2021 年 2021 巻 48 号 p. 116-137
――『存在と時間』における真理論と決意性――
富山 泰斗
マルティン・ハイデガーの『存在と時間』(1927)に登場する「先駆的決意性 vorlaufende Entschlossenheit」の主張は,一見すると,やがて訪れる死の定めを見据えた主体的な決断をわれわれに求める,やや現実離れした教条を説いているようにさえ思われる.本稿は先駆的決意性の主張をそのような「決断主義」として解釈するのではなく,理性的存在者としてのわれわれが何事かを真だとみなす際のあり方を説明する,より穏当な主張として解釈できることを示したい.別の仕方で言えば,決意性(ないし先駆的決意性)を「真理論」の文脈において解釈することが本稿の狙いである.だが,なぜそのような解釈が重要となりうるのか.
『存在と時間』の真理論と言えば一般には第 44 節「現存在,開示性,真理性」のことを指すだろう.ここでは「真理の根源的な現象は開示性 Erschlossenheit である」という,現象学に馴染みにある者にとってはよく知られたテーゼが登場する.これは,われわれ現存在の存在体制である開示性こそが真理の「根源的」な現象であるといった意味だが,しかしこの開示性という概念は,ふつう真理と聞いてすぐに思い浮かぶような「数学的真理」「事件の真相」といった用例とただちには結びつかない.だいいち,この主張自体,ともすると真理の現象をわれわれのあり方によって説明しようとする素朴な観念論のような印象すら与えかねない.真理の根源的な現象が開示性であるとはいったいどのような主張なのだろうか.
じつは『存在と時間』の真理論を意味の通る主張として解釈することそれ自体はべつに困難なことではない.というのも,エトムント・フッサールが『論理学研究』(1900/01)で精力的に展開した志向性理論を継承・改訂した主張だとみなせば済むし,実際のところ『存在と時間』の註からもそれは明らかだからである(vgl. SZ, 218 Anm.).しかしある主張が理解可能かどうかと積極的に支持可能かどうかは別のことである.もし『存在と時間』の真理論を支持するなら,たとえば次のような問いに応答責任が生じるだろう――開示性という概念はいかなる権利で「真理の根源的な現象」と呼べるのか.
この点をいち早く指摘したのはエルンスト・トゥーゲントハットである(vgl. Tugendhat 1970).トゥーゲントハットの結論は,開示性概念を真理の根源的な現象と呼べるだけの根拠はないというものだが,この点をめぐって長らくさまざまな論争が繰り広げられてきた(そして案の定,とくに合意は形成されていないように思われる).本稿がとる立場は,ハイデガーを正面から擁護することはできないか,あるいは少なくとも難しいと言わざるを得ないというものである 1.すなわち,トゥーゲントハットの批判はそれなりに的を射たものであるとみなす.
「それなりに」とはどういうことか.彼の批判は決して単なる無理解というわけではない.下敷きとなっているフッサールの志向性理論は押さえているし,ハイデガーの狙いがたとえば命題的真理の再定義といったようなものではないことも理解している.誤っているのは,「決意性 Entschlossenheit」の概念を検討せずに棄却しているように思われる点である.『存在と時間』において決意性は「本来的な開示性」として導入され,また「最も根源的な真理性」であると述べられている(vgl. SZ, 297).この概念が同著にとって重要なことに疑いの余地はないだろうし,そうである以上は真理論の解釈および検討にあたって等閑に付すわけにはいかないはずである.
とはいえ注意したいのは,決意性の概念を考慮に入れたからといって即座にトゥーゲントハットの批判を無効化できるわけではない,ということである.先にも述べたように,彼の批判は依然として有力な指摘であって,開示性概念を真理の根源的な現象として呼べるだけの理由はないか,あるとしても弱いものに留まることをわれわれはいったん認めるべきであるように思われる.けれども,そこからただちに『存在と時間』の真理論には何の価値もないと帰結するわけではない.真理論は後に続く決意性(ひいては先駆的決意性)の議論と併せて評価されるべきであり,そのかぎりでは少なくとも注目に値する見解が含まれているように思われるのである.そうであるならば,本稿による解釈作業はトゥーゲントハットよりも生産的な指摘ができると見込まれる.先駆的決意性の主張を真理論の文脈で解釈することが重要だと思われた理由はここにある.
