仏教文化研究論集
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論文
近代日本仏教史のなかの瓜生岩
島薗 進
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2023 年 23 巻 p. 3-30

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はじめに

瓜生岩(一八二九~一八九七)は明治維新期から仏教界と協力しつつ,主に現代の福島県で慈善事業に取り組んだ人物である.近代仏教史で取り上げられることはあまりない人物であるが,近代社会事業史,社会福祉史では欠かせない役割を与えられてきている.

筆者はこうした人物を近代仏教史においても取り上げ,適切な位置を与える必要があると考えている.とりわけ,公共空間における仏教の歴史,社会参加仏教の歴史(拙著『日本仏教の社会倫理―正法を生きる』岩波現代文庫,二〇二二年,初刊,二〇一三年,参照)という点からは,その先駆形態として位置づけることに大きな意義がある.この稿では,そのような問題意識にそって瓜生岩の足跡を振り返ってみたい. 瓜生岩についてはその生涯と福祉活動への関わりを述べた書物や文章がある.ここでは,主に奥寺龍渓『瓜生岩子 全』(四恩瓜生会出版部,一九一一年),遠藤伊雄・福島愛育園百年史編集委員会編『社会福祉法人 福島愛育園百年史』(福島愛育園,一九九三年),井川裕覚『近代日本の仏教と福祉―公共性と社会倫理の視点から』(法蔵館,二〇二三年)によって,その生涯と活動,またその思想をたどり,それらの歴史的意義について考えていきたい.

1.東京養育院の瓜生岩

東京養育院の概略

瓜生岩は,一八二九(文政一二)年,陸奥国耶麻郡熱塩村(現・福島県喜多方市)で会津藩領の商家(油商)を営む渡辺利左衛門とりえの長女として誕生した.戊辰戦争による会津若松の落城の際,敵味方の区別なく傷病兵や窮民の看護にあたったと伝えられている.その後,会津藩の武士の子弟の養育と授産指導,旧会津藩校である日新館の再興,堕胎・間引き対策などに取り組み,次第に孤児・貧窮者などへと対象を広げ.災害支援の経験などを通じて,福島県だけでなく広く近代日本の福祉活動の先導者として知られるようになった.

地方で活動していた瓜生岩が世によく知られるようになるについては,東京養育院に招かれたということが一つの要因である(内藤二郎「安達憲忠と瓜生岩子」『駒大経営研究』第一〇巻第二・三号,一九七九年三月).東京養育院というのは,一八七二年に成立した児童収容施設で近代日本の経済界の巨人ともいうべき渋沢栄一(一八四〇〜一九三一)がその事務長や院長を務め,生涯それに関わり続けたものである.東京養育院は一八七〇年,ロシア皇太子の来日にあたって東京市内の乞食や浮浪者を取り締まり,旧加賀藩邸あとに設けた収容所に入れたのが始まりである.その財源は,江戸の町人の自治組織である町会所の七分積金を使って行った.七分積金というのは,松平定信が一七九〇年に定めたもので,町の自治費用を集める町入用の一部を積み立て将来に備えた備蓄や貧困者救済の費用としたものだ.つまり,江戸時代の町内自治にすでに含まれていた福祉的な要素を使って,貧者救済の施設にしたものだ.

その後,町会所が改組され,一八七二年に東京会議所の管轄となった.渋沢は東京会議所の会頭となり,七分積金の管理をしなくてはならない立場になったことから,東京養育院の運営にも関わることになったのだった.だが,渋沢は社会事業に関心をもつ素地があった.その一つは,一八六七年から一八六八年にかけて徳川昭武に随行して渡仏した際,フランスの社会事業について見聞することがあったことだ(鹿島茂『渋沢栄一』文藝春秋,二〇一一年,文庫版,下 論語編,二〇一三年).たとえば,学校の寄宿舎の経費や病院の費用が実業家や篤志家の寄付によって賄われていることに注目していた.

瓜生岩が東京養育院にもたらしたもの

渋沢が関わり始めた当時の東京養育院には,子ども,老衰者,病人,精神障害者などがいた.渋沢はその中でも子どもの養育に力を入れた.一八九二年に幹事となった安達憲忠(一八五七〜一九三〇)がこれに応じて人材を求め,見出したのが会津喜多方出身の瓜生岩だった.山名敦子「事前・社会事業と実業の接点」(渋沢研究会編『公益の追求者・渋沢栄一』山川出版社,一九九九年)は東京での瓜生岩についてこう記している.

岩子は一日中快活に働き,衣類のボロを引き出し,子どもらを周囲に座らせて紐をさき,ぞうり作りの手伝いをさせている.面白そうに何か頻りに話しているが会津弁なので子どもらも保母も半分ぐらいしか分からない様子である.しかし,二ヶ月も経過すること,児童は大人とも会話し,笑い,快活になるなどの変化がみられたという.

瓜生岩は地元の人々が強く望んだため,七ヶ月ほど滞在したのち帰郷した.とはいえ,この短い在任期間中に瓜生岩は大きな成果をあげたようである.安達憲忠が『九恵』という雑誌の一四六号(一九一三年四月二五日)に記した「瓜生岩の事」という文章があり,内藤二郎(前掲)は「憲忠は頻繁に幼童室にいって,岩のこの活動ぶりを注意深く見守っていた」として,安達の記述を長く引用している.

同女は朝から晩まで,一分間でも休止する事なく働いて居る.第一に衣服の襤褸を引きずり出して,之を細かく割いて縄をなうて,草履を作るのである.それを自分でせっせ,せっせとやって,子どもを周囲に輪を作らせて,子どもに見せて,小さいのには襤褸を割かせる.大きなのには,縄をなわせると云う風で,斯る仕事をしながら,なにか頻りと面白そうに話をして居らるるが,前にも云うとおり,会津弁であるから予に分らぬばかりでなく,保姆の連中にも,子どもにも,お婆さんの話は半分位しか分らぬ様子であるが,お婆さんは委細構わず手工をしながら話して居る.併し大体は分かる.(二一二ページ)

眼前に光景が浮かぶような叙述だが,ここまでですでに瓜生岩の人格的な感化力がうかがわれる.一八九二年三月,東京養育院の保姆長に任じられた瓜生岩はわずか七ヶ月で東京養育院を去っている.その間に瓜生岩がもたらしたものをほめる叙述は多い.

内藤二郎の「安達憲忠と瓜生岩子」では,光田健輔「故安達憲忠先生を憶ふ」(『連帯時報』第一七巻第四号,一九三七年四月)のなかに「泣かぬ子笑はぬ子と瓜生岩子女子」と題された項があるとし,以下のように紹介されている.

