や,各自の小事に岌々として,真に仏教の功徳を光被せしめようといふ,大慈悲心の微塵もない各宗派の眼中には,所詮不可得の希望である様に思はれる.蓋し将来はいざ知らず自今の所は確に事実である 71

第一の運営専断した一部の野心家とは,近角らのことを指していると推察される.また,第二に指摘する自派設立の学校重視の傾向は,公認教運動から宗教法反対運動に至る過程で,真宗大谷派と本願寺派との対立が多きく影響したと考えられる 72.宗派設立学校から高等中学校(高等学校)・帝国大学の進学が困難になっていったこともあって,1901年に大谷派が東京巣鴨に真宗大学を,翌02年に本願寺派が東京高輪に高輪仏教大学を開校させたことで,両派を含む青年仏教者の結束の弱体化に拍車をかけた.土屋は,第三に島地黙雷,大内青巒,南條文雄,村上専精らに代わるよき指導者がいないことをあげ,第四に宗派当局が仏教青年会の活動を支える適切な対応をしないことを指摘し,宗派利害を優先するあり方の問題点を次のように述べている.

仏教の印度に滅び支那に衰へたのは,宗派心の偏狭なる争から自滅を招致し,新時代と共に推移する大勇猛心活力がない為めであつた.日本の仏教も必ずしもその轍を践むものでないとは断言し得ぬ.我等の希望は各宗各派が此歴史的事実に鑑み,宗派心の偏見邪僻を打破し,各宗の小利害小異議の如きは,仏教の根本義より打算して融通無碍なるべきものなるを覚醒せんことを望むのである 73

日清・日露戦争後には,アジア進出などをにらんで宗派の利害意識が強まり,宗派間の対立も表面化した.土屋が嘆いたように,宗派利害を重視する風潮は仏教界全体をおおい,宗派の垣根を超えて結束する青年仏教者の活動は低迷した.

1913年発行の『新佛教』掲載の「奮起せよ青年仏教徒」も,既成宗派の旧態依然たる体質と腐敗を指摘した上で,青年仏教者への期待を次のように表明している.

仏教は今当に西する事も出来ず,東する事も出来ず,手足を切られし何かかの如く,切羽詰つて動きは取れず,逼迫瀕死の状態に陥ちて居る.此上は陣を改め隊を整へて向上進取するか,それとも自然に抛棄して時の葬るに委せ,堕落衰頽を傍観するか,此処一転機のかゝる所である.憂宗の士仏陀の恩徳を感ずるの人々は,その由つて来りし原因を研覈すると共に,一方に血路を開きて堂々の旗を掲ぐべきである.此の機運に乗じて大波浪を捲き起し大色彩を添加するの事業は,青年仏教徒を外にしては求む事が出来ない.(中略)各宗各自従来の宗派的偏見に拘泥して,同じ仏教の兄弟姉妹を嘲罵し,自大高居の邪見を固執するが如き旧思想を,青年迄も超越せぬ程に御目出度いであらうか.僕は斯様に進取の気に欠け,旧思想と情意投合する人物のみの集合とは考へ度く無い.青年の中には現代の仏教界の腐敗せる状態に慊たらずして悪罵毒嘲を放ち,此が復興を画し理想の境を描き高鳴りする胸を抱いて発奮する有為者のあるを信じて疑は無い 74

同じく『新佛教』の1915年6月号掲載の「仏教青年会の改造」は,キリスト教の青年会が,「各教派から超然独立して教派以外の別働的機関となり,而もそれが世界的組織の下に忠実に全基督教界連合機関の役割を尽して居る」と指摘する.そして,大日本仏教青年会もそうしたあり方を学ぶべきとして,次のように主張している.

僕は熱心に大日本仏教青年会の改造を主張する者である.宜しく各宗派以外に独立し,宗派に属せざる所謂有志家と,各宗派内新進気鋭の青年壮年者を中心とし――老人たりとも篤志の後援は勿論差閊へはない――否尊敬すべき老人達の助力を仰ぐ必要は大にあらう,而して宗派から独立しつゝ,全仏教界の連合機関となつて,常に新運動新活動の中堅となる様にしたい 75

9. 東京大学仏教青年会の結成と仏青の復活

仏教青年会の再生は,容易に実現することはなかったが,第一次世界大戦の終結後の1919(大正8)年に東大仏青が再結成されたことで,ようやく青年仏教者の宗派を超えた結集の機運が高まりはじめた.同年3月16日午後1時,東大仏青は,法科三十二番教室において紀平正美の「大乗は宗教なりや」,木村泰賢の「大乗的精神」と題する公開講演を開くとともに,以下の宣言を発表した.