本稿の構成を示す.まず『存在と時間』の真理論に『論理学研究』から「同一化としての証示」という考えが継承されていることを確認する(第一節).ここではハイデガーが,伝統的真理観のどこに問題点があり,正しくはどう考えるべきだと主張していたのかが明らかにされる.続いてトゥーゲントハットの批判を取り上げ,『存在と時間』の真理論には擁護困難なところがあると確認する(第二節).それに対し本稿がとる立場は,確かに問題含みな点があるとしても,それによってすぐさま無価値な議論として棄却できるわけではない,というものである.すなわち,決意性概念を考慮に入れたうえで『存在と時間』の真理論は評価されるべきだとわれわれは考える.そこで決意性概念が導入される「良心論」に注目し,決意性(ひいては先駆的決意性)の主張が真理論の文脈で解釈可能であることを示す(第三節).そして最後に,以上の解釈が示唆するふたつの路線に触れて本稿を締め括る(第四節).
先に確認したとおり,『存在と時間』において真理論と呼ばれる箇所は第 44節である.この節は真理についての伝統的見解の批判から始まるが,主には(i)真理の本質は言明ないし判断がその対象と「合致」することにあるという前提,および(ii)真理の「場所」が言明ないし判断であるという前提が検討される(vgl. SZ, 214).ハイデガーによれば,こうした前提は擬似問題の温床で,真理の現象は現存在の「開示性」,すなわち判断ないし言明の根底にある現存在の存在体制から明らかにされるべきだという(vgl. SZ, 154)2.
理解のためには,まず伝統的真理観の何が問題なのかを明確にする必要がある.以下では簡便のため(i)に絞る.(i)は「真理の合致説」と呼ばれるものだが,ハイデガーはこれをどう問題だと考えていたのか.
一般に,合致のような対応関係は何らかの観点を必要とする(vgl. SZ, 215).たとえば 3×4 という数式と 12 という数は合致しているが,これは「どれほど多いか Wieviel」という観点による(すなわち,たとえば文字の形状といった観点ではない).これに対し合致説は,どのような観点からの対応関係なのかを説明していない.ただ「認識は事物をそれがあるとおりに「与える」ということになっている」(SZ, 216).合致説は,言明ないし判断が事物を正確に「反映」しているかどうかで真偽が決まるとしているが,肝心の対応関係の観点が明らかになっていない以上,どういう意味での「反映」なのかという説明すべき事象が空白のままなのである.
注意しておかなければならないのは,じつはハイデガー自身も合致という発想それ自体を全面的に斥けているわけではないということである.真理の現象が事物と認識されたこととの合致であるかどうかは,「「認識されたこと」という表現が何を意味しているかが現象的に適切に解釈されるかどうか次第で,然りでも否でもある」(SZ, 217).すなわち,合致説が適切でありうるかどうかは「「認識されたこと」という表現」の解釈にかかっているということになる.ハイデガーの主張を合致説の至らなかった部分に説明を与えたものだと考えることにしよう.真理の現象において,いったい何が事物と合致しているのか.事物については,実際に存在する対象(現実の対象)というほどの意味で理解しておく.重要なのは,「「認識されたこと」という表現」の解釈である.ではどのようにこの表現を解釈することが適切なのか.手がかりになるのは フッサールの『論理学研究』である.『存在と時間』の第 44 節には,この著作から「同一化としての証示」という考えを継承していると明言した註がある(vgl.SZ, 218 Anm.).これはどのような考え方なのか.
ポイントは,真理の現象と志向性とが密接な関係にあるということである.志向性とは,われわれの多くの経験に認められる「特定の何事かについてのものである」という性格のことである.このとき志向性の成立にとって,対象となる何事かが実際にわれわれの眼前に存在するかどうかは重要ではない(vgl. GA20, 54).予想のように実際の様子を知る前の状態であっても,われわれの経験は当の対象についてのものでありうるからである.だが,なぜそのように考えられるのか.
