2021 年 2021 巻 48 号 p. 214-232
バーナード・ウィリアムズの道徳システム論再考
渡辺 一樹
道徳 (morality) とは何か.道徳は,日常の場面で語られるとき,我々の規範性の中心にあるように思われる.それは,他者との関係において守るべき規範一般として響く.しかしそれは,なにか特別な規範なはずである.誰もが守るべき規範,理性的になれば従うべき規範,利己的な判断では侵せない規範,といった含意があるように思われる.
本稿は,このような特別な規範としての「道徳」の特質を分析することを目的とする.この作業を行うにあたって我々は,現代倫理学を代表する道徳批判者である,バーナード・ウィリアムズのテクストを繙く.分析にあたっては「狭義の道徳に特有な性質とは何か」というポイントに注意しつつ 1,我々は,日常において漠然と中心的規範とされていた道徳が持つ,特別な諸性質(道徳の三要求)を明るみに出す 2.ここにおいて道徳 —— ウィリアムズはこれを道徳システム (the morality system) と呼ぶ —— は,倫理的な道具をきわめて強いかたちで運用するシステムであると分析される.
本稿は以下のような構成になっている.第一節では,予備的な分析を行う.倫理と道徳の区別を示しつつ,そこで区別される道徳に通常そなわるとされる
「義務」「意志」「非難」の三項を分析する.第二節では,かかる三項の分析に対する批判を紹介したうえで,三項の道具立てそれ自体は道徳の特徴ではないことを示す.そして第三節では,道徳の特徴とはむしろ,三項を運用する仕方にこそ現れると論じる.その運用とはすなわち,道徳の三要求(「不偏性要求」
「合理性要求」「特別権威要求」)であると分析される.三要求の問題(過剰要求性)と起源(運の排除の理想)を紹介したあとで,第四節では,道徳が要求する「不偏性」と「合理性」について論じる.この「不偏性」「合理性」も,
道徳によって強く解釈されたものであることが確認される.
倫理と道徳の区別
道徳の分析にあたって,本稿ではウィリアムズに倣い,広義の倫理 (broad ethics)と狭義の道徳 (narrow morality) の区別を導入する.まず,広義の倫理とは何であろうか.これは「いかに生きるべきか?」という問いに関して,他者の要求や生を考慮しつつ答える規範であるとされる (この意味において,倫理と鋭く対立するのは,他者の生や要求を全く考慮しない利己主義である) (ELP: 13).倫理がこのような他者との関係を踏まえた規範だとすると,そこには,本性的な曖昧さと多様性がある.他者を考慮しつつ生きる規範は多様にありうるからである.典型的には,そこで考慮する「他者」を誰とするかについての曖昧さがある (ELP: 16).家族から,共同体,あるいは人類,動物全体まで,様々な他者がありうる.ここで誰を他者とするにしても,倫理であることには変わりがない.例えば,ヤクザの「任侠」のような,ヤクザ社会のみで通用する規範も倫理的規範であると言える.このように,曖昧で多様な形態でありえ,他者との関係の中で生き方の指針となるような規範をウィリアムズは広義の倫理と呼ぶのである.
そうであるとすれば道徳は,倫理と一致するものではなく,むしろ倫理の一種だということになる.ヤクザの規範のことを通常我々は「道徳」とは呼ばない 3.だとすれば,道徳とはいかなる規範(倫理)であろうか.本節ではこの問いに集中する.
それでは,狭義の道徳とは何であろうか.ウィリアムズが考える道徳が発動する典型的な場面とは以下のようなものである.我々が池で溺れている子供を見たとしよう.すると,その子を助ける道徳的義務が生じる.その子を助けない人は義務違反者として,道徳的に悪い人間だと道徳的に非難される.その一方で,たとえ助けられなくても,義務に従って行為した人は道徳的に善い人間
だとされる.彼は義務に従おうと道徳的に意志したからである 4.
かくして道徳とは,第一に,特別な義務 (道徳的義務) に着目する規範である (ELP: 7, 193).道徳的義務があることは,単に義務 (e.g. 職業的義務) があることと区別されるだろう.例えば,諜報員の職業的義務として守秘義務があるにせよ,国家的犯罪を秘匿する道徳的義務があるとまでは言えないだろう.このように考える時の「道徳的義務」は,「不可避性」「定言性」「合理性」の三つの性質を持っているとウィリアムズは分析する.
