2021 年 2021 巻 48 号 p. 178-197
リクール『時間と物語』における「負債」論の射程をめぐって
山野 弘樹 1
本稿の目的は,リクール『時間と物語』におけるハイデガーの時間論批判の内実を検討することを通して,「現象学的時間」と「宇宙論的時間」を架橋する「歴史的時間」の媒介的性格を明らかにすることである.さらに本稿は,「歴史物語」と密接に関連する「負債」概念の位置づけを再検討することを試みる.まずは,本稿の問題設定の背景を説明するために,『時間と物語』の構造と そのテーゼの概要を確認することにしたい 2.リクールの主著の一つである『時間と物語』は,四つの「部」と長い「結論」から構成されており,そこにおいては主に次の二つのテーゼが主張されている.一つは〈物語の詩学による時間性のアポリアへの応答〉であり,もう一つは〈歴史とフィクションの交叉〉である.本稿に直接関係するのは前者である.まず「時間性のアポリア」とは,アウグスティヌスの『告白』第十一巻に代表されるような「現象学的時間」と,アリストテレスが『自然学』第四巻の中で論じた「宇宙論的時間」とが相互に架橋されない(すなわち,一方の時間から他方の時間を派生的に説明することができない)事態を示す言葉である 3.そして「物語の詩学」とは,「物語」を代表とする詩的言語の創造性を体系的に論じる学のことを指しており,こうした物語の創造性が,前述の「時間性のアポリア」に対して詩的に応答を行う
(cf. TR I, 129, TR III, 10)という議論が,前者のテーゼが示す内容である 4.こうした問題設定が提出されるのが『時間と物語』の第一部であり,「物語」の二大様態を考察する第二部(「歴史物語」論)および第三部(「フィクション物語」論)を経たのちに,時間論と物語論を掛け合わせる仕方で展開されるのが,第四部「物語られる時間」である.
第四部は,『時間と物語』の中でも最も長く,最も多様な議論が展開されている箇所である.その理由は,前述した二つのテーゼが,『時間と物語』にお
いてはじめて総合的に論じられるからである.特に,〈物語の詩学による時間性のアポリアへの応答〉を論じる最後の章「時間性,歴史性,時間内部性」(第一篇第三章),および〈歴史とフィクションの交叉〉を論じる最初の章「生きられる時間と普遍的時間のあいだ」(第二篇第一章)は,その二つの議論が接続される地点として,慎重に読まれなければならない.実際,前者の章においては,〈現象学的時間と宇宙論的時間を媒介するのは歴史的時間である〉ということが示唆され,後者の章においては,「二つの時間」を媒介する歴史的時間(およびそれを創出する歴史物語)の特質が論じられるのだが,こうした主張を間断なく展開するリクールの議論は,一見して唐突であるようにも思われる.なぜなら,〈歴史的時間が現象学的時間と宇宙論的時間を媒介する〉とは述べられているものの,それがいかなる資格において「二つの時間」を媒介しうるのかという点について,リクールの議論は明瞭でないように見えるからである.そのため,『時間と物語』を根本から解釈するために,次のような問いが提出されることになる.すなわち,〈一体何が,歴史的時間を,「二つの時間」を媒介する時間たらしめているのだろうか〉,という問いである.
こうした問いは,これまでの先行研究においては閑却されてしまってきたものである.そもそも従来のリクール研究においては,リクールの思索を初期から晩年にかけて概説するという傾向の著作が目立ち,『時間と物語』を主題として論じた研究書が未だにほとんど著されていないのが現状である 5.数少ない例外として,論文集の« Temps et Récit » de Paul Ricœur en Débat (1990) 6 や概説書の Ricoeur on Time and Narrative: An Introduction to Temps et récit (2011) 7 が挙げられるが,これらの著作でさえも,前述したような仕方での問題提起はなされていない 8.なぜそのような事態が生じてしまうのかと言えば,それは,これまでの先行研究が,「二つの時間」を媒介する「歴史的時間」の主要な特質である「暦」の重要性ばかりを強調してきた点にその理由を見出すことができるだろう.予期と想起を含んだ「現在」9 を生きる人間が「天体の運動」10 を基に
「暦の時間(le temps calendaire)」を制作するという議論(TR III, 154-160)は,確かに理解しやすい議論の図式である.これまでは,こうした議論を受けて,
〈歴史的時間が現象学的時間と宇宙論的時間を媒介する〉というリクールのテーゼがそのまま受容・紹介されてしまっていた.だが,「暦の時間」とは「歴史
的時間」と同一視されるものではなく,さらに,「暦の時間」を制作することがそのまま「歴史物語」の制作に繋がるわけでもない.そのため,『時間と物語』の議論を読み解くためには,リクールの立論の再構成に留まるのではなく,
〈歴史的時間が現象学的時間と宇宙論的時間を媒介する〉という議論がいかにして論証されるのかという点を見定める必要があるだろう.
