仏教文化研究論集
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論文
四尋思・四如實智に見られる思想展開
『菩薩地』から『大乗荘厳経論』を中心に
高橋 晃一
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2005 年 9 巻 p. 24-44

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1.はじめに

『瑜伽師地論』「本地分中菩薩地」(以下『菩薩地』)の第四章「真実義品」では,四尋思・四如實智という実践的な観法が説かれている.「尋思」(paryeṣaṇā)は考察あるいは探求を意味し,名称(nāman)の考察(名尋思),事物(vastu)の考察(事尋思),自性に関する仮説(svabhāvaprajña- pti)の考察(自性仮立尋思),特殊性に関する仮説(viśeṣaprajñapti)の考察(差別仮立尋思)という四種から成り,それぞれ名称を単なる名称と見ること,事物を単なる事物と見ること,自性に関する仮説を単なる自性に関する仮説と見ること,特殊性に関する仮説を単なる特殊性に関する仮説と見ることを指している.一方,「如實智」(yathābhūta- parijñāna)は,四尋思に基づいて,名称,事物,自性および特殊性の仮説をありのままに理解することであり,名尋思所引如實智,事尋思所引如實智,自性仮立所引如實智,差別仮立所引如實智の四種から成る.すでに指摘されているように,この四尋思・四如實智という観法は,『大乗荘厳経論』『顕揚聖教論』『阿毘達磨集論』『摂大乗論』『成唯識論』においても取り上げられている1

従来の研究では四尋思・四如實智の内容は,諸文献の間で思想的に進展していると考えられているが2,このような思想的発展を考えるときに,特に注目されるのは『菩薩地』とその他の文献との関係である.『菩薩地』は三性説やアーラヤ識説という瑜伽行派の特徴的な思想を説かないことから,『瑜伽論』の中でも最も古い層に属すると考えられている3.それに対して『荘厳経論』などは三性説やアーラヤ識説を説いており,『菩薩地』とは思想的に異なる特徴を呈している.言い換えれば,『菩薩地』は瑜伽行派の思想の最大の特徴である唯識説を説かない文献であり,一方,『荘厳経論』などは唯識説に言及する文献ということになる.このように,四尋思・四如實智は,思想的に大きく異なる特徴を示している文献間で継承された観法であり,そのため瑜伽行派の思想展開を考察する上で,重要な手掛かりを与えると考えられる.

四尋思・四如實智に言及する文献の中で,『菩薩地』と最も関連が深いのは,『荘厳経論』であろう.従来から指摘されているように両文献の間には章名の一致などから密接な関係があったことが推察され,また,『菩薩地』の『荘厳経論』に対する先行性も一般に認められている4.本論文では『菩薩地』と『荘厳経論』の間に見られる四尋思・四如實智の内容の変化とその背景について考察する5

2.先行研究について

四尋思・四如實智の分析を通して,『菩薩地』以降の思想的発展について考察した研究として,荒牧[1976b]と阿[1982]があげられる.また近年ではAramaki[2000],神子上[2002]でも『菩薩地』の四尋思・四如實智を取り上げ論じている.

 荒牧[1976b]では,『菩薩地』を三性説成立に至るまでの過程を示す基礎資料として位置づけ,四尋思・四如實智が三性説に発展したと考えられている.それによれば,四尋思・四如實智は『十地経』の三三昧と三十七菩提分法という菩薩行の要素に,『般若経』に見られる,あらゆる存在は名のみであり,菩薩はその名称を見ることがなく,またそれにしたがって分別することがないという般若波羅密行の要素が加わることによって成立したとされる6.具体的には,四尋思・四如實智の対象である(1)「名称あるいは仮説(prajñapti)」,(2)「『色』などと名づけられながら,本来は言語表現し得ない本質を持つ事物」のうち,特に後者の「事物」が,(2-1)「色」などと名づけられ,「色」などとして顕現する実在,すなわち分別と,(2-2)言語表現し得ない本体をもつ実在に分化し,それぞれ(1)=遍計所執性,(2-1)=依他起性,(2-2)=円成実性に発展したと考えられている7

 一方,阿[1982]では,『菩薩地』の思想が唯識思想とは一線を画するものであるとし8,四尋思・四如實智を『菩薩地』の思想的立場を集約する観法として位置づけている.そして,『菩薩地』とそれ以降の文献に見られる内容の変化を,(1)『菩薩地』の段階,(2)『菩薩地』の立場と相容れない唯識思想が現れるが,未だ両者未分化の段階,(3)唯識思想が優勢となり四尋思・四如實智が唯識思想の立場で変容を蒙る段階,(4)四尋思・四如實智が完全に唯識観の中へ緊密に位置づけられる段階,という四段階に整理し9,この変化の中に『菩薩地』の思想から唯識思想への転回が認められるとする10.阿[1982]によれば,『菩薩地』との関係で最も重要な変化を示しているのは段階(3)であり,この段階に属する『荘厳経論』において『菩薩地』の思想は捨てられ,唯識思想へと移行したとされる11

この他,Aramaki[2000]は四尋思・四如實智を真如・空性を理解するための菩薩の新しい実践体系と位置づけ,これが『解深密経』において唯識観に発展したとし,このような思想的発展を背景に『摂大乗論』では四尋思・四如實智が唯識と関連して説かれているとする12.これに対して神子上[2002]は『荘厳経論』では四尋思が唯識性と関連付けられていないことを指摘し,『瑜伽論』「本地分」の記述から,四尋思と三性説の関係を指摘している13

荒牧[1976b]や神子上[2002]で述べられるように,『菩薩地』の四尋思・四如實智が三性説と関連しているとすると,『菩薩地』以後の文献では四尋思・四如實智は三性説と関連付けて説かれることが予想される.だが,以下で考察するように,『菩薩地』から四尋思・四如實智を継承し,その後の文献に影響を与えたと考えられる『荘厳経論』では14,三性説との関連付けは積極的になされているわけではない.同様の問題は唯識観との関連付けを試みるAramaki[2000]にも該当することはすでに指摘されている15.また阿[1982]のように,唯識説を説かない『菩薩地』の段階から唯識思想への発展を思想的な「転向」と捉えると16,『菩薩地』の思想を瑜伽行派の思想史の連続の中で位置づけることが難しくなる.

