推理は,当座であれ絶対的であれ直接知覚できない対象を知る手段である.しかし直接知覚できない対象といっても我々の経験世界に何らかの手がかりを残している.その手がかりをもとにして推理がはたらき,直接知覚できない対象が知られる.推理の正しさを保証するものは,手がかりとなる証因(顕在的な事象)と,証因がもつ不可離関係(推論規則となるもの)の妥当性である.
同じ対象について,異なる証因をとることによって正反対の結論が出る場合がある.例えば「音声は無常である.作られたものであるから.壺のように」「音声は常住である.聴かれるものであるから.音声性のように」という相反する推理1は,どのような証因を手がかりとするのかという点で対立している.このような場合,もちろん何らかの方法で推理対象を直接知覚できれば結論はどちらかに定まる訳だが,直接知覚可能な条件を備えていない場合には,推理を構成する証因が推理対象との不可離関係をもっているか否かで判定しなければならない.必然性の域にまで高められた高い妥当性をもち,他の推理によって結論が否定されない推理こそ,真に正しい推理と言える.
インドの論理学者たちは,証因に一定の基準を設けて正しい推理と誤った推理を区別しようとした.はじめ仏教説は「主題の属性であること(pakṣadharmatva)」「同類に存すること(sapakṣe sattva)」「異類に存しないこと(vipakṣe ’sattva)」という証因の三条件を挙げたが,バラモン教系諸学派ではこれに加えて,証因自体のあり方だけではなく,結論の領域までを証因の責任問題として関連づけ,第4条件「対立する主張をもたないこと(asatpratipakṣatva,他の推理と対等に対立する結論を与えないこと)」,第5条件「対象が排撃されないこと(abādhita-
viṣayatva,直接知覚など他の認識手段によって否定されるような結論を導かないこと)」という条件を設けている.この2条件については,仏教徒から不要であるという反論が出され議論が起こった.その中で問題となったのは,推理と推理が対立している場合にどのような手続きで判定を行うかである.推理と推理を直接比較することで判定できるのか,あるいは別の基準を持ち込んで間接的に比較するべきなのか.本稿はニヤーヤ学派の諸文献を中心として,2つの相反する推理の真偽を,インドの論理学者たちがどのように判定したかを見ながら,その背景にある推理のもつ特性や問題点を考察する.
「対象が排撃されないこと」という証因の条件は,推理が他の認識手段によって否定されるような結論を導かないことを要請する.例えば,「全体としての火は熱くない.作られたものだから.壺のように」という推理は「火は熱い」という直接知覚によって排撃されるし,「酒はバラモンが飲んでよい.液体だから.牛乳のように」という推理は「バラモンは酒を飲むべからず」という聖伝によって排撃される.前者の場合は周知の現象が,後者の場合は周知の当為が推理に優先することを示している2.
それでは推理が別の推理によって排撃されるという場合(anumāna-
bādhita(viruddha)-anumāna,以下ABA)はあるのだろうか.例えば「物体は無限に分割することが可能である」という推理は「物体はそれ以上分割不可能な最小構成要素から成り立っている」という推理と比較すると力が弱そうである3.この場合,前者の推理が後者の推理によって排撃されるということになるのだろうか,それとも前者の推理に何らかの欠陥があって,後者の推理による排撃を待つことなく自滅するのだろうか.ニヤーヤ学派ではABAを認めるか否かについて3通りの見解があると考えられる.
ABA承認 | Vācaspatimiśra,Bhāsarvajña,Udayana |
ABA不承認 | (Vātsyāyana,)Bhaṭṭa Jayanta |
原則不承認だが,アンビバレントな態度をとる | Uddyotakara |
以下に詳細に見るようにBhaṭṭa Jayanta(以下Jayanta)がVātsyāyanaとUddyotakaraの文言をそのまま継承してABAを承認しない一方,Bhāsarvajñaはこれを批判してABAを承認している.しかし以下に見るように,Uddyotakaraの見解には曖昧な部分があり,必ずしもJayantaの見解との一致を見ない.さらにUddyotakara説を注釈したVācaspati,その複注を書いたUdayanaにおいては,積極的に承認するようになっている.これらの見解の違いは何に由来するものだろうか.以下にニヤーヤ学派内の各説の比較検討を通して,このような見解の相違が生まれた背景を探りながら,2つの相対する推理において正しい方を判定する基準の解明を試みる.
