『大正新脩大蔵経』の第38巻に,『注維摩詰経』(T38, No.1775)という文献が収められている.『注維摩』とも通称されるこの文献は,鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(T14, No.475)の現存最古の注釈書の一つとされてきており1,「『維摩経』研究の指針として古来宗派を問わず広く珍重されてきた書物である」と言われている2.同書の現存完本はすべて,羅什,僧肇,道生,道融ら師徒の四人による注釈文を収録した,いわゆる合注本であるが,これは,後世の人によって編集されたものと考えられる.
諸師のうち,僧肇が単独で『維摩経』を注釈したことは,古くから経録(法経等『衆経目録』巻六・永超『東域伝灯目録』・義天『新編諸宗教蔵総録』巻一)と僧伝(費長房『歴代三宝紀』巻八・慧皎『梁高僧伝』巻六)の記載によって伝えられている3.更に,その単注本の断片も敦煌・トルファン出土資料から発見されている.例えば,出口常順が将来したトルファン出土品の中から僧肇単注本の写本が見出されたことが,藤枝晃氏によって報告され4,更に,これら写本断片に関する研究が臼田淳三氏によって進められ,1977年に「維摩経僧肇単注本」5と題される論文として結実したのである.
本論文で取り上げる羅振玉旧蔵の敦煌出土文献二点(以下,羅本と略す)も,臼田[1977]におけるトルファン写本と同じく,やはり『維摩経』僧肇単注本である.これらの写本の校勘は,1930年代に既に公刊された6にも拘わらず,学術界に大きな影響を及ぼすことはなかった.そこで,本論文は,主として羅本に対して書誌学的調査と文献学的考察との両方からアプローチし,同写本をとりまく状況やその文献内容の特徴の解明を進めていきたい.
この写本の旧蔵者である羅振玉(1866~1940年)は,字が叔言,号は雪堂であり,中国の清末から民国初年にかけての時代を生き,中国の伝統的文化遺産の保存と伝播に貢献した人物の一人であった.彼が中国文化に残した業績は多岐にわたるが7,敦煌文献の蒐集・伝播8と考証9は,その主要なものの一つであろう.羅振玉はポール・ペリオ(1878~1945年)・狩野直喜(1868~1947年)・大谷光瑞(1876~1948年)・橘瑞超(1890~1968年)らの所持する敦煌写本を抄写・移録して刊行したほか,自らもおよそ六十余点10の敦煌写本を蒐集した.その中の五十五点の残巻は三十七類に分類して,既に『貞松堂蔵西陲秘籍叢残』三集11(1939年)として影印刊行されている.そして,同書第一集の第三類「維摩詰経解二種」の中に,A.「維摩詰経解仏国品第一・方便品第二」残巻とB.「維摩詰経解第一」残巻という二種の文献が収められている.
この二つの残巻を含む数十種の敦煌写本の入手経路について,羅振玉は以下のように述べている.
宣統紀元(1909年),予備員学部,伯希和博士既告予敦煌石室尚有残巻八千軸,予乃慫慂部中購取.明年(1910年),由署甘督毛公12遣員某運送京師,既抵春明,江西李君13与某同郷,乃先截留於其寓斎,以三日夕之力,邀其友劉君14・壻何君15及揚州方君16,抜其尤者一二百巻,而以其餘帰部.李君者,富蔵書故,選択尤精,半以帰其壻,祕不示人.方君則選唐経生書迹之佳者,時時截取数十行,鬻諸市,故予篋中所儲,方所售外無有也.歳壬戌(1922年),予自海東移寓津沽,則何君已物故,乃尽得其所蔵数十巻,而以維摩詰経解二巻為之冠.(「貞松老人遺稿甲集〈後丁戊稿〉・姚秦写本僧肇維摩詰経残巻校記[序]」17)
李盛鐸の敦煌写本の蔵書に関してはいまだに議論されているところが多い18.しかし,羅振玉の手元にあった敦煌収蔵品の由来とその真偽については現在までまったく疑問視されておらず,したがって少なくとも羅振玉の所有に帰した写本に関しては,上に述べられたことは一応信じてよかろう.要するに,羅振玉が持っていた敦煌写本は,1922年までに方爾謙から買い取った写本の断片と,1922年羅振玉が日本から帰国し天津に移住した頃,亡くなっていた何鬯威の一族から購入した数十巻の敦煌写本とである.そして,何家から譲られた敦煌写本の中に,前述した『貞松堂蔵西陲秘籍叢残』所収の『維摩詰経解』二種が含まれ,しかも彼が最上とするほどに秀れたものであったことも上の文から伺われる.
ところで,この二本の写本に関する研究は,羅振玉自身の「姚秦写本僧肇維摩詰経残巻校記」19(1937年)を除いて,ほとんどなされてこなかったと言える.これは,恐らく『貞松堂蔵西陲秘籍叢残』(1939年)が刊行後は広く流布しなかったことに起因すると考えられる.また,より大きいと思われる理由は,『維摩詰経解』二種を含んだ羅振玉旧蔵の敦煌写本の一部が現在行方不明になっているという事情20である.つまり,『維摩詰経解』の写本二種(以下,「羅A」と「羅B」と呼ぶ)は,現在では『貞松堂蔵西陲秘籍叢残』中の写真としてしか目にすることができないのである.
1.2 写本の年代判定まず,『貞松堂蔵西陲秘籍叢残』所載の影印に反映されている写本の状態とその内容を簡略にまとめよう.
羅A. 「維摩詰経解仏国品第一・方便品第二残巻」(仮題)
162行.罫線を引いて,端正な筆跡で経の本文を大字(毎行17字詰),それに対する注釈を小字(毎行27~32字詰)で書いた写本である.その内容は,『維摩詰所説経』(T14, No.475)「仏国品第一」(T14, p.538b18)から「方便品第二」の終わり(T14, p.539c13)までの本文を大字で掲げ,それに対する僧肇の注を小字の双行注で示すもので,題字を欠いている.
羅B. 「維摩詰経解巻第一」(尾題に拠る)
533行.罫線を引いて,端正な筆跡で経の本文を大字(毎行15字詰),それに対する注釈を小字(毎行29~34字詰め)で書いた写本である.その内容は,『維摩詰所説経』(T14, No.475)「仏国品第一」(T14, p.538a26)から「弟子品第三」の終わり(T14, p.542a25)までの本文を大字で掲げ,それに対する僧肇の注を小字の双行注で示し,第536行に本文の終わりと尾題(「維摩詰経解巻第一」)とが記される.そして,最後の一行(第537行)に「比丘智真所供養経」という奥書があるが,これは本文と同筆ではない.
