哲学の探求
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テーマレクチャー「フェミニズムの哲学」
「フェミニズムの哲学」が可能だとしたら, それはどのようにしてか?
小手川 正二郎
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2021 年 2021 巻 48 号 p. 2-22

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小手川 正二郎

はじめに

日本の哲学業界において,女性や性的マイノリティの人々がおかれている状況には,様々な問題がある.例えば,未来の研究者を育成する,いわゆる偏差値上位大学の哲学系教員のほとんどが男性で占められている.こうした環境では,ジェンダーに関する主題を,修論や博論のテーマに取り上げにくかったり,女性や性的マイノリティの学生が自身のロールモデルを見つけにくかったりするだろう.学部生向けの講義でも,「哲学概論」等でジェンダーや人種といった主題は扱われにくく,「西洋哲学史」では当然のように白人の男性哲学者ばかりが取り上げられたりする.この点は,女性や性的マイノリティの学生が大学院を目指すモチベーションにも係わるが,それと共に,哲学を学んで社会に出ていく大多数の学生たちが,哲学をする人間や哲学において論じられる事柄を自分自身のこととして受けとめられるか否かを左右するだろう.

また,全国規模の学会である日本哲学会や日本倫理学会等の学会誌に掲載されるのは男性研究者の論文ばかりだ.登壇者が男性だけという学会シンポジウムはよく見られるし,メディアで取り上げられる哲学研究者の多くも男性である.理事等のジェンダーバランスに配慮した学会は増えてきているものの,結果として,常勤職に就く限られた女性研究者の負担が一層増している.その一方で,学会や大学の内に男性中心的な価値観は根強く残り続けており,2018 年には哲学系の学会での男性講演者によるセクハラ発言への対処が問題となった事案も発生した(酒井 2020).

日頃から性差別への問題関心をもつ若手研究者からしてみたら,「古い」世代と自分たちの世代とは異なると言いたくなる人もいるだろう.けれども,若

手研究者が代々運営してきた哲学若手研究者フォーラムでも,毎年 2 名のテーマレクチャーの講演者に女性が選ばれたのは,驚くべきことに 1998 年の「身体論再考の試み」まで遡らなければならない.要するに,若手研究者たちも 20 年以上にわたって女性研究者の講演を聴こうとしなかったのだ(2020 年度のレクチャーが「ジェンダーに係わるテーマの時だけ女性研究者を呼ぶ」という悪例とならないかどうかは,次年度以降の講演者の選定にかかってくるだろう).こうした事態の背景には,「哲学研究者や哲学を専攻する院生の中に,ジェ ンダーに関することなどは,応用研究であり,純粋な哲学とは言えない,などと考え,学ぶことを怠っている人が一定程度存在する」ことがあげられるかもしれない(酒井 2020, 307 頁).さらに言えば,フェミニズムについて学び,それに「理解を示す」研究者や院生が数多くいるとしても,その多くがフェミニズムをあくまで政治信条とみなして,それを政治的に中立な学問としての哲学から切り離したり,フェミニズムを一種の「教養」として「勉強」し,必要なときに閲覧・解説できるよう「本棚にしまう」ことで満足したりしているから

でないだろうか.

本論では,以上のような問題関心から,そもそも哲学とフェミニズムは切り離しうるのか,そして日本において「フェミニズムの哲学」が可能だとしたら,それはいかなる形においてなのかを考察したい.

「フェミニズムの哲学」は可能か?

哲学とフェミニズムの間の緊張

まず,そもそも「フェミニズムの哲学」(feminist philosophy)は 1,可能なのだろうか.ナンシー・バウアーは,『シモーヌ・ド・ボーヴォワール——哲学とフェミニズム』(Bauer 2001)の第 1 章「フェミニズムの哲学とは形容矛盾か」において,この問いを提起し,真正面から検討している 2

哲学者でもフェミニストでも,政治的には「フェミニズムの哲学」という考えを支持する人は少なくない.しかし,バウアーによれば,哲学とフェミニズムの間には無視できない緊張関係が存在する.

一方で,哲学は伝統的に,感情に左右されない思考,理性,客観性,普遍性,

本質を強調し,もっぱら男性の利益につながるような世界との係わり方を「神格化」してきた.伝統的な哲学のこうしたあり方に対して,フェミニストたちが度重なる批判を加えてきたのは,よく知られている(cf. Antony & Witt 1993;

Anderson 2020).

他方,フェミニズムは,性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくすという目標に向かう政治運動である.これに対して哲学は,それ自体としては,特定の政治的立場に与するものではないと一般に考えられている.

それゆえ,「フェミニズムの哲学」は,互いに相いれないものが結びついた

「矛盾した表現」ではないかという疑問が生じる.多くの哲学者は,こうした疑問に眼をつぶったり,それを深刻な問題とみなしていなかったりする.しかし,

「フェミニズムの哲学」を真剣に考えようとするなら,哲学とフェミニズムの間のこの「緊張関係」にいかなる態度をとるかを迫られるはずだ.というのも,哲学とフェミニズムの関係をどのように捉えるかは,哲学そのものをいかなる営為とみなすか(笠木 2020),そして哲学の主体であると同時に対象でもある人間をいかに理解するかと切り離せないからだ.

