2021 年 2021 巻 48 号 p. 58-82
——コジェーヴおよびマクダウェルの解釈との対比から
小原 優吉
本稿の主な目的は, ヘーゲル『精神現象学』自己意識章における「欲望Begierde」についての議論(以下, 欲望論)の意義を明らかにし, 同書における「形而上学体系への導入」という企図からこの議論を再評価することである.その過程で, 現代英米哲学とフランス現代思想におけるヘーゲル解釈にそれぞれ大きな影響を与えたマクダウェルとコジェーヴの自己意識章解釈を検討する.彼らの解釈と対比することで上記の観点から行われる本稿の解釈を際立たせ,『精神現象学』の個々の議論を読むときにはその著作全体の構想を絶えず気にかけることが必要であるという一例を提供する, このことが本稿のもう一つの目的である.
本稿の構成は以下の通りである. まず第一節では, 自己意識章において欲望 がどのように書かれているのか読解しつつ, 「欲望論の意義とは何か」という問いを提出する. 第二節ではコジェーヴとマクダウェルによる解釈をこの問題との関連において検討し, 彼らの解釈の難点を指摘する. 第三節では, 『現象学』の序文および序論との関連から欲望論を解釈することで, 上記の二つの目的が達成されることになる.
本節では, まず分析の対象となる自己意識章冒頭部文(以下, 冒頭部)の概要を整理し(1. 1), そそのように訂正しました欲望論を読み解いたのち(1. 2),その意義についての問いを立てる(1. 3).
まずは, 欲望論について何が問題となりうるかを把握するためにも, それが書かれている冒頭部の議論の概要を, 意識章から振り返る形で示しておく.
『現象学』の叙述は最も自然な(素朴な)意識から始まる. この意識は⽬の前にある「このもの」が真に存在するものだと思い込んでいるが, 自らの経験を通じて「このもの」の存在がいかに信⽤できないかを知る. このような調子で, 感覚的確信, 知覚, 悟性といった「自らの対象は本性上何であるか」ということを検討するような, 対象についての意識(以下, 対象意識. これは概して後述の自己意識と区別される)についての議論が重ねられるが, しかしこのうちの三つ目, 悟性の段階では, 意識はそのような対象のうちにそれをそのものたらしめている自分の存在を意識するようになる. こうして対象意識は「自己意識」へと生成する. このようにして自己意識章へと進み, 「冒頭部」へと議論は移る. そこでの議論は, 以下のようなものである.
意識は対象の経験を重ねることで初めて自己意識として生成することができた. しかし当の自己意識はそのこと意識しておらず, 自らを直接的に与えられているような端的な「自我 Ich」として考える. ここにおいて自己意識は「自らの現実存在(GW9, 61)」を確信し, 端的に自分自身のみを意識の対象としている.さて, その一方でかつて感覚的確信という仕方で与えられていた対象の存在が自己意識に対して現象してくる. この現象を廃し自らの真理を現実のものとするために, この対象の廃棄を欲するのであり, すなわち自己意識は「欲望(GW9, 104)」というあり方を取るのであるが, ここで自己意識はかえってその対象の自立性を経験する.
ところで, このような議論が行われた後に突如として生命論が挿入される 1. この箇所では生命の存在について, 特に個々の生物と普遍的な生命との関係について論じられ, それを踏まえて意識の対象は, その実「生命(GW9, 104)」であり, また「類(GW9, 107)」であることが説明される. こうした生命論を挟んで,意識の対象は意識と同様に自己意識であることが当の意識に対して生成してくる. つまり, 意識(対象意識および自己意識)と対象との対立という論述上の構図から, 自己意識同士の対立という構図へと変わっていったところで,「冒頭部」は終了するのであり, 基本的にはこの「意識と対象の対立」という構図から「自己意識と自己意識の対立」という構図へと変わることこそが「冒頭部」の展開の大筋であると見て間違いないだろう.
一見すれば明白なことだが, わずか十頁ほどの「冒頭部」には様々な論点が詰め込まれており, 一読して趣旨を理解することは難しい. さらにヘーゲルは,この議論を以って「我々は真理の故郷に分け入っている(GW9, 103)」のであり,「意識は精神の概念にある自己意識にあって初めて, 転換点を得ることになる(GW9, 108)」と宣言する. こうした煩雑な議論の中で欲望について何が言われているのかを追うことが当座の本稿の課題となる.
欲望という語は「冒頭部」にて幾度か登場する. 特に本項目では以下の三つの記述, つまり冒頭部第二段落の「自己意識は欲望一般[Begierde überhaupt]で ある(104)」, 第三段落の「直接的な欲望[der unmittelbaren Begierde]の対象は 生命あるものである(104)」, そして第九段落の「自己意識とは欲望である(107)」の三つにおいて, それぞれの内実について解釈する. いずれの「欲望」についても, ひとまずは我々の日常言語において用いられるそれとは区別して考えなくてはならない. 以下三つの項を設けてそれぞれを解釈する.
まず冒頭部第二段落の「自己意識は欲望一般である」について, ヘーゲルは以下のように述べる.
感覚的世界は自己意識にとってひとつの存立であるが, しかしこの存立はたんに現象であるにすぎず, 自体的にはいかなる存在も持っていない区別であるにすぎない. しかしこの現象と自己意識の真理との対立は,この真実のみを, すなわち自己意識の自己自身との統一をその本質[Wesen]としている. そこでこの統一が自己意識にとって本質的にならなくてはならず, すなわち自己意識は欲望一般である. (GW9, 104)
まずはこの引用を理解するべく努めよう. ここで「感覚的世界」「現象」と言われているのは, 自己意識章の直前の箇所である意識章において意識が検討していた対象一般についてである. そこでは意識は自らの感覚・知覚・悟性によって捉えた事物的対象を存在の本質と捉えていたが, 自己意識章では意識は自分自身について思考し, そうした諸対象はむしろ自身に依存していると確信と確信. この意味で, 自己意識と呼ばれる意識の形態は, 「自我は他のものに対して自我それ自身であり, かつそれと同時にこの他のものを超えてこれを包括している. 他のものとは, 自我にとってまた同様に自我であるにすぎない(103)」と考えており, 換言すれば, この意識にとって目の前の事物を捉えることはそれを成り立たせている自分自身を捉えることに他ならない.