志向性と真理の事象的連関はこのような場面で際立ってくる.たとえばメトロに乗車しているときに不審なカバンを見つけ,「爆弾が入っているかもしれない」と予想したとしよう.もちろん予想した時点では爆弾の有無はまだわかっていない.にもかかわらず,この予想が爆弾についてのものでありうるのは爆弾の有無によって予想の真偽が決まるからである.仮にカバンの中を実際に確認してパソコンなど別の機械しか見当たらなかったとしても,そのことによって当初の予想がじつはそうした機械についての経験だったのだ,ということにはならない.そこで予想の真理値を偽にしているのはあくまでも爆弾の不在であり,他の機械の有無は予想の真偽と無関係だからである.予想はこのような意味で一貫して実際の対象についての経験だと言うことができる.
強調しておかなければならないが,予想などを始めとするこうした経験について,その真偽の決め手となっているのはあくまでも現実の対象である.ここで真偽を決定し,経験において志向されている対象はしばしば「志向的対象」と呼ばれるが,この「志向的」という表現から心的な表象のようなものを思い浮かべてはならない.予想の例に戻ろう.われわれはその予想の志向的対象がカバンの中に入っている(かもしれない)爆弾だと理解している.だからこそ爆弾の有無を知りたいとき,実際にカバンを開けて対象の有無を確かめようとする.そして実際に確認し爆弾の有無がわかったとき,われわれは予想の真偽をひとまず確定させる3.この過程の説明に心的表象のようなものを想定する必要はまったくない.なぜなら検証の対象となっているのは意味や心の中のイメージではなく,あくまで現実の対象であり,その現実の対象が存在するか存在しないかによって予想の真偽が決まるのだ,という説明で完結するからである.この経験の確証ないし正当化にとって欠かせない対象の最も直接的な与えられ方は「直観 Anschauung」と呼ばれる(vgl. GA21, 103).同一化としての証示とは,志向的対象はそれが直観において与えられた場合と同一の対象(すなわち現実の対象)でなければならない,という考え方のことである 4.
あらためて『存在と時間』に戻るなら,確かに同一化としての証示という考えは継承されているように思われる.というのは,たとえば「言明が真であるとは,その言明が存在者をそれ自身に即して発見することを意味する」(SZ, 218)といった叙述は,言明の志向する対象はそれが直観において与えられた場合の対象と同一でなければならないという意味だと理解できるからである 5.真理の 現象をこのように解釈するなら,そのかぎりで合致説は適切な考え方なのだとハイデガーは考えていたのではないだろうか.
したがってフッサールの見解を考慮に入れてハイデガーの主張を解釈するならば,開示性は,直観概念に近似する役割を託されていたと考えられる 6.言い換えれば,開示性とは,存在者の存在が(最も直接に)与えられるあり方のことであり,それはまた,われわれが存在者の存在に接近するための可能性の条件でもあると考えることができる 7.
トゥーゲントハットの批判は,いかなる権利で開示性を真理の根源的な現象と呼ぶことができるのか,という点にある.すなわち,言明ないし判断を真偽の「場所」とみなす命題的な真理が,開示性によって初めて可能になる形態であるならば,確かに命題的な真理は派生的であり,それに対して開示性が根源的だと言うことはできそうである.しかし,もしもそれに尽きるものであるなら,開示性のことを真理と呼ぶに足る理由はない.たとえばトゥーゲントハットは以下のように言う.
次のように言うことも許されない.すなわちハイデガーは決して「真理」という言葉でわれわれが意味していることを解明しようとしていたのではなくて,むしろ〔彼が解明しようとしていたのは〕そもそも開示性というより包括的な現象でしかないのだと.そうだとするとこの場合,何がハイデガーに他ならぬ「真理」という言葉を使用することを促しうるのだろうか.たとえば開示性が真理の「根底にある」ということだろうか.そしてそれが,開示性を「より根源的な真理」として理解することさえも正当化するのだろうか.しかしそうだとすれば,開示性を同様の権利でもって根源的な虚偽と呼べるだろう.(Tugendhat 1970, 336)
トゥーゲントハット自身,ハイデガーの狙いが命題的真理の再定義ではなかった,ということは理解していないわけではない 8.にもかかわらず彼が批判を向けるのは,開示性が命題的な真理の可能性の条件だとしても,それは開示性を根源的な真理の現象と呼べる理由にはならないし,また開示性が真偽の二価をかにして成立させるかを説明できなければ真理論としては無意味ではないか,という疑念による.そして少なくとも第 44 節だけを解釈するかぎり,この疑念を解決してくれる答えを見出すのは難しいように思われる 9.われわれはハイデガーの叙述が少なからず不用意であることを認めるべきだろう.では『存在と時間』の真理論は,トゥーゲントハットの言うようにまったく無意味な議論だと片づけてしまってよいのだろうか.
