仏教文化研究論集
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論文
一切知者の時間認識
Pramāṇavārttikālaṅkāra ad PV II vv. 136-137の解読
護山 真也
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2000 年 4 巻 p. 63-86

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0. 問題の所在

 時間とは不思議なものである.「過去」や「未来」としてとりあえず我々が名指ししているものの本質は何かと考えてゆくと,どうにもつかみどころのない時間の謎に直面する.古代インドでは「時間」を一つのカテゴリーとして分類し,実体視する根強い考え方――特に範疇的実在論として知られるヴァイシェーシカ学派の時間実在論――がある一方で,ナーガールジュナのように時間の虚構性を指摘する思想家もまた存在した.大乗仏教の時間論について江島[1974:268]は「時間を実体的に捉える日常的な時間観念が徹底的に否定されることのうちには,日常的な観念を超越したところで見られる時間,日常的には無時間的な時間とでも表現する以外にはない悟りの世界での時間がいつでも志向されている.時間の実体性が否定され執着が断たれたときに時間が仏の眼の前にありのままの姿を現すと考えられるのである」と述べている.日常的な時間とそれを超越した時間という二つの時間から大乗仏教の時間論が形成されているということは,これから考察する「一切知者(sarvajña)の認識に過去や未来の事象はどのように映じるのか」という問題を解く鍵でもある.

 仏教論理学・認識論学派の大成者としてその名を馳せたダルマキールティ(Dharmakīrti, ca. 600-660)没後、約一世紀を隔てて登場したプラジュニャーカラグプタ(Prajñākaragupta, ca. 750-810) 1は,ダルマキールティの思想を継承する諸注釈者群の中でも,その独自の議論によって注目されるべき人物である.プラジュニャーカラによれば,一切知者の認識対象とは普遍的因果関係,つまり業とその果報の結びつきによる輪廻の諸相である2. 彼は「一切知者である世尊がいかにして過去や未来の事象を知り尽くすことができるのか」という難問を念頭に置いて,その主著Pramāṇavārttikālaṅkāra(PVA)中,Pramāṇavārttika II vv. 136-137への注釈部分(特にPVA 110, 21- 115, 30)で独自の一切知者論を展開している.

この個所については,すでに岩田[1986]が検討を加えており,「世間の人の時間系で“過去”“未来”と見える事象が,それとは別なヨーガ行者の時間系にても同様に「過去」「未来」と規定されなければならない必然性は全く無い.それ故にヨーガ行者が,世間の人の時間系で“過去・未来”とされる事象を,ヨーガ行者の時間系上で「現在」と見ることは,何等矛盾ではない」とプラジュニャーカラの見解が的確に要約されている3 .この二種の時間系論は,この個所を解読する上で欠かせない視点であるが,もう一つ,知覚と推理との連関という視点がこの個所の解読には必須であると思われる.プラジュニャーカラによれば一切知者の認識とは「様々な因果関係の瞑想(anekaprakāra-kāryakāraṇabhāvabhāvanā)に従って全世界を知ること」(PVA 111, 6-7),「全ての形象の推理(sarvākārānumāna)」,「全ての形象の直接知(sarvākārasākṣātkaraṇa)」などと表現される.複注釈者ヤマーリ(Yamāri, ca. 1000-1060)はこれを,瞑想(bhāvanā)を前提とするヨーガ行者の知覚(yogipratyakṣa)の認識構造と対応させて説明している4.このヨーガ行者の知覚と近似した一切知者の認識構造において,究極の直接知を目指す特別な推理である「全ての形象の推理」の働き5は,瞑想状態における認識のあり方を理解する上で重要な概念と思われる.過去や未来の事象をありありと目前に浮かび上がらせるこの特別な推理の働きを前提として,偉大なるヨーガ行者である一切知者はそれらの対象を直接認識する.本稿の目的は岩田[1986][1987]では注目されなかったこの「全ての形象の推理」に焦点を当てながら,プラジュニャーカラの時間認識論の特色を描き出すことである.

1. ヨーガ行者(一切知者)の認識における現前・存在領域の拡張

1.1. 直接知→感覚器官の存在→現前性

 仏教認識論・論理学では通常,妥当な認識手段(pramāṇa)として知覚(pratyakṣa)と推理(anumāna)の二種のみを承認している.各々の対象が,独自相(svalakṣaṇa)と一般相(sāmānyalakṣaṇa)であり,これはまた現前のもの(pratyakṣa)と非現前のもの(parokṣa)とに分類することもできる.ダルマキールティは次のように述べる.

《現前のものと非現前のもの以外に別の認識対象はありえない. したがって認識対象が二種であるから,認識手段も二種であると認められる.》(PV III v. 63)6

 例えば推理の場面を考えてみると,向こうに見える山から煙が立ち昇っている状態を見て,ここからは見えない火の存在を推理する.この場合,推理対象たる火は現前のものではない.実際にその山に行って火の存在を確認するならば,知覚されることによって対象は現前のものとなる.この場合,推理対象たる火の非現前性は感覚器官がそれに対して作用しない等の理由から導かれる7

このように考えると過去や未来の事象の非現前性は明らかである.まず未来の事象に関して,普通の人は決してありありと未来の事柄を知ることはできない.例えばある対象に対して,空間的に遠く離れた所からでも見通すことができる人もいれば,視力が弱いために見ることができない人もいる.同じように,未来事象から時間的に遠く隔たった現在時点からでも,それを見通すことができるヨーガ行者もいれば,見ることのできないわれわれのような通常人もいる.その理由をジャヤンタやヤマーリは,卓越した感覚器官を備えたヨーガ行者とは違って,われわれにそのような感覚器官がないからであると述べている8 .一方,過去に経験した事象に関してわれわれは,現在時の外的感覚器官を用いて知覚することはできない.その場合はただ想起(smṛti)という手段によるしかない.このように過去・未来いずれの場合にせよ,感覚器官の作用の有無が対象の現前/非現前を決定づける.