①不可避であるとは,つまり,ひとたび課された以上,それを恣意的にキャンセルすることはできないということである (ELP: 200–201).約束を眠いからといって破る人間は,道徳的非難を受けることになる.道徳的義務をキャンセルできるのは,むしろ,それよりも一般的な道徳的義務が課される場合である.例えば,約束の場所に向かう途中に足を挫いて倒れている老女を見かけたとする.彼女を助ける義務は,個別の約束を守る義務より一般的なので,約束をキャンセルしても非難を免除されるし,むしろ称賛されるだろう.②定言的であ るとは,つまり,義務は個人の欲求とは関係なく課されるということである (ELP: 198).約束を守る義務や老女を助ける義務は,それに対する欲求がいかに欠けていようと,万人に課されうる.③合理的であるとは,つまり,道徳的義務がある時,それに従う「理由」があり,合理的な主体であればその「理由」に従うということである (ML: 122).合理的な人間は道徳的義務に従うという想定がここにある.
道徳は,特殊な義務だけでなく,特殊な意志にも注目していた.我々は,ある人の意志が善い時,その人は道徳的であると言い,行為の結果よりも意志(意図・動機・行為の理由)の方に着目する (ELP: 214).つまり,運悪く不幸な結果をもたらしたとしても,意志が善良であればその行為は道徳的な非難を受けないのである.このような道徳的意志(善意志)にもいくつかの特徴がある.その意志はまず,①合理的である必要がある (cf. MSH: 245–6).すなわち,従うべき理由に応答している必要がある.実際,この合理性によって,道徳的意志は合理的熟慮者しか持てないものである.ある種の精神疾患者や動物といった存在は道徳的意志を持てないものとされている.それは第二に,②(合理的で ある限り)無条件的である.道徳的意志とは,合理的でさえあれば(理性さえ
あれば)誰しもがアクセスできる意志なのである.かくして,善意志は構成的運(生来の性質)に依らない (ML: 20–21; ELP: 210)5.道徳的意志は,最後に,
③行為・人間性の評価として特別な権威を持つ (ML: 21).意志が善良である限り,行為の偶然的な結果(不運)は彼の行為・人間性の評価に影響しづらい.意志(意図や動機)の善さが行為・人間性・責任の評価の基礎を構成するのである 6.
道徳には,また,特別な非難がある.道徳的非難は,道徳的義務や道徳的意志の説明においてすでに大きな役割を占めていた.例えば,道徳的義務への違反は道徳的非難を喚起するし,道徳的非難は意志に注目するのだった.さて道徳的非難は,まず,①自由意志を対象とする (MSH: 72).投薬によって強制的にした行為など自由意志に依らない行為は一般的に道徳的非難の対象とならない.道徳的非難は,次に,②合理性と関わる.すなわち,合理的熟慮や道徳的理由(義務)に応答しなかった自由意志が道徳的非難の対象になる (MSH: 246; ELP: 214–5).重度の麻薬中毒者などといった,理由応答性がない(e.g. 理由の認識がそもそもできない)人びとの行為は道徳的非難の対象とはならない一方,理由応答性がありながら応答しなかった行為者は不合理だとして非難される.最後に,(二点目から)③道徳的非難は,運に対する免疫を持っている.自由意志が理由応答的であるか否かは,行為の事前的要素(行為前の要素)である.道徳的非難は,かくして,事前的な合理的熟慮(理由応答的か・道徳的意志を持つかどうか)に着目するので,行為の事後的な運は彼の行為・人間性の道徳的評価に影響しづらいのである (MSH: 245–6).
予備的分析へのひとつの批判
ここまで,道徳の中核となる三項(義務・意志・非難)に即して道徳の性質を分析してきた.道徳的義務には不可避性・定言性・合理性があり,道徳的意志には評価における特別な権威・不偏性・合理性があり,道徳的非難には自由意志・運への免疫・事前的合理性がある.我々は,ここから,道徳とはこのような諸性質を持った義務・意志・非難を重視する規範であると言いたくなるし,
じっさい,道徳システムについてのウィリアムズの語りは,そのような主張に
聞こえる.
だとすると,しかし,ひとつ疑問が生じる.功利主義 (utilitarianism) は,ウィリアムズも認めるように,このような義務・意志・非難を中核に据えないからである (ELP: 197–8).功利主義は,義務・意志・非難に内在的価値を認めず,手段的価値しか認めないだろう.それでもなお,功利主義は現代において主要な道徳理論だと認められている.それどころか,功利主義は,「典型的な」道徳理論のようにも思われる.そうだとすると,功利主義をうまく扱えないことは,ウィリアムズの道徳システム分析にとって問題であるように思われる(Clark [2015] p.48).