しかし,『菩薩地』の思想形態が瑜伽行派の思想全般から見れば特異なものであるにも関わらず,そこで説かれていた四尋思・四如實智という観法がその後の文献に継承されていったことは先行研究が指摘する通りであり,その考察を通して,『菩薩地』以来の瑜伽行派の思想展開の一端が解明される可能性は十分予想される.

3.『菩薩地』の四尋思・四如實智

『菩薩地』では四尋思は次のように説かれている.

 このうち名尋思(名称の考察)は,菩薩が名称に対して単なる名称であると見ることである.同様に事物に対して単なる事物として見ることが事尋思(事物の考察)である.自性に関する仮説に対して,単なる自性に関する仮説として見ることが自性仮立尋思(自性に関する仮説の考察)である.特殊性に関する仮説に対して,単なる特殊性に関する仮説として見ることが差別仮立尋思(特殊性に関する仮説の考察)である.

彼(菩薩)は名称と事物の区別され,かつ混合した特徴を見る.そして名称と事物の混合に依存した,自性に関する仮説と特殊性に関する仮説を洞察する17

これによれば,名称,事物,自性・特殊性に関する仮説に対して,それぞれ名称などに過ぎないものと見なすことが四尋思である.ただし,『菩薩地』の四尋思の要点はむしろ最後の一文にあると考えられる.そもそも『菩薩地』は三種の事物を生じる八種の分別を理解するための方法として四尋思・四如實智を説いている18.そのうち,四尋思は単に名称や事物などがそれ自体であり,他と本質的に関係していないということをそれぞれ個別に観察することだが,最後の一文が加わることにより,本来は無関係な名称と事物が関連し合っている状態に対して自性や特殊性の仮説が成り立つことを洞察していることが分かる.これは四如實智の内容にも関連している.『菩薩地』はそれについて次のように説いている.

……「かくかくという名称が,かくかくという意味を持つ事物に対して,命名のため,理解のため,二次的表示のためだけに定立される.もし『色』などの名称を持つ事物に対して『色』という名称が定立されないとしたならば,誰もその事物を『色』とこのように命名し得ないであろう.命名していない人は,増益に基づいて執着しないであろう.執着していない人は言語表現し得ないであろう」と.以上のようにありのままに理解すること,これが名尋思に基づく如實智と言われる.

……それに基づいて,菩薩が事物について単なる事物に過ぎないものであると考察した後,その「色」などの名称を持つ事物は,すべての言語表現を離れた,言語表現し得ないものであると見るとき,それが事尋思に基づく,第二の如實智である.

……その自性に関する仮説によって,それ(「色」など)を本質としない事物が,それ(「色」など)を本質とするものとして現れているということをありのままに洞察し,理解する.……これが自性仮立尋思に基づく,第三の,極めて深遠な対象領域を持つ如實智である.

……その「色」などの名称を持つ事物に対する特殊性に関する仮説を不二なるものとして見る.(すなわち)その事物は存在物でもなく,非存在物でもない.言語表現し得る本質として不完全なものなので存在物ではなく,しかし,言語表現し得ない本質として定立されたものなので,非存在物でもない.……この特殊性に関する仮説を以上のように不二なるものとしてありのままに理解すること,これが差別仮立尋思に基づく如實智である19

四尋思によって名称などがそれぞれ単なる名称などに過ぎないことを理解した後,四如實智により,名称,事物,自性・特殊性に関する仮説の関係を理解することになる.そのうち,第三の自性仮立尋思に基づく如實智は,自性に関する仮説によって,本来言語表現し得ないはずの事物が「色」などを本質とするものとして現れている状態を理解することである.その内容は,四尋思に関する説明の終わりに,本質的に関係のない名称と事物が混合した状態に対して仮説がなされることを洞察すると説くことに一致している.下線で示したように,この第三の如實智は「極めて深遠な対象領域を持つ」とされている.このことからも,『菩薩地』では,名称などを単なる名称などに過ぎないものと理解するだけでなく,名称と事物の関連に基づく,言語を介在した認識の成立を洞察することが重視されていると考えられる.

4.『荘厳経論』の四尋思・四如實智

一方,『荘厳経論頌』は第19章で次のように述べている.

名称と事物は相互に偶然的なものであることに関する尋思と,それに対する二種類のものに関する仮説がそれ(仮説)のみであることに関する尋思がある//47//20

 『荘厳経論頌』は『菩薩地』のように名称,事物,自性・特殊性に関する仮説が名称などに過ぎないということを詳述しないが,「名称と事物は相互に偶然的であること」という表現から,名称と事物は本質的に関係のないものと考えていることが分かる.また「二種類のものに関する仮説がそれのみであること」という表現から,仮説は単なる仮説に過ぎないと見ていることが読み取れる.ただし,『荘厳経論頌』は名称などの四つの要素がそれぞれ単に名称などに過ぎないと観察するだけで,『菩薩地』のようにそれらの関わり方を洞察するという点には言及していない21