こうした問題意識を基に,本稿は,「二つの時間」を架橋すると言われる「歴史的時間」,およびそれを創出する「歴史物語」の媒介的性格を明らかにすることを試みる 11.本稿は以下の仕方で構成される.まず第二節おいては,「時間性のアポリア」をめぐる議論の中で,リクールがマルティン・ハイデガーに対して両義的な立場を取っている点を確認し,そこでリクールがいかなる問題点を見出しているのかを二つの論点(〈他者の死〉および〈他者の過去〉)に分けて検討する.第三節おいては,次の二つの課題を遂行する.まず,第三節の前半において,「歴史的時間」の特質とされる「世代」概念の特徴を検討し,そこで論じられる「死の無名性」の議論が(〈他者の死〉という次元を導入することを通して)「歴史的時間」の媒介性を構成している点を明示する.そして,第三節の後半においては,「歴史的時間」の特質とされる「痕跡」概念の特徴を検討し,そこで論じられる「痕跡の有意味性」の議論が(〈他者の過去〉という次元を導入することを通して)「歴史的時間」の媒介性を構成している点を明示する.最後に第四節においては,「歴史的時間」の媒介性を形成する諸要素が「負債」という概念の下に包括的に理解されることを示し,リクールがいかなる立論において〈歴史的時間が現象学的時間と宇宙論的時間を媒介する〉というテーゼを導き出したのかを明らかにする.こうした一連の議論を踏まえることによって,「負債」の概念こそが,リクールの時間論を根底から支える根本的な要素であることが明らかになるであろう.
まずは,「時間性のアポリア」と呼ばれる議論の内実を確認し,その後に,こうしたアポリアの中で特異な位置を示すハイデガーの時間論に対するリクールの両義的な評価を検討していく.本節の作業を経て,「二つの時間」を媒介
すると言われる「歴史的時間」が備えていなければならない二つの特質が明らかになる.
リクールが『時間と物語』の中で展開する「時間性のアポリア」とは,(1)
「現象学的時間」から「宇宙論的時間」を導出することができず,また反対に,
(2)「宇宙論的時間」から「現象学的時間」を説明することができないという
難問である.
まずは(1)から見ていく.「現象学的時間」(文脈に応じて,「魂の時間」,
「生きられる時間」とも言われる)とは,未来の予期や過去の想起を含んだ伸び広がりのある「現在」を有する時間のことである.こうした時間は,次のような有名なアウグスティヌスの議論に端を発するものである.「もし過去はもはやなく,未来はまだなく,そして現在は常にないのであれば,どのようにして時間は存在するのだろうか」(TR I, 23).アウグスティヌスの回答は,こうした時間の質を魂の中に位置づけるというものである.魂の中に「三つの時間」
(すなわち「過去についての現在」,「未来についての現在」,「現在についての現在」)があるからこそ,私たちは伸び広がりのある時間を測定できるのだ.こうした「心理学的テーゼ」(TR I, 20)は,確かに私たちがそれを生きる時間の特質を描き出している.だが,「時間は私たちを取り囲み,包み込み,支配しているのだが,魂が時間を生み出す力を有しているわけではない」(TR III, 19)という事実もまた,私たちは考慮しなければならない.こうした「運動の時間の自律性」(TR III, 137)を主観的な意識の側から導出することができないという点で,「二つの時間」の間に穿たれた溝がアポリアを形成するのである.
次に(2)を見ていく.「宇宙論的時間」(文脈に応じて,「世界の時間」,
「普遍的な時間」とも言われる)とは,無限に均質な「瞬間」のみを有する時間のことである.アリストテレスによれば,時間とは天体の運行と同一視されるものではないものの,運動の存在なしに時間が存在することもない.むしろ,
「継起は[…]順序の関係から生じるのであり,そしてその順序は,魂の中に存する前に,世界の中に存する」(TR III, 24)のである.だが,こうした継起は均質的な「瞬間」に他ならず,そうした客観的な「瞬間」が,伸び広がりのある主観的な「現在」を構成するわけではない.つまりここでは,「時間の一側面である運動と,時間を識別する魂との間で捉えられた,時間それ自体の不安
定で両義的な身分」(TR III, 29)を見出すことができるのだ.一方の時間から他方の時間を導出および説明することができないというのが,リクールが主張する「時間性のアポリア」である.
こうした時間性のアポリアの問題の中で両義的な位置を占めるのが,ハイデガー『存在と時間』12 における「時間性」の議論である.そのリクールによる両義的な評価の内実を,続けて検討していきたい.
まずリクールが肯定的な評価を下すのは,『存在と時間』における「世界時間(Weltzeit)」13 の議論である.ハイデガーにとっても,リクールが述べた意味での「時間性のアポリア」は乗り越えられるべき問題であった.『存在と時間』第八十節においてハイデガーは,「公共的な時間」が単に主観的なものなのか,あるいは客観的なものなのかという点について自問する.この問いに答えるためにハイデガーが議論の中核に据えるのが,「気遣い(Sorge)」の様態である「配慮(Besorgen)」,および「配慮される時間」である.私たちは時計や暦を用いて時間を計算するのであるが,そうしたことは,ハイデガーによれば偶然に起こるものではなく,あくまで「気遣いとしての現存在の根本体制に根差す実存論的かつ存在論的な必然性」(SZ, 411)によって導かれている.だが,他方で私たちは,時間や日時を特定するために,天空における太陽の運動を活用する.こうした「配慮」と「太陽の運動」の相互関係性を,ハイデガーは次のように記述する.「恵みとして光と熱を与えてくれる太陽が「手許に在る」のを,配慮は利用する.太陽が,配慮の働きの中で解釈によって解きほぐされる時間の日時を特定してくれる」(SZ, 412-413).このように,ハイデガーは「時間を算段する現存在の時間性」(SZ, 412)から時間測定という事態を説明するのであり,その文脈の中で,「時間性が時熟する中で公共化される時間」(SZ, 414)としての「世界時間」論を展開するのである.
さて,ハイデガーが練り上げる「世界時間」の概念とは,前述の「時間性のアポリア」の観点から見ると,どのような立場を有するものであるのか.まずはハイデガーの記述を引用したい.