〔…〕哲学とフェミニズムの間の矛盾を正当に評価すれば,真正にフェミニズム的な哲学作品(あるいは,お望みなら,真正に哲学的なフェミニズム)が,哲学を変革するポテンシャルをもつだけでなく,人間——思考し性差をもつ存在——であるとはいかなることについて一から再検討することを現に求めているということがわかる.(Bauer 2001, p. 21)

「フェミニズムの哲学」の四つのバージョン

バウアーによれば,フェミニズムの関心と哲学の方法や考えを組み合わせた

「フェミニズムの哲学」には,

  1.   

    性差別を批判する道具としての哲学

  2.   

    哲学の客観化の徹底

  3.   

    女性の立場からの哲学

  4.   

    反本質主義

という四つのバージョンが存在するが,いずれも上述の「緊張関係」を解消

するには至っていない.以下,順番に見ていこう.

性差別を批判する道具としての哲学

真っ先に思いつくのは,フェミニズムの政治運動を正当化したり,性差別を批判したりするためのツールとして哲学の概念や分析手法を用いる立場であろう.例えば,性差別的な主張は概念の混乱した使用や誤った推論に基づくことが少なくないので,そうした混乱や誤謬を指摘してその主張が成り立たないことを示すために,哲学は有用であろう.また,言語哲学の成果を性差別的な言説の分析に応用し,その言説がもつ効果や悪質さを解明するといった試み(和泉 2018)は,いわゆる「分析フェミニズム」においてなされている(木下 2020;木下ほか 2020).

こうした取り組みは有意義なものではあるが,前述した,哲学とフェミニズムの緊張関係に関しては,曖昧な点が残る.というのも,こうした立場においては,哲学への参与(commitment)とフェミニズムへの参与の間に内在的な関係が認められないからだ.

実際,哲学に従事する人がジェンダー平等を目指さねばならないわけでも,ジェンダー平等を目指す人が哲学的手法を用いなければならないわけでもない.哲学はフェミニズムの議論に役立つかもしれないが,哲学がつねにフェミニズムを正当化するとは限らず,哲学が性差別的な考えを正当化するために用いられたり,フェミニズムを非難するために用いられたりすることもある.事実,歴史的には,男性哲学者たちの多くが,男尊女卑的な考えを自身の哲学的議論のなかで展開してきた.現代でも,一部のフェミニズムが男性たちに対する「第二の性差別」に加担していたり,それに横滑りしたりすると主張する哲学者もいる(Benatar 2012).正しい推論や哲学的な思考ができる人でも,フェミニズムに無理解であったり,性差別的であったりすることは充分ありうるのだ.

それゆえ,リチャード・ローティは,性差別的な世界の変革は,哲学者の哲学的議論によってなされるのではなく,世界についての性差別的な語り方にかわる新しい語り方を創造することによってなされると主張する(Rorty 1991).性差別を批判するツールとして哲学を捉える見方は,結果として,社会変革を目指す運動としてのフェミニズムから,目的達成のための手段としての哲学を

切り離してしまうことになる.

哲学の客観化の徹底

(1)の立場とは対照的に,哲学の歴史や実践を自己反省した必然的な帰結として,「フェミニズムの哲学」を捉えようとする人もいる.例えば,マーサ・ヌスバウムは「フェミニストたちと哲学」(Nussbaum 1994)において,ポストモダニズムに影響を受けたフェミニストたちが合理性や客観性を攻撃しがちであるのに反対して,「合理的」で「客観的」であることを装いつつ性差別を正当化するような男性哲学者たちの非合理性や非客観性を暴くためにも,合理的で客観的な哲学的議論が必要だと主張する.つまり,伝統的な哲学を捨て去ることなく,過去の哲学者たちの性差別的な言説や現代の哲学者たちの性差別的なバイアスを,哲学的議論を通じて是正していけば,より合理的で客観的な「フェミニズムの哲学」に至るというわけだ.

フェミニズムの哲学を行うことは,実際には,哲学を行うことと異なる何かなのではない.〔…〕フェミニズムの哲学を行うことは,端的に,骨の折れる理論化作業を厳密かつ徹底した仕方で行うことであり,ただし,男性優位の学会において女性や性差,家族や倫理についての哲学的思考を大いに特徴づけてきた,盲点・事実の看過・道徳的な鈍感さをなくす形でそうすることなのだ.(Nussbaum 1994, p. 62)

しかし,こうした見方に対しては,次のような問いが提起されよう.性差別的なバイアスは,哲学者がより合理的で客観的な吟味を重ねることで,自力で乗り越えられるものなのか.むしろ合理性や客観性を求める哲学的実践の奥底に,男性中心的な見方が根づいてしまっているのではないか.フェミニストたちは,哲学者が価値から中立的な仕方で合理性や客観性を求めている,ないし求めることができるという想定に異議を唱えているのではないか.だとしたら,フェミニズムの哲学を,哲学の客観化の徹底として位置づけることは,フェミニズムによる哲学への根本的な異議申し立ての意義を過小評価してしまうことになりかねない.