この中で憲忠が「幹事となって養育院児童室に来て見ると,竹澤という子供 1 人がよく笑いよく語るのみで,あとの 100 人は悉く啞の如く無表情で誠におとなしい.室の障子も数ヶ月前に貼り代へたというに一間も破れたものなき有様,これは畢竟保姆の余りにきびしきによるのであろうと気がついた.(そこで)福島時代に知った会津の女傑瓜生岩子女子の事であった.先生は直ちに書を飛ばして礼を厚うして招聘した.女来りて僅かに一ヶ月,笑い語らざる子なきに至った.」と述べられている.(二一二〜二一三ページ)

このように瓜生岩は東京養育院に人間性あふれる養育活動をもたらしたようだ.

2.福島県内での活動の拡充

有力者に働きかける瓜生岩

安達憲忠や安達に岩を紹介した菅原道明は,自分たちが一八九〇年に東京養育院に瓜生岩を紹介した手柄を誇っているが,実はその前にすでに瓜生岩は東京でもある程度,知られる人物になっていた.近代日本の仏教と社会事業の関係の先駆的存在である瓜生岩が,政財官界の有力者とどういう関係をもっていたかについて,よく見ておく必要がある.

瓜生岩はすでに一八八〇年には,山吉盛典,一八八二年には三島通庸,一八八五年には赤司欽一,一八八六年には折田平内と,福島県令・福島県知事の交代毎に褒賞を受けていた.とくに三島通庸県令の時代(一八八二〜一八八三年)に,その知遇を受けて名前がよく知られるようになったという(奥寺龍渓『瓜生岩子 全』).

瓜生岩は政治家や官僚や有力者に訴えて貧民救済の活動を広げようとしたのだが,この積極性が,有能で民権家からは疎まれもした三島通庸(一八三五〜一八八八)の考えと合致するところがあった.奥寺は自由民権運動の抑圧者としても知られる三島の政治を,次のように描いている.

三島氏は剛毅果断の人.民に文明を布き,富を為すには交通の便を開くを急務と信じ,山形県に福島県に県民囂々の反対を排し,あくまでもその主張を貫徹し,巨額の地方税を課し,道路の開鑿に全力を注ぎ,土木県令の称を得たほど.一揆さへも起す反抗を受けたが,今は却て氏の先見に服し,その偉功を称し,地方民もその恩沢に浴して居る.(一五二ページ)

福島県内での活動の拡充

こうした三島らとの関係で,瓜生岩は自らの社会事業を広げていく力を得ていった.三島は八四年には内務省の土木局長,八五年には警視総監の地位についているが,その三島を頼って岩は上京し,有力者の支援を求めたのだった.

岩子は貧困者に常業を授ける方法を有司にも説き,実業家にも奨めた.貧民救育事業,労働者保険事業,殖民事業,出獄人保護事業,是等は政府に保護を仰ぐべき事業として,岩子は臆面もなく東京まで出て奔走した.岩子が知遇を得た三島通庸は警視総監として東京に居り,朝野の交りも広いので,岩子は出でては三島氏の邸に寓し,紹介を得ては説き立てた.(同前,一五五〜一五六ページ)

東京でもこうした活動を行ったのは,すでに三島が警視総監であった一八八五,六年頃からのことであることが推測される.さらに瓜生岩は福島県内での活動の拠点を会津から福島町(現・福島市)へと広げていった.八七年には福島町へと転居する経緯を,奥寺は以下のように述べる.

岩子の事業は貧民救済,教育所設立で,喜多方より福島まで二十数里峠を越え,湖水を渉り出でて県令県知事を説き,あくまでその貫徹に全力を注いだ.事業も遊説も県庁直轄の福島に居住しなければ,万事不如意と思うて,二十年の秋,福島町に転居することゝ定めた.(同前,一五二〜一五三ページ)

ところが,そこに一八八八年七月一五日の磐梯山の噴火があり,さらに福島県地方を洪水が襲う.奥寺は磐梯山噴火についてこう述べている.

遠雷の如き鳴動.続いて猛烈な激動.黒煙磐梯山の頂を突破つて高く昇る.熱灰悲惨砂石降る.天地為めに晦瞑.数村埋没して五百の生霊,田園,財貨さながら埋め尽した惨状.岩子は福島をいそぎ出で立ちて,磐梯山下猪苗代に赴き,死者の冥福を祈らんと,大供養を計画した.何か事をなさんとすれば,名利を好む者のさまたげがある.一片同情の供養ながら其間種々の困難と紛糾とがあつたが,遂に永代供養等の建設を成就した.(同前,一六〇ページ)

福島市で有力支援者を増やす

続く水害でも,瓜生岩の活動は目立つものだった.一八八九年八月には台風で新潟県,福島県の各地で堤防が決壊するなど,広く被害が及んだ.奥寺は次のように述べている.

多くの田地住宅もさらはれ,流され,頗る惨状を呈した.米価は騰貴する,世間は不景気.細民の困窮傍観するに忍びぬ.岩子は多年慈善の為めに家資窮乏し,自ら救済する力はない.百方尽力して他人より資財を借り,有志を励まし,粥を炊いて窮民に施与して数十日に及んだ.一方では私立養育所設立を山田福島県知事に出願して,明治二十二年十二月許可を得た.人はその無謀に驚いた.(同前,一六〇〜一六一ページ)

「私立養育所設立」とあるのは「福島救育所」のことで,「福島救育所規則」の第二条には,「本所ハ専ラ無告ノ貧児ヲ救済シ及ビ堕胎ノ悪弊ヲ洗除スルヲ以テ目的トス」とある.

瓜生岩はこのために,一八八七年に福島に転居している.喜多方市瓜生岩子刀自顕彰会によるパンフレットの年譜には,一八八七年の項に,「県知事平田折内の勧めで福島長楽寺門前に転居,各郡に教育会の設立をうながし,堕胎・棄児の防止を説く」とある.ここに長楽寺の名が見えるが,長楽寺は多数の末寺をもつ曹洞宗の有力寺院で,仏教寺院が超宗派で瓜生岩を支援した福島鳳鳴会(一八九三年設立)の要となる寺院の一つだった.

この長楽寺には今も,瓜生岩の好んだ「仁慈」の文字を記した額が掲げられている.「隠惕」は他者の不幸や困っているのを放っておけないこと」を意味し,孟子に由来するとされている.瓜生岩は一八八〇年代後半には有力者への働きかけを強めており,東京養育院に赴いたのもその延長線上であったことが分かる.