しかしここにおいて「この現象と真理との対立」が生じている. この「真理」とは, ヘーゲルが最終的に提示しようとする何か究極的なことがらを指し示すわけではない. ここでは意識が暫定的に有している「自分自身のみが真に存在するものである」という確信を指す程度であって, これはむしろのちに撤回されてしまうようなものであると捉えなければならない.
この「真理」と「現象」とが「対立」しているとはどのようなことなのか. ここでのヘーゲルの記述は曖昧であり, 決定的な解釈を提出するのは難しいが 2,以下のような対立が生じているのだと考えたい. その一方で、真理とは「自分自身のみが真に存在するものである」という確信であった. しかし他方では「現象」が意識にとってそれが非本質的なものとして存在している. 両者は同様のことを, つまり「自己意識こそが本質である」ということを言い換えたものであるように見えるが, そうではない. 前者の確信はより強い意味を持っており,この確信においては自己意識以外の存在はあってはならないことになっている.後者はもう少し弱い意味で, 自己意識以外のものは, 存在するにしても, 非本質的な仕方で存在している, ということを指している. いずれにおいても自己意識が本質であることには変わらないが, しかし後者においてはなお自己意識と「区別されるもの(104)」が存在してはいる.
この際, 意識は自らの「真理」に沿うべくこの「対立」を解消しようとするが, そのために意識がとる態度こそが「欲望一般」に他ならない. 引用を見る限り, この「欲望一般」という語は「自分自身との統一をその本質としている」ことの言い換えとして導入されている. この「自分自身との統一」とは, 上述の対立を解消することで「自分自身こそが真の実在である」という確信を実現することであると考えられる.
「欲望一般」が「自分自身との統一をその本質としている」ことの言い換えであることに注意することで, 「欲望一般」が何ではないのかについて述べることができ, ヘーゲルの欲望論を読む際のありうべき誤解を解いておくことができる. つまりここでは「欲望一般」とは「意識の自分自身の存在へと向かう性向」について言及するものであって, 日常的に我々が「欲望」の名において考える「何か或るもの一般を欲する心理状態」のことを指す訳ではない 3. 言い換えれば, 「欲望一般」とは, まずもって「存在」「実在」に関わり, しかも(日常的な意味におけるそれのようにその都度生じたり解消されたりするようなものではなく)恒常的に意識につきまとう態度であると理解したい 4. この理解はのち重要になる.
以上が第二段落で提出される「欲望一般」についての議論である. 再度述べると, 「欲望一般」は「自己自身こそが実在である」という確信を確証しようとする意識がもつ, 存在に関わる傾向としてここで導入されている. この「欲望一般」についてより立ち入った検討を行うためには, その直後に現れる, 「直接的な欲望」と比較するのが有効であるため, 次項で「直接的な欲望」の検討を行なったのちにこの「欲望一般」に立ち戻ることにする.
本項では, 「直接的欲望」についてのヘーゲルによる以下の記述を解釈する.
自己意識にとって否定的なものである対象は, しかしその対象の側では,我々に対しあるいは自体的には, 他方で自己意識がそうであるのと同様に自らのうちへと立ち返っている. 対象はこの自らのうちへの反省を通じて生命となっている 直接的な欲望の対象はひとつの生命あるものである. (GW9, 104-105)
まず「直接的な欲望」の解釈にあたり「生命」「生命あるもの」がどういうものであるのかについてはここでは置いておきたい. これについては次項で扱うとして, 現時点ではこの「生命」が上で述べられた意識の対象であることと理解しておけば, 「直接的な欲望」を理解するのに事足りる.
さて, 対象が「否定的である」と言われているのは, 上述のように対象が意識の「真理」にそぐわない形で存在していることを指す. すなわち, 対象は意識にとって取るに足らないものであるにも関わらず依然として存在している. ヘーゲルはこうした対象の性質を「否定的」という語で示し, またこの対象を「他在」と呼ぶ. 上述の「欲望一般」を満たすために, 意識はこの対象が自らに対して持つ「否定的なあり方」を解消しなければならない 5.
この時に現れてくるのが, 「直接的な欲望」である. 先の「欲望一般」についての引用とは異なり, この「直接的な欲望」はその欲望の向かう先として, そうした否定性を持つ対象を持っているということがわかる. この「欲望一般」と「直接的な欲望」の違いを見て取るためにも, 幸津(1991)による解釈を見ておこう.
幸津は, ここでの「欲望一般」と「直接的な欲望」が, 従来の解釈においては同じものであると想定されていることに言及し, むしろその差異を明らかにしようとする. 彼によると, 上述のような「自分自身の確信を真理に高めようとする傾向」である「欲望一般」は, 「冒頭部」を越えて以降の意識の運動を駆動するような, 自己意識の基礎的な性格づけである. そしてこの「欲望一般」が取る一つの形態として, こうした「真理と現象との対立」を廃棄しようとする「直接的な欲望」がある. 彼は, 「欲望一般」が「直接的な欲望」よりも種として広いと解釈していることになる 6.