スートラの中に「推理の対象が排撃されないこと」を用意していなかったニヤーヤ学派において,ABAは認識手段(pramāṇa)や誤った理由(hetvābhāsa)の文脈にはなく,ニヤーヤ学の骨子を説き起こす序文において扱われている4.Vātsyāyanaは「正しい論理」を意味するニヤーヤ(nyāya)について「ところで直接知覚及び聖伝と矛盾するものは誤った論理である5」と説く.Uddyotakaraはこの文言に推理と矛盾するものがないことを受け,ABAはないと説明する.
(問)推理と矛盾する推理がどうしてないのか.(答)同一〔の事象〕に関して2つの推理が入り込むことはあり得ないから,矛盾はない.すなわち[証因の条件である]肯定的・否定的随伴を満たした2つの推理が,同一の対象に入り込むことはない.それゆえ推理と矛盾する推理はない.(問)それならば直接知覚と矛盾するものもなくなってしまうのではないか.(答)なくなることはない.肯定的・否定的随伴を満たしたものが直接知覚によって排撃されるからである6.
同一の事象に関して矛盾する結論を導く2つの推理が,どちらも正しいということはない.従って推理が正しい限り,別の推理によって否定されないというのがUddyotakaraの見解である.しかし一方で仏教説批判の中では,ABAを承認する態度も示している(傍点筆者).
「音声は聞かれない」というのが直接知覚と矛盾するものであるとある者たちは述べる.それは妥当ではない.感覚器官のはたらきが超感覚的だからである.感覚器官のはたらきは超感覚的である.「これがこの感覚器官によって把握され,これはこれによって把握されない」というような直接知覚をもっている者は誰もいない.そうではなくて,その状態の有無に従って,すなわち色などの知[の生起]によって感覚器官のはたらきが推理される.それゆえこれは[直接知覚と矛盾する推理の]喩例にならない.喩例は「火は熱くない」というのが正しい.
聖伝に矛盾するものもヴァイシェーシカ学派が「音声は常住である」というものであるが,これも聖伝に矛盾するものであるとは我々は考えない.というのもヴァイシェーシカ学派は音声の無常性を聖伝によって理解しているのではなく,推理に基づいて,すなわち「原因に応じて変容するから(Vaiśeṣikasūtra 2.2.34)」云々ということに基づいて〔理解している〕.これも推理に矛盾するものにほかならない7.
一方では推理と矛盾する推理を承認しないで,もう一方ではその存在を示唆するこの一見矛盾する態度について,以下のように考えることができる.すなわちUddyotakaraがABAを否定した意図は,2つの対立する推理の力が均衡することを否定するということであり,2つの推理に力の強弱がある場合は想定されていない.換言すれば証因の第4条件「対立主張のないこと」を推理対推理の場合の規定とし,第5条件「対象が排撃されないこと」を推理対それ以外の認識手段に割り当てる考え方で,ABAは否定されているのではなく,排撃という問題範囲外だったと考えられる.後代にこの点を注釈したVācaspatiは,排撃という文脈から逸らして「対立主張のないこと」への文脈に組み込み,ABAは否定されていないと解釈している.
まず以前にはたらいていた推理によって対象が排撃され,それ[=前にはたらいていた推理]の方が有力であるような後の推理は,自らの結果に対して十分ではない.「音声は聴かれるものではない.作られたものであるから.壺などのように」というこの推理は推理と矛盾すると言われたように.(中略)それゆえ相互に独立して同時にはたらくことができる2つの推理は[同一の事象について]入り込むことがないことを意図してこのことが述べられたのである.すなわち[独立した]2つのどちらかが排撃されたり排撃したりすることは不可能であり,相互に対立主張を持つものとして正しい認識をなさない8.
