仏教文化研究論集
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論文
法隆寺西院伽藍の建築群と古代東アジアの建築技術伝播に関する試論
海野 聡
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2024 年 24 巻 p. 3-39

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1.はじめに

大陸から仏教が伝わって以降,日本列島でも多くの寺院が建立されてきたが,それらは礎石・瓦葺・朱塗りの新しい建築で,その技術は大陸からもたらされた.そのため,この時期の建築技術は大陸との関係が深く,技術伝播のルートの解明は大きな課題であり,仏教文化の交流を考えるうえでの一つの視座となる.

飛鳥時代の現存建築は法隆寺西院伽藍や法起寺三重塔などに限られるが,寺院の発掘遺構や山田寺東面回廊の出土建築部材により,飛鳥時代には多様な建築技術が存在したことが明らかになってきている.いっぽうで,八世紀以降,律令のもとで造営官司が整備され,木工寮による技術者の統制を通じて,律令国家が建築技術を掌握することで,画一的な建築が増えていく.この傾向は奈良時代の現存建築を見ても明らかである.これと増加している発掘調査の成果を踏まえて,最古の木造建築である法隆寺金堂をはじめとする西院伽藍の建築群を見直すと,その構造や細部意匠は発掘調査からうかがえる七世紀後半の建築の時代的特徴との齟齬も見えてくる.それゆえ,この建立年代と意匠や構造の時代的特徴の差が明治以来の建立年代に関する論争(法隆寺再建・非再建論争)を引き起こしたのであった1

翻って,朝鮮半島や中国の状況をみると,韓国最古級の木造建築である鳳停寺極楽殿や浮石寺無量寿殿は 12 世紀以降,中国最古の木造建築である南禅寺大殿は建中3 年(782)の建立とされており,日本に比べると,建立年代が下る.ただし,高句麗の墳墓壁画や漢代以降の墳墓の画像石や木造建築を模して造られた倣木造などに建築の表現が見られ,そこから古代建築の様相がうかがえる.これらと法隆寺建築の比較研究をおこなった日本の諸氏の説を概観すれば,村田治郎は雲斗・雲肘木は漢・魏,皿斗は晋・北魏,天蓋は北斉,人字栱は北斉から唐と各部によって時代差があるとし,中国でこれらの細部が統合されていたとすると,北斉頃の様式とみている2.これに対して,福山敏男は雲斗・雲肘木を漢の流れから 6 世紀前半の北魏,東西魏の特徴とみる3.また関口欣也は高句麗壁画を中心に,朝鮮半島三国との関係を指摘し,高句麗では北魏の建築様式よりも古い様式が採用されていると考え,法隆寺の建築細部の要素が高句麗の墳墓の図像に見られることから,法隆寺建築様式の源流を高句麗とみている4.とりわけ関口説については,本論との関係も深いため,後述したい.

このように,古くから大陸と日本の建築技術の伝播に関する研究がなされてきたが,近年,中国の図像史料の増加や日本の発掘調査の進展もあり,これらの説の再検討の必要性が生じている.また古代中国の画像跡などを用いた建築の細部に対する新たな論考も出てきている5.それゆえ,法隆寺西院伽藍の建築群について,これらの資料との比較をしつつ,古代東アジアのなかでの位置づけや技術伝播を検討してみたい.

2.法隆寺の再建・非再建論争と編年指標

法隆寺の開創を振り返ると,推古天皇 9 年(601)に聖徳太子(厩戸皇子)がこの地へ移ることを決意し,斑鳩宮を建造し,同 13 年に移り住んだという.この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺で,法隆寺の前身とされる.現在の法隆寺金堂をはじめとする西院伽藍の建築の建立年代をめぐっては,明治以来,長きにわたる論争があった(法隆寺再建・非再建論争).すなわち,聖徳太子時代の建築がそのまま存続したのか,再建されたのかという問題である.

『日本書紀』によると,天智天皇 9 年(670)に法隆寺が焼失したという記事があり,その後,再建されたという説と,『上宮聖徳法王帝説』の推古天皇 15 年の記述や,金堂の薬師如来像光背銘に同年の字が見えることから,非再建であるという説の両説が対立したのである.論争の詳細は,喜田貞吉の説に詳しく,拙稿でも概要を述べているので6,ここでは深入りしないが,そこには年代判定と同年代資料の希少性という課題が隠れている.

そもそも建築の建立年代を判断する際には,文字史料による紀年銘,様式・技法などがその材料となる.前者については,史料批判の課題があることは,歴史学の一般と同様である.ここでは,建築史学に特有の後者について,詳しく述べたい.この様式や技法による編年は現在の建造物調査などでもおこなわれる手法であり,建立年代の明らかな建築の様式・技法を基準として,編年をおこない,それと比較することで,建立年代を推定する.むろん地域性による差はあるが,前近代の日本建築,特に寺社建築に関しては,その手法が確立している.

しかしながら,飛鳥時代となると,そうはいかない.そもそも飛鳥時代には建立年代の明らかな建築の絶対数が少ないため,比較が困難なのである.実際に法隆寺再建・非再建論争の中で,関野貞が法隆寺西院伽藍の建築の特殊性を述べ,これをもって推古朝の建築であると主張したが,喜田はこれを法隆寺の建築は推古朝のもの,という先入観にもとづく循環的推論と断じている.編年の指標となる七世紀の建築が存在しないことによる問題である.

これらの法隆寺再建・非再建論争は石田茂作による昭和 14 年の発掘調査によって,決着を見た.法隆寺の前身である若草伽藍の焼失が確認され,その方位が現西院伽藍と異なることから西院伽藍の併存は考えにくいと結論付けられた.さらに出土瓦も,現状の建物よりも古い様式であることから,若草伽藍が天智天皇 9 年(670 年)に焼失した伽藍であると推定されたのである.

こうして,法隆寺金堂をはじめとする西院伽藍の建築群は七世紀後半から八世紀初頭の建立と考えられるようになった.そして他の同年代の建築が斑鳩周辺の法起寺三重塔・法輪寺三重塔(焼失)に限られ,それらが共通する特徴を持つことから,二〇世紀後半までは,これらが飛鳥時代の建築の特徴と捉えられるようになっていた.

3.多様な七世紀と法隆寺の建築

3.1.法隆寺西院伽藍の建築細部

まずは法隆寺西院伽藍の建築群の特徴について見ていきたい.西院伽藍は金堂・五重塔の周囲を中門から左右に延びた廻廊で囲む形式である.当初は大講堂が廻廊外に独立して建っていたが,現在の廻廊は大講堂に接続し,その途中で鐘楼・経蔵とも接続している(図1).

[図1] 法隆寺西院の伽藍配置

七世紀後半から八世紀初頭にかけて建立された建築は,金堂・五重塔・中門・廻廊であり,特に前二者の建築的特徴を見ていきたい.

その特徴を見ていくと,奈良時代以降の建築と比べて,胴張りのある柱のほか,①雲斗・雲肘木,②隅行方向にのみ出る組物,③皿斗付の大斗,④肘木の端部の舌と上端の笹繰,⑤卍崩しの高欄や人字栱などがあげられる(図2).

[図2] 法隆寺金堂の細部の特徴

これらの特徴は近い時期に建てられた法起寺三重塔・法輪寺三重塔(昭和 19 年落雷焼失)でも確認できる.また日本独自の手法である長押が扉周りなどに用いられる点は,大陸の手法だけではないことを示している.ちなみに法隆寺金堂の上層の柱頂部に頭長押が用いられており,外観意匠では台輪のように見える.通常,重層の建物では柱上に台輪を置くが,それと同じく,重層建築としての意匠的な手法として用いたのであろう.