仏教精神の自覚及び振興,此目的の下に私共志を同じくする者が起つことになりました,今や世界は曠古の戦乱を終つて其の文化的再建の時機に向つて居ります,日本も其の渦巻の中に在つて政治的に,社会的に,思想的に諸の困難に遭遇してゐます,如何にして此困難に打克ち,世界の新なる文化に貢献し得べきか,偉大なる歴史に醒めて悠久なる理想を追ふより外に途はないのであります,此点に於て私共は我が仏教精神の意義と価値とを力説せなばなりません,祖国の歴史上に於ける発展の精神的基礎は正に仏教に存したのであります,而して祖国をして世界文化の発展的運動に参加せしむるところのものも亦仏教に於て存することを,私共は信ずるのであります,今にして急なる務は我が国民,特に我が青年の間に仏教精神が自覚され,振興されることであります,惟ふに,従来の仏教界は余りに数多く宗派と僧侶との差別に囚はれて,教徒全体が手を携へ其の文化的使命の為めに統一的なる努力を試むることに欠けて居りました,これはまことに残念なことであると思ひます, 私共は純なる仏教精神を根拠として一つになりたい,さうして此尊い仏教精神,世界の光たるべき仏教精神を益々潔く自覚し,愈々普く振興したいと思ふのであります,そのために私共はまづ手近い我が東京帝国大学の全仏教徒に訴へるのであります,これが私共の起つた所以であります,私共は微力でありますが,併し私共の理想を実現するために精進したいと思ひます,私共は此為めの事業として先づ各種の集会を催して同志の結束を固くしたいと思ひますが,更に進んでは仏教叢書を出版して其趣旨を宣伝したい,其為めの会舘も設立したい,又仏教其者の研究及び仏教精神を基礎とする社会諸問題の解釈等に向つても力を尽したいと思ふのであります,どうぞ志を同じくせらるゝ諸君よ,私共の事業に参加し,援助せられんことを希望致します.

 大正八年三月             東京帝国大学仏教青年会

(仮事務所,本郷区追分町五六小野氏方) 76

前後して,早稲田の教友会,慶應の三田仏教会も再興され 77,東京諸学校の連絡体制の再構築が図られるようになった.同年3月,『中外日報』は,大日本仏教青年会は,東京帝国大学,早稲田大学,慶應義塾大学,第一高等学校,東洋大学,曹洞宗大学,宗教大学,日蓮宗大学,豊山大学,天台東部大学,高輪中学校と連絡をとり,同会の発展の新事業計画を策定し発表したことを報じている.具体的事業としては,次の12項目が列挙されている.

一,全国各大学専門学校高等学校中小学其他の教育に従事せる本会々員との連絡を計り学生及び其他一般青年のため教化事業を促進する事.

二,全国各教壇の同志と連携し国民の精神的革新運動を開始する事.

三,本会に出版部を設け機関雑誌及び時機相応の冊子を出版し宗費若しくは時々之を無代配布する事.

四,東京枢要の地に学生会館(倶楽部)及寄宿舎を設置し之を中心として学生及び一般人士の教化事業を起す事.

五,全国各学校の所在地に学生倶楽部及び寄宿舎を設置し本会々員之が指導に任ずべき事.

六,東京及び各地方に学生相談所を設け相互連絡就学者の便を計る事.

七,学生倶楽部を中心として「少年少女教会」を起し児童の宗教心発育に努むる事.

八,各会社工場病院其他に於ける精神的融和の道を講じ窮民救済並に其慰安に関する諸事業を開始する事.

九,本会に女子部を設け婦人問題並に其教育問題に就て諸般の事業を開始する事.

十,支那留学生に対する教化事業を開始すべく之に要する支那留学生倶楽部並に寄宿舎を設置し本会々員その衝に当る事.

十一,米国仏教青年会との連絡を取り順次万国仏教徒の連絡を計り本会の主義宣伝に関する諸事業を開始する事.