本稿はこの幸津の解釈を受け入れたい. その理由は以下の通りである.「冒頭部」の展開を先取りして言えば, 「欲望」が「承認」にとって変わられることになるのであるが 7, 「承認」についての議論へと移ったあとにも「欲望一般」という語において示されるような「自らが真の存在であることを示したい」という意識の態度はなお引き継がれることになるからである. そしてより重要であるのが, 彼のこの解釈を採用することで「冒頭部」における以下のことを整合的に読むことができる. すなわち「欲望一般」においてはただひたすらに自らの存在を気にかける意識の態度が示されていた一方で, 「直接的な欲望」においてはその欲望の向かう先が示されていること, このことの説明がつくように思われる.
幸津のこうした区別を採用した上で二つの欲望をわかりやすく言い換えれば,以下のようになる. 「欲望一般」は「真理と現象の対立」に際してひたすらに「自らの真理を確証したい」と思っている意識の態度であり, 「直接的な欲望」はそうした「欲望一般」を満たすためにこの対立における現象, すなわち意識にとって否定的であるという特徴を持つ対象に対して, これをどうにかして処理したいと思っている意識の態度である. つまり欲望の向かう先があるか否かによって二つの欲望は区別される.
本稿が主張したいのは, この「直接的な欲望」にあってもただ「この対象をどうにかしたい」という態度が取られているだけであり, 具体的にどのような方法でこの欲望が解消されるのかについての指示は行っていないのではないか,ということである. このことを示すためにも, 本稿は幸津の解釈をさらに拡張して, 上記の二つの欲望に加えて第九段落における「欲望」もまた区別されると解釈したい.
本項が読解する第九段落における「欲望」については, 以下のように言及されている. 少し長く引用する.
単純な自我がこの類であり, 言い換えるとそれに対していかなる区別も存在していないような, 単一でもある普遍性であるのは, ただこの自我が形態化された自立的な契機の否定的な実在であることによる. そしてそれゆえこの自己意識が自分自身を端的に確信するのは, こうした自己意識に対して自立的な生命として現れてくるような他のものを廃棄することを通じてのことであり, つまり自己意識とは欲望なのである. この他者の無を確信しながら, 自己意識はこのことを自らの真理として自分自身に対して定立し, 自立的な対象を否定し, それによって自分自身の確信を真の確信, つまり自分自身にとって対象的なしかたで生成している確信として, 自らに与えようとする(GW9, 107).
ここにおける「自我」は自己意識として読んでも差し支えないだろう. この自我が「類」であると言われるのは, 前項において対象が「生命」であると言われていたことと関係する. 先に対象が「生命」と言われていたのは, 対象が単に意識に対して「否定的」であるのみならず, むしろ「それ自体として」存在を保っているということを示すためのものである. 第四段落から第八段落において, ヘーゲルは生命について議論を行うが, それによって言われていたのは,対象が取るに足りない存在であるということは意識の単なる思い込みであり,それゆえに先の「直接的な欲望」のようにこの対象がなくなることをただ望んでいるだけではこうした自立的な対象は存立したままである. そこで意識は生命あるものとしての対象についての経験を得るが, それによって得られたのは,この対象はその実「類的存在」であるということであり, それは普遍的なものでありながら個々の生物をうちに含めながら存在する全体としての生命であった 8.
ここからが重要であるのだが, こうした生命のあり方を知ることによって,自己意識はむしろ自らもまた同様にこうした類的存在者であることに気づくようになる(GW9, 108). このことを踏まえて, 引用を解釈する.
自らが類的存在であることに思い至った自己意識は, 類的存在者が持つ否定性という力もまた自らに備わっていることに気づく. 換言すれば, 自己意識とは普遍的な存在者である自らが目の前の個々の事物を生成・消滅させるような「過程(GW9, 106)」そのものであることを知り, 自己意識に関する新しい自己理解を得る. このことが引用の一文目で言われていることであって, こうして自己意識は「類」であり, 「否定的な実在」であると言われることになる.
引用の二文目・三文目では, さらに以下のことが言われる. 意識は今やこの新しい自己理解のもとで対象と接するようになり, この新しく自覚するに至った「否定性」という力のもとで, 対象を「廃棄」し, 「否定」するようになる. これは多くの解釈者たちが指摘してきたように, 目の前の具体的なものを食べてしまったり, 壊してしまったり, そういった自らの存立のための周りの事物を壊してしまうこと一般を指すと見てよいだろう. ここで便宜的にこうした否定性を行使することを「否定行為」と呼ぶとするが, この否定行為を行うことが可能となることをもって, 「自己意識が欲望である」と言われる.
このとき, この否定行為を伴う「欲望」は, 上記の二つの欲望のいずれとも異なっていると思われる. まず「欲望一般」については, それが単に自らの存在に固執する意識の傾向性であったことを思い出せば, ここでの「欲望」とは違うものであることはわかる.
さらに, 「直接的な欲望」とは, 「欲望一般」よりもここでの「欲望」に近しいものではあり, 意識にとって否定的な事物をその欲望の対象として持つものであった. 本稿はここで, こうした対象の否定性が意識によって考察されることで, 意識はこの否定性をむしろ否定する力に自覚的になるという事態を引き起こすというところに, 第三段落以降の生命についての議論の意義があると想定したい. このように想定するならば, ここでの対象を否定し廃棄しようとする「欲望」とは, 「直接的な欲望」を満たすためのより具体的な行動を取ることに対する意識の態度として, 「直接的な欲望」とは区別され, むしろ「直接的な欲望」に下属するものであると解釈できると考える.