Udayanaも同様にVācaspatiを支持し,Uddyotakaraの言明をABA否定の文脈から外そうとしている9.Uddyotakaraの時代,仏教徒とVaiśeṣika学派は「誤った主張」という新たな分類の中で排撃の理論を展開し,推理・論証の正誤を判定する基準体系を構築した10.Uddyotakaraのアンビバレントな態度は,Vātsyāyanaの見解を継承する一方で,元来想定されていなかった排撃に関する仏教徒やVaiśeṣika学派の見解を検討・批判するうちに培われたと考えられる.そしてこのことがABAの有無をめぐって学派内で見解が分かれる元となる.
Jayantaの時代になると証因の追加条件「対立主張のないこと」「対象が排撃されないこと」は推理や誤った理由の文脈で扱われるようになり,スートラとの関連付けも進んだ.しかしABAについては,Uddyotakaraの確定的でない態度を引きずるように,推理同士に力の強弱があるのか否かという点から後代に議論が起こった.
JayantaはVātsyāyanaの文言「ところで直接知覚と聖伝と矛盾するものは誤った論理である」を堅持し,ABAを承認しない.推理によって排撃される場合を力の強弱がある場合とない場合に分け,いずれの場合にも排撃が成り立たないことを示した後,ABAにはそもそも何らかの過失があり,別の推理による排撃をまたずに別の基準によって推理の誤りを判定することができるという.この背景にあるのは,推理は推理と呼ばれるからにはすでに妥当性をもった認識手段であり,正しいのに力の弱い推理というものはありえないという考え方である.従って,推理であるのに推理でないというようなABAは起こり得ないのである(傍点筆者).
(問)直接知覚や聖伝と矛盾するものと同じく,推理と矛盾する推理がなぜ例示されないのか?
(答)あり得ないからであると我々は言う.というのも,推理と矛盾するものは推理として当てはまらない.すなわち同等の力をもつ2つの推理が排撃・被排撃関係をもつか,あるいは同等の力をもたないもの同士かのどちらかである.そのうち同等な力をもつもの同士では,同等の力をもつからこそ,排撃・被排撃関係をもたない.力が同じとき,どちらが排撃するもの,あるいは排撃されるものなのか?同等の力をもたないという選択肢でも,片方が力弱いことを決めるものに基づいてこそ,それが正しくないことが成り立つので,推理による排撃をして何になろう.それゆえ推理によって排撃されるものを推理として我々は認めない.
まさにこれゆえ推理と矛盾するものを推理として認めないBhāṣya作者によって「また,直接知覚と聖伝に矛盾する推理は誤った推論である」と言われたのである11.
さてABAを認めないJayantaは,「他の者たち(anye)」の見解として「それ以外の成立(anyathāsiddhi)」または「非支配因(aprayojaka)」を提案し,これが実質上Jayanta自身の見解として「片方が力弱いことを決めるもの」という別の基準となっている.ここで「原子は無常である.質量をもつから.壺のように」という推理が例になる.この推理が誤っているのは,所証である無常性(anityatva)が実際には所作性(kṛtakatva)という「それ以外のもので成立」しているのに,無常性に対して「非支配因」である有質性(mūrtatva)が理由になっているからであると説明する.所作性が無常性を支配している(常に論証する)のであり,有質性は支配していない.「質量をもつものは壊れる」ということは壺などのある場合に成り立つが,常にそうである訳ではない.仔細に観察し検討すれば「作られたものは必ず壊れる」という法則が出る.原子には無常性を支配する所作性がないから,無常ではない12.
「それ以外の成立」はニヤーヤ学派では不成立因の分類に属するが,「非支配因」の用例はミーマーンサー学派に見られる13.「所証がそれ以外の証因で論証される」というJayantaの解釈は「証因がそれ以外の方法で論証される」というUddyotakaraの解釈と見解を異にし,Kumārilaの見解に近い.Jayantaはこれによって,共存関係にある要素を用いていても推理が誤りになる場合を指摘したのである14.
