仏教文化研究論集
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論文
インド聖典解釈学の法源論
知覚と聖典の住み分け
片岡 啓
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2001 年 5 巻 p. 26-50

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はじめに

[*] 聖典解釈学ミーマーンサーの根本経典ジャイミニ・スートラに対する復註釈者クマーリラ(後七世紀前半)が,特に仏教に対して行った全知者 (sarvajña) 批判は,ダルマキールティも含め2,彼以降の仏教論理学者,また,現代研究者の注目するところである3.このクマーリラ復註内の「全知者批判」当該箇所 (Ślokavārttika codanā, vv. 110cd-155) は,シャバラ註 (F 18.3-8) に対する字句註釈の後で「ここでシャバラは全知者を批判している訳ではない」(趣意)4と述べた後に展開されており,シャバラ註への当該復註全体 (vv. 102cd-155) に従属する形を取っている.クマーリラの陰で注目されることのないシャバラ註当該箇所の原意を,クマーリラの字句註釈 (vv. 102cd-110ab) を考慮しながら探るのが本稿の目的である.

 全十二課 (adhyāya) からなるジャイミニ・スートラ第一課では,祭式行為 (yāga) 等であるダルマ (dharma) の情報源(pramāṇa, 正しい認識の手段)が扱われている.四パーダ (pāda) ある第一課の中でも,第一に扱われるのが,一次的な独立情報源ヴェーダ教令 (codanā:[人を行為へと]促す文) である.スートラは,第三スートラで,ダルマの情報源考察を宣言し,第四スートラ,第五スートラで,知覚 (pratyakṣa) とヴェーダ教示 (upadeśa) とを対比,後者のみがダルマの認識手段,情報源 (nimitta, lakṣaṇa, pramāṇa) たることを確立している.このように,スートラのこの箇所では,知覚と聖典という二項対立が中心にあり,推論 (anumāna) やスムリティ文献 (smṛti) といった二次的な認識手段は関心の外にある.スートラへの註釈者シャバラ・スヴァーミンもこの伝統に則り,知覚と聖典という二項対立を念頭に置いて論述を構成している.

 これに対し,十全な議論展開を使命とする復註釈者クマーリラは,二次的な認識手段をも考慮に入れ,「知覚と聖典」という単純な図式を,「知覚等と証言一般」という対立へと拡大した.このようなクマーリラの基本的態度が,シャバラ註に対する字句註釈にも発揮されたのは理の当然である.その結果,クマーリラは,シャバラが意図していない意味までシャバラ註の中に読み込み,徒に議論を煩雑にしたばかりか,シャバラ註の真意を見えにくくしてしまっている.知覚と聖典という認識手段の二項対立,及び,それに対応する世間的事象(知覚対象)と非世間的事象(非知覚対象,ダルマ)という認識対象の二項対立は,クマーリラの復註からは浮かび上がってこない.クマーリラによって曇らされた当該シャバラ註の原意を救出し,この箇所が「知覚と聖典」という二項対立を見事に表現していることを明らかにするのが本稿の狙いである.

当該箇所の文脈  ジャイミニ・スートラ1.1.2「教令を目印(lakṣaṇa, 認識原因nimitta, 正しい認識の手段pramāṇa)5とする目的(artha, 求められるもの)がダルマである」 (codanālakṣaṇo ’rtho dharmaḥ) は,シャバラによると,「何がダルマか」 (ko dharmaḥ)「[ダルマは]いかなる目印を持つのか」 (kathaṃlakṣaṇaḥ) を語っている6

 まず,シャバラは,「教令を目印とする」 (codanālakṣaṇa) を取り上げ,「教令だけが目印である」 (*codanaiva lakṣaṇam)7 という解釈を念頭に置いて,他のもの,すなわち,感覚器官が,ダルマを認識するための手段ではないことを述べている8

 次にシャバラは「教令は常に目印である」 (*codanā lakṣaṇam eva) つまり「教令は常に正しい認識手段である」 (*codanā pramāṇam eva) という解釈を念頭に置きながら,彼に先行する註作者Vṛttikāraにならって,ヴェーダ教令から生じる認識が正しい認識(samyagjñāna, samyakpratyaya)ではない三つの可能性,すなわち,無認識(*ajñāna)・疑惑(*saṃśaya)・錯誤(mithyāpratyaya)を順次否定する.

 第三の錯誤の可能性,すなわち,「教令は正しくないこともある」つまり「たまには間違う」という反論を攻撃する中で彼は,ヴェーダ教令に基づく認識が決して「ひっくり返らない」(na ... viparyeti)すなわち間違い(mithyā)ではないことを簡潔に述べる.間違い発見の可能性には,認識原因の欠陥発見(*kāraṇadoṣajñāna)と先行認識を押し退ける拒斥者としての認識(*bādhakajñāna)がある.前者については,ヴェーダの常住性・非人為性がヴェーダの無謬性を保証することになる.後者について彼が意図する論理構造を再構成するなら,(実際には未確立なのだが9)既に冒頭で確立したものとされた「[ダルマに関しては]教令だけが目印である」 (*codanaiva lakṣaṇam) というテーゼをもって,「たまには間違う」という論証が成り立たないことを証明しようとしていることになる.簡単に述べるなら,ダルマに関しては「教令だけが正しい」ので「教令は常に正しい」というのが内容である.ダルマという超世間的領域に知覚がずかずかと入り込んで,その知覚に基づく世間言明が「これはそうではない」と否定することは不可能である.このようなヴェーダと人知(特に知覚)の対立を念頭に置きながら,ダルマに関する世間言明の価値を否定しようとするのが,ここで取り扱う箇所である.