これまで本稿は幸津の解釈枠組みを拡張して, 自己意識章冒頭部において三つの欲望のあり方が描かれていると解釈した. まず「欲望一般」とは自らが本質であることを確証しようとする意識の態度である. 次いで「直接的な欲望」とはこの「欲望一般」が充足されるために自らの確信に削ぐわない対象へとその矛先が向かっている欲望のあり方である. 最後に「欲望」——これは欲望とのみ言われていたが, 文脈を考慮してあえて言うならば「否定的行為を伴う欲望」となるだろう——は, この対象を否定することでこの「直接的な欲望」を満たすようなものであった. すなわち否定的行為を伴う「欲望」が満たされることで,
「直接的な欲望」もまた満たされ, そしてそれによって「欲望一般」もまた満たされるという構図になっていることになる. ただし付言しておけば, この否定的な行為によってはこれら欲望は満たされないことが自己意識章の以降の展開において書かれる. 周知の通り, これによって承認についての議論へと展開されることになる 9.
ヘーゲルがどのような意味で欲望という語を用い, そしてそのもとでどのような事態が記されていたのかについての解釈は以上となる. こうした欲望論について, 本稿は次のような問いを投げかけることとしたい. ヘーゲルはどのような意図でこうした欲望論を書いたのか, 言い換えれば, 『精神現象学』における欲望論の意義とは何なのだろうか.
例えば, この問いはしばしば以下のような形で解釈者たちによって問われてきた. 意識章においては, そのもとで感覚・知覚・悟性についての議論が展開され, カント『純粋理性批判』とそれに端を発する認識論的な議論に対するヘーゲル流の省察が記されていた. しかし, 自己意識章に入るやいなや, 上記のような欲望論や「生命の存在論 10」のような, いわゆる認識論的な話題とは外れる議論が行われる. 言い換えれば, ヘーゲルはここで「実践哲学的な転向 11」を行っており, 欲望論の意義を考える上ではこのことを改めて問い直す必要があるだろう.
このような方針のもとで, この問いに回答する前に, 『現象学』における欲望論がこれまでどのように解釈されてきたかを次節以降で検討する. 第二節ではコジェーヴの, 第三節ではマクダウェルの解釈を取り扱う.
本節以下では, 前節の終わりに提出した「欲望論の意義とは何か」という問いを考察する. ここではコジェーヴとマクダウェルの解釈を取り扱うが, 両者はそれ自体としてフランスおよび英米におけるそれぞれのヘーゲル解釈に大きな影響を持っており, あくまで本稿は以上の問いに関わる限りにおいて両解釈の再評価を行うことになる.
本項では, コジェーヴによる欲望論解釈を紹介した上で, この問いに対して彼がどのように答えていることになるのかを明らかにする.
よく知られたことだが, コジェーヴは当時公刊されたばかりのマルクス『経済学・哲学草稿』や, ハイデガー 『存在と時間』における人間存在論を始めとした議論に動機付けられて, 『現象学』のとりわけ欲望論および主奴論をヒントに一種の哲学的人間学を構築しようとした. 彼の解釈は, 彼の講義記録をもとにレーモン・クノーによって編集・公刊された『ヘーゲル読解入門』によって伺い知ることができる.
彼の欲望論解釈は以下の二つから特徴づけられる. (1)まず「自己意識」という語を「人間」と読み替え, これを「社会的・歴史的な存在者」であるとして「自然」的な「動物」から区別する. (2)それに沿って「人間的欲望」と「動物的欲望」という区別を導入する.
それぞれ確認していこう. まず(1)について, ヘーゲルは自らが記述する意識主体ないし自己意識が人間であるということを明言していない一方で, コジェーヴは「自己意識」という語を「人間」と読み替え可能なものとして扱う. 実際,『ヘーゲル読解入門』の本文は以下の記述とともに始まる. 「人間とは自己意識である. 人間は自己を意識し, 人間としての自己の実在性と尊厳とを意識している. この点においてこそ, 人間は単なる自己感情の域を超えぬ動物と本質的に異なっている(Kojève, 1976, 11 頁)」. この引用から明らかであるように, 彼は人間としての自己意識を「動物」から区別する. 彼にとって, 人間としての自我とは「(所与の実在するものに対しては)自由で, (自己自身との関係においては)歴史的な(人間的)個体(ibid, 13 頁)」であるが, これは「ただ生きているにすぎない自我, 動物的自我(ibid, 13 頁)」とはそのあり方において全く異なっている.
(ii)コジェーヴによると, 自我が単に自己感情を持つだけでなく, 自己意識をも獲得しているような歴史的な人間的自我であるためには, 動物的な欲望に加え人間的な欲望を持っていることが必要である. 彼にとって欲望とは, まずもって食欲に代表されるような生存に必要な欲求であり, 自然にある対象へと向かう欲望である. しかしここで欲望の対象となる欲望は「非我」であり, それゆえこうした動物的欲望によって自覚されるのは自己意識というには程遠い単なる自己感情である. コジェーヴに言わせると, こうした自己感情から進んで自己意識へと至るためには,「欲望が非自然的な対象, 所与の実在を超えた何物かに向かう必要がある」が, 「この所与の実在するものをこえる唯一のものは,欲望それ自身である(ibid, 13 頁)」. この欲望へと向かう欲望こそが人間的欲望であり, 「人間の生成をもたらす欲望, すなわち自己の個体性, 自己の自由, 自己の歴史, そうして自己の歴史性を意識する自由かつ歴史的な個体を構成する欲望(ibid, 13 頁)」である.
以上がコジェーヴの解釈の特徴である. 上記から分かる通り, 彼は欲望論を「動物的欲望からどのようにして人間的欲望が現れるのか」についての過程を記述するものとして解釈するが, そうした彼の欲望論解釈はやはり彼の「哲学的人間学の構築」という企図に動機づけられているといってよいだろう. 彼はこうした「人間的欲望」の解釈をもって, 冒頭部以降で描かれる「主人と奴隷の弁証法」から人間学的な洞察を引き出す. 彼のこうした「人間的欲望」についての思考は, フランスにおけるヘーゲル解釈を強く規定した 12.