次に問題になるのは,何が支配的で何がそうでないのかをどうやって見分けるかである.この問いに対しJayantaは伝統的な帰謬論証を用いる.すなわち,原子が部分をもたない(niravayava,それ以上分割できない)ことを,「原子が部分をもつ(=無限に分割できる)ならば最小単位がなくなり,質量の大小がつけられなくなってしまう」という背理法によって証明し,原子がそれ以上分割できない最小単位として有質かつ常住であることを示す.一方で壺などの有質なものは明らかに無常である.この結果有質であっても常住な場合と無常な場合とがあり,有質性は無常性に対して支配的でないことが判明する15.
(問)さてこれが支配的でないことはどうして理解されるのか.(答)有質性は遍在する実体とは異なる実体にある特定の量などという属性であり,実在の本質だけに基づくもので,所作性などとは異なり無常性を支配することができない.すなわち,原子が成立しているからこそ,そこに存する有質性が[壺などの]無常性を証明しうるのであって,さもなければ基体不成立因となってしまうだろう.しかし部分をもつ結果を推理する道理によって[原子が部分をもたないことが]必ず証明される.あるいは土塊を分けることで出現する部分を次々に考えていく段階によって原子が部分をもたないものであると成立する.というのも「部分をもつならばそれらの部分が原子となり,それらが原子でなくなってしまうからである」「それらにも再分割を考えても,部分は無限であることに変わりがないから」,カラシの実とメール山が同じことになってしまう.しかしそういうことはない.それゆえこのように部分のない原子に更なる拠り所のないことは本質的に成立している16.
注目したいのは,この「非支配因」が不成立因に分類しきれない第6の誤った理由としてもよいというニヤーヤ学派の見解を逸脱する大胆な提案を行っていることである.ただし,スートラを逸脱することについては「スートラを逸脱してもよいが,実際を逸脱してはならない」としながらも,「私のような僅かしかものを知らない者がついうっかり誤ったことを話すことがあり得る」として,不成立因を拡大解釈してその中に分類できるという可能性も残している17.
しかし実際に依拠された原子の定義に関わる推理は,Nyāyasūtra以来の伝統説にほかならない.原子はNS 4.2.17で「塵より小さいもの」と提示され,4.2.25においてそれ以上分割不可能な(部分をもたない)ものであると示されており,Jayantaが展開した議論はVātsyāyana,Uddyotakaraにおいてその原型が見られる.この推理は推理というよりも学派内の定説(定理)に近いと言えよう18.
他のニヤーヤ学派の思想家に見られないJayantaの特異点は,ABAを容認しない代わりに非支配因,それ以外で成立しているものという誤った理由の理論を構築し,それによって説明しようとしているところである.しかしこれが内容的にも特異的であるとは言い難い.
BhāsarvajñaはNSから独立した自著Nyāyasāraにおいて,誤った理由として新しく非排撃因を立て,その中でABAを扱う.ABAを承認しない見解を前主張に立てて批判している.前主張はJayantaの論法と同じく,ABAを力の強弱がある場合とない場合に分けていずれの場合もABAが不可能であることを説き,代わって「それ以外の成立」という別の基準を立てる.これに対してBhāsarvajñaはABAが不可能ならば同様に直接知覚や聖伝によって排撃される推理も不可能となり,またABAが「それ以外の成立」だというならば同様に直接知覚や聖伝によって排撃される推理も「それ以外の成立」になってしまうと批判する.他の認識手段による排撃を待たずに別の基準で判定されるという点で同じだからである.そこで結論として,別の推理による排撃それ自体で誤りが判定されるべきであり,2つの推理が対立する状態で考察をすれば,力の強弱が定められると説く(傍点筆者).
(答)[「2つの推理に排撃・被排撃関係はない」ということについて]そうではない.力の有無に基づいて考察されて,力をもつとみなされるものは排撃する推理であり,力のないものが排撃されるものである.実際にはその場合,[排撃するものは]推理である.例えば「火は熱い」という直接知覚が他の理由がないことから対象の力によってはたらいて推理を排撃するものとなるように19.