従来の解釈

まず,シャバラ註原文,および,直訳を以下に挙げる.これは,シャバラ註内の文脈や,クマーリラ復註を考慮せず,当該シャバラ註を,素直に直訳したものである10

シャバラ註原文(Śābarabhāṣya ad 1.1.2):  yat tu laukikaṃ vacanaṃ tac cet pratyayitāt puruṣād indriyaviṣayaṃ vā, avitatham eva tat. athāpratyayitāt puruṣād anindriyaviṣayaṃ vā, tat puruṣabuddhiprabhavam apramāṇam. aśakyaṃ hi tat puruṣeṇa jñātum ṛte vacanāt. aparasmāt pauruṣeyād vacanād avagatam iti cet. tad api tenaiva tulyam. naivaṃjātīyakeṣv artheṣu puruṣavacanaṃ prāmāṇyam upaiti. jātyandhānām iva vacanaṃ rūpaviśeṣeṣu. F 18.3-8.

シャバラ註解釈1: いっぽう,世間の言明は,それがもし,信頼できる人からの[言明],或いは,感官の対象を持つ[言明]なら,常に正しい.もし,信頼できない人からの[言明],或いは,感官の対象を持たない[言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)11を,人は,言明以外から,知ることはできないので.

【問】もう一つの,人による言明から理解されたのだ.

【答】それ(他人の言明)も,他ならぬそれ(当人の理解)に等しい.この種の対象について,人の言明は,認識手段となってくれない.特定の色に関する生盲達の言明と同じように.

クマーリラの解釈

上の直訳からもすぐ分かるように,当該シャバラ註のみからでは,「或いは」(vā)という選言の結合子で結ばれた「信頼できる人からの[世間言明]」(pratyayitāt puruṣāt)と「感官の対象を持つ[世間言明]」(indriyaviṣayam)の具体的内容,両者の関係・差異は明らかではない.同じことが,「信頼できない人からの[世間言明]」(apratyayitāt puruṣāt)と「感官の対象を持たない[世間言明]」(anindriyaviṣayam)にも言える.復註釈者クマーリラは,まさに,この点を問題とし,両者に実質的な差異を設けようとする.

クマーリラ復註(Ślokavārttika codanā, vv. 102cd-110ab):

yathādṛṣṭārthavāditvaṃ tac cet pratyayitād iti// 102

indriyeti tu mūlaṃ ced asyāstīty evam abravīt/

【定説】tac cet pratyayitāt と[述べることで],見た通り語る人たること(正直者性)を,いっぽう,indriya と[述べることで],もしこれ(言明)に根拠(認識手段)があるなら,ということを[シャバラは]述べている.

draṣṭṛtvasatyavāditve tac cet pratyayitād iti// 103

dṛśyamānārthavāditve syād anāptoktisatyatā/

【反論】tac cet pratyayitāt と[述べることで],[対象を]見た人たること(言明に根拠があること),かつ,正直に語る人たること(正直者性)という二つを[シャバラは述べている](=pratyayitaは,単なる正直者を指すのではなく,彼が正しく見たことも含んでいる).[それとは別に,正しい言明としてindriyaviṣayaṃ vāでシャバラが述べている,聞き手が]現に見ている対象について語る人の場合,「信頼できる人」ではない人(anāpta=apratyayita,見てもいないし正直でもない人)の発言は正しいはずである12

evaṃ tv ekāṅgavaikalyāt pratyudāharaṇasthitiḥ// 104

ekaikābhāvamātre syād āptatvaindriyakatvayoḥ/

【定説】しかし,そうすると(=君のように考えると),[シャバラがapratyayitād anindriyaviṣayaṃ vāと述べている]一方[の条件]を欠くことから[正しくない]反例が定まるのは,「信頼できる者であること」(正直でありかつ正しく見たこと)と「感官の対象を持つこと」(聞き手が見ている対象について語る者であること)の各々がないだけで可能となってしまう.

apratyayitapakṣe syād aindriyasyāpy asatyatā// 105

anindriyatvapakṣe vāsat pratyayitabhāṣitam/

[即ち,シャバラがapratyayitātと述べている]信頼できない人(正直でも正しく見たわけでもない人)の場合,[聞き手の]感官の対象を扱う[正しいはずの言明]であっても,嘘となってしまう.或いは,[シャバラがanindriyaviṣayamと述べている,聞き手の]感官の対象を持たない[言明の]場合,信頼できる人(正直者)の語った[正しいはずの言明]が間違っている[ことになってしまう].

vyāhatagranthataivaṃ syāt, tasmāt pūrveṇa satyatā// 106

pareṇa mūlasadbhāva indriyeṇa tu darśitaḥ/

そうすると[同じものについて上では「正しい」と述べ,下では「正しくない」と述べる当該シャバラ註は]破綻した記述ということになってしまう.それゆえ[次のように解釈すべきである].前者によって正直[な言明]であることが,いっぽう,後者,即ち,indriya によって,根拠のあることが示されている.