 以上の前提を踏まえた上で,プラジュニャーカラは一切知者が過去や未来の事象を認識する場合には,「全ての形象の推理」という特別な推理の働きによって,認識対象が現前することを次のように証明する.

《直接知が現に存在する以上,どうしてこれ〔=すべての形象の推理〕が間接〔知〕であろうか.「(そのようにして)直接知られたもの(=過去の事象など)は現前のものではない」と反論するならば,〔現在時の通常の感官知における〕現前のものが存在しないことになる.》(601)

【反論】現前性(aparokṣatā)は感覚器官の働きに基づく.【応答】まさにその感覚器官の働きは,直接知がなければどうして理解されようか.〔感覚器官の働きは〕直接知によって理解されるとするならば,〔感官知だけでなく〕全ての形象の推理の場合にも,感覚器官の働きがあるはずである.推理の働きは〔過去の事象などだけでなく現在の事象や他者の感覚器官の作用など〕あらゆるものに対してある以上,〔現在の〕視覚器官などの作用も推理に基づいて理解される9

彼の思考の軌跡は次のように要約できる.(a)感官知の場合,直接知があることに基づいて感覚器官の作用が理解され,感覚器官の作用があるから対象の現前性が理解される.同様に(b)過去や未来に対するヨーガ行者の認識でも直接知の働きが認められる以上,自・他の過去・現在・未来の感覚器官の作用がなければならない.故にヨーガ行者の認識に映じる過去や未来の事象は現前のものである.

はじめに彼は感官知を例にとり,一般的な知覚の因果説(対象→感覚器官→知覚)を反省する.われわれが視覚器官を通して眼前の対象(例えば机)を見る場合,その時,視覚器官が働いているという事実は,対象認識(机の認識)が起こった後に自らの認識を反省することによって理解されるのであり,対象を見ているまさにその時に,「私は視覚器官を通して机を見ている」という理解は起こらない.あくまでも認識が生じた後,事後的にその対象認識に関わった視覚器官の作用が理解される.すでにプラジュニャーカラは,対象認識に関与しえない損傷した感覚器官を「感覚器官」と呼ぶべきではないと説いていることからも,彼の論法は一貫している.(a)

(a)から類推して,過去や未来の事象に対するヨーガ行者の認識にも直接知の働きがあることから,その前提となる全ての形象の推理において各々の感覚器官の作用が認められなければならない.この場合,過去事象に過去の感覚器官,未来事象に未来の感覚器官が対応する.またそれだけでなく,他相続の現在事象に対応する他者の現在時の感覚器官も含まれる.(b)

このことは次の二つの詩節で明確になる.

《以前に観察したものに対して全ての形象の推理があれば,自分の視覚器官などの働きも理解される.》(602)

《ある場合に未来にあるはずの(感覚器官の作用),ある場合に過去にあった感覚器官の作用は推理によって理解される.故にそこ〔=すべての形象の推理〕においてどうしてその感覚器官の作用がないことがあろうか.》(603)10

 感官知によって自ら経験した過去の事象も,全ての形象の推理対象である以上,その過去事象と対応している過去の自分の感覚器官も同じように理解される.同様に,三世にわたる他者の感覚領域もヨーガ行者の認識対象(=全ての形象の推理対象)であるのだから,各々の感覚器官の作用も推理される.このように直接知の作用から,その前段階の推理における感覚器官の作用,そして対象の現前性が導かれている.過去や未来,そして他相続の認識対象にいたるまで,可視的領域を拡張することに貢献する推理の働きが,ここで理解されるだろう11

1.2. 直接知→存在性

 次にプラジュニャーカラは,直接知(sākṣātkaraṇa)によって対象の存在性が規定されることを述べる.

《他ならぬ直接知(があること)が,この〔過去や未来の〕存在者の存在性であると言われる.(現在時を含めた三時の)いずれの場合においても直接知に基づいて存在者の存在性が理解される.》(604)

柱などの事物が(他者によって)現在のものと思い込まれているとしても,直接知に基づいてそれ(=柱など)の存在性が理解されるのであり,それ以外の方法によるのではない12

 ヨーガ行者以外の人により「現在時と思い込まれている(vartamāna -abhimata)」ものであっても,ヨーガ行者の直接知に基づいてその存在性が浮かび上がる.一般的には,「今,ここ」に限定されたものが存在性をもつのであり,未来事象や過去事象は存在しない.だがプラジュニャーカラは直接知(sākṣātkaraṇa)の作用こそが存在者の存在性であり,「全ての形象の推理」という直接知の作用を備えた特別な推理によって推理されている以上,過去事象や未来事象もまた存在性を獲得できることを強調している.

 ところでこのようなプラジュニャーカラの見解に対して,反論者は存在性には現前の存在性と非現前の存在性があり,前者は知覚で知られるが,後者は推理によって知られるのではないかという反論を提示している13 .これに対してプラジュニャーカラは次のように答える.