Bhāsarvajñaの論点は推理を他の認識手段と区別しないところにある.直接知覚や聖伝が推理を排撃できるならば,必ず推理もひとつの認識手段として推理を排撃する力がある.そして2つの推理のどちらが排撃し,どちらが排撃されるかは力関係の考察を経た後で決められることであり,Jayantaの批判の前提にあるように予め決まっていることではない.それではBhāsarvajñaの説く「力の有無に基づく考察」とはどのような内容だろうか.ここでもJayantaの場合と同様に原子の無常性の推理が例になっている.
なぜならその[=旋火輪の知覚の]場合,推理がより有力であるように,原子それ自体を証明する推理によって無常であるという推理は排撃されるからである.あるいは[排撃されなければ]基体不成立因になる.しかし無常ならば原子であることはない.というのも刹那滅主義者を否定する際に量の少ないものこそが実体の質量因になる[と述べられる]からである.
(問)それではどうして原子はそれ[=原子]なのか.
(答)それ以上小さいものがないものが原子であると言われる.また小ささなどの状態に限界がないならば,塵と山などが無限の原因から生じる点で変わらないから,重さと量において違いがなくなってしまう.このように原子を論証する推理は無常性と矛盾するから,より有力である.しかし有質性は常住性と矛盾がないから無力である.そして原子を論証する推理は以下の通りである.「小ささなどの状態はどこかで収まる.量の大小だから.大きさのように.」このようにあらゆる場面で力の有無が理解されることにより2つの認識手段に排撃・被排撃関係が決定されるべきである20.
言葉遣いは異なるものの,「力の有無に基づく考察」は「原子の本質を決定する推理」すなわち原子に関する伝統説であり,内容的にJayantaの「片方が力弱いことを決めるもの」と異ならない.ABAを認めなければ,推理による排撃が起こる以前にその推理の誤りを判定する別の基準を求めなければならない.そこで「それ以外の成立」を示すためには,結局別の決定的な推理を提示しなければならず,2つの推理を比較考量していることになる.一方ABAを認めたとしても,どちらが排撃しどちらが排撃されるか,推理同士で力の強弱を決定する基準が必要となる.ABAを認めるか否かということは,推理の妥当性を定める手続き上の順番の問題であり,表層的な問題に過ぎないと見られる.JayantaとBhāsarvajñaの見解の違いは2つの推理を比較考量している時点でそれら2つを推理と呼ぶか否かにある.
推理と推理が対立するという図式では,冒頭で述べたように対象を直接知覚できればどちらかの推理に軍配が上がるが,それができない場合は決め手に欠けることが多い.Uddyotakaraのアンビバレントな態度以前に,ABAの有無で見解が分かれる原因として,このテーマ自体が内包する問題があったと言わざるを得ない.しかしその時に決め手とされたのは,学派内の定説というものであった.同様に「音声は聞かれない/聞かれる」「音声は無常/常住である」という対立する推理で後者に判定が下されるのも,一般的な了解,または学派内の定説が優先されているということができる.直接知覚において周知の現象が,あるいは聖伝において周知の当為が推理に優先されるのと同様に,周知の事項を推理が覆すことはないことになっている21.
なお追記としてここまでの議論で,Jayantaが提示したトピックにBhāsarvajñaがほぼ全て応答しているにも関わらず,Bhāsarvajñaの見解にJayantaが応答していないトピック(ABAが他の認識手段と無区別になる誤謬)があり,直接的な引用関係はないものの思想的発展が見られることから,Bhāsarvajñaの方が時代的に後であった可能性を提示したい.VācaspatiもABAを承認しているが,このような議論が欠落しているため,Bhāsarvajñaとの先後関係については不明である22.
ニヤーヤ学派では他の認識手段による排撃(矛盾)を論証の正誤を判定する基準に組み入れる際,Vātsyāyanaの文言の継承とUddyotakaraによる仏教説批判の中で議論が錯綜した結果,ABAの有無をめぐって見解が分かれることになった.とりわけABAを認めないJayantaにおいては,非支配因という第6の誤った理由を立てるという大胆な提案までなされることになった.しかしどちらの立場においても判定のプロセスこそ違え,推理の結論には学派内で周知の定説を逸脱していないか吟味が加えられ,逸脱している場合には誤った推理であると判定される点で共通する.