二本の写本のうち,「羅B」は奥題と後記を具えているが,そこに書写年代は記されていない.そして,羅振玉は校記を書くに際して,写本の紙色・大きさ,または紙質などの要素を含めた写本の状態に関しては何一つ言及していない.このことは,この写本の時代判定に大きな困難をもたらすことになったが,羅の研究によって,この二つの写本が羅什訳『維摩経』の僧肇単注本の古写本であることがわかった.したがって,AとBは共に羅什が『維摩経』を重訳した年の後秦弘始八年(406)21をその成立年代の上限としなければならないが,問題は,その成立年代の下限をどうするかということである.これについては羅振玉自身と紫溪氏22と池田温氏による三説がある.
まず,羅振玉の論証を分析することにしよう.羅は,A, B写本の成立年代を,主として「文字の書体」と「文献の内容」に拠って,以下の如く判断している.
以書迹断之,其出姚秦時無疑,乃弘始初訳本也.二巻中其一起「仏国品第一」之下半至「方便品第二」之末,無前後書題.他巻亦起「仏国品」之半而至「弟子品」之末,後有書題曰「維摩詰経解巻第一」,末有「比丘智真所供養経」款一行.二巻書迹相同,巻中別構之字,如悪作「粳」,就作「笛」,咎作「巉」,髪作「仍」,攝作「闇」,耶作「渝」,畏作「繙」,願作「 」,雖作「罵」,服作「[月+尺]」,幻作「薗」,歸作「剥」,瓦作「瓦[凪-止+二]」,厭作「[廣-黄+擑-手]」,身作「[身+ヽ]」,為六朝石刻中所罕見,頗似秦鄧太尉祠碑書法,従分隷出,与他六朝人書法亦不類,珍為寒斎古巻軸中第一.
顧尚未知作解者為何人也,嗣検日本明治本小字蔵経中有僧肇維摩詰所説経註十巻,取以相校,知此巻実為僧肇所註.蔵本前雖署長安沙門僧肇註,而中有什曰,肇曰,生曰三家.什為訳経之鳩摩羅什,生為道生,肇則僧肇.知其本乃後人集三家之註,而悉歸之僧肇,非其朔也.鳩摩羅什重訳此経時,僧肇実佐之,其人善言名理,文亦爾雅,足以達之.彼教中称僧肇・僧叡・道生・道融為什門四聖.肇年三十三而卒,如孔門之顔子.此巻為当時写本.(「貞松老人遺稿甲集之後丁戊稿・姚秦写本僧肇維摩詰経残巻校記[序]」23).
羅振玉は,文献に書かれている経典本文が弘始八年の羅什訳『維摩詰所説経』であることから,経典の翻訳された年代をこの写本の成立年代の上限とし,更に,書跡の様子と考え合わせた結果,写本が姚秦時代(406~418年)に成立したものであると判断した.つまり,羅はA, B写本の成立年代の下限を後秦の滅びた年の418年とした,と考えられる.言い換えれば,写本「羅A」と「羅B」は406年から418年の間に書写されたものである,と羅振玉は主張している.そして,自らの主張を裏づける根拠として,写本に書かれた字の書体と文献の内容である経典注釈との二つを挙げている.
先ず,書跡に見られる特徴として,羅振玉は写本に書かれている多くの異体字に注目している.それらの異体字は,六朝時代の石刻の中でも稀にしかみられないものであり,秦代の鄧太尉祠碑の書法に頗る似た,隷書から分かれ出たものであって,他の六朝人の書法とも類せず,自家所蔵の古巻軸の中で第一である,と珍重視している.ただし,羅はA,B二本の写本の書跡が同じであるとするが,筆者が写真を見る限りでは,そのような印象はまったく受けない.
次に,羅振玉は,写本の内容を日本の明治本小字蔵経中に収められている僧肇『維摩詰経註』十巻と対校した結果,この文献の「解」部分は僧肇による注釈であることが次第に判明した,という.そして,鳩摩羅什が『維摩経』を重訳した頃,その翻訳作業を実際に手伝った僧肇であるからこそ,仏教用語(名)や教義(理)などをよく説明できたし,また言辞の達者であったため,このような注釈を著わすにふさわしい人物である,と羅振玉は強調している.また,著者の僧肇は414年に33才で卒したが,『維摩経』僧肇単注本が成立したのは409年であることは既に明らかであるから24,写本の成立年代の上限は409年を越えず,上述した418年という下限とも矛盾せず,基本的に「姚秦時」という時間設定には何の差し支えもないことになる.故に,羅振玉はそこで再び「写巻は当時の写本である」と強調し,自説に対する確信を示している.
更に,羅振玉の係累かとも思われる人物が「紫溪」というペンネームで「由魏晋南北朝的写経看当時的書法」25という題の論文を発表し,その中で,『貞松堂蔵西陲秘籍叢残』所収の『維摩詰経解』について言及し,その書体と吐魯番出土の承平十五年の『仏説菩薩蔵経第一』写本に使われる書体が同じである,という判断を示している26.「承平」という年号27は北涼沮渠安周(?~460年)の年号であり,およそ18年間使われていたことがわかっており,同写本には「大涼王且渠安周所供養経」ともあるから,この「承平十五年」とは要するに北涼沮渠安周の承平十五年,紀元457年であることが明らかである28.したがって,紫渓は,『維摩詰経解』は紀元457年前後に書写されたものである,と証明できる,と主張している.
そして,池田氏はその著作『中国古代写本識語集録』に「羅B」の題記を載せ,それについて「年次未詳,大約五世紀」(p.95)と記している.ただし,ここで,池田氏が言う「五世紀」とは,北魏・斉時代の紀元492年から500年までの5世紀末頃を指している29.
このように,三氏の説は,いずれも5世紀に写本が成立したとするが,それぞれが提示する年代には一見すれば,数十年の開きがある.そもそも,羅・紫氏の主張はあくまでも写本の中,尾題を含む本文に相当する532行の成立に関わるものである.これに対して,池田氏が提示した年代は最後の第533行目に見える写本の識語のみに関するもの,と考えられる.けれども,一つの写本の中に現れても,題記は必ずしも本文と同時の成立とは限らないであろう.「羅B」に見られるように,題記と本文との筆跡が異なる場合は,まず本文が成立し,その後に,題記が書かれたと常識的には考えられよう.故に,池田氏の説を,「羅B」写本全体の成立年代の下限に関するものと見れば,前の両氏の説と矛盾なく相容れられることになる.そして,羅振玉が写本の成立年代の下限を418年とするのも,そして紫渓が457年とほぼ言い切ったのも,どれも決定的な根拠によって裏づけられてはいない.故に,現時点では,「羅B」写本成立の上限は,写本に記された文献の成立年代の紀元409年に設定し,他方,この写本の成立年代の下限は紀元500年としておくのが無難であろう.