aprāmāṇyanivṛttyarthaṃ doṣābhāvopavarṇanam// 107

guṇāt prāmāṇyam ity evaṃ tat pūrvaṃ sunirākṛtam/

pūrvatra pratiṣiddhatvān naitat prāmāṇyakāraṇam// 108

正しい認識でないこと (aprāmāṇya) がないように,[認識原因に]欠陥が無いことを[ここでシャバラは二条件をもって]述べている.「正しい認識であることが美点に基づく」ということは,前に(vv. 47-53で),十分排斥し終わっている13.前で,打ち消し済みなので,これは,正しい認識であることの原因というわけではない.

samuccayārtho vāśabdaḥ pūrvasmin, uttaratra ca/

vikalpenobhayor āha pratyudāharaṇe pṛthak// 109

śakye ’py asatye mithyātvaṃ dṛṣṭaṃ satye ’py aśaktike/

vā という言葉は,前では,並列(samuccaya, 連言「かつ」)を意味する.また,後では,二つ(非正直者性・無根拠性)[の内いずれか]を選択 (vikalpa) することで,二つの反例を,個々に,[シャバラは]述べている.能力があっても(=根拠があっても)嘘なら,[また]正直[な言明]でも能力がなければ,[その言明は]誤っているのが見られる14

 当該箇所においてシャバラが「対象→認識手段→言明」という過程を考えていることは,二つの対象であるダルマと感官対象,二つの認識手段である教令と感官,そして信頼できる人とできない人の言明,という諸要素から明らかである.

 それゆえ,「信頼できる人からの」と「感官の対象を持つ」と二つの要素をわざわざ述べている意図は,「対象→認識手段」「認識手段→言明」という二段階で別個に誤りの原因が可能であるとシャバラが考えている,とするのが自然であろう (v. 109).そう考えないと,誤った例の原因として出されている「信頼できない人からの言明」,「感官対象を持たない言明」の両者が,選択を表す「或いは」で結ばれていることは説明が付かない.つまり「信頼できる人からの」と「感官対象を持たない」との役割分担を考えずに解釈すると,両者が含む領域は重複してしまう.

 クマーリラは,「感官対象を持つ」と「信頼できる人の」という二要素の役割分担を重視し,両者はそれぞれ,「対象→認識手段」「認識手段→言明」という各段階に関わるとする.そして,それに沿って語句註釈,更に言えば,不要な意味の削ぎ落としを行う.つまり彼によれば「感官対象を持つ」とは「根拠を持つ(mūlaṃ ... asyāsti)」つまり「認識対象と認識手段が対応している」ということしか意味していない (vv. 103ab, 107ab).それゆえ,「感官対象を持つ」場合でも,その人が嘘をつく場合もあり得る (v. 110ab).いっぽう,「信頼できる」は,「騙す意図がない」つまり「思った通りに語る」ということしか意味しない (v. 102cd,).それゆえ,根拠が無くても「思った通りに語る」場合,例えば,騙すつもりはないのにうっかり誤ったことを言う場合を排除しない (v. 110ab).以上のようにクマーリラは,シャバラ註内の「信頼できる人」「感官の対象を持つ」の役割分担を主張する.クマーリラの見解をまとめると以下のようになる.

1.信頼できる人 (pratyayita) =騙す意図のない人 (v. 102cd)

 1a.騙す意図がなく根拠をもって本当のことを言う場合(正)

 1b.騙す意図がなく根拠なしに間違ったことを言う場合

2.感官の対象を持つ (indriyaviṣaya)=根拠がある (v. 103ab)

 2a.根拠があって(知っていて)騙す意図がない場合(=1a)

 2b.根拠があって(知っているのに)騙す場合

 彼の解釈を取り入れて,シャバラ註を解釈し直すと,以下となる.

シャバラ註解釈2(クマーリラ流): いっぽう,世間の言明は,それがもし,信頼できる人(=騙す意図のない人)からの[言明],かつ(vā),感官の対象を持つ(=根拠を持つ)[言明]なら,常に正しい.もし,信頼できない人(=騙す意図がある人)からの[言明],或いは(vā),感官の対象を持たない(=根拠を持たない)[言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.

 上記のように,彼は「対象→認識手段→言明」という過程内の二つの段階で誤りの欠陥が生じることを考慮し,それに従って語句解釈を行っている.対象から認識手段に至る過程とは,シャバラ註の「感官の対象を持つ」即ち「根拠を持つ」で述べられている (v. 107ab).いっぽう,認識手段から言明に至る過程は,「信頼できる人の」即ち「騙す意図のない人の」によって述べられている (v. 106d).彼の解釈が抱える問題点は以下である.

1.最初のvāは選択ではなく並列「かつ」を表す (v. 109ab).

2.「信頼できる人からの(pratyayitāt)」は「感官の対象を持つ」と対立する概念を表すので,対象に基づくか否かには関係なく,正しかろうが誤っていようが,単に「自分の見たとおりに語る人(yathādṛṣṭārthavādin)」「騙す意図なく語る人」を指す.彼の理解が正しいか誤っているかは定まっていない.それゆえ,「信頼できる人」であっても「誤ったことを語る」ことはあり得る (v. 110ab).

クマーリラが批判する解釈

しかし,「信頼できる人」(pratyayita)であっても「誤ったことを語る」ことがある,というのは不自然である.それゆえ,「信頼できる人の発言」は常に「正しい」とすればよい.このように,「信頼できる人の発言」を,上記の二段階,対象から認識手段,認識手段から言明,いずれにおいても欠陥を持たない人の発言,と見なす(v. 103cd)と,シャバラ註は以下のように解釈される.