仏教徒が推理を錯誤知であると主張して以来,ニヤーヤ学派では推理の必然性を確立するため,証因の条件付けを吟味したり,不可離関係の存在論を構築したりと様々な努力が行われてきた.しかし,たとえ外界の対象が一定の法則を持って存在しているとしても,限定された経験領域しかもたない人間が常に十全な推理を行うと言い切ることはできない.一旦は妥当であるとされた推理でも,将来において反例が生じる可能性は完全には否定できない.その前提のもとで正しい推理を論じるとすれば,学派内の無矛盾性と他学派に覆されない論理性が最低限必要となる.ABAの有無を認めるか否かにかかわらず,推理が伝統的な定説から逸脱してはならないとされたのは,自由な思索を阻むにせよ,存在論と認識論に関する積年の学問体系をCārvākaなどによる一時的な邪推で脅かされないための方策であったと考えられる.
この論文は㈶小笹会成願寺学術研究振興基金による研究の一部である.
1 NP 142.30f: anityaḥ śabdaḥ kṛtakatvād ghaṭavad/ nityaḥ śabdaḥ śrāvaṇatvāt śabdatvavad iti/ 尚この2論式はviruddhāvyabhicārinの例.
2 NM 284.7f: anuṣṇas tejo ’vayavī kṛtakatvāt ghaṭavat/
NM 293.5f: brāhmaṇena surā peyā aduṣṭatvāt kṣīravat/ どちらも論理的には不確定因と同じであるが,不可離関係とは異なって遍充関係の真偽を吟味せずにまず結論を直接に否定し,遍充関係は間接的に否定される.Cf. Gokhale[1992] 140.
3 Cf. Keith[1977] 208-219.ニヤーヤ,ヴァイシェーシカ学派では早い時期から「それ以上分割できない最小単位としての原子(paramāṇu,以下原子)」の存在が予想されていた.なお,推理の妥当性の高低は力(bala)の強弱という表現で表され,「力が強い」=妥当性がより高い,「力が弱い」=妥当性がより低いという意味である.
4 ニヤーヤ学派ではUddyotakaraまで誤った理由(hetvābhāsa)の分類の中に被排撃因(bādhita)という解釈はないが,Jayantaにおいてすでに過去提示因(kālātīita, kālātyayāpadiṣṭa)が被排撃因に解釈されている.Cf. Preisendanz[1994] 319-329はこの問題について仏教説も含めて資料を網羅的に提示し,思想の展開を追っている.
5 NBh 3.13f : yat punar anumānaṃ pratyakṣāgamaviruddhaṃ nyāyābhāsaḥ sa iti/
6 NV 13.16-3: athānumānaviruddhaṃ kasmād anumānaṃ na bhavati? ekasminn anumānadvayasamāveśasyāsambhavān na virodhaḥ/ na hy anvayavyatirekasampanne 'numāne ekasminn vastuni[NV2 arthe] samāviśataḥ, tasmān nānumānaviruddham/ pratyakṣavirodhy api tarhi na prāpnoti? na na prāpnoti, anvayavyatirekasampannasya [NV2 -vyatirekopapannasya] pratyakṣeṇa bādhitatvāt/ 同じ論法がNV 89.6-9に見られる.
