2021 年 2021 巻 48 号 p. 41-57
フィヒテ道徳論における「前規定」の問題を巡って
浅田 遼
本論は,他者(他我)との共生がいかにして可能となるかをフィヒテ哲学に沿って考察するものである.換言すればここで扱うのは,我々が血の通った他者と交渉の場を共有する可能性の条件とは何であるか,という問題に他ならない.抽象的に他我という概念一般を知っていたとしても,それだけで私が他者と交渉することができるとは限らない.というのも,他の理性的な存在者というだけではそれが理解不可能な異星人という可能性を排除しきれないからである.我々がそれを〈あなた〉と呼び共に生きるためには,同じ世界を共有し,相手の行動への応答法を知っている必要がある.更に言えば,相手が不在の時ですら私は他者と交渉しているのであり,現に我々はこの紙面を媒体として他者の存在を知ることができている.こうした直接的,間接的交渉が可能とならない限り,他我は血の通った人間になることはない.しかし,不在の他者にさえその痕跡を見て取ることは何によって可能となるのか? この点を究明しなければ,私は他者を知ることはできても共に暮らすことはできない.そうでなければ,それは通常我々の知るような他者ではなくなり,現に我々がなしているような交渉は不可能であったことだろう.
こうした問題圏を捉えていたのがフィヒテである.フィヒテは他者論を集中的に論じ,これが自我の可能性の条件であることを看破した.しかし,このようにして導き出された他我が血の通った〈あなた〉であるには,更に二つのことが必要である.一つは,それが個別具体的な誰かとして私に影響を及ぼす者であること,そしてもう一つは,具体的な交渉の可能性を共有していること,これである.本論の見るところ,フィヒテはこうした契機への考察を「前規定 Prädetermination」という概念を通して遂行していった.しかし尚,こうした点については,立ち入った検討がなされていないのが現状である.
本論は,こうした問題意識のもとでフィヒテ他者論について考察を加えていくものである.その際考察されるのがフィヒテの『道徳論の体系』(以下『道徳論』)に見られる「前規定」概念であり,本論の論述もその解明という形で進められていく.より直接的に述べるなら本論の最終的な課題は,次の一節,すなわち「すべての自由な行為は永遠の昔から,すなわち時間の外部において理性を通して予め運命づけられて〔予定されて〕いる Prädestiniert」という一文を,前期知識学全体と整合的に解釈し,これを共生の可能性の条件としてとらえることにある.
この,時間を超え自我の行為や知覚が規定されているという発想は,「前規定」,「運命付け」,「予定Prästabilieren」と名前を変えつつも,『道徳論』や「道徳についての講義」(以下「講義」)などにおいて繰り返し見られるものであった.しかし,自我の自由を根底に据えた知識学と,この行為の「前規定」という概念は一見していかにも折り合いが悪い.事実これまで「前規定」を巡っては,当箇所を全くの論理的破綻と見なす解釈が提出されてきた.この立場の解釈者は,当概念はライプニッツ的「予定調和」に影響されたものだと
見なす1.対して本論はこうした捉え方に抗し,“当概念はあくまで前期知識学において整合的に理解可能なものだ”という見方を打ち出す.それゆえ本論のフィヒテ研究上の課題は,集中的な読解を通して「前規定」のライプニッツ的解釈に代わる新たな解釈を提示することにあるといえる.
本論がこのように「前規定」の整合性を主張する動機は,これから確認していくように,「前規定」が他者論,道徳論,行為論,人工物論が交錯する地点において提出された概念であり,その整合性はフィヒテ哲学全体の整合性を揺るがしかねないという点にある.それゆえその検討には慎重を期すべきであ り,更に言えばその考察を通して知識学全体のより深い理解を期待することができるだろう.こうした地位が,「前規定」への検討を有意義なものたらしめているのである.
本論でなされる検討は以下の形をとる.
第一節では,基本的な記述と問題の確認を行う.この〈わたし〉は他者の個別具体的な行為に影響されることで個体性を得ている.しかし我々は人工物を通しても他者と出会うのであり,(他者の作品を破壊するのを躊躇うように)自然物と違った扱い方を予め心得ている.では,行為に道徳的制限を課すような人工物認識,ひいては他者との現実的な相互作用は,どのように準備されるのであろうか? その成立要件を巡る問いが,「前規定」を取り巻く問題環境に他ならない.
第二節では,人工物の議論を取り扱う.どのようにして人工物は自然物から区別されるのか? 議論を先取りして言えばそれは,当の物体が共有されうる何らかの目的に合致するものとして捉えられ,その破壊が他者の自由の侵害だと認識することを通してである.それは最終的には道徳的感情(良心)とのつながりにおいて捉え返されることになるだろう.
第三節では,人工物の一部である道具がなぜ道具として認識されるかを考察する.道具は然々の要件を備えているから道具であるのではなく,身体が支配するから道具となるのである.そして念動力が使えないように身体は万能ではなく有限性の内に置かれているのだから,その支配も有限である.このように道具の「前規定」とは,道具の認識根拠が自我の側にある事態を指している.そして自然認識と共に道具という手段の認識を共有することで,我々は他者と同じ世界理解をうることができ,共同的世界の可能性が開けることになる.