この問題についてのウィリアムズじしんの回答は,功利主義者も実践的には,前理論的に道徳システムを内面化している,というものである (ELP: 198, 204).すなわち,功利主義者はたいてい,それが功利主義理論によって要請されていなくても,道徳的義務を認めるし,道徳的意志を重視するというわけである.本稿はしかし,ELP でのウィリアムズの回答にコミットしない.本稿はむし ろ,ウィリアムズが他の論考において示唆している道徳の分析に注目することで,功利主義も道徳システムの典型であることを示そうと思う.予告すれば,道徳システムの特質は,その道具立て(義務・意志・非難)ではなくむしろ,その道具の運用において現れるという解釈を本稿は示す.そして,この運用に注目することで,功利主義も道徳の特質に強くコミットすることを示すことが
できると考える.
本稿の解釈を論証するにあたって,まず,道徳の道具立てはその特質ではないことを示す必要がある.つまり,義務・意志・非難という道具立て自体は,道徳とは関係なく成立しうるし,重視されうるということを示す必要がある.このことは,しかも,ウィリアムズじしんが強調するポイントでもある.ウィリアムズは義務・意志・非難,それぞれについて,それが道具立てとしては道徳とは異なる仕方で運用されることを認めている 7.
まず,義務については,日常的な義務というものが語られる (ELP: 202).そ
れによれば,義務とは,ほんらい,人びとが互いをある程度信頼して共存するためのシステムである (ELP: 205).というのも,義務は,倫理的に重要な考慮を,行為者の熟慮において優先させるシステムだからである.「緊急時には積極的に助け合う(積極的義務)」とか,「互いの基本的権利を害さない(消極的義務)」とか,「おこなった約束を基本的に守る(約束遵守義務)」といった倫理的に重要な考慮は,共存のためには,基本的に守られる必要がある.それが守られていると信頼するためには,こうした考慮が,各人の熟慮において優先権を与えられていると考える必要があり,その可能性を担保する制度が義務なのである (ELP: 205–8).
このような倫理的制度としての義務は,道徳的義務とは異なる.倫理的義務においては,義務よりも倫理的に重要な考慮がありうる余地を認められるので,義務のキャンセルは,より一般的な義務を想定せずとも可能なのである (ELP: 208).友人との約束の場所に向かう途中で,どうしても無視することができない政治的抗議運動を見かけた主体が,その抗議に参加する義務はないのに,どうしても参加してしまうことは倫理的に健全でありうる.同様に,イプセンの戯曲『人形の家』で,主人公のノーラは,彼女を束縛する家父長的な文化に耐えかね,幼い子供や夫といった全てを捨てて家を出る決意をする (イプセン [1996] pp. 163–6) .社会の中で共存する限りにおいて,彼女に家出をする義務はない.それでも,彼女は,じぶんと他者との関係性を熟考する限り,家出をす
るほかないと考えている 「(
わかっているのは,こうしなくちゃならないってこ
とだけよ」).これは,彼女が他者と共存する仕方において,実践的な必然性 (practical necessity) を帯びた倫理的決断である.彼女は,あくまでも倫理的主体として,自分の子供に対する義務を乗り越えて家出することができるのである (cf. ELP: 208–9).彼女の決断はひとつの倫理として理解可能だし,それが単に利己的でない決断だからこそ,彼女の物語は我々の心を打つのである.かくして,倫理的にミニマムなレベルでの義務は,道徳的義務に特有の不可避性を要求しないことがわかる.
意志も,義務と同様に,道徳に特有の道具立てではない.ウィリアムズは,古代ギリシアには真正の「行為の理論」がないという議論に抗しつつ,ホメロスの叙事詩やギリシア悲劇の登場人物たちに現れる,意志・意図・熟慮を描き
出している (SN: 40, 50).くわえて,人間の責任を理解するには,四つの要因(原因性・意図・行為者の状態・行為への反応)が基本的に必要であり,ホメロスにはすでにこの四つの要因すべてが現れていると論じている (SN: 55).道徳的意志において重要になるのは意図であるが,意図への注目それ自体は『オデュッセイア』にも現れている.ウィリアムズは,『オデュッセイア』においてテレマコスが,自らの意図を説明することで弁明する場面に注目する (SN: 50–1).行為の意図への注目は,倫理的に重要なものである.テレマコスが意図的に行為したか,非意図的に行為したかによって,彼とオデュッセウスの関係は決定的に変化するからである (SN: 55–6) (Queloz [2020] p. 9).このように,意図・意志・理由への注目といった実践自体は,道徳に特有ではない.