さて,薬師寺東塔・新薬師寺本堂・唐招提寺金堂・同講堂などの奈良時代に建立された建築は,一定数現存しており,長押を含めて,これらには共通点が多いが,法隆寺西院伽藍の建築群や法起寺三重塔・法輪寺三重塔の特徴とは異なる点も多い.それゆえに,この細部の違いを飛鳥時代と奈良時代の時代差と捉えてきた.それぞれの特徴について見ていこう.

①の雲斗・雲肘木については,肘木と斗が一体化した組物で,古代建築では斑鳩周辺に限定的にみられる.また法隆寺でも金堂・五重塔・中門の雲斗・雲肘木を比べると,組物の縁取りの明らかな金堂と比べて,五重塔や中門には波紋が無く,簡素化している.

次の②については,隅部の組物が桁行方向・梁間方向には出ずに,隅行方向にのみ出ており,この特徴に着目して,上野邦一は古代の組物を整理し,隅一組物としている7.通常の手先の出る組物は桁行方向・梁間方向・隅行方向の三方に手先の出る隅三組物とされる(図3).ちなみに桁行方向・梁間方向の二方向にのみ出る手先が校倉などに確認でき,隅二組物とされる.

[図3] 隅一組物・隅二組物・隅三組物

そして③の皿斗は斗の下端に付けた皿状の部分を指し,東大寺南大門や浄土寺浄土堂のように中世の大仏様でも確認できる.法隆寺などの飛鳥時代の建築では見られるが,奈良時代の建築では用いられないため,飛鳥時代の建築的特徴と理解されている.

④の肘木の舌は,肘木の両端の突出で,肘木の下に重ねた水平な部材が淵源とされる8.そして,この構造的機能が失われ,肘木下端を刳り出した装飾細部へと変化したと理解されている.法隆寺の雲斗・雲肘木の段階では,すでに構造的機能は失われ,意匠化している.笹繰は肘木の上端で巻斗と巻斗の間を薄く削った部分であるが,これについては,中国の図像と合わせつつ,後述したい.

⑤の卍崩し・人字栱は高欄の細部意匠で,法隆寺五重塔には見えず,奈良時代の建築でも東大寺法華堂の本尊台座にみられる程度である.

平桁の間にはまっている卍崩しが平桁を支えていることは確かであろうが,たたら束などでも構造的には十分可能であり,卍崩しは意匠的機能が大きい.また人字栱は平三斗とともに,高欄地覆の上に並んで置かれ,高欄の束の位置ではなく,中備の位置にある.なお高欄の架木についても,端部が反りあがらない水平材で,これも奈良時代以降の高欄の架木とは大きく異なる特徴である.

以上が法隆寺金堂・五重塔・中門の建築細部の特徴であり,これらを八世紀以降の現存建築と比べると,共通点と差異が浮かびあがってくる.②の隅一組物の特徴は奈良時代以降には見られない特徴であり,現存建築では確認できないが,玉虫厨子も同様の構造であり,また発掘調査から同様の組物が想定される柱配置の寺院金堂も発見されている.いっぽうで,現存する古代建築で手先の出る組物は東大寺法華堂の出組を除くと三手先で,いずれも隅三組物である.

この組物を隅の手先の方向で理解する観点は有効な手法で,法隆寺金堂・五重塔・中門が隅一組物であることは疑いないが,薬師寺時東塔の隅部の組物もよくみると,桁行方向・梁間方向が出ているが,構造的には隅一組物と共通点がみられる.

奈良時代の三手先組物については,薬師寺東塔と唐招提寺金堂で形式が異なることは知られている9.薬師寺東塔の三手先が柱上ごとに独立しているのに対して,唐招提寺金堂の三手先は通肘木によって,隣の柱同士の組物が連結している(図4).この違いが奈良時代前半と後半の三手先組物の発展であると捉えられている.

[図4] 法隆寺金堂・薬師寺東塔・唐招提寺金堂の組物の手先

これらを踏まえて,隅一組物との関係で比較してみよう10.たしかに唐招提寺金堂では,三方向に手先が出て,構造的に効果があるが,薬師寺東塔では隅行方向以外の組物はそれほど効果的ではなく,隅一組物に部分的な桁行・梁間方向の手先が支えているに過ぎない.それはこれらの組物の尾垂木が内部まで引き込まれないことからも明らかである(図5).むろん,唐招提寺金堂の隅部の尾垂木も同様であるが,先述のように隣の柱上の組物と連結しているから,隅行方向だけではなく,桁行・梁間方向とともに三方向で受けている.解体修理時の写真を見れば,その様相は顕著である(図6).

[図5]薬師寺東塔の三手先の尾垂木

[図6]唐招提寺金堂の三手先の尾垂木

④舌は薬師寺東塔,笹繰は,薬師寺東塔・東大寺法華堂に確認できる程度である.薬師寺では,伽藍配置も藤原京の本薬師寺と同じ形式であり,現存する東塔は『扶桑略記』にある天平 2 年(730)の建立とみられるが,その建立年代に比して古式な塔である.また東大寺法華堂も,東大寺開創以前の堂宇とみられ,造営官司による建築とは異なる系譜であり,やや特殊な事例と捉えられる.これらから見れば,日本の舌や笹繰は律令官司の系譜とは異なる細部意匠と位置付けられよう.

以上,法隆寺西院伽藍の現存建築の特徴のうち,奈良時代の建築には見られない①③⑤の特徴は七世紀の普遍的な特徴というよりは,七世紀の斑鳩周辺の顕著な特徴ととらえることができる.

3.2.積層構造と通肘木

法隆寺金堂・中門はともに二重の建築であるが,桁・通肘木を含めて,井桁を組んだせいろう組であり11,それを積み重ねている.図面や解体修理時の写真を見ると,その様子が確認できる(図7).

[図7] 法隆寺金堂の井桁構造

まず,せいろう組を積み重ねる手法は組物に顕著に確認できる.法隆寺金堂では柱の上に大斗.雲斗・雲肘木をのせ,その上に通肘木を三段重ねる.この方法は薬師寺東塔・唐招提寺金堂などの奈良時代の三手先では確認できず,これらでは雲斗・雲肘木を用いないだけではなく,通肘木は下から二段目と四段目のみとし,それ以外は壁付の肘木とする.日本で通肘木を重ねる方法が確認できる事例は,平安時代後期の一乗寺三重塔まで下り,通肘木を積層させることが構造的に有利であるため,これ以降の日本でもこの形式の組物が用いられるようになる.これを鑑みれば,構造的に有利なはずの法隆寺の手法を奈良時代の建築では採用しない点は,構造発展主義的な史観からは合理性を欠く.また壁に付いた通肘木以外にも井桁の積層構造は確認でき,初層の天井桁も井桁状に組まれている.これらの井桁による積層構造は法隆寺建築の特徴であろう.

さて,この積層の形式は二重の建物であるという建築構造に起因することはもちろんであるが12,柱の高さとも関係がある.『営造法式』に殿堂形式・庁堂形式という2つの方法が確認でき,前者は身舎・庇の柱が同高であり,後者は身舎の柱の方が高いという特徴があり,法隆寺金堂は殿堂形式とされる13.ちなみに同じく古代の主要建築である唐招提寺金堂・同講堂などの日本の仏堂のほとんどは庁堂形式である(図8).身舎と庇で柱の高さが異なる場合,横架材を井桁状に組んで積み上げて,屋根構造を構築することはできず,庇部分と身舎部分のそれぞれを構造的に固めることになる.そのため,この積層構造は殿堂形式,あるいは同高の柱との関係が深いと推察できる.