7 NV 107.20-108.6: “aśrāvaṇaḥ śabda” iti pratyakṣavirodhaṃ kecid varṇayanti/ tad ayuktam/ indriyavṛttīnām atīndriyatvāt/ indriyavṛttayo ’tīndriyāḥ/ “idam anenendriyeṇa gṛhyate, nedam anena” iti na kasyacit pratyakṣam asti/ api tu tadbhāvābhāvānuvidhānād, rūpādijñānair indriyavṛttayo ’numīyante/ tasmān nedam udāharaṇam/ udāharaṇan tv “anuṣṇo ’gnir” iti yuktaṃ/
āgamaviruddham api vaiśeṣikasya “nityaḥ śabdaḥ” iti[NV2 iti yathā]/ idam api nāgamaviruddham iti paśyāmaḥ/ na hi vaiśeṣikeṇa śabdānityatvam āgamataḥ pratipannam, api tv anumānāt “kāraṇato vikārāt” ity evamādeḥ tad apy anumānaviruddham eva/
8 NVTṬ 40.11-41.1: yat tāvad anumānaṃ pūrvapravṛttaṃ tena bādhitaviṣayaṃ tadbalavat paścāttanam anumānaṃ[NVTṬ2 tad abalavat paścād anumānaṃ] na svakāryāya paryāptaṃ/ yathoktam “aśrāvaṇaḥ śabdaḥ kṛtakatvād ghaṭādivat” ity asya anumānasyānumānumānavirodha[NVTṬ2 asyānumānavirodha] iti/…... tasmāt parasparānapekṣasamānakālapravṛttisamarthānumānadvayasamāveśābhāvābhiprāyam etad uktam/ na hy anayor anyatarad bādhyaṃ bādhakaṃ vā saṃbhavati, kin tu mithaḥ satpratipakṣatayā na pramāṃ kurutaḥ/
Cf. Jha[1984] 56(footnote): The sense is that whenever there are two contrary conclusions obtained by two inferences, the one inference does not reject the other in favour of itself ; what happens is that they nullify each other ; it is only when of two contrary cognitions, one is by its very nature, more authoritative than the other, that there is that real contradiction whereby one rejects the other.
9 NVTP 80.14ff.
10 DignāgaはABAとして「壺は常住である」を説き(Cf. 北川[1985] 129),Praśastapādaも「虚空は濃厚である」という例を示した(PDhS 266)が,両者とも「誤った理由」ではなく,「誤った主張(pakṣābhāsa/pratijñābhāsa)」の下位分類である.
11 NM I 293.7-16: nanu pratyakṣāgamaviruddhavad anumānaviruddham anumānaṃ kasmān nodāhriyate? asambhavād iti brūmaḥ —na hy anumānaviruddham anumānam avakalpate/ anumānayor hi tulyabalayor bādhyabādhakabhāvaḥ atulyabalayor vā/ tatra tulyabalayos tulyabalatvād eva na bādhyabādhakabhāvaḥ/ samāne hi vīrye kiṃ kasya bādhakam bādhyaṃ vā? atulyabalatvapakṣe ’pi yatkṛtam alpabalatvam anyatarasya tata eva tadaprāmāṇyasiddheḥ kim anumānabādhayā? tasmān nānumāna-
viruddham anumānaṃ buddhyāmahe//
ata evānumānaviruddham anumānam apaśyatā bhāṣyakāreṇoktam “yat punar anumānaṃ pratyakṣāgamaviruddhaṃ nyāyābhāsas saḥ” iti//
12 「それ以外の成立」としてVācaspatiらが挙げる「彼は黒い.彼の息子であるから.既にいる他の息子のように」という例(黒さの支配因はこの場合食べ物とされる)は,未知の部分があるため遍充関係が定まりにくいものとして各学派で議論がなされており,ここでの原子の例との共通性が多い.Jayantaもこれらの議論を踏まえて理論を展開していると考えられる.Cf. Shiga[2001].
13 NV 370.5, 386.4,NVTṬ 370.19, 386.7,ŚV k.13-21.
14 共存しているだけでは遍充関係・不可離関係にならないという問題は,すでにDharmakīrtiにおいて提起されていたが,正しい証因の条件付けを目指すという観点からは十分に解決できず,Vācaspatiにおいて初めて「付加条件のないもの(nirupādhika)」として本質的必然関係に関連付けられるようになった.KumārilaおよびJayantaが述べる支配因は直接的には不可離関係と関連付けられていないものの,実質的には本質的必然関係を意図したものと言える.Cf. Gokhale[1992] 120,Preisendanz[1994] 178f,山上他[1983] 10-13.
15 引用した部分の後でJayantaは不確定因との違いを問われて,この場合原子は主題であり異類ではないからと答えている.しかし主張に直接反例が提出される訳だから,この見解は実質上ABAを容認するものにほかならない.次節参照.