シャバラ註解釈3(クマーリラ想定反論): いっぽう,世間の言明は,それがもし,信頼できる人(=正しく見て正直に語る人)からの[言明],或いは,[聞き手が目にしている]感官の対象を扱う[言明]なら,常に正しい.もし,信頼できない人からの[言明],或いは,[聞き手が目にしている]感官の対象を扱わない[言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.

 前半の「信頼できる人からの言明」が,正しく見てかつ正直に語る者の言明である以上,「或いは」(vā)で結ばれる「感官の対象を持つ言明」は,前者から排除された領域を持たなければならない.クマーリラが予想する反論者は,そこで,(聞き手が)現に目にしている対象を扱う場合には,信頼できない人の発言であっても,正しい認識手段となる,と考える(v. 104ab).

1.信頼できる人=根拠があり騙す意図のない人(正)

2.感官の対象を持つ=(聞き手が)見ている対象を扱う(正)

 この解釈は,クマーリラが殊更に取り上げて批判しているものである (vv. 105-106c).その動機は,シャバラ註のなかで,言明が正しい場合に言及する前半箇所と,正しくない場合に言及する後半箇所の趣旨一貫性を説明できないことにある.「或いは」で結ばれる「信頼できる人からの言明」と「(聞き手の)感官の対象を扱う言明」とは,相互に排除した二つの領域を指すはずである.そして,これらは,正しい言明の例である.いっぽう,後半では「信頼できない人からの言明」あるいは「(聞き手の)感官の対象を扱わない言明」をシャバラは正しくないとする.しかし,反論にしたがうかぎり,「信頼できない人からの言明」とは,「信頼できる人からの言明」から排除された領域である「(聞き手の)感官の対象を扱う言明」に他ならない.それをシャバラは上で正しいと述べていたはずである.ところが下では正しくないと述べることになってしまう.同様に,「(聞き手の)感官の対象を扱わない言明」とは,「(聞き手の)感官の対象を扱う言明」から排除された領域である「信頼できる人からの言明」に他ならない.それについても,上でシャバラは正しいと述べていたのに,下では正しくないと述べることになってしまう.したがって,反論者の解釈にしたがえば,シャバラ註は前後で矛盾する「破綻した記述」ということになってしまう.

 以上,クマーリラに批判された解釈は,確かにクマーリラの見解に劣る.単語・文レベルより深刻な文脈レベルでの問題を引き起こすからである.しかし,クマーリラの見解も,第一の「或いは」は並列 (v. 109ab),第二の「或いは」は選択とする点 (v. 109bc),及び,「信頼できる人」でも誤ることがある (v. 110ab),とする点で問題がないわけではない.以下では「信頼できる人」(pratyayita)について他の可能性を探ってみる.

信頼できる人=マヌ等

シャバラ(ただし反論側)は,後続文脈で「教示者」 (upadiṣṭavantaḥ) たる「マヌ等」(manvādayaḥ) に言及している15.すると以下のように考えられる.「信頼できる人」とは,具体的にはマヌ等であり,彼の言明対象はダルマである16.それゆえ,「信頼できる人の言明」「信頼できない人の言明」の対象は共にダルマ,これに対して,「感官の対象を持つ言明」「感官の対象を持たない言明」の対象は共に感官対象と,単純化してみる.

シャバラ註解釈4: いっぽう,世間の言明は,それがもし,信頼できる人からの[ダルマに関する言明],或いは,感官の対象を持つ[感官の対象に関する言明]なら,常に正しい.もし,信頼できない人からの[ダルマに関する言明],或いは,感官の対象を持たない[感官の対象に関する言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.

 ダルマと感官対象とは住み分け,ダルマに関して信頼できる人の言明は正しく,信頼できない人の言明は正しくない.感官対象に関して感官の対象を持つ言明は正しく,感官の対象を持たない言明は正しくない,という自明の内容を持つことになる.

 しかし,この場合,後続理由句「なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること=ダルマ)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.」との一貫性がなくなる.理由句を言い換えると「ダルマは言明のみから知ることができる」となる.それを理由として導かれるべきは,「だから,ダルマに関して,言明以外は,認識手段ではない.」となるはずである.すると,直前の「それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.」は,「人知から生じたダルマに関する言明は正しい認識の手段ではない」となる.それゆえ,「誤った言明」は全て,「ダルマに関する」言明となる17

 以上のように後続文との一文性を考慮して,「誤った言明」の対象をダルマとしてシャバラ註を解釈してみる.

シャバラ註解釈5: いっぽう,世間の言明は,それがもし,信頼できる人からの[言明],或いは,感官の対象を持つ[言明]なら,常に正しい.もし,信頼できない人からの[ダルマに関する言明],或いは,感官以外の対象を持つ(=ダルマに関する)[言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.

 「信頼できない人のダルマに関する言明」と「感官以外の対象であるダルマに関する言明」とは別物ではない.理由句が述べているように,ヴェーダという手段を除いて,ダルマを直接人は知ることはできないので,「感官以外の対象であるダルマに関する世間言明」は自動的に誤りとなる.なお,ここでシャバラが,ヴェーダからの又聞き言明(=正しい),という可能性を考えているとは思えない.なぜなら,等置されるべきものとして,すぐ後ろに,「それは人知から生じたもの」である,と述べているからである.それゆえ,ここで彼が問題としているのは,又聞きのような二次的,依存的認識手段ではなく,一次的,直接の認識手段として反論者が考えているダルマの世間言明である.しかも,「又聞き」の可能性(世間言明からの又聞き,ヴェーダからの又聞き)は,後続文脈で考察されているので,ここで考慮する必要はない18

 以上から,「信頼できない人のダルマに関する直接言明」と「感官以外の対象であるダルマに関する世間の直接言明」とは,いずれも「対象→認識手段」段階での過程を正しく踏まない点で等しくなるので,「或いは」は「言い換えれば」となる.クマーリラが考えたような「認識手段→言明」段階における誤った過程(嘘をつく場合)をシャバラは想定していない.