第四節では,他者の行為がどのようにして私の働き返し方に影響を与えるか
が問われる.他者が認識されたとき,良心という無謬かつ直接的な感情が立ち現れ,利他的行為を利己的行為から峻別する.それは,我々が共に理性的存在者として平等であることを根拠としており,利己的行為が他者の自由(および自身もその一部であるような理性一般)を傷つけることになると看取されることを通して成立する.良心は根源的自我が個別具体的な局面において表出される直接的感情であり,その点で原理と特殊を架橋し,具体的な利他的行為を潜在的に自我の内で規定している.こうした構造を共有している以上我々には潜在的な判断の一致が約束されているのであり,これが道徳的「前規定」と呼ばれるものである.
最後に第五節では,四節までで扱った「前規定」を他者との交渉の場を可能とする特権的な「前規定」によって包括的に理解することが目指される.我々が個別的な他者と交渉することが可能となるためには,他者と直接的或いは間接的に接触し,道具と世界を共有し,互いに道徳的な働き返し方を共有することが必要である.それらは自我の内に潜在的に内在する規定性であって,第一に他者との共生の可能性を,第二に人工物と成員によって成り立つ共同的世界を,第三に共同的世界の目的と手段の共有を可能とするものである.そして,これらが総体として理性的存在者の一員である〈わたし〉の成立要因をなしている.
このように,「前規定」が対象とするのは個別的自我の可能性の条件ではあるが自我の外部に属するもの,つまり,自我の自己規定には含まれないもの
(自然,他者)である.この,〈わたし〉の根拠でありつつ〈わたし〉の外部に存在するような存在は,とはいえその逢着と応答の可能性が自我の側に根差すものでなければならない.このアプリオリ性とアポステリオリ性の架橋をなすのが「前規定」概念であり,これは他者の自由を毀損せずいかに自由に行為できるか,という問いにおいて先鋭化することになる.そして,最終的な回答は以下のようなものである.すなわち,他者との共存在を可能にする諸契機は自我の内に規定されており,その意味で何が道徳的応答か,何が道具で人工物であるかは潜在的に規定されているが、その内実はあくまで経験をまつものである,というものである.これが本節の議論の結論であり,かかる構造がフィヒテを冒頭の一文へ導いたのだ,という帰結の導出をもって,課題は達成されることになるだろう.
「前規定」が問題となるのは,他者を巡る行論,つまり“なぜ自己の外部,それも感性的世界に他の理性的存在者を想定することになるのか”という議 論,これである.なぜこのような問題がフィヒテにとって重要であるのかといえば、知識学における他者が極めて根底的な意味を持つからに他ならない.すなわち,「自分の外部に現実的な理性的存在者を想定することは自己意識の条件であり,自我性の条件である」(SSL221),より雑駁に言えば,他者が
〈わたし〉の可能性の条件である,というしだいにある.私は他者によって自己意識を持ち,他者と共に生き,しかも他者が不在でも他者に間接的にたどり着きさえできる.こうした局面において仲介役を務めうるのが,人工物に他ならない.フィヒテはこの人工物という特殊な存在者を手掛かりにし,議論を次のように進める.
それがまさに人工物として措定される,というその特殊な規定はどこに由来するのであろうか.この人工物は,衝動の特殊な独特の制限を推論することを許す.——簡潔に次のように言える.(…)〔単なる自然客観が私の存在(知覚や身体)を制限するのみならず〕それは,行為への我々の衝動の制限でさえあるということから,我々は我々の外部の自由を推論する.(SSL224f.)
つまりあるものが人工物として認識されるのは,それが私のどのような行為を為そうとするかについて影響を与え,ひいては人工物の奥に他者の自由をとらえるからだ,というのである.例えば我々は,他者の作品を破壊したり花壇を踏み荒らすことに抵抗を覚える.つまり,「我々の行為が内面に押し戻されるのを我々は感じる」(SSL225)のである.しかし,花壇と花が広がる丘の違
いは何か? 人工物とそれ以外の物体は,どのように区別できるのか? ここ
に問題の火種がある.
さて,人工物の特殊性は新たな問題を引き起こす.それは,「この特殊的な制限性は一般的な制限性からアプリオリには導出されない」(SSL225)ということ,つまり彼/彼女との相互作用は特殊な〈わたし〉を可能にするという意味では超越論的な条件である一方,それはあくまで偶然的に現れる,というのである.ここから一気に,フィヒテは「前規定」へとたどり着く.それが,
以下の箇所である.
他人の自由な行為は私の個体性を限界づける点として私のなかに根源的に見出されるべきであり,したがって通俗的な表現を用いるなら ば,永遠の昔から予定されており prädestiniert seyn,決して時間の中で初めて規定されるべきではない.このことによって私の自由は廃棄されてしまうのであろうか.(…)そのようなことはけっしてできない(SSL226)
他者の自由は〈わたし〉を可能にするという点で根源的である,そのため,単に経験的偶然性に収まるものではない.それにもかかわらず,現れるのは偶然的な誰かなのである.この根源性と特殊性の競合に問題があり,これを解決するには,予め特殊なものが現れると根源的に約束されていたのだと考えざるをえない.だが,他者の自由な制限が〈わたし〉に先んじて私を規定してしまっては,私の自由は滅却されてしまうだろう.根源性と特殊性の問題は,私の自
由と他者の自由の競合という問題に我々を引きずり込む.
そこで出される解決策が,「前規定」の発想である.フィヒテは次のように述べる.