その場合(=火の存在性を推理する場合)もそのようなもの〔=直接知と結び付いたもの〕にのみ推理がある.〔なぜならば〕直接知られたもの・〔他者によって〕直接知られつつあるもの・直接知られるであろうものが推理されるのであり,さもなくば推理は働かないからである.知覚に従う推理は可視性のみを推理せしめる.そうでなければ妥当しないから.だがもし誰も見たことがない・見ていない・見ないであろうものならば,兎の角の如き(śaśaviṣāṇāyamānam)非存在に他ならない.あらゆる能力について名指し(upākhyā)14を欠いているものこそが,名指しされないもの(anupākhyā)である15

上記のプラジュニャーカラの回答によれば,推理対象の存在性は可視的なものである.「あの山に火がある」という推理の場合であれ,推理対象である火の存在性は推理者以外の誰かが現に直接見ているものだと考えられる16 .同様にして,推理対象とは自・他がすでに直接知ったもの,直接知るであろうものへも拡張される.これら全てをまとめて「可視性(dṛśyatā)」と彼は呼ぶ.それ以外には,誰からも決して知られないもの,つまり完全なる非存在しか残されない.このように直接知から存在性を規定することによって,現前/非現前の境界線と同様に存在/非存在の境界線も変更される.今,瞑想状態において,直接知を目指して特別な推理を働かせているヨーガ行者には,自・他の三世にわたるすべての事象が存在性と現前性を備えたものとして浮かび上がる.つまり,瞑想を離れれば非現前・非存在にすぎない領域にまで,瞑想状態の認識は拡張されてゆくと考えられる.以上の考察をまとめると以下の図を描くことができる.

<可視的対象の分割図>

  過去   現在   未来

自相続

(ヨーガ行者)

見たもの

感覚器官(過)

(s.a.の対象)

見ているもの

感覚器官(現)

見るであろうもの

感覚器官(未)

(s.a.の対象)

他相続

(通常人)

見たもの

感覚器官(過)

(s.a.の対象)

見ているもの

感覚器官(現)

(s.a.の対象)

見るであろうもの

感覚器官(未)

(s.a.の対象)

*この枠外に,誰にも見られない不可視的対象がある.

**s.a.=sarvākārānumāna

***色を付けた部分は本来ならば非現前・非存在対象であるが,直接知を目指して働く「全ての形象の推理」によって現前・存在対象となる.

2.ヨーガ行者による時間認識の構造

前節で見たプラジュニャーカラの見解――現前性・存在性を直接知によって規定する――に対して,「現在時にあるものだけが存在するのではないか」,「外的感覚器官の及ぶ範囲内だけが現前のものではないか」という常識的な反論が,次に提示される.一般的に,知覚対象が備えるべき存在性・現前性は,各々現在時性と外的感覚器官の作用という二つの要素から導かれるが,未来事象や過去事象にはどちらの要素もない.その意味ではヨーガ行者の認識に映じる過去や未来の事象も,非存在・非現前のものではないかと反論者は考える.

存在性とは現在という時間との結合であり,直接知のことではない.つまり,君たち(仏教徒)は過去や未来の事物に対するヨーガ行者の直接知を認めているが,現在性だけを見るので,彼は過去などを観じる者ではない.したがってすべての人たちと等しい.どうして彼が教示者であったりヨーガ行者であったりすることがあろうか17

 問題の焦点は反論者による「存在性=現在性」という理解の構図にある.「ヨーガ行者には過去事象や未来事象の直接知がある」と述べる場合,それが知覚という認識手段である限り,現在時のものだけが対象とならねばならず,必然的に過去や未来は対象化されない.プラジュニャーカラはこの反論に対して,二種の時間系(ヨーガ行者の時間と世間的な時間)を区別することによって回答を与えていることは,すでに岩田[1986]が解読した通りである.だが,ここでもまた,「全ての形象の推理」という特別な推理が重要な役割を果たしている点は注目に値する.以下ではまず二種の時間系を確認した後に,その両方の橋渡しをする推理の役割を見ることにしよう.

2.1. 二種の時間系

 二種の時間系とは,ヨーガ行者の依拠する時間系と世間一般の人々の依拠する時間系である.前者は瞑想状態(samādhāna)における超越的時間であり,後者は日常的な時間である.以下ではヨーガ行者を基準として,行為主体の時間・行為対象の時間とも呼ばれる.

 まず,日常的時間における過去・現在・未来の設定を彼の言葉で確認しておく.

《すでに見られたことが過去の時間性である.今見られていることが現在性である.見られるであろうことが未来性である.以上が時間の設定である.》(609)18

 ヤマーリの解説19を参照すれば,ここで現在性=知覚,過去・未来=非知覚が述べられているのであり,現在を基準点として時間設定が行われている.プラジュニャーカラ自身も,「過去や未来は今現に見られていないものであるということが対象の真実である」20と述べている.だとすれば,ヨーガ行者が過去や未来の事象を認識することは,「見えないものを見る」ことになり,「母親であり,かつ不妊症の女性である(mātā ca bandhyā ca)」(PVA 113, 6-7)と述べることと同じく自己矛盾した言明(non A=A)になる.プラジュニャーカラはこの過失を回避するために,「他者に依拠することによって(anyāpekṣayā)」という重要な条件句を導入する.ヨーガ行者の観点からは現に見えている(直接知がある)のだから「現在」でありつつ,通常人にとっては現に見えないのだから「過去」や「未来」と言える21

では「ヨーガ行者が現に見ているものは現在時のものだ」とはどういう意味なのか.過去事象を見ているのに,それが現在時性をもつことがありうるだろうか.彼は現在時を「今の時(idānīntanakāla)」と「その時の現在(tadātanakālavartamāna)」と二通りの表現を用いて説明する.このうち,前者は日常的な時間,後者は瞑想状態での超越的時間を指すと思われる.この手続きを経て「ヨーガ行者が過去や未来の事象を認識する」ことは,「その時の現在性」によって「ヨーガ行者は現在の事象を認識する」と書き換えることができる.