福島瓜生会と福島鳳鳴会育児部

瓜生岩の福島町への進出は貧民救済が目的の一つで,災害もそれに関わっていた.だが,もう一つの目的は子どもの養育のための福島救育所の設立だった.これをきっかけに福島瓜生会が設立されたのが一八九二年,福島鳳鳴会育児部が設立されたのが一八九三年である.前者は貧民救済に力点があり,後者が孤児等の育成に力点があった.現在も福島市に存在する児童養護施設福島愛育園は後者の福島鳳鳴会育児部が発展していったものである.この二つの組織が並立することになった背景には,仏教界とそれに対抗する勢力という色分けがあったようである.

これについて,『福島愛育園百年史』は『福島新聞』の一八九三年の一月二四日,二月五日の記事を引いている.それによると,福島鳳鳴会育児部は「仏教信者のみにて」設立され,福島瓜生会は「仏教嫌いの人々」,また「神道者若しくは基督信者の関係せるもありて」設立され,「互に他を傷け己れの事業を発達せしめんと欲するの気味あり」という背景があった.

殊に瓜生女史は双方の間にありて頗ぶる困難の様子なるが 鳳鳴会員中には早くも瓜生女史は基督信者となりたる旨言触らす者あれど女史は六十年来奉し来れる仏教を今更何の必要ありて基督信者とならんと弁解し居れり 斯る有様なれば両立する事は六ヶしからん先きには訓盲会中に基督信者を生じたるより 会員二派に別れ随つて会の衰微を来せしが 今回も亦同様の有様を呈するに至らざるかと云ふ者あり(一〇八ページ)

ここで「訓盲会」とよばれているものについては詳らかでないが,一八九八年,東京巣鴨でキリスト教の留岡幸助と仏教の大草慧実が教誨師の地位をめぐって争いあった「巣鴨監獄事件」に先立って,福島町では宗教の違いが作用して社会事業が分裂する事態が生じていたようだ.

飴糟利用による貧民救済

仏教側が手を引いた福島瓜生会が力を入れたのが,貧民救済のための施与や新たな仕事の提供だった.中でも飴糟の製造という瓜生岩独自の発明があった.これについて,奥寺龍渓『瓜生岩子全』には,洪水後の一八九〇年のこととして次のように記されている.

世路困難にして貧民年を追うて加はる.有限の資,無限の救済.岩子幾度か心を焦がし,終に廃物利用の考案が成立つた.福島地方は飴の製出が多い.飴を製した糟は馬にやるか,肥料にするか,又は捨てるばかりである.飴の原料は萌やし麦と餅米である.発明は考慮と観察.只少しの注意で廃物も利用される.岩子が水飴改良,飴糟利用といふのは,只萌し麦を餅米と混ずると否との差である.麦を混ずればこそ,糟は食料にもならぬ,岩子のは萌やし麦を粉砕して,別に木綿袋に入れ,その必要な汁を揉み出して,餅米に混ずるといふ発明に過ぎぬ.岩子の飴糟は上等な餅米糟となつた.之を種々工夫して,糟餅,食等を製造した.貧民には上等の食物である.(一六六〜一六七ページ)

瓜生岩はこのための機械も整ったので,水飴改良,飴糟利用の方法を県下各郡に伝習することを思い立ち,県に請願し,福島県庶務課長沼澤七郎の名で各郡長への紹介状を出してもらっている.これをもって県下を歩き回り,普及させようとしたのだった.

3.瓜生岩の初期の社会福祉活動

仏教福祉の歴史と瓜生岩

近代仏教の福祉思想や福祉活動を理解しようとするとき,一九一一年に東京深川に浄土宗労働共済会を立ち上げた渡辺海旭(一八七二〜一九三三)が歴史的に大きな役割を果たしたということについては,多くの論者が同意している.ところが,渡辺海旭の前に瓜生岩がいたということから,近代日本の仏教界の福祉活動の歴史を見直すべく,瓜生岩の福祉活動について見ている.

宗教的な背景をもった社会福祉活動ということで,瓜生岩の貢献が重要であることは疑いがないところだ.だが,これまで仏教の社会福祉活動という側面から,瓜生岩を取り上げて論じたものは多くない.これは一つには,瓜生岩が特定の仏教集団の背景をもっていたとか,強く仏教の教えを説いたということがなかったことにもよっている.確かに,瓜生岩の福祉活動は仏教者や仏教集団との協力という点では実績がある.だが,儒教の影響も見逃せない.いや,儒教とか仏教とかに類別することが容易でないような形で,伝統的な宗教・倫理思想をひきついでいるのである.

たとえば,福島市の曹洞宗長楽寺には,瓜生岩が好んだ「仁慈隠惕」の四字を記した額がかかっている.「仁慈」は孔子に由来し,「隠惕」は孟子に由来する.「隠惕」は人の不幸や困っているのを放っておけないことと説明されている.保科正之が初代藩主である会津藩領に育った瓜生岩が,儒教の影響を受けやすかったことは容易に想像ができる.早くから堕胎や間引きを防止する活動に取り組んだのも,会津藩の施策と関わりがあるだろう.だが,仏教の影響も深いものがあったと推察できる.

瓜生岩の誕生から夫と母の死まで

瓜生岩は喜多方から少し離れた小田付村の温泉で山形屋を営む母方の実家で生まれている.温泉宿の山形屋は寺領五〇石と言われた曹洞宗の示現寺と隣り合っている.ここに瓜生家代々の墓があり,瓜生岩の墓もある.岩が一四歳から教えを受けたという,若松に住む叔父の山内は代々医を業とした.碑銘に大医良学居士とあり,「和漢の学に通じ,深く三宝に帰依して造詣するところも浅くな」かったという(奥寺龍渓『瓜生岩子 全』,三一ページ).瓜生岩は儒教か仏教かを選ぶというようなことはなく,どちらも人としての大切な教えとして身につけていったことが推察できる. それにもまして重要だと思われるのは,瓜生岩の幼少期から三〇歳代に至るまでの人生の足取りである.一八二九年生まれの岩だが,父は渡辺利左衛門で喜多方で油屋を営んでいた.飢饉に続く年,岩が九歳のとき父が病死し,続いて家が火事で焼けるという悲運にあった.母,りえは岩と弟の二人の子どもを連れて熱鹽の実家に帰ることになった.瓜生姓となったのはこの故である.

一四歳で山内春瓏に教えを受けるため,会津若松に出た.一七歳のとき,そこで呉服屋に奉公していた茂助を婿養子に迎えた.そして若松に呉服屋を開業した.二八歳までに一男三女を産むが,その頃までに山内春瓏は世を去っている.三女が生まれる頃から夫の茂助が病むようになり,一八六二年,茂助が死亡する.この間,岩は家計を守るのに懸命に働き,行商にも出たという.「骨身砕いての働き看病.ほまれも近隣に高く藩侯から貞女の褒美を賜はつた」と奥平は記している(五四ページ).