解決は困難ではない.自我にとっては(…)自由な存在者のすべての影響はアプリオリに規定されている.(/…)したがって私の主張は次のようになる.すべての自由な行為は永遠の昔からvon Ewigkeit her,つまりすべての時間を超えて理性によって予定されている.
(…)〔しかし〕そのなかで何かが生起するところの時間,および行
為は予定されていない.(/…)誕生してから死ぬまでの彼の境遇と運命は規定されているはずである.ただし,当の行為のみはそうではない.(SSL227f)
フィヒテの認識に反して,この記述は明らかに困難を含むように思われる.自我は自由に行為できるのに対し,その影響は決定されていた.影響は決定されている,しかし時間内容は決定されていない.瞥見しただけでもこうした記述の相反が理解を阻むのであり,俄かに読み下せるものではないものとしてい る.こうした矛盾の解きほぐしが,本論の取り組むべき課題である.
「前規定」の手掛かりとしてフィヒテが示したのは人工物であった.そこで本節は,人工物の存在性格を究明することにあてられる.
問題となるのは,“なぜ自然物と同様に物体でしかない存在が人工物として認識されるか”にある.単なる木切れを私は薪にできても,それが誰かの作った木像であれば薪にするのははばかられる.つまり,単に身体的影響のみならず,行動にも影響を及ぼされているのである.ここに,人工物の特殊な存在性格がある.
こうした議論が最も集中的になされるのは,「道徳についての講義」である.ここでとりわけ注目に値するのは,以下の箇所であろう.
人工物は自然物のようには説明されえない.(…)〔人工物は〕産物の外に目的として存在する何かについての概念であり,それに対して自然物そのものはその目的を自分のうちに含むからである.(/…)私は人工物を変容すべきではない.(…)ここから私は私の外部の自由を推論する.私がここで変容してはならない dürfen ということは, 感情である(CM.A110f.)
ここで書かれているのは,人工物の性格とそれへのいわば心理(感情)的反応である.
フィヒテによれば,我々は第一に,自然物と人工物を区別することができ
る.そして第二に,こうした人工物の背後に他者を見て取るのは我々がその物体をむやみに変容(破壊,改造)してはならないと感じるからである.例え ば,野に咲く花が外的な目的もなくただそれ自体において生えている一方,花壇には景観という目的概念をその外部に備えている.しかしそれは,我々がその花壇を踏み荒らすことに抵抗を覚えることで他者の影を見出すからなのである.
ここで注意すべきは,この「変容してはならない nicht modifizieren dürfen ということは感情である」(CM.A111.強調筆者)という点だ.なぜこの箇所 が重要なのかといえば,それが良心との接続を示唆するからである.後述するように,良心とはフィヒテ道徳論における根本概念であり,かつ最も直接的で
無謬の感情であるとされる.そしてそれゆえにまさに,人工物を巡る感情は道徳論的文脈に位置づけられることになる.そうであればこれが意味するのは,人工物の破壊などが選択肢に上がった時,そこに他者の目的を見て取った以上自我には直接道徳法則を開示する感情が必然的に立ち現れる,ということをおいて他にあるまい.
議論を元の地点に戻せば,人工物を巡る矛盾は,それが“自然客観と同様の物体的存在でありながら,更に感情によって私の自由をも制限する”という点にあった.この矛盾の解決を,「講義」は次の構造に求める.
以下のことが証明できれば矛盾は廃棄されるであろう.すなわち,あらゆる自由な存在者は同一の目的を持つということ,したがって一人の目的に適ったやり方は他者の目的に適ったやり方であるというこ と,一人を〈解放すること〉は他者の解放であるということである.
──もしそうであるなら,私はすでに手段であるものをもはや私の自由の手段にする必要はない.(CM.A115)
つまり人工物がなぜ私の行為を制限するかは,“我々が目的を共有する事態を通して,説明される”というのである.人通りがあるものの舗装されていなかった道を私が整備した時,それは他の人間と共通の目的に従ったものと言え る.そして,誰かが道を舗装したならば,わざわざ私はそこに手を加える必要がない.自己の目的意識と他者の目的意識は接続されうるのであり,この事実によって私は自分の行為を制限し他者の自由を守ることができる.先の例を用いるなら,道を見た時私は自分もまた持ちうるだろう共通の目的(例えば道の舗装)をそこに見出し,道を破壊すれば共通の目的と共に私の自由が,ひいては他者の自由が破壊されるのを感じ取る.この,(他者とつながりを持つ)自己との一致/不一致によって,行動の制限が可能と判断されるのである.
ここで,特定の目的がどうして共通のものとなりうるか,なぜ我々は目的を介しつながりを持てるのかという点については,疑問の余地があるだろう.この疑問にフィヒテは,我々が個人であると同時に自我一般の内の一人として存
在するからだと答える.つまり,“私が個人 A であることが自我性一般にと って完全に偶然的であり,そして自立性の衝動が自我性一般の衝動であるべ き”,そして自我性一般の衝動は“われわれの純粋衝動或いは道徳的衝動の努力であり,我々の最終目的”である,と答えるのである.私は一個人としてある以前に自我一般の一人である.そして他者と共に自我として存在し,その最奥に究極目的という一般的な目的が存在している.この自我の構造の同型性ゆえに,自立性への目的を共有できるのである.我々は自然の脅威をやわらげ,最終的には道徳的な共同体として存在すべきである.こうした目的を共有し行為を選択することで,私は他者の自由を侵害せずに済むのだ.