われわれはこれに対し,いったんウィリアム・H・スミスの提案に賛同したい(vgl. Smith 2007, 175ff.).ハイデガーによれば,現存在の存在体制である開示性は「本来性 Eigentlichkeit」と「非本来性 Uneigentlichkeit」というふたつの存在様態をとりうる.スミスの提案は,この本来性/非本来性の区別に,真偽の二価の源泉をみるものだと言ってよい.
本来性と非本来性という術語について説明しておこう.この区別は「各自性 Jemeinigkeit」によって可能になっている(vgl. SZ, 41f.).各自性とは,現存在の「実存 Existenz」は,そのつど自らのものであるという性格のことである 10.
実存とはどういうことか.たとえばわれわれは,自分は学生であるといったように自分の存在にそのつど態度をとっており,だからこそ,ときに自分が良い学生/悪い学生なのかを問題にする.もちろん「そのつど」と言っても,われわれは自分のあり方を反省的に意識していないことがあるし,それどころか意識している状態のほうが珍しいだろう.だが,そのように自分のあり方を意識していない場合,すなわち講義に集中してノートをとっている最中や通学するメトロの中で何も考えていないときでも,「どうしてそんなことをしているのか」と訊かれれば,学生というあり方からその行為を説明できるはずである.ハイデガーはこのように現存在がそのつどの行為遂行において実践的に承認してしまっている自分のあり方を「実存」という術語で呼ぶ(vgl. SZ, 12).
このように現存在が態度をとっているあり方はそのつど自分のものである(各自性).本来性と非本来性の区別に戻ろう.ハイデガーは「これらの表現は厳密な語の意味からして術語的に選ばれ」(SZ, 43)ていると言うが,その意図は,ともすると語の響きが含みかねない価値評価を排除し,あくまで形式的な区別としてこの表現を選んでいる,ということだろう.すなわち本来性/非本来性の区別は,ドイツ語の eigentlich の原義にもとづき,現存在がその実存(自己自身の存在)を「所有」または「喪失」しているという,われわれのそのつど具体的なあり方を表していると考えられる 11.そしてその「所有」と「喪失」は各自性によって可能になっているという.
さてしかし,現存在のあり方が以上のように本来性と非本来性の二価をとりうるとはいっても,それらを即座に真偽の区別と重ねることはできないし,(スミス本人も認めていることだが)その解釈は不十分なものに留まっている(vgl.田村 2011, 155).それでもわれわれがスミスの提案に賛同するのは,「本来的な開示性」が「決意性」と呼ばれる際に,まさに真理と関わる概念として導入されていることによる(vgl. SZ, 297).確かに開示性を真理の「根源的な現象」と呼ぶことが困難だとしても,以下で述べるように,決意性(ないし先駆的決意性)を,現存在が正当化の実践に参与し,自らの振る舞いに責任をもつための可能性の条件として解釈するのであれば,ハイデガーの主張は少なくとも注目に値すると思われるのである.
次節の目標を明確にするために,ここで各概念を形式的に整理しておこう.ハイデガーによれば,「本来的な開示性」は「〈良心をもとうとする意志 Gewissen- haben-wollen〉」に含まれる開示性だという(vgl. SZ, 296).良心をもとうとする意志は,現存在の存在に「負い目 Schuld」が本質的に属していることを告知する「良心の呼び声Ruf des Gewissens」についての了解である(vgl. SZ, 286, 288).したがって決意性とは,現存在の負い目の了解だということになる.よって決意性解釈には,少なくとも「負い目」と「良心の呼び声」の解釈が必要である.