以上を踏まえると, コジェーヴの解釈は「欲望論とは何か」という問いに対して, 以下のような返答をすることになるだろう. すなわち, 欲望論とは, そこにおいて動物的自我から人間的自我が登場し, それによって『現象学』が歴史を持たない自然の記述から「人間の歴史」の記述へと移行するための議論である. その意味でコジェーヴの解釈は, 意識章と自己意識章の非連続性を強調し,またこの欲望論をもって, それによって実際の人類史が解明されるような人間の本性が描かれていると解釈する.
こうした解釈に対してどのような評価を行うことが可能だろうか. まず指摘できるのは, 彼のこうした「人間/動物」や「人間的欲望/動物的欲望」という区別は, 冒頭部の欲望論を読む限り見出されないということである. 第一節において読解してきたように, ヘーゲルは欲望を規定するに際して「人間」や「動物」という語を用いない. 例えばイエナ期の精神哲学論考には, 欲望は動物的なものとの関わりの中から規定されているが, 「体系の構想」という性格を持つこのテクストと「体系への導入」という性格を持つ『精神現象学』の違いを等閑視し, 直ちに前者の欲望論をもって後者のそれを補完することは, やや強引な読解であると言えるだろう 13.
次に指摘できるのが, 自己意識章において人間の歴史が生成することを指摘し, それによって意識章と自己意識章との非連続性を強調するという点についてである. 確かに, 冒頭部には自己意識章において「意識の歴史」と呼ばれる『現象学』の叙述の状況が大きく変わったことを示唆する記述がいくつかある 14.しかし「意識の歴史」それ自体は意識章から始まっているのであるから, ここにおいて初めて人間の歴史が生成するという解釈には疑問を呈さざるを得ない.
「人間」という語は冒頭部において用いられない以上, こうした解釈は「哲学的人間学を作る」という動機によって歪められていると言えるだろう 15. こうした冒頭部とそれ以前との非連続性を強調する解釈に対して, 次項ではむしろ それらのうちに連続性を見出すという方針のもとで行われた解釈を検討する.
本項ではマクダウェルの論文「統覚的自我と経験的自己—ヘーゲル『精神現象学』「主人と奴隷」の異端的解釈に向けて—」における解釈を検討する. 彼自身が自らの解釈を「異端的」と呼ぶように, 冒頭部における諸議論を単なる「アレゴリー(寓話)」として読むという, 従来のヘーゲル解釈に真っ向から対立する解釈を提出している. こうした解釈はコジェーヴのように, 冒頭部の議論を, 歴史を規定する人間の本性についての省察として読む解釈とは趣が異なる. マクダウェルのこの解釈は, 「自己意識章を意識章との連続性において読む」という方針のもとに導かれており, その意味でもコジェーヴの解釈とは対称的であると言えよう.
例えば, マクダウェルは「欲望一般」に関して以下のように述べる.
ヘーゲルが欲望をもち出していることに訴えて, このテクストで自己意識のものとされた運動について, いくらか具体的な理解を引き出したくなるかもしれない. しかし, テクストはこの期待を裏切るはずだ たんに他のものとしてのみ最初は現れるものを占有したり消費したり, 自分のうちに吸収したりすることによって他性を否定するという一般的な考えの比喩として, 「欲望一般」は役割を果たしている. (McDowell, 2009,155 頁)
ここにおいて彼が主張しているのは, 「欲望」という語をもって我々が日常的に抱く欲を想起してはならないということであり, このこと自体は本稿第一節における「欲望一般」の解釈と同様である. ただし, この「欲望」が比喩とまで言われるのは, マクダウェルが以下のように冒頭部を解釈しようとしているからである. すなわち, 冒頭部はそこにおいて人間が行為を行うような歴史を導入する箇所ではないどころか, ここにおける記述は全て意識の内面を記述するものであり, 意識自身も何か外界に対して行為をなすといったことが描かれているわけではない, という解釈である(ibid, 155 頁).
この彼の解釈を理解するためには, 「冒頭部をカントの理論哲学への反論として読む」という彼の戦略を確認する必要がある. すなわち, 冒頭部における自己意識の生成は超越論的統覚の生成として, またそこにおける他の自己意識の生成は経験的自己の生成として, さらに自己意識章 A におけるいわゆる「主人と奴隷の闘争」は, そうした二つの自己の統一の運動として解釈される. このような戦略からマクダウェルは, 自己意識章における「欲望」「生命」「闘争」についての議論を, 意識と外界との関係を記述するものではなく, 意識の理解の内面が変遷する過程を描くものとして, アレゴリーや比喩であると主張する(ibid, 163)16.
さらに言えば, この解釈戦略は, マクダウェルによる以下の方針を反映している. つまり, 生命や欲望についての理解しがたい議論を, 「自己意識章のクライマックス」を考慮に入れつつ, 「あらゆる実在であるという確信に向けて, すなわち, 主観的なものと客観的なものを隔てる他性の止揚」を進展させるものとして読解するということである(ibid, 154 頁). 彼のこの方針を補足すると,これはすなわちマクダウェルは自己意識章本来の課題を「主観と客観が対立する図式を廃棄する」ことだと理解しているということがわかる. この課題に照らし合わせれば, 例えばコジェーヴが行なっていたような人間本性についての洞察をここから読み取るという解釈はこの課題にいかなる寄与をも果たさないという意味で退けられ, そして意識章における認識論的な議論に引き続いてカント的な認識論に対する批判が自己意識章において行われるという解釈が正当化される, ということが主張されているのだろう. この意味で, 彼は『現象学』の「本来の課題」というものに気を配る形で, 意識章と自己意識章の連続性を見てとっていることになる.
以上がマクダウェルの解釈の要点である. したがってマクダウェルにとって欲望論の意義とは以下のようになる. つまり, 欲望論とは「経験的意識と超越論的自我の同一性」というカント認識論の問題を解決するために導入された「アレゴリー」「比喩」であり, その限りで人間本性に対する省察を含むものではなく, 自己意識章の「本来の課題」に寄与する議論である, ということになる.