それゆえ,以下のように言える.共通の目的となりうることを通して私は人工物への行為に自己制限をかけられる.或いは,間主観的な存在である私たちにとって,それが共同の目的に資するものであることと言い換えてもいい.そして,この人工物を勝手に処分してはならないという判断は,自我一般としての我々の共通性に起源をもつ.これである.
以上が人工物を巡る議論の帰結である.この結論によって,浮いた存在であった人工物は正当に他者論の中に回収され,その特殊形態として他者の自由の内に還元された.つまり,人工物は間接的に他者の存在と目的,道徳的関係を告知し,かつ他者との道徳的な共通性を示唆するのである.それゆえ,人工物は他者の自由がいわば物体として切り離され他者を間接的に指示する,他者の自由の外化態として我々に現象する.そして私は他者に対するのと同様,人工物を介してもまた自己との一致/不一致という感情(良心)を感じ取ることになるのだ.後述するように,まさにこの共通性と感情の命令を介して,自他の自由は共存が可能となる.そのため,人工物の「前規定」への検討によって,道徳論的「前規定」概念の解明は大きく前進したと言ってよい.以上が,本節での結論である.
人工物を巡る議論から,他者との共存在としての自我が,ひいては道徳的行為の目的概念との関係が明らかにされた.
更にここで,ある特殊な人工物,すなわち道具をめぐって,新たに二つの
「前規定」が現れることになる.これらは,「講義」において見いだされる.ここで重要なのが,その根拠が道具の側にあるのではなく,私の側にあることである.フィヒテは以下のように述べる.すなわち,「或る手段の使用への 我々の働きかけの制限性は日常的な人間悟性という視点では,事実存在する物の性質によって説明されねばならない.しかしそのような説明は,超越論的視点からは全く〔行われては〕ならない」(CM.A34f.)というのである.つまり道具認識の根拠は自我の,道具使用にかかわる器官,すなわち身体に基づかねばならない.
そもそも,フィヒテにとって身体とはなんであったか.曰く,「自由を代表
具現するもの Repräsentant は,感覚界にあっては肉体である.(/…)肉体は,物質界における我々の意志の持続的な叙示 Darstellung である」
(NM.A155),つまり,身体は意志と自由の表現であって,それゆえ動物のように身体の使用は決定されてはおらず,自由な使用が可能なものでなければならない .
また,フィヒテは「私がそれを手と見なしうるためには,なお多くの対象が手の接触,道具としての手の働きに支配されているのでなければならない」
(CM.A35)と述べている.これは,身体が感性界の中で様々な手段を用いて特定の目的を実現する媒体として存在していることを想起すればよい.私の自由を物質界で表現する身体はいろいろな物体に開かれ,その使用も無限でなけ
ればならない.手は木の枝を“支配”し,鈍器として,或いは地に絵を描く筆として使用することができる.つまり,道具だから私はそれを道具とするのではない.身体が使用するから,私はそれを道具とすることができるのである.無論,身体の使用の無限性とは,自然法則を無視したり,体の物体的な在り 方を逸脱したりするものではない.脳波でパソコンを動かすなどであれば可能
性はあるかもしれないが,一定の限界は存在するはずである.
であれば身体とそれに道具とされる物体は,「自我が自分自身を制限し,しかもそのように制限すると想定するほか〔ない〕」(Ebd.).自我には一定の限界があり,身体はその自我が制限するのであるから,道具使用の方法には一定の限界がある.これをフィヒテは「自我自身の本性 Natur である内在的法 則」(Ebd.)と述べるが,上記のしだいに鑑みれば,これは万能ではない人間の在り方を指したと言ってよい.もしこのような制限性を考慮できなければ,我々は手品と曲芸を見分けることができないであろう.どのような人間も物理法則や物体の性状,能力の限界を共有しているのであり,驚くべき柔軟性で体を曲げることができる人も,二つの部分に切り分けられて平然としていたり首
が 360 度以上回ったりすれば,奇術の一種だと判断される.
以上のような在り方をした身体が,自然物を道具とし己の支配下に置く.それゆえ,道具は多彩でありその使用には習熟がありえるだろう.だが問題なのは,あくまでその使用法が身体の側にある点である.ここから,「前規定」につながる道具の制限性が述べられる.
フィヒテは次のように述べる.
我々の原因性の〈発展の〉行為を観よ.そうするとこの能力の発展は時間に属し,各々の瞬間において時間に制限されている.(/…)そのような個別的な制限をとりまとめ,あらゆる時間の外で,あらゆる時間に先立って考えるならば,それは絶対的な制約となる.それによって我々の世界は我々にとって永遠に予定される.(/…)私のうちの主観的なものはまったく予定されていない.──私が行なうのではなく,何かを経験する限りで,──私の経験が私の行為に依存する限
りで,全ては予定されている.(CM.A35)
私は使えなかった道具を使えるようになり,更にうまく用いられるようにな る.一方で,いかなる道具が現れたとしてもそれを扱うのは自我であり,その点で自我は潜在的に道具の用い方を知っていると言えるだろう.思いも寄らなかった道具,例えばパソコンにフィヒテが出会った時,彼はそれの使い方を知らない状態から知っている状態へ,更に使いこなす状態へと進んでいくはずである.いくら人間を超えた威力や速度で道具が作動したとしても,それによって新たな行為が可能になったとしても,それは私が潜在的に可能であったものの実現でしかない.また,もし道具が私たちに起源を持たないような物体であれば(例えば「2001 年宇宙の旅」に出てくるモノリスのように),それを
我々は扱うことができず,道具とすることはできず,私の行為は規定されないだろう.