次に,識語を欠く「羅A」についてはどう考えるべきであろうか.羅振玉の見解では,この写本は書跡から見て,「羅B」と「相同」し,同じく「姚秦時」のものであるに違いない,とされている.ただ,この説には再検討の必要が生じてきた.というのは,筆者が調査を進める過程で,近年になって公開されたロシア収蔵品の中から,「羅A」断片の直前にあたる部分と断定されるものが現れたからである.この断片は,メンシコフ編号で言えばM.2661であり,その写真は『俄蔵敦煌文献』第八巻に公開されているが30,その終わりの部分がちょうど「羅A」の冒頭と合致しているのである31.
前述したように,羅振玉は写本の状態については何の記録も残していないので,「羅A」の成立年代を知るためには,M.2661本に関する記述が極めて重要なものとなってくる.それについて,『俄蔵敦煌漢文写巻叙録』には,以下の如く記されている.
[維摩詰所説経注疏,巻上,仏国品第一]
残巻,(左右)12.5×(天地)25.5粍.一部分手巻きで,首尾欠.上辺破損,穴あきの所有り.存7行,不全.小字の双行注有り.用紙が浅褐色.界幅が大きく,縦罫が細い.地の余白2粍.楷書,題記なし.(9~11世紀)
“……[法]方便無碍……”(経典本文)から,“……何徳不備”(注釈右行).
上述の仏経[筆者注:『維摩詰所説経』を指す],乃ち『大正蔵』第14巻538頁中段16~19行部分に対する注釈であり,『大正蔵』と異なる語句は見られない32.
同目録が編纂された1963年の時点では,この断片中の注釈が誰によるものであるかは判明せず,『俄蔵敦煌文献』に至って,同断片は「注維摩詰経巻第一」33と名づけられるようになった.しかし,これが「羅A」と同一写本の一部であることは明らかであるから,本断片は『維摩経』僧肇単注本を内容とするものである,と訂正しなければならないであろう.次に,写本の成立に関して,『俄蔵敦煌漢文写巻叙録』は,9~11世紀の成立としているが,この年代判定の決め手となったのは一体如何なる基準であろうか.それを知るために,『俄蔵敦煌漢文写巻叙録』の編集者が,敦煌写本成立の時期をどのように区分したかを先ず見てみる必要がある.
……敦煌写本は三つの時期に分けることができる.
1.4~6世紀の古字体の時期.この類の写本は本館において1700点が収められている.この時期は,染められた白紙に隷書体で書かれたものをその始まりとする.6世紀に入るにつれて,古字体がだんだんと現代の楷書体に近づいてくる.この時期に用いられた用紙は,各種の黄色,赭色に染められたものであり,紙質はきめ細かく上々である.
2.7~8世紀の楷書体の形成期.この時期のものに見られる書体は,古字体の風格をただ模倣するに過ぎないものとなった.ただ,晩期の写本と書籍によく見られるような字体はまだ完成していなかった.この時期の用紙は,比較的厚くて丈夫なものであり,各種の黄色に染色されたものが一般である.
3.9~11世紀.楷書体が徐々に現代の形に接近し定着する時期である.用紙は比較的きめ粗く,白色か灰色かの素地のままの色のものが用いられた.ただ,この時期の末頃に,浅黄色に染色され厚くて丈夫な上質の用紙が再び現れた34.
ここには,第三期,すなわち9~11世紀頃の写本の特徴として,用紙の色が「白色か灰色かの素地のままの色」か「浅黄色」であることが挙げられている.しかし,上述したように,M.2661の用紙の色は,「浅褐色」であるとはっきり記述されていて,これは,第一期と第二期の写本の用紙の色により近いものと考えられる.だが,現代の楷書体に近い字体もこの時期の特徴とされており,M.2661もやはり「楷書」で書かれたと報告されている.
ここで,藤枝晃氏が提案した以下のような敦煌写本の分期法に注意すべきであろう.
唐代の拓本などで見る通常の楷書を基準とすれば判り易く,これが7~8世紀で,隋・唐の麻紙に書かれる.さういふ楷書となる以前の隷書と,隷から楷に向ふ過渡段階が北朝期(5~6世紀)で,常に北朝系の麻紙に書かれる.そして敦煌地方が中国の政治支配から離れて筆と紙とが手に入らなくなって,敦煌製の紙に木筆で書いたものが9~10世紀写本となる35.
この一文は,敦煌写本の書写年代を推定するに際して,書体と紙質が極めて重要かつ基本的な判断材料となることを,あらためて教示するものである.問題の「羅A」(M.2661)は,色以外には紙質についてほとんど不明であるが,用紙の色には言及されている.ただし,その色と『俄蔵敦煌漢文写巻叙録』に示される時代判定基準を照らし合わせるならば,同『叙録』の判定である「9~11世紀」という成立年代にならないのである.したがって,本写本の成立年代を判定するには,楷書体で書かれていることが重要な決め手となる.したがって,本論文では,一応,「羅A」(M.2661)の成立年代を,『俄蔵敦煌漢文写巻叙録』の判定に従い,9~11世紀と見ておく.
1.3 類似写本について羅振玉旧蔵本のほかにも,「僧肇注維摩経」の写本断片が更に二点存在することが報告されている.それは敦煌写本ではなく,故出口常順氏によって将来された吐魯番出土品36として一般に知られている.これらの二点の写本は,初めに藤枝晃氏が編集作製した『高昌残影――出口常順蔵トゥルファン出土仏典断片図録』(京都:法蔵館,1978年,展示No.201)に載録されたのに続き,1991年〈現代書道20人展・第35回記念「トゥルファン古写本展」,展示No.27〉で展示されると共に,同展覧の図録にカラー図版で収められている.特に,後者には,この二点の写本を含む15点の出口常順蔵品に対する詳細な解説37が付されている.展示No.27の「維摩経 僧肇注」に対する解説の中で,藤枝氏は,「極めて上質の唐麻紙に,立派な筆跡で経の本文を大字(毎行十三字詰),それに対する注釈を小字(毎行二十六字詰)で書いた写本で,ab二つの断片に千切れる.同本であるが,つながらない.」と写本の状態を述べている.この解説には,写本の残存部分の内容がすべて録文されており,それは『維摩詰所説経』の「観衆生品第七」(a)と「菩薩行品第十一」(b)の本文と僧肇による注釈とに相当する.
藤枝氏は,本写本が700年頃長安の写経機関で作られて高昌に送らた標準本であるに違いない,と断定している38.この類の写本は,敦煌蒐集中ではほかにも例が見られ,その特徴は,四川地方で産する益州麻紙を褐色に染めて表面に蝋を打つような処理方法と,「図書館・写経所専属の書史・写字生・写経生らが極めて端正な(正しい本文と正しい字形を示す)楷書で本文を書く」39こととである,と集約できる.このような正確さを追求した写本は,宮廷図書館や宮廷写経所から地方に頒布された手本であるといわれている.