 二番目の「或いは」が「言い換えると」となるから,一番目の「或いは」も同様とすると,「信頼できる人の言明」=「信頼できる人の直接言明」と,「感官の対象を持つ言明」=「感官の対象を持つ直接言明」とは同内容の筈である.常に正しい「感官の対象を持つ直接言明」の対象は感官対象に限られるので,直前文の「言明対象」は全て,感官対象となる.よって,「信頼できる人の直接言明」は「信頼できる人の感官対象に関する直接言明」となる.

 また,否定辞を含む anindriyaviṣaya は,感官の対象を持たない (an-indriyaviṣaya)と,感官以外(すなわちヴェーダ教令)の対象を持つ(anindriya-viṣaya)の二通りの解釈があるが,対象がダルマに限られるので,後者の方が分かりやすい.以上から,次の解釈が導かれる.

シャバラ註解釈6: いっぽう,世間の言明は,それがもし,信頼できる人からの[感官対象に関する言明],言い換えると,感官の対象を持つ[言明]なら,常に正しい.もし,信頼できない人からの[ダルマに関する言明],言い換えると,感官以外[すなわちヴェーダ教令]の対象を持つ(=ダルマに関する)[言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.

 「信頼できる人からの[感官対象に関する]」は「感官の対象を持つ」と同じ事態を指している.すると「信頼できる人」と訳していた pratyaita は,より具体的な内容を有しているのではないか.この可能性を探ってみる.

Pratyayitaの具体的内容

インド論理学派の根本経典『ニヤーヤ・スートラ』 1.1.7: āptopadeśaḥ śabdaḥ に対して,註釈者ヴァーツヤーヤナは次のようにコメントする19

よく知られているように,āptaとは,ダルマを直接経験した者,見たとおりの対象を知らせようとする欲求に衝き動かされた教示者.「直接経験する」とは「対象に到達する (āpti)」.それ(対象到達)を手段として,発動するのがāpta.

 āpta(<√āp)が,ダルマを直接経験(sākṣāt-karaṇa)した人,対象に到達(āpti)した人であり,しかも,見たままを知らせようとする嘘を言わない人であることを考慮すると,pratyayita(<prati-√i, pratyayo ’sya saṃjātaḥ20「理解した人」)も,具体的に,対象に対して直接到達した人,しかも,嘘をつく可能性のない人としてもよいであろう.すると,シャバラ註の解釈に困難はなくなる.「感官の対象を持つ言明」=「対象と感官との対応を前提とした言明」とは,すなわち,「信頼できる人の言明」=「対象に対して行って来た嘘を言わない人の言明」である.直接経験したにもかかわらず嘘を言う,というような特殊な場合を想定してシャバラが発言している,としたクマーリラの想定は煩瑳過ぎる.もちろん,クマーリラは,pratyayita が,このように「対象→認識手段」「認識手段→言明」のいずれにおいても問題がない人,という解釈を通常のものと知っていたからこそ,その解釈を取り上げて批判したのであるが,「認識手段→言明」という過程をシャバラがここで意識していないことによって,彼の批判は当てはまらなくなる.

 いっぽう,ダルマを「直接経験していない人」とは言い換えれば「感官以外の対象を持つ人」即ち「教令の対象であるダルマを持つ人」となる.「教令の対象であるダルマを持つ人の言明」が誤っているのは当然である.なぜならば後続文から明らかにされるように,「言明以外からダルマを知ることはできない」つまり,ダルマを直接経験することはできないからである.彼の言明が「人知から生じたもの」であることは,このことを別の側面から言い直したものである.

  感官対象───→感官───→世間言明(正)

  ダルマ…   …人知───→世間言明(誤)

  ダルマ─────────→ヴェーダ言明(正)

 根拠を持つにもかかわらず嘘を言う,というような特殊な場合を除くためにクマーリラは,「信頼できる人の」を単に「騙す意図のない人の」と解し,それと対立するものとして,「感官の対象を持つ」を「根拠を持つ」とし,根拠を持たず,かつ,騙す意図のない人,というような更に特殊な場合を想定せざるを得なかった.これは「認識手段→言明」という過程を重視しすぎたことを原因とする.ここでシャバラが意識しているのは,「対象→認識手段」の過程である.「なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.」という発言は,この文脈全体が,対象と認識手段の関係に注目していることを示唆している.それゆえ,クマーリラの「信頼できる人の」と「感官の対象を持つ」の対立図式強調視点ではなく,ダルマと感官対象の対立強調視点で捉える必要がある.これは,「感官の対象を持つ」と「感官以外の対象を持つ」の対立によって明瞭に示されている.「信頼できる人=理解した人=直接経験した人」と「信頼できない人=理解していない人=直接経験していない人」との対立は,上で述べられた感官中心の視点を改め,人中心の視点で言い換えたものと見なせる.

 要するにシャバラは,一次的な直接認識手段について,知覚領域に関する人の言明は正しいが,ダルマ領域に関する人の言明は正しくない,ということを主張している.このように解釈すると以下のようになる.