このように世界時間が時間性の時熟に属してそれを構成する一つの契機であるなら,これを「主観主義的」に解消させるわけにも,あるいはまた悪
しき「客観化」によって「物象化」するわけにもいかない.(SZ, 420)
実際,ハイデガーは自らの展開する世界時間が「およそ考えうるいかなる客観よりも「いっそう客観的」」であり,また「およそ考えうるいかなる主観よりも「いっそう主観的」」であると主張しているのであり(SZ, 419),そしてリクールもまた,こうしたハイデガーの主張を肯定的に受け止めていた.
ある意味で,フッサールとカントの[時間をめぐる]論争は乗り越えられてしまった.それは,主観と客観との対立が乗り越えられたという意味においてである(TR III, 127-128).
なぜそのように言うことができるのか.なぜなら,世界時間とは,太陽の運動という公共的に利用可能な事象を活用することで測定される時間であると同時に,そうした測定は,太陽を配慮する現存在の「気遣い」に根差す仕方で行われるからである(TR III, 128).こうした意味において,リクールは「ハイデガーの解釈学的現象学は,アウグスティヌスやフッサールのそれよりも前進した」(TR III, 127)と主張するのだ.
だが,リクールはハイデガーの時間論に対して批判的な評価を下してもいる.実際,リクールは直後に次のように述べる.「ところが,この解釈学的現象学の前進そのものから,新たなアポリアが生じてくる」(TR III, 128).新たな時間性のアポリアが生じる理由としてリクールが挙げているのは,筆者の見る限り,次の二つである.
一点目の理由は,〈各人の死の固有性〉という議論に起因する.『存在と時間』第二篇において,「時間性」とは「将来」,「既在性」,「現在」という三つの脱自態の統一的な現象として規定されているが,ここで重要な要素として挙げられるのが「死へと関わる存在(Sein-zum-Tode)」である.まさに自らの死という最も固有な可能性に従って,現存在は自分自身に到来することを目指す.しかし,このように死を先駆的に決意することを通して時熟する本来的かつ根本的な時間性から,「歴史性」,「時間内部性」を経て,「通俗的な時間概念」14 へと派生することはできないとリクールは主張する.その主張が最
も端的な形で現れているのは次の箇所である.
[…]最も根本的な時間性が死の刻印を有しているならば,死へと関わる存在によって基本的に私有化された時間性から,物語の様々な登場人物たちの相互作用が要求する共通の時間へと,ましてや歴史記述が要求する公共的時間へと,いかにして移行することができるのか?(TR I, 128)
先ほど確認したように,確かにハイデガーが展開した世界時間は,太陽の運動を基軸に置く公共的時間として特徴づけられているものであった.しかし,各人に固有な死という可能性を内包する根本的な時間性が,なぜ万人に共通する公共的時間へと派生することができるのかと,ここでリクールは問うているのである.さらにリクールは,「一体どのようにして,各人の歴史から万人の歴史に移行できるのか.この点において現存在の存在論は,根本的にモナド論的なのではないか」(TR III, 110)とも主張する.つまりハイデガーの時間性の議論は,それが自らにとって最も固有の可能性である死と結びついている限り,そうした時間性が他者と共有されうるという契機を排除してしまっているとリクールは批判するのである.
リクールがハイデガーの時間論を批判するもう一つの理由は,〈時間性の「平準化(Nivelierung)」によって「通俗的な時間概念」が発源する〉という論証の順序に起因する.ハイデガーの時間論の図式においては,あくまで本来的かつ根本的な時間性を出発点として,そこから歴史性,時間内部性,そして通俗的な時間概念へ派生していくという順序を取る.しかし,ハイデガーによってなされた「通俗的な時間の平準化によって配慮の時間から派生するすべての試み」であってさえも,「アリストテレスが時間との関連で運動に割り当てる論理的かつ存在論的先行性」(TR III, 133)を派生させることはできないとリクールは述べる.言い換えれば,現存在の「配慮」に先行する「運動の時間の自律性」を,ハイデガーの時間論から導出することはできないとリクールは批判するのである.
さて,ここまでリクールの議論を辿っていくことで,「二つの時間」(すなわち現象学的時間および宇宙論的時間)を架橋する「歴史的時間」が備えてい
なければならない二つの特質が明らかになった.一つは,各人の死の固有性を超えること,すなわち〈他者の死〉の次元を時間論に接続するという特質であり,そしてもう一つは,宇宙論的時間の特徴である「運動の時間の自律性」を
「派生」させるのではなく,それを「借用」することを通して〈他者の過去〉という次元を指し示すという特質である.こうした二つの特質を備えた「歴史物語」という在り方を究明することが,「歴史物語」によって輪郭を帯びる「歴史的時間」の媒介的性格を明らかにすることに繋がるであろう.次節からは,こうした二つの特質をいかに付与する形で,「二つの時間」の中間に位置する
「歴史的時間」の議論をリクールが展開していくのかという点を検討していく.
本節においては,「歴史的時間」(およびそれを創出する「歴史物語」)の媒介的性格に不可欠である二つの特質を,「世代(générations)」の概念および「痕跡(trace)」の概念の観点から検討していく.