ハイデガーは(実存論的概念としての)負い目に次のような形式的定義を与える.すなわち負い目とは,「或る無によって規定されたひとつの存在に対する根拠であること――すなわち,或る非力さの根拠である Grundsein einer Nichtigkeit ことを意味する」(SZ, 283; vgl. SZ, 305).この「非力さ Nichtigkeit」は,何らかの否定性の表現だと理解可能だが,先行研究に従い(vgl. 池田 2011)次の文から解釈を進めよう 12.「現存在は存在可能的にそのつどあれかこれか のどちらかの可能性の内に立っていて,現存在は絶えず他の可能性ではなく,その実存的企投において,その他の可能性を放棄してしまっている」(SZ, 285).
「企投 Entwurf」とは,現存在の「了解 Verstehen」に伴う操作とされる(vgl. SZ, 145).これは現存在が,或る存在者のあり方を了解するためにその存在者を何らかの可能性へと投射する操作だと解釈できる(vgl. 細川 1992, 136ff.; 同 2000, 130ff.)13.この投射先である可能性を,通常の意味での可能性と区別して「存在可能性 Seinsmöglichkeit」と呼ぶことにする 14.これによれば,現存在はたとえば「自分は学生かもしれない」という仮説的な先行了解をもっており,その存在可能性へと実際のあり方を照らし合わせて,「自分は学生である/学生ではない」という自己了解をもつということになる.以上を踏まえるなら,先の引用は,或るひとつの存在可能性の選択は,同時に他のさまざまな存在可能性の放棄でもあるという事情を語ったのだとまずは理解できる.だが具体的にはどういう可能性の選択ないし放棄が語られているのだろうか.
この点は池田喬が挙げるように強制収容所の役人の例に従って解釈する(vgl.池田 2011, 140f.).その役人は,もしかすると自覚的な選択でなく,さまざまな巡り合わせでその仕事を引き受けることになったのかもしれないし,自分のやっていることの残虐さを理解しながら消極的に仕事をしているのかもしれない.だが,いずれにしてもその役人が国外脱出などの他の存在可能性を選択しなかったことに変わりはない.つまりその役人は(自覚の有無は措いて)役人である存在可能性を選択し,また他のさまざまな存在可能性を放棄していたと言うことができる.そして当然,この選択は時の流れに逆らってやり直せるようなものではない 15.先の「非力さ」は,ひとつの選択の背後にある無数の存在可能性の放棄や,再選択不可能性といった,過去の選択に関するわれわれの有限性のことだと解釈できる.
ところでハイデガーは次のようにも言う.「現存在は本質的に負い目があるので,それは時として負い目があり,そしてまた再び負い目がなくなるといったものではない」(SZ, 305).存在可能性の放棄は過去の選択だけでなく未来の選択を含めた,選択一般についてまわる事情だろう.負い目は,現存在が実存し続けるかぎりつねに払拭できないという意味で「本質的」なのである(vgl.SZ, 243f.).
こうした負い目の了解は,簡潔に言えば,現存在が自らの有限性を了解することだと解釈できるが,それは真理論の文脈ではどのような含意があるのだろうか.
現存在の「負い目」は可能性の条件である.「本質上の負い目ありは,等根源的に「道徳的」な善と悪にとって,すなわち道徳性一般とその事実的に可能な諸形態にとって可能性の実存的条件である」(SZ, 286; vgl. SZ, 280).これによれば,「負い目」はまずもって道徳性一般が可能になる条件として考えられていることになる.そうだとすると,池田の言うように『存在と時間』の良心論は「道徳性の実存論的‐存在論的基礎」(池田 2011, 116)を求めるものとして受け取ることが適切だと思われる.だがわれわれは,同著の良心論が実践に帰属される善悪のみならず,認識に帰属される真偽にも及んでいると考えたい(vgl. 山下 2017).その最大の理由は,了解一般に伴う「被投的企投」の構造にある(vgl. SZ, 146ff.)16.
これに関しては『存在と時間』よりも『論理学』講義における例解をみることが有益だろう(vgl. GA21, 187f.; 荒畑 2009, 71f.).それは,夜のドイツの森という状況で灌木を鹿と見誤る経験である.