むろん,非難も道徳的非難とは離れたかたちで存在する.これはまず,歴史的に考えれば理解できる.古代ギリシアでは,行為の責任を考える際に,近代ほどには意図や意志を重視しない (SN: 66–7).このような歴史的差異をふまえれば,意図や意志にこそ「真の責任」が存在すると考えるのは誤りであり (SN: 67),非難・責任それ自体は道徳だけが占有するものではないとわかる.非難が道徳的非難とは別様にありうることは,また,古代に遡らずとも理解できる.というのも,日常的な非難は,行為者の自由や合理性を超えてしまうことがありうるからである.道徳的非難が自由意志や理由応答性を前提するのに対して,ふつうの非難は,このような自由意志や理由応答性を想定しなくても可能である (MSH: 40).例えば,ある主体が自由でなかったとしよう.彼の性格や動機を考えると,どうしようもなく,ある種の行為をしてしまうとする.この時,それが悪い行為であるとき,我々はやはりそれを非難するだろう 8.例えば,自分の妻に対してどうしようもなく暴力を振るう夫は,いかに彼に理由応答性がなかろうと,彼が妻に対して優しくすることが不可能であろうと,やはり非難される (MSH: 39).ウィリアムズによれば,非難とはそもそも倫理的な制度である.それは,何らかの害が起きたときに被害者からの請求に補償するものであり (SN: 63–4),あるいは,加害者を矯正・説得するための制度である (MSH: 15, 73–4)9.
以上で明らかなように,義務・意志・非難それ自体は,道徳とは別様に存立しうる倫理的な道具立てである.どれも,人びとが互いに共存するために倫理
として編み出した制度であると言える.そうだとすれば,道徳の特異性は,その道具立てにあるのではない.
道徳の三要求
道徳的義務・意志・非難は,それが使う道具立てとしては倫理に起源を持つものであり,道徳の特異性はそこにはない.道徳の特異性はむしろ,そうした倫理的な道具立ての運用の方にある.ウィリアムズは,そのような特異な運用を各所で示唆している.その運用の特異な諸性質を見定める必要がある.
そのひとつは,不偏性 (impartiality) の要求である.すなわち,道徳は義務・意志・非難の運用において,不偏性 —— 誰しもが偏りなく同じであること(公平であること)—— を要求している.道徳的義務は定言的義務として,個人の欲求に関わらず一様に課されるのであった.また,道徳的意志は,誰しもが公平にアクセスできる無条件的意志として想定されていた.あるいは,道徳的非難が自由意志に注目するのは,「自らの力のうちにあるものについてのみ非難されるべき」という「公平の概念」に従っている (MSH: 72, 75).つまり,自由意志とは,誰しもが偏りなく一様に持てる意志であり,それを基準に非難を決定することが要求されているのである.
第二に,合理性 (rationality) の要求が道徳には現れていた.合理的であれば義務に従う理由があるとか,事前に合理的であったかどうかによって道徳的非難が決定されるという構造があった.合理性と道徳には密接なつながりがあるという想定がある.
第三に,こうした不偏性・合理性について,特別な権威を与える要求がはたらいていた.定言的義務は(当人の欲求と関係なく)不可避的なものとして想定されていたし,道徳的意志の評価は,人間性・行為の評価において決定的な重要性を帯びるのだった (cf. 本稿注 6).あるいは,道徳的非難というのは非難のうちでも,特別なカテゴリーであると想定されがちであることにも注目できる(cf. MSH: 243–4).例えば,社会的に非難を受けている人物について,「あなたへの非難は,個人的な好き嫌いは抜きにして,道徳的なものである」など
と言う時,道徳的非難の不偏性が特別な権威(個人的な非難が持ちえない権威)を持っていることが含意されているように思われる.
以上のように,道徳は義務・意志・非難の運用において,不偏性要求・合理性要求・特別権威要求の三つに従っていることが示唆される 10.不偏性・合理性・権威というのは,道徳理論においても実際に重視されてきた性質である.その純粋な表現は,ウィリアムズも指摘する通り,カントの道徳理論において現れているし(ELP: 194),先に問題となった功利主義も,理論的にこれらにコミットしているように思われる.というのも,功利計算は功利を平等に扱う不偏的な視点を要求するし(不偏性),その不偏的視点から行為選択することの合理性やその不偏的視点に基づいた決定の,個人的プロジェクトに対する優位
(特別権威)を要求しているように思われるからである (UFA: 104).そうだとすれば我々は,三要求の分析において,功利主義も含めた「道徳」特有の性質の析出に成功したことになる.
道徳の特異性が,三要求にあるとしよう.あらゆる道徳の基礎には,この三要求が内在している.かくして,道徳とは,倫理にそなわっていた道具立て(e.g.義務・意志・非難)を,それを通じて三つの要求が満たされるように運用するシステムだと特徴づけられる.そうだとして,①この三要求はいかなるもので,
②なぜそのような三要求が内在しているのか.これらは三要求による道徳の分析を行うにあたって説明が必要であろう.