まず,「世代」概念をめぐる議論の検討から入りたい.ハイデガーの時間論に対するリクールの批判は,第一に〈各人の死の固有性〉を乗り越える回路がハイデガーの議論に内包されていないという点に起因していた.それでは,リクールはいかにして〈他者の死〉の次元を時間論に導き入れるのか.それは,
「世代」,および「世代連続(la suite des générations)」の概念を導入することによってである.リクールはヴィルヘルム・ディルタイおよびカール・マンハイムの議論を参照しながら「世代」の概念の考察を進めていくのだが,特にリクールが重視するのがアルフレッド・シュッツによる「世代」論である.リクールがシュッツから受け取る着想とは,「同時代者(contemporains)」,「先行者(prédécesseurs)」,「後続者(successeurs)」による諸世界という観念である.私たちが生を遂行する時間とは,共有された時間の共同体である.そしてリクールは,シュッツの現象学から「共に老いる(vieillir ensemble)」(TR III, 166)という洞察を得る.それは言い換えれば,〈共に死へと向かう〉ということである.こうした同時代性は,対面的な他者との関係性を越えて,「無名性
(anonymat)」,すなわち「私」が関与するのではない〈非人称性の次元〉を用
意する.ここから導き出されるのは,「死の無名性」(TR III, 170)という概念である.ここでリクールは,「死の固有性」に対して「死の無名性」を対置させることで,各自的な時間性から公共的な時間へと推移する理路を確保しようとしているのだ.
さらにこうした「死の無名性」は,同時代者だけではなく,先行者との関わりにおいても密接に浮上する問題である.リクールは「各人の死の内奥性(l’ intimité)」と「生者によって死者が取り替えられることの公的性格」とが混ざり合うところに「無名の死(la mort anonyme)」があると述べる(TR III, 169).一見して分かりにくい後者の表現は,かつて生者であった死者たちに関する歴史を生き残った者たちが書き継いでいくことを意味している.実際この段落でリクールが述べているのは,「歴史のエクリチュールにおける死の位置」(ibid.)についてなのだ 15.そして,こうした歴史記述が対象とする「歴史的過去」は,
「私の生まれる以前の時間」,すなわち「死者たちの時間」(TR III, 168)に他ならない.歴史記述を通して,過去の死者たちを間接的に思念するということ,それは,「死者たちの時間」との連なりの中で自らの生と死を理解することである.ここで見出されるのが,私的な時間と公的な時間の中間にあると言われる「無名の時間(un temps anonyme)」(ibid.)である.〈他者の死〉の次元を導入することで示されるこうした中間的な時間は,「気遣いの死すべき時間性」
(TR III, 117)という各自的な時間を乗り越えるものである.こうしたリクールの議論は,〈私の死〉もまた〈無名の死〉の一つであるという共通の時間意識を導入することで,ハイデガーの時間論の修正を試みるものであったと見ることができるだろう.
それだけではない.リクールは「世代」の概念に続けて,今度は「痕跡」の概念を導入する.その眼目は,運動の時間の自律性を,(ハイデガーが論じたように)「派生」という仕方ではなく,「借用」という仕方において公共的時間に引き入れるということである.その点について検討していきたい.
なぜ「痕跡」の概念が重要になるのか.それは,有限な「私」という存在が世界に投げ入れられる以前から継起し続ける無限の時間への回路を,時間論の中に位置づけることができるからである.まずは,リクールが「痕跡」を「記号〔表徴〕=結果(un effet - signe)」(TR III, 177)として定式化するまでの立
論を辿る.比較的理解しやすいのは「結果」としての痕跡である.私たちが特定の活動を行うとき,そこでは何らかの「刻印(marquage)」や「残存物」が生み出される.ここで意味されているのは,「人間の移ろいゆく活動よりも堅固で耐久力のある媒体」(TR III, 176)が残存するという事実である.リクールはこのことを「痕跡自体が幾何学的空間に刻印される」(TR III, 182)と表現している.このように,人間の活動から直接的に生じてくるのが「結果」としての痕跡であり,こうした要素は,〈私たちが生まれるのは「先行者の世界」である〉というテーゼを含意していた先ほどの「世代」論の中にすでに含意されているものであった.
しかし,リクールが論じる「痕跡」の内実とはそれだけではない.「過ぎ去り(passage)は痕跡の動力学的な側面をよりよく表現し,刻印はそれの静力学的な側面をよりよく表現する」(TR III, 176)とリクールは述べる.他者の産物は残るのであるが,それを生み出した過去の他者は,過ぎ去ってしまうのである.そこでは,「刻印」としての痕跡に含意される「因果性(causalité)」(TR III, 177)とは別種の関係性を見出すことができる.「過ぎ去り」としての痕跡に固有の特徴,それをリクールは「有意味性(signifiance)」(ibid.)と呼ぶ.
[…]この有意味性は,過ぎ去りへと残存物を送り返すことによって構成される.そして,こうした送り返しは,ここに今残された跡と,過ぎ去った出来事との間の綜合を要請するのである.(TR III, 182)
ここで言われている「送り返し」とは,例えば地面に残された足跡を見て,その足跡を,〈誰かが何らかの目的を持ってここを通過した〉という出来事へと結びつける営みのことを指す.つまり痕跡は,すでに過ぎ去ってしまった出来事や対象を現わすということをせずに,そうした不在の何かを意味しうるのである 16.もちろん,こうした過去の探究のためには,足跡と人物の因果関係という要素が前提となっている.しかし,単なる因果関係に尽きない「歴史的過去の豊かさ」(TR III, 117)を間接的に意味し,また(直接的な因果性の探求においては要求されることのない)終わりなき過去の解釈を誘発するものであるような痕跡の特徴を,リクールが「記号〔表徴〕」という語において表現し
ているという要点は,押さえておく必要があるだろう 17.
