仏教文化研究論集
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論文
1960年代における東京大学仏教青年会学生部の復興
問いとしての「仏教青年」
一色 大悟小林 遼太郎
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2022 年 21.22 巻 p. 3-39

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1. はじめに

東京帝国大学仏教青年会(現・東京大学仏教青年会)は,大正8(1919)年3月16日,東大教職員であった小野清一郎・白井成允・木村泰賢を中心に学生約50名が集まって結成された.その後,大正13(1924)年には木造モルタル塗り三階建の会館が落成し,昭和戦前期には機関誌『仏教文化』を発行・頒布することで全国の高校仏青の中心組織となった.さらに日曜講演・日曜学校・法律相談所・健康相談所・仏典講読会・さらには各種の出版事業等を実施し,昭和17(1942)年には文部大臣より財団法人としての設立許可をえた.しかしながら昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲によって活動の拠点であった会館を焼失したのちは,東京大学印度哲学研究室内の仮事務所に移転する.そこを拠点として講演会や出版等の事業を継続しえたものの,会員となりうる一般学生とのつながりが失われてしまう.その後,学生会員を広く募集し,学生による自主的活動が行われるようになったのは,東大印度哲学研究室の学部3年だった新井慧一(慧誉)により,昭和37(1962)年に学生部が再結成されてからである.昭和39(1964)年10月28日には,かつての会館跡地に日本信販ビルが竣工し,東大仏青の新会館は7階に入居した.新たな拠点を得た東大仏青は活動を拡大し,『仏教文化』の復刊や各種の講座が開催されることになった1

 本論文は,昭和37(1962)年から昭和45(1970)年まで,つまり1960年代における東大仏青学生部の復興を主題とし,そこでの学生会員たちの活動を描写するものである.東大仏青学生部のみならず,同時代の仏教青年会運動を対象とした研究は,管見によれば見いだされないものの2,それには近現代仏教史の観点から,また仏教学の観点からも考察されるべき意義があると考えられる.

 まず近現代仏教史の観点に立てば,東大仏青学生部の復興は,ユースカルチャーとしての「新しい仏教」運動の戦後受容を示す一事例として位置づけられうる.反省会・経緯会・新仏教徒同志会・新興仏教青年同盟といった,近代における「新しい仏教」を求める運動は,近代仏教研究の主軸の一つであるが,大谷栄一はこの運動を,仏教系青年知識人が伝統仏教に対して異議申し立てを行うユースカルチャーであり,雑誌という活字メディアの普及と読書人口の増加という社会背景を基盤とするものとして論じた(大谷[2009][2010]).また碧海[2011]も,大谷の議論を敷衍して大正期の仏教日曜学校を論じている.この研究文脈に,東大仏青を置くことも可能だろう.なぜならば,中西[2020]が論じたように,東大仏青もこの「新しい仏教」の系譜に属する団体であるからである.であるならば,本論文が扱う東大仏青学生部の戦後復興は,戦前のユースカルチャーたる東大仏青が戦後の学生によって受容され再生産された事例として,近代における仏教運動のその後を知らしめる意味を持つことになるだろう.

そして東大仏青学生部の復興を論じる際,重要な示唆をもたらすのは三浦[2019]の指摘である.三浦は,昭和戦前期の仏教青年会運動を関心の中心におきつつも,近代において新仏教が語られる際には,シニア層の仏教者(三浦の表現では「非青年」)から若者である青年仏教者への期待,あるいは理想をこめた視線が向けられていることを指摘し,旧仏教=保守/新仏教=革新という視点に修正を迫った.この三浦の指摘は「新しい仏教」という言説をとおして世代間の対話が行われていたことを明らかにすることで,大谷らのユースカルチャー論を補完するものである.同時に三浦の研究は,仏教が師資相承の伝統を保ってきたことを想起させる,仏教者集団としての仏教青年会の実像を照らし出した研究としても評価できよう.そして,この世代間対話という視角は,とりわけ1960年代の東大仏青を論じる際に極めて有効である.なぜならば東大仏青創立者の小野清一郎は,学生部復興当時も理事として在籍しており,彼を中心とした理事会・評議会によって財団法人としての東大仏青は運営されていた.それゆえ東大仏青学生部を復興しようとした学生会員たちとっては,シニア層の「仏教青年」たちの期待と彼らが担ってきた組織をいかに受容するかが問題となったからである.

そして,学生会員たちが東大仏青を受容するにあたり交わした議論は,第二の仏教学的観点からも思想的価値を認めることができる.というのも当時の学生会員たちが行った議論は,大略的にいえば「仏教青年」という近代的概念の現代的意義を問い直すものであった.それはつまり,「仏教者とは何か」という仏教に普遍的な論点を,60年代という時代において問うたに他ならないからである.なお本論文では,この学生会員たちが「仏教青年」を問うたことで生まれた問題圏を,新井慧一の表現3をもちいて〈東大仏青の諸問題〉と呼ぶ.たしかに,東大仏青学生部の規模は一学年で多くとも10名程度であったため,彼らの議論の影響力は限定的であるかもしれない.しかし豊富に現存する資料を用い,多面的にトレースすることが可能であるという点で,仏教思想研究においては稀有な事例としての意義を持つだろう.

このような近代仏教史的関心と仏教学的関心のもと,本論文では東大仏青学生部の復興をたどる.まず昭和37(1962)年度における東大仏青学生部の復興を,戦前からの東大仏青組織の継続の中に位置づけることにより,その「復興」が〈東大仏青の諸問題〉を胚胎するものだったことを論じる.次に,昭和39(1964)年度に転機を迎えた東大仏青において,学生会員たちが〈東大仏青の諸問題〉にいかに向き合ったかをみる.その後,昭和40–44(1965–69)年度において,学生会員たちが「仏教青年」とは何か,という問いにいかに取り組んだかを概観する.結論では昭和45(1970)年度以降における変化を確認するとともに,〈東大仏青の諸問題〉をめぐる議論の意義を考察する.

本研究にあたり,東大仏青学生部の機関誌『東大仏青ニュース』(以下,『仏ニ』と略称することがある)を中心資料として用いた4.それに加え,東大仏青に保管されていた当時のチラシや草稿,主事の記録,さらには当時在籍した学生会員の方々のインタビューを参照することで,東大仏青学生部の活動と,彼らの議論を一面的にならないようたどった.ただし,東大仏青の資料は現在なお整理中であり,主要な学生会員の中にもいまだインタビューを行いえていない方は多い.したがって本研究の内容は,今後の調査によって補足される可能性がある.しかしそうであっても,『東大仏青ニュース』を主資料とした情報をまとめている点で学術的意義をなお保つだろう.

2. 新井慧一による学生部復興の意義:昭和37–38(1962–63)年度 

 新井慧一によれば,昭和37(1962)年6月4日,彼が中心となって学生を集め,東京大学仏教青年会の第一回会員総会を東大本郷キャンパス内の山上会議所で開いた(『仏ニ』1, 9頁).この総会には30–40人が出席したという(『仏ニ』12・13,62頁).この新井による仏教青年の結集は,東大仏青学生部の復興として東大仏青の歴史に位置づけられている.ただし,学生部復興直後から参加した佐藤智水の回想(『九十年誌』45頁)などの証言によれば,昭和38(1963)年度までの学生部活動には,数人の学生会員が出席するにとどまっていたようである.