シャバラ註解釈7: いっぽう,世間の(=ヴェーダ以外の)言明は,それがもし,直接経験した人からの[感官対象に関する言明],言い換えると,感官の対象を持つ[言明]なら,常に正しい.もし,直接経験していない人からの[ダルマに関する言明],言い換えると,感官以外[すなわちヴェーダ教令]の対象を持つ(=ダルマに関する)[言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.

 ここでシャバラは,次のことを語っている.直接には感官対象の認識手段は感官であり,それに基づく世間の言明は正しい.しかし,ダルマに関する直接の認識手段はヴェーダ言明であり,感官ではない.だから,ダルマに関する直接の世間言明は誤りである,と.つまり,感官対象とダルマが住み分けているように,感官とヴェーダも住み分けていることを述べている21.この住み分け境界を越えることはできない.これに違反して言明が行われる場合は,誤りとなる.

 これにより,更なる後続文との関係も明瞭になる.「ダルマを言明以外から知ることはできない」とは「ダルマは言明のみから知られ,感官対象とはならない」であることは既に述べた.しかし,言明にはヴェーダ言明だけでなく,人の言明もあるので,次の反論が来る.

【問】もう一つの,人による言明から,[アグニホートラから天界が生じることは]理解されたのだ.

 人の言明は,ダルマに関して認識手段であり,正しい,ということを反論者は主張している.住み分け境界を越えようとするわけである.

 これに対する答えも簡単である.ダルマに関する究極的な無前提の言明を,人はヴェーダ以外に持つことができない.つまり,ダルマに関する人の言明は,何か別の言明に依存しているのであって,直接にダルマを経験したわけではない.それゆえ,ヴェーダに依らないとすると,人の言明は,更に別の人の言明に,その人も更に別の人の言明に依存する,というように人間内での無限遡及となってしまう.

【答】それ(他人の言明)も,他ならぬそれ(当人の理解)に等しい.この種の対象について,人の言明は,認識手段となってくれない.特定の色に関する生盲達の言明と同じように.

 生盲が色の知識を他の生盲から得,その生盲も,また他の生盲から得,というように生盲内で無限遡及となる22.同様に,人も,ダルマに関する知識を別の人から得,更にその人は別の人から得,というように無限遡及となる.目の見える人から教えて貰わない限り,いつまで経っても,色に関して,生盲は,確実な知識を得ることはできない.同様に,ヴェーダから教えて貰わない限り,いつまで経ってもダルマに関して人は確実な知識を得ることができない.この生盲の例は,対象と認識手段の住み分けを明確に表している.

シャバラ註解釈最終案: いっぽう,世間の(=ヴェーダ以外の)言明は,それがもし,直接経験した人からの[感官対象に関する言明],言い換えると,感官の対象を持つ[言明]なら,常に正しい.(=知覚領域直接経験者の言明は正しい.)

 もし,直接経験していない人からの[ダルマに関する言明],言い換えると,感官以外[すなわちヴェーダ教令]の対象[であるダルマ]を持つ[言明]なら,それは,人知から生じたもので,正しい認識の手段ではない.なぜならば,それ(アグニホートラから天界が生じること)を,人は,言明以外から,知ることはできないので.(=知覚領域外であるダルマは直接経験できない以上,人間による直接言明は正しくない.)

【問】もう一つの,人による言明から,[アグニホートラから天界が生じることは]理解されたのだ.

【答】それ(他人の言明)も,他ならぬそれ(当人の理解)に等しい.(=更に別の人の言明に基づく.)この種の対象(ダルマ)について,人の言明は,認識手段となってくれない.特定の色に関する生盲達の言明と同じように.

 クマーリラの見解との相違を記しておく.

1.vāは「言い換えれば」であって,「かつ」ではない.

2.「信頼できる人の」と「感官の対象を持つ」は,明確な排除の役割分担を意識して述べられているのではなく,人中心,認識手段中心の視点の移動を行っただけである.

3.シャバラが考慮している段階は「対象→認識手段」のみであって,「認識手段→言明」は含まれない.

4.対象に対して,一次的,直接,無前提の認識手段についてシャバラは語っているので,シャバラが述べる「知覚」を認識手段一般に拡大するために,それをupalakṣaṇaと解する必要はない (v. 103ab)23

 クマーリラは述べていないので,彼との相違とは言えないが,重要と思われる点を更に記しておく.

5.対象に対して,一次的,直接,無前提の認識手段を取り上げているので,また,後で排斥されるので,冒頭では,「又聞き」のような間接的な場合は考慮されていない.

6.前半は知覚領域,後半はダルマ領域に関する言明である.

7.聖典解釈学において第一次的な無前提の認識手段を論じる際には,知覚領域とダルマ領域との住み分け,感官とヴェーダ(特に命令部)との住み分けを前提として,対象と認識手段との対応における境界線が引かれ,特に,ダルマとヴェーダとの対応線が,犯されることなきよう守られる24

Footnotes

* 助言を戴いた久間泰賢,谷沢淳三,吉水清孝,Harunaga Isaacson各氏に感謝する.

2 Bṛhaṭṭīkāの問題も含め,クマーリラとダルマキールティとの密接な関係については,Steinkellner [1997], Kellner [1997], Krasser [1999] を参照.また,稲見[1986]は,特に,全知者をめぐる両者の密接な関係を指摘している.

3 詳しくは川崎[1992]参照.