このような道具の在り方に鑑み,個別性や巧拙を抜きにすれば,道具の潜在的な使用や限界は自我のうちに予め存在している.事実フィヒテは,目下人が空を飛べないとしても将来には可能となるだろうと述べており,フィヒテの道具観がこうした性質であることがうかがえよう.
ここから,第二の「前規定」に議論は移行する.予定調和という言葉が現れるなど本論において重要となるこの箇所は,自然,人工物,道具に関する諸個人の一致にかかわるものである.
さて,『新方法』での議論も加味すれば,道具使用や自然客観のありようは自我のうちにその萌芽を持っている.
ただこのような仕組みによってのみ,理性的な諸個人の間に共同体もまた可能にある.もし万人にとって同一の世界の見方が──意見の一致がなければ,共同体も不可能であろう.(/…)これは世界直観から見ればすべての理性的存在者の間の真の予定調和である.
(CM.A36)
予定調和という語は極めて誤解を招きやすいが,上述の議論に従えば決してライプニッツ的な解釈を容れないのは明らかである.これまでの「前規定」は,自然物や道具という客観に関しての根底的な理解にかかわっていた.それゆ え,林檎が上に落ちるという思考の構造をしている人間のみならず,道具は不可能な事象を可能にするものだとしか考えられない人間とも,意見の一致は不可能であろう.他者とのこうした思考法則の一致は,〈わたし〉の側にすべての根拠を置くものではない.〈わたし〉が〈あなた〉を思考法則の一致する存在としたのではなく,その点でこの一致は規定されたのではなく「予定」されたものなのだ.道具認識の如上の性状は,このような自我同士の世界観を巡る約束された一致であり,共同的世界の成立要件の一つとして機能している.後述するようにこの点には更なる根拠が置かれることになるだろう.
さて,物体を巡る議論は解決された.しかしこの議論は,「前規定」とどう関連するのか? この問いを起点にして,いよいよ「前規定」の中心的な解明に向かうこととする.
これまでで確認したように,「前規定」とは自他の自由の共存をめぐって提出された概念であった.それはすなわち,個体的自我にとって他者の自由は自己の可能性の条件として根源的に要求されるのに,しかし他者の自由であるというまさにそのことによって自我のうちに根拠を持ちえず,偶然的に与えられざるを得ない,という事態を指す.問題は,この根源性と特殊性のギャップである.そこで手掛かりとなったのが,同様な在り方をしている人工物である.これもまた、自我のうちに根拠を持たない物体であり,他方で自我の自由を制限するものであった.私は人工物に立ち会うことで良心を感じ,他者との道徳的共通性に触れる.そして,人工物への処遇が良心によって決定されていることによって,「永遠の昔から予定されていた」ものへと議論は移行する.
それゆえなぜ人工物が俎上に上がったかは,それがアポステリオリな存在でありながら,道徳的な影響を与え我々の行為を規定する(例えば花壇を踏み荒らさないなど),という他者と同様の性質を備えている点にある.そしてここから,同じ理性であること,そして究極目的を共有していることが,我々の紐帯となって存在していると判明したのだった.
ここで改めて本論の成果を確認すれば,以下のようになるだろう.
「前規定」である
ここから他者に関する「前規定」を予想すれば,それは自他の共通性によって
(4),個別的局面で現れる他者の自由とそれへの応答法に関して(2),根源的に自我に潜在している構造によって他者との交互関係が可能となり(1),〈わたし〉も存在しうるものになる(3),ということになるであろう.しかし,それ
はどのようにしてか? 「彼の境遇と運命が規定されている」とは結局何なのか? 最後に,この点について考察していきたい.
これまでの考察によって,人工物への行為論は他者論の中に回収することができた.そこで,フィヒテの述べるように人工物を通して他者関係を考察することもまた,可能となる.この時想起すべきなのは,次の一文であろう.つまり,「人工物は自由の所産かつ自然の所産であり,(/)自由な存在者がもろもろの他人にいかなる種類の影響を及ぼすべきであったかということは,彼らにとってもたしかに同様に規定されている」(SSL227.強調筆者)という箇
所,これである.我々は,道具の使い方を知っているように,人工物を尊重す
る術も知っている.こうした人工物への影響とは,消極的には“破壊してはならない”,“勝手に処分,改造してはならない”,といったことであった.また,積極的には,“共通の目的に合致しているから破壊の必要はない”,“その目的を介し両者の同意が得られるなら,人工物への処断は許される”ことと言えるだろう.そのため,“いかなる種類の影響か”とは“(自我の一般性と道徳性を根拠とする)共通の目的に適う類の影響”と言い換えることができ る.
一方,規定されていないものもある.それは,誰が,どのような順序で,どのような行為をなすかである.自我は無限の選択肢を持ち,その中から利己的な行為を捨て道徳的な行為を選択することで,自我は自分がどのようなものであるかを形成していく.これが,個体的自我の特殊性である.
さて,ここでどのようにして“いかなる種類の(道徳的)影響”が「前規 定」されるか,が最大の焦点となる.というのも,「前規定」は単なる法則の適用ではなく,より個別具体的な局面に密着したものだからである.それゆえ,“道徳法則への認識と思考によって行為の種類を選択する”という想定は成り立たない.