新井による東大仏青学生部の復興は,昭和39(1964)年度以降に学生会員たちが議論することになる〈東大仏青の諸問題〉そのものの出発点だったと言ってよいだろう.このことを理解するためには,新井によって行われた「東大仏青学生部の復興」が意味するところを,東大仏青の組織的特徴を前提として考察する必要がある.

 中西[2020:33–38頁]によれば,東京帝国大学仏教青年会を始めとする大正期以降に復興した大学仏青は,「出版事業,学生会館・寄宿舎の経営,児童教化,女性教化,社会教化,国際交流など幅広い領域に及」ぶ新事業を行う点に特色があるという.東大仏青の場合,このような事業を可能にした背景の一つは,会員制度に求めることができるだろう.このことは東大仏青成立以前に,第一高等学校と東京帝国大学とにまたがって存在していた徳風会という仏教青年会と比較することで明らかになる.徳風会は,大正前期の記事5によれば 「本会は前から会員制度を取ってゐない.従って誰でも随意に来て聴くことが出来る.(中略)そんな点に於ては極めて自由な寧ろ会と称することの出来ない程であって,その頗る非会合的な所が又本会の特色である」というように,有志の学生が自由参加する勉強会のようなものであったらしい.これに対し東大仏青は,遅くとも昭和2(1927)年6月に機関誌『仏教文化』を発刊したころには,会員制度にもとづいた,構成員が役割分化した組織を結成していた.これが,出版を始めとする新事業を支えるに足るほどの人的基盤となったことは疑いない.

そして東大仏青の組織構成は,『仏教文化』に記載された名簿や会則類によれば,東大現役学生を「正会員」に位置づけつつも,「役員」の中心となる「理事」を東大教官および東大OBらが担うものであった.機関誌『仏教文化』第5号(昭和3(1928)年11月1日発行)に記載された「本会略則」によると,正会員は「東京帝国大学学生」,特別会員は「同大学職員及び出身者」がなるものとされ6,その会員の互選によって,会の事業を行う「幹事」が選出されるという.他方「役員」は,「本会略則」中では規定されていないものの,同号の名簿によると理事長,理事,幹事長,幹事の四種で構成される.そして理事長と幹事長は藤岡勝二が兼務し,理事は木村泰賢と小野清一郎などの東大教官に,主事であった文学士稲葉茂を加えた構成であった.幹事は11人であり,講演・日曜学校・無料法律相談・雑誌という区分で業務を分担していたが,彼らは全員が学生会員であり,その多くは東大仏青が経営していた寄宿舎の住人であった.こののち,資金面で東大仏青を支える会として維持会が昭和4(1929)年に(『仏教文化』8),期成会が昭和11(1936)年に(『仏教文化』27)始動したが,それらの会員は東大仏青の賛助員(註6参照)あるいは特別会員に準じるとされた.また昭和7(1932)年までには理事と主事が別種の役員となったようである(『仏教文化』11).さらにこの後,昭和17(1942)年の財団法人化にともない,会員区分は正会員(東京帝国大学学生),特別会員(東京帝国大学職員及出身者),維持会員(本会の事業に賛成して規定の維持会費を負担する者)の三種となった(「東京帝国大学仏教青年会寄付行為」第23条).そして,このうち特別会員と維持会員の中から評議員が(同第15条),評議員の中から理事と監事が(同第14条),東大教授である理事の中から理事長が選出される(同第14条)と定められた(『仏教文化』54).なお,このときの役員名簿は,東大教員およびOBを中心とした顧問・理事長・理事・監事・評議員・主事と,学生幹事,事務員,雇員という構成であった.要するに,若干の制度的変遷を経ながらも,OB及び東大教官や支援者たちというシニアの仏教青年が資金面で支援しつつ,理事あるいは評議員として活動方針を決定する一方,主事(多くはOBであった)を中心として東大の現役学生がその方針に沿って実務を遂行する,という二本柱の体制が,戦前期の東大仏青では一貫してとられていた.

しかし昭和20(1945)年の東京大空襲で会館を焼失したのちは,東大教員を中心とした理事会・評議員会によって東大仏青の活動が存続されつつも,二本柱のうちの学生会員の体制が整わない状態であったようである.たしかに『九十年誌』(19–20頁)に記すように,当時の活動にも東大印度哲学研究室所属者を中心とした学生が関わっており,また昭和33(1958)年に一号のみ復刊した『仏教文化』の編集後記には「学生委員」の表記がある7.しかしながら,昭和21–38(1946–63)年度の主事を務めた白川良純によれば,仏青活動を盛んにするため各学部で宣伝活動を行うなどしたものの,「熱心な学生諸君がいるときは,会もさかんになったが,その人々が卒業してしまうと,またもとの木阿弥になるという状態を何度か繰返した」という(『仏ニ』1, 4頁).つまり理事・評議員・主事というシニア側から学生会員の集団を再編成しようとしたものの,その試みが軌道に乗らない状態が続いていたと言ってよいだろう.

このような組織構成と戦後の状況を勘案すれば,新井による学生部の復興とは,東大仏青の人的な二本柱の一つである学生会員集団を,シニア層主導ではなく学生主導により,世代交代を経ても持続するように再結集させたことだと理解できる.

 ただし新井が,必ずしも当初から東大仏青学生部を復興する意図を持っていなかったことには,注意しなければならない.彼はその経緯を,昭和43(1968)年に「贈る言葉―今後の東大仏青のために―」という一文の中で詳しく解説している(『仏ニ』12・13, 59–69頁).新井によると,昭和37(1962)年4月に東大3年生に学士入学する以前は,東大仏青の戦前の活動について耳にしたことがあったものの,その詳細を把握していなかった.そして入学後,当時の印哲研究室助手から東大仏青に積極的に関わる学生がいないことを聞き,主任教授であった中村元に代表者となることを依頼して,学生会員を募り,大学の学生部に仏教青年会を学内サークルとして登録し,同年6月に第一回総会を開いた.その後,新井は財団法人東京大学仏教青年会がなお存在していることを知り,自身が結成した仏教青年会は財団法人東大仏青の学生部に位置づけられることになったという.

 つまり新井は,東大仏青学生部を仏教に関心を持つ学生が集まる「サークル」として再興した.この集団が,戦前に各種の社会事業を遂行した財団法人東大仏青と性格を異にすることは明らかである.しかし新井によれば,学生部復興直後の昭和37–38(1962–63)年においては,その差異は新井らによって自覚されながらも,サークルと財団法人のいずれもが「一宗一派に偏するものではなく,広く仏教を学び実践する」という方針で一致していたため,問題とされなかった.そして財団法人の業務は当時なお在任していた白川主事が担当し,新井と学生部は中村元・早島鏡正を招いた読書会の他,「夏の合宿,駒場祭講演会,五月祭講演会,学生部総会,卒業生送別会,新入生歓迎会」という学生サークルとしての活動を行っていたという(『仏ニ』12・13, 63頁).