さて,こうした特徴を持つ痕跡が過去の対象を指し示すのは,「合図を送る意図や,痕跡を志向対象とする計画の外部において」(TR III, 183)である.こうした「意図」や「計画」の外部において〈他者の過去〉を意味する痕跡は,
「現存在の時熟」(TR III, 117)から発するものではない.そうではなく,「痕跡によって導かれることを望むなら,他者の痕跡を前にして,自己自身の気遣いを消し去ってしまうような,そうした放棄や犠牲が可能でなければならない」
(TR III, 182)のである.こうした点に,リクールは,「気遣いの根本的な時間」
(TR III, 177)から派生させられることのない「通俗的時間」(ibid.)の論理的および存在論的先行性を認める.そして,こうした議論を背景にして,リクールはハイデガーの時間論に次のような解釈を加えるのだ.
日付可能であり,公共的であり,また延長するような時間の観念が,過去の痕跡の解読において本質的であることは疑いようがない.[…]時間内部性の単なる平準化と見なされている「通俗的時間」からさらに借用することをせずに,ハイデガーがそれ[時間内部性の特質を利用すること]に成功できたとは思わない.実際,通俗的時間を時間内部性に結び付けることなしに,痕跡の有意味性を彼が説明できたようには見えないのだ.(TR III, 179)
リクールにとり,ハイデガーの時間論において桎梏となっていたのは,〈他者の死〉,そして〈他者の過去〉という次元を導出することができないという点であった.だからこそリクールは,宇宙論的時間の特徴である「運動の時間の自律性」を「派生」させるのではなく,それを「借用」するという道を選ぶことで,「気遣いの時間と宇宙的時間とに平等な権利を与える」(TR III, 179-180)ことを図る.ここで言われている「借用」とは,死すべき人間の時間に先行する無限の時間という存在を不可欠な契機として時間論に導入するということである.そして,先ほど述べられた痕跡の有意味性とは,「二つの時間」が合流する「混合の時間(un temps hybride)」(TR III, 179)の中に存するものである.こうした点を背景にして,「純粋に現象学的な概念と,痕跡を辿り,遡る行為
にすべてを帰結させることのできる歴史記述の手続きとを一致させることは,歴史的時間の枠組みの中でしかなされ得ない」(ibid.)とリクールは述べるのである.
以上のような議論をもって,リクールは「無名の時間」および「混合の時間」という概念を導入することで,ハイデガーの時間論においてその位置を見出すことができなかった〈他者の死〉および〈他者の過去〉という次元を時間論に導き入れることを試みた.こうした意味において,現象学的時間と宇宙論的時間を架橋する「歴史的時間」の媒介的性格を構成するのは,まさに〈他者の死〉および〈他者の過去〉の次元であったと言える.こうした要素を明示的に取り出すことで,私たちは〈一体何が,「歴史的時間」を,「二つの時間」を媒介する時間たらしめているのか〉という問題に回答を与えつつ,さらに,「暦の時間」と「歴史的時間」を同一視してしまうという誤読の可能性をあらかじめ防ぐことができるのである.
だが,こうした中間の時間として浮上する「歴史的時間」,およびそれを具体化する「歴史記述」とは,現段階においては,未だに時間論の観点から理論上要請された形式的な媒介項に過ぎない.実際,その後の『時間と物語』第二篇の議論において,こうした歴史記述のより詳細な特質が展開されていくのであるが,〈そもそもいかなる契機によって歴史記述の営みが要請されるのか〉という問題について,リクールはどのように答えているのだろうか.こうした点について,リクールはまとまった仕方での回答を与えていないながらも,その手掛かりとなる記述を,『時間と物語』の各議論の中で提示している.そこで次節においては,何が歴史記述を要請するのかという問いにリクールのテクストから回答を与えることを通して,リクールの時間論を根底から支える根本的な要素――すなわち「負債(dette)」の概念――を導き出すことを試みる.こうした次節の議論を通して,本稿は〈一体いかなる資格において「歴史的時間」は「二つの時間」を媒介しうるのか〉という問いに答えることができるだろう.
まず,手がかりとなるのは,前節において検討した「世代」および「痕跡」をめぐる議論である.まずは前者の議論から検討をしていく.
リクールが「世代連続」という概念に重要性を見出すのは,そこに「世代が連続すること」(TR III, 169),すなわち生者が死者に取って代わるという事柄が込められているからである.リクールは次のように述べる.
[死への]間接的な思念のおかげで,世代の観念は,歴史が死すべき者たちの歴史であることを,執拗に思い起こさせてくれる.(ibid.)
かつて生者であった死者たちを記す歴史記述と,それを書き継いでいく生者たち.歴史的過去とは,死者たちの時間である.こうした歴史の時間を思念することができるのは,私たち自身が「生き残り」(ibid.)に他ならないからである.
それでは,私たちは一体いかなる暴力や災禍から生き残ったのであろうか.
『時間と物語』において,とりわけ象徴的な事例であるとリクールが見なしているのは,自らも従軍した第二次世界大戦下に起こったユダヤ人の大規模虐殺である.
アウシュヴィッツの犠牲者は,歴史上のあらゆる犠牲者をめぐる私たちの記憶においては,とりわけその代表者である.犠牲者を生み出すことは,いかなる「理性」の狡知も正当化しえず,歴史のどのような弁神論にも躓きであることを示す,歴史の影の部分である.(TR III, 273)
生き残った者としての意識.忘却に抗するべく,死者の存在を書き残そうとする叙述への意志について,リクールは『時間と物語』全体を通して次のように述べる.