女性の立場からの哲学

男性中心的な哲学やそこで自明視されている合理性や客観性といった概念を問い直すことは,男性とは異なる立場から出発することでのみ可能となる——三つ目の選択肢はまさにこうした着想から生じたものだ.ナンシー・ハートソックは,70 年代に執筆された「フェミニストの立場」(Hartsock 1983)において,「フェミニストの立場理論」(feminist standpoint theory)と呼ばれることになるフェミニズムの哲学を提示した.立場理論とは,支配者集団よりも被支配者集団の方が,集団間の支配関係を支える社会構造やそこから生じる社会問題を認識する上で,優位な立場にあるとする見方だ.例えば,マルクス主義的な立場理論によれば,現に労働し,労働問題に立ちあうプロレタリアの方が,ブルジョワよりも資本主義の実相——資本主義が誰の利益に役立ち誰を抑圧しているか——をよりよく認識できる立場にある.これと同様に,家庭内労働(家事や育児や介護)に従事してきた女性の方が,男性よりも家父長的な社会の実相——家父長制が誰の利益に役立ち誰を抑圧しているか——をよりよく認識できる立場にある,とハートソックは主張する.

〔…〕マルクスの理論によるプロレタリアの生活のように,女性たちの生活は,男性優位に対する個別的で特権的な視座を与えてくれ,そうした視座に基づいて,家父長制の資本主義的形態をなす男性中心的な諸制度やイデオロギーに対する強力な批判が可能となる.(Hartsock 1983, p. 284)

伝統的な哲学が,支配者集団たる男性哲学者たちの性差別的バイアスに無自覚であるのに対して,男性の立場からは見えなかったり重視されなかったりする世界のあり様を,女性の立場から認識する「フェミニズムの哲学」こそが,既存の哲学が標榜する「客観性」の一面性を暴き,自己の視点の非中立性に自覚的である点で,「より客観的」であると言える.こうした見方は,社会学・政治学・人類学といった人文科学の諸分野にも影響を与えた 3

とはいえ,フェミニストの立場理論に対しても,いくつかの問題が指摘されてきた.第一の問題は,「女性の立場からの哲学」と言われる時の「女性」と

は誰かというものだ.すでに 60 年代後半から,一部のフェミニストが「女性」ということで,白人中産階級の女性や異性愛の女性を暗に想定し,そこから漏れる有色人種や労働者階級の女性,レズビアンを無視する傾向が批判されてきた(吉原 2013).現代では,いわゆる「第三世界の女性」(Mohanty 2003)や

「トランス女性」(小宮 2019)をめぐっても議論になっているが,こうした多種多様な女性たちを包括する「女性の立場」などというものは存在するのか.

また,女性の認識と男性の認識が異なるとしても,この相違は,哲学のあり方を左右する根本的な相違なのかと問うこともできる.文化や社会のなかで生じる男女間の相違は,人類学や社会学や心理学において研究されてきたが,そうした相違にはおさまらない男女間の相違を想定することは,男女の間に「本質的な違い」があるとする「本質主義」に与することになるだろう.こうした本質主義に対しては,様々な反例に基づく異議申し立てがなされてきた.

反本質主義

本質主義の対極にあるのが,四つ目の反本質主義である.反本質主義とは,生物学的な性別(sex)であれ,社会的な性差(gender)であれ,ある人を「女性」ないし「男性」に一義的に決定する本質は存在しないとする見方だ.

モニック・ウィティッグは,1976 年に執筆された「性別というカテゴリー」

(Wittig 1982)で,自然で客観的な事実とみなされがちな生物学的な性別は,異性愛を規範とする社会において「男か女かのどちらか」という男女二元論の枠組みによって構築されたものだと主張した.この主張を引き継ぐ形で,ジュディス・バトラーは生物学的な性別と社会的な性差という区別そのものが成立せず,両者がともに,社会における人々の反復行為によって「自然で客観的な」見せかけを得ていくのだとした(Butler 1990).こうした見方に従うと,フェミニズムの哲学とは,男女の「見かけ上の区別」がいかに生みだされ,様々な規範を形づくったり,人々を抑圧したりするのかを可視化する試みと言えよう.もちろん,こうした立場が,政治運動としてのフェミニズムといかにつなが りうるのか,という疑問は生じうる.こうした疑問に対してバトラーは,既存の概念や表現を無批判に繰り返すのではなく,パロディ的な手法で「引用」する——蔑称として用いられてきた「クィア」という言葉の意味をずらしたり,

男女に割り当てられた服装とは異なる服装をしたりする——ことで,既存の性規範が客観的な本質に基づいているわけではないことを露呈させ,その変容可能性を示すことを提案している(Butler 1993).