十二,右に要する英文雑誌の発行をなす事 78

新事業は,出版事業,学生会館・寄宿舎の経営,児童教化,女性教化,社会教化,国際交流など幅広い領域に及んでいる.第一次世界大戦後,仏教青年の関心は,もはや個人の内面の煩悶の解決に止まらず,国際問題,教育問題,婦人問題など広く社会へと向けられていったのである.こうして仏教青年会の運動は再び活気を取り戻した.仏教青年会主催の講演会には多くの聴衆が参集するようになり,学生の仏教への関心も高まりを見せるようになった 79

しかし一方で,社会的な諸問題への積極対応は,国策順応への道を突き進む危険性も内包するものでもあった.大正期には仏教連合会が組織され,諸宗派連携により,国家権力へ貢献する体制が整えられつつあった 80.後に仏教青年会連盟組織もその一翼を担うことになるのだが,当時は,こうした仏青の復興に対して,宗派側からの圧力があったようである.早稲田大学教友会の指導的に立場にあった木山十彰は,その当時のことを次のように回想している.

大正八年六月の明治会館に於ける帝,早,慶三大学仏青会の連合大会の開催に於て,各宗大学のある人々から非常なる反感を受けたこと(中略)これが各宗大学所属の人々が,我等の態度を以て,各宗派の大学をこの連合から疎外したといふ早合点からであつた.元来大日本仏青会の慫慂する主張なるものは,その運動の目標なるものが,各宗派大学のそれではないのである.何となれば各宗大学に於ては,夫れ自体に於て仏教運動は生長発達すべき可能性及び当然の義務を有するものであるとの見地から,同会の主力を僧侶専門でない普通大学の中に注ぎ,同時に,僧侶ならぬ在俗の青年が,仏青会の主要々素であるべき事を,社会一般に向つても知らしめ,仏教は僧侶の占有物ではないといふ事実を自覚せしめんとする目的であつたことを了解して貰つたならば,怒るどころの騒ぎではなく,仏教の普遍化の為に喜んで頂くべきだと思ふのである 81

一方,近角常観の主宰する徳風会は低迷しつつも存続していたようである.しかし,『向陵誌』の「徳風会記事」には次のように記されており,東大仏青の活発な運動を前にして衰退を余儀なくされていった様子がうかがえる.

大正九年より十三年に至る. 剱折れ矢竭きどす黒い紅蓮の焔は今や頼む唯一の根城を脅さんとしてゐる.右を向いても行きづまり.左をむいても行きづまり.怯へさいなまされた魂は,前途にぼんやりとした一縷の望を認めんでもないが,それすら心のまよひか目の錯覚か.漠然たるものである.これが近世の時代相である.すべてがゆきづまりでありすべてが落城の光景である.(中略)徳風会は其後も斯界の斗星近角常観氏を中心として,ゆかしく力強い念仏のグループをなしてゐる.講義としては毎週氏独特の歎異鈔の解釈があり時に学校にお招きしてこの道を一般に紹介せんとする便を計つてゐる 82

おわりに

1924(大正13)年10月,約8万円の経費を投じて,三層白亜の東京帝国大学仏青会館が本郷に竣工した.翌月2日に開館式が行われ,開館を拠点とした以下の新設事業計画が発表された.

(一)研究事業

一,宗教問題,社会問題,思想問題等に関する研究調査

二,信仰問題談話会(毎月)

(二)社会教化事業

一,講演会(毎日曜其他)二講習会,三図書発行,四宗教図書室経営,五補習教育,六,少年教化事業(日曜学校),七人事法律相談所設置,八学生寄宿舎の設置―当分会館の一部を之に充つ

(三)連絡事業

一,都下各仏教青年会との連絡

二,全国各大学及高等諸学仏教青年会との連絡

三,其他青年仏教徒諸団体との連絡 83

この計画にもとづいて仏青連合組織の再結成を呼び掛けた結果,同年12月,早稲田大学,曹洞宗大学(現駒澤大学),東洋大学,法政大学,慶應義塾大学,立正大学,日本大学,宗教大学,智山大学,明治大学,中央大学など,東京各大学の仏教青年会の連合組織である「東京各大学仏教青年会連盟」が組織された 84.ここに東京の青年仏教者の連合組織は復活を果たし,新たな仏教潮流を生む牽引役としての地位も取り戻した.しかし,明治期の大日本仏教青年会が学生たちの主体的行動によって発足したのに対し,大正期の仏教青年会連合は,高楠順次郎・小野清一郎(東京帝国大学),立花俊道(早稲田大学・駒澤大学),柴田一能(慶應義塾大学・立正大学)ら教員の指導を受けて成立したことも見落とすべきではないだろう.