[図8] 殿堂形式と庁堂形式

この点で,殿堂形式と同じく,内外の柱が同高となる塔も井桁の構造である.そもそも古代の日本の塔は柱盤を用いた積層構造で,まず柱の上に三枚枘を用いた台輪をのせ,三手先組物の通肘木を重ね,垂木を掛け,その上にさらに上層の柱盤を置く.薬師寺東塔ではこれに裳階が各層に付き,この裳階を支える通肘木も含め,多層にわたって井桁構造を積層している(図9).とくに裳階を支える腰組の通肘木は,主屋の柱を避けて通しており,積層構造を顕著に示している(図 10).

[図9] 薬師寺東塔の積層の構造

[図10] 薬師寺東塔裳階の通肘木と主屋の柱筋

以上,法隆寺金堂が重層建築であることを踏まえても,その通肘木や天井桁などの積層構造は特異であり,加えてこの手法は奈良時代の薬師寺東塔にも見え,両者の共通点がうかがえるのである.これは柱が同高であることに起因するが,必ずしも殿堂形式との関係性のみで理解する必要はなかろう.例えば,奈良時代の史料にみえる丸木倉はせいろうに組んだ丸太を積層させた構造で,古墳時代以来の技術と考えられている.すなわち,せいろう組の積層は比較的,簡便な方法と考えられるから,こうした前提となる技術の基盤との関係も踏まえておく必要があろう.

3.3.法隆寺以外の七世紀の建築の特徴

周知のとおり,七世紀の建築の様相をうかがう現存建築は限られるが,発掘調査の成果から,その特徴が知られつつある.そのひとつが山田寺東面回廊の発掘である.山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく,舒明天皇 13 年(641)に整地,皇極天皇 2 年(643)に金堂がつくられ,大化 4 年(648)に僧侶が住み始めた.このように,造営は順調に始まったが,大化 5 年(649)に蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いをかけられ,自害に追い込まれると,造営は停止した.講堂や塔などは天智天皇 2 年(663)にようやく再着手し,塔は天武天皇 5 年(676)に完成した.さてこのうちの東面回廊が倒れたままの状態で発掘された(図11).これにより,法隆寺以外の七世紀建築の上部構造が明らかになったのである.

[図11] 山田寺東面廻廊の出土状況

法隆寺西院廻廊と山田寺回廊を比較すると,法隆寺西院伽藍の建築的特徴が見えてくる(図12).

[図12] 山田寺回廊(左)と法隆寺廻廊(右)の比較

冒頭で法隆寺の特徴とした①~⑤について見ていくと,①や②については山田寺回廊では不明であるものの,同金堂では放射状の柱配置を取っており,隅一組物と推定されている(図13).

[図13] 放射状の柱配置

いっぽうで③については,山田寺では確認できず,④の舌や笹繰に関しては山田寺でも確認できる.山田寺の全体を見れば,奈良時代以降に見える特徴を多く含んでいると言える.ただし,奈良・平安時代の現存建築では位置づけが難しい部分もある.それは山田寺から出土した長い肘木で(図14),肘木の下部を三つの斗が支えたとみられる.

[図14] 山田寺出土の長い肘木

高句麗の龕神塚,安岳1号墓,双楹塚(図16-9~11 参照)や安城洞大塚では,大斗の上に組まれた三斗のさらに上に,長い肘木を置いた二段積む形式としており,山田寺の肘木と類似する形状である.この点を考慮すると,高句麗経由の可能性も想定される.いっぽうで,こ

れは中世以降の大仏様や禅宗様の壁付の肘木と特徴が似ており,大仏様や禅宗様の淵源とされる中国の南方系の影響がうかがえるとされる14.南方・北方両方の系譜の可能性が考えられるが,後述の皿斗との関係を踏まえると,南方の可能性も十分にあろう.

もう一つが四天王寺で発掘された扇垂木である.古代の現存建築の垂木は平行に置く並行垂木の形式で,放射状に置く扇垂木は,中世以降の禅宗様,あるいは大仏様が入って以降に広まったと考えられてきた.これが四天王寺の発掘により,古代にも放射状に垂木が配する方法が存在したことが明らかになった(図15).

[図15] 四天王寺で発掘された扇垂木

この山田寺や四天王寺の事例を鑑みれば,法隆寺西院伽藍の建築群の形式は七世紀の標準的な手法ではなく,多様な建築技術の系譜の存在がうかがえる.八世紀以降の現存建築が画一的な建築技術で,多様性を欠くのとは対照的である.東大寺開創よりも前に建てられ,造東大寺司の影響が少ないとみられる東大寺法華堂が特異な建築細部を持つ点が示しているように,造営官司による技術掌握の影響が強いとみられる.さらに言えば,この画一的な建築技術は平安時代まで継続し,現存建築から全国的な共通性がうかがえる.これを踏まえると,七世紀の建築技術の多様性は東アジアと日本の関係性を考えるうえでも重要な視座である.

4.法隆寺西院伽藍の建築群の細部と東アジア

4.1.七世紀の東アジアの情勢

七世紀の朝鮮半島には高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが,隋が滅亡し,朝鮮半島付近は混迷していった.倭国は百済と親交が深く,仏教も百済からもたらされたが,唐と新羅が手を組んで,百済・高句麗を滅亡させ,半島を統一した.中大兄皇子らは百済の復興をめざす遺民とともに,663 年に白村江の戦いに赴くが,唐に大敗する.以降,唐の力が東アジアで強大化するなかで,日本では律令とともに,都市・建築でも中国的な都市計画や建築技術の導入を目指した.これは国力を示すシンボルである巨大な塔が各国で建てられていることからもうかがえる.実際に中国・洛陽の永寧寺,朝鮮半島では慶州の皇龍寺や扶余の弥勒寺,日本では大官大寺で巨塔が建てられている.

では天智天皇 9 年(670)の焼失以降に再建された法隆寺西院伽藍の建築は,当時の最先端であったのであろうか.唐の様相をうかがわせる川原寺や奈良時代以降の建築との共通点の多い山田寺回廊などの同時期の事例と比べると,法隆寺西院伽藍の建築の特徴は古式であり,特異である.言うなれば,法隆寺西院伽藍の建立では最先端の唐の建築を目指したのではなかったとも言える.

いっぽうで,奈良時代以降は木工寮のような造営官司が整備され,技術的に画一化が進んでいく.その背景には,唐との直接的な交流があるとみられるが,校倉がこれらとは全く異なる技術であることが明らかになっており,複数系統の技術伝播がうかがえる15.さらに時代をさかのぼれば,飛鳥寺の造営に際して百済からの工人が送られているように,朝鮮半島からの影響が強いことは周知の通りである.ただし,朝鮮半島についても,百済だけではなく,飛鳥寺の三金堂形式の伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺との関係性もうかがえる.また七世紀後半に双塔式の伽藍配置が新羅で展開した時期に本薬師寺が開創されており,ここにも大陸との関係もうかがえ,さらに迅速な情報伝達の様相が表れている.ゆえに.百済・新羅・高句麗の三国と倭の関係には温度差があるが,朝鮮半島からの伝播にも三つのルートが想定できるのである16.こうした七・八世紀の建築技術の伝播の状況を踏まえ,法隆寺西院伽藍の建築の細部を東アジアの視座から見てみよう.

4.2.中国・朝鮮半島 における建築関連資料と法隆寺西院伽藍の建築群

唐代の現存木造建築は最古の山西省の南禅寺大殿(782 年)をはじめ,広仁王廟大殿・仏光寺東大殿・開元寺鐘楼の4棟に限られる.また朝鮮半島に関しても,最古級の鳳停寺極楽殿や浮石寺無量寿殿なども 12 世紀以降の建立であり,同様の状況である.そのため,日本の飛鳥・奈良時代に相当する時期の建築情報は主に画像資料や造形物に頼ることになる.