また,四如實智については次のように述べている22

そして,すべてについての非知覚に基づいて,四(如)實智が,すべての利益を成就するために,賢明な人々に,すべての地において生じる.//48//

拠り所と享受物と(それらの)種子が,束縛の(因)相(nimitta)であり,一方,基体を伴い,種子を伴う心心所が,そこに束縛される.//49//

目の前に立てられた(相)と自ずから立っている相があるが,すべてを除去しつつある智恵ある人は,最高の悟りを得る.//50//

真如を対象とする知は二取(dvayagrāha)を離れており,麁重身を直感するものであり,それを滅するために,智恵ある人々にあると認められる.//51//

真如を対象とする知は,多様なものとして現れず,存在することと存在しないことの意味を直感するものであり,分別に対し自在と言われる.//52//

真実を覆い隠し,愚者たちには真実でないものがあらゆる点で現れる.一方,それを取り去って,菩薩たちには真実があらゆる点で現れる.//53//

非存在の対象と存在する対象が,(それぞれ)顕現しないことと顕現することが転依であると理解されるべきであり,思いのままであるから,それが解脱である.//54//

大いなる境界は相互に同類のものとしてあらゆる点で現れるが,障害となる.したがって,それを正しく理解し,捨て去らねばならない.//55//23

 この内容は以下のように整理できる.①[第48偈]:四如實智を主題として提示,その目的を示す.②[第49, 50偈]:相への言及.③[第51, 52偈]:真如を対象とする智に言及.④[第53, 54偈]:不真実が姿を消し,真実が現れることが転依,解脱とされる.⑤[第55偈]:これは偈文のみでは理解し難いが,『荘厳経論釈』によれば仏国土の清浄について述べているとされる24

すでに指摘されているように,『荘厳経論頌』の四如實智の特徴は第48偈に見られるように「すべての非知覚に基づいて,四如實智」が生じるとする点にある25.この場合の「すべて」の内容は,『釈』によれば名称などすべてであり26,『安慧釈』によればすべての名称,すべての事物,すべての自性に関する仮説,すべての特殊性に関する仮説とされている27.しかし,第48偈以下を一連の内容として理解するならば,第50偈後半で「すべて(相)を除去しつつある智恵ある人は,最高の悟りを得る」と述べられ,続く第51, 52偈では智恵ある人の持つ真如を対象とする智について述べていることから,第48偈の趣旨は相として現れるすべてのものを除去し,知覚しないことに基づいて,如實智,すなわち真如を対象とする智が生じると解釈する方が整合性がある28

ただし,いずれの解釈によるとしても,『荘厳経論頌』では非知覚に基づいて四如實智が生じるとする点,また「相」の除去と「真如」の理解に言及し,それが「転依」と関連付けられる点は『菩薩地』と異なっている.

5.「摂決択分中菩薩地」の四尋思・四如實智

『荘厳経論』の四如實智に関する記述では「相」と「真如」という概念が「転依」と関連付けられていた.この「相」「真如」という術語は五事説とも深く関連している.五事説とは相・名・分別・真如・正智により一切法を説明するものだが,それについて最も詳細な記述の見られる『瑜伽師地論』「摂決択分中菩薩地」では,四尋思・四如實智について次のように述べられる.

 四尋思と五事のうち,(どの)五事によってどの尋思が包摂されるのかと言うならば,(次のように)言う.如理作意を備えた分別によって四尋思すべてが包摂される.

 四如實智と五事のうち,どの事によって,どの如實智が包摂されるのかと言うならば,(次のように)言う.正智によって四つすべてが包摂される29

 「摂決択分」の五事説では,分別は言語表現の基体としての事物(*vastu),すなわち相(*nimitta)を対象とする心の働きであり,正智(*saṃyagjñāna)は言語表現の基体とならない事物(*vastu)としての真如を対象とする智である30.また,転依について「摂決択分」では五事説と関連して次のように言及している.

知られるべきものが無常であり,よく知られており,堅固であり,無量であり,大部分が隠れている場合,そのヨーギンはどのようにそれを対象とし,転滅するのかと言うのであれば,(次のように)言う.(すなわち)聞と思の力によって三昧を得ることになるが,それによって五種の知られるべきものに関する三昧中の影像を目の前に現し,この知られるべきものを対象とする.除去すること(*vibhāva- nā)によって転滅する.

五種の知られるべきものを除去することの特徴はどのようであると言うべきかと言うのであれば,(次のように)言う.(すなわち)無上の転依,無為,涅槃を特徴とするもの(*anuttarāśrayaparivṛttyasaṃ- skṛtanirvāṇalakṣaṇā)である.涅槃とは何かと言うと,法界の浄化(*dha- rmadhātuviśuddhi)である.……法界の浄化とは何かと言うと,正智を修習することに依存して,すべての相を除去することにより真如(を理解すること)である31

 ここでは五種の知られるべきもの,すなわち相・名・分別・真如・正智の五事を三昧中の影像として対象化し,除去することが転依の特徴とされる32.転依は無為,涅槃と言い換えられ,さらに涅槃は法界の浄化とされ,それは「正智を修習することに基づいてすべての相を除去することにより真如を理解すること」と説明される.言うまでもなく,この場合の真如は三昧中の影像として対象化され,除去される真如とは異なる.

 転依の用例は『瑜伽師地論』の他の箇所でも見られるが,近年の研究によれば,それらは次の五つのパターンにまとめることができる33

①ヨーギンの肉体的精神的な変化を表し,麁重など要素間の交換の考え方を受け継ぐもの,

②ヨーギンの肉体的精神的な変化だが,ヨーギンの存在全体に関する変化,交換を意図するもの

③真如の浄化として絶対化されたもの

④アーラヤ識と対立関係にあり,真如として絶対化されたもの

⑤解脱身,法身あるいは法界清浄と結び付けられたもの

今問題としている「摂決択分」の引用は法界の浄化と関連している点でパターン⑤に相当するだろう.ここに引用した「摂決択分」の記述は転依の説明に関連して,「相の除去による真如の理解」を明確に説いている点で,先に取り上げた『荘厳経論』の内容と極めて近い34.しかも,興味深いことに『瑜伽論記』はこのヨーギンによる相の除去を四尋思・四如實智に関連付けて解説している35.『瑜伽論記』の理解は,「摂決択分」自体が四如實智を五事のうちの正智,すなわち真如を対象とする智と関連付けていることに根拠があると思われるが,このように「摂決択分」の記述の中に,「相の除去による真如の理解」が四如實智として解釈される可能性を見出すことができる36