本稿はこのような解釈に対して以下のような評価を⾏う. まず, コジェーヴの解釈とは対称的に, 彼が『現象学』の「本来の課題」を念頭に置きながら解釈を進めている点を肯定的に評価したい. しかもそこにおいては, コジェーヴのときのような, 意識章と自己意識章の非連続性がテクストからは読み取れない形で強調されているという難点は当然回避されており, むしろ両者を同様の課題意識のもとで書かれたものであると想定するのは自然であると思われる 17.
しかし, 彼の解釈には首肯できない点が二つある. 一つ目は, 欲望論を含める諸議論が単なるアレゴリーであるとされる点である. 第一節で読解していた限り, 自己意識は意識章と同様に自らの外界にある事物と関わっていたと解釈されていた. このことが「真理と現象の対」と言われていたものであり, カントへの反論という観点からこの「現象」を外界の事物ではなく経験的な自己であると読み替えるのは, 本稿の解釈に比べてより多くの正当化を要すると言えるだろう18. そしてこの点は, 二つ目の点と結びついている. 首肯できない二つ目の点とは, 自己意識章の「本来の課題」がこうした認識論的な主客対立に尽きるものだとされ, さらにカントへのアンチテーゼとして冒頭部を読むという方針についてである. マクダウェルはカントとヘーゲルを即座に結びつけるが,そこではフィヒテやシェリングなどの思考が不思議なまでに無視されていることに異議を唱えたい. 例えば『全知識学の基礎』においてフィヒテは「表象の演繹」と題して, 低次の認識能力から高次の認識能力がどのように演繹されるのかを論じており(GA2, 369-384), こうした感覚から理性までの認識能力の発展は, 『現象学』における「意識の教養の歴史」と大きく重なる 19. カントにまで即座に遡ることによって, こうした影響関係は見過ごされてしまうだろう. まさにこうしたカントへの結びつきとともにマクダウェルが理解する自己意識章の「本来の課題」を, より『現象学』の企図に即した形に訂正することこそが,次節において本稿が取り組む課題である. そのために, 本稿は「序文 Vorrede」および「序論 Einleitung」との関連の中から欲望論の意義を解釈することになる.
前節では, 有名な二つの欲望論解釈を検討し, それぞれが欲望論にどのような意義を認めているのか考察してきた. 両解釈から, 本稿は以下のような方針を手に入れる. 人間学的に読まれるのではなく, またアレゴリーとして読まれるのではない欲望論の解釈を元手に, その意義を(カント理論哲学からではなく)『精神現象学』全体の目的を視野に入れた仕方で理解したい. この方針においては, 欲望論を「序文」「序論」と関連づけて解釈するのが妥当であるだろう20.
本節が欲望論と結びつけて考えるのは, 序文および序論における「学の生成」「個人の絶対的自立性」「決心」という三つの論点である. それぞれ引用したのち欲望論と重なる形で解釈する.
【学の生成】
そこにおいて真理が現存するところの真なる形態とは, ただ真理の学的体系でしかありえない. 哲学を学の形式に近づけること––愛知というその名を捨てることができるようにし, 現実の知にするという目標に近づけること––, このことに協力するというのが, 私の企てたことである. . . .それゆえ哲学を学にまで高めるべき時代がきていることを指摘することこそ, この目的を有する試みの唯一の真なる正当化であるだろう. (GW9, 11-12, 太字強調は引用者による)
この序文からの引用において, 『現象学』の企図が「哲学を学の形式に近づけること」であると表明されている. ここで「哲学を学の形式において記述する」とは決して言われないことが重要である. このことは, 『現象学』が学的体系そのものではなく, それへの導入を行うためのものであることを示している.
さらに, ヘーゲルはこうした導入に「協力する」ことが企図であると述べる.この主張が意味するのは, 学的体系を獲得するというこの課題がヘーゲルの時代において共有されていたということである. この課題は直接的には第一批判における「形而上学に先立つ批判哲学」という構想に端を発するが 21, フィヒテ 『知識学の概念について』はこうした学の体系というアイデアや「それをどのようにして始めるべきか」ということについて明確に論じており 22, シェリングもまた自然哲学による補完という形でフィヒテの体系論に異議を唱えていた 23. こうした学問体系およびそれへの導入という文脈の中で『現象学』が書かれたと読むべきであるが, 本稿はここで「欲望論がこの学への導入という企図と 関わる」という仮説を持ち出したい. この仮説が妥当であるならば, 欲望論ひいては冒頭部の議論は, カント理論哲学からのみならずこの体系論・導入論の文脈からも論じられるのが適当であるだろう.
さて, こうした仮説を持ち出すことの妥当性は, どのようにしたら得られるだろうか. 一つには, 第一節でみた「欲望一般」の性格が, 「序文」における「個人の絶対的自立性」という事態と類似していると指摘することができる. 少し長く引用する.
【絶対的形式としての個人】
学が自身の側から自己意識に対して, 自己意識がこのエーテルへと自らを高め終え, そうして学とともに, また学のうちで生きることが可能であり実際にそのように生きることを要求する. 逆に個人は, 学が自身に対してこの立場に至るための梯子を手渡し, 自らのうちにもこのような立場が備わっているということを自身に示すことを要求(欲求)する権利を有する. その個人の権利は個人の絶対的な自立性に基づいており,意識はその自立性を自身の知の各形態において所有していることを知っているが, それというのも知のすべての形態において, それを学が承認しているにせよそうでないにせよ, また内容がどのようなものであっても, 個人は絶対的な形式であるからである. これを言い換えると個人は自分自身に関する直接的な確信を持っているということであり, …そうだとすると意識にとっては学の境位は遠い彼岸であり, そこにおいては意識はもはや自分自身を所有していないことになる. これら二つの部分のいずれもが一方にとって真理の顚倒であるように映る. (GW9, 23)
ここにおける「絶対的自立性」「絶対的な形式」とは, 「自分自身に関する直接的な確信」とも言い換えられており, これは真なる学がどれほど個人の誤謬を正そうとも撤回されることのない, 自らの理解に固執するという個人の傾向を指す. この自立性は, 「直接的欲望」すなわち自らの存在に固執する自己意識の傾向と極めて類似していると言えるだろう. 自己意識が「直接的欲望」という性格を備えることは, 序文においてすでに規定されていると理解することができる.