バトラーの議論が「女たちがどのように多様でありうるのか,その可能性を不断に想像しなおし続ける」(清水 2020, 119 頁)点において示唆的であることは疑いようがないが,その理論的な側面には様々な反論が提起されてきた 4.そもそも,対象との認知的関係が社会的に構築されている,つまり社会制度や社会規範に媒介されているからといって,その対象が客観的な仕方で実在しないということにはならない(Haslanger 2012, chap. 4).また,性別と性差の区別や,観念と物質の区別を問い直すバトラーの理論が,具体的な問題にいかなる形で迫っていけるのかは不明瞭なままである(Moi 1999, chap. 1).「女性」に関するあらゆる類の一般化を拒絶するなら,男女間の格差や差別構造を問題化して批判するための土台を掘り崩してしまう危険性もある.さらに,バトラーが推奨するパロディ的な手法の有効性についても,それを誰が,どこで,誰に対して行うかによって異なる効果をもたらしうる(場合によっては既存の性規範を再強化しかねない)以上,様々な可能性を具体的な文化的文脈に即して考察することが不可欠であろう(Bordo 1993, pp. 292-293).

バウアーによれば,反本質主義の最大の問題は,日常的な概念から,それを問い直す哲学が遊離してしまう点にある(Bauer 2001, p. 40).つまり,性別であれ性差であれ「女性」には,一般化可能ないかなる本質もないとする哲学的主張は,日常的な意味での「女」や「男」という概念をめぐる経験から乖離してしまい,例えば多様な女性たちが「女」とみなされるがゆえに被った差別や抑圧の経験の特徴を取り逃がしてしまいかねない.しかし,もとはと言えば,こうした経験が日常的な概念を問う哲学(「女とは何か」という哲学的問い)の動機となると同時に,人々をフェミニズムという政治的運動に向かわせるものであったのではないか.だとしたら,反本質主義は,哲学とフェミニズムの間の矛盾を解消するどころか,かえってその分離を推し進めてしまうことになるだろう.

ボーヴォワールによるフェミニズムの哲学

バウアーによれば,上に挙げた四つの立場とは異なる仕方でフェミニズムの哲学を考えたのはボーヴォワールであり,そのことが『第二の性』の序文でいみじくも示されている.そこでボーヴォワールは,「女とは何か」という問いを発すると共に次のように述べる.

女を定義するのに,雌の機能だけでは不十分だとしたら,また,「永遠の女性的なもの」によって説明することも拒否するとしたら,しかし仮にも地上に女がいることを認めるならば,私たちは次のように問うべきである.女とは何か,と.

こうした問いを発すること自体が,すぐさま私に第一の答えを示唆する.私がこうした問いを立てること自体,重要な意味を含んでいるのだ.男だったら,人類のなかで男の占める特殊な状況についての本を書こうなどとは思ってもみないだろう.ところが私が自分を定義しようとすると,まず

「私は女である」と表明しなければならない.この真実(vérité)が基盤となって他のすべての主張が出てくる.(Beauvoir 1949, pp. 15-16/13 頁)

ここでボーヴォワールは,生物学的特徴(「雌の機能」)や形而上学的な想定(「永遠の女性的なもの」)から出発することなく,「女とは何か」という問いを提起している.彼女にとって,この哲学的問いは,「女」という言葉の日常的な意味のもとでの「私は女である」という経験から切り離せない.自己について思考する際,男性たち(例えばデカルト)が自らの性差に頓着せずに

「人間とは何か」と問えてしまうのとは対照的に 5,ボーヴォワールは何よりも先に「自分が女である」ことに立ち戻りそこから出発せざるをえない.男女間で非対称的な形で経験されるこの「真実」が「女とは何か」を問う彼女の哲学的探究の動機をなし,その探究が何を明らかにすべきかを導くことになる.

それゆえ,この探究は一方で,ボーヴォワール自身の「女性」としての経験,本人の意向とは無関係に「女性」とみなされるがゆえに被ってきた経験——例えば,抽象的な議論の最中に男性から「あなたは女だからそんなことを考える

んだ」と言われて幾度もいらいらさせられた経験(Beauvoir 1949, p. 16/13 頁)

——を説明するものでなければならない.「女とは何か」を問う哲学的探究に

課されるこの制約は,ボーヴォワールの政治的立場に由来するのではなく 6

「彼女の日常的な経験,女性としての経験,それが何を意味するにしろ「女」という言葉で名指されるものとして自認せざるをえないこと」(Bauer 2001, p. 42)に由来する.

ボーヴォワールが問うているのは,女性たちの間に本質的な類似点があったり,異性間に本質的な差異があったりするのかということではなく,むしろ「私は女性である」という事実から何が考えうるのかということだ.