しかもその翌年,実母りえとも死別した.「母はない.夫は帰らぬ.の果ては尼とまでならうと思うた.「あゝ鎌倉に行つて尼になりたい」とは時々岩子の口から洩れた嘆声であつた」と奥平は記す(五四〜五五ページ).奥平の記述は想像によるものなのか,そのような伝えがあったのか定かでないが,まったくの絵空事でもないだろう.実際,岩は四人の子どもたちを次々と養子や奉公に出して,独り身になる.そして,しばらくは夫の仕事を続けるが,その店も処分し,一八六五年,喜多方に戻った.

会津戦争とその後の活動

一八六八年の会津戦争のとき,数え年四〇歳の岩はさっそく若松に行き傷病者や老幼者の救護にあたった.そして,喜多方での弱者支援活動が始まった.「岩子はまたとなき悲惨な戦争を目撃した.目撃して喜多方に帰り,逃れ集まる婦女子を先づ我が家にいたはり,近隣にたのみ,近在の農家に案内し,庄屋肝煎を説き,特志者と謀り,食物を集めてはこれを配つた」(七三〜七四ページ).逃げてきたのは武士の家族が多いわけだが,岩は若松での叔父の家での生活経験があり,彼らの世話をする役割を負うべき位置にあったと言えそうだ.

そして若松周辺から逃れてきた子どもたちのために小田付村で学校を始めることになる.「帰るに家なき家中の子女,多くは喜多方近在の農家に割あてになつた.頑是なき子供の見習ふ業は土百姓同様.見るにみかねて,岩子はせめて日新館の形ばかりなりとも,学校を建てゝ彼等を教養し,士分の体面を保たせ,なき父親,兄上の遺志をつがせようと思ひ立つた」.そこで,地域の有力者に頼んで,土地を調達し,怪我をして避難している元日新館の教官,浅岡源三郎に教師を依頼した.旧会津藩士は東京等での謹慎を命じられていたので,浅岡が教師を務めることの許可を得るのも容易でなかった.この幼学校には八歳から十五歳まで五〇人前後の生徒が集まったという.

武士の子弟に対する支援から

近代の仏教社会福祉の歴史の叙述で,渡辺海旭らと比べて瓜生岩の社会福祉活動について注目度が低いのは納得しにくい.なぜそうなのだろうか.「注目」ということでいうと,鎌田真理子は「かつては全国的に瓜生岩子の名前が子供たちに知られていた時代があった」と述べている.(「社会救済事業家としての瓜生岩子の軌跡―その実践と意義」『いわき明星大学大学院人文学研究科紀要』第一〇号,二〇一二年) 戦前は瓜生岩が小学校の国定教科書に取り上げられることもあった.一八九九年から大正時代にかけての国語と修身の教科書に,また,一九三九年から四三年の修身教科書に取り上げられていた.だが,そこでの瓜生岩は,傷病兵を介抱した「銃後の母」として描かれていた.このことが,かえって戦後に瓜生岩が十分に評価されない要因の一つとなったのかもしれない.

戊辰戦争の時,またその後の明治初期の瓜生岩の活動を見ると,確かに「銃後の母」という描き方ができないわけではないだろう.瓜生岩の尽力で始められた小田付村の幼学校には,武士の子弟が学ぶこととなり,一八七〇年には明治政府から表彰を受けるに至った.だが,その後,旧藩主松平が陸奥(下北半島)の斗南に移封され,多くの藩士が付き従ったため,幼学校の生徒の過半は会津を去った.他方,一八七一年には学制が発布され,やがて小学校ができることになった.瓜生岩の「教育的救済活動」は約四年間で終わることになった.

遠藤伊雄編『社会福祉法人福島愛育園百年史』(社会福祉法人福島愛育園,一九九三年)は,この時期の岩の「救済活動の内容は,武士階級の子供に対する教育的救済であり,士族授産の一形態である」とし,「そのため,本当に貧しかった庶民階級にまで救済活動が及ばなかった」と述べている(六五ページ).

庶民の支援への展開

授産ということだが,奥寺龍渓『瓜生岩子 全』は,「学校の暇々には,親兄弟の生活の手だてに,養蚕,機織,,し紙の製造や染形紙,畳表やのはてまで近村近在の産業とりどりに,相手と好みに応じて手の職をすゝめ,為めに一戸を構へ得たものは五つも六つも出来た」と述べている(九八ページ).また,悲劇の戦いがあった八月二三日の一周忌には,「近在各寺院の僧侶と計り,各宗派合同して,小田付村萬福寺に戦死者の大施餓鬼を行ふことゝなつた」,導師は示現寺の住職だったとある.戦争による苦難に対する「救済」的な活動がこの時期の瓜生岩の主たる活動だったことは確かである.

しかし,その後,瓜生岩の社会福祉活動は大きく庶民を中心としたものへと展開していく.そのきっかけとなったのは,一八七二年一〇月に東京に旅立ったことである.東京で岩は,旧佐倉藩堀田の屋敷がある深川に赴き,元藩士の大塚十右衛門が営む救養会所を訪問した.大塚は東京養育院と同様の機能をもつ規模の小さな施設を開き,孤児やよるべない老病の者を養っていた.奥寺によると,岩は「救養の方法及経営の実際を見習ふ為めに,大塚氏の下に実地に働くことゝなり,別に近傍に一家を借りて居住し,日々こゝに通うて,食事の処理,集め来る古着,廃物の処置,孤児の世話,疾患者の加護方,職業の授け方などを研究し,傍ら大塚氏の意見も聞き,深川辺の貧民の生活状態などを視察して,大に得る処があつた」(一二〇ページ).

会津での貧困者等支援活動

滞在を終えて,七三年の三月に帰郷すると,救養会所の「分所を若松に設置して,戦後疲弊の窮民や孤児を救済しようと,時の県令澤に相談した」(一二九〜一三〇ページ).澤は賛成したが,なかなか賛同者が広がらず,澤も転任することになり,この計画はいったん挫折した.だが,瓜生岩はそれで諦めるようなことはなかった.