6.四尋思・四如實智に見る『菩薩地』から『荘厳経論』への展開

 先に述べたように『菩薩地』で説かれていた四尋思・四如實智を三性説の起源とする説があり,また四尋思・四如實智に関する考察に基づいて,瑜伽行派の思想史における『菩薩地』の思想の特異性も指摘されている(本論2参照).しかし,一方で『菩薩地』と同様に四尋思・四如實智を説く『荘厳経論頌』では,それらと三性説・唯識説の関係は明確にされていない.確かに『荘厳経論釈』では第51偈を三性説・アーラヤ識説によって解説しているが37,これは必ずしも『荘厳経論頌』がこの箇所で三性説・アーラヤ識説を意識していたことを意味するものではないだろう38.むしろ,このような『釈』の解釈とは異なり,『荘厳経論頌』からは,五事説との関係を読み取ることができる.

五事説は従来あまり思想史的観点から取り上げられることがなかったが,「摂決択分中菩薩地」では『菩薩地』の真実義(tattvārtha)を分析する際に三性説に先んじて五事説を説いており,またその内容は『菩薩地』「真実義品」で説かれる言語表現し得ない事物(vastu)に関する思想を継承・発展させたものと考えられる39.このような『菩薩地』の思想と五事説の関係を念頭におくと,四尋思・四如實智に関して以下の発展過程を想定することができる.

①『菩薩地』では四尋思・四如實智は,本質的には無関係な名称,事物,自性・特殊性に関する仮説が関連しあって,言語を介在した認識が生じていることを洞察するものであった.

②『菩薩地』の四尋思・四如實智が「摂決択分」で五事説と関連付けられ,またその中で「相の除去による真如の理解」という意味での転依と結びつく可能性が生じた.

③その内容が『荘厳経論頌』に反映され,四如實智を「相の除去によって現れる真如を対象とする智」と説明するようになった.

『荘厳経論頌』の四尋思・四如實智に関する内容は「摂決択分」の五事説に関する記述だけで説明できるものではないが,少なくとも『菩薩地』の内容を直接的に継承したのではなく,「摂決択分」で説かれる五事説を介して形成された可能性は指摘できる40

7.結論

 四尋思・四如實智は,瑜伽行派の最も古い段階の思想を伝える文献の一つである『菩薩地』においてすでに説かれ,『荘厳経論』など瑜伽行派の諸文献に継承されていった.その点で,三性説・アーラヤ識説という瑜伽行派の代表的な学説を説かない『菩薩地』を思想史的観点から考察する場合,四尋思・四如實智に着目することは有意味であり,またそうした観点から,この箇所は,あるときは三性説の起源と見なされ,あるときは唯識思想における『菩薩地』の特異性を示す根拠とされてきた.しかし,『菩薩地』と『荘厳経論』の四尋思・四如實智に関する記述を比較し,両者の発展過程を考察することにより,四尋思・四如實智に関連する思想展開について,さらに新たな可能性を提示することができる.

『菩薩地』においては,本質的に関係のない名称,事物,自性・特殊性に関する仮説が関連し合う状態を洞察するものであった四如實智が,『荘厳経論』では「相の除去によって生じる真如を対象とする智」とされ,転依と関連付けられるようになる.こうした理解が生じた背景としては,「摂決択分」の五事説で説かれる転依に関する記述が影響した可能性を指摘できる.すなわち,「摂決択分」の五事説の介在を想定することにより,『菩薩地』と『荘厳経論』の間に見られる四尋思・四如實智の変化を思想史の連続の中で捉え直すことが可能になる.このことは『菩薩地』から『荘厳経論』への思想的発展において,四尋思・四如實智は三性説よりも五事説と密接に関連していた可能性を示唆していると思われる.

ただし,これは『菩薩地』の思想が起源となって,三性説や唯識観に発展した可能性を否定するものではない.むしろそうした思想展開を考察する際に五事説を考慮に入れる必要性を指摘するものである.

Footnotes

1 荒牧[1976b] p.18,横山[1979] p.63,阿[1982] p.36などによれば,四尋思・四如實智は『菩薩地』で初めて説かれたとされる.長尾[1987] p.31注3では四尋思・四如實智について「『瑜伽論』菩薩地の説明が最も詳細で,『顕揚』はほとんどそれに同じ,その他の諸論は多かれ少なかれ簡略である」と述べられている.

『声聞地』(ŚBh pp.368-370)では,意味(artha),事物(vastu),特徴(lakṣaṇa),範疇(pakṣa),時間(kāla),道理(yukti)という瞑想の対象としての六種の要素(vastu)についての考察(paryeṣaṇā)と,(1)説かれた意味の理解(bhāṣitārthā- vabodha),(2)事物の極限の理解(vastuparyantatāvabodha),(3)ありのままの理解(yathābhūtāvabodha)という三種の理解(avabodha)が説かれており,ŚBhの校訂者Shukla氏は脚注で『声聞地』の三種の理解(avabodha)と『菩薩地』の四尋思・四如實智の関連を示唆している(ŚBh p.370,n.1).なお,ここでは六種の要素の考察および三種の理解の内容はWayman[1961] pp.111-113の解説に従う.

2 主要な先行研究は本論2「先行研究について」を参照.その他,横山[1979] p.64では,

この名尋思と事尋思とは『大乗荘厳経論頌』において新たな思想的発展を見るにいたった.すなわち,これらの二種の尋思は,「名と事とについて相互に客塵たることの尋思」であると定義される.