(Bauer 2001, p. 44)

だからと言って『第二の性』は,ボーヴォワールの個人的な経験を説明して事足れりとするわけではない.自分の属する階級・人種・世代の特殊性を自覚しながらも,ボーヴォワールがあえて自身の経験から出発するのは,それがある種の「女性たち」を代表する性質(representativeness)をもつと考えたからであろう(Bauer 2001, p. 45).

確かに,「女であること」をどのように捉えているか,それを自己のアイデンティティとしてどの程度重要視しているかは千差万別である.にもかかわらず,女性たちが自己について思考しようとする際,何らかの仕方で(たとえ,

「自分が女であることにこだわらない」といった仕方で,であれ)自らの性差に態度をとらざるをえない状況に,男性たちとは異なる仕方で投げ入れられているという点には,階級や人種や世代が異なる多様な女性たちにも共通する「真実」があるのではないか——このような見通しのもとボーヴォワールは,男性哲学者たちの概念(「他者」)や道具立て(主人と奴隷の弁証法)を「改鋳」し 7,真正な主体たる男性に対して,使用物や魅力的な対象としてのみ現われる

「他者」(l’Autre)という位置づけを,女性たち自身が自らの主体性の幾分かを用いて受け入れてしまっている現状を分析しようとする.そのようして,女性たちが自ら声を発することで「自己変容」していく試みとして「フェミニズムの哲学」を提示したのだ(Bauer 2001, p. 45).

それゆえ,ボーヴォワールが発する「女とは何か」という問いは,女性として生きてきた(ないし,みなされてきた)人々すべてに,自身が自らの性差にいかなる態度をとり,それをどのようなものとして捉えてきたのかに立ち戻らせる.さらにその問いは,女性たちだけでなく,性差に無頓着であることを許容されてきた男性たち——例えば,哲学にとって性差に関する事柄は「本質的」ではないとみなすような男性たち——に,自らの性差に向き合い,「人間とは何か」を探求する前に,まず「男であるとはどのようなことか」という問いに向き合うことを求める(cf. Bauer 2001, p. 70).そのようにして,ボーヴォワールは,たんに性差別的な問題にとどまらず,そもそも男性中心的な社会では「問題」とみなされにくかった事柄や「哲学的問題」とみなされにくかった事柄に対する私たちの見方そのものを問い直していくことを求めている.ここには,

「性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす」というフェミニズムの目的を実現するためには,法制度の改正や社会の仕組みの是正とともに,自己や世界についての私たちの見方そのものを変革していくことが不可欠であるという考え(小手川 2020)が見て取れる.

要するに,ボーヴォワールの構想する「フェミニズムの哲学」は,一方で,

「女とは何か」という哲学的問いが,自らの出発点でありかつフェミニズム運動の動因をなす「女性」としての日常的経験に絶えず立ち戻らねばならないこと,他方,性差別的な現実への抵抗運動としてのフェミニズムにとって,現実の見え方そのものを問う哲学が必要不可欠であることを示す.この点で,それはフェミニズムと哲学が分かちがたく結びついたものだと言えるのだ.

フェミニズムの哲学は中立的でありうるのか?

経験の不当な一般化?

上述したようなボーヴォワールの試みに対しては,早くから,白人の中産階級に属する彼女自身の経験を「女性」一般の経験へと一般化しているという批判が投げかけられてきた(Spelman 1988).実際,彼女の手法には,自身の経験を一般化したり特権化したりするリスクや,そこからこぼれ落ちる多様な女性たちの経験を無視したり矮小化したりするリスクがつねに残る.

もちろんボーヴォワールは,『第二の性』のなかで多種多様な女性たちの声を可能な限り紹介して検討することで,こうしたリスクを最小限にする努力をしている.その一方で,個々の女性の経験が文化や地域や世代を越えた「女とは何か」という普遍的問いにつながりうることを示すためには,そうしたリスクを冒さざるをえないということ(cf. Bauer 2014, p. 3)にも彼女は自覚的であったと思われる.

どんな問題でも,人間の問題を不偏不党の立場から(sans parti pris)論じるのは不可能だろう.というのも,いかに問いを立てるか,どういう観点をとるかは,〔論者が抱く〕様々な関心の序列を前提としているからだ.どんな性質も価値を含んでおり,いわゆる客観的な記述にしても,なんらかの倫理的背景(arrière-plan éthique)をもたないものはないからだ.(Beauvoir 1949, p. 32/36 頁)

ここで言われている「客観的な記述もなんらかの倫理的背景をもつ」という主張を,いかに理解しうるのだろうか.フェミニズムの哲学の方法論をめぐる現代の議論——ミランダ・フリッカーの「認識的不正義」の議論と,それに対するアリス・クラリーの批判——を手掛かりに考えてみたい.