まずは幼学校跡を裁縫教授所とし,岩自らが子女を指導するとともに,建物の一部に貧しい者や孤独な者を住まわせるなどして,親切に生活の立て直しの手助けをした.また,子どもを産むのを迷うような貧しい女性に対し,子どもを引き取ることを申し出て,思いとどまらせた.やがて岩を頼る人々が増え,幼学校跡では間に合わなくなり,七九年には喜多方町の近郊,岩崎村の廃寺となっていた長福寺を借り受け,貧困者・孤児をそこに移し,裁縫所もこちらで行うこととなった.奥寺はこの施設の経済的側面についての次のように述べている.

岩子は働ける者には,何か相応の職を求めて業を授け,出来上りはそれぞれ捌きをつける.近村の者も岩子には感服して居るので,食物でも,衣類でも,不用のもの,残りのものは何でも持ち運んでくれる者もあれば,岩子が通りかゝれば,あれこれと物品を与ふるもある.お風呂まで残りは貰うて寄宿者に入浴させた.(一三八ページ)

興味深いのは観音講にも顔を出したらしいことである.たとえば子安講ともよばれる如意輪講の場合,十九夜に女性が集まり和讃などを唱え,祈りをともにする.安産や子どもの健康が祈られるが,また妊娠の情報も集まる場である.堕胎を避け,子どもを引き受け,守り育てることと観音講への関与はつながっていた.この時期の岩の活動については,後にもう一度,取り上げる.

4.養育事業と自立のための活動

石井十次と瓜生岩の類似点

家庭環境に恵まれない子どもの養育事業という点で明治期の日本で大きな働きをしたのは,岡山孤児院の創設者,石井十次(一八六五〜一九一四)である.石井が「孤児教育会」の設立趣意書を出したのは一八八七年だったが,瓜生岩が東京で救養会所を営む元佐倉藩士,大塚十右衛門に学び,会津で救養会所の「分所」を始めたのは一八七三年のことである.大塚の救養会所についてはその後の展開が詳らかでないが,瓜生岩の活動はその後,大きく展開していき,会津と福島町(現・福島市),そして東京にもその影響が及んでいくことになった.

瓜生岩の活動が石井十次ほどに注目されてこなかった理由はいろいろと考えられる.石井十次の支援者には,外国人も含めたキリスト教徒や医学関係者がいた.また大原孫三郎という大実業家の支援を受けたことが大きかった.石井は欧米の貧窮児童支援活動の思想や実際に学び,影響を受けた.ペスタロッチやウイリアム・ブースの思想や活動に学んだことも力になった.また,財政的にも寄付による規模の大きな福祉事業を行い持続させていく力をもっていたことが作用している.さらに,欧米の学術との関連がつきやすいキリスト教を基盤にもつ活動であったために,学術的にも注目され紹介されることが多かった. 他方,瓜生岩の活動は,三島通庸,渋沢栄一など,福島県や国の政治に影響力のある人々とつながりをつけて,持続性を得た面があるが,そのことがかえって瓜生岩に対する後代の人々の関心を弱めたかもしれない.また,仏教界の支援も受け,仏教的な思想が基盤にあったとしても,鮮明に仏教的というわけではなく,仏教界でもその活動への注目度が高くなかった.

自己を支える生活を学ばせる

だが,瓜生岩の活動がそれなりの成果を上げていった理由には,石井十次の活動が目覚ましい成果をあげていった理由に通いあうものがあると思われる.それは,子ども自身の近くで,子ども自身が自尊心をもち,自立したいという意欲をもっていけるようにする育て方をしたということである.現代よく用いられる用語を用いると,弱い立場にいる子どもたちのエンパワメントを目指したということである.

一八九二年から一九九三年にかけて東京養育院に入った瓜生岩が,子どもたちとともに仕事をし,自然に子どもたちも仕事を習い覚えていくようになり,それが子どもたちに活気を与えるようになったさまは,第一節で述べているが,これは石井十次の方針に通じるものだ.

瓜生岩が経済活動を重視するようになるのは,活動拠点を福島町にも広げた一八八七年ごろからで,石井十次が孤児養育に乗り出すのと同時期である.このあたりの事情について奥寺龍渓『瓜生岩子 全』は第九章を「廃物利用」と題して,次のように書き始めている.

岩子は奇食して居た十二人の女子を引き連れ,福島町長楽寺の長屋を借り受けて転居した.岩子は諸処を奔走して貧民に衣服を新調し得る方法を講じた.の貧民,一銭を百回,千回に平気で出すが,一度に五六十銭を投じて反物を買ふことは出来ぬ.そこで岩子は日に一銭の掛金,三月で反物を求め得る考案をした.十二人の女子には絲繰機織させ,縞柄は貧民の望に応じて誂へさせる.の名だけは書き留めて置くが,毎日一銭宛出そうと出すまいと,各の考にまかせて,これで最後の掛金と云へば,受取済と記入する位.貧民は御蔭で新しい着物を着たり,着せたりされるのを有難く思うて,一体だらうと云うた.(一五三〜一五四ページ)

このようにして,貧しい人々や子どもが自ら積極的に働き,自らの身を立てていこうとする意欲を引き出そうとした.

貧民の生活立て直しの支援

岩の貧窮者支援活動は,生活の立て直しの支援という側面が目立つものだった.

岩子は日に一銭貯金の簡易な貯蓄銀行の必要を唱えて居つた.賎民は欲で働く.貯金に利子がつくといふ欲を知らせたら,働に精出すから,国運の盛衰は,この貧民の働に精出すか,出さぬかにあるというて居つた./貧民の困窮は正当の職業を得られぬか,又はその労力は適当に用いられぬか,或はその怠惰か,無分別かの結果である.窮乏は勤労を厭ひ,安逸を貪ぼり,放逸怠慢なるに比例する.(中略)路傍は悲哀に満ち,墳墓は餌食に充つるは,天のなせる災でもなく,逃るべからざる人性の痼疾でもない.勤倹なるべきに浪費.努力すべきに淫逸.従順なるべきに強情.是等は貧の病源である.(一五四〜一五五ページ)

このように自ら意欲的に働き経済的に自立できるように育てることを目指すことで,人々の生活を立て直す社会活動は,日本ではさまざまな形で行われており,たとえば二宮尊徳の報徳運動にも見られた.近世以来の「通俗道徳」の実践の系譜としてこれを捉えたのは,安丸良夫である(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店,一九七四年,平凡社,一九九九年).石井十次や大原孫三郎,また留岡幸助などキリスト教に惹かれながら,社会福祉活動に乗り出した人々が二宮尊徳にも学ぼうとしたことを思い出してもよいだろう.瓜生岩が二宮尊徳の影響を受けたというわけではない.だが,このような生活立て直しを通して精神的基盤を養うという考え方に立って,瓜生岩が独自の経済的自立策に取り組んだことは注目されてよい.一八八八年には磐梯山の噴火があり,続いて福島県地方に洪水が起こり,住民の窮乏が甚だしかった.一九九〇年には再び洪水があり,貧窮はさらに深刻になった.その後のこととして,奥寺は「岩子幾度か心を焦がし,終に廃物利用の考案が成立つた」と述べている.それは水飴改良と飴糟利用である.それまで捨てられていた飴糟を食料にするというものだ.