これらの大陸の建築資料と法隆寺建築を比較した先行研究のうち,関口欣也のものはそれ以前の研究に触れつつ,細部の広範に触れており,法隆寺建築の細部を中国や朝鮮半島で確認できる建築細部と比較している17.同氏は高句麗壁画古墳を中心に取り上げ(図16),⑤の人字栱については三斗と組み合わせる形式が隋代の敦煌壁画や唐代の李寿墓などに見え,反りのある人字栱の特徴から,北斉の 570 年の天竜山石窟第 16 洞以降の特徴とみている.

[図16] 高句麗壁画古墳に描かれた柱・斗栱

肘木の舌については,209 年頃の四川の雅安高頤闕が現在確認できる最古の舌の実例であると位置付け,後漢末と推定される山東省福山東留公村磚墓画像石の双斗下端や後漢末から魏晋時代とされる山東省沂南古画像石墓の画像石の肘木を事例にあげている.このうち,舌の最古の事例については,その後,元初四年(117)の紀年銘のある柏林坡一号墓や,それより古いと考えられる胡家湾墓群の事例が報告されている18.そして朝鮮半島の永和 13 年(357)の安岳三号墳にみえる肘木の舌は中国山東省のものと関連性があると指摘した.また高句麗壁画にみえる斗栱について,双斗・三斗・二重三斗・柱状にせり出す斗栱形・大斗のみの五種類があるとし,やはり安岳三号墳の石造方柱上の双斗が古い例であるとしている.ただし,双斗は後漢の画像石や石闕などにみられるものの,北魏の雲崗石窟(図17)では三斗としており,次第に双斗から三斗へと主流が移っていくという時間的変遷がみえる19.そして法隆寺の雲斗・雲肘木は洛陽澗西 16 号工区 82 号墓斗栱形(図18)や高句麗の星塚にみえる双斗を二重に重ねたものであると推定している20

[図17] 雲崗石窟第2窟の三斗・人字栱(海野撮影)

[図18] 洛陽澗西16号工区82号墓斗栱形

この関口の論考を踏まえ,法隆寺各細部を見ていこう.まず法隆寺の雲斗・雲肘木の特徴である放射状の組物については,東魏から北斉初頭に描かれたと推定される九原崗壁画墓の門楼図(図19)の組物と類似するとの指摘もあるが21,これは3つの扉を中心に,それぞれ組物を広げて描くという描写手法の結果ではなかろうか.現に中央間の組物を見ても,放射状であれば,図の両側方向に開くはずであるが,建物の内側方向に手先が向いている.むしろ,手先の出る組物であることを示すための描写とみたほうが穏当であろう.ゆえに,この多様な解釈を持ちうる図の描写のみを根拠に,放射状の組物や柱配置の存在は認めがたい.

[図19] 九原崗壁画墓の門楼図

法隆寺の雲斗・雲肘木の壁付部分を見ると,大斗の上の位置には斗状の作り出しはなく,関口は双斗の系譜であると指摘する.双斗の上に2つの双斗を置く形式は後漢・東晋のなど非常に古い時代に確認でき,高句麗の四・五世紀に確認できるが,法隆寺建立の頃には三斗を一般的に用いること比べれば,大陸の二重の双斗と法隆寺の雲斗・雲肘木の時代差は著しい.そもそも日本における双斗は中世の大仏様の要素とされ,大仏様は中国の南方系の手法が持ち込まれたと理解されているが,法隆寺の雲斗・雲肘木についても,双斗の伝播に対するルートを考慮する必要があろう.

このように関口は高句麗の事例との比較をしているが,これとともに,より事例が増加している山東省の事例の現地調査を踏まえつつ,双斗・笹繰・皿斗について,再検討・比較してみたい.山東省では墳墓から出土した東漢の画像石に双斗が多くみられ,地理的にも朝鮮半島と近い.この双斗は名称通り,大斗の上に肘木と二つの斗を置く形式であるが,双斗の中央に束を立てる形式もある.さらに三斗を十字に組んだ形式の斗栱も滕州画像石博物館の墳墓の石造斗栱として確認できる.

しかし,これらの大陸にみえる双斗はいずれも法隆寺の雲斗・雲肘木とは形状が異なる.雲斗・雲肘木は双斗のうえに巻斗ではなく,さらに双斗を乗せたような形式で,中国では東漢代の手法であり,隋唐代には用いられない.とくに肘木の形状を見ると,上端の笹繰が大きく,肘木が曲線状の腕木のような形状をしており,山東省・高句麗のいずれもこの傾向は共通している.一方で,法隆寺の雲斗・雲肘木では,肘木と斗の部分が一体化していて,肘木の上端は水平である.ただし,その斗部分の下部の斗の成は高く,この斗繰の成を肘木の立ち上がりとみなせば,肘木が湾曲していると捉えることもできる(図20).やや憶測が過ぎるかもしれないが,山東省や高句麗の双斗の特徴を鑑みれば,同じ流れで理解できる.舌に関しては,安岳三号墳の墓主の冬寿は前燕の官吏で,内乱によって高句麗に移り,その墓は遼東地方の墓の形式を備えているとされ,舌を検討した唐聡によれば,その石造の組物の側面に舌について,山東省から北の遼東地区を介して朝鮮半島へ伝わったと推定している22

[図20] 法隆寺金堂の雲斗雲肘木

ただし山東省の事例をみると,東漢の車馬出行画像石(山東省博物館)で皿斗や舌が確認できるが,大斗の皿斗や肘木の舌が確認できない例も多く,対照的に高句麗では確認できる点は注意が必 要である.とくに画像石の人物の背景に描かれる双斗に薄い舌状の描写がある点はともかくとして,石造組物が確認できる北寨墓群一号墓では三斗・双斗ともに舌は見えない23.すなわち,時期差も含め,山東省から高句麗へという流れであるとは単純に理解することはできないのである.さらに時代が下った例であるが,674 年に造られた新羅の雁鴨池出土の三斗の肘木では,舌は見えない.そして,中国では用いられなくなった手法を法隆寺の雲斗・雲肘木に用いたという時代差に関しても検討すべき課題であろう.

皿斗は唐代の現存木造建築では基本的に用いられないが24,福建省にある華林寺大殿(954 年)・元妙観三聖殿(1009 年)・陳大尉宮正殿(909 年)では皿斗が用いられている(図21).これらの建築は中世日本の大仏様との関係性もうかがえ,中国の南方には時代が下っても細部意匠として確認できる.これらの意匠が時代をさかのぼるのであれば,あるいは,梁頃の南朝の意匠とも考えられよう.石窟はともかくとして,中国の唐代の木造建築に皿斗が見られない点や山東省の東漢の画像石や石造斗栱で皿斗を用いない例がある点を踏まえれば,これらの地方では皿斗が七世紀に用いられなかった可能性も考える必要があろう.高句麗に持ち込まれた皿斗や舌との関係はもちろんであるが,特に皿斗については,中原への伝播が南方由来で,中原では失われたが,南方にのみ存続した可能性も想起される.伝播ルートが南方から中原,あるいはその逆のいずれであれ,七世紀以前に南方に皿斗が存在したのであれば,その南方から倭への技術伝播(百済経由を含む)の可能性も考慮しておく必要があろう.この点については,中国における変遷や伝播の状況,意匠の喪失などの時間的,地域的な伝播ルートの解明が肝要であり,今後の研究に期待したい.