フリッカーによる認識的不正義の議論

フリッカーは『認識的不正義』(Fricker 2007)において,従来の倫理学の盲点となってきた,人々の認識に係わる不正義を解明し,女性や性的マイノリティに対する認識的不正義を是正するという仕方でのフェミニズムの哲学の可能性を示した.フリッカーが問題視する認識的不正義は,「証言をめぐる不正義」

(testimonial injustice)と「解釈をめぐる不正義」(hermeneutical injustice)に大別される(cf. 佐藤 2019).

証言をめぐる不正義とは,話し手の社会的アイデンティティに対する偏見的なステレオタイプに基づいて,その人の信頼性を不当に低く評価してしまうというものだ.例えば,白人警官が黒人の言うことを信じないといった場面で典型的に見られる.

「ステレオタイプ」とは,ある社会集団のメンバーがどの程度信頼できるかに関する経験的な一般化とされる.フリッカーによれば,日常的なやり取りのなかでステレオタイプに基づいて相手の話の信頼性を見積もることは,(例えば病気に関する医者のアドバイスを信頼する等)判断の効率化や会話の円滑化のために必要とされ,それ自体が不正とはみなされない.

問題になるのは,「偏見的なステレオタイプ」と呼ばれるものであり,それは「不正確」で「根拠への適切な考慮を欠いて生みだされたり,維持されたりする」ステレオタイプとして特徴づけられる(Fricker 2007, p. 33).こうしたステレオタイプが,国籍,人種,民族,宗教,性別といった「社会的アイデンティティ」に対して抱かれるとき,例えば女性,黒人,イスラム教徒に結びつけられがちな否定的なイメージのもとで,その人たちの発言が過小評価されたり,発言の機会が奪われたりすることが,証言をめぐる不正義をなす.

こうした不正義を是正するためには,「偏見が信頼性をめぐる判断に及ぼす影響を中立化できる」ような徳を身につける必要があるとフリッカーは主張している(Fricker 2007, p. 121).

解釈をめぐる不正義とは,社会的マイノリティに対する関心が低いために,マイノリティの問題や苦境を表現する概念や道具立てが開発されず,そうした人々が自らの経験や苦境を理解したり表現したりする能力を制限されてしまうというものだ.例えば 70 年代に「セクシュアル・ハラスメント」という概念が生み出されるまでは,女性たちは職場などでの望まない性的なまなざしや言い寄りを,不適切ないし不正な言動として理解し,告発する能力を著しく制限されていた.これは男性中心的な社会のなかで女性の経験を表現するための解釈資源が欠如していたためだと考えられる.

フリッカーによると,こうした不正義を是正するためには,社会的マイノリティに属する人の話が不明瞭に聴こえたとしても,その不明瞭さが「解釈をめぐる不正義」に由来する可能性を疑い,判断を保留すること,つまり相手と自分の社会的アイデンティティの不均衡を考慮に入れ,両者に配分されている解釈資源のギャップを埋め合わせる努力が必要になる(Fricker 2007, p. 172).

クラリーによるフリッカー批判

ウィトゲンシュタイン研究や動物倫理をめぐる研究で著名なアリス・クラリーは,「方法論的なことは,政治的なこと——分析フェミニズムの何が問題なのか」(Crary 2018)において,フリッカーの議論に「方法論上の保守主義」を見て取り,それを批判している.彼女が「方法論上の保守主義」と呼ぶのは,哲学者が倫理的に中立的な観点から世界を記述し,不正を見つけてそれを是正するという哲学観である.クラリーによれば,フリッカーは,暗黙のうちにこうした立場をとってフェミニズムの哲学を中立的な見方に対する障害(偏見や解釈資源の欠如)を取り除くことに縮減してしまっており,これに対して方法論的にラディカルなフェミニズムの哲学は,中立的ではない特定の倫理的な観点からのみ可能である.以下,二種類の認識的不正義に関する論点に絞って彼女の批判を見ていく.

まず証言をめぐる不正義について言えば,フリッカーの枠組みでは,ステレオタイプが偏見的か否かは,ステレオタイプの「正確さや適切な根拠の有無」によって判定される.しかし,性差別的な社会においては,ステレオタイプを追認する根拠を探すのは比較的容易である.例えば,「女性は仕事よりも家庭を優先する」というステレオタイプが,女性の離職率が男性よりも高いといった統計データによって追認されることは充分ありうる.

仮に,育児休暇を取得する女性社員が「早めに職場復帰したい」と述べた際,男性の上司が「女性は結局家庭を優先する」といったステレオタイプに基づいて彼女の発言の信頼性を低く見積もり,彼女の職場復帰を後押ししなかったとしよう.この上司が女性社員の過去の離職率等といったデータに基づいてこうした判断を下した場合,彼のステレオタイプは「偏見的」とは呼べず,証言をめぐる不正義をおかしていないことになるだろうか.