《さらにまたその時間(=その当時の現在性)と結合して,彼に直接知があれば,今は存在しないものだとしても,それが存在することは不合理ではない.》(612)22

 瞑想状態にあるヨーガ行者が見ている過去の事象は,日常的時間での現在性(idānīntanakāla)と結合しないが,瞑想状態における現在性(tadātanakālavartamānatā)と結合することによって存在する.このようにヨーガ行者が過去などを認識する際,彼は現在の対象を把握しているから,その認識は知覚だと証明される23.一方,瞑想状態にない通常人にしてみれば,日常的時間に沿って理解する他はない以上,これらの対象は過去事象であり,知覚されない.ヨーガ行者自身もまた,瞑想から出離した後には,再び日常的言語活動(vyāvahāra),つまり日常的時間に従って「過去」や「未来」ということができるようになる.このように瞑想=直接知における超越的時間とそれ以外の日常的時間は対照的に説明づけられる.過去事象を対象とした場合,各々の認識形態の相違は次のように要約できる.

<過去の事象がどのように認識されるか>

  1. (1)   ヨーガ行者の瞑想=直接知(sākṣātkaraṇa)において:

その時の現在時(tadātanavartamānatva)との結合→現前性・存在性

  1. (2)   通常人の日常的認識(あるいは瞑想出離後の日常的認識)において:

     その時の現在時との非結合→非現前性・非存在性

 ところで,このようなヨーガ行者の過去認識は「今,ヨーガ行者が知覚している対象は過去の事象である」と表現される.プラジュニャーカラは認識者(=ヨーガ行者)の時間(=現在)と認識対象の時間(=過去)との不一致は何の問題もないことを次の詩節で詠う.

《認識者〔=ヨーガ行者〕にとってのみ今という時間性があるのだと理解される.あるXの時間〔=行為主体の時間〕がどうしてそれ以外のY〔=過去事象などの認識対象〕を限定するものだと妥当するだろうか.》(693)24

 ヨーガ行者が過去事象を認識する場合,行為主体たるヨーガ行者に関してのみ,「今」という時間が成立しているのであって,認識対象にその時間はない.認識対象の側には,世間の人々が理解するままに例えば「過去」という時間名が与えられている.次のように説く.

《ある人が(ある実在を)あるあり方(X)として認識するならば,その時であれ,それ以外の時であれ,その人にとってその実在は全く同じあり方(X)をもつ.だが行為主体にとっての時間はそれ〔=対象〕にはない.》(614)25

 瞑想状態を経験しないわれわれ通常人にとっては,いついかなる場合でも,「過去」や「未来」と呼ぶところの時間は定まっている.そしてそれぞれの実在は,われわれの認識(通念)に応じて過去性や未来性というあり方をもち,どんな場合でも変わらず,固定化されている.一方,瞑想状態にあるヨーガ行者が過去事象を眺める場合,行為主体自身も今という現在にありつつ,認識対象にも先に見たとおり,「その時の現在性」が結びついている26.その瞑想から出離した後はじめて,彼はわれわれと同じように「過去」や「未来」を理解できる.ここで,瞑想状態にある超越的な時間(ヨーガ行者の時間)と,認識対象を貫く日常的時間という二項対立の図式がある点に気をつけなければならない.以上をまとめてプラジュニャーカラは次のように述べる.

したがってそれ(=過去などの認識対象)はその時間をもつものとして〔=その時点での現在時と結合して〕理解されているので,そのように存在する.だが一方,「今,私が理解したものはそれである」というのは,想起という日常表現にすぎないのであり,勝義ではない.そこ(=過去事象)には(われわれの)知覚は働かないのだから.だからあらゆる形象として現に理解されているものが知覚対象に他ならない27

この短い文章によってこれまでの二種の時間系が要約されている.文中,指示代名詞tatで示される対象は過去の認識対象である.ヨーガ行者はそれをtatkālaつまり,その時の現在性と結合したものとして知覚するので,彼にとってそれは存在する.一方,われわれにとってそれは「今,理解したもの」であり,「過去」(=anyakāla)として想起するものという違いがある.最後に知覚対象を規定して,「全ての形象として現に理解されているもの」と述べられている.ここに,過去を過去たらしめ,未来を未来たらしめる「全ての形象の推理」の働きが表明されているのだが,これについては次節で検討する.

<二種の時間系とその認識の区別>

瞑想状態のヨーガ行者:その時間と結びついたものを直接知→存在

           tatkālatā=tadātanakālavartamānatā

通常人あるいは   :他の時間(過去)として想起   →非存在

瞑想後のヨーガ行者  anyakālatā=kālāntarasambandha

2.2. 知覚と推理の連関

 では,推理と知覚とがどのように連関するのか.プラジュニャーカラは未来事象に対するヨーガ行者の認識を分析することから,この解決への道筋をつける.例えば,ある男性に将来生まれるはずの息子がいることをヨーガ行者は今,知ることができる.この「息子」はその父親となる男性が依拠している時間系(日常的時間)によれば,「未来」であるが,それを瞑想状態で今ありありと観じているヨーガ行者の視点からは「現在」である.

 ところで知覚とは「分別を離れ,無錯乱なものである」という定義がある.錯乱知(bhrānti)とは飛蚊症の者(taimirika)の認識のように実際にはない髪の毛や,所縁をもたない夢などの誤った知覚である.だとすれば,ヨーガ行者の知覚に映じるこの将来の息子という対象もまた,その父親には見えないのだから錯乱知ではないかという反論が想定される.これにプラジュニャーカラは次の詩節で答えている.