廃物利用としての飴糟パン

瓜生岩は人々が仕事をもち,生活を立て直すのを支援する活動に力を入れた.「授産」とよばれる領域である.一八八七年頃に移った福島町では,貧しい女性たちに絲繰機織をさせ,また貯蓄を促して授産を進めようとした.一八九〇年には,相次ぐ洪水の被害のなかで,新たに廃物利用を考え出した.福島県では飴の製造が多かったが,萌やし麦と餅米から飴を作るときに生じる糟は,馬にやるか,肥料にするか,そのまま捨てるかだった.これを人の食料にする方法を編み出したのだという.

奥寺龍渓『瓜生岩子 全』によると,麦と餅米をただ混ぜるのではなく,「萌やし麦を粉砕して,別に木綿袋に入れ,その必要な汁を揉み出して,餅米と混ずる」というものだ.こうすることによって,「飴糟は上等な餅米糟となった.之を種々工夫して,糟餅,食麵麭等を製造し,菓子まで製造した」(一六七ページ).そして,そのための機械も作られたという.瓜生岩はこれを,さらに福島県の各郡に伝習しようとした. これに関わって,『女学雑誌』第二五九号,二六〇号(一八九一年四月二日,四日)に掲載された,生野ふみ子「東京市養育院世話係瓜生岩女子を訪ふ」という記事があり,遠藤伊雄編『社会福祉法人福島愛育園百年史』の第一編第四章に資料として収められている(八一〜八三ページ).東京市養育院で児童の養育に携わっていた瓜生岩に生野が話を聞いてまとめられたものである. 女史は年齢六十五歳,丈は余り高からぬ方なれども,中肉にて骨格もいと丈夫気なり,なかなか達者らしき人と見受けられぬ.其柔和なる容貌は,自然なるものから之れを見て,今日までに幾多の憐れなる貧児等が,いかに此人によりて慰められけむなど,思い遣らるるも尊し.其風采の質朴なるは,洵に愛すべく慕ふべし.しかして又其応接ぶりの十二分にりなるは,是さえ多年貧児の為に泣き,貧児の為に憐を乞はれたるの結果かと,いと床しき心地せらる.(八一ページ)

廃物利用と人を生かすこと

生野はその記事のかなりの部分を飴糟パンの話に当てている.その場で味わってみたようで,「之を味ふに余程芳く,うどん粉を以て製したる菓子パンに左まで劣たりとも覚へず」と述べている.また,これを瓜生岩が思いついた動機として,「女史一日貧民等が,大根葉を争ひ食し,其だに得ずして饑に泣くものあるを実見し,憫然の情に堪ず」,何とか廉価な食料を得られないかと考えた結果だという.

瓜生岩はまた,豆腐糟から味噌を造ることも「発明」したという.従来,それらは肥料に使われてきたので肥料が足りなくなると言われると,今度は四尺桶を井戸端に置いて,日々洗い流す白水(とぎ汁か)をそこに入れ,底にたまった濃い白水を溜めていくと十分,肥料になると説いたという.このように「天地間のもの心を用いて之を見る時は,一として捨つべきものはなき程なれば」,との考えに支えられたものだ.そうであるなら,「でか人間とたるものにして,世に用なきものあらんや」とも言う.

今若し人間の内,世に捨てられたるものを救ひて,有用の人となすならば,なんぼう楽しき事ならむ.妾が今日まで此稚児の為に尽くしたるは,皆此精神に外ならず.此頃此養育院に着して,多くの稚児と貧病者とを見てろに涙に暮れたりき.其は大都会なる東京なればこそ斯くまで多くの人を救ひ得らるる事なれと,いと嬉しく思ひたればなりと.一語一句涙と共に語られき.(八二ページ)

5.仏教組織・仏教思想との関わり

瓜生岩を支えた仏教信仰

生野はこの記事の最後に,こうした瓜生岩の行動を支える宗教性について述べている.「其談話中,地蔵様,観音様などの語,口頭に上りたるを以て見れば,女史は一種の仏教信者ならんか.何にもせよ,女史は確に一の信仰を持し居るの人なり.殊に其育児の精神に至りては,一に廃物利用の精神と,其れを同じうするものの如し.珍しき人といふべし」(八二〜八三ページ).

なお,瓜生岩が仏教信仰について語った記録と思わしきものは他にもある.一八九四,五年頃,東京の根岸の寓居で岩が明治維新当時を語った記録の一部が残されており,奥寺龍渓『瓜生岩子 全』に紹介されている(一〇「思想動揺」).

「案スルニ此人気粗暴ノ今日ニ於テハ柔和温順ノ方便ニ依ラサレバ能ハズト思ヒ定メテ大施餓鬼会ヲ行ヒ,或ハ流行病アルトキハ,悪気退散ト称シテ般若転読式ヲ行ヒ,洪水旱魃等其ノ時々ニ応ジ法会ヲ行ヒ,其ノ度毎ニ随喜集合ノ僧ニ乞ヒ法話ヲ行」うことを促した(一八一ページ).その内容は以下のようなものだった(一八一〜一八二ページ).

一,乱暴略奪の風を正すこと

二,戦死者の亡魂を祀ること

三,堕胎棄児の弊風を正すこと

四,仏法の興隆を謀ること

五,国内の平穏を祈ること

しかし,これでも効果は上がらないので,何かよい方便はないかと問うたところ,ある僧が「我宗ニハ授戒会ト称シ,仏祖正伝ノ大法脈ヲ伝授スルノ法式アレバ,之ヲ行ヒタランニハ必ズヤ世ノ為メ無量のノ功徳アル可シ,但シ其ノ定日ハ七日間トス」と提案したという(一八二ページ).

授戒会を開こうという提案のその後

そこで岩は曹洞宗の僧侶らに広く訴えかけ,人々に授戒会をよびかけて行うための会合をもつこととなった.そもそも意欲的な仏教徒が少ない状態でそれは無理だという意見もあったが,どもかく会合をもつところまでは進んだ.一八八〇年のある日,喜多方の安勝寺でその会合は行われた.ところが,そこでも懐疑的な意見が多かった.うまく参加者が集まらなかった場合には費用の持ち出しになるなど.その費用は私たちがもつと岩はいったというところで,記録がなくなっているが,実現はしなかったようだ.他方,僧侶が瓜生岩に借金をして,そのお礼に「瓜生大慈善閣下」という宛名で謝意を述べた手紙が残っている.瓜生岩がこうした当時の僧侶の現状に,苦々しい思いを抱いたであろうことが察せられる.