この三要求の特徴について言えば,それは過剰要求的 (overdemanding) である 11.まず,三要求によって倫理的道具立てを運用することで,ほんらい乗り越え可能であった義務が不可避なものとされてしまう(ELP: 208).道徳的義務それ自体は不可避であり,義務以外のいかなる考慮によってもそれをキャンセルすることができないという思考は,先にみたノーラのような実践的必然性(家出しなければならない)を疎外するだろう.つまり,彼女の性格と世界との関わりにおいて必然的な選択肢 (ELP: 209–210)を,道徳は,たんに不合理なものと切り捨ててしまうだろう.
あるいは,不偏的な自由意志が非難の必要条件とすることも過剰要求的であ
る.自由意志(e.g. 他行為可能性)が非難の必要条件だとする思考は,自由意志論争(決定論)というかたちで,倫理的な非難の道具立てを圧迫している.というのも,自由意志が非難や責任の必要条件とされながら,それが実際には存在しないと指摘されることで,非難や責任そのものが不可能であると主張されるからである.
その主張において,非両立論者 (incompatibilist) は,道徳的な,強い不偏性にコミットしている.彼らは,倫理的責任は自己原因的でなければならないとか (Strawson [1998]),他行為可能性を含意していなければ責任を問うことはできないと主張する (cf. Frankfurt [1988] p. 1).しかし,非両立論者に反して,非難や責任は,他行為可能性といった自由意志(強い不偏性)を前提しない.典型的には,実践的に必然的な行為も責任を問えるからである (MSH: 19).例えば,ルターが自説の撤回を求められた時に「他に何もすることができない」と言ったように,性格やアイデンティティからして必然的な行為というのがある(あるいはそもそも他行為が考慮に現れないこともある)(ML: 130–131).このように実践的に必然的な行為は,必然的だとしてもしかし,責任を問いうるのである.ルターは,撤回することがどうしても不可能であったが自らが撤回を拒否することについて責任を持てる.また,我々はその必然的な行為について非難あるいは称賛といった道徳的評価を行うだろう 12.かくして,道徳的非難(意志)は,強い不偏性を前提してしまう点で,道徳的義務と同じく,過剰要求的であることがわかる.
道徳の三要求は,しかし,いかなる起源を持つのだろう.なぜそんな要求がなされるのか.これは,道徳についての系譜学的主題であり,慎重な分析が必要とされるだろう 13.ウィリアムズじしんの回答は,道徳は,「ひとの生が運を超えて究極的に正しくありうる」という理想を達成するために創出されたというものである(ML: 21; ELP: 217).すなわち,生来の気質 (構成的運),行為の見通せない結果 (認識的運) に関わらず,ひとが道徳的に生きる限り,その生は究極的に正当化されるという理想である.じっさい,三つの要求によって道徳が創られることで,この理想が果たされる.というのも,道徳が,価値を合理的・不偏的な範囲に局限し,その価値に最高の権威を与えることで,ひとは誰でも,合理的である限り,究極的に正当化された生を送ることができるから
である.
この理想についてウィリアムズは,後年の著作で社会政治的な文脈を補足している (SN: 65–6).ウィリアムズによれば,このような理想が近代において強まり,かくして近代道徳の特徴を構成するに至ったのには,近代国家とその法執行の権力がかつてないほどに極大化したという事情がひとつある.国家と法の範囲・執行力が拡大するにつれて,個人が運に左右されずに最大限自らの生をコントロールするという意味での自由が重要になったのである 14.このような政治的背景のなかで,近代において,運に影響されずに自らの生をコントロールすることが重要になったのである.
問題設定: 不偏性と合理性の何が問題か?
以上の記述をまとめたうえで,残された課題を見定めよう.運を超えて正しく安全な生を送りたいという理想がある.人びとの規範であった「倫理」を,不偏性や合理性から道徳へと再構成し,それに権威を与えることで,ひとは道徳的である限り,正しく安全な生を送るようになる.とはいえ,このような道徳の要求は過剰要求的であった.例えば,道徳的義務の特別な権威は人びとの倫理的な実践的必然性を疎外するし,不偏的な自由意志を責任の必要条件だと誤解してしまうのであった.しかし,ここでひとつ疑問が生じる.不偏性や合理性というのは,我々の倫理的思考にとっても重要なリソースなはずである.我々が共存して生きるうえで,不偏性も,理性をはたらかせることも,ともに必要である.にもかかわらず,なぜ道徳を不偏的・合理的に運用することが問題になるのか.不偏性・合理性の価値を信じる人びとにとって,このことは疑問を生じさせるはずである(Chappell & Smith [2016] §4).
不偏性・合理性が直観的には重要な考慮だとすれば,道徳システムの不偏性・合理性要求の何が問題なのか.この疑問にたいしてウィリアムズは,「道徳システムを構成する不偏性・合理性はきわめて強い解釈をとっている」という指摘をしている,と本稿はみる.すなわち,道徳システムを駆動する不偏性・合理性は,我々が倫理において重視するような不偏性・合理性を超えてしまって
いるのである.そのうえでウィリアムズは,道徳的な強い不偏性・合理性の解釈にコミットしない,倫理的な弱い不偏性・合理性を示そうとしているように思われる.