『維摩経僧肇注』の写本の流布がこのような形で積極的に進められたという事実は,『維摩経』研究史として見るならば,僧肇単注本の影響力が8世紀になっても,尚,衰えていなかったという動向を示唆するものと考えられるだろう.また,これと並行して,合注本の『注維摩』が流行していたことも,敦煌及び吐魯番から十二点の写本40が出土していることから推測されるが,僧肇注を含む『注維摩』が流布して以後も,僧肇注のみを記す単注本が広く用いられたことは興味深い.
前節では,羅振玉旧蔵の『維摩経』僧肇単注本二点の書誌学的情報について報告した.本節では,この二点のうち,特に年代も旧く,分量的にも多い「羅B」写本の文献内容に着目して考察を進めたい.
「羅B」写本には,羅什訳『維摩詰所説経』(No.475, T14, pp.537-557)「仏国品第一」の「有人欲於空地造立宮室」(T14, p.538a26)から「弟子品第三」の終わり(T14, p.542a25)までの経典本文とそれに対する注釈が割注形式で書写されている.『維摩経』の最初の三品に対する注釈が同注釈文献の第一巻を構成していることは,「羅B」の上記内容や写本の尾題に「維摩詰経解巻第一」と見えることによって明らかであるが,『維摩詰経解』と題される文献に関する記録は,経録を始めとする歴史資料などには見当たらない.しかし,この写本の旧蔵者である羅振玉が,同写本の内容を日本明治刊本の「小字蔵経」所収の『維摩詰所説経註』(十巻)と対照した結果,それが『維摩詰所説経註』に見える僧肇釈の部分に当たること,つまりこの写本が『維摩経』の僧肇単注本であることが初めて判明したのである41.
前にも触れたように,羅振玉は本文献を校勘し,一冊の「校記」にまとめた.その「校記」の序文の中で,羅は「取校蔵本,則肇註此有而今逸者,百六十餘則,肇註誤為什者三,肇註中有脱句者三,他人之註混入肇註者一」と述べている42.しかし,この結論をそのまま受け入れることは困難である.なぜなら,羅振玉が「取校蔵本」と言う時の「蔵本」,つまり,その校訂作業に取り組む際に参照した「蔵本」とは,羅が当時では唯一入手可能であった日本の明治刊小字本『注維摩』であったからである.この「明治本小字蔵経」とは,日本の明治十三年より十八年にかけて東京弘教書院において刊行された『大日本校訂縮刻大蔵経』(略して『縮刷蔵経』,『縮蔵』)43であると思われるが44,この『縮蔵』に収められた『注維摩』(呂帙)の底本となったのは東京増上寺所蔵の明蔵本(務帙)であり45,これは現行『大正蔵』本のような「広本」と較べて注釈文がほぼ半減されたいわゆる「略本」46であった47.そこで,『大正蔵』所収の十巻本『注維摩』と,「羅B」本の文献内容を比較してみた結果,以下のことが判明したのである.
2.1 書写形式の特徴――割り注形式「羅B」本と現行本『注維摩』に収められている僧肇釈とは,その文献内容は一致するものの,両者の書写形式の相異は一目瞭然である.『大正蔵』本の『注維摩』(No.1775, T38, pp.327-420)の書写形式とは経の本文を注釈の対象となる字句ごとに区切り(したがって一つの区切りの長さは一定しない),それら一区切りにされた経文の字句の後に羅什ら師徒四人による注釈が経文の字と同じ大きさで続き,その注釈が終わると改行して次の経文の字句が現れ,再びそれに対する注が続く,という形式である.これに対して,敦煌・トルファンで発見された『注維摩』と僧肇単注本の写本群48に留められている書写形式は,経文の一字分のスペースに双行小字で四字書かれるという,いわゆる割注形式である.
こうした書写形式は現行本の『注維摩』などではもはや見ることが出来ないが,しかしこの書写形式が敦煌・トルファンで発見された『注維摩』及び僧肇単注本のすべての写本によって踏襲されているのである49.この事実は,この種の書写形式が恐らく『維摩経』単注本を始めとする初期の仏教釈経書,つまり古層に属する注釈に一般的な書写形式である,ということを示唆しているのではなかろうか.因みに,この形式上の特徴は,敦煌文献における『注維摩』の写本と唐・道液(年代不詳)『浄名経集解関中疏』の写本群とを瞬時に判別するための手段となることが,今回の文献調査の中でわかった.この形式のもつ意味に気づいていたならば,日本の学僧知空(1634~1718年)もそして現代の敦煌学者たちの一部も,この二種の文献を混同しないですんだと思われる50.
2.2 編集ミスによると思われる内容上の相異51書写形式のほかに,現行本『注維摩』と「羅B」本との間には,合注編集当時,或いはそれ以後に伝承されていく間に発生したと思われる問題箇所が存在している.それは,「羅B」本の現存部分に相当する範囲に限っても,五箇所に発見される.以下,羅B写本と『大正蔵』本『注維摩』とに見える問題箇所を左右に配列した上で,それらが発生した原因について考察していきたい.