《ちょうど〔ヨーガ行者によって〕知覚されている彼(息子)は「秋」などの時と結びついているように,それ(=ヨーガ行者の知)は排撃されない.だが,その時との結合を彼〔=父親〕は見ない.(ヨーガ行者が見ている)その通りに理解されないとしても過失はない》(615)28

 ヨーガ行者が瞑想状態で知覚している対象は,「秋に生まれる息子」である.この「秋」という符号こそ,その時間を明確化するものであり,ヨーガ行者だけでなく,その父親にもあてはまる時間である.「未来の息子」が対象であるとすれば,まさに今それを見ている者と見ていない者とがあるのだから,先程のような錯乱知ではないかという反論は回避しがたい.だが「秋に生まれる息子」であれば,その父親にとっても可視対象と言えるのであり,その時になれば見ることができる(あるいは見ることができない)ことが判明する.実際に秋になっても息子が生まれていなければ,ヨーガ行者が見たものは幻のように存在しないものだったということになろう29

 ところで,この詩節は後代のジュニャーナシュリーミトラ(Jñānaśrīmitra, ca. 980-1030),ラトナキールティ(Ratnakīrti, ca. 1000-1050)によって引用されている.ニヤーヤ学派のバーサルヴァジュニャ(Bhāsarvajña)によって提示されたヨーガ行者による過去・未来認識の不可能性(存在しない過去・未来が顕現することはない)論を論駁する文脈で,彼は存在しない過去・未来事象を所縁とすることができるのは,瞑想の働きによることを述べた上で,上記の詩節を引用している.彼らにとってこの詩節は,時間を区別化する分別――後の箇所ではadhyavasāyaとしても表現される――に従って実践すれば,その対象を獲得することができることの根拠と考えられている30

一方,プラジュニャーカラにとって瞑想とは,他の人々が見ることができない過去や未来に現前性と存在性とを与える作用として考えられていた.先程の詩節に引き続いて,彼は「秋」などの時間は,実際には事物であり31,その過去・現在・未来は,知覚様態(すでに見た・見ている・見るであろう)に応じて決まることを確認する.だとすれば,それを知覚しているヨーガ行者にとって「現在」であっても,他の人々には見えないので「未来」である.だが,「他の人々によって知覚されないこと」は未来事象だけでなく,過去事象にも当てはまる32. ヨーガ行者の認識でこの両者を区別するために,かつ,「見られたもの・見られるであろうもの(過去・未来)」と「現に見ているもの(現在)」とを接続するために,推理の働きがクローズアップされる.

《それ〔=過去事象〕は推理の働きの通りに把握されねばならない.知覚もその実在をその通りに理解する.》(621)

ちょうど推理が過去や未来としてそれを理解するように,その推理によって生起する以上,〔ヨーガ行者の〕知覚も同様に〔理解する〕.と言うのも,その推理によって生起した知覚が別様に理解することはないのだから.したがって,〔推理によって〕理解されている通りに,それは存在すると理解すべきである33

 「全ての形象の推理」とは,まさに世間の人々と同様に過去を過去として,未来を未来として理解させるものである.ヨーガ行者の知覚とは,この推理によって立ち上げられる.つまり,彼は推理対象をそのまま知覚するのであり,その知覚対象は必ず存在する.ここに<全ての形象の推理対象性=知覚対象性=存在性>の構図が成り立つ.先にプラジュニャーカラは「他者に依拠して(anyāpekṣayā)」という条件句で,非現前・非存在の過去・未来事象という日常的時間の特性を述べたわけだが,「全ての形象の推理」とは,その日常的時間の時間性(過去性・未来性)をそのままに,知覚対象へと接続し,存在化させる働きを担うものだと思われる.

3. 結語

 以上のプラジュニャーカラの議論から,「ヨーガ行者(一切知者)は過去・未来事象を認識しうる」ことの妥当性が確保されるにいたる手続きが以下のように確認された.

(1)直接知の働きに基づいて,全ての形象の推理における自・他の感覚器官の作用が三時にわたって認められ,現前・存在領域が拡張される.

(2)全ての形象の推理は,三時のいずれをも現在時として知覚するヨーガ行者の知覚の前提であり,通常人が依拠する日常的時間に沿って,過去を過去とし,未来を未来として理解させる働きをもつ.したがってヨーガ行者にとって,推理対象たる過去や未来の事象がそのまま知覚対象となり,存在する.

ところで,彼と同時代の後期中観派の巨匠シャーンタラクシタ(Śāntarakṣita, ca. 725-788)・カマラシーラ(Kamalaśīla, ca. 740-795)師弟は,ヨーガ行者は現在事象――過去の結果であり,未来の原因であるもの――を認識し,後に分別知の一種である清浄世間知(śuddha-laukikavijñāna)によって過去や未来として理解すると述べている.彼らによれば,現在の一刹那である独自相と,相続する過去・未来とが対比されており,各々の認識手段が知覚と分別として考えられている34

 ここには,瞑想(全ての形象の推理)を介して,ヨーガ行者による過去・未来事象の知覚を合理的に説明しようと試みたプラジュニャーカラと共通する視点はない.知覚対象は独自相でなければならないという制限が,あるいは彼らには極めて重要だったのかもしれない.プラジュニャーカラはむしろ,推理対象――その意味では一般相であるべき――過去や未来の事象をそのまま知覚対象と考える.本来ここにはadhyavaseyaという対象相が介在すべきであろうが,それは先述の通り,後代のジュニャーナシュリーミトラ35の登場を待って解決され,より整備された認識論へと発展してゆく.このような思想史上にあって,プラジュニャーカラの功績は,直接知から出発して現前性・存在性を過去や未来まで拡張しつつ,片方で推理の面から,日常的時間の設定をそのまま生かす道を開くことによって,超越的時間と日常的時間の接点を見出した点にあると結論づけておきたい.