当然ながら,ここで問題とされるべきは,女性の離職率といったデータ自体が,男性が育児休暇を取得しなかったり,女性が出産後の職場復帰をしにくかったりするといった性差別的な社会構造の一つの結果でしかないということだ.また,先の男性上司がどれほど「家庭を優先する」女性に囲まれていたとしても,このステレオタイプに反する事実や,それを偏見的とみなすに足る根拠を無視してよいとする男性中心的な社会構造に与している点で,彼は非難されう

る.こうした点が示しているのは、人が何を「正確な」事実や「適切な」根拠とみなすかに関して、すでに特定の倫理的観点を前提としているということだ。解釈をめぐる不正義については,どうだろうか. クラリーによれば,「セク シュアル・ハラスメント」という概念は,たんに適切な表現がなかった言動を名づけることにとどまらず,その種の言動の記述および評価の仕方そのものを変革しようとするものだった.つまり,それまでは「軽いいらだちを引き起こす言動」としかみなされなかったものを「重大な加害・脅迫行為」として捉え直したのだ.この捉え直しは,こうした言動がなされる背景,すなわち雇用や

収入に関するジェンダー不平等に着目することで行われた.

一般に,雇用面でも収入面でも女性が男性よりも劣った地位にあるという事実が,女性を男性よりも傷つけられやすい立場においている.つまり,女性は男性上司の言動を告発してもその訴えが信じられにくく,また雇用や収入面で損害や報復を被りやすいため、告発することをためらいやすい.こうした背景との関連において初めて,女性への危害が可視化され,男性の言動を重大な加害行為,あるいは損害をちらつかせた脅迫行為として記述し評価し直すことが可能となる.それは,中立的な観点から話し手と聴き手の間の解釈資源のギャップを埋め合わせることによってではなく,被害を受ける女性の観点に立っ て,状況の認識および記述の仕方そのものを変革することでなされる.

ボーヴォワールが「客観的な記述もなんらかの倫理的背景をもつ」と述べたとき,彼女が与していたのは,クラリーの言うような,中立的ではない特定の倫理的な観点に立つ「方法論上のラディカリズム」であると考えられる.こうした立場は,聴き手の偏見が話し手のいかなる社会的アイデンティティに向けられているかが必ずしも明確ではなく,話し手が位置する文化的・社会的観点に密着しなければ露わにならないことが多い点に鑑みても,熟慮に値するものであるだろう.

日本でどのような「フェミニズムの哲学」が可能か

最後に,日本でどのような「フェミニズムの哲学」が可能かについて触れておきたい.「先進的」とされがちな欧米の議論をただ紹介したり,それを日本

の事例にあてはめたりするだけではない「フェミニズムの哲学」とは,どのようなものでありうるのだろうか.

もちろん日本には,欧米とは異なるフェミニズムの歴史があり,例えば上野千鶴子『おんなの思想』(上野 2013)で挙げられている女性たちの思想や,上野千鶴子・江原由美子・岡真理らの一連の労作を哲学的観点から再検討することは必要不可欠だ.しかし,それと同時に,現代の日本に生きる女性たちの経験や表象から出発する哲学もまた必要であろう.

ボーヴォワールの「フェミニズムの哲学」を継承しつつ,国内の事例から出発して経験の記述と分析を行う論集『フェミニスト現象学入門』(稲原ほか2020)は,こうした試みの一つとみなせる.例えば,宮原優の論考は,個人差の大きい月経について,あえて個別的な経験から出発して,月経に付与される社会的意味を分析し,その意味を変容させていく可能性を描き出している.セクハラのグレーゾーンについて論じる山本千晶の論考は,年齢,子どもの有無,付き合っている人の有無を尋ねることが,女性や性的マイノリティの人々を困惑させたり,不快感を抱かせたりする背景を詳細に分析しているが,これは特定の倫理的観点に立つことで可能となる分析のお手本といってよい.筆者は,川崎唯史と共に,男性が自身の感情や性的身体・目の前の人間関係に向き合わずに,男らしさの追求や他の男性との比較を優先してしまうようなあり方,また,それによって助長される男女間の不平等について考察したが,こうした「男性性の現象学」を理論的かつ具体的に掘り下げていくことを目指している.

また、田中東子は,フェミニズムの「ポピュラー化」の只中にある女性たちの経験や状況を分析している.その際彼女は,ファッショナブルで男性受けもよい「感じのいいフェミニズム」と,「攻撃的」で「男嫌い」と揶揄される「興ざめフェミニズム」の間の絡まりあい・もつれあいに注目して,「感じのいいフェミニスト」が抱えるしんどさや,彼女たちが「感じのよさを脱ぎ捨て,反撃の咆哮をあげる」可能性について思考しようとしている(田中 2020).