と述べられている.また長尾[1987] p.31注3では,

『瑜伽』から『荘厳』へ,『荘厳』から本論『摂論』へと,思想の進展あるいは深まりが見られるように思う.例えば名まえや物などの考察においては,『瑜伽論』菩薩地では,「名において唯だ名のみを見る」「事において唯だ事のみを見る」といって,それのみということを強調するが,『荘厳』では……同じことを名まえと物が互いに「偶然的である」(āgantukatva)と考察する…….

と述べられている.ただし,こうした見解に対しては異論もある.阿[1982] n.69参照.

3 Frauwallner[1956] p.265では,『瑜伽論』の最古の部分は『菩薩地』であろうと述べている.また,Schmithausen[1969] pp.822-823, n.53では『解深密経』に見られる瑜伽行派の典型的な学説(三性・三無性説)や概念(アーダーナ識,唯識性)が『菩薩地』には見られないことが指摘されている.他,Schmithausen [1987] p.14,宇井[1958] p.86,荒牧[1976b] p.17,竹村[1995] p.54参照.

4 小谷[1984] pp.15-47参照.

5 四尋思・四如實智は『菩薩地』と『荘厳経論』の他,先にあげた諸文献で説かれている.

そのうち『顕揚論』は,『菩薩地』の説をそのまま踏襲し,紹介するか(『顕揚論』「摂浄義品」507c14-508a23),あるいは名目をあげるのみ(『顕揚論』「摂事品」500b29-c5, 「摂浄義品」516c21-22, 519c24-27,「成無性品」559c23-24)で,思想的な展開を反映するものではない.この点については,阿[1982] p.38でも「顕揚聖教論に見られる四尋思・四如実智の説明は,菩薩地真実義章におけるその所説と比較するとき,ほぼそのままの忠実な引用であることが知られる」と指摘されている.

『摂大乗論』は四尋思・四如實智を唯識への悟入の手段と位置づけているが(長尾[1987]Ⅲ7B注解参照),『摂大乗論』は『荘厳経論』の四尋思に関する偈を引用しているので(MSgⅢ16),その内容は『荘厳経論』の影響下にあると考えられる.

『集論』は『荘厳経論』からの直接の影響を示す証拠はないものの,その内容から『荘厳経論』に近い考え方を反映していると考えられ,先行研究でもそのように位置づけている(本論註9参照).なお,『成唯識論』は明らかにこれらの文献以降の成立なのでここでは取り上げない.

6 荒牧[1976b] p.18.9-12, p.20.7-10, p.24.14-16, p.25.4-7など.

7 荒牧[1976b] p.27.6-18.それによれば,『菩薩地』の八種の分別(vikalpa)の成立について,「『般若経』に由来する『構想』が,『十地経』の……『心』に他ならぬと思惟されたところにこそ,成立したのではないか」(p.26.8-9)と推測され,さらにこの八種の分別について「すでに『菩薩地』において『四種の求法の思惟と四種の如実なるままにさとる知』は……『物質などと名づけられる実在』しかも『言語ではいえない実在』として,八種の構想……を思惟し,あるがままにさとっていたのかも知れぬ」(pp.26.17-27.2)として,実在すなわちvastuと分別を同一のものと見なす.これを前提として,「いまだ未分化であった『実在』が,二つに分化する.……(2)『物質などと名づけられるもの』としての『実在』,……縁起を要摂する『心』としての『構想』と(3)『言語ではいえない』ものとして実在……とである」(p.27.13-16)として,「『物質などと名づけられるもの』としての『実在』,……縁起を要摂する『心』としての『構想』」が依他起性へ発展するもとになったと想定している.これは『荘厳経論』で「実に虚妄分別が依他起の特相である」(MSA ch.XI, k.40cd: abhūtaparikalpo hi paratantrasya lakṣaṇaṃ//)と説かれていることや,『唯識三十頌』で「一方,依他起性は諸条件によって生じる分別である」(Triṃś k.21ab: paratantrasvabhāvas tu vikalpaḥ pratyayodbhavaḥ)と説かれているのを念頭においた解釈と思われる.

しかし『菩薩地』で説かれる「実在」すなわち事物(vastu)という概念はむしろ「摂決択分」で説かれる五事説の相(*nimitta)と真如(*tathatā)の性格を併せ持つものであり,「構想」すなわち分別(vikalpa)と即座に同一視し得るものではないだろう.(高橋[2001] pp.56-62)

8 阿[1982] p.29.19-23:「……事のみ(vastumātra)と唯識(vijñaptimātra)とは相容れない両極的な内容を有しており,そこに菩薩地の立場と唯識思想との根本的な相違が由来するのである.菩薩地は,一切諸法に勝義の自性を認める点で,般若経類の空説とも唯識思想とも異なる立場を有している.」

9 四段階それぞれに対応する文献として,(1)『菩薩地』,(2)『顕揚論』,(3)『荘厳経論』,『阿毘達磨集論』,(4)『摂大乗論』,『成唯識論』をあげている(阿[1982] p.41.2-14).

ただし(1)と(2)の段階は思想的な変化をあらわしていると見ることができるかどうか疑わしい.阿[1982]では『顕揚論』には「菩薩地の立場とは相異なる瑜伽論摂決択分の所説たとえば五事や三性の説も混在し」(阿[1982] p.41.5- 6)ていることから,『顕揚論』を段階(2)に位置づけている.しかし,同論文で指摘されているように,『顕揚論』の四尋思・四如實智に関する記述は『菩薩地』「真実義品」からのほぼ完全な引用であり(阿[1982] p.38.7-10),また『顕揚論』が『瑜伽論』に基づき,その記述を引用・編集したものという性格の文献であることから考えて(向井亮[1979] p.59.5-8参照),五事・三性説の混在も『瑜伽論』全体を編集したために起こったことであり,必ずしも『顕揚論』の思想的未分化性を表しているとは言えない.