<各思想家による時間認識の分類>

   現在事象    過去・未来事象
Prajñākaragupta sākṣātkaraṇa=pratyakṣa ānumānaを経てsākṣātkaraṇa

Śāntarakṣita

Kamalaśīla

pratyakṣa

  1. (1)   śuddhalaukikajñāna
  2. (2)   ātmasaṃvedana

Jñānaśrīmitra

Ratnakīrti

pratyakṣa adhyavasāyaを経てpratyakṣa

(注記)

本文中においてテキストの和訳の際に用いた〔 〕は諸注釈書によって補ったものであり,( )は筆者自身による補い,あるいは原語を示している.《 》は詩節を示す.また,チベット語訳を引用する際にはデルゲ版により引用個所を示した.

Footnotes

1 プラジュニャーカラの生存年代ならびに著作の呼称,PVAに対する諸注釈者については小野[1996]に詳しい.

2 普遍的因果関係を認識する一切知者の認識に関しては, PVAで散説される. Cf. PVA 29, 29-31; 111, 2-4;115, 8-9; 329, 2-3.

3 同じく岩田[1987:191-194]でもヨーガ行者の時間認識が要約されている.

4 Cf. 護山[2000]

5 Cf. PVA 111, 20: anumānam api sarvākārasākṣātkaraṇapravṛttaṃ pratyakṣam eva/ 【和訳】たとえ推理であっても,全ての形象の直接知のために機能する以上,知覚に他ならない.

6 na pratyakṣaparokṣabhyāṃ meyasyānyasya sambhavaḥ/ tasmāt prameyadvitvena pramāṇadvitvam iṣyate// Cf. 戸崎[1979:131]

7 upalabdhilakṣaṇaについてはKellner[1999]等で検討されている.

8 Cf. PVA 114.5-6: anyena dṛśyate dūre yathānyenāpi kiṃ tathā/ aśvādikasya sattāyām api sarvair na darśanaṃ// śaktir ekasya yatrāsti na parasyāpi tatra sā/ ayoginām adṛśyatvād anāgatam iti sthitiḥ// 【和訳】《ある人が遠くで見るように,どうして他の人も同じように(見ることが)あろうか.たとえ馬などが存在するとしても,全ての人が見るわけではない》(616)《ある人にあるもの〔=認識対象〕に対する〔認識〕能力があっても,他の人にもそれに対する能力があるわけではない.ヨーガ行者以外の人には見えないから「未来」ということが成り立つ》(617)【解説】ヤマーリとジャヤンタによれば,ヨーガ行者は卓越した感覚器官をもち,推理対象と近接しているから未来の事象を知覚することができると解説する.Cf. J305a2-3, Y166a4-5.

9 PVA 111. 22-25: sākṣātkaraṇasadbhāve katham asya parokṣatā/ sākṣātkṛtaḥ parokṣaś ced aparokṣo na vidyate// athākṣavyāpārād ( -vyāpārād emend.; -vyāpārad ed.) aparokṣatā/ sa evākṣavyāpāraḥ sākṣātkaraṇam antareṇa katham avagamyate/ sākṣātkaraṇenāvagatau sarvākārānumāne ’py akṣavyāpāraḥ syāt/ anumānāvatārasya sarvatra bhāvāt/ cakṣurādivyāpāro ’py anumānād avagamyate/

10 PVA 111, 26-27: sarvākārānumānaṃ hi prāgdṛṣṭasya bhaved yadā/ tadātmacakṣur-ādīnāṃ vyāpāro ’pi pratīyate// kvacid bhāvī kvacid bhūtaḥ so ’numānena gamyate/ akṣavyāpāra ity eṣā tatrākṣavṛttir (-vṛttir emend.; -vyāvṛttir ed. Cf. D104a2) na kim//  

11 ヤマーリは,過去や未来の事象とそれに対応する感覚器官の作用とを推理知によって理解した上で,推理対象となった過去や未来の事象とそれに対応する感覚器官の作用によってヨーガ行者の知覚が生じると解説する.つまり,推理を前提として,ヨーガ行者は過去や未来の事象を知覚するのであり,またそこには感覚器官の作用も認められる.Cf. Y160a7-160b1.

12 PVA 112, 1-2: sākṣātkaraṇam evāsya bhāvasyāstitvam ucyate/ sarvatra sākṣātkaraṇāt sattvaṃ bhāvasya gamyate// vartamānābhimate ’pi (vartamānābhimate ’pi emend.; vartamānābhimatasyāpi ed.) padārthātmani stambhādau sākṣātkaraṇād eva gamyate tadastitvaṃ nānyataḥ/

13 Cf. PVA 112, 3: nanv asākṣātkṛte ’pi vahnyādāv anumānagamyam astitvaṃ/

14 プラジュニャーカラはここで,ダルマキールティがしばしば用いるupākhyāという語によって非存在を説明する.この用語については,Steinkellner[1979: 89 Anm. 33]がVNV, Kāśikā ad Pāṇinisūtra 6.3.80を引用して解説している.そこではupākhyāの訳語に‘Benennung’が当てられている.Much[1991]は次のように訳している. Much[1991:4, 17-19]: Was nämlich dadurch charaktersiert ist, dass man (von ihm) keine Fähigkeit aussagen kann, ist das Nichtseiende.(下線強調は筆者). Cf. VN2, 5: sarvasāmarthyopākhyāviraha-lakṣaṇaṃ hi nirupākhyam iti/ なお,上記の個所に対するヤマーリの解説では,「(upākhyāとは)知覚に従って生じる分別によって生み出されたもので,『それはこれである』と示すことである」(D161a7-161b1)と説明される.これらから,upākhyāとは,第三者に知覚対象を名指しすることだと思われる.「兎の角」などは知覚対象がないために,「これが兎の角である」と名指し(この場合は,指し示し)ができないから,非存在である.稲見[2000: n. 28]ではバルトリハリによる用例も報告されている.