その一方で彼女は,時として「フェミニスト」とはみなされにくい女性たち,例えば,新自由主義社会のなかで「勝ちにいこうとしない女性たち」「最初から「グローバル人材になろう」とか考えていない,新自由主義の「生きろ」とか「働け」,「頑張れ」という呼びかけを聞いていない,聞く能力がそもそも

ない,聞こえても無視する,そういう呼びかけをイジることさえするような学生たち」(田中 2019, 57 頁)にも注目している.さらには,女性の社会進出が叫ばれるなかで後ろめたさを抱えながら専業主婦をしている女性たちに言及して,「経済的自立なしのフェミニズムはあり得るのか,もしあり得るとしたら,それは障がいの問題などにも節合していけるのでは?」という問題提起をしている(田中 2019, 57-58 頁).フェミニズムの網の目からこぼれ落ちそうになるこうした女性たちの経験に着目し,そこから新たな視点や分析を紡ぎだしていくこともまた,フェミニズムの哲学を豊かにしていくはずだ.

おわりに

本論では,バウアーの議論に沿って,経験から出発するフェミニズムの哲学

(フェミニスト現象学)に力点をおいて論じてきた.当然ながら,経験から出発する立場にも様々な批判が投げかけられてきたし 8,経験を語る人が傷つきやすい立場に置かれてしまうということにも注意が必要だ 9.また,バウアーが挙げた(1)~(4)の立場も,経験から出発する立場と相互排他的であるとは限らず,様々な点で共通する特性をもっているため,それらが交差する点については,各々の立場が秘めた可能性とともに,さらなる議論が待たれる 10

本論を閉じる前に,「はじめに」で触れたような楽観視できない現状がある一方で,ポジティブな変化が生まれ始めていることも強調しておきたい.

出版業界では,フェミニズムに関する書籍がこれまでにない売り上げを見せている.先述した『フェミニスト現象学入門』も少なくない反響を呼び,2020年度の日本現象学会のシンポジウムの主題には「フェミニスト現象学」が,若手研究者支援・男女共同参画ワークショップの主題には「トランスジェンダー現象学」が選ばれた.また,分析フェミニズムの特集が『フィルカル』誌で組まれ(木下ほか 2020),分析フェミニズムの文献を集めた論集が出版される予定である.さらに,学部や大学院に在籍する女子学生を対象とした「女子学生のための哲学研究者ウィンタースクール」も若手研究者たちによって企画・開催され,女性研究者支援のためのイベントが継続的に開催される予定だと聞く

https://women-woven.philosophyonline.net/women-woven).アカデミズムに縛ら

れることなく,社会における哲学のニーズを意欲的に開拓していく女性たちがいることも心強い(今井 2020, 永井 2020).

これらは,5 年前には予想し難かったポジティブな変化である.何より,若手の哲学研究者たちが「フェミニズムの哲学」をフォーラムのテーマレクチャーとして選んだということに少なからぬ希望を抱いているのは,私だけではないはずだ.この希望をいかなる形で実現できるかは,哲学に携わる私たち一人ひとりの手にかかっている.5 年後,10 年後,私たちが目にする景色や哲学観は,大きく変わっているかもしれない.

1. feminist philosophy をどう訳すかは意見が分かれるところであろうが,本論ではテーマレクチャーの提案者の方々の意向に沿って「フェミニズムの哲学」で統一する.

2. 以下の論述は,バウアーによる整理とボーヴォワール読解に依拠しているが,筆者による解釈や肉づけも交えて表現等は適宜変更した.

3. フェミニストの立場理論に関する主要文献は,Harding 2004 に収録されている.日本

語で読める文献としては,児玉 2013 が示唆に富む.

4. 本稿はバトラーの議論を吟味することが目的ではないため,反論を紹介するにとどめる.藤高和輝が指摘するように,「バトラーの「ジェンダーの非自然化」は,「女性の身体を脱構築で切り刻む」(バーバラ・ドゥーデン)というよりは,現実に「切り刻まれた」/「生きながらにして死を宣告された」セクシュアル・マイノリティの生が「承認に値する」そのような世界を模索する試みだったといえる」(藤高 2018, 161頁)かもしれない.ただし,この点をより説得的に示すためにも,彼女の理論が抱える幾つかの困難に向き合うことも必要となろう.

5. バウアーはデカルトの懐疑とボーヴォワールの問いの間の同型性に注目しつつ,二人の問いの分岐点を考察している(Bauer 2001, chap. 2).

6. ボーヴォワールは 1960 年代まで自らを「フェミニスト」とはみなさなかった.

7. バウアーは,ボーヴォワールが男性哲学者たち(ヘーゲル,ハイデガー,サルトル)の概念や道具立てをたんに性差の分析に「応用」しているわけではなく,独自のものとして改鋳していることを詳細に分析している(Bauer 2001, chap. 3-7).

8. フェミニスト現象学に対して向けられてきた一連の批判とそれへの応答については,

小手川 2021 で詳述した.

9. この点は,レクチャー時に特定質問者を務めて下さった筒井晴香さんにご指摘頂いた.記して感謝する.

10. 加えて,バウアーが取り上げていない,いわゆる「フレンチ・フェミニズム」の思想家たちの哲学的意義についても検討し直す必要がある(横田 2020).

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