まず,不偏性については,ウィリアムズは日常的な不偏性を認めるように思われる.互いが共存しておく倫理の範囲内において,不偏的な思考はある程度必要とされるからである.じじつ,ウィリアムズは,利己主義と利他主義の差異を論じる際に,自らの欲求・共感の対象を拡張していく利他主義の可能性について語っており(PS: 265),これは日常的な不偏性として捉えられるように思われる.この不偏性は,「拡張的」な視点である.すなわち,日常的な配慮・視点の対象を拡張したり,自らの倫理的態度における偏見を取り除いたりして得られる視点である (cf. PHD: 75).
これに対して,道徳理論は往々にして,「絶対的」な不偏性を志向してしまう.それは,通常の配慮とはまったく区別される.例えば,カントにおいて,通常の欲求・配慮と,道徳的な不偏性・合理性との間は隔絶している (PS: 260, ML: 1–2).あるいは,功利主義においては,個人のプロジェクトとはまったく隔絶された「宇宙の視点 (the point of the view of the universe)」のような不偏的視点(e.g. 関係者の功利を平等に扱う視点)が要請される(MSH: 169).このような不偏的視点が,個人の内的なプロジェクト(内的視点)とまったく対立している時,功利主義は, そのような内的視点をあたかも外から眺めつつ,それを犠牲にするように要求するだろう (UFA: 100, 116–7).例えば,功利主義は,化学兵器研究への反対を信条としてきた化学者に対して,参加しなければもっと熱心な人物が研究を進めてしまうかもしれないとして,兵器研究プロジェクトに参加することを求めるかもしれない (UFA: 98–99).この要求によって脅かされる彼じしんのアイデンティティやインテグリティといったものは,不偏的視点からは,単に世界に現れる苦痛のようなものとしか扱われないだろう (UFA: 116).
カント主義においても,功利主義においても,道徳理論は,個人の内的視点
とは隔絶された不偏的視点(「永遠の相のもとに (sub specie aeternitatis)」[ELP:
123])を要請して,そこから価値・規範を決定しようとする.つまり,道徳は,個人の内的視点といったものは偶然的視点でしかないと考え,それと隔絶した,絶対的な不偏的視点を立てようとする.ウィリアムズは,道徳が要請する,かかる不偏的視点を,倫理の決定的な誤解だと考えて否定しようとする(cf. PS: 226; MSH: 169–170).
また,合理性についても,不偏性と同様の問題がある.定言的義務が個人の欲求と関わりなく課され,義務が理由・合理性と関わるならば,個人の欲求と義務に従う理由・合理性は関わらないことになる.このような道徳に関わる合理性は,個人の内的な動機と関わりないという意味で,外的な合理性(不偏的 な合理性)である (ML: 105–6).このような合理性は,じっさい,道徳理論と深くむすびついているように思われる.例えばカント的な合理性は,個人の内的な欲求・感情と隔絶されたレベルではたらくものであるし,功利主義は不偏的な視点から個人のプロジェクトと関わりなく,何らかの行為を命じるのであった 15.道徳・道徳理論には,外的な合理性の概念がそなわっているように思われる (ML: 122–3; WME: 216).
これに対して,ウィリアムズは,道徳や道徳理論にくみさない理由・合理性概念にとどまろうとする.それは,個人の内的な動機(主観的動機群)とのアクセスを保とうとする内的理由・内的合理性である (ML: 106–113).個人の内的な動機と関わらない外的理由・外的合理性とは異なり,内的理由・内的合理性は,個人の行為を説明することができる 16(ML: 102).あるいは,理由があるとまさに言われているそのひとについて特有の理由を語ることができる (WME: 191–4).このように,外的理由は,それが外的なものである限り —— 特定の個人の動機に言及しないものである限り —— 特定の個人のもつ理由についての説明・権威であるという点で問題を抱えるのである.例えば,外的理由論者は「思慮ある者ならばφする理由がある」という外的理由言明を考えうるが (WME: 189–190),このような外的理由言明は,「思慮がない人」にとっては権威を持たないだろう (WME: 190).「φする理由」に,「まさにそのひとがφすべきだ」という規範性・権威を持たせるためには,理由言明が当てはまる個人の主観的動機に言及して,彼・彼女に特有の理由を説明する必要がある 17.