苦難の歴史全体が報復を要求し,物語を呼び求めている.(TR I, 115)
決して忘れないという意志のみが,こうした重罪がもはや永久に繰り返さ
れないようにすることができるのである.(TR III, 275)
「生き残り」である私たちは,自らの存在論的条件として,「死者たちに対する歴史の負債」(TR III, 279)を不可避的に背負わざるを得ない.そして,そのような負債ある意識において,かつての生者であった「先行者」の歴史を書き,それを「後続者」へ語り継いでゆくという営みが,同じ時代を生きる「同時代者」の責務として生じることになる.
さらにリクールは,歴史記述の根本的な対象である「死者」の存在を,「単に歴史に不在の者としてではなく,その影によって歴史的現在につきまとって離れない者」(TR III, 170)として解する 18.歴史における不在の他者は,全くの非存在であるというわけではない.とはいえ,もちろんリクールにとって,過ぎ去った他者が同時代者の前に現前するということもありえない.そうではなく,死者と生者を繋ぐ細い線は,まさに形象を生み出す想像力(およびその実践)によって確保されるのである.他者の「欠如」を満たすのは「先人の形象(la figure)」(TR III, 171)であり,またそうした形象を生み出す「統合形象化(configuration)」の働きである.つまり,死者に形象を与えるという歴史記述の営みは,リクールにとっては「死者の追悼」(TR III, 143)という主題と無関係ではいられないのである.
こうした負債をめぐる議論を理解することで,私たちは次のリクールの記述を理解することができる.
死者への負債という観念,それも,過去において実際に何かが彼らに生じたという,肉体をもった人間への負債の観念が,史料研究に対して根本的な合目的性を与えることを止めてしまうとき,歴史はその意味を喪失する.
(TR III, 174-175)
なぜリクールはここで,「死者への負債」という観念が失われると歴史の「意味」が喪失してしまうと述べているのか.それは,そもそも過去の物語を呼び求め,歴史記述を要請する根本的な原理が「負債」に他ならないからである.すなわち,死者に対する〈負債ある意識〉の存在こそが,歴史記述という終わ
りなき営みを要請するである.
そして,こうした死者への負債という観念は,まさに〈無名の死〉と〈私の死〉を繋ぐ結節点である.かつて生者であった死者を書き記す営みは,いずれ後続の世代にも取って代わられる.世代連続の概念が思い起こさせるのは,私たちの負債が連綿と次世代に継承されていくということであり,また常に〈私の死〉でさえも〈無名の死〉として間接的な思念の対象となるということである.このような意味で,負債の概念とは,私的時間と公的時間の中間に位置する「無名の時間」においてこそ生じるものであると言えるだろう.
さらに,歴史記述を要請する負債という意識は,死者たちを無限の過去へと押し流してしまう宇宙の時間と緊張関係にある.リクールが指摘するのは,「生の脆さと,むしろ[生を]破壊する時間の力との間の対比から絶えず生まれ出る悲嘆」(TR III, 140)という感情である.
人間の条件についての哀歌は,嘆きと諦めを交互に転調させながら,存続する時間と過ぎ去る私たちとの対比を歌い続けた.もしも生の短さが,時間の無限の広がりを背景に浮かび上がらないとしたら,私たちは人間の生の短さを悼むだろうか?(TR III, 180)
ここでリクールが述べていることは,「死すべき時間の有限性と宇宙的時間の無限性」(TR III, 139)が相互に緊張関係にありつつも一つに融和する中間の時間,すなわち「混合の時間」においてこそ,生の短さを悼む「悲嘆」の感情や,過去の死者たちを追悼せんとする〈負債ある意識〉が生じる,ということである.
さて,私たちはここまでの議論において,次の二つの点を指摘することができる.一点目は,「二つの時間」を媒介する「歴史的時間」を生み出す「歴史記述」を要請するのが,「負債」の概念であるということである.そして二点目は,「歴史記述」を要請する「負債」の概念が生じるのは,「二つの時間」が重なり合うところに生じる「無名の時間」および「混合の時間」においてである,ということだ.一体なぜ,「歴史的時間」が「二つの時間」を媒介する性質を持つと言われるのか.それは,歴史記述を要請する負債の概念が,(「二
つの時間」が重なる)「無名の時間」および「混合の時間」において生じることによって,「二つの時間」を媒介するための性質が負債概念に備わっているからである.いかなる根拠によって支えられているわけでもない負債という概念が,突然「二つの時間」を媒介する資格を付与されるというわけではない.そうではなく,(A)負債の概念は,それがまさに「二つの時間」が緊張関係にありつつも相互に重なり合う中間の時間において生じるからこそ,「二つの時間」を媒介する資格を有しているのである.さらにまた,(B)負債によって要請される歴史記述が,ハイデガーの時間論において導出することのできなかった〈他者の死〉および〈他者の過去〉という二つの次元を兼ね備えることを通して,実際に「二つの時間」を媒介する機能を発揮しているということは,第二節において確認したとおりである.こうした議論を背景に,私たちは,「負債」の概念こそが,リクールの時間論を根底から支える根本的な要素であると主張することができるのだ.
本稿において私たちは,次の二つの問題提起を導きの糸とすることで,リクールの時間論の内実の解明を試みた.すなわち,(1)一体いかなる資格において「歴史的時間」は「二つの時間」を媒介しうるのか,という問いであり,もう一つは,(2)一体何が,「歴史的時間」を「二つの時間」を媒介する時間たらしめているのか,という問いである.