[図21]福建省の古建築の皿斗

(左:華林寺大殿 中:元妙観三聖殿 右:・陳大尉宮正殿 海野撮影)

次に笹繰と三斗を見ていこう.墳墓壁画や画像石にみえる肘木の笹繰は,双斗の特徴であるが,三斗の場合には笹繰の有無が混在する.中国の古例は,後漢早期の河南省唐河県針織廠の楼閣舞楽図画像石にみられる三斗であるとされ,ここでは笹繰はない(図22).この事例はかなり早期のもので,後漢から六朝時代までの三斗の例はこれまでに報告されていないというが25,笹繰の有無は両方確認できる.多くの早期の事例の場合,双斗状の肘木中央部の笹繰上に中央の束が載っている(図23).高句麗壁画をはじめ,多くの三斗・二重三斗では,笹繰が施されており,先にあげた雲崗石窟の三斗でも肘木上面に笹繰が施されている.これらの史料から,双斗の間に斗を置く形式から三斗へと発展していったという変遷が考えうる26.ただし,東漢の徐州の石造斗栱の事例では笹繰がなく,肘木の上面は水平で,中央に短い束状の部材が置かれている(図 24).前述の河南省唐河県針織廠の楼閣舞楽図画像石のような,上端を水平とした肘木を用いる三斗もある.これらから三斗に発展した可能性も考慮しておく必要があろう.また先述の新羅の東宮と月池(雁鴨池)から出土した肘木には笹繰が確認できる.

[図22]河南省唐河県針織廠の楼閣舞楽図画像石

[図23]北寨墓群の斗栱(沂南漢墓博物館蔵,海野撮影)

[図24]東漢の石造の斗栱(徐州漢画像石藝術館蔵,海野撮影)

これを踏まえて,法隆寺金堂の雲斗・雲肘木を見てみよう.大斗の直上の方斗については中国では省略されるが,日本ではここに方斗を置く.これは肘木の上に3つの斗が置かれる三斗の特徴を示すもので,この点を重視すれば法隆寺の雲斗・雲肘木はここに方斗を用いず,双斗の系譜の特徴を有していると言える.手先の秤肘木を双斗としていることと合わせても,雲斗・雲肘木が双斗を基本とすることに異論はない.しかし大斗上の肘木の上端を見れば,尾垂木の乗る中央部には笹繰が施されていない(図20).つまり大斗上の肘木の笹繰の形状から見れば,法隆寺の組物は双斗ではなく,三斗と同じ構成と捉えられるのであり,三斗の上に二つの双斗が置かれているのである.

この点は,高句麗の墳墓壁画などにみえる双斗の手法とは異なる.また大陸の双斗の上に2つの双斗を置く二重の双斗の形式は東漢代で,その時期と法隆寺が大きく異なる時期であることは課題の一つであるが,雲斗・雲肘木自体が,大陸の二重の双斗の形式とは異なり,三斗の形式を組み込んだものとすれば,両者は同時期ではなく,時間差も理解できよう.

以上,三斗のための笹繰という特徴を合わせて鑑みれば,法隆寺の雲斗・雲肘木は双斗の系譜ではあるものの,朝鮮半島や山東省の双斗そのままではなく,三斗の系譜も混在した別の手法と見るべきであろう.この違いの原因として,大陸の手法を正確に移入できなかった可能性や日本における独自の変化の可能性などが考えられる.

次に通肘木に着目してみたい.この点は既往研究で重視されてこなかったが,法隆寺の通肘木や井桁構造は古代日本の現存建築のなかでも特異である.先にも述べたが,薬師寺東塔をはじめ,古代日本の三手先の組物では大斗の上に肘木を乗せ,その上には通肘木を置くが,その上には建び壁付の肘木を置いており,通肘木とはしていない.薬師寺東塔よりも発展した三手先である唐招提寺金堂でも,この状況は同様で,通肘木は二段目のみである.これに対して,法隆寺では二・三・四段目の肘木を通肘木とするのである.日本の現存建築を通観すると,通肘木を再び重ねるようになるのは,先述のように平安時代後期の一乗寺三重塔まで遅れる(図25).中世以降,構造上,非常に有利な通肘木の積層は三手先の定型となっていくが,この法隆寺金堂にみられる通肘木の積層は日本の時系列で見ても特異であると言える.

[図25]一乗寺三重塔初層の通肘木の積層

この通肘木を積層させる方法について,中国の事例を概観してみよう(図26).最古の南禅寺大殿の組物は,古代の日本の建築には現存しない形式である二手先で,比較が困難であるが,二・三段目の肘木を通肘木としている.いっぽうで,広仁王廟大殿は同じ二手先でも,二段目のみを通肘木としており,日本の薬師寺東塔などの三手先の形式と似ている.また仏光寺東大殿の尾垂木付の三手先では,二・三・四段目を通肘木として重ねており,法隆寺や一乗寺三重塔などと同じ手法である.唐代の現存建築の事例が限られるため,組物の発展形式をうかがうことは困難であるが,広仁王廟大殿の手法は構造的には未熟な手法であると言える.またそれぞれの肘木の長さがほぼ近似する点も日本の組物との共通点である.一方の南禅寺大殿では未熟ながら通肘木の積層,そして規模の大きい仏光寺東大殿では整然と通肘木を重ねている.これらから見て,通肘木を重ねる手法が唐代から存在したことが確認できる27.むろん,隋代・初唐以前の現存建築はなく,その淵源を辿ることは難しいが,上述の東漢代などの山東省の画像石や墳墓壁画などにも見えない.ただし敦煌壁画をみると,初唐の莫高窟の 431 窟北壁に通肘木を重ねた表現が確認でき,また盛唐の莫高窟 172 窟南壁の「浄土寺院的大殿」にも,類似する表現が確認でき,懿徳太子墓の墓道北壁の宮闕楼閣図(706 年)でも通肘木の積層とみられる表現がある.

[図26]唐代の建築の通肘木

(左:南禅寺大殿 中央:広仁王廟大殿 右:仏光寺東大殿 いずれも海野撮影)

このように日本では奈良時代以降,用いられない組物の形式が法隆寺西院伽藍の建築群に確認できるのであり,朝鮮半島における伝播については不明であるが,もし朝鮮半島で用いられない形式であれば,創建法隆寺の頃の隋,あるいは再建時の頃の初唐の建築の手法を直接持ち込んだ可能性も想起されるのである.

5.古代東アジアにおける建築技術の伝播ルート

これまでの本論の論旨を踏まえ,既往研究の指摘も含みつつ,法隆寺の西院伽藍の建築細部にみえる A.二重の双斗の形状,B.肘木の舌,C.肘木の笹繰,D.皿斗,E.通肘木の積層,F.人字栱の観点から,主に大陸と日本列島における技術伝播のルートを再検討してみたい.とりわけ,中国南方,朝鮮半島,日本列島を中心に見ていこう.

まず,A.の双斗については,既往の整理のように,後漢に用いられた双斗は北魏では三斗に変化しており,次第に双斗から三斗へと主流が移っていく.その伝播ルートをうかがうと,高句麗では永和 13 年(357)の安岳三号墳の石造方柱上の双斗の存在から,朝鮮半島への伝播がうかがえる.ただし,時期差の課題は残る.現存する中国南方の木造建築では双斗は確認できないが,南方由来とされる大仏様で双斗を用いることを踏まえれば,南方における双斗の系譜の整理も必要であろう.今後の調査に期待したい.

また B.の舌については,本稿ではあまり取り上げなかったが,唐聡の研究に触れておくと,中国では舌の形式が彫刻から『営造法式』にみえる燕尾という彩色へと変化していき,突起としての舌は太和元年(477)の大同宋紹祖墓家形石棺で,時代の下った南禅寺大殿や仏光寺東大殿にも,燕尾の彩色の痕跡が認められるとされる.そして舌には幅広のものと幅の狭いものがあり,山田寺の出土部材と薬師寺東塔の幅広の舌にはより古い特徴が認められ,法隆寺金堂系の半幅の舌には時代の下った特徴であるとする28.この指摘が適切であれば,高句麗の安岳三号墳の舌は幅広であり,さらに皿斗もなく,法隆寺の舌をこの北回りの系譜と位置付けることについては再考が必要であろう29.少なくとも,出土部材から知られるように七世紀後半の新羅ではすでに用いられておらず,同時代の朝鮮半島の建築とも異なる点は踏まえておく必要がある.