10 阿[1982] p.41.15-16:「このような四尋思・四如実智の展開過程のうちに,菩薩地の思想的立場から唯識思想の立場への転回の跡を認めることができる.」

11 阿[1982] p.39.1-12:「事(vastu)を不可得となす大乗荘厳経論の立場はもはや菩薩地の基本的立場とは根本的に相違すると言わねばならない.……事尋思の事(vastu)について,菩薩地の不可言の事から大乗荘厳経論の可言の事へと内容的に変質していることは,とりもなおさず,菩薩地の思想的立場が大乗荘厳経論においては捨てられて採用されなかったことを意味している.この事尋思の事の上に生々しく認められる転回は,実は菩薩地の思想的立場から唯識思想への転回を物語っている.」

12 Aramaki[2000] pp.45-46.

13 神子上[2002] pp.12-18.

14 本文註5参照.

15 神子上[2002] p.13.

16 阿[1982] pp.41-42:「菩薩地の基本の思想的立場と唯識思想の立場とには,重大な相違が存在するのである.唯識思想の立場に立つ大乗荘厳経論等は菩薩地を素材に自らの教説を組織していることもまた事実であるが,菩薩地を素材としながらもその基本の思想的立場を全く捨て去って180°の転回をなしている……」

17 BBh p.53.9-16: tatra nāmaparyeṣaṇā yad bodhisattvo nāmni nāmamātraṃ paśyati// evaṃ vastuni vastumātradarśanaṃ vastuparyeṣaṇā// svabhāvaprajñaptau svabhāvapra- jñaptimātradarśanaṃ svabhāvaprajñaptiparyeṣaṇā// viśeṣaprajñaptau viśeṣaprajñapti- mātradarśanaṃ viśeṣaprajñaptiparyeṣaṇā//

sa nāmavastuno bhinnaṃ ca lakṣaṇaṃ paśyaty anuśliṣṭaṃ ca/ nāmavastvanuśleṣa- saṃniśritāṃ ca svabhāvaprajñaptiṃ viśeṣaprajñaptiṃ ca1 pratividhyati//

1) ca Ded; om. Wed

18 『菩薩地』:「他ならぬこの真如がこのように正しく理解されていないので,凡夫たちにはそれが原因となって,三つのvastu1)を生み出すものであり,すべての有情・器世間を作り出すものである八種の分別が起こる.」

BBh p.50.22-24: tasyā eva tathatāyā evam aparijñātatvād bālānāṃ tannidāno 'ṣṭavi- dho vikalpaḥ pravartate trivastujanakaḥ sarvasattvabhājanalokānāṃ nirvartakaḥ/

1) 三つのvastuとは(1)分別戯論の基体としてのvastu,(2)有身見と我慢,(3)貪瞋癡を指す.高橋[2001] p.55参照.

『菩薩地』:「次にどのようにその分別を正しく理解するのか.四つの尋思と四種の如實智によってである.」

BBh p.53.3-5: kathaṃ ca punar asya vikalpasya parijñānaṃ bhavati// catasṛbhiḥ paryeṣaṇābhiś caturvidhena ca yathābhūtaparijñānena//

19 BBh pp.53.23-55.3: ...... itīdaṃnāma ityarthavastuni vyavasthāpyate yāvad eva saṃjñārthaṃ dṛṣṭyartham upacārārthaṃ/ yadi rūpādisaṃjñake vastuni rūpam iti nāma na vyavasthāpyeta1 na kaścit tad vastu rūpam ity evaṃ saṃjānīyād asaṃjānaṃ samāropato (2nābhiniveśed anabhiniveśan2) nābhilapet iti yad evaṃ yathābhūtaṃ prajānāti// idam ucyate nāmaiṣaṇāgataṃ yathābhutaparijñānaṃ//

...... yataś ca bodhisattvo vastuni vastumātratāṃ paryeṣya sarvābhilāpaviśliṣṭaṃ nirabhilāpyaṃ tad rūpādisaṃjñakaṃ vastu paśyati// idaṃ dvitīyaṃ yathābhūtaparijñā- naṃ vastveṣaṇāgataṃ//

...... tayā (3svabhāvaprajñaptyātatsvabhāvasya vastunaḥ tatsvabhāvābhāsatāṃ3) ya- thābhūtaṃ pratividhyati prajānāti ...... // idaṃ tṛtīyaṃ yathābhūtaparijñānaṃ suga- mbhīrārthagocaraṃ svabhāvaprajñaptyeṣaṇāgataṃ4//

...... tasmiṃ rūpādisaṃjñake vastuni viśeṣaprajñaptim advayārthena paśyati na tad vastu bhāvo nābhāvaḥ// abhilāpyenātmanāpariniśpannatvān na bhāvo na punar abhā- vo nirabhilāpyenātmanā vyavasthitatvāt// ...... // yad etāṃ viśeṣaprajñaptim evam advayārthena yathābhūtaṃ prajānāti// idam ucyate viśeṣaprajñaptyeṣaṇāgataṃ yathā- bhūtaparijñānaṃ//

1) vyavasthāpyeta Ded; vyavasthāpyate Wed, 2) nābhiniveśed anabhiniveśan; nā- bhiniveśeta/ anabhiniveśaṃ Ded; nābhiniveśetānabhiniveśamāno Wed, 3) svabhāva- prajñaptyātatsvabhāvasya vastunaḥ tatsvabhāvābhāsatāṃ; svabhāvaprajñaptyā ata- tsvabhāvasya vastunaḥ tatsvabhāvābhāsatāṃ Ded; svabhāvaprajñaptyā tatsvabhāvā- bhāvasya vastunaḥ tatsvabhāvābhāsatāṃ Wed, 4) *svabhāvaprajñaptyeṣaṇāgataṃ; om. Wed Ded cf. BBhtib P36a5-6, D30b2-3: ngo bo nyid du btags pa tshol bar gyur pa yang dag pa ji lta ba bzhin du yongs su shes pa gsum pa’o//; 『善戒経』971a6:「是名推性」;『地持経』896a15-16:「是名第三如實知甚深義處隋自性施設求如實知」;『菩薩地』490c4-5:「若能如是如實了知最甚深義所行境界,是名自性假立尋思所引如實智」.