後者の問いに対し,本稿は第三節において,歴史記述が〈他者の死〉および
〈他者の過去〉という次元を導入することで,実際的に「二つの時間」の媒介を試みているという点を明らかにした.そして前者の問いに対し,本稿は第四節において,歴史記述を要請する負債という概念が「二つの時間」の中間の時間において生じることによって,「二つの時間」双方を媒介しうる可能性を有しているということを明らかにした.そして,リクールの『時間と物語』という著作が,まさにその題目が示しているように〈物語の詩学による時間性のアポリアへの応答〉という主題に取り組む著作であるならば,「二つの時間」を媒介する根拠として機能し,さらにそうした媒介を実際に行う歴史記述そのもの
を要請する「負債」という概念は,『時間と物語』の中で根本的な位置づけを
与えられていると結論づけることが可能だろう.
さらに,本稿においては展開することができないが,こうした負債の概念は,過ぎ去った過去の死者たちを表現する歴史記述の議論にのみ関わるのではなく,表象不可能な歴史的出来事を表象せんとするフィクションの議論においても登場し(cf. TR III, 279),さらには,可能的な世界を構想することを通して「正義」を実現するという『時間と物語』最終章の「歴史意識」論においても関連する概念である(cf. TR III, 313).こうした位置づけを念頭に置くならば,〈物語の詩学による時間性のアポリアへの応答〉および〈歴史とフィクションの交叉〉という二つの主題に取り組む『時間と物語』において,「負債」の概念は,
「二つの時間」を媒介する根本的な位置づけを有しているだけでなく,それを中心にして歴史とフィクションの交叉が行われる根本概念としての役割さえ担っていると言えるかもしれない.いずれにせよ,本稿が提示する議論において「負債」概念の射程を再検討することを通して,長大かつ難解な著作として知られる『時間と物語』を,より体系的な視座から解釈する道を示すことができるのではないだろうか.
1. 日本学術振興会特別研究員 DC1(東京大学大学院 総合文化研究科).なお,本研究は JSPS 科研費(課題番号:19J20389)の助成を受けている.[連絡先: hiroki.yamano1021@gmail.com ]
2. 本書は全三巻の著作であり,1983 年から一巻ずつ刊行された.本稿においては,Temps et récit, t.I: L’intrigue et le récit historique (Paris: Seuil, 1983)を TR I と略記し,Temps et récit, t.III: Le temps raconté (Paris: Seuil, 1985)を TR III と略記する.
3. 煩雑さを避けるために,今後本稿において「二つの時間」と表記するときは,常に「現象学的時間と宇宙論的時間」を指すものとして使用する.なお,こうした「二つの時間」の分裂が引き起こす「時間性のアポリア」について,より詳しくは久米博『テクスト世界の解釈学——ポール・リクールを読む』新曜社,2012 年,216-232 頁を参照されたい.
4. リクールはここで「詩的」という語と「思弁的」という語を対比させており,「思弁的」な解決を図ろうとしても,かえって時間性のアポリアは増大するだけであるとの主張を行っている.リクールは「詩」という概念に「ポイエーシス(制作,産出)」
の語義を与えており(cf. 杉村靖彦『ポール・リクールの思索――意味の探索』創文社, 1998 年,75 頁),彼が「思弁」と対比する形で「詩」という語を用いるときは,存在の可能性をもたらす言語の創造性を念頭に置いているものと思われる.この点については,特に K. J. Vanhoozer, Biblical narrative in the philosophy of Paul Ricœur: A study in hermeneutics and theology, Cambridge: Cambridge University Press, 1990, p. 7 を参照されたい.
5. Cf., Olivier Mongin, Paul Ricœur, Paris: Seuil, 1994; Johann Michel, Paul Ricœur, Une philosophie de l’agir humain (Passages), Paris: Cerf, 2006; Steven H. Clark, Paul Ricoeur, London: Routledge, 1990; Karl Simms, Paul Ricoeur, London: Routledge, 2003; Jean Grondin, Paul Ricœur, Paris: Presses Universitaires de France, 2013.
6. C. Bouchindhomme et R. Rochlitz (dir.), « Temps et Récit » de Paul Ricœur en Débat, Paris: Latour-Maubourg, 1990.
7. William C. Dowling, Ricoeur on Time and Narrative: An Introduction to Temps et récit, Notre Dame, Indiana: University of Notre Dame Press, 2011.
8. たとえば Bubner は,リクールの「歴史とフィクションの交叉」という議論そのものが,歴史記述の独自性を喪失させてしまいかねないという根本的な批判を行っている(p. 39)が,そうした問題提起を行う Bubner でさえも,〈なぜ現象学的時間と宇宙論的時間を媒介する要素として歴史記述が要請されるのか〉という点に着目しているわけではない(Rüdiger Bubner (trad. fr., Ch. Bouchindfomme et R. Rochlitz), « De la différence entre historiographie et littérature », dans « Temps et Récit » de Paul Ricœur en Débat, Paris:
Latour-Maubourg, 1990, p.39-55.).こうした傾向は Bubner に限らず,多くの論者が,
〈歴史的時間が現象学的時間と宇宙論的時間を媒介する〉,〈時間性のアポリアを詩的に解決する〉というリクールのテーゼを解釈の対象とせずに,そのまま受け取ってしまっている現状がある(cf., Vanhoozer, op. cit., p. 91; Mongin, op. cit., p. 152; Simms, op. cit.,
p. 83; Dowling, op. cit., p. 35.).また,リクール哲学を統合的に理解する視座を提示した杉村の著作においてさえも,『時間と物語』における「時間論」は「別の大きな論考」(105 頁)において答えられるべき問題であるとされている.
9. 人間の意識と相関する仕方で現出する「現在」は,「現象学的時間」の主要な特質である.