また同氏の整理をもとに,幅の狭い舌をみると,最古の北関一号漢墓(後漢中晩期,124 年ごろ)や山西省の大同宋紹祖墓家形石棺(北魏太和元年=477)で,現在確認できる事例は中原に限られる.一方で,幅広の舌は四川・甘粛省・山東省などの中原より外側の地域に展開している.きわめて事例が限られる点を考慮する必要があるが,法隆寺の幅の狭い舌は E.の通肘木の積層とともに,比較的,新しい技術で,中原からの系譜の可能性も想起される.ともあれ,この舌に見える複数系統の系譜は長い肘木や皿斗とともに,七世紀の中国大陸からの技術伝播のルートの存在をうかがわせる.

C.の笹繰については,双斗の場合,不可欠であるが,三斗の場合には使用の有無の二つの手法がある.法隆寺だけではなく,山田寺・薬師寺東塔でも共通して笹繰を有しており,七世紀の時点で日本列島まで伝わっていたことは確かである.ただし笹繰は日本では時代が下るにつれて,省略されていくのに対して,中国では継続的に用いられる.また朝鮮半島でも新羅の出土部材でも省略されていない.すなわち,笹繰は大陸から直接,日本列島に伝播したとしても,受容の側で取捨選択した事例と位置付けられる.

D.の皿斗については,中国南方や雲崗石窟第九洞柱頭などで存続すると同時に,七世紀の高句麗の壁画で確認できる手法であったが,唐代の現存木造建築では用いられていない.また山東省の東漢の画像石や石造組物でも必ずしも用いるわけではない.そして高句麗の双斗では大斗・巻斗ともに皿斗が付くものも多いが,法隆寺の皿斗は大斗のみであるから,高句麗からのそのままの伝播とは捉えがたい.むしろ日本の中世の大仏様でも確認できる皿斗は宋代以降の福建省の木造建築に見えることを踏まえれば,皿斗は中国南方系からの影響かもしれない30.山田寺の長い肘木・皿斗も同様の伝播ルートの可能性もあり,百済が中国の南朝を通して仏教を取り入れたことを鑑みれば,この南朝と頻繁に交流していた百済を経由した可能性もあろう.この点については,発掘調査を通じて,百済の古建築の様相が明らかになれば,百済経由か否かについての見通しが得られよう.

そして E.通肘木の積層や井桁構造に関しては,大陸での淵源は明らかではないが,前者は,初唐以来の絵画資料や唐代の現存建築に確認できる.朝鮮半島を経由していないとすれば,皿斗と同じく,中国大陸からの直接的な伝播の可能性もある.中国の現存建築が限られるが,南方福建省の華林寺大殿などの時代の下ったものでも通肘木を積層していないことを踏まえれば,あるいは中原地域からの伝播であろうか.

F.の人字栱は日本では法隆寺金堂の高欄などに限定的であり,さらに曲線化している.中国の事例を見れば,人字栱の曲線化については,北斉の 570 年の天竜山石窟第 16 洞以降の特徴である.また三斗と人字栱を並べて使う手法は唐代の壁画にも確認できる.すなわち,A.の双斗の古式さとは対比的に,大陸の同時代的特徴の移入がうかがえるのである.再建された現在の法隆寺西院伽藍の建築が創建時の意匠を継承したとして,創建時の七世紀前半の時点で言えば,中国の同時代的な傾向が見えるのである31

[表1]主要な古代東アジアの建築細部意匠の比較

事例(年代)

地域

A.双斗

B.舌

C.笹繰

D.皿斗

E.通肘木

F.人字栱

備考

唐河県針織廠

楼閣舞楽図画像石(後漢早期)

中国・河南省

三斗

×

×

×

関口2012
綿陽楊君闕右闕(後漢晩期)

中国・四川省

双斗

薄い作り出し

唐聡2018
雅安高頤闕石彫斗栱(209年頃)

中国・四川省

双斗

薄い作り出し

(幅広)

唐聡2019

洛陽澗西16号工区82号墓斗栱形

(西晋晩期)

中国・河北省

×

×

関口2012

徐州漢画像石藝術館蔵

石造斗栱(東漢)

中国・山東省

双斗

×

×

海野現地調査
北寨墓群の斗栱(東漢)

中国・山東省

双斗と三斗の過渡期

×

×

海野現地調査
北寨墓群画像石の斗栱(東漢)

中国・山東省

双斗

〇(板状)

海野現地調査
安岳3号墳(357年)

朝鮮半島・高句麗

双斗

幅広

×

関口2012
安城洞大塚(5世紀中頃以前)

朝鮮半島・高句麗

三斗

×

×

×

直線的

(扠首状)

関口2012
双楹塚(5世紀末)

朝鮮半島・高句麗

三斗

×

直線的

(扠首状)

関口2012
雲崗石窟第2窟(471-494)

中国・山西省

三斗

×

直線的

海野現地調査
天竜山石窟第16洞(570年)

中国・山西省

三斗

×

曲線化

関口2012
李寿墓墓上壁画図(631年)

中国・陝西省

三斗

×

×

曲線化

『東洋美術全集』
莫高窟431窟北壁(初唐)

中国・甘粛省

三斗

×

×

『敦煌石窟全集21』

山田寺回廊出土部材

(7世紀中頃)

日本

三斗

幅広の舌

×

奈良文化財研究所1995
法隆寺金堂(7世紀後半)

日本

雲斗・雲肘木(双斗系)

*ただし廻廊は三斗

幅狭の舌

三斗状の笹繰

曲線化

海野現地調査
雁鴨池出土部材(7世紀後半)

朝鮮半島

・新羅

三斗

×

金 碩顯氏提供
大雁塔西面入口楣石彫刻(704年)

中国・陝西省

三斗

×

×

×

×

曲線化

海野現地調査
懿徳太子墓墓道北壁(706年)

中国・陝西省

三斗

×

×

曲線化

海野現地調査
薬師寺東塔(730年)

日本

三斗

幅広の舌

×

海野現地調査
南禅寺大殿(782年)

中国・山西省

三斗

彩色(燕尾)

×

(蟇股上の板)

海野現地調査
広仁王廟大殿(831年)

中国・山西省

三斗

×

×

×

海野現地調査
仏光寺大殿(857年)

中国・山西省

三斗

彩色(燕尾)

×

海野現地調査
華林寺大殿(954年)

中国・福建省

三斗

×

×

海野現地調査
陳大尉宮正殿(909年)

中国・福建省

三斗

×

×

海野現地調査
元妙観三聖殿(1009年)

中国・福建省

三斗

×

×

海野現地調査

悉皆的ではないが,主要な古代東アジアの建築細部意匠の特徴をまとめたものが表1である.これをもとに法隆寺の特徴をみると,建築技術の伝播ルートに関して言えば,B.D.は高句麗からの伝播ではなく,とりわけ,D.については中国の南方系からの伝播なのかもしれない.B.については,新旧の2種類の舌があるという先行研究の視座から見れば,幅広の舌は安岳三号墳でも見えることから,山田寺の舌も高句麗,朝鮮半島経由の可能性がある.すなわち山田寺の伝播の系譜も南方ではなく,北方の系譜の影響も入っている,あるいは長い肘木を含めて北方の系譜,と考えることもでき,山田寺に D.の皿斗がないことを考慮すると,この可能性が十分にあろう.これを踏まえるのであれば,法隆寺の舌の形式は山田寺や薬師寺のような幅広ではなく32,南禅寺大殿の彩色による舌の表現の燕尾を見ると,その幅が狭いことから,やはり,より新しい形式とみてよかろう.朝鮮半島の状況の詳細は不明であるが,七世紀の新羅の肘木が舌を用いず,舌に関しても,朝鮮半島で用いられていないのであれば,法隆寺には中国の同時代的な傾向が見える.