「羅B」写本 | 『注維摩』(T38) | ||
〈1〉 |
如空聚 [僧肇注]六情喩空聚,皆有成喩在他経也. (LL.179-180) |
如空聚 什曰(略) 肇曰.六情喩空聚,皆有誠證喩在他経.是故涅槃経云,観身如四大毒蛇.是身無常,常為無量諸蟲之所擺食.是身臭穢,貪欲獄縛.是身可畏,猶如死狗.是身不浄,九孔常流.是身如城,血肉筋骨皮裹其上,手足以為却敵樓櫓,目為孔竅,頭為殿堂,心王処中,如是身城,諸仏世尊之所棄捨,凡夫愚人常所味著.貪・淫・嗔恚・愚痴,羅刹止住其中.是身不堅,猶如蘆葦,伊蘭水沫,芭蕉之樹.是身無常,念念不住,猶如電光暴水幻炎.亦如畫水,随畫随合.是身易壊,猶如河岸臨峻大樹.是身不久,虎狼鵄梟皿鷲餓狗之所食.誰有智者,当樂此身.寧以牛跡盛大海水,不可具説是身無常不浄臭穢.寧團大地使如棗等,漸漸転小,如亭歴子,乃至微塵,不能具説是身過患.是故当捨,如棄涕唾.(T38, p.342c) |
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〈2〉 |
彼師所墮汝随墮 [僧肇注]生随耶見,死墮悪道. 乃可取食. [僧肇注]若能同彼六師而不壊異相者,乃可取食也 (LL.332-333) |
彼師所墮汝亦随墮乃可取食 肇曰.生随邪見,死墮悪道. 生曰.既以師彼,彼墮三悪道,不得不随其墮也.順在若師六師理為出家者,雖三悪道而不乖墮也. 別本云.不見仏乃至随六師所墮. 什曰.因其見異故誨令等観也.若能不見仏勝於六師.従其出家,与之為一,不壞異相者,乃可取食也.(T38, p.351ab) ただし,平安写本では以下の通りである. |
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彼師所墮汝亦随墮 肇曰,生随邪見,死墮悪道. 生曰,既以師彼,彼墮三悪道,不得不随其墮也.順在若師六師理為出家者,雖三悪道而不乖墮也. 別本云,不見仏乃至随六師所墮. 什曰,因其見異故,誨令等観也.若能不見仏勝於六師,従其出家,与之為一. 乃可取食 釈僧肇曰,若能同彼六師而不壞異相者,乃可取食也.(平安写本) |
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〈3〉 |
我即為其如法解説時維摩詰來謂我(これに対する僧肇注はない.) (L.437) |
我即為其如法解脱 肇曰,如法謂依戒律決其罪之軽重,示其悔過法也.(T38, p.356b) |
|
〈4〉 |
無所受 [僧肇注]無四受也.欲受・我受・戒受・見受也.欲受,欲界恚・慢・癡・無明也.我受,色・無色界愛・慢・癡・無明也.戒受,戒盗也,通三界也.見受,餘四耶見,通三界也. (LL.489-490) |
無所受 什曰,受義言取.取有四種,在家人有愛取,出家人有戒取・見取・愛取.真出家者,無此四受,亦於一切法無所受也. 肇曰,無四受也.欲受・我受・戒受・見受.(T38, p.358b) |
|
〈5〉 |
是即具足 [僧肇注]雖為白衣,能發無上心者,便為出家具足戒行矣. (LL.498-499) |
是即具足 什曰,雖為白衣,能発無上心者,便為出家.具足戒行矣. 生曰,出家本欲離悪行道,若在家而能発意,即是(=具,乙本)足矣,亦為具足其道者也.(T38, p.358c) |
先ず,〈1〉について考えよう.『大正蔵』本『注維摩』には,『涅槃経』からの引用文が僧肇釈として出ているが,これは曇無讖(385~433年)訳四十巻『大般涅槃経』(421年訳)の巻一に見える内容を源にしている52.しかし,この『涅槃経』の漢訳年代は紀元414~415年までにしか遡ることができず53,この引用文が僧肇自身の釈に含まれていたとは考えられないことから,後人の加筆であるという説54が打ち出されるに至ったのである.事実,「羅B」写本を見ると,「是故涅槃経云」云々という『涅槃経』からの引用文は単注本には存在しないことがわかった.
さて,この『涅槃経』からの引用部分が後世の人による加筆であるならば,その増補は何時頃行われたのであろうか.この問題をめぐっては,『大正蔵』本『注維摩』の校本の一つである甲本にも,「釈僧肇曰」の後ろにこの引用文が見当たらない55,という点に注意しなければならない.その甲本とは大和多武峯談山神社蔵本であり56,全八巻57である.したがって,この引用文は八巻本合注にはなかったが,『大正蔵』の底本(寛永十八年刊宗教大学蔵本)ともう一つの校本である十巻本(貞享三年刊大谷大学蔵本)において初めて見られるようになった,ということになる.ただし,この問題は,僧肇と『涅槃経』との関わりとしてではなく,『注維摩』そのもの成立と伝承の問題として取りあげる必要があるように思われる.
次に,この〈1〉とも関連するが,〈2〉にも伝承の過程で生じたと見られる問題が存在する.それは,経文の区切り方と,注釈文の帰属という経・注両方の問題に絡むものである.先ず,「羅B」の単注本では,「彼師所墮汝随墮乃可取食」という経文を「彼師所墮汝随墮」と「乃可取食」との前後二句に分けて,それぞれの後ろに僧肇の注が置かれている.八巻本の平安写本では,経文の区切り方も一致し,また,それぞれの経文に対する僧肇の注釈文にも明確に「釈僧肇曰」と冠されている.ところが,十巻本合注となると,上の経文は区切られずに一文として出ており,これに対する僧肇の注釈文として示されるのは,経本文の,「彼師所墮汝随墮」に対する注である「生随耶見,死墮悪道」という語句に限られる.そして,続く経本文の「乃可取食」に対する「若能同彼六師而不壊異相者,乃可取食也」という注釈は,その前半が脱落し,「不壊異相者,乃可取食也」という部分だけが残され,しかもそれが羅什釈とされている.
このような,ほかの経典からの引用文が付加されたり,或いは本来僧肇注であった部分が後に他の注釈者のものに帰されたりするような移動などは,単注から合注へ,その中でも特に八巻本合注から十巻本合注へと変遷していく過程で生じた変化なのではなかろうか.
次に論じる〈3〉~〈5〉に見られる相異は,〈1〉と〈2〉のような伝承上の問題としてではなく,むしろ単注本(「羅B」)と合注(各本)との相異であり,合注本の成立に関わる問題として考えるべきではないかと思う.先ず,〈3〉では,単注本に見えない解釈文が合注では「僧肇釈」とされて現れてくるが,その原因としては二つのことが考えられる.その一つは,単注本の該当箇所は「羅B」本を通してしかその内容が窺えないのではあるが,「羅B」本書写時に脱落した可能性である.その二は,この一文が後世の人による加筆,または羅什或いは道生の注釈文が誤って僧肇に帰された可能性などである.ただし,これが加筆であるにせよ,誤認によるにせよ,いずれにしてもかなり早い時期に行われたと考えなければならないが,〈1〉の場合のような決定的な判断材料が見出せないため,二つの可能性のいずれによるものかは決めかねる.
〈3〉と正反対に,〈4〉のように,解釈文が脱落してしまった場合もある.「無所受」(T38, p.358b)という経文の一句に対して,僧肇は「四種の受がない,という意味である」と解説した後,「四種の受」とは「欲受,我受,戒受,見受」であると紹介している.この部分は,「羅B」写本と合注本とでは,最後の「也」一字の有無を除いて,一致する.また,僧肇注のこの理解は合注本に見える羅什注のそれと基本的に通ずるものである.
合注本においては,羅什釈は更に議論を進めて,「四受」を「在家者」と「出家者」という二つの場合に分けて捉えた上で,この出家と在家との対立を超えた「真なる出家者」にとっては「四受」のすべてがなくなる,と主張されているのに対し,僧肇注として示されるのは上記の,いわば「四受」の概念規定にとどまっている.しかし,単注の「羅B」写本を見ると,僧肇釈も「四受」を三界という枠組みにおいて捉えながら,議論を展開させていくのであるが,この部分は合注では全く見られなくなってしまっているのである.
最後に,単注の僧肇の注釈が,合注では羅什釈とされてしまった例が,〈5〉である.すなわち,「是即具足」という経文に対する僧肇注は,いずれの合注本においても羅什釈とされており,この語句に対する僧肇釈はないとされている.