さらにこの引用は学についての議論とも関わりが深い. すなわち, ここにおいては学と個人の関係が語られ, この個人の絶対的な自立性によって学はまず拒否される. 個人は学問によってただ説得されるだけでは自らの信念を曲げないのであって, 学の側から「梯子」を渡されること, すなわちその人自身が納得できるような正当な「学への導入」を要求する. 上記の二点, すなわち「欲望一般と個人自立性の類似している」および「個人の自立性が学の導入論と強く関わる」という点から, 本稿は「欲望論が学の導入論と強く関わる」ということを推論するのである.
それはどのように関わるかといえば, 以下のようにしてである. 欲望としての自己意識は, 自らの存在を真理と考えその考えに固執する. しかしその真理は現象と対立しており, 現象および生命についての諸々の経験から直接的欲望や否定行為を伴う欲望として自らを自覚する. 冒頭部において語られるのはここまでであるが, しかしその後の自己意識章や理性章を通じて, それらの欲望が挫折したり, 承認という新しい対象との関係様式へと移行したり, また自己と現象との関係を考え直したりする. このようなプロセスが, 引用で言われているような「学への梯子」の一段一段であると理解されよう.
最後に, 上記の仮説の妥当性を高めつつ, また自己意識章と意識章の連続性について示唆を持つ解釈案を示そう. それは序論における「決心 Vorsatz」が欲望のいわば原型であるという解釈である.
【決心】
この完遂される懐疑主義とは, 真理と学に対して真摯であるかのような熱心[der ernsthafte Eifer]によって, 十分とはみなされず, 準備が整ったであるとはみなされないようなものである. すなわち(引用注: そのような人は懐疑主義を拒否する者は)学においては権威に基づき他人の思考に身を委ねることなく, むしろあらゆるものを自分自身で吟味し, ただ自らの確信にのみしたがうような, より適切に言えばあらゆるものを産出し, ただ自らの行為のみを真なるものとみなすような決心とともにあるということである. (GW9, 56)
ここでは「決心」は, 学的体系を手に入れることを志すこととして言われている. ここで注意が必要であるのは, これはヘーゲルが批判する立場の特徴を示したものであるということである. ここでの批判対象は,「所与の知見に依拠することなく自らで真理を吟味しよう」という立場であり, そしてヘーゲルによれば彼らは自分自身に対して信頼を寄せすぎている, すなわち「自惚れ」ている.
ただし, そうであるからと言って, ヘーゲルはこの「決心」というあり方そのものまでをも否定するわけではないと本稿は解釈したい. ここでのヘーゲルの批判は「自分自身を確信しすぎる」という点に向けられており, そうした立場を仮定法を用いながら「あたかも情熱を真理自身に対して燃えるような情熱を抱いているようである(GW9, 58)」と評すること, また懐疑主義を「単なる否定的な運動(57)」であると評しつつ『現象学』を「目標」を持ちつつ懐疑から一つの積極的事実を見出す肯定的でもある運動だと論じていることから, こうした『現象学』こそが本来的な意味での「学に対する決心・熱意」を有したものが取る方法であることをヘーゲルは主張していると理解する 24.
その上で本稿は, こうした「決心」が『現象学』における意識の運動を動機づけるものであり, 意識はこの動機ゆえに意識章においては対象の本性を検討し,自己意識章においては「欲望」, すなわち「自らの存在に固執したい」という動機を獲得することになると解釈する. いずれにせよ, この解釈によって, 欲望論は意識章はおろか, それ以前の記述との連続性においても読まれることができるだろう.
以上, 本稿は欲望論が序文・序論との関連のうちに読まれるという仮説的な解釈を立ててきた. この解釈のもとで, 本稿が第一に回答しようとしていた問い, 「欲望論の意義とは何か」という問いに答えるならば, 以下のようになる.
本稿が理解する欲望論の意義:
欲望論は, 端的にいえば学の形成過程の一局面を描写するという意義を持つ. 学的体系の獲得を志す意識の一形態として, 意識は己の存在を本質とみなすことに固執する欲望としての自己意識になるが, この欲望は「学を志す」という動機の一つのあり方であり, 序文において示されるように, 意識はこの欲望のもとでは, 学とするには不十分な真理理解しか得られない.冒頭部以後において, 意識はこの欲望の不満足によって自身と対象に関する新しい理解を形成することを促される. このことを描写するための要となるのが, 欲望論である.
ここにおいて, 本稿の第二の課題, すなわち「先行解釈との対比のもとで,『現象学』の個々の箇所を読む際には当書全体の構想を配慮することの必要性を示す」という課題は達成されている. すなわち本稿は, 序文・序論において示される「学への導入」という構想を手引きに, 両者の解釈の難点を回避する解釈を行なったことになる. この解釈においては, (1)当然読解の際にテクスト外的な目的を持ち込むことを回避しており,(2)意識章との連続性において, 序文・序論の議論をも含めながらアレゴリーではないものとして欲望を理解し,(3)さらにその理解は序文・序論において示される『現象学』の企図と整合する. こうした解釈上の難点の回避こそが, 『現象学』の企図を配慮することによって得られた利点である.