また E.F.の通肘木の積層は朝鮮半島での存否にもよるが,南禅寺で見られるように,中原などには存在した技術である.同時代的に南方で存在したが否かは不明であるが,華林寺大殿(954 年)では二段目の通時木と側桁のみが水平材の積層にあたり,一段目・三段目は通常の肘木である.もし通肘木の積層が南方になかった技術であるとすれば,南方以外の中国大陸からの伝播の可能性もあり,ともに七世紀後半の唐と日本の直接的な技術伝播をうかがわせる重要なルートである.天智天皇 8 年(669)の遣唐使の一員の黄文本実が仏足石図を長安普光寺で転写して持ち帰っており,同 10 年(671)にはその時に持ち帰ったとみられる水臬(水準器)を献上していることを鑑みれば,唐からの直接的かつ同時代的な建築情報の伝播も十分に推定できる.

以上を踏まえると,朝鮮半島の百済由来,高句麗由来,新羅由来のほか,中国大陸からも少なくとも中原・南方の二地域からの伝播ルートが推定できるのである.そして大陸の建築技術が建物総体として移入されたのではなく,細部ごとにその伝播の粗密や取捨選択があり,それが日本で建構築されているとみられる.

6.おわりに

古代日本の現存建築や出土部材から見れば,大斗の皿斗や肘木の舌・笹繰,人字栱など,飛鳥時代から奈良時代初期までに見られた細部は八世紀以降の現存建築では見られなくなっていく.七世紀には大陸から持ち込まれていた建築技術が氏族などに分散的に存在していたが,次第に国内の造営官司による技術者の一元的な管理への志向などを通して,官が建築技術を掌握していった.律令制のもと,宮殿や寺院などの大量造営がなされていたから,柱間寸法や部材のプロポーションなどの規格化による合理化がみえる.構造に関しては合理化に限度があるが,これらの建築細部に関しては,意匠的な側面が強く,その省略や意匠の画一化などによる作業効率面での合理化がすすめられたと推察される.つまり日本が大陸,特に唐の建築技術や体制を無批判に受け入れたのではなく,独自の「日本化」を進めた結果とも捉えられる.同時に中世以降,和様と位置付けられる技術や様式等の諸要素が,この律令官司で形成されていったのであろう33.こうした七・八世紀における「日本化」は大陸の文化や技術に対する自国の気づきであり,国風化の萌芽,あるいは平安時代の文化的潮流である国風化における規範形成の一つであった.皿斗や笹操に代表される細部が大仏様で再度,日本に持ち込まれる点は,連綿と続く大陸との技術交流の強弱や時代ごとに大陸を目指すべき規範とみなすか否かという程度の差を端的に示していよう.そして,中世に再び大陸の建築技術と触れたことで,自国の建築を自覚的に捉える機会ともなった.

以上のように,法隆寺西院伽藍の建築群にみえる独自性の高い建築的特徴は明治以来,東アジアの建築伝播のルートをうかがう研究対象であるが,法隆寺の再建建築自体が七世紀後半の段階においても最新の様式ではない可能性があることもあり,その位置づけは極めて難しい.ただし,本論で述べたように,その細部ごとに中国や朝鮮半島の建築表現と比べることで,七世紀中葉以降にも日本が唐の中心部の情報や技術を摂取していた様相が見えてくる.ただし,この推論を確たるものとするには資料の不足も否めない.それゆえ日本はもちろん,中国や朝鮮半島の発掘調査の進展と,新たな資料の増加により,活発な研究が展開することを期待して,擱筆としたい.

付記

本稿の執筆にあたり,金碩顯氏、唐聡氏に図像や遺物についてご教示いただいた.ここに記して謝意を示したい.

また本研究は下記の研究助成(いずれも研究代表者海野聡)の成果の一部である.

科学研究費補助金 挑戦的研究(萌芽)「美術史学・考古学・建築史学の複合手法による東アジア建築技術伝播ルートの解明」

科学研究費補助金 基盤研究(A)「東アジアにおける工匠関連史料にもとづく建築生産史の再構築と技術蓄積・伝播の解明」

Footnotes

1 喜田 1934,海野 2019 ほか.

2 村田 1986.

3 福山 1968.

4 関口 2012.

5 唐 2018,内藤 2023 など.

6 注1前掲論文.

7 上野 1987.

8 稲葉1987.なお肘木の舌の研究は,井上充夫が先鞭をつけている(井上1964).

9 伝統のディテール研究会 1972.

10 この点については,2019 年 11 月 30 日に仏教芸術学会主催の「平城薬師寺をめぐるシンポジウム-「伽藍を移す」ことの意味を考える-」において,「薬師寺東塔にみる建築様式の継承と革新」と題して,組物と積層構造の特徴について,口頭で報告している.

11 拙稿で,古代の井戸の構造を検討する過程で,校倉などのせいろう組の構造についても言及している(海野・小田 2013).

12 古代の重層建築は限られるが,楼造では柱盤や通肘木を用いている.

13 法隆寺について,『営造法式』の殿堂形式で論じたのは竹島卓一であり(竹島 1975,竹島 1970–1972),村田健一もこの『営造法式』の分類について論じている(村田 2006).ただし,『営造法式』の編纂された 1100 年以前に,これらの設計手法や概念が成立していたかについては,慎重に捉える必要がある.

14 奈良国立文化財研究所 1995,箱崎 2012 ほか.また山田寺回廊では頭貫が柱頭よりも突出するという特徴があり,これは大仏様とも共通する手法である.ただし,中国南方の建築では必ずしもこの特徴が見られない点は注意しておく必要があろう.

15 海野 2023 ほか.

16 むろん,新羅の統一後に,旧百済地域,旧高句麗地域から技術が伝播した可能性もあるが,双塔式伽藍配置については,慶州で確認できることから,淵源はともかくとして,新羅の建築手法のひとつと見てよい.むろん,この双塔式の伽藍配置自体,唐の影響を受けている.

17 注4前掲論文.

18 内藤 2020.

19 唐聡は,鮑・劉・梁 1934,楊 1987 などをもとに,三世紀初頭までの組物は双斗系が主流であり,その後,時代が下るにつれて三斗系のものが発達し,双斗系に代わって普及したとする(注5前掲論文).

20 関口も指摘するように,この推定については飯田須賀斯の指摘がある(飯田1953).

21 注 18 前掲論文.

22 注5唐聡前掲論文.

23 唐聡は同墓の画像石に双斗に舌が認められるとするが(注5前掲論文),同墓の石造の組物には舌が造り出されていないは注意が必要であろう.

24 南禅寺大殿の柱上で,側桁を受ける斗と蟇股の間に薄い板状の材が挟まる.運航石窟や高句麗壁画などの描写では斗本体と皿斗は一体化している時期であり,この板を皿斗とみなすかどうかについては,注意が必要である.

25 注 4 前掲論文.