以上,「羅B」単注本と合注本の諸本とを比較する中で見出された,合注の編集とその伝承の過程で発生したと思われる五つの相異箇所について考察してきた.その内,〈3〉については確定的なことは言えないのであるが,〈1〉,〈2〉,〈4〉,〈5〉に関しては,次の様に言えるであろう.先ず,〈4〉と〈5〉とをめぐっては,『大正蔵』の校本が三本とも一致して,「羅B」写本と異なっているところから,該当箇所の相異はおそらく合注編纂期に生じたか,或いは少なくとも八巻本が成立した時期までには既に発生していたと思われる.また,〈1〉と〈2〉のような十巻本にしか見られない変化は八巻本には見えないものであり,これらは八巻本から十巻本の形へと変遷していく伝承の過程において発生したと考えられる.
これまで,羅振玉旧蔵の僧肇単注本の写本断片を取り上げ,写本をめぐる書誌学的情報の紹介から,「羅B」本の文献内容を中心とする考察へと進めてきた.その結果,「羅B」写本は,出口常順コレクションから見出された僧肇単注本の写本と較べても,その書写年代の古さ(紀元500年以前)と現存部分の分量(本文部分だけで521行)からして,文献史料としての価値ははるかに高いことが判明した.特に書写年代の古さについて見るならば,前述したように僧肇単注本の成立年代は紀元409年以前であるとされるが,これと「羅B」写本の書写年代である紀元500年との開きは僅か百年にも満たないのであって,現存する文献の中で,「羅B」は『維摩経』僧肇単注本の最古の写本であると考えられる.そして,「羅B」に書写された文献は僧肇著述当時の原形に近い,いわば古層に属するものである可能性も高いのである.更に,「羅B」写本に書写された文献の題記に限って見ても,仏教資料として重要な点が二点含まれている.第一に,今までは知られていなかった僧肇単注本(五巻)の具体的な調巻方法の一端(「仏国品」から「弟子品」までを第一巻とすること)を示している点である.第二に,曖昧にされてきた単注本の題名が,少なくとも6世紀の初頭においては具体的に「解」と呼ばれていたという史実を伝えている点である.
本論文は,これらの敦煌出土写本に光を当てることによって,羅振玉旧蔵の僧肇単注本のもつ文献的価値の重要性に対する注意を喚起したいのである.このような研究の積み重ねを基盤に,羅振玉以来忘れ去られたかのような感のある写本を再び取り上げ,その文献としての性格を一つ一つ明らかにする作業を通して,この文献のみならず,それを取り巻く状況へと考察を進め,可能な限り広い視野を獲得していきたい.
1 *この論文は,筆者の修士学位論文の一部である.これを作成する際に,当時の指導教官であった木村清孝師から丁寧なご指導を頂いた.ほかに,当初,修士論文の審査を担当された故上村勝彦先生,末木文美士先生,斎藤明先生,下田正弘先生の諸先生から貴重なコメントを頂戴した.ここに記して深い感謝を申しあげる.また,煩を厭わず筆者の日本語論文を日本語らしい論文に仕上げて下さった宝光院住職栗山明高師に特別な感謝を捧げる.
『維摩経』現存三訳のうち,羅什訳は訳出年代順に従えば中間に位置する.羅什訳に先立つ漢訳としては,支謙訳と伝えられている『仏説維摩詰経』(T14, No.474)が現存している.支謙訳『維摩経』に対する注釈書の写本は敦煌・トルファン写本から次の二点が見出される.①,写本の断片であるP. 3006(『フランス国立図書館蔵敦煌漢文写本目録』第三巻,p.4).釈果樸氏によれば,P. 3006写本は紀元359年から406年までの間に北地において書写されたものである,という(同氏[1998]『敦煌写巻P. 3006「支謙」本《維摩経》注解考』,台北:法鼓文化事業公司,p. 93).②,中村不折氏蔵トルファン写本の支謙(222~253年訳経)本「維摩経注」は六朝期のものであるとされる(同氏『禹域出土墨宝書法源流考』第一巻,東京:東西書房,1927年,p.37).この他,李盛鐸旧蔵本の中に,「甘露二年正月二十七日,沙門静志写記」という題記を持つ『維摩義記』の写本がある(『敦煌遺書総目索引』「附録:李氏鑒蔵敦煌写本目録(拠伝鈔本)」,p.318).この写本が支謙訳の注釈書であるか否かの判断は,先ず「甘露」という年号の検討に関わる.この年号をめぐっては様々な議論がなされてきているが,ここではこの写本と関連する説を二つ紹介しよう.その一,池田温氏は「甘露」を前秦苻堅(357~387年在位)の年号とし,甘露二年を紀元360年としている(『中国古代写本識語集録』,p.76).その二,中国大陸の歴史学者は,トルファン写本に見られる「甘露」とは高昌国(497~640年)の岦光が紀元526~530年にわたって使った年号であると主張しており(王素[1996]「吐魯番出土写経題記所見甘露年号補説」,『敦煌吐魯番研究論集』,北京:書目文献出版社, pp.244-251),この第二の説に従えば甘露二年は紀元527年となる.また,第一の360年説によるならば,この『維摩義記』が406年に訳出された羅什訳本の注釈書であることはあり得ないが,支謙訳に対する注釈書である可能性は残されている.ただ,筆者はこれら二説のうち,第二の527年説を支持したい.なぜなら,この説はより多くの史実,特にトルファンという特殊な地域史の新しい研究成果によって裏付けられているからだけではなく,本論文の主題である仏教釈経史の発展という視点から見ても,527年説のほうが合理的であると言えるからである.詳しい論証は今後の研究に譲るが,結論だけを言えば,「義記」という注釈形式が紀元360年以前に既に仏教釈経史に登場していたとは想定し難く,「義記」を名乗る多数の仏教文献が続々と現われたのはまさに第二説が考える六世紀の初期頃であったからである.
2 花塚久義[1982] p.201.
3 これらの経録と僧伝の記載に関する検討は,佐々木功成[1923]「注維摩経の研究(上)」(『龍谷大学論叢』250, p.25)に詳しい.
4 このトルファン写本に関する詳しい紹介は,本節「1.3類似写本」を参照されたい.
5 『聖徳太子研究』11, pp.29-44.
6 「姚秦写本僧肇維摩詰経残巻校記」(1937年),『七経勘叢刊』所収,京都大学人文研蔵本,pp.6483-6570.
7 林平和[1988]『羅振玉敦煌学析論』,台北:文史哲出版社,p.2.
8 林平和[1988] pp.3-4.
9 林平和[1988] p.4.
10 林平和[1988] p.3.
11 『羅雪堂先生全集』(第三編,第八~九冊)所収,台北:文華出版公司,1970年.
12 甘督毛公とは,毛慶藩(字実君,1846~1924年)のこと.
13 江西李君とは,李盛鐸(1858~1937年)を指す.字は椒微,号が木斎で,江西徳化の出身である.
14 劉君とは,劉廷琛(1868~1932年)を指す.字は幼雲,号が潜楼,江西徳化の出身であり,李盛鐸の友である.