4 Ślokavārttika codanā, v. 110cd: nānena vacaneneha sarvajñatvanirākriyā.「ここで,この言明により,全知者であることが排斥されているわけではない.」 Cf. Tattvasaṅgraha v. 3127; Ratnakīrtinibandhāvalī sarvajñasiddhi (RNA 1.5-8), Bühnemann [1980] 1.

5 Cf. Ślokavārttika codanā, v. 9ab: nimittamātraṃ vocyeta pramāṇaṃ ceha lakṣaṇam/ (NRA 36.30)「また,ここで,[認識]原因一般あるいは正しい認識の手段をlakṣaṇaと述べている.」

6 Śābarabhāṣya ad 1.1.1: tatra ko dharmaḥ kathaṃlakṣaṇa ity ekenaiva sūtreṇa vyākhyātaṃ “codanālakṣaṇo ’rtho dharmaḥ” iti. F 14.16-17. 「そこで,何がダルマか,いかなる目印を持つのか,ということが,同じ一つのスートラによって明らかにされた───『教令を目印とする目的がダルマである』と.」 Cf. Ślokavārttika codanā, vv. 1-2 (NRA 34.21-35.15).

7 以下,*は,筆者の想定サンスクリットであることを示す.

8 Śābarabhāṣya ad 1.1.2: codanā hi bhūtaṃ bhavantaṃ bhaviṣyantaṃ sūkṣmaṃ vyavahitaṃ viprakṛṣṭam ity evaṃjātīyakam arthaṃ śaknoty avagamayituṃ, nānyat kiṃcanendriyam. F 16.12-14.「なぜなら,教令は,過去の,現在の,未来の,微細な,遮断された,遠く離れた,などといった類の対象を,理解させうるが,他のいかなる感官も[そうはいか]ないからである.」Cf. Sāṃkhyakārikā 7.

9 Śābarabhāṣya ad 1.1.3: uktam asmābhiḥ codanānimittaṃ dharmasya jñānam iti. tat pratijñāmātreṇoktam. idānīṃ tasya nimittaṃ parīkṣiṣyāmahe --- kiṃ codanaiva utānyad apīti. tasmān na tāvan niścīyate “codanālakṣaṇo ’rtho dharmaḥ” iti. F 22.4-7.「我々は既に述べた,『教令を[認識]原因とするのがダルマの認識である』と.それは,単なる主張として述べたのである.いまや,それ(ダルマ)の[認識]原因を我々は考察しよう───教令のみが[認識原因なの]か,あるいは,他のものも[認識原因なの]か,と.したがって,現時点では『教令を目印とする目的がダルマである』ということは確定されていない.」

10 筆者が特に念頭に置いているのは,フラウワルナーの直線的な解釈(F 19)である.針貝[1989]31は,indriyaviṣayamおよびanindriyaviṣayamをbahuvrīhiではなくtatpuruṣaと解釈している.tatpuruṣaなら(an)indriyaviṣayaḥとなるはずである.フラウワルナーが正しく解釈しているように,言明は「感官対象を持つ」のであって,言明それ自体が「感官の対象」となるわけではない.なお, Jha [1973] 5はindriyaviṣayamについて正しく解釈している.また,当該箇所に関する内容上の補足も行っている.また,当該箇所については,D’Sa [1980] 60に要約・解説がある.しかし,クマーリラおよび筆者が問題とするpratyayitātとindriyaviṣayamの関係については曖昧なままである.

11 この「それ」が直接どの語を指すかは問題である.可能性として直前の合成語anindriyaviṣayaの中のviṣayaも考えられるが,合成語の一部であり,また,性が異なるので採用されない.内容的にはダルマであるのは明らかである.しかしdharmaも性が異なるので採用されない.天界実現手段であるダルマという理解内容を指しているのは明らかなので,先行文脈に述べられている次の文から取った.Śābarabhāṣya ad 1.1.2: yadi ca codanāyāṃ satyām agnihotrāt svargo bhavatīty avagamyate. F. 16.20-21. 「そして,もし,教令が有る場合に,『アグニホートラ献供から天界が生じる』と理解されるなら…」

 スチャリタ・ミシュラも「それ」を問題とし,jñeyamを介してviṣayaが合成語から取り出されて指されるとしている.内容的には全く同じである.Kāśikā ad Ślokavārttika codanā, v. 110 (ŚVK I 117.24-118.7).

12 クマーリラが批判する見解は,pratyayitaすなわちāptaを,ヴァーツヤーヤナが認めるような通常の意味に解釈する.すなわち,正しく見て,正直に語るという二条件を満たす者と考える.その場合,「或いは」で結ばれるindriyaviṣaya(感官の対象を持つ[言明])の解釈が苦しくなる.「或いは」で結ばれる以上,前者から完全に排除された領域を指す,すなわち,正しく見てもいないし,正直でもない者の言明と考えなければならない.話し手が「正しく見る」のでない以上,ウンベーカが補足するように,「信頼できない人による文であるが,聞き手にとっての感官の対象を扱う文」(ŚVT 71.11: apratyayitasyāpi yad vākyaṃ śrotur indriyaviṣayam)と解釈するのは十分正当化される.具体的な状況は,おそらく,実際に見てもおらず,不正直な話し手の発言であっても,たまたま本当である場合,すなわち,聞き手が実際に対象を見つける場合を指しているのではないだろうか.