瓜生岩は仏教界を動かそうとしたが,おおかたはうまくいかなかった.これが理由の一つだろうが,仏教の社会事業という領域で瓜生岩が果たした功績は大きいにもかかわらず,それが後代に引き継がれていかなかったという問題がある.福島愛育園は今も社会福祉法人として活動しており,瓜生岩の事績を継承してきている.そこには,瓜生岩の銅像もあり,今も瓜生岩を顕彰しながら運営されている.

遠藤伊雄編『社会福祉法人福島愛育園百年史』は,冒頭に瓜生岩の銅像と「仁慈隠惕」の額を飾り,「生涯を貫いた岩子の思想「仁慈隠惕」の語の由来」にそれぞれ一ページを費やしている.この書物の本文,一〇七〇ページ余りは三編に分かたれているが,その第一編は「瓜生イワの生涯と救済活動」と題されている.ここでは確かに瓜生岩の功績が現在にまで引き継がれてきていると言える.

だが,瓜生岩が他に試みたいくつかの社会福祉事業は,現在に引き継がれていないようだ.「仏教と社会福祉」とか「仏教社会事業」といった文脈で,瓜生岩への言及がさほど多くないのは,このことが影響しているように思われる.

私立済生病院の設立

だが,これは仏教界との関係についてだけ言えるわけではない.岩は政官界や皇室関係者等にも働きかけて,いくつかの事業を立ち上げていった.それらも現在に伝わっていないものが多い.

一つは,会津若松に私立済生病院を開設するという企てだ(『瓜生岩子 全』一三「済生病院」).これは貧しい人のための医療を行う「施療病院」を設置しようというものだ.東京では一八八七年に皇后の「令旨」によって,東京共立病院を拡張して東京慈恵病院という施療病院にするための寄付集めが行われている(拙稿「天皇崇敬・慈恵・聖徳 —明治後期の「救済」の実践と言説」『歴史学研究』九三二号,二〇一五年六月).

これに刺激を受けたのだろう.岩は地方有志の発起人三一名の名を連ね,東京の宮中女官などの貴婦人の願い出て寄付を集め,一八九三年に開院にまでこぎつけている.宮中女官などの貴婦人というのは,一八九一年に東京養育院の保姆長を引き受けたときなどにつながりをつけた人々が関わっていた.

柳原愛子,園祥子,敦子の名前が挙げられている.柳原と園は明治天皇の側室,税所は天皇皇后の寵愛を受け,歌など文学方面で奉仕した女官である.「済生病院」という名称は,一九一一年に天皇の呼びかけである「済生勅語」を受けて設立された恩賜財団済生会,また現在も全国にある済生会病院を先取りするものである.

開業医らの反対による挫折

当初,この会津の済生病院はたいへんにぎわったようだ.『福島新聞』は「職員は医員三名,薬局二名,庶務会計二名,看護婦二名」,「満二ヶ月余」で「患者は外来三百九十八名,入院五十三名,総計四百五十一名,内全額施療二十二名,半額施療十三名」と報道した.町長の証明があって「窮民」とされたものは全額施療,「貧民」とされたものは半額施療,お金のあるものは自分で払うという仕組みだ.

ところが,反対運動が起こる.『瓜生岩子 全』は「開院早々,治療を喜ぶ者は多い.喜ばぬは開業医である」と記している(二二九ページ).開業医らが「益友医会」を組織して,一致協力して反対運動を始めた.このため,「折角の岩子の苦心もあだとなり,数旬日にして開城の悲運に陥った」(同前)という.

寄付を集めるのに主導的な役割を果たした瓜生岩はたいへん困ったことだろう.大いに嘆いて,何とか継続するように北会津郡長に願った文書が残っている.だが,もともとの見通しが甘く,根回し等も足りなかったことが推測される.周到な計画とは言えず,政治力も足りなかったことは否めないところだ.しかし,これだけの事業を立ち上げるところまで持っていった力には驚かざるをえない.

6.岩の福祉活動の仏教的な基盤

仏教界の縁で福島に出る

瓜生岩が仏教界に働きかけるとともに,行政の高位者や国レベルの社会的有力者と連携して,福祉活動を広げていこうとした経緯を見ている.仏教界に授戒会を開くよう働きかけたのは維新前後のことで,岩が三〇代後半の頃である.その後も仏教界への働きかけは続き,それが実ったのは会津から福島町へ移り,福島救育所を立ち上げたことがきっかけになっている.三島通庸福島県令とつながりができたのは一八八二年だが,「事業も遊説も県庁直轄の福島に居住しなければ万事不如意と思って,福島町に転居すること」にしたのが一八八七年,岩は満で五八歳になる年である.

このとき,岩は喜多方で預かり育てていた一二人の女子を引き連れて福島へ移ったのだ(遠藤伊雄編『社会福祉法人福島愛育園百年史』,七〇ページ).すでに触れたように,このとき岩が移り住んだのは,福島町の長楽寺(曹洞宗)の側の長屋だった.この後,長楽寺は岩の活動を支援していくことになるから,この転居も長楽寺とのつながりがあってのことと考えられる.

その前の時期にも,岩は喜多方近郊の岩崎村の長福寺に住していた(奥寺龍渓『瓜生岩子 全』八「庵寺住」).この長福寺は喜多方市岩月町大都字前田にあり,当時,住職もおらず廃寺同然だったようだ.下岩崎瓜生岩子刀自顕彰会の記述によると,「小田付の幼学校跡が手狭になったため,明治十二年この寺を借り受け,貧困者を住まわせ仕事を世話し,また「裁縫教授所」を開設して近隣の農家の娘に,裁縫や礼儀作法を教え,僧侶の法話などを聞かせ教育しました」(https://mo6380392.ex blog.jp/22026059/)という.そして「福島に出る迄の八年間,村の人々の協力を得て事業を進めました.岩子が会津だけでなく広くその事業の必要性を痛感し,県都での活躍を計画したのはこの寺であったわけです」(同前)とある.

寺院での地域に根ざした活動

この頃の岩の活動を奥寺は次のように描いている.「かくて岩子は近傍の女子に裁縫,機織などを教授し,相応の資産の子女なら,一日白米一升の報酬で寄宿も許す.貧困の者はその残米で食客同様に預かる.其他,孤児も居れば,不具も居る,流浪の徒も寄宿する.岩子は働ける者には,何か相応の職を求めて業を授け,出来上りはそれぞれをつける」(一三八ページ)というようなものだ.