15 何君とは,何鬯威を指す.李盛鐸の婿である.
16 方君とは,方爾謙(1871~1936年)を指す.また,方爾箴ともいう.字は地山,或いは無隅であり,江蘇江都の出身である.
17 『羅雪堂先生全集』(続編冊二)所収,台北:文華出版公司,1968年,p.408.
18 この文章の前半に述べられたことは,李盛鐸所蔵の敦煌写本の由来に関する議論に大きな影響を及ぼしたが,恐らく徐珂(1869~1928年)『清稗類鈔』「鑑賞類・伯希和得敦煌石室古物条」(北京:中華書局,1996年)に依るものであると考えられる.ただし,李盛鐸所蔵本をめぐっては,饒宗頤氏が「京都藤井有隣館蔵敦煌残巻紀略」(『選堂集林・史林』,香港:中華書局,1998年,p.1000)等に見える説も挙げて論じている.更に,以上の諸説を踏まえた上で,李盛鐸が所有していた敦煌写本は,北京に運送される途中で差し止められたものではなく,彼が直接,学部から獲得したものである,とするのが,栄新江氏によって打ち出された最新説である(「李盛鐸蔵敦煌写巻的真與偽」,『鳴沙集』pp.104- 107).
19 「姚秦写本僧肇維摩詰経残巻校記」,『七経勘叢刊』,京都:京都大学人文研蔵本,pp.6483-6570.
20 羅振玉氏の没後,その敦煌収蔵品の多くは散逸した.後に,中国歴史博物館が羅氏の旧蔵品の大部分を入手している.その他北京図書館や北京大学図書館,上海図書館,遼寧省档案館,日本東京国立博物館などにもその旧蔵品が見られる.(栄新江[1998]「羅振玉旧蔵」条,『敦煌学大辞典』p.792).また,同氏は,2000年5月20日,東洋文庫で行われた「中国所蔵敦煌吐魯番写本中的唐代史料」において,羅氏『貞松堂蔵西陲秘籍叢残』と『中国歴史博物館法書大観』と対比した結果,前者の蒐集品はほとんど後者に収められていることがわかったと述べている.しかし,本節で扱っている二種の写本は『法書大観』には見えない.
21 「新維摩詰経三巻 弘始八年於長安大寺出」(「新集経律論録第一」,僧祐『出三蔵記集』巻第二,T55, p.10c).
22 紫溪[1963]「由魏晋南北朝的写経看当時的書法」,『文物』1963-4(総150),pp.28-34.
23 『羅雪堂先生全集』続編冊二,pp.408-409.
24 塚本善隆[1955]「仏教史上における肇論の意義」,塚本善隆編『肇論研究』,京都:法蔵館,pp.151-152.
25 紫溪[1963]pp.28-31.
26 紫溪[1963]pp.29-30.
27 歴史上,「承平」という年号はこれ以外にもう一つある.それは北魏南安王拓跋餘時代の年号であるが,使われたのは紀元452年の一年のみであるため,これは対象から外される.
28 杜斗城[1998]『北涼仏教研究』,台北:新文豊出版公司,p.253.柳洪亮[1997]「吐魯番出土文書中〈建平〉,〈承平〉紀年索隠」,『新出吐魯番文書及其研究』,烏魯木斉:新疆人民出版社,p.253, p.264.
29 池田温[1990]『中国古代写本識語集録』,東京:大蔵出版社,p.95.
30 『俄蔵敦煌文献』⑧に編号Дх01828, Дх01840としている(上海古籍出版社,1997年, p.359).
31 つまり,「羅A」のLL.1-8の部分と合致している(『羅雪堂先生全集』三編冊八,p.3159).
32 孟列夫編『俄蔵敦煌漢文写巻叙録』(下巻),袁席箴・陳華平中文訳,上海古籍出版社,1999年,p.380.日本語訳は筆者による.
33 『俄蔵敦煌文献』⑧,上海古籍出版社,1997年,p.359.
34 孟列夫[1992]「俄羅斯科学院東方学研究所聖彼得堡分所蔵敦煌文献」(周夢羆中国語),『中華文史論叢』50,上海古籍出版社,pp.15-16.
35 藤枝晃[1987]「中国北朝写本の三分期」,『古筆と国文学』,東京:八木書店,pp.4-5.
36 出口常順将来品について,池田温氏は以下のようなことを述べている.「出口師は三十年代ベルリンに留学され,プロイセン隊将来漢文写経を精研して編目にも協力された.その間トルコの学者ラフマティ氏を通じ百数十点におよぶ中ア発掘品を入手された.その来源は,プロイセン隊の将来品かと想像される.漢訳仏典写経が大宗を占めるが,印仏や刊経片も含まれ,少数ながら外典や文書断片もあり,わが国に現存するトゥルファンコレクションとして極めて貴重な資料である」.(同氏「トゥルファン古写本展を観る方々のために」,『現代書道20人展・第35回記念「トゥルファン古写本展」図録』,東京:朝日新聞社,1991年).また,同文では,プロイセン探検隊の四回にわたる探検活動の概略とそのたびの研究成果たる出版物に関しても集約して紹介している.
37 「『高昌残影』は,本来なら解説篇にあたる別冊があり,図録と同時に刊行されるはずだったが,当時では完成できなかったため実現されるに至らなかった.『トゥルファン古写本展図録』にみる解説は,それを基に更に詳細をきわめたものである」といわれている.(池田温[1991a])
38 『トゥルファン古写本展』,藤枝晃「〈出口常順師出品〉トゥルファン出土写本解説」,「No.27 維摩経 僧肇注」,朝日新聞社,1991年.
39 『トゥルファン古写本展』,藤枝晃「〈出口常順師出品〉トゥルファン出土写本解説」,「No.27 維摩経 僧肇注」,朝日新聞社,1991年.
40 今回の調査によって十二点の写本の存在が確認されている.即ちP.2095, 2214, P.2339, P.4088, P.4684, S.4684, B新1300, Дх.1626+1819+1861, Дх.1822+ 1862+1863+1903, Дх.2177, 黄文弼旧蔵(『〈黄文弼著作集・第二巻〉トルファン考古記』,土井淑子日本語訳,東京:恒文社,1994年, p.333)である.
41 羅振玉自身は,「顧尚未知作解者為何人也.嗣検日本明治本小字蔵経中有僧肇『維摩詰経註』十巻,取以相校,知此巻実為僧肇所註.」と述べている(「貞松老人遺稿甲集之後丁戊稿・姚秦写本僧肇維摩詰経残巻校記序」,『羅雪堂先生全集』続編冊二,pp.409-410).
42 「貞松老人遺稿甲集之後丁戊稿・姚秦写本僧肇維摩詰経残巻校記序」,『羅雪堂先生全集』続編冊二,p.409.
43 『縮蔵』に関する説明は,『望月仏教大辞典』の「大日本校訂縮刻大蔵経」条(pp.3346-3347)を参照.