15 PVA 112, 3-6: tatrāpi tathābhūtasyaivānumānaṃ sākṣātkṛtaṃ kriyamāṇaṃ kariṣyamāṇañ cānumīyate ’nyathānumānāpravṛtteḥ/ darśanānusāryanumānaṃ dṛśyatām evānumāpayati/ anyathāyogāt/ yadi tu na kenacid dṛṣṭaṃ dṛśyate drakśyate vā tadā śaśaviṣāṇāyamānam (śaśaviṣāṇāyamānam emend.; ca śaviṣāṇāyamānam ed.) asad eva/ sarvasāmarthyopākhyāviraha evānupākhyā/

16 そのためにヤマーリはkriyamāṇaṃに「他者によって」という語を補足したのであろう.Cf. Y161a2.

17 PVA 112, 7-9: vartamānakālasambandho ’stitvaṃ na sākṣātkaraṇaṃ/ tathā ca yoginām atītānāgatapadārthasākṣātkaraṇaṃ bhavadbhir iṣyate/ vartamānatāmātra-darśane tu nāsāv atītādidarśī/ tataḥ sarvajanasamānatā, katham asya śāstṛtvaṃ yogitvam veti …

18 Cf. PVA 112, 34: dṛṣṭatātītakālatvaṃ dṛśyatā vartamānatā/ bhāvitā drakṣyamānatvam iti kālavyavasthitiḥ// ここでdṛśyatāとはdṛśyamānatāが韻律の関係でそう呼ばれていると考えられる.

19 Cf. Y162b7.

20 PVA 113, 5: idānīm adṛśyamānam atītam anāgatam ity arthatattvaṃ/

21 Cf. PVA 113, 7-9: anyenādṛśyamānaṃ paśyati tad dṛśyamānatayā vartamānam eva tāvatā tad iti na doṣaḥ/ anyāpekṣayā tasyātītāditvaṃ/ tasmād yat sākṣātkṛtaṃ tad evāstīti nātītādāu nākṣavyāpāras (nātītādāu nākṣavyāpāras emend.; nātītād akṣavyāpāras ed. Cf. Y163b6), tasya sākṣātkṛtatvenāstitvāt (-āstitvāt emend.; -āsthitvāt ed.)/ 【和訳】他人に見えていないそれを現に見えているものとして彼は見る.その限りでそれは現在に他ならないので過失はない.他人に依拠すれば,それは過去などである.故に直接知られるものだけが存在するので,過去事象などに対しても感覚器官の作用はないことはない.それ〔=感覚器官〕は直接知られることにより存在するのだから.【解説】ヤマーリは次のように解説する.Y163b5-6: (「他者に依拠して」と言われるのは)我々に依拠して,ヨーガ行者には「過去」などの時間の区別があるのであり,自分自身に依拠しているのではないという意味である.そのように時間の区別がないのだから,「存在性とは現在という時間と結びつくことではなく,直接知のことである」と総括して「故に直接知られたものだけが存在する」と説かれる.感覚器官の作用はないのではなく,必ずある.

22 PVA 113, 10: kiñca tatkālayogena tasya sākṣātkriyā yadā/ tadedānīm asattve ’pi tasyāstitvam adurghaṭaṃ//

23 Cf. Y164a3.

24 Cf. PVA 113, 16: idānīntanakālatvaṃ dṛasṭur eveti gamyate/ anyakālaḥ kathaṃ yukto nāmānyasya viśeṣakaḥ// 

 また自ら解説する.Cf. PVA 113, 17: yo hi kartuḥ kālaḥ sa katham anyasya prameyasya bhavet/ na khalu karkatāśvasya gor yuktā/ 【和訳】なぜなら行為主体に属する時間が,どうして認識対象という別のものに属することがありえようか.実際,馬にある白性が牛にも当てはまることはない.

25 PVA 113, 19: yasya yadrūpasamvittir tadā tasyānyadāpi vā/ tadrūpam eva tad vastu kartṛkālo na tasya tu//

プラジュニャーカラはこの詩節に続いて述べる.Cf. PVA 113, 20-23: kālo hi kartur nārthasya/ kālāntaraviśeṣaṇatvena pratīyamānaṃ kathaṃ kartur anyakālatvam anurudhyate/ kartā hi paścād anyakālatāṃ pratipadyate/ ātmanaḥ pratīyamānan tu kālāntarasambandhitayā pratyeti kathaṃ tasyānyathā vyavasthāpanaṃ/ 【和訳】 なぜなら行為主体にとっての時間は対象にとっての(時間では)ない.他の時間(Y)という限定要素( kālāntaraviśeṣaṇa)によって現に理解されているものが,どうして行為主体にとっての他の時間(X)に付き随うだろうか.なぜなら行為主体は,(瞑想の)後に〔過去などの〕他の時間性を理解する.一方,自身で現に理解されているもの(=認識対象)は他の時間と結合して理解されるのだから,どうしてそれ〔=過去などの認識対象〕が別様に〔=行為主体の時間として〕設定されようか.

26 Cf. PVA 113, 22-23: kiñca/ kartur api tadā tatkālataiva pratīyate/ paścād anyakālatānyair vā (anyakālatānyair vā emend.; anyakālatānyaiva ed. Cf. D106a2) tasya kartus tatkālateti uktaṃ/ 【和訳】さらに〔瞑想している〕その時点では〔認識対象だけでなく〕行為主体にとってもその時間性だけが理解される.〔瞑想から出離した〕後,あるいは他の人々にとっての他の時間性が,その行為主体に理解されるとすでに述べられている.

 【解説】ヤマーリは,瞑想状態では主客共に現在時であるが,瞑想後には分別知に従う時間の区別化がなされると解説している.Cf. Y164b6.