岩の意図の大きな部分は,堕胎をやめて貧しい子供もしっかり身を立てていけるように育てるということだが,それは地域住民が共感する弱者支援につながっており,住民の支持をえて財政的にも成り立っていたようだ.

近村の者も岩子には感服して居るので,食物でも,衣類でも,不用のもの,残りのものは何でも持ち運んでくれる者もあれば,岩子が通りかかれば,あれこれと物品を與ふるもある.お風呂まで残りは貰うて奇食者に入浴させた.観音講にも出かける.産婦の訪問もする.「貧と働きは私の一生」起るから寝るまで働て,そして貧に満足して居た.蓄へる心配もない代りにさまで窮することもない.窮することあるも,人の為には窮乏を厭はぬ.朝夕神仏を礼拝して感謝の意を表する.(一三八〜一三九ページ)

観音講というのは妊娠した女性の健康と安産を祈ることを主眼とする女性の講で広く普及していた.堕胎防止と深く関わるとともに,女性の苦難に対する思いやりが表現される場でもある.

廃仏毀釈ですたれた近村の寺に,「日本三釈迦の一」と言われた釈迦の仏像が,この長福寺に移されることになった.親しい僧侶の引導によって安置され,数ヶ月を経た夜中にこんなこともあったという.

岩子は孫を抱いて寝て居つたが急に大音声上げて,「それそれお釈迦様はお出掛けになる 皆々拝め…….それおとめ申せ」とけたゝたましく叫んだが,て音もなくすやすやと寝入つた.(一四四〜一四五ページ)

岩の晩年に立ち上がった諸組織

岩が五〇歳ごろから五八歳ごろまでの,地域に根ざしたこうした活動から,会津地域を超えた福島県全体に広がる活動へ,そして首都東京と結びつきながら全国展開を目指す活動へと展開してく.その最初の大きな動きは一八八七年の福島町への転居で,続いて一八九一年の東京養育院への出張がある.私立済生病院は一八九三年だが,それだけではなく,この時期に福島救育所(一八八九年),若松育児会(一八九一年),耶麻郡育児会(一八九一年),福島瓜生会(一八九二年),福島鳳鳴会育児部(一八九三年),東京瓜生会(一八九五年)と次々に福祉活動を担っていく団体が立ち上げられていった.いずれも瓜生岩が立ち上げたといってよいものだとすれば,その行動力,組織力は驚くべきものだ.

一八九一年の岩の東京養育院への出張,そしてその機会に宮中の高位の女性らとつながりを強めたことが,地元にも大きなインパクトを及ぼし,福島県内には,瓜生岩にあやかりながら,福祉活動を広げていこうとする気運が急速に高まったことがわかる.

だが,これらの中で長期的に存続していくことができたのは,現在の福島愛育園のもととなる福島鳳鳴会育児部だけだった.興味深いことに,この福島鳳鳴会育児部は仏教界が超宗派的に支えたものである.地域に根を下ろし,持続的な組織性をもった寺院集団こそが岩の福祉活動を後世に残すことに成功したのである.

おわりに

瓜生岩は近代日本の民間の社会福祉活動を先駆的に行った女性として知られている.だが,その岩の福祉活動は仏教的な素養や考え方を背景にもち,仏教寺院や仏教者との連携によって進められたという側面をもつ.この観点からすれば,岩の福祉活動は近代日本の仏教福祉を先導したものの一つと言えるだろう.

しかし,従来,このことが十分に認識されて来なかった.これは岩が特定の仏教寺院組織には属しておらず,教団の側から注目されることがなかったこと,また岩が福祉活動の背後にある仏教思想をまとまった形で述べるようなことがなかったことによるところが大きいだろう.加えて,瓜生岩が女性であったために,岩の事績が男性中心の仏教史観と噛み合わなかったという理由があったかもしれない.

近代日本の福祉活動は欧米諸国に学び,キリスト教の影響を受けながら展開してきたと理解されている.それはおおよそそのとおりだったとしても,日本の国内に宗教的な背景をもった福祉活動を育てていく力がもともとなかったわけではない.瓜生岩の存在はそのような可能性をよく示しているもので,その点はもっと注目されてよいものだ.宗教史の描き方という観点からは,人々の生活と深く結びついた草の根の宗教的生き方にもっと目を向ける必要が示唆される.安丸良夫の『日本の近代化と民衆思想』は民衆思想史の画期的な著作であるが,そこでは宗教への注目は十分ではなかった.いわゆる新宗教,あるいは民衆宗教の研究をめぐって,この方法論的問題は討議されてきたが(島薗進・安丸良夫・磯前順一『民衆宗教論』東京大学出版会,二〇一九年),伝統仏教との関わりが大きい仏教福祉の分野においても同様のことが言えそうである.

Acknowledgments

付記 この稿は,『月刊住職』二三九号(二〇一八年一〇月)から二六〇号(二〇二〇年七月)にかけて連載された「日本人と現代仏教の位相」の稿をもとに,新たに大きく組み立て直し,書き直したものである.

References
  • 井川裕覚『近代日本の仏教と福祉―公共性と社会倫理の視点から』法蔵館,二〇二三年
  • 遠藤伊雄・福島愛育園百年史編集委員会編『社会福祉法人 福島愛育園百年史』福島愛育園,一九九三年
  • 奥寺龍渓『瓜生岩子 全』四恩瓜生会出版部,一九一一年
  • 鹿島茂『渋沢栄一』文藝春秋,二〇一一年,文庫版,下 論語編,二〇一三年
  • 鎌田真理子「社会救済事業家としての瓜生岩子の軌跡―その実践と意義」『いわき明星大学大学院人文学研究科紀要』第一〇号,二〇一二年
  • 島薗進『日本仏教の社会倫理―正法を生きる』岩波現代文庫,二〇二二年,初刊,二〇一三年
  • 同 「天皇崇敬・慈恵・聖徳―明治後期の「救済」の実践と言説」『歴史学研究』九三二号,二〇一五年六月
  • 島薗進・安丸良夫・磯前順一『民衆宗教論』東京大学出版会,二〇一九年
  • 内藤二郎「安達憲忠と瓜生岩子」『駒大経営研究』第一〇巻第二・三号,一九七九年三月
  • 安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店,一九七四年,平凡社,一九九九年
  • 山名敦子「慈善・社会事業と実業の接点」渋沢研究会編『公益の追求者・渋沢栄一』山川出版社,一九九九年
 
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