3. 学生会員による〈東大仏青の諸問題〉の自覚:昭和39(1964)年度

 このように昭和37–38年度において,財団法人東大仏青と学生サークル東大仏青(学生部)は性格を異にしながらも,その差異は問題とされることがなかった.しかし昭和39(1964)年度に至って,学生会員たちがこの両者の関係,そして自身が「仏教青年」であることの意味をめぐる〈東大仏青の諸問題〉を自覚し,盛んに議論するようになった.この年度から〈東大仏青の諸問題〉が議論の俎上に登った背景として,同年の東大仏青に起こった二つの変化が挙げられる.

第一は,冒頭に述べたように,財団法人東京大学仏教青年会が本郷三丁目の日本信販ビルに新会館を獲得し,本格的な活動を再開したことである.この会館再建の前後から,財団法人東大仏青は,新たな活動に向けた体制づくりを進めている.『東大仏青ニュース』第1号(昭和39(1964)年9月1日発行)では白川良順から新井慧一への主事交代が報告される.そして第3号(昭和40(1965)年3月1日発行)では,会員制度の改正が通知された.それによると,従来の正会員(東大生)・準会員(学外者)という二区分のうち準会員を三分し,「他大学生」である「準会員」,「東大OB及び現役」である「特別会員」,「一般人」である「維持会員」とするという.つまり東大仏青の会員制度は,財団法人化前とほぼ同一の四区分からなるものへと復すことになった.

さらに同じく『東大仏青ニュース』第3号では,東大仏青内の各種委員会として,理事会・評議会・運営委員会・実行委員会・学生委員会・駒場支部委員会があることを列挙している.この内の理事会と評議会は,財団法人化以来の理事・評議員を受け継ぐものであり,学生委員会と駒場支部委員会は東大本郷キャンパスと駒場キャンパスで活動していた学生部の委員会とみなすことができる.そしてこの両者の間におかれた運営委員会は「中村元理事を委員長とし,東大現役教授,助教授よりなり,仏青の実際の運営をな」す委員会とされ,また実行委員会は運営委員と学生委員がともに出席する,「仏青の活動の中心」と解説されている(同20頁).

この運営体制のもと,学生が分担する形で,各種の部会が東大仏青内に設立されていった.昭和39(1964)年9月の時点では,講演会活動などのほかに読書会・坐禅・野外見学・社会実践・仏教美術という5グループが存在していたことを確認できる(『仏ニ』1, 6頁).

総括すれば,この時期に東大仏青の会員制度・運営体制・事業の各側面において,教員及びOBらが理事会・評議会等を構成し,正会員である学生が事業を実行するという二本柱の体制が復活した.この二本柱体制の復活が,関係者の意識に財団法人東大仏青の活動再開を強く印象づけたことは,想像に難くない.しかし同時に,財団法人としての東大仏青と学生サークルとしての学生部との差異を浮き彫りにした.このことは,『東大仏青ニュース』の各所において,学生会員たちの口々から財団法人への違和感が繰り返し語られることからも明らかである.他方,理事であった小野清一郎も,学生会員との融和に期待を込めつつ,会館再建当時を振り返って次のように述べている.

「会館の復興は果たして東大仏青のためによかったのか,どうか.評価はいろいろであり得ると思う.私自身若干の疑問を持っている.会館復興の記念会8が行われた頃,学生諸君の間に一種の違和感が生じたかのように,私にはおもわれた.戦前のことを知らない諸君にとっては無理もないことである.(後略)」(『仏教文化(再復刊)』1, 1969,19頁)

東大仏青に起こった第二の変化は,昭和39(1964)年度の会員勧誘活動に成功し,会員が急増したことである.そしてその新入会員は,出家と在家という出自,あるいは仏教に対する関心の所在が異なっていた.このような会員の多様性によって,各種の研究会を分担する体制が生まれたことは想像に難くないが,他方で,それは東大仏青学生部という一つの「サークル」がどのように一体性を保つか,また学生会員がいかにして相互理解に至るか,という課題を浮かび上がらせることになった.たとえば当時駒場支部委員長だった斉藤和子は「駒場の仏教青年会」(『仏ニ』1, 6–7頁)という一文において,駒場支部が昨年の3人から17人へと拡大したことを報告しつつ,「ここに至って「サークルとしての『性格又は目的』の欠如」という壁にぶつかってしまった」と言い,そのような状況でも活動する駒場委員たちに理解を求めている.また昭和38(1963)年度に学生委員長であった佐藤智水は,「思いつくままに」(『仏ニ』1, 11–15頁)という一文の中で会員の急増にふれ,会員の多様性について「一つに仏青に対する要望でも,学問的探求を望む人,修行道中心を望む人,民衆の中に入って仏法の弘軌を望む人等々のように異っています.又一番やっかいなことは現在の日本仏教のあり方に対する考え方の相異でしょう」という.

このような財団法人東大仏青と学生部との間の違和感,そして学生部内部での相互理解の不足という二重の課題を前に,学生会員たちは解決の道を模索した.かくして,東大仏青の歴史の中で,「仏教青年」という概念がもっとも真摯に問われた時代の一つ9が開始したのである.それを象徴するのが当時の合宿で行われた討論だろう.1960年代には毎年の夏合宿において〈東大仏青の諸問題〉を主題とする討論の時間枠が設けられ10,そこでの議論は学生部の運営にフィードバックされ続けた.なかでも,昭和39(1964)年度入学者が学生部運営の中心である学部3年になった昭和41(1966)年には,〈東大仏青の諸問題〉をめぐる議論が活発化したようである.その状況を振り返って,『東大仏青ニュース』第10号(昭和41(1966)年12月1日発行)の編集後記は,「仏青を思う人々が様々な意見をこれほどまでぶつけあった年もなかったのではないか」(同35頁)と評している.

さて〈東大仏青の諸問題〉が自覚された昭和39年度の段階において,学生会員が試みたのは,日本の仏教あるいは「仏教青年」という概念そのものをより深く理解することで,戦前から続く東大仏青を担うことの意味を明らかにすることだったようである.昭和39(1964)年6月に学生委員長に就任した細野太平は「仏青とその抱負」(『仏ニ』1, 4–6頁)において,対社会的な実践活動よりも仏教理解を重視する路線を打ち出している.彼は当時の仏青が「岐路」にあると位置づけつつ,東大仏青会則中の「仏教精神の自覚及び振興を図る」という一文に注目する.そしてその一文の意味は,「勿論利他行を否定するものではないが,重点はむしろ仏青が仏教を理解し自己修練を目指す人々の集りであり,又同時に社会の凡ゆる人々をして仏教を正しく理解せしめ,仏教的精神に依って生活を営ましめようとする意図を持っていることを示している」と結論づけた.