26 後漢早期の河南省唐河県針織廠の楼閣舞楽図画像石の例は双斗からの系譜とは考えにくく,大斗の上に笹繰のない肘木が置かれ,そこに三つの斗が重なる.この上面水平の肘木も表現上,笹繰が省略された可能性もあるが,ここから笹繰の無い系譜の三斗の展開も考えられる.三斗を二段重ねて,長い肘木を用いる龕神塚,安岳1号墓,双楹塚のうち,龕神塚,双楹塚では双斗の中央に斗を置いた三斗の系譜で,そして双斗の上の斗には皿斗が付くのに対して,中央の斗には皿斗が付かない.この違いも双斗の中央に斗が加えられたという系譜をうかがわせる.

27 さらに南禅寺大殿・仏光寺東大殿をみれば,通肘木に肘木型の装飾があり,ここを見れば,長い肘木を用いている.この点を踏まえれば,通肘木の積層と長い肘木は関連する技術であるのかもしれない.

28 注 5 唐聡前掲論文.

29 同氏から舌に関して,朝鮮半島の実例は今のところ安岳三号墳一つだけ,幅広の舌の系譜に属しすることをあげ,北回りではない可能性を想起していると教示を頂いた.ここに記して謝意を示したい.

30 中国では中原で皿斗が失われても,南方では用いられ続けたのであろう.また山田寺では確認できないことを踏まえれば,法隆寺再建の七世紀後半ではなく,創建時など,より古い時期に日本に皿斗が持ち込まれ,それが日本では残っていた可能性もある.むしろ注14 で指摘したように,頭貫の柱頭からの突出は中国南方系の技術ではない可能性もあり,大仏様の要素の全てを中国南方系由来とすることは適切ではないと考える.これらの大仏様の技法レベルでの研究は今後の課題であろう.

31 法隆寺の創建時も同様の形式の人字栱であったとすれば,天竜山との時期差は小さい.また人字栱と三斗の並列が初唐の手法であるとみれば,これも再建時の同時代的な移入となる.

32 注5唐聡前掲論文.永和 13 年(357)の安岳三号墳は双斗で幅広の舌が付き,中国で最も年代が下る太和元年(477)の大同宋紹祖墓家形石棺が三斗で,比較的,幅の狭い舌である.

33 律令官司の観点からの和様の特徴については宮殿の建築を対象に藤井恵介も述べている(藤井2022).

参考文献および引用図版出典
  • 飯田須賀斯[1953]『中国建築の日本建築に及ぼせる影響』相模書房.
  • 稲葉和也[1987]「四川省に見られる漢代の皿斗と舌の形式について 漢代建築の復元的研究 その 10」『日本建築学会大会学術講演梗概集』811–812.
  • 井上充夫[1964]「舌について」『日本建築学会論文報告集』103: 468.
  • 上野邦一[1987]「隅一組物の建物について」『建築史学』8: 36–62.
  • 海野聡[2019]「コラム:建立年代論争―法隆寺金堂と薬師寺東塔―」『古代寺院 新たに見えてきた生活と文化』岩波書店,258–261.
  • 海野聡[2023]「古代建築と渡来系技術」『鞠智城シンポジウム 2022 成果報告書 渡来系技術から見た古代山城・鞠智城』熊本県教育委員会,57–88.
  • 海野聡・小田裕樹[2013]「都城の形成と井戸」『続・井戸再考―古墳・飛鳥時代の井戸―』埋蔵文化財研究会,31–50.
  • 喜田貞吉[1934]『法隆寺再建非再建論の回顧』鵤故郷舎.
  • 唐聡[2017]「法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「鷰尾」の関連性について」『建築史学』68: 2–28.
  • 関口欣也[2012]「朝鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統」『江南禅院の源流 高麗の発展』中央公論美術出版,225–329.
  • 竹島卓一[1975]『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』中央公論美術出版.
  • 竹島卓一[1970–1972]『營造法式の研究』1-3、中央公論美術出版.
  • 伝統のディテール研究会[1972]『伝統のディテール 日本建築の詳細と技術の変遷』彰国社.
  • 内藤元太[2020]「法隆寺建築様式の考古学的検討―後漢から南北朝の斗栱型式の考察―」『青陵』159,2–5.
  • 内藤元太[2023]「東アジア古代建築における跳出斗栱の編年と雲肘木 法隆寺系建築様式の遡源とその伝播背景の研究」『由良大和古代文化研究協会 研究紀要』27: 141–175.
  • 奈良国立文化財研究所 [1995]『山田寺出土建築部材集成』奈良文化財研究所.
  • 福山敏男[1968]「法隆寺の創立」『日本建築史研究』墨水書房,255–264.
  • 藤井恵介[2022]「平安時代の宮殿建設システムと建築様式「和様」」『国際研究集会「御所(宮殿)・邸宅造営関係資料の地脈と新天地」報告集(3)』東京大学史料編纂所,11–16.
  • 村田健一[2006]『伝統木造建築を読み解く』学芸出版社.
  • 村田治郎[1986]「中国建築史より見たる法隆寺系建築様式の年代」『法隆寺建築様式論攷』中央公論美術出版,118–144.
  • 箱崎和久[2012]『奇偉荘厳の白鳳寺院・山田寺』新泉社.
  • 楊鴻勛[1987]「斗栱起源考察 1980 年全国科学技術史学術会議論文」『建築考古学論文集』文物出版社,253–267.
  • 鮑鼎・劉敦楨・梁思成[1934]「漢代的建築式様与装飾」『中国営造学社彙刊』5-2: 1–27.
  • 図 1 日本建築学会編『日本建築史図集』新訂第三版,彰国社,2011 年,10 頁に加筆.
  • 図 2・20『日本建築史基礎資料集成』4,中央公論美術出版,1981 年.
  • 図 3 『法隆寺国宝保存工事報告書 国宝法隆寺金堂修理工事報告』法隆寺国宝保存委員会,1962 年,『国宝東大寺本坊経庫修理工事報告書』奈良県教育委員会,1983 年,『国宝唐招提寺金堂修理工事報告書』奈良県教育委員会,2009 年.
  • 図 4 『法隆寺国宝保存工事報告書 国宝法隆寺金堂修理工事報告』法隆寺国宝保存委員会 1962 年,『日本建築史基礎資料集成』11,中央公論美術出版,1984 年,『国宝唐招提寺金堂修理工事報告書』奈良県教育委員会,2009 年に加筆.
  • 図 5 『国宝薬師寺東塔修理工事報告書』奈良県,2021 年.
  • 図 6『国宝唐招提寺金堂修理工事報告書』奈良県教育委員会,2009 年.
  • 図 7 『法隆寺国宝保存工事報告書 国宝法隆寺金堂修理工事報告』法隆寺国宝保存委員会 1962 年.
  • 図 8『国宝唐招提寺金堂修理工事報告書』奈良県教育委員会,2009 年,『法隆寺国宝保存工事報告書 国宝法隆寺金堂修理工事報告』法隆寺国宝保存委員会 1962 年に加筆.
  • 図 9・10『日本建築史基礎資料集成』11,中央公論美術出版,1984 年,『国宝薬師寺東塔修理工事報告書』奈良県,2021 年に加筆.
  • 図 11 奈良文化財研究所編『発掘遺構から読み解く古代建築』クバプロ,2016 年.
  • 図 12・13・14 『山田寺出土建築部材集成』奈良文化財研究所,1995 年,同『山田寺発掘調査報告』2002 年.
  • 図 15 『四天王寺』埋蔵文化財発掘調査報告 6,文化財保護委員会,1967 年.
  • 図 16・18・22 関口欣也「朝鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統」『江南禅院の源流 高麗の発展』中央公論美術出版,2012 年.
  • 図 17・21・23・24・26 海野撮影.
  • 図 19 山西省考古研究所・忻州市文物管理所「山西忻州市九原崗北朝壁画墓」『文物』2015—7,2015 年.
  • 図 25 『日本建築史基礎資料集成』12,中央公論美術出版,1999 年.
 
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