ここで本論はその判断根拠を「良心」に求める.この良心と「前規定」の関係については,すでに人工物を巡る検討にて触れておいた.この関係に関する根拠を前述の箇所以外に挙げるなら,次のようになるだろう.すなわち,まさしく道徳的行為の絶対的な判断基準が良心であること,このフィヒテ道徳論の中核概念である良心は具体的な場面で直接的感情として現れるものであって認識的判断ではないこと,そして,フィヒテにとって理性的存在者である限り
「良心は決して誤らない」こと,これである.
立ち返るべきはフィヒテ哲学における道徳法則だろう.フィヒテはこれを,実質的には「そのときどきの君の義務が何であるかを確信するように行為せ よ」(SSL163),形式的には「君が確信をもって義務と見なしうることを行なえ,また君が義務であると確信したという理由でのみ,それを行え」
(Ebd.)というものであった.つまり,行為はあくまでもそれが義務であるということによってのみ規定されるべきであり,逆に義務だと確信できない場合それを行為すべきでない,というのである.ここで直ちに明らかになるのは,
道徳的行為の根拠が確信に大きく依存している,という点だ.しかし,「義務についての意識は実質的には直接的ではない」(SSL173),すなわち,ただ義務という概念を弄んでも義務の内実は出てこないのである.そして,「これこれのものが特定の義務であるという意識」(Ebd.)が直接開示されるのが,良心に他ならない.
それゆえ良心は,「特定の義務であるという〔直接的〕意識」(Ebd.),及び(義務が根源的自我の一致/不一致によって判定されるために)「根源的な純粋自我についての直接的意識」なのだとされる.この良心,つまり「確実性
についての感情は,判断力の働きが道徳的衝動と合致することから」
(SSL175)生じる.そして,自我の根底から直接現れ出る以上,良心は「最終審において判決を下す」(SSL174)のであり,もはや「良心は決して誤ることはないし,また,そうすることはできない」(Ebd.).これが,フィヒテの良心概念である.すなわちそれは,道徳的行為を直接告示し導く道徳法則の体現者(Vgl.SSL171)であり,個々の局面で私の行為の善悪を決定する絶対的審級なのだ.
有名かつきわめて強烈なこのフィヒテの主張は,これまで数多の議論を呼んできた.しかしここで重要なのは,フィヒテが良心を個別的局面において現出する根源的なものとしてとらえている点である.これはまさに前規定の持つ形式そのものである.そして,他者もまた理性を持ち良心を持つ以上,良心は他者との潜在的な一致を約束するものでもあるのである.この良心によって「前規定」が果たすべき役割はすべて満たされるのであるから,道徳論的「前規 定」は良心のあり様を示していたと言って良い.
それゆえこれまで述べてきた道徳論的「前規定」は,最終的な根拠を良心に持ち,良心が併せ持つ具体性と普遍性を表現したものに他ならない.具体的局面において良心は私がいかなる種類の行為をなすべきかを指令し,その指令は根源的かつ特殊事例に密着したものなのである.これが,本節の結論である.節を閉じるにあたり,「前規定」によってなぜ自我の特殊性が可能となった のか確認することは,議論をまとめる上で有益であろう.そして簡単に応えれば,それは「前規定」が他者との相互作用を可能にするからにほかならない.良心は自己意識の可能性の条件であり,かつ,その都度の局面に呼応して現れる根源的な制限様式を告示する,アプリオリに規定された根源的感情の経験で
ある.この良心は,自我にとっては特殊で偶然的な存在である他者に対する応答を可能にする.この他者の特殊性を介して自我は特殊具体性を帯びる.そのために,「前規定」は〈わたし〉という特殊性を可能にするのである.
我々は生涯にわたって,絶えず良心によって利己的行為と利他的行為との選択を迫られている.仮にそうした選択肢に利他性を識別する徴表がなく,或い
は選択肢の間に区別が全くなく完全なる無記であったなら,自我は単に自然衝動に従って動物のように生きることになるだろう.しかし理性的存在者の根本的な性格は,そうした自然衝動から身をもぎ離そうとする動向にある.それゆえ,世界を道徳的に色づける感情,つまり良心は,決して廃棄されてはなら ず,その「前規定」も決して失われることがない.理性的存在者としての個別性は,この「前規定」的良心によって可能となり,告示された道徳的選択をなすか為さないかにかかっているのである.
以上の考察によって,道徳論的「前規定」のあり方は明らかになったように思う.よってここで節を閉じ,次節で「前規定」一般を概観することとした い.
以上では,「前規定」についての具体的な考察を行ってきた.これらの成果を踏まえ,以下ではフィヒテが「前規定」を通していかなる思考を発展させていったか扱うこととする.
さて,概括的な考察に移るにあたりさしあたり指摘すべきは,個別的な「前規定」概念の異同である.これまで考察してきた「前規定」は,その局面に応じて内実が少しずつ異なっている.人工物においては理性の共通の目的が根拠となり,道具においては身体の可能性の総体が,そして他者への応答可能性は良心がその根拠となっていた.
では,こうした差異は各「前規定」の独立を意味しているのであろうか.言葉を換えれば,「前規定」と呼ばれる三者はただ名前を共有するだけで別個の事象に関わるものであり,せいぜい家族的類似性を有するだけのものなのだろうか.