この知的理解重視路線のもと,学生会員たちは秋学期の活動を行っていった.まず『東大仏青ニュース』第1号が記録するところによれば,昭和39(1964)年7月14–19日にかけて高野山合宿を行った.そして17日夜には「仏青のあり方」についての討論会を行ったという.さらに同号(7–8頁)では,関真興が駒場祭での企画として,「現代仏教の本質と動態」という研究発表を行うことに,高野山合宿での議論を経て決定したという.これは,先述した東大仏青における「現在の日本仏教のあり方に対する考え方の相異」を背景とした研究企画だと解釈できよう.

さらに,『東大仏青ニュース』第3号(昭和40(1965)年3月1日発行)に掲載された大谷光真「大拙先生訪問記」(15–16頁)も注目に値する.これによると,昭和40(1965)年1月17日,駒場の学生会員7人が94歳になる鈴木大拙を松ヶ岡文庫に訪ねた際,学生会員と大拙の間で「民主主義」,「天皇敬愛」,現代人が「心の底から通じ合うことが出来ない」ことについて議論が交わされたという.彼ら学生会員が,いわば最長老の「仏教青年」である大拙に対し,戦前の思想(「天皇敬愛」)と戦後の政治体制(「民主主義」),さらには若者同志の相互理解を問うた背景には,戦前から続く財団法人東大仏青と戦後に再結成された学生部の関係,さらには会員の多様性という問題を意識しつつ,東大仏青の現状を理解しようとした意図が読み取れよう.

4. 仏教青年として「実践」すること:昭和40–44(1965–69)年度

昭和39(1964)年度以降,東大仏青学生部は学生が主催する複数の研究会を活動の柱とする,むしろ仏教への学究を中心とした活動を継続していた.しかしそうであっても,60年安保から東大闘争に至る時代であった当時,大学自治・大学の民主化・ベトナム戦争などに係る事件が相次いで起こる中,東大仏青の学生会員もそれらとは無縁ではいられなかった11

このような世情のもと,学生会員たちは,「仏教青年」としての活動を実践しなければならない,という使命感をもっていたようである.そのため『東大仏青ニュース』には,仏教青年としての「実践」に関する提案記事がたびたび投稿されている.しかしながら,彼らが仏教青年としての実践を論じる場合には「実践」の意味が問われ,意見の一致を見ないこともしばしばであった.というのも,すでに述べたように当時の仏青会員は,在家と出家,宗派の別,既存教団あるいは新興教団に対する姿勢,あるいは仏教に対する関心などが異なっていた.そのため学生部内で一つの仏教青年像を描くことができない,あるいは曖昧にせざるをえない状態であったからである.

そのため当時の東大仏青主事および学生委員長を中心に,仏教青年としての共通基盤を築き,対話の糸口を探る試みが繰り返された.しかしながら,試みが繰り返されたということ自体が示すように,それらによってもなお,彼らが一つの仏教青年像を結ぶは至らなかったようである.むしろ,仏教青年としての一体感を生むのとは逆の結果になることもあった.昭和40(1965)年11月6日に開かれた学生部総会では,来年度に「新入生歓迎坐禅会」を設置することが議決された(『仏ニ』6, 28頁).これは「会員のつながりを深め,また会としての筋を一本通す為,新入生をはじめ会員を対象に半強制的な坐禅会を開催しよう」というものであり,反対意見も出たものの試験的に行うことになったという.この坐禅会は昭和41年4月に実施されたのだが,並行して坐禅会に異を唱える学生会員が新入生対象の紹介講演会を開催したため,学生部内に対立が生じてしまう.講演会の開催経緯を報告する大山誠一「一会員の主張」(『仏ニ』7, 13–16頁)は,坐禅会を開催した会員の「仏道には実践が伴わねばならない.実践とは即ち坐禅であるという理論」に反対であり,むしろ「日常の倫理面での実践を心掛けるべき」だと主張している.

このような状況ではあったが,学生たちの仏教青年たることの探求が,仏教者としての信仰,および慈悲という仏教の共通基盤にゆきつき,活動が実現した例が見られないわけではない.その具体例には,東大仏青会館への仏像安置と「ベトナムに慈悲の手を」運動が挙げられる12

 新井慧一によれば,新会館の建築中から仏像をおきたいという希望が起こっていたという(『仏ニ』12・13, 68頁).しかしながら『会議録(昭和41年度~)』13によれば,新会館落成から二年弱を経た昭和41(1966)年6月1日の理事会・評議員会でも,仏像の様式などについて理事から案が出されてはいるものの,実現に向けた具体的な計画が議論されるに至っていない.この状況は,昭和41(1966)年末から翌年初頭にかけて学生会員の間で仏像安置の機運がたかまったことで変化を見せる.

この機運を代表する発言をしたのは,正木晴彦であった.正木は仏教青年としての実践のあり方について「信仰無き仏青は空虚である」という一文を『東大仏青ニュース』第10号(31–34頁)で発表した.正木は,理論と実践は同時になされるべきとする立場をとり,現在の東大仏青の活動を「印哲の補習授業的性格と,趣味の会の要素が混在」したもの,会館を「株式会社東大仏青の事務所」のようだと言い表し,「物足りない」と評する.そして,当時行われていた学生部規約の改正運動に言及して,「細かい規約の問題」ではなく,趣味の会か研究会か求道的集いかという「会の本質的性格」を議論すべきと主張する.そのうえで仏青が寺院ではないことを確認しつつも,信仰不在の状況を嘆き,「実現可能と思われる一つの提案」として仏像の安置と街頭募金活動を呼びかけた.

こののち昭和42(1967)年2月18日には早島鏡正を講師とする公開講座「仏教における価値の探求」が行われるが,講演後に行われた懇談会で仏像安置が学生から提案され,その実現に向けて活動することになった(『仏ニ』11, 19頁).そして直後の3月8日に開かれた運営委員会では,仏像の購入資金,安置する仏の種類,供養の導師についての議論が開始される(『会議録(昭和41年度~)』).さらに理事会と評議会の審議を経て,京都の仏師である田中文也(定朝40代目)が作成した釈迦仏と阿弥陀仏の像が,昭和43(1968)年6月17日に東大仏青会館へ迎えられることになった(『仏ニ』15, 23頁).

 「ベトナムに慈悲の手を」運動は,ベトナム戦争の孤児に物資を送る支援をしようという運動であり,吉田主事時代の昭和43–44(1968–69)年度に行われた.それ以前の東大仏青においても,ベトナム戦争に関心が寄せられていたようであり,『東大仏青ニュース』中にも関連記事が散見される14.しかしながら,実際の支援運動が開始したのは,当時駒澤大学大学院に在学していた「勝利良順(ビクトリア)」というアメリカ人禅僧が,昭和43(1968)年9月28日の学生部総会に仏教徒社会福祉センター(サイゴン)発行のパンフレットを手に現れたことを契機とする15.ビクトリア氏が東大仏青を訪れたのは,「東大仏青が中心となり,仏教界の諸勢力を糾合して,ベトナム援助の運動を起こしてはどうか.」(芦田献之記事『仏ニ』20, 20頁)と提案するためであった.当時,学生会員であった山本昇氏によれば,この「勝利良順(ビクトリア)」は,ベトナム戦争の良心的忌避義務として来日し,キリスト教布教をしていたが,仏教の平和主義を信じて禅僧になった人物である.東大仏青に現れる前からベトナム反戦運動を日本で行っていたという16