27 PVA 113, 23-25: tasmāt tatkālatayā pratīyate tad iti tathāstitvaṃ/ mayā tu punar adya pratipannaṃ tad iti smaraṇavyavahāramātrakam eva na paramārthaḥ/ tatra (tatra emend.; omit ed.; Cf. D106a3, Y165a3, J304b2) pratyakṣasyāvṛtteḥ/ tasmāt sarvākāreṇa pratīyamānaṃ pratyakṣam eva/

28 PVA 113, 29-30: yathā sa dṛṣṭaḥ śaradādi(śaradādi emend.; śarīrādi ed. Cf. RNA 22, 10-13; JNA 331, 21; D106a5) kālayuktas tathā tasya na bādhitatvam/ tatkālayogas tu na tena dṛṣṭas tathā ’pratītāv (’pratītāv emend.; pratītāv ed. Cf. RNA 22, 13) api nāsti doṣaḥ//この詩節はラトナキールティも引用している.Cf. RNA 22, 10-13. Bühnemann[1980: 64] に独訳あり.同様に詩節前半はジュニャーナシュリーミトラも引用している.Cf. JNA 331, 21.

29 岩田[1987: 193]は,ヨーガ行者の知の整合性を自己認識から導き出す可能性を指摘しているが,ここでは,あくまでも第三者(父親)の認識に基づく整合性の確認が述べられている.

30 Cf. RNA 15, 28-16, 11(=Nbhu 172, 9-173, 8); 21, 21-22, 16; JNA 331, 17-23.

 PVAの詩節を引用する直前でラトナキールティは次のように述べる.RNA 22, 6-8: yasmād asannihite ’py arthe bhāvanābalāt taddeśakālākārānukāri vijñānaṃ katham anālambanam/ tathātvenādhyavasāyāc ca, adhyavasitakālaviśiṣṭasyaiva satyasvapnavat tasya prāpteḥ/ 【和訳】(ヨーガ行者の認識が無所縁でないのは)対象と近接していなくても,瞑想によってその(対象の)時間・場所・形象に相応している認識がどうして無所縁であろうか.また,そのように同一錯視されているからである.真実夢のように,同一錯視された時間に限定されたそれ(=真実夢の対象)は獲得できるのだから.

  後半部でジュニャーナシュリーは多少異なる表現をする.JNA 331, 19-20: sphuraṇarītiviśeṣeṇa tu kālabhedavikalpodayāt tadanurūpānuṣṭhāne niyatatvāt tatprāpteḥ 【和訳】一方,鮮明な流れの違いによって,時間の区別をもつ分別が生じるので,それに従って実践すればそれ(=その対象そのもの)を獲得することが定まっているのだから(無所縁ではない).

31 Cf. PVA 114, 11: padārthavyatirekeṇa na kālaḥ kaścid īkṣitaḥ/ grīṣmādayaḥ padārthās tu viṣayā eva kecana// 【和訳】《事物なしにはどんな時間も見られない.一方,「秋」などは対象たる何らかの事物に他ならない.》

32 Cf. PVA 114, 14: grīṣmādīnām atītādiviveko gamyate kathaṃ/ anyair anupalabdhaś ced dvayor nāsti vivekitā// 【和訳】「秋」などに関して過去などの区別がどうして〔ヨーガ行者によって〕理解されるのか.「他人によって知覚されていないからである」と答えるならば,〔過去と未来の〕両者には区別がなくなる.(620)

33 Cf. PVA 114, 117-20: anumānaṃ yathāvṛttaṃ tathā tad iti gṛhyatāṃ/ pratyakṣam api tadvast tathaiveti avagacchati// yathā tadanumānam atītānāgatāditvena pratyeti tathā pratyakṣam api tenānumānena samutthāpitaṃ/ na hi tadanumānotthāpitaṃ pratyakṣam anyathā pratyeti/ tasmād yathā yat pratīyate tathā tad astīty avagamyatāṃ/ 【解説】ジャヤンタもヤマーリも共に,ヨーガ行者の認識では推理対象がそのまま知覚対象となることを解説している.J305b5: 知覚によって知られたものが推理されるように,推理によって知られたものを知覚する.

 Y167a2: もし「どうして過去などを把握する推理によって生起した知覚が過去などを把握するのか」と述べ,「過去の原因によって生み出された結果がどうして過去になるだろうか」と疑う時,「その推理によって生起したものは知覚(対象)に他ならない」と答える.ちょうど知覚で知られたものが推理によって理解されるように,推理によって知られたものも知覚によって(理解される).

34 Cf. TS vv. 1852-1853; TSP ad TS vv. 1852-1853. この詩節については菅沼[1964: 102],川崎[1994: 254-255]を参照.ただし,この見解は後に最終章(Atīndriyārthadarśiparīkṣā)v. 3472で再度言及された後,経量部の見解から批判され,過去や未来についての世尊の認識が述べられる(vv. 3473-3475).そこでは先に見たラトナキールティ同様に真実夢(satyasvapna)を例にとって,外在対象をもたずとも欺くことのない認識があるように,ヨーガの力によって証因や伝承に依拠することなく,過去や未来の事象の鮮明な顕現(=知覚)が生じると述べている.またこの認識は自己認識(ātmasaṃvedana)であるから独自相を対象としており,知覚の定義を充足するものとして説明される.Cf. TSP 1090. 岩田[1987: 194]に和訳がある.

35 Steinkellner [1978]がYoginirṇayaprakaraṇaの一部を解読しているが,この書,ならびに彼の失われたSarvajñasiddhi(Cf. Steinkellner[1977])にプラジュニャーカラの議論がどの程度の影響を与えたのかは,まだ未解明な部分が多い.特にヨーガ行者の知覚の前提となる瞑想(bhāvanā)の役割については,今回扱った「全ての形象の推理」との関連などを含め別稿を期す.

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