その後,1930(昭和5)年に第1回汎太平洋仏教青年会大会が,ハワイ仏教青年会連盟の主宰によりホノルルで開催され,第2回大会が東京で開催されることが決まった.この大会開催の実動組織として,翌年には東京各大学仏教青年会連盟を中核とする「全日本仏教青年会連盟」が結成され,全国各地の仏青を傘下に置く巨大組織が成立し,仏青連合組織は新たな展開を迎えることになるのであるが,この点は稿を改めて発表する予定である 85

Footnotes

山崎茂人「徳風会記事」(第一高等学校寄宿寮編・発行『向陵誌』,1913年).なお,『向陵誌』は,1920年に第2版,25年に第3版,30年に第4版が刊行されている.いずれにも「徳風会記事」が収められ,本文中に引用した最初の箇所には変更が加えられていない.このほか,第一高等中学校友会発行の『校友会雑誌』雑報欄等にも,20号(1892年10月)掲載の雑報「徳風会」以降,徳風会関係記事を散見する.

「藤井宣正師略伝」(島地大等編『愛楳全集 : 藤井宣正遺稿』森江書店・鶏聲堂書店,1906年).ちなみに,近代的仏教結婚式は,1891年5月)の長野での事例を以ての嚆矢とする説もある(「仏教式の婚姻〔『法之雨』41編,1891年5月〕.藤井宣正の結婚式の模様は,『三寶叢誌』99編(1892年六月)掲載の「仏教新婚式」に詳しい.

「薗田宗恵略年譜及び著作目録」(薗田香勲編『薗田宗恵 米国開教日誌』法藏館,1974年).

常光浩然「竜口了信先生」(広島県立三次高等学校六十年史編集委員会編『巴峡六十年』広島県立三次広島県立三次高等学校同窓会「巴峡六十年」刊行会,1960年).

藤原正信「『反省会雑誌』とその周辺」(赤松徹眞偏『『反省会雑誌』とその周辺』法藏館,2018年).

「夏期講習会開設の沿革」第一高等中学校秦敏之(『反省雑誌』8年5号,1893〔明治26〕年5月).

近藤俊太郎「薗田宗恵「大洲鉄然宛書簡」明治期仏教青年会運動の一側面」(『本願寺史料研究所報』38号,2009年11月).この要請は奏功したようであり,同派法主より夏期講習会講師の斎藤聞精を通じて金五千疋が寄贈された(「本派本願寺,大法主猊下夏期学校に賜ふ」(『伝道新誌』5年8号,1892年8月).

当時の仏教とキリスト教の関係については,中西直樹『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』(法藏館,2019年)第2章を参照されたい.

「勝友会」「東京在学者へ御親諭」(1887年4月7日付『奇日信奉』).

『教学論集』五四編(1888年6月)所載の「勝友会員姓名録」(同年4月調).

「事物始原 帝大卒業の僧侶」(『明治仏教』2巻4号,1935年3月)によれば,井上円了が僧侶最初の帝国大学卒業生とされる.井上の経歴は「井上円了略年譜」(東洋大学井上円了記念学術センター編『井上円了選集』第25巻,学校法人東洋大学,2004年),清沢の経歴は大谷大学編『清沢満之全集』第9巻(岩波書店,2003年)所収「年譜」を参照.

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第2章.

中西直樹「海外宣教会とその時代」(『仏教国際ネットワークの源流―海外宣教会(一八八八年~一八九三年)の光と影―』三人社,2015年).

「老川略伝」(杉村広太郎編『老川遺稿』,仏教清徒同志会,1901年).

「普通教校人士」(『反省会雑誌』5年4号,1890年4月).

中西直樹「近代仏教青年会の興起とその実情」(中西直樹・近藤俊太郎編『令知会と明治仏教』(不二出版,2017年).