このビクトリアの要請に対し,芦田献之・江尻正義・清水俊明・谷口恒明・山本昇(あいうえお順)らの駒場学生会員が賛同し,活動が始まった.彼らは,先行してベトナム支援活動を行っていた各界の人物から話を聞いた後,当初,ビクトリアの提案のとおり,東大以外の学生等を巻き込んで「ベトナムに慈悲の手を!仏教青年会」を設立しようとした.しかしながら十分な賛同者が得られなかったため,翌44(1969)年1月8-10日に銀座・新宿・渋谷・本郷三丁目で街頭募金を行うことで実際の活動を始めた17.この募金活動も確たる成果が得られなかったのだが,街頭募金の開催場所を浅草寺境内に移し,さらにはチャリティー・ダンスパーティー開催18や都内寺院の協力による募金箱設置によって合計約42万円を集めることに成功した19.その後,東大仏青からベトナムに代表を派遣して援助物資を届けることが決定する.代表派遣のために追加で行われた募金活動を経て,昭和44(1969)年8月10日から9月1日にかけて代表として芦田献之・谷口恒明がベトナムを訪問し20,重量400キロに及ぶ支援物資を届けた.

『東大仏青ニュース』第20号に学生会員たちが寄せた,「ベトナムに慈悲の手を」運動の感想文をみると,当時の社会情勢のなかで自身が仏教徒たることの回答として,自らの活動を位置づけようとしたさまが読み取れる.たとえば「ベトナムに慈悲の手を」運動の中心となった芦田は,東大闘争のなかで仏教を捨てることができない自己の内面を告白しつつ,「私自身の完全性への志向として」(『仏ニ』20, 25頁)活動を継続したという.しかしそれは,仏教のもと語られる単なる理想論ではなかった.運動自体は成功裏に終わりながら,自己の有限性に直面することから生まれた苦闘とでもいうべきものによって,彼らの発言は彩られている.というのも,ベトナム戦争とその戦禍に起因するベトナム人の苦境は,いうまでもなく一個人や一団体がすべてを引き受け,完全な解決をもたらすことができるものではない.また,当時の日本は直接戦火にさらされているわけではなく,したがって大半の日本人にとってベトナムの惨状はニュース映像として伝えられるものでしかなかった.たしかにそのような状況のなかでも,ベトナムの平和を願い,支援のために可能な限りの活動をすることは有意味であるし,当時の学生会員もその意義を否定したわけではなかった.そうであっても彼らが活動を振り返る時,「「ベトナム」が「ベトナム」で「私」が「私」でしかありえなかった」(江尻正義記事『仏ニ』20, 48頁)のであって,仏教の慈悲という遠大な理想におよぶものではないことを実感し,自身の無力を痛感することになったのである.

5. 結

 昭和44(1969)年後半以降,〈東大仏青の諸問題〉は急速に語られなくなってゆく.同年9月に復刊された機関誌『仏教文化』第1号の編集後記では,おそらく編者である吉田主事が〈東大仏青の諸問題〉に言及し,これを経験したことで東大仏青会員は「方向を見定めることが出来た」といい,『仏教文化』をその問題を解決する手段の一つとして位置づけている.これが終結宣言であったのか,『仏教文化』誌上で〈東大仏青の諸問題〉が語られることはなかった.また『東大仏青ニュース』は,昭和45(1970)年度にも第21号,22号が発行されているが,そこでも〈東大仏青の諸問題〉が論じられることはなかった.とりわけ第21号は「新入生特集号」と題され,新入生勧誘を意図して東大仏青を紹介することに全誌面が割かれているが,このような試みが同誌で行われたのはこれが初めてである.〈東大仏青の諸問題〉が語られなくなった理由は定かではないが,それは1960年代という「政治の季節」が終わったから,あるいは〈東大仏青の諸問題〉を自覚した昭和39年度入学者が卒業したのち徐々に学生部への影響がうすれたからかもしれない. 

 いずれにせよ,ある一世代の若者によって共有された文化であったという点で,〈東大仏青の諸問題〉はユースカルチャーたるものであった.ただそれは,前時代の単純な否定であったのでもなく,若者たちの内部だけで完結したものでもなかった.彼らは,前世代の「仏教青年」たちから「仏教青年」という概念を継承し,自身が置かれた環境と人間関係の中で「仏教青年」たることとは何かを問うたのであり,また彼らの活動が実現するときには,前世代の「仏教青年」たちとの協働を必要とした.つまり彼らは,過去に由来し当時の日本を構成した現実の只中にあって,その現実を問うたのである.小熊[2009:第1, 2章.特に153頁]は,1960年代の学生運動の背景を論じる中で,当時を経済成長によって日本が先進国の大衆消費社会へと変貌していった時期とみなし,学生たちが急速に失われつつある過去の日本に対しノスタルジーと嫌悪というアンビバレントな心情をもちつつ,アイデンティティの危機を迎えていたことを指摘している.東大仏青の学生会員たちの議論と活動は,この時代潮流の一部をなすとともに,近代の「新しい仏教」という運動の,戦後におけるあり方の一端を示しているだろう.

付録1:東京大学仏教青年会年表(昭和37–45年)(『東大仏青ニュース』『九十年誌』『仏教文化』による)

年月日 出来事 関係者
理事・評議員・主事 学生部 その他
昭和37年6月4日 学生部総会により学生部再建 学生部 (新井慧一)
昭和39年4月 新井慧一,主事就任 新井慧一
4月23日 紹介講演会 (講師:中村元) 中村元
5月中頃

五月祭

(講師:本多顕彰,

小野清一郎)

本多顕彰,小野清一郎
6月 浅草寺清水谷黍順先生訪問 学生部 清水谷黍順
6月4日 総会 新井慧一 学生部 (細野太平)
6月11日 夏季合宿計画委員始動 夏季合宿計画委員 (山口祐弘, 森篤史) 
6月中頃 駒場祭企画委員 始動

駒場祭企画

委員 (関真興)

7月1日 仏青駒場支部, 学友会に加盟申請書提出 駒場支部 学友会係 (遠藤克彦)
7月2日 新潟地震救援カンパ 社会実践 グループ
7月14日~19日 高野山夏季合宿 学生部
9月1日 東大仏青ニュース創刊 編集委員会(鈴木隆彦)
9月8日 読書会開始 (『正法眼蔵随聞記』) 読書会 グループ
9月29日 秋季総会 早島鏡正, 白川良純 学生部
10月1日 読書会開始 (『法華経』) 読書会 グループ
10月3日 読書会開始 (『ゴータマブッダ』) 読書会 グループ
10月4日 深大寺参詣 野外見学 グループ
10月5日 読書会開始 (『般若心経』) 読書会 グループ
10月28日 仏青会館完成 理事等 (宮本正尊,小野清一郎)
11月14日~15日

第15回駒場祭 (講師:今東光,

玉木康四郎. その他展示会開催)