10. 人間の意識から独立する仕方で自律する「天体の運動」は,「宇宙論的時間」の主要な特質である.
11. リクールは「歴史的時間」と「歴史物語」の関係性を非常に近いものとして理解している.例えば,リクールが「歴史的時間」について議論する際には,それを理解にもたらすところの「歴史物語」の存在も前提になっており,反対に,「歴史物語」について議論する際には,それによって具体的な輪郭を帯びる「歴史的時間」の存在も前提になっている.リクールはこうした事態を「物語による時間の統合形象化」(TR III, 350)と述べているのだが,この点については,北村清彦『藝術解釈学――ポール・リクールの主題による変奏』北海道大学図書刊行会,2003 年,125-133 頁を参照されたい.
12. Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag, Tübingen, 2006. 以下,SZ と略記を行う.なお,本稿においては,高田珠樹訳(2013 年)を参照しつつ訳出を行っている.
13「.
14「.
世界時間」の特徴について,詳しくは峰尾公也『ハイデガーと時間性の哲学――根源・派生・媒介』溪水社,2019 年,21-25 頁を参照されたい.
通俗的な時間概念」とは,「主として自然科学の領域で「時間」という言葉で理解されてきたもの」(峰尾,前掲書,13 頁)であり,「時間性のアポリア」という主題で
論じられるところの「客観的時間」を指す言葉である.
15. リクールは,(可能的なものを表現する)「フィクション物語(récit de fiction)」と対置される「歴史物語(récit historique)」という語を,「歴史記述(historiographie)」の営みを指すものとして用いている.リクールの「歴史記述」論に関して,より詳しくは山野弘樹「リクール『時間と物語』における「比喩論的アプローチ」――「歴史記述」のフィクション性をめぐって」『哲學』日本哲学会,第 71 号,2020 年,243-543頁を参照されたい.
16. リクールは,こうした〈不在の対象を,現わさないという仕方で意味する〉という洞察を,エマニュエル・レヴィナスの論文(1972 年)における「現出させずに,意味する(signifier sans faire apparaître)」(Emmanuel Lévinas, Humanisme de l’autre hommme, Paris: Livre de poche, 1987, p. 65.)という表現から獲得している.しかし,リクールが論じる「痕跡」概念とレヴィナスが論じる「痕跡」概念の間には大きな相違点があることも事実である.
17. ここでリクールが,絶えざる解釈の対象となるところの痕跡を「記号」と表現するのは,客体化された精神の諸作用を「記号」として論じたジャン・ナベールによる影響が大きいと思われる.この点について,詳しくは越門勝彦『省みることの哲学――ジャン・ナベール研究』東信堂,2007 年,52,98 頁,および杉村(前掲書,64-67 頁)を参照されたい.
18. このように,「死者」を単なる「不在者」に還元してしまわない姿勢は,ミシェル・ド・セルトーの「不在者(l’absent)」論に対する批判の意味も込められていると思われる.リクールとセルトーの関係について,たとえば佐藤啓介「物語の後で――『時間と物語』から見た『記憶・歴史・忘却』」『フランス哲学・思想研究』,日仏哲学会,第 13 号,2008 年,32-33 頁,および川口茂雄『表象とアルシーヴの解釈学――リクールと『記憶,歴史,忘却』』京都大学学術出版会,2012 年,87-95 頁を参照されたい.
Clark, Steven, 1990, Paul Ricoeur, London: Routledge.
Dowling, William, 2011, Ricoeur on Time and Narrative: An Introduction to Temps et récit, Notre Dame, Indiana: University of Notre Dame Press.
Greisch, Jean, 2001, Paul Ricœur. L’itinérance du sens, Grenoble: éd. J. Million, coll « Krisis ».
Grondin, Jean, 2013, Paul Ricœur, Paris: Presses Universitaires de France. Michel, Johann, 2006, Paul Ricœur. Une philosophie de l’agir humain (Passages),
Paris: Cerf.
――――, 2013, « L’énigme de la « représentance » », dans Paul Ricœur: penser la
mémoire, François Dosse et Catherine Goldenstein (dir.), Paris: Seuil, 277-290.
Mongin, Olivier, 1994, Paul Ricœur, Paris: Seuil. Simms, Karl, 2003, Paul Ricoeur, London: Routledge.
Vanhoozer, K. J., 1990, Biblical narrative in the philosophy of Paul Ricoeur: A study in hermeneutics and theology, Cambridge: Cambridge University Press.
Wood, David (ed.), 1991, On Paul Ricoeur: Narrative and Interpretation, London: Routledge.
川口茂雄,2012,『表象とアルシーヴの解釈学――リクールと『記憶,歴史,
忘却』』京都大学学術出版会.
北村清彦,2003,『藝術解釈学――ポール・リクールの主題による変奏』北海道大学図書刊行会.
越門勝彦,2007,『省みることの哲学―ジャン・ナベール研究』東信堂.
佐藤啓介,2008,「物語の後で――『時間と物語』から見た『記憶・歴史・忘
却』」『フランス哲学・思想研究』日仏哲学会,第 13 号,29-38.
杉村靖彦,1998,『ポール・リクールの哲学――意味の探索』創文社.
山野弘樹,2020a,「リクール『時間と物語』における「比喩論的アプローチ」
――「歴史記述」のフィクション性をめぐって」『哲學』日本哲学会,第
71 号,243-253.
――――,2020b,「読書行為の存在論――リクール『時間と物語』における「フィクション」論をめぐって」『哲学の門: 大学院生研究論集』日本哲学会,第 2 号,176-188.