山本貫通編『雄氏東京演説』(吉水豊禅,1889年).

「仏教青年会」(1889年4月12日付『明教新誌』).

「高等中学校の徳風会」(『令知会雑誌』62号,1889年5月).

前掲の常光浩然「竜口了信先生」にも,龍口が円覚寺や建長寺に参禅していたことが記されている.

月輪正遵編・発行『日本仏教現勢史』(1892年).

註(10)参照.

廣田一乗編『明治二十六年夏期講習会 仏教講話集』(仏教学会,1893年)所載の「第二回夏期講習会名簿」による.

前掲『令知会と明治仏教』参照.

「夏期講習会開設の沿革」(『反省雑誌』8年5号,1893年5月).

「釈尊降誕会」(『三寶叢誌』97号,1892年4月).

「夏期学校の講師」(『反省雑誌』7年5号,1892年6月),「夏期学校」(1892年5月6日付『明教新誌』).

註(25)参照.

「東京諸学校仏教連合会」(『三寶叢誌』119号,1894年2月).

「日本仏教青年会発会式」(1894年4月10日付『明教新誌』).

「日本仏教青年会規則」(1894年5月2・4日付『京都新報』).

甲斐方策『日本仏教之新紀元』(仏教学会,1894年),前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第4章.

「日本仏教青年会」(1895年2月2日付『明教新誌』).

「大日本仏教青年会」(1895年2月18日付『明教新誌』).

「大日本仏教青年会の会員惣会」(1895年5月22付『明教新誌』).

「大日本仏教青年会の秋季総会」(1895年11月6日付『明教新誌』),「大日本仏教青年会の機関雑誌」(1896年1月20日付『明教新誌』).

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第5~7章.

中西直樹「西依一六と大谷派改革運動」(『龍谷史壇』147号,2019年2月).月見覚了ら大谷派改革運動グループと西依の対立には近角常観も関係し,これが近角の深刻な煩悶の原因の一つになっていたと推察される.近角は,その著『懺悔録』(森江書店,1905年)のなかで,1897年2月に大谷派改革運動から帰京した後のことを「朋友同志がどこなく仲の悪いのが苦になって」,「左に聴けば右に背き,甲に善くすれば乙に恨まれる,どうしても皆が一処に心が纏まらぬ」などと書き連ねている.おそらく,近角も経緯会に加入していたと考えられる.『佛教』147号(1899年2月)掲載の「経緯会を葬る」のなかに,「同盟伯珍らしくも至りて例の国民同盟の為に一大気焔を吐き出しければ,かねてより之に反対の連中矢庭に質問,攻撃と出かけ八方よりさんに責め立てたり,同盟伯気焔益々盛にして唾を飛ばし泡を吹いて負けまじと競ひ立ちたる」との記述がある.この「同盟伯」も,近角常観ことであったと考えられる.なお,近角に関しては,岩田文昭『近代仏教と青年―近角常観とその時代』(岩波書店,2014年)を参照.

「監獄教誨事件の顛末」(『反省雑誌』13年11号,1898年11月),安藤正純編・発行『巣鴨監教誨師紛擾顛末』(1898年),「大日本仏教青年会」(『政教時報』1号,1899年1月1日).

「仏教徒国民同盟会」(真宗大谷派『宗報』2号,1898年11月).

常光浩然『明治の仏教者』下(春秋社,1969年).

中西直樹『明治前期の大谷派教団』(法藏館,2018年)第2部参照.

「大日本仏教青年会秋季大会」(1898年12月14日付『明教新誌』),「大日本仏教青年会の近況」(『政教時報』1号,1899年1月1日).

「仏教青年大会」(『佛教』145号,1898年12月).

註(43)参照.

「大日本仏教青年会の書状」(1898年12月20・22日付『明教新誌』),「社会的伝道の必要」(『政教時報』2号,1899年1月15日).

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第5・6章.

「大日本仏教青年会広告」(『政教時報』2号,1899年1月15日).この広告には,会の趣意や会則も掲載されている.

「明治三十一年の仏教を回顧す」(『佛教』146号,1899年1月).

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第6章.

「大日本仏教青年会の春期大会」「釈尊降誕会」(『政教時報』8号,1899年4月15日).

「大日本仏教青年会秋季大会」(『政教時報』21号,1899年11月1日).