20 MSA p.168.18-19:

āgantukatvaparyeṣā anyonyaṃ nāmavastunoḥ/

prajñapter dvividhasyātra tanmātratvasya caiṣaṇā1//47//

1) caiṣaṇā 龍谷B(166a9); vaiṣaṇā 龍谷A(151b2), MSABh.

21 四尋思の内容については『菩薩地』と『荘厳経論』の相違点が強調される傾向があるが,それに対しては異論もある.本論文註2参照.

22 『荘厳経論釈』(MSABh p.168.24-25)および『安慧釈』(SAVBh P tsi241a5, D tsi207b5)によれば第48偈以下の10偈が如實智に関する偈とされているが,実際にはここで示した8偈がそれに相当し,第56偈以降は次の話題に移っている.『釈』のチベット語訳(P270b6, D245b2)は第48偈以下の8偈で如實智が説かれるとする.ここではこれに従う.

阿[1982] p.39.17-18では「四尋思・四如実智は,大乗経荘厳においては論の最後に近い功徳章でわずかに上掲の二偈をもって説かれているにすぎない」と述べられているが,一般的には第55偈までが四如實智に関連する内容と考えられている.(長尾[1987] p.31注3,袴谷・荒井[1993] p.366注1参照)

23 MSA pp.168.26-170.16:

sarvasyānupalambhāc ca bhūtajñānaṃ caturvidhaṃ/

sarvārthasiddhyai dhīrāṇāṃ sarvabhūmiṣu jāyate//48//

pratiṣṭhābhogabījaṃ hi nimittaṃ bandhanasya hi/

sāśrayāś cittacaittās tu badhyante 'tra sabījakāḥ//49//

purataḥ sthāpitaṃ yac ca nimittaṃ yat sthitaṃ svayaṃ/

sarvaṃ vibhāvayan dhīmān labhate bodhim uttamāṃ//50//

tathatālambanaṃ jñānaṃ dvayagrāhavivarjitaṃ/

dauṣṭhulyakāyapratyakṣaṃ tatkṣaye dhīmatāṃ mataṃ//51//

tathatālambanaṃ jñānam anānākārabhāvitaṃ/

sadasattārthe pratyakṣaṃ vikalpavibhu cocyate//52//

tatvaṃ saṃchādya bālānām atatvaṃ khyāti sarvataḥ/

tatvaṃ tu bodhisatvānāṃ sarvataḥ khyāty apāsya tat//53//

akhyānakhyānatā jñeyā asadarthasadarthayoḥ/

āśrayasya parāvṛttir mokṣo 'sau kāmacārataḥ//54//

anyonyaṃ tulyajātīyaḥ khyāty arthaḥ sarvato mahān/

antarāyakaras tasmāt parijñāyainam utsṛjet//55//

24 『荘厳経論釈』:これは(仏)国土を浄化する手段に対する如實智である.MSABh p.170.17: idaṃ kṣetrapariśodhanopāye yathābhūtaparijñānaṃ/

25 阿[1982] p.38参照.

26 『荘厳経論釈』:またそれ(四種の如實智)は,「すべて」すなわちこの名称などの「非知覚に基づいて」いると理解すべきである.

MSABh pp.168.29-169.1: tac ca sarvasyāsya nāmādikasyānupalambhād vedita- vyaṃ/

27 SAVBh P tsi241a5-b5, D tsi208a2-5参照.Sthiramatiは「非知覚」(anupalambha)を名称などが無自性であり空であるから「非知覚」であると解説する.その場合,名称などの存在性が否定されることにより四如實智が生じると考えていることになるが,『菩薩地』では名称と事物の関連において仮説が成り立つことを理解することが「極めて深遠な対象領域を持つ」如實智とされており,必ずしもそれらの存在性の否定,あるいは虚構性の把捉が目指されているわけではない.

28 ただし,その場合も名称,事物などが第49偈以下で相という術語で説明されているとすれば,『釈論』,『安慧釈』に矛盾するものではない.

29 ViSg P ’i17b4-6, D zi16b2-3: yongs su tshol ba bzhi dang dngos po lnga po dag las/ dngos po lngas yongs su tshol ba du dag bsdus she na/ smras pa/ rnam par rtog pa tshul bzhin yid la byed pa dang ldan pas yongs su tshol ba bzhi po thams cad bsdus so//

yang dag pa ji lta ba bzhin yongs su shes pa bzhi dang dngos po lnga po dag las dngos po du dag gis yang dag pa ji lta ba bzhin yongs su shes pa du dag bsdus shes na/ smras pa/ yang dag pa’i shes pas bzhi po thams cad bsdus so//

30 Takahashi[2001]参照.ただし,「如理作意を備えた分別」という表現は「摂決択分」の五事説に関する記述では,この箇所以外には見られない.

31 ViSg P ’i15b2-16a1, D zi14b3-15a1: gang gi tshe shes bya mi rtag pa ’dris pa brtan pa dang dpag tu med pa1 phal cher lkog tu gyur pa yin pa’i tshe/ rnal ’byor pa des ji ltar de la dmigs par byed cing rnam par zlog2* par yang byed ce na/ smras pa/ thos pa dang bsam pa’i dbang gis ting nge ’dzin thob par ’gyur la/ des shes bya rnam pa lnga’i ting nge ’dzin gyi gzugs brnyan mngon du byas nas3 shes bya de la dmigs par byed do// zil gyis gnon pas ni rnam par zlog2* par byed do//

shes bya rnam pa lnga4 zil gyis gnon pa’i mtshan nyid ji lta bu yin par brjod par bya zhe na/ smras pa/ gnas5 gyur pa/ ’dus ma byas pa/6 mya ngan las ’das pa’i mtshan nyid bla na med pa yin no// mya ngan las ’das pa gang zhe na/ chos kyi dbyings rnam par dag pa gang yin pa ste/ ...... chos kyi dbyings rnam par dag pa gang zhe na/ yang dag pa’i shes pa bsgom pa la brten nas mtshan ma thams cad bsal7 bas de bzhin nyid gang yin pa ste/ ......