44 羅振玉は,「僧肇維摩詰経解校記跋」において,「予往作此経解校記,拠明治大蔵所載明刊本」(下線部,筆者)と述べている(「貞松老人遺稿甲集之後丁戊稿」,『羅雪堂先生全集』続編冊二,p.424).この記述からも,彼の言う「明治本小字蔵経」とは『縮蔵』を指していることが推定できる.
45 佐々木功成[1923]p.28.
46 二種の現行『注維摩』のうち,「広本」という呼び方は既に『卍続蔵』本『注維摩』に見えるが,「略本」という呼び方は佐々木功成氏より始まる.佐々木氏は「注維摩経の研究(上)」において,『注維摩』の『卍続蔵』本と『縮蔵』本を比較研究し,両者の相違を詳しく挙げている.その結論だけを紹介すると,「縮刷本に省略された註の文は,羅什が三百二十五文,僧肇が四百九十八文,道生が五百四十四文であって,三註とも余り甚だしい相違はないが,更に之を縮刷本所収文たる羅什の三百四十七文,僧肇の七百一文,道生の六十二文に対比すると,道生の註が非常に多く減ぜられておることを知るのである」とされ,さらに,「この略本たる縮刷本の編輯は僧肇系即ち[三論学系]北地派の人によって行われた」と推定されている.(『龍谷大学論叢』250, 1923年, pp.28-32)
47 羅振玉自身も,後に小野玄妙から寄せられた『大正蔵』本を見て,当初自らが参照した明治本(即ち明蔵本)の脱落に気づいている.(「貞松老人遺稿甲集之後丁戊稿・僧肇維摩詰経解校記跋」『羅雪堂先生全集』続編冊二,pp.424-425.
48 『注維摩』の写本は,敦煌で11点,そしてトルファンで2点発見されている.また,僧肇単注本の写本は敦煌の「羅A」が現存しているほか,トルファンで発見された宮廷写経が出口常順コレクションに見出される.
49 前掲写本の13本(断片の数では15点)はすべてこの形式をとっている.
50 知空「元禄壬申秋,於武江講茲註維摩詰経之時,未検『集解』作者頃,於古匡中得虫眈朽故之本全部四冊,乃始知道液之作.」『註維摩経日講左券』「跋文」.ここで言う『集解』は,『維摩経集解』或いは『浄名経集解』とも通称され,現行本の『注維摩』と同類の文献と認められる.この文献の著者については色々と議論されてきているが,古来僧肇によって集められたと伝えられている.一方,唐代になると,『注維摩』の注釈書である『浄名経集解関中疏』という文献が道液という学僧によって著された.つまり,知空が上掲の「跋文」の中で,『集解』の著者を道液とするのは一種の誤解である.この誤解は,『注維摩』と『浄名経集解関中疏』との「形態の類似」などに起因する両者の混同によるものと考えられている(花塚久義[1982]「注維摩詰経の編纂者をめぐって」,『駒沢大学仏教学部論集』13, p.207).このような混同は,現代の敦煌仏教文献の整理作業にも見られる.敦煌仏教文献は首尾具完しているものが極めて少数であるため,文献の定名には大きな困難が伴う.この状況は,ロシア収蔵においてはとりわけ著しく,例えば,同収蔵の中から『注維摩』の写本断片が多く報告されているが,筆者がこれらの断片の図録を調査した結果,その半分以上が『浄名経集解関中疏』の写本であることが判明した.そして,調査の過程で,『浄名経集解関中疏』の写本と『注維摩』の写本とを見分ける最も簡便な方法は,両者の書写形式上に顕著な相異に注目することであることがわかった.本文でも述べた通り,13本(或いは15点)の『注維摩』写本はすべて経文を大文字で挙げて,注釈は双行小字で記すという形式をとっている.ところが,今までに報告されている百数点の『浄名経集解関中疏』写本には,そのような形式で書写されたものは一点も見いだすことができないのである.両者の形式上の相異は,単なる書写方法の違いによるものではなく,むしろ注釈方法の相異に由来するものである,と筆者は考えている.
51 「2.2 編集ミスによると思われる内容上の相異」の内容は,『印度学仏教学研究』99(pp.292-294)で「敦煌写本『維摩詰経解』」をタイトルとして公表したことがある.ただし,その際には,紙幅のためにかなりの削略をした.この度は,内容を詳細にして公表させて頂く次第である.
52 その該当部分は,北本(即ち,四十巻本)『涅槃経』でいうと,『大正蔵』巻十二のp.367の上段(行28)から中段(行13)までに見えるが,南本(即ち三十六巻本)でいうと,p.606の下段(行4-19)に見える.
53 湯用爬氏は,『出三蔵記集』巻一に見える「『大般涅槃経』三十六巻(偽河西王沮渠蒙遜玄始十年十月二十三日訳出)」(T55, p.11b)という記載が同書巻八に載せる同経の「道朗序」に拠るものであると述べ,この年代(紀元421年)を訳出の開始年代としている.(同氏[1962再版]『漢魏両晋南北朝仏教史』,北京大学出版社,1997年,p.277).鎌田茂雄氏は,嘗て湯用爬氏が信用しなかった『梁高僧伝』の記述をも他の資料と共に融合的に受け入れている.氏は,曇無讖による『涅槃経』の漢訳作業を初分,中分,後分というように段階的に進められていたと考え,初分(十巻)の翻訳作業は玄始三年(414)か四年(415)頃から始まり,中分と後分を含めた三十六巻を訳出し終わったのが玄始十年(421)十月二十三日であった,としている(同氏[1984]『中国仏教史(三)・南北朝の仏教(上)』,東京大学出版会,p.53).
僧肇と『涅槃経』との関わりは,特に『涅槃無名論』の真撰問題をめぐって論じられてきた(例えば,横超慧日[1955]「涅槃無名論とその背景」,塚本善隆編『肇論研究』,法蔵館,pp.191-193).ここでも,『涅槃経』の内容が紀元414年に歿した僧肇の著作に現われうるか否かが争点の一つとなっている.筆者は,湯氏ではなく,鎌田氏の説に従って紀元414~415年を上限としたが,それでも,僧肇の著作に『涅槃経』からの引用がなされたとすることは極めて困難となる.まして,409年(或いは410年)に完成された『維摩経』注解の中に同経典からの引用文が取り込まれていた,とすることは不可能である.
54 臼田淳三[1977]「注維摩詰経の研究」,『印度学仏教学研究』26-1, p.263.
55 『大正蔵』(T38)所収『注維摩詰経』のp.343の注⑱.
56 『大正蔵』(T38)所収『注維摩詰経』のp.327の注①に「平安時代写,大和多武峯談山神社蔵本,題名維摩経集解」とある.
57 『大正蔵』(T38)所収『注維摩詰経』のp.419の注⑩.