仏青

駒場支部

今東光,

玉木康四郎

11月19日 第15回駒場祭 反省会 白川良純

駒場支部

仏青会員

12月 駒場支部 研究発表会開始

駒場支部

仏青会員 (関真興)

12月1日 東大仏青ニュース第2号発行 編集委員会(鈴木隆彦)
12月6日 鎌倉見学 仏教美術 グループ 古田紹欽
12月12日 冬季総会 学生部
昭和40年1月14日 昭和40年度事業計画学生準備会 学生部 (正会員)
1月17日 駒場支部研究発表会 鈴木大拙訪問 駒場支部 仏青会員 (大谷光真) 鈴木大拙
2月3日 昭和40年度事業計画学生準備会 学生部 (正会員)
2月10日 第1回運営委員会

運営委員 (中村元),

実行委員

(平川彰)

学生委員
2月27日 五月祭準備会 学生部
2月27日 第1回実行委員会(仮称)

平川彰, 早島鏡正,

斎藤忍随,

護雅夫

学生委員

五名

2月27日 卒業生送別会 卒業生を中心とする会員
3月1日 東大仏青ニュース第3号発行 編集委員会(鈴木隆彦)
4月15日 紹介講演会 (講師:中村元) 駒場支部?
5月8日

会館披露

記念講演会

理事

(宮本正尊,小野清一郎

中村元等)

5月22日〜23日 五月祭 学生部
6月以前

学生部が理事会に要望書を提出.

平川彰と会談.

平川彰 学生部
6月1日 東大仏青ニュース第4号発行 編集委員会(鈴木隆彦)
6月7日 総会.新委員長や役員の選出 学生部
6月12日

第1回公開講座

(講師:山本達郎)

山本達郎
7月3日

第2回公開講座

(講師:玉木康四郎)

玉木康四郎
7月17日〜21日 比叡山夏季合宿 学生部
9月1日 東大仏青ニュース第5号発行 編集委員会(斉藤和子)
9月15日 仏青禅会開始 野扖孝純
9月18日

第3回公開講座

(講師:武藤義一)

武藤義一
9月30日 八宗綱要研究会 開始 平川彰
10月6日 浄土思想研究会 開始 早島鏡正
10月9日 第4回公開講座 (講師:笠原一男) 笠原一男
11月6日 学生部総会.学生部会員総会の定期実施や新入生歓迎坐禅会実施の決定 学生部
11月7日 仏教美術研究会 茨城見学 仏教美術 研究会
11月13日〜14日

駒場祭 (講師:友松円諦,

仁戸田六三郎.

展示の出展)

仏青

駒場支部

友松円諦, 仁戸田六三郎
11月13日 第5回公開講座 (講師:唐木順三) 唐木順三
11月14日 駒場祭反省会

仏青

駒場支部

11月30日 仏教美術研究会第6回会合 仏教美術 研究会
12月1日 東大仏青ニュース第6号発行 編集委員会(斉藤和子)
12月11日 第6回公開講座 (講師:増谷文雄) 増谷文雄
12月11日 仏青会員懇親会 小野清一郎 中村元 円地与四松 平川彰 護雅夫 早島鏡正 学生会員
昭和41年1月22日 第7回公開講座 (講師:戸田義雄) 戸田義雄
2月12日 第8回公開講座 (講師:紀野一義) 紀野一義
3月5日 卒業生送別会 学生会員
4月 新入生歓迎参禅会 学生部 (山口祐弘) 白川孝純
4月15日 紹介講演会 (講師:武藤義一) 学生部 (大山誠一) 武藤義一
4月15日 第9回公開講座 (講師:平川彰) 平川彰
5月 新年度研究会 活動開始 各研究会

講師

(平川彰,

金倉円照ら)

5月1日 東大仏青ニュース第7号発行 編集委員会(斉藤和子)
5月22日 五月祭 第10回公開講座(講師:若杉慧, 笠原一男. 研究パンフレット配布) 学生部

若杉慧,

笠原一男

6月 大学の宗教サークル調査 新井慧一
6月1日 東大仏青ニュース第8号発行 編集委員 (関真興)
6月18日 第11回公開講座(講師:黛敏郎) 黛敏郎
6月27日〜7月2日 海外宗教学術展 中村元
7月2日 第12回公開講座(講師:中村元) 中村元
7月2日 総会.規約改正委員会の発足 早島鏡正 学生部
7月15日〜19日 身延山夏季合宿 学生部, 合宿委員 (沢本武)
9月1日 東大仏青ニュース第9号 発行 編集委員会(関真興)
9月17日 第13回公開講座(講師:岡本太郎) 岡本太郎
10月15日 第14回公開講座(講師:勝又俊教) 勝又俊教
11月12日〜13日

駒場祭

第15回公開講座(講師:増谷文雄)

増谷文雄
12月1日 東大仏青ニュース第10号 発行 編集委員会(関真興)
12月17日 第16回公開講座(講師:橋本凝胤) 橋本凝胤
1月28日 第17回公開講座(講師:護雅夫) 護雅夫
2月18日 第18回公開講座(講師:早島鏡正) 早島鏡正
昭和42年4月1日 東大仏青ニュース第11号発行 編集委員 (大前寿一, 関真興, 納塚信水)
4月15日 紹介講演会 (講師:猪飼道夫) 猪飼道夫
4月22日 第19回公開講座(講師:水野弘元) 水野弘元
5月1日 佐藤智水,主事就任 佐藤智水
5月11日 紹介講演会 (講師:中村元) 中村元
5月13日 総会 学生部
5月20日

五月祭

第20回公開講座

(講師:石田瑞麿,

関口眞大)

学生部

石田瑞麿,

関口眞大

6月10日 第21回公開講座(講師:猪飼道夫) 猪飼道夫
7月8日

第22回公開講座

(講師:久保田正文)

久保田正文
9月23日 第23回公開講座(講師:中根千枝) 中根千枝
10月21日 第24回公開講座(講師:山内恭彦) 山内恭彦
11月12日

駒場祭

第25回公開講座(講師:水野弘元,

小野清一郎)

学生部

水野弘元,

小野清一郎

12月16日

第26回公開講座

(講師:藤島亥治郎)

藤島亥治郎
昭和43年1月20日 第27回公開講座(講師:谷川徹三) 谷川徹三
2月10日 第28回公開講座(講師:酒井得元) 酒井得元
3月 総会.要望のない研究会の休止決定 学生部
4月 吉田宏晢,主事就任 吉田宏晢
4月 仏青談話会 学生会員
4月1日 東大仏青ニュース第12・13合併号発行 編集委員会(関真興)
4月20日 第29回公開講座(講師:鎌田茂雄) 東大仏青 鎌田茂雄
4月28日〜30日

新入生歓迎春季

坐禅会

学生部?
5月24日 東大仏青ニュース第14号発行 編集委員会(小笠原憲一)
5月25日

五月祭

第30回公開講座 (講師:斎藤忍随,

玉木康四郎,

三枝充悳)

学生部

斎藤忍随

玉木康四郎三枝充悳

6月14日

紹介講演会

(講師:平川彰)