1) pa P; pa/ D, 2*) zlog D; bzlog P, 3) nas P; nas/ D, 4) lnga P; lngas D, 5) gnas P; gnas par D, 6) / P; om. D, 7) bsal D; gsal P.

Sakuma[1990] teil 2, pp.183-190にこの部分を含む校訂テキストおよび独訳がある.本論の訳文中で*を付したサンスクリット原語は,その脚注で示されたものを参照した.また,引用した文の最後を「真如を理解すること」としたのは,漢訳(701c5)「證得真如」にしたがっている.この点についてはSakuma [1990] teil 2, p.187, n.990を参照.

32 「摂決択分」は「知られるべきもの」(shes bya; *jñeya)という表現を五事に対して用いていないが,『論記』は「知られるべきもの」を五事と理解しているように思われる(『論記』754a18-22:法界五種事境影像現前).なお,勝呂[1985] n.28では異なる解釈の可能性も示されている.

33 佐久間[2000] pp.146-147.また『瑜伽師地論』における転依の用例を簡潔にまとめたものとしては佐久間[1990]を参照.

34 佐久間[2000] p.147では『瑜伽師地論』のパターン⑤は『荘厳経論』などが目指す転依の内容に近いことが指摘されている.

35 『論記』754b9-12:問修観行云何除遣所縁境相.答由正定心於法界所知境影像相,先四尋思審観察,後起四如實智.由勝義諦作意力故,転捨有影像,転得無相.

36 『解深密経』「分別瑜伽品」では真如(de bzhin nyid, *tathatā)を作意することにより相(mtshan ma, *nimitta)を除去するという記述がある.

マイトレーヤよ,真如に作意することにより法の相(*nimitta)と意味の相(*nimitta)を取り除くのであり,名称に対して名称の自性を知覚せず,その基体である相(*nimitta)を見ないことにより取り除くのである.……世尊よ,いかがでしょうか,真如の意味を理解するための相(*nimitta)なるもの,それも取り除くのでしょうか.マイトレーヤよ,真如の意味を理解したときには相(*nimitta)は存在せず,知覚しないのであり,その場合,何を取り除くことになろうか.マイトレーヤよ,真如の意味を理解することによってこそ,法と意味のすべての相(*nimitta)を克服するのだが,これ(真如)は何かによって克服されるべきものであると私は言わない.

SNS P 36a2-7, D 33a3-7: byams pa de bzhin nyid yid la byed pas chos kyi mtshan ma dang/ don gyi mtshan ma rnam par sel bar byed la/ ming la ming gi ngo bo nyid mi dmigs shing de’i gnas mtshan ma yang dag par rjes su mi mthong bas rnam par sel lo// ...... bcom ldan ’das ci lags/1 de bzhin nyid kyi don so sor yang dag par rig pa’i mtshan ma gang lags pa de yang rnam par sel bar bgyid lags sam/ byams pa de bzhin nyid kyi don so so yang dag par rig pa la ni mtshan ma med de mi dmigs na/ de la ci zhig rnam par sel bar ’gyur te/ byams pa de bzhin nyid kyi don so so yang dag par rig pas ni chos dang don gyi mtshan ma thams cad zil gyis gnon gyi de ni gang gis kyang zil gyis mnan2 par bya ba yin par nga mi smra’o// ......

1) / P; om. D, 2) mnan D; gnon P.

Aramaki[2000] pp.54-55でも触れられているように,ここでは真如は了別真如すなわち唯識性を意味している(SNS P 36b2-3, D 33b2-3: rnam par rig pa’i de bzhin nyid las dgongs te yongs su bstan pa yin no//).しかし,転依との関連は見られない.

37 『釈論』:「真如を対象とする」という点で,円成実の自性を理解し,「二取を離れた」という点で,遍計(の自性)を(理解し),「麁重身の直感」という点で,依他起(の自性)を(理解し),他ならぬそれを滅するために貢献する.すなわち麁重身であるアーラヤ識,(すなわち)依他起を1(滅するために).

1) 「依他起を」という語はサンスクリット原文にはない.チベット語訳から補った.

MSABh p.169.21-23: tathatālambanatvena pariniṣpannaṃ svabhāvaṃ parijñāya/ dvayagrāhavivarjitatvena kalpitaṃ/ dauṣṭhulyakāyapratyakṣatvena paratantraṃ/ ta- syaiva kṣayāya saṃvartate dauṣṭhulyakāyasyālayavijñānasya1//

1) MSABhtib P271b3-4, D246a5: gnas ngan len gyi lus kun gzhi rnam par shes pa gzhan gyi dbang de nyid zad par ’gyur ro//

38 一般に『荘厳経論』の『頌』と『釈』の間には思想的に隔たりがあることが指摘されている.例えば,菅原[1985] pp.46-47では,『荘厳経論』第19章50-52偈の『釈』に対して「正釈とは言えない様である」と疑問が提示されているほか,阿[1984] pp.72-74では52偈とその『釈』の間に見解の相違が認められることが指摘されている.

39 高橋[2001] pp.56-62, Takahashi[2001]参照.

40 『瑜伽論』と『荘厳経論』の先後関係については袴谷・荒井[1993] p.35を参照.

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