そうではないというのが本論の主張である.というのも,以下で述べるように,三者は共に他者との共生の条件であり,それが他者と関わるか,共同的な目的と関わるか,共同の目的の手段と関わるかによって区別されるのだと捉え返すことが可能だからである.
さしあたり確認すべきは,三者が総体として何へ差し向けられているかであ る.その際まず指摘すべきは,それが有限な理性的存在者の性状を根拠にしているという点で一致している点だろう.つまり,良心は理性性の条件であり,そこから引き出される目的も同じものとならざるを得ない.そして,自我の自由を体現する身体は万人に共通であり,それが万能ではない点で一致しているのである.その有限性が問題である以上,それが五体満足で典型的な人間の身体である必要はない.問題なのは個体化の問題であり,この点についてフィヒテは次のように述べる.
この個体性が現出する仕方は,すでに決まっている.すなわちそれは,〈私は私を,或ることをするのが許されない nicht dürfend,でき
ないとして nicht könnend,見いだすが,それでもこの或ることは,私がそれをできないものとして見いだすべきであるなら,やはり私に対して在らねばならない〉という具合に出現する.規定された全作用 は,自由な活動への促しである(NM514)
つまり,有限な我々には物理的或いは道徳的に不可能なことが現前しており,この事実的な現前性との関係を通して〈わたし〉が与えられ,自由へと方向付けられている,というのである.ここで,良心が“許されない nicht dürfen”を意味するとすれば“できない nicht können”は身体がそれを担うと言って良い
2.つまり,道具的「前規定」と道徳的「前規定」は共に自我の個体性の在り
方を示しているのである.
そうだとすれば,これら三つの「前規定」はより上位の「前規定」の分枝として理解するべきであろう.すなわち,自由である精神とその自由を表現する身体の両面から個体性を可能にするような,自我に備わる潜在的規定性がそれである.そして「前規定」の考察全体が示すその対象とは,他者との共生,或いは共存在の可能性と言って良い.
理由は次のとおりである.つまり,「前規定」とはそもそも異他的なはずの他者の行為が自我に影響を及ぼせるのはなぜかという問題において提出されたものであり,その根源的な制限性を意味するのが「前規定」であった.そし て,利他的行為は無謬絶対の道徳的良心を原理として,道具は道徳の目指す共通の目的を,人工物は自然認識と共にこの共有の世界直観を原理として,共に他者との紐帯を可能にするものであった.そのために,これら諸「前規定」は根底的には良心を核として共に他者との共生を志向しているのであり,こう言って良ければ共存在の可能性の諸条件として一貫しているのである.
では,三者はどのような関係にあるのか.この点を論じるためには,これまでの議論を共在する他者との道徳的関係という観点から捉え返す必要がある.つまり,人工物と道具は道徳的にどのような意味を持つか,道具は何のための道具なのか,これらを問わねばならないのである.そして,両者は共に,良心論との関係における共通の目的,つまり我々が何を目指しているかに関わっている.それはフィヒテにとって一貫して理性的世界の実現,道徳的共同体の完成に他ならないのであるから,人工物と道具もまた,道徳的世界の実現という観点から考察されねばならない.
まず第一の点について述べると,次のようになるだろう.人工物は一言で言えば,理性の持つ共通の目的を介して他者を告示するものであった.そのために人工物は他者との間接的交渉を可能とし,共同的世界とは何かを教え,そこへつなぎとめるものである.第二に道具は,共通の目的に資するものであり,それは究極的には道徳的世界の実現であった.そのために道具認識は共同的世界の中で何が手段となるか,世界に働きかける方法は何かを告示する.
そのため,道具と人工物は世界の重要な契機であって,その認識は自然認識
と共に世界がどのような在り方をしているかを開示している.法則と道徳法則だけを知っていても食物をそれと認識できなければ餓死するのと同様,道具と人工物を理解できなければ我々は協働して家を建てることも他者の家の破壊を控えることもできない.まして,他者への正当な働き返し方を知らなければ,我々は殴りかかったり逃走したりせず挨拶することすらままならないだろう.これらは共に,共同的世界を形成し共生するために不可欠な要素なのであっ て,その根拠が自我の内にあることが「前規定」の真の意味に他ならない.
以上のように三者はそれぞれ,共生のための他者への働き返し方(他者論的
「前規定」),共同的な世界への働きかけ方(道具的「前規定」),世界の在り方(人工物的「前規定」)の潜在的共有を意味しており,更に言えば良心的行為,行為目的の手段,及び手段の認識という,段階的な関係においてとらえることができる.そして,これら全体がいわば三位一体となって他者との共同体を可能とし,その点で諸個人の共生可能性を担保するものなのである.
よって,フィヒテの考察全体が差し向けられていたのは共生の可能の条件としての「前規定」であると結論付けられる.換言すれば,他者との具体的な相互作用の場を形成できるために我々に備わっている,潜在的規定性こそ特権的な「前規定」なのである.我々は道徳という共通の文法に沿って共存在する可能性を秘めており,この可能性が潜在的な紐帯となって我々を結んでいる.それは理性一般の一つであるという共通性の上に成り立っており,この共通性を通して自我は他者に理性を見出し,彼/彼女の自由への侵害は理性への侵害だと悟ることで行動を差し控え,私の行為に影響が及ぼされるのである.そし て,共通の目的によって一人でいる時であっても人工物を媒介に通じることができるのが我々であって,道徳的世界の実現という目的とその手段を我々は共有しうるのである.