平川彰
6月17日 仏像が仏青会館に到着 理事会等
6月22日 第31回公開講座(講師:花山信勝) 花山信勝
7月13日 第32回公開講座(講師:紀野一義) 紀野一義
7月20日 東大仏青ニュース第15号発行 編集委員会(小笠原憲一)
7月21日〜24日 比叡山夏季合宿 学生部, 合宿委員 (福井曙史)
9月28日 第33回公開講座(講師:平川彰) 平川彰
9月28日 学生部総会 学生部 ヴィクトリア良潤
10月 〈ベトナム〉組織 〈ベトナム〉
10月2日 〈ベトナム〉談話会 〈ベトナム〉
10月8日 東大仏青ニュース第16号発行 編集委員会(小笠原憲一)
10月9日 〈ベトナム〉歓談会 〈ベトナム〉
10月26日 第34回公開講座(講師:持田栄一) 東大仏青 持田栄一
10月26日 横井覚道氏訪問 〈ベトナム〉 横井覚道
10月30日

〈ベトナム〉

第一回連絡会

〈ベトナム〉
10月31日 石田玲子,雄氏訪問 〈ベトナム〉

石田玲子,

石田雄

11月 〈東大仏青学生部〉設立 〈東大仏青学生部〉
11月2日

ベトナム留学生

レバンバ氏訪問

〈ベトナム〉 レバンバ
11月2日

〈ベトナム〉

第二回連絡会

〈ベトナム〉
11月4日 大泉教会横田勲氏訪問 〈ベトナム〉 横田勲
11月13日 小泉時子氏面談 〈ベトナム〉 小泉時子
11月24日

駒場祭

(第35回公開講座

(講師:横井覚道)

〈東大仏青学生部〉, 〈ベトナム〉 横井覚道
12月7日

第36回公開講座 成道会

(講師:中村元)

中村元

昭和44年1月8日

〜10日

〈ベトナム〉

街頭募金

〈ベトナム〉
1月18日 講演会(講師:チッチ・ニヤット・チェン) 〈ベトナム〉 チッチ・ニヤット・チェン
1月25日 第37回公開講座(講師:石田瑞麿) 石田瑞麿
2月15日

第38回公開講座 涅槃会

(講師:金岡秀友)

金岡秀友
2月15日

総会.

学生部規約の採択

〈東大仏青学生部〉
3月29日 東大仏青ニュース第17号発行 編集委員会(小笠原憲一)
4月

〈ベトナム〉,

東大仏青学生部の活動に追加

〈ベトナム〉
4月〜8月 浅草寺街頭募金 〈ベトナム〉
4月26日 第39回公開講座(講師:古田紹欽) 古田紹欽
東大仏青ニュース第18号発行 編集委員会
5月2日 カウンセリング研究会合宿 カウンセリング研究会

佐治守夫,

林仁忠

5月17日 第40回公開講座(講師:杉靖三郎) 東大仏青 杉靖三郎
6月6日 ダンスパーティ 〈ベトナム〉
6月28日 第41回公開講座(講師:松野純孝) 松野純孝
7月 総会 〈東大仏青学生部〉
7月12日 第42回公開講座(講師:勝又俊教) 勝又俊教

7月5日

~8月3日

寺院での募金箱設置運動 〈ベトナム〉
8月 ベトナム渡航手続 早島鏡正 〈ベトナム〉

金子一秋,葛原繁

(日新運輸),

小川正路

(ベトナム航空支配人)

8月4日

〜7日

正福寺夏季合宿 〈東大仏青学生部〉
8月10日

ベトナム派遣団,

ベトナムに到着

〈ベトナム〉 (谷口恒明, 芦田献之, 椎尾潤)
8月10日〜13日 サイゴン滞在 〈ベトナム〉 (谷口恒明, 芦田献之, 椎尾潤)
8月14日〜15日 ダナン滞在 〈ベトナム〉 (谷口恒明, 芦田献之, 椎尾潤)
8月16日 クアン・ナム滞在 〈ベトナム〉 (谷口恒明, 芦田献之, 椎尾潤)
8月17日〜19日 ユエ滞在 〈ベトナム〉 (谷口恒明, 芦田献之, 椎尾潤)

クアン・テイ,

ダナン滞在

〈ベトナム〉 (谷口恒明, 芦田献之, 椎尾潤)
サイゴン滞在 〈ベトナム〉 (谷口恒明, 芦田献之, 椎尾潤)
東大仏青ニュース第19号発行 編集委員会(田中教照, 清水俊明, 江尻正義)
9月

仏教教育研究会

活動開始

仏教教育 研究会
9月 仏教文化第1号第1巻(復刊) 東大仏青
9月1日

ベトナムより

日本に帰国

9月20日 第43回公開講座(講師:坂本幸男) 坂本幸男
10月25日 第44回公開講座(講師:田村芳朗) 田村芳朗
11月25日 第45回公開講座(講師:藤謙敬) 藤謙敬
12月7日

第46回公開講座 成道会 50周年記念懇親会

(講師:秋月龍珉)

秋月龍珉
昭和45年1月31日 第47回公開講座(講師:水上勉) 水上勉
2月15日

第48回公開講座・涅槃会

(講師:橋本凝胤)

橋本凝胤
4月1日 東大仏青ニュース第20号(臨時増刊 ベトナム援助活動特集号)発行 編集委員会(谷口恒明)
4月20日 東大仏青ニュース第21号(新入生特集号)発行 編集委員会(芦田献之)
4月21日

紹介講演会

(講師:梅原猛)

梅原猛
5月5日 仏教文化第1号第2巻発行 東大仏青
5月31日 五月祭(講師:宮本正尊,玉木康四郎) 〈東大仏青学生部〉

宮本正尊,

玉木康四郎

6月13日

公開講座

(講師:石津照璽)

石津照璽
7月4日 紹介講演会(講師:平川彰,増谷文雄)

平川彰,

増谷文雄

7月25日〜28日 福島県学生部夏季合宿 〈東大仏青学生部〉
9月26日

公開講座

(講師:苧坂光龍)

苧坂光龍
10月25日 仏教文化第2巻第1号発行 東大仏青
11月15日 東大仏青ニュース第22号発行 編集委員会

凡例

〈ベトナム〉 ベトナムに慈悲の手を運動

〈東大仏青学生部〉 昭和43(1968)年11月13日に東大仏青に所属する東大学部学生が新たに結成した学生部(『仏ニ』17, 20–22頁)

付録2:学生委員長・駒場支部委員長・『東大仏青ニュース』編集委員一覧(『東大仏青ニュース』による)

歴代学生委員長
新井慧一 昭和37年頃
佐藤智水 昭和38年頃
細野太平 昭和39年頃
太田輝人 昭和40年6月7日就任
麻倉恵俊 昭和41年夏頃就任
関真興 昭和42年春頃就任
福井曙史 昭和43年3月就任
谷口恒明 昭和44年頃就任?