16 NM II 625.16-626.8:kathaṃ punar asyāprayojakatvam avagatam/ ucyate— mūrtatvaṃ hi sarvagatetaradravyaparimāṇaviśeṣādidharmaḥ vastusvabhāvamātra-
nibandhanaḥ na kṛtakatvādivad anityatāṃ prayoktum utsahate/ tathā hi paramāṇuṣu siddheṣu satsu tatra vartamānaṃ mūrtatvam anityatāṃ sādhayet/ anyathā tv āśrayāsiddhatām upeyāt/ sidhyata eva ca sāvayavakāryānumānamārgena, loṣṭapravibhaṃgāvabhāsamānabhāgaparamparāparikalpanakrameṇa vā paramāṇavo niravayavāḥ sidhyanti/ sāvayavatve hi tadavayavāḥ paramāṇavo bhaveyuḥ, na te/ teṣām apy avayavāntaraparikalpanāyām api avayavānām ānantyāviśeṣāt sarṣapasya meroś ca sāmyam āpadyate/ na ca tad asti/ tad evaṃ niravayaveṣu paramāṇuṣu nisargasiddham anāśritatvam/
17 NM II 631.5ff: astu tarhi ṣaṣṭha evāyaṃ hetvābhāsaḥ/ ... ato varaṃ sūtrātikramaḥ, na vastvatikrama iti// ... pramādyan khalu parimitadarśī mādṛśaḥ anyathā brūyāt/
誤った理由に関するスートラの分類からの逸脱を処理した方法についてはCf. Preisendanz[1994] 179.
18 NS 4.2.17: paraṃ vā truṭeḥ/
Cf. Keith[1977] 213: … the truṭi, the phrase used by the Nyāya Sūtra in expressing the furthest length of division, and which there must be deemed to denote a dimension not too small for apprehension.
NS 4.2.25: anavasthākāritvād anavasthānupapatteś cāpratiṣedhaḥ/
NBh 266.10f: niravayavāt paramāṇuto …,NV 478.14f: paramāṇuś ca niravayavaḥ/ vibhāge ’lpataraprasaṅgasya yato nālpīyas tatrāvasthānāt/
19 NBhūṣ 317.13-16: na balābalaviśeṣād yad vicāryamāṇaṃ balavat pratibhāti tad bādhakam anumānam, yac cābalaṃ tad bādhyam/ vastutas tatrānumānam/ yathā “uṣṇo ’gnir” iti pratyakṣam anyanimittābhāvād viṣayabalena pravṛttaṃ bādhakam anumānasya/
20 NBhūṣ 317.17-26: tatra hy anumānasya balīyastvaṃ tathā paramāṇusvarūpa-
sādhakenānumānenānityatvānumānaṃ bādhyate, dharmyasiddhaṃ vā/ na cānityatve paramāṇutvaṃ kṣaṇabhaṅgapradhānavādanirākaraṇe hy alpaparimāṇam eva dravyasyopādānakāraṇam/ tac ca kathaṃ paramāṇūnāṃ syāt? yato hy alpataran nāsti, sa paramāṇur ucyate/ anavadhikatve cālpatarādibhāvasya truṭiparvatāder ananta-
kāraṇajanyatvāviśeṣād gurutvaparimāṇābhyāṃ viśeṣo na syāt/ evaṃ paramāṇu-
sādhakānumānasyānityatvena virodhād balīyastvam, mūrtatvasya tu nityatvena virodhābhāvād abalatvam/ paramāṇusādhakaṃ cedam anumānam — aṇutaratamādi-
bhāvaḥ kvacid viśrāntaḥ parimāṇataratamādibhāvatvān mahattaratamādibhāvavad iti/ evaṃ sarvatra balābalavattādhigamena bādhyabādhakabhāvaḥ pramāṇayor niśceya iti/
21 対立する推理にどちらが正しいという判定を下すことができない場合もある.この場合は論題類似因(prakaraṇasama)という誤った理由になる.この問題については紙幅の都合上,別稿に譲る.
22 Cf. Slaje[1986]および丸井[2000].JayantaとVācaspatiの先後関係はほぼ確定的であるが,Bhāsarvajñaとの先後関係や相互影響については確定的でない.