こうしたしだいによって,〈わたし〉と〈あなた〉が成立する.そして,それぞれの行為は自由によってなされるために私にとって偶然であり,事実として現前し,私の特殊性を形作る.それらすべての可能性を準備し地平を開く潜在的規定が我々には刻み込まれているのである.こうした規定性こそ「前規 定」に他ならない.
以上の考察によって本稿の課題は達成したように思われる.確認のため問題の端緒となったフィヒテの記述に本論の成果を対応させれば,以下のようになるだろう.すなわち,自我にとっては他者の行為の影響は予め我々の側に根拠を持って規定されている.それゆえ,すべての道徳的で自由な行為の種類は時間を超えて理性の構造に従い潜在的に規定されている.そのなかで誰が具体的にどのように行為するかは各人の自由に依っているが,誕生してから死ぬまでに彼がどのような身の振り方(Verhältnis)をするべきか,それが予め自我の
内に刻み込まれているという運命(Schicksal),この両者は自我の構造そのもの
によって予め規定されている,というのである.
こうした自我の構造によって,フィヒテ的自我は相互作用の可能性を確保す
ることができる.そして,他者の個別的偶然的自由に影響されることで,自我はこの〈わたし〉として個体性を帯びることができるのであり,「前規定」はその意味で人工物や他者の現れる具体的な場面を準備するのである.こうした個別具体的なものに密着した議論は,ややもすると形式を重んじる観念論からあぶれてしまいかねない要素であった.しかし,カントがカテゴリーや道徳法則の演繹を行った一方,我々はこうした法則的認識以上のものを捉え暮らしている.とりわけカントに欠けていたのは他者に対する集中的な議論であり,フィヒテが「前規定」に逢着したのはまさしくこの問題圏を捉えていたからであった.道徳法則を知っているのに食物を捉えられない人間は生物として落第であり,他者の花壇を無遠慮に踏み荒らすようでは,通俗的な道徳性さえおぼつかない.そこで導入されたのが「前規定」という発想に他ならない.
「前規定」はこうした個別的な局面においても,自我にはその認識根拠が萌芽的に与えられているという事態を指している.何が起こるか,何をされるか全くわからない道具や他者とでは,いかなる交渉も叶わないだろう.こうした事態を回避する潜在的規定性がフィヒテの考察した「前規定」であり,様々な人や物が交錯するという境遇,運命を我々に提供するものなのである.
管見の限り,『道徳論』のライプニッツ的解釈者の嚆矢は Heimsoeth(1923)であ る. また,最も立ち入ってフィヒテと「予定調和」説を扱ったのは Taver(2006)であり,主に後期の社会哲学との接続という観点から“超越論的モナド論”としてフィヒテ哲学を取り扱っている.
しかしライプニッツ的解釈を困難にしているのは,フィヒテ自身のライプニッツに対する言及が少なく,また「予定調和」への評価が半決定論(『論理学・形而上学講義』 GA IV-1 s.471.)という極めて両義的なものにとどまっている点である.また,前期知識学については説得力を欠くと言わざるを得ない.
〇J.G. Fichte の著作
CM:Gesamtausgabe / Reihe IV: Kollegnachschriften. Band 1: Kollegnachschriften 1796-1798, „Collegium über die Moral in Sommerhalben Jah.1796” edited by Reinhard Lauth, et al., frommann-holzboog Verlag, 1977. S.9~148. (以下,CM と略記)
また,引用の翻訳は
J.G.フィヒテ『フィヒテ全集 第五巻 言語論・解釈学・文学作品 道徳論講 義』「道徳についての講義 イェーナ,一七九六年夏学期」竹島あゆみ,山田忠彰訳(2014) 晢書房 359~615 頁
を用いた(引用に際しては都合上一部変更を施した)
NM:Gesamtausgabe / Reihe IV: Kollegnachschriften. Band 2: Kollegnachschriften 1796-1804, „Wissenschaftslehre (nova methodo) von Fichte aus den Jahren 1796/97” edited by Reinhard Lauth, et al., frommann-holzboog Verlag, 1977. S.15~267. (以下,NM と略記)
また,引用の翻訳は
J.G.フィヒテ『フィヒテ全集 第七巻 『イェーナ後期の知識学』』「新たな
方法による知識学」藤澤賢一郎、千田義光訳(1999) 晢書房 1~358 頁 を用いた(引用に際しては都合上一部変更を施した) SSL:Gesamtausgabe / Reihe I: Band 5:Werke 1798-1799., „das System der Sittenlehre” edited by Reinhard Lauth, et al., frommann-holzboog Verlag, 1977.
S.1~317. (以下,SSL と略記。頁数については慣例に従い SW 版に従う)
(また、引用に際しては
J.G.フィヒテ『フィヒテ全集 第九巻 道徳論の体系』「知識学の原理による道徳論の体系」藤澤賢一郎・高田純訳(2000) 晢書房 1~467 頁を用いた(引用に際しては都合上一部変更を施した)
・Heimsoeth, H.(1923): Fichte, München, E. Reinhardt.
・Taver, K. V. (2006): „ Freiheit und Prädetermination unter dem Auspiz der prästabilierten Harmonie: Leibniz und Fichte in der Perspektive,”. Amsterdam: Rodopi.