駒場支部委員長
不明 昭和39年11月19日まで
斉藤和子 昭和39年11月19日から
多幾山梵 昭和40年11月以降就任
小笠原憲一 昭和41年11月頃就任

仏青ニュース編集委員
鈴木隆彦 創刊号(昭和39年9月1日)から 第4号(昭和40年6月1日)まで
斉藤和子 第5号(昭和40年9月1日)から 第7号(昭和41年5月1日)まで
関真興 第8号(昭和41年6月1日)から 第12・13号(昭和43年4月1日)まで
小笠原憲一 第14号(昭和43年5月24日)から 第17号(昭和44年3月29日)まで
田中教照・清水俊明・江尻正義 第19号(昭和44年頃)
谷口恒明 第20号(昭和45年4月1日)
芦田献之 第21号(昭和45年4月20日)
※第18号,第22号の編集者は不明
Acknowledgments

本論文は,東京大学仏教青年会100年史プロジェクトの成果の一部である.執筆にあたり,当該プロジェクトを推進している佐藤もな東大仏青主事および小谷昂久学術部長には,東大仏青会館に保管されている資料の閲覧やインタビュー実施など,様々な点で配慮していただいた.またインタビューに応じてくださった東大仏青の先輩方は,当時のご経験を共有してくださった.特に江尻正義氏・谷口恒明氏・山本昇氏には,「ベトナムに慈悲の手を」運動について詳細なご教示を賜った.ここにお礼申し上げる.なお本論文の本論部分は一色が,末尾の附録は小林が執筆を担当した.

Footnotes

1 源川宗城ほか編『財団法人東京大学仏教青年会創立九十周年記念誌』(東京大学仏教青年会,2010年.以下,『九十年誌』)参照.ただし,同書は昭和39(1964)年の会館再建後に学生部が復興したとみなすが,ここでは昭和37(1962)年を学生部再結成の年とした.その根拠は本論文参照.

2 小室[1987]は戦後の仏教青年会運動に言及するものの,その記述は基本的に昭和36(1966)年で終わっている(同39頁).

3 『東大仏青ニュース』12・13, 65頁.

4 同誌は昭和39(1964)年9月から昭和45(1970)年11月にかけて,合計22号が発行された.

5 『向陵誌 駒場編』(一高同窓会,1984年)1109頁

6 東大関係者以外でも,会員以外のステータスによって入会は可能であった.「本学以外の一般学生生徒」は一般会友,「学生以外の一般の者」は特別会友,「本会の趣旨に賛同しその事業を援助するもの」は賛助員として位置づけられるという.

7 戦後,東京大学厚生部が毎年発行している冊子『本郷の学生生活』でも,新井による学生部復興以前から仏教青年会は学生団体として登録され続けている.

8 引用者註:昭和40(1965)年5月8日に東京大学仏教青年会会館披露講演会が催された(『仏ニ』4,3頁).

9 戦前期の『仏教文化』でも,戦時体制が取られる以前は,仏青及び仏教青年のあり方が主要なテーマの一つであった.ただし,本論文はそれらの論調を比較することを目的とするものではないので,ここでは立ち入らない.なお〈東大仏青の諸問題〉は,「仏教青年」とは何かという論点のみならず,それに関連して,東大仏青のありかた,財団と学生部の関係,学生の主体性,現代における仏教のあり方などの論点も含む.しかし本論文では,議論の中心となる「仏教青年」概念に関わる議論のみを扱った.他の論点についても興味深い議論が行われるが,それは別の機会に論じたい.

10 『東大仏青ニュース』各号に掲載された合宿報告によれば,各年度の夏合宿における討論テーマは以下の通り.昭和39(1964)年度「仏青のあり方」,昭和40(1965)年度「青年と仏教」,昭和41(1966)年度「仏青活動の体質」,昭和42(1967)年度(不明),昭和43(1968)年度(不明,ただし「秋以降の仏青の活動について」議論したという(『仏ニ』16, 5頁)),昭和44(1969)年度「東大仏青の活動の問題をさぐる」.特に昭和44年度は東大闘争直後という世情の影響のためか,三泊四日の合宿全体がこのテーマのもとで討論を行うものであり,各回2時間で計4回の討論時間がもたれたという(『仏ニ』19, 23頁).

11 たとえば昭和40(1965)年度の『東大仏青ニュース』は,大学自治に関しての記事がみられるほか(『仏ニ』4, 34–37頁.同6, 11–14頁),仏教と仏教外社会との関係あるいはマルキシズムへの関心を示す動きがあったことを示している(『仏ニ』5, 2–12頁.同6, 22頁).

12 この他に,学生会員からの提案が実現されたものとして,昭和43(1968)年から編纂された『現代人の仏教聖典』(東京大学仏教青年会,1973)がある. ただし活動の中心が大学院生会員であり,学生部の活動と直接関係しないためここでは略す.

13 本資料は,昭和41(1966)年6月1日から昭和43(1968)年11月14日年までの理事会・評議会・運営委員会の議事を大学ノートに記した備忘録であり,東大仏青事務室に所蔵されている.表紙には新井慧一の名が記されているが,年度ごとに筆跡が交代していることから,新井・佐藤・吉田という当時の歴代主事が書き継いだものだと思われる.

14 たとえば,『仏ニ』7, 23頁,同8, 8頁,同11, 16頁.

15 以下,「ベトナムに慈悲の手を」運動については,特記しない限り『東大仏青ニュース』第20号(ベトナム援助活動特集号)の記述に基づいた.

16 山本氏は,近年になって「勝利良順」が,『禅と戦争』の著者であるブライアン・ビクトリアだと知ったという.なおブライアン・アンドレー・ビクトリア著,エイミー・ルイーズ・ツジモト訳『禅と戦争』(新装版)(えにし書房, 2015)「プロローグ」は,ビクトリア氏がベトナム反戦運動へ参加していることを,1970年春,東京永平寺別院の監院であった丹羽廉芳に叱咤されるところから始まる.

17 『東大仏青ニュース』第20号冒頭には,東大仏青の外郭団体としてはじまった「ベトナムに慈悲の手を」運動は,昭和44年4月から学生部の活動に位置づけられたという.しかし当時学生会員だった谷口恒明氏は,街頭募金実施を警察に届け出るころには,「ベトナムに慈悲の手を」運動が東大仏青学生部の活動として公式に位置づけられた可能性がある,と記憶している.

なお東大安田講堂に機動隊が突入した昭和44(1969)年1月18日には,「ベトナムに慈悲の手を」運動の一環として,東大仏青会館に「南ベトナム統一仏教協会,社会福祉センターのディレクター」であったチッチ・ニャット・チェンを招き,「ベトナムと世界平和」と題する講演会が行われた(『仏ニ』17,25頁および29–31頁).

18 昭和44(1969)年6月6日,サンケイ小ホールにて開催された.江尻氏によれば,秋満義孝クインテットを招いたという.

19 山本氏によれば,ブライアン氏はこれらの活動に直接関わらなかったものの,自身が托鉢場所としていた浅草寺を紹介し,ダンスパーティー開催を助言するなど,東大仏青の学生会員を支えた.またベトナムへの支援物資輸送にあたって,ベトナム側との交渉を担当したという.

20 加えて椎尾順が,私費で同行した.

References
 
© 一般財団法人 東京大学仏教青年会
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