13 ここでシャバラは正直者性・有根拠性という美点を述べているが,それは,正しい認識の条件を述べているのではなく,正しくない認識の原因たる欠陥を排除するためである.「正直で根拠があるから正しい」と言っているのではなく,「正直で根拠があるから正しくないことはない」と言っている.

14 スチャリタ・ミシュラ(ŚVK ad v. 110ab)は,対象について用いるśakya, 人について用いるaśaktikaの基本用法を考慮してであろう,かなり補足しながら煩雑に理解する.「[知覚]可能な[対象]についてであっても,不正直な[人の]場合には,[その人の言明は]誤っているのが見られる.正直[な人で]あっても,能力を持たない[人]ならば,[その人の言明は誤っているのが見られる].」しかし,satyaが通常,言明(vacana)に係ることを考慮すれば,その他のlocativeも,同じく言明に係る同格と見なす方が簡潔であろう.

15 Śābarabhāṣya ad 1.1.2: upadiṣṭavantaś ca manvādayaḥ. F 18.9.「そして[現に]マヌ等は教示している.」

16 「[マヌ等は]人間でありながら[ダルマを]知った人でもある」(puruṣāḥ santo viditavantaś ca)と言う際,反論者が念頭に置いているのは,ダルマを直接に見ることであろう.一方,シャバラ自身は,ダルマの直接経験は認めず,ヴェーダを通して知ったことは認める.

17 したがって,ここでシャバラが述べる世間言明(laukikaṃ vacanam)を,シャバラ註の先行反論に登場する例「川岸に果実があるよ」(nadyās tīre phalāni santi)に限定するのは無理がある.

18 Śābarabhāṣya ad 1.1.2 (F 18.6-12).

19 Nyāyabhāṣya ad 1.1.7: āptaḥ khalu sākṣātkṛtadharmā yathādṛṣṭasyārthasya cikhyāpayiṣayā prayukta upadeṣṭā. sākṣātkaraṇam arthasyāptiḥ tayā pravartata ity āptaḥ. NBh 14.4-5.

20 Aṣṭādhyāyī 5.2.36: tad asya saṃjātaṃ tārakādibhya itac. P 559. Cf. Kāśikā ad Ślokavārttika codanā, v. 102: pratyayo ’sya saṃjāta ity etasminn arthe hi tārakādismṛter itajantaṃ pratyayitaśabdam abhiyuktāḥ smaranti. ŚVK I 112.23-24; Nyāyaratnākara ad Ślokavārttika codanā, vv. 105cd-106c: pratyayitaśabdaś cāyam itajantaḥ pratyayo ’sya saṃjāta ity etāvad vadati, pratyayaś cāyathārtho ’pi saṃbhavatīti na yathārthadarśī pratyayitaḥ kiṃ tu yathādṛṣṭārthavādy eva. NRA 58.16-18.

21 仏教論理学・認識論の独自相・共通相の住み分け,及び,それに対応する知覚(感覚)・推論の住み分けと基本的構造は同じである.

22 「盲人無限連鎖」原則(andhaparaṃparānyāya)は,Śābarabhāṣya ad 1.3.1 (A 162.3-163.1) を発信源とする.現在のŚābarabhāṣya ad 1.1.2に見られるものも含め,これ以外,または,これ以降の適用例,たとえばTantravārttika ad 1.2.7 (A 113.8-10), 31(A 146.18-19)やBrahmasūtraśāṅkarabhāṣya ad 2.2.30, 37は,当箇所を意識・予想したものと見なすことができる.針貝[1990]111は「盲者行列の論理」と解釈するが,これは,アプテ巻末の格言集がandhaparaṃparānyāyaの中で挙げるKathopaniṣad 1.2.5に引きずられた誤解であろう.興味深いことに,歴史的にも,「盲人が盲人の手を引く」という同様の誤解が見られる.ヴァーチャスパティ(Bhāmatī ad 2.2.37)の誤解はアッパヤディークシタにより,シャーンタラクシタ(Tattvasaṅgraha v. 2379)の誤解は,カマラシーラ(ad vv. 2379, 2665)により,実質的に訂正されている.

23 Kāśikā ad Ślokavārttika codanā, vv. 102cd-103ab: indriyaśabdena ca pratyakṣadvāreṇa sarvapramāṇāny upalakṣayati. ŚVK I 112.

シャバラが知覚とヴェーダ命令に絞って話を進めていること,すなわち,第一次的な無前提の認識手段を念頭において註釈していることは,スートラ1.1.4と1.1.5におけるpratyakṣaとupadeśaの対立を受けたものである.知覚を論じれば,それを前提とする推論等も自動的に論じたことになる.また,彼のこのような態度は次の諸文からも明らかである.Śābarabhāṣya ad 1.1.2: codanā hi bhūtaṃ bhavantaṃ bhaviṣyantaṃ sūkṣmaṃ vyavahitaṃ viprakṛṣṭam ity evaṃjātīyakam arthaṃ śaknoty avagamayituṃ, nānyat kiṃcanendriyam. F 16.12-14; Śābarabhāṣya ad 1.1.4: pratyakṣapūrvakatvāc cānumānopamānārthāpattīnām apy akāraṇatvam. F 22.19-20.

24 Cf. Kāśikā ad Ślokavārttika codanā, v. 111: ato ’vagamyate --- atīndriyajñānam eva bhāṣyakāro vārayati, na tu sarvajñānam. atīndriyaṃ hi vacanād ṛte jñātum aśakyam ity abhiprāyeṇāha vacanād iti. ŚVK I 118.13-15.

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