楚人冠「仏教青年評判記」(『新佛教』5巻2号,1904年2月).

楚人冠「仏教青年評判記」(『新仏教』5巻4号,1904年4月).

「教界人物短評 近角常観君」(『新仏教』6巻3号,1905年3月).『新佛教』10巻8号(1909年8月)掲載の「雑誌の今昔」でも,近角のことを「地方によりては今蓮如様などゝ有り難がる連中もありとかきけど,惜しい哉,逐次地方的となりて,帝都教壇にさしたる勢力なきこそみじめ千万」と酷評している.

「仏教青年会春季大会」(『政教時報』28号,1900年4月1日).

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第7章.

「仏教青年会慈善音楽会界」(『政教時報』75号,1902年3月15日).

「大日本仏教青年会秋季大会」(『政教時報』43号,1900年11月15日),「大日本仏教青年会春季大会」(『政教時報』51号,1901年3月15日),「仏教青年会春季大会」(『政教時報』76号,1902年4月1日).

前掲『明治前期の大谷派教団』.

前掲『近代仏教と青年―近角常観とその時代』,「報道一束」「広告」(『政教時報』88号,1902年10月1日).

「求道会舘設立趣意書」(『政教時報』105号,1903年10月28日).

「求道会舘設の趣旨を披瀝す」近角常観(『政教時報』105号,1903〔明治36〕年10月28日).

「求道会舘設の趣旨を披瀝す」近角常観(『政教時報』105号,1903〔明治36〕年10月28日).

山崎茂人「徳風会記事」(第一高等学校寄宿寮編・発行『向陵誌』,1920年).この記述は,1920年の第2版から追記されたものであり,25年の第3版,30年の第4版の記述にも踏襲されている.

現時点で確認できる夏期講習会の講話録は,泉道雄編『仏教講話録』(下関仏教講話会・大日本仏教青年会,1906年)が最後である.

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第7章,中西直樹「「花祭り」の起源」(2018年4月4日付『中外日報』).

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第7章,『青年伝道』92号(会堂落慶記念号),1911年6月,『青年伝道』94号(開堂式号),1911年8月.

「大日本仏教青年会に望む」(1909年7月7日付『中外日報』).

また加藤咄堂は,仏教青年伝道会が会堂落成の際の祝賀行事の「お祭り騒ぎ」を厳しく批判している(「青年仏教徒の妄動」(『新佛教』10巻7号,1909年7月).

「青年仏教徒の奮起を望む」土屋極東(『新佛教』13巻12号,1912年12月).

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第6章.

前掲「青年仏教徒の奮起を望む」.

「奮起せよ青年仏教徒」呑仏(『新仏教』14巻2号,1913年2月.

「仏教青年会の改造◁協同運動の促進▷」川村五峰(『新仏教』16巻6号,1915年6月).

「東京帝大仏教青年会」(1919年3月15日付『中外日報』).

「大学仏教青年会頻発」(1919年3月16日付『中外日報』).

「大日本仏教青年会奮起」(1919年3月18日付『中外日報』).

「三大学連合の仏青講演」(1919年6月6日付『中外日報』),「学生と仏教熱」(1919年6月13日付『中外日報』).

前掲『新仏教とは何であったか―近代仏教改革のゆくえ―』第8章.

「衷心を披瀝して 汎太平洋仏青会々議 出発代表員諸賢に訴ふ」大日本仏教会理事 木山十彰(1930年7月11・16・18日付『中外日報』).

山崎茂人「徳風会記事」(第一高等学校寄宿寮編・発行『向陵誌』,1925年).この記述は,1925年の第3版で追記されたものであり,30年の第4版でも踏襲されている.

「東京帝国大仏青会舘の開舘式と今後の新事業 活躍の新陣容全く成る」(1924年10月25日付『中外日報』).

「組織決定した東京各大学仏教青年会連盟 今月下旬創立大会」(1924年11月12日付『中外日報』),「仏陀成道の聖辰を卜し東京青年教徒の大烽火」(1924年12月10日付『中外日報』).

中西直樹「戦前期における仏教国際大会の変遷」(中西直樹・大澤広嗣編『論集 戦時下「日本仏教」の国際交流』(不二出版,2019年刊行予定).

 
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