以上で本稿の二つの目標は達成された. 最後に, 「欲望」「決心」といった「意識の運動の動機づけ」に関わる語について付言したい. こうした動機づけによって促される意識の理解の変遷は, 自己意識章以降にも描かれることになる.このとき興味深いのは, 理性章において意識の運動を動機付けるものが「欲望」ではなく「関心 Interesse」と言われることである. 本稿では序文・序論および自己意識章冒頭部における「意識を動機づけるもの」についてのヘーゲルの思考を考察してきたが, 『現象学』の他の箇所においてもそうした主題についても引き続き検討したい.
注
であるといわれる このような主張は唐突な感をまぬがれない. . (. 高田, 1994, 130 頁)」.
(2007)を参照.
た「意識の教養の歴史」「叙述 Darstellung」については(GW9, 53-62)を参照.
(Brandom, 2019). このように, マクダウェルの「異端的」な解釈は目下のところ諸解釈者に大きな影響を与え続けている.
「決意 Entschluß」についての議論とどのように関わりあうか見て取れなかった. これについては今後の課題としたい.
本稿が引用する主な文献は以下のように略記し, 巻数および頁数とともに示す.引用文中においては, 傍点強調は原文により, 太字強調は引用者による. また適宜角括弧で原語を示す.
GW: Hegel,,F. W. G. Gesammelte Werke. In Verbindung mit der deutschen Forschungsgemeinschaft. Hrsg. von der Reinischen-Weltfälischen Akademie der Wissenschaft, Hamburg, 1968ff
A: Kant, I. Kritik der reinen Vernunft, die erste Aufgabe B: Kant, I. Kritik der reinen Vernunft, die zweite Aufgabe GA: Fichte, J. G. Gesamtausgabe. Stuttgart-Bad Canstandt
SS: Schelling, F. W. J. System des transzendentalen Idealismus. Hrsg. von Schulz, Hamburg, 2000
Becker, Werner, Hegels "Phänomenologie des Geistes", Stuttgart, 1971
Becker, Werner, Idealistische und Materialistische Dialektik. Das Verhältnis von Herrschaft und Knechtschaft bei Hegel und Marx, Stuttgart, 1970
Bonsiepen, Wolfgang, der Begriff der Negativität in den Jeaner Schriften Hegels, Bonn, 1977
Brandom, Robert, The Structure of Desire and Recognition: Self-Consciousness and Self-Constit-uition, in: A Sprit of Trust, Harvard University Press, 2019
Butler, Judith, Subject of Desire––Hegelian reflections in twentieth-century France,
Columbia Un-iversity Press, 1987(ジュディス・バトラー『欲望の主体––ヘーゲルと二〇世紀フランスにおけるポスト・ヘーゲル主義』大河内泰樹・岡崎
佑香・岡崎龍・野尻英一訳, 堀之内出版, 2019)
Gabriel, Markus, A Very Heterodox Reading of the Lord-Servant-Allegory in Hegels Phenomenol-ogy of Sprit, in: Markus Gabriel, Anders Moe Rasmussen, German Idealism Today, 2017
Gadamer, Hans-Georg, Die Dialektik des Selbstbeweußtseins, in; Gesammelte Werke Band 3, Tü-bingen, 1987(ハンス・ゲオルグ・ガダマー『ヘーゲルの弁証法:六篇の解釈学的研究』山口誠一・高山守訳, 未来社, 1990)
Hyppotite, Jean, Situation de l-Homme dans la Phénoménologie hegelienne, in:
Études sur Marx
et Hegel, Paris, 1955(ジャン・イポリット『マルクスとヘーゲル』宇津木正・
田口英治訳, 法政大学出版局, 1983)
Kojève, Introduction à la lecture de Hegel, Paris, 1976(アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門 『精神現象学』を読む』上妻精・今野雅方訳, 国文社, 1987)
McDowell, John, The Apperceptive I and the Empirical Self: Towards a Heterodox Reading of “Lordship and Bontage” in Hegel’s Phenomenology, in:Having the World in View. Essays on Kant, Hegel, and Sellars, Cambridge University Press, 2009(ジョン・マクダウェル「統覚的自我と経験的自己––ヘーゲル『精神現象学』「主人と奴隷」の異端的解釈に向けて––」『思想 No. 1137』村井忠康訳, 岩波書店, 2019, 一月)
Niel, Henri, L’interpretation de Hegel, Critique No. 3, 1947
Pippin, Robert, Hegel on Self-Consciousness: Desire and Death in the Phenomenology of Spirit, Princeton University Press, 2011
Tugendhat, Ernst, Selbstbewußtsein und Selbstbestimmung, Frankhurt am Main, 1973
飯泉佑介「ヘーゲル『精神現象学』における「欲望の経験」再考」, in: 東京大学研究室『論集』, 2014, 33 号)
大河内泰樹「規範・欲望・承認––ピピン, マクダウェル, ブランダムによるヘーゲル『精神現象学』「自己意識章」の規範的解釈」, in:『唯物論研究年誌 第 19号』大月書店, 2014
片山善博『差異と承認:共生理念の構築を目指して』創風社, 2007
金子武蔵『精神現象学 上』岩波書店, 1971
金子武蔵『精神の現象学への道』岩波書店, 1989
幸津國生『哲学の欲求––ヘーゲルの「欲求の哲学」』弘文堂, 1991
高田純『承認と自由 ヘーゲル実践哲学の再構成』未来社, 1994
飛田滿『意識の歴史と自己意識 ヘーゲル『精神現象学』解釈の試み』以文社, 2005
ホネット, アクセル『私たちのなかの私』日暮雅夫ら訳, 法政大学出版局, 2017
マルクーゼ, ヘルベルト『ヘーゲル存在論と歴史性の理論』吉田茂芳訳, 未来社, 1980