本節で素描されるように,道徳の「不偏性要求」「合理性要求」において要求されている不偏性や合理性は,ふたたび特異的な強い不偏性・合理性であることが示唆される.すなわち,道徳は特別な不偏性・合理性を要求するシステムであり,その強い不偏性・合理性に特別な権威を認めさせようとするシステムである.これらの要求は,そして,道徳がきわめて特別な価値の領域を創造しようとしていることを意味する.すなわち,個人や社会の偶然性,あるいは運をまったく超えた,絶対的な価値の領域(道徳的価値)である.これはある意味で,もっとも純粋な価値であると言えるかもしれない (ELP: 216–7).
しかし,この「純粋な」価値は,どこまでも我々の生を誤解しているのではないか (ELP: 218).道徳が偶然だと断じざるを得ない我々個人の内的な視点は,価値について言えば,偶然的なものではありえないからである.価値に関する限り,我々はどこまでも自分の内側からそれを見ることしかできず,宇宙の視点から眺めることはやはりできないのである (MSH: 170).我々は,そのような絶対的な道徳的視点にコミットせずに,倫理の範囲内(内的視点の拡張・内的合理性)で共存していくことができるし,そうするべきなのではないか.とはいえ,このような倫理の可能性を示すことは,ウィリアムズの分析の賛同者が引き受ける課題となろう.
本稿では,バーナード・ウィリアムズの道徳システム論にそくして,道徳に特有な性質の分析を試みてきた.第一節では,まず,道徳が広義の倫理のうちの特殊なものであることを確認しつつ,それが通常,特殊な「義務」「意志」
「非難」に着目することを確認した.第二節ではしかし,このような分析への批判を紹介した.第一節の分析だけでは,意志や非難に内在的な価値を置かない功利主義といった道徳理論が扱えないのではないか.そこで,これに応答する論点として,義務・意志・非難それ自体は,道徳の特徴ではなく,広義の倫理における道具立てに過ぎないことを論じた.だとすれば道徳の特徴はどこに求められるのか.第三節では,その問いに対して,道徳の特徴はその道具立てで
はなく,むしろその運用に見られることを指摘した.三項の運用において発見される道徳の特質とは,不偏性と合理性の要求,そして,それらに特別な権威を与えようとする要求という,三つの要求であった.このような要求はしかし,過剰要求的である.不偏性や合理性,特別な権威を想定しなくても倫理は運用できるはずだからである.この道徳の三要求が「運の排除の理想」に由来するというウィリアムズの診断を指摘したのちに,第四節では,道徳が要求する「不偏性」「合理性」の問題を指摘した.道徳が要求するのは,きわめて強い,外的な「不偏性」「合理性」である.すなわち,個人の内的な視点・動機・プロジェクトと隔絶した不偏性・合理性を要求してしまう.ウィリアムズはこれに抗して,内的な不偏性・合理性の範囲でとどまることのできる倫理の可能性を示そうとしていた.本稿が最後に確認したのはそのことである.
狭義の道徳の特徴が不偏性や合理性,それらに特別な権威を与える要求にあり,その不偏性や合理性の内実が絶対的な視点にあるとしよう.そうだとすれば,道徳を受け入れるべきか否かの問いは,絶対的な視点がそもそも可能なのか,あるいは,倫理と絶対的な視点はそもそも符合するのか,といった論点へと帰着する.この問いについて,ウィリアムズは,倫理の可能性は内的な視点に宿ると考えており,絶対的な視点に倫理を基礎づけようとする道徳は根本的に倫理を誤解していると考えているように思われる.本稿の分析の結果として現れた,道徳(絶対的視点)と倫理(内的視点)における視点の隔絶という論点については,今後の課題としたい 18.
1. これはウィリアムズが道徳の分析にあたって最も重視したポイントである(MSH: 244).
2. ウィリアムズ道徳批判の先行研究 (Chappell & Smith [2016], Jenkins [2006], Louden [2007])では,(ひじょうにすぐれた解説となっているものの)ウィリアムズの論法・叙述の整 理に留まり,批判対象である道徳システムそのものの特徴の分析が不十分であると筆者は考えていた.この点について,Queloz [2020] は道徳システムの分析を積極的に試みており,示唆的である.
3. 注目すべきは,道徳は他の倫理的規範との区別を強く要求するというポイントである.すなわち,道徳は,自らが他の倫理的規範とは異なること(e.g.「それは道徳ではない」)を殊更に主張するような規範なのである (ELP: 7).この性質があるとすれば,第一に,道徳の特質を析出させる作業はさほど困難ではないことになる.そして,第二に,道徳
の特質は,容易には他のあり方へと変化できないことになる.道徳が過剰要求的な規範であるとすれば,その過剰要求性は,容易には抑えることができないことになるだろう.
4. 義務・意志・非難の三項に注目した道徳の分析については,渡辺 [forthcoming] において詳しく行った.
5. 善意志は,無条件的な意図として理性に常に宿る (カント [1989] §§21–2: pp. 33–5).
6. 道徳的意志は「われわれの行為の全価値を評価する際につねに上位にあり,他のすべての価値の条件をなしている」(カント [1989] §22: p. 35).
7. Queloz [2020] p. 12 も同様の指摘を行なっており,参考にした.とはいえ,本稿と Queloz [2020] では,何を倫理的な道具立てと見なすかにおいて違いが生じる.例えばそこでは,道徳的/非道徳的な動機の区別も正当化された実践であると考えているが,本稿はその主張にはさしあたりくみさない.道徳以前の倫理が,「動機の内容の強い区別」にまでコミットするとは考えないからである.
8. (本稿第三節でも論じられるように)非難でなくとも,実践的に必然的な行為に対して責任を認める思考は広範にみられる (MSH: 19).例えば,ノーラの家出は彼女にとって他にどうしようもないとしても,責任を伴う.また,状況に決定されてどうしようもなく手を汚さざるをえない悲劇的状況もありうるが (PS: 173),そこで行為者がなんの責任も取らないというのは我々を戸惑わせるだろう.
9. 非難・責任実践は,形而上学的に基礎付けられるような深さを持たない表面的な実践である (SN: 67–8).とはいえ,Queloz も指摘するように,非難はたんに道具的に見られてしまってはその効果を失う (Queloz [2020] pp. 11–2).よって,非難は心理的にリアルな実践である必要がある (MSH: 15).Queloz は非難がこのように機能するありさまを,自己抹消的機能性(self-effacing functionality)と名付けている.すなわち,非難は,その機能が忘れられてこそ機能する.
10. 筆者が道徳の特異性として注目する道徳の三要求は,ウィリアムズじしんが示唆してい
るもの (ML: 21; MSH: 246) を発展させている.
11. この過剰要求性の分析とそれへの反論に対する擁護については渡辺 [forthcoming] で行った.ウィリアムズへの反論とは,Darwall [1987] で論じられるように,道徳は過剰要求的でなく存立しうるというものであった.これに対して渡辺 [forthcoming] では,道徳は,過剰要求的な道徳システムへと進む圧力を内在させており,それは道徳に三要求がそなわっているからであると指摘した.道徳が,本稿の第四節で指摘されるような強い不偏性と合理性を要求するものだとすれば,それは(共存の倫理を超えた)過剰要求へと進んでしまう.
12. 道徳システム論的な,不偏性に注目する自由意志論は,よく知られた説明的問題(アシンメトリー問題)を抱えている.すなわち,道徳的に悪い行為の責任について,本人の性格に依存しない不偏的な自由意志を追求するいっぽうで,道徳的に善い行為の称賛については当人の性格的に必然的な行為の賞賛を認めてしまうという問題である (Russell [2013] p. 190).
13. 道徳の起源について,論者によって異なる回答が提出されてきた.例えば,ニーチェは,道徳の起源を禁欲主義的理想に求め (ニーチェ [1988]「道徳の系譜」第三論文13–21),アンスコムはキリスト教的な神の法の概念 (the divine law conception of ethics) に求めた (Anscombe [1981] p. 30).
14. いわゆる「積極的自由」と「消極的自由」の区別がそこに現れている.ウィリアムズの
ここでの論点は,例えばバンジャマン・コンスタンやアイザリア・バーリンが強調した点である (e.g.コンスタン [2020] 「近代人の自由と古代人の自由」).
15. Chappell & Smith [2016] §4 でも,功利主義が外的理由を要求すると指摘される.じっさい,ウィリアムズは,外的理由と倫理学・功利主義の目論見との密接なつながりを示唆している (WME: 216).
16. これは理由に関する「説明的制約 (explanatory constraint)」と呼ばれる (Paakkunainen [2018] p. 2).
17. 行為の理由は,A がφすべきである規範的権威をもち,それは個人の動機に言及すべきであるという議論がある (Paakkunainen [2018] pp. 19–20).
18. 本稿は渡辺 [forthcoming] 及び,それを元にした研究発表「バーナード・ウィリアムズの道徳批判」(2020 年度哲学若手研究者フォーラム)を基礎に,そこで加えられたコメントに応答することを意図して書かれた.というのも,コメントでは,「本当に道徳は三要求を抱えるのか?」「道徳が三要求を抱えないことも可能なのではないか?」といった論点が提起され,倫理と道徳の差異・道徳の特質といったものの分析の必要性を改めて感じたからである.原稿や発表に有益なコメントをくださった方々に感謝を申し上げるとともに,提起された論点について本稿が貢献することを願う.また,本稿の草稿に詳細で有益なコメントをくださった北海道大学の吉村佳樹さんに感謝申し上げる.
一次引用文献略記号
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