出会われるものが〔…〕おのれを示しうるのは,存在者において,世界に現れつつある事物において,とりわけ「森」というこの環境世界で「ノロジカ」のようなものがモミの木々とともに眼前的に vorhanden 存在しうるかぎりでのみであり,存在者それ自身において,総じて複合の可能性が存するかぎりでのみである.この複合の可能性は,具体的な錯覚を考慮すれば,つねに事象的に定位された可能性,すなわち或る範囲内での下書きをもっている.実際に私は,上述した事例において,たとえそのようなことがそれ自体としては可能であるとしても,ペルシアの王が私のほうに向かってくるとは思わないだろう.それは夜のドイツの森でモミの木々のあいだに登場しうる存在者なのであり,それにひきかえ,私がそこで 69 の立方根のようなものが自分に近づいてくるのをみるということは排除されている.(GA21, 188)
ここで述べられているのは,誤った知覚経験の成立条件である.灌木を鹿と見誤るとき,鹿についての志向が成立しているが,その志向は,そもそも夜のドイツの森が鹿と遭遇可能な状況であり,かつその森がペルシアの王や 69 の立方根といった存在者とは遭遇不可能な状況だというわれわれの先行理解に裏づけられているのだとハイデガーは言う.存在者のあり方を了解する際に伴う企投とは,存在者を存在可能性へと投げる操作のことだが,このとき存在可能性は決して無際限に用意されるわけではない.言い換えれば,可能性の企投は現存在の置かれた状況(この場合は夜のドイツの森)による制限を被っている.われわれは夜のドイツの森で突然ペルシアの王と遭遇するということを,たとえそれが論理的に不可能ではないにせよ想定することはまずない.69 の立方根なる存在者にいたってはそもそも数学的対象であるから,われわれの眼前に知覚可能なものとして立方根が登場する可能性は除外されている.このように状況によって制約された可能性の企投が「被投的企投」と呼ばれる 17.
可能性の企投には,このように放棄された存在可能性がつねにすでに伴っており,そのためにわれわれの了解は正しかったり,誤っていたりすることがある.負い目が可能性の条件であることは先述したとおりだが,同時にこの負い目の存在を告知する良心の呼び声は,具体的な内容を含んでいるわけではないとされる(vgl. SZ, 280).したがって負い目は,それが何らかの規範性を持っていることを勘案するなら,われわれの振る舞い(認識および実践)に善悪や正誤が帰属されるための可能性の条件だと言ってよいだろう 18.つまり負い目の了解とは,自分の振る舞いに伴う可謬性の自覚だということになる.
したがって,良心の呼び声は現存在に可謬性が絶えず付随していることを告知するものだと解釈できる.「告知」という表現が意味するのは,呼び声が現存在を本来的な様態へと移行させてくれるわけではない,ということである.すなわち良心の呼び声は,それによって現存在が自らの可謬性にどう態度決定するかは別として,ただ自らの振る舞いがそうした正誤や善悪の可能性に開かれていることを告げるのである.それゆえ良心の呼び声を聴くだけでなく,その呼び声に従うと決意することで初めて,現存在は自分の振る舞いに責任をもつことになる(vgl. SZ, 299).かくして良心の呼び声を聴くことは「決意性」の名を与えられる.以上のように,決意性を,現存在が認識ないし実践に責任をもち,正当化関係の場に参与するための可能性の条件だと解釈するならば,それが「根源的な真理性」とされる理由も見えてくる(vgl. SZ, 296f.).
いま,決意性を自分の振る舞いに責任をもち正当化関係の場に参与するための可能性の条件だと解釈した.これはどういうことだろうか.
そもそも正当化とは,或る判断や実践に対して適切な理由を与えることである.前述したように,認識や実践に正誤や善悪が帰属されうるのは,或る特定の存在可能性の選択に,放棄された存在可能性が(被投的企投の構造により)つねに付随しているためである.現存在は或る特定の存在可能性へとそのつど自らを企投し,認識や実践をなしている.言い換えれば,われわれはこの企投の向かう先(実存)に方向づけられ,何らかの目的の達成や実現のために,さまざまな行為をなしている.こうした行為は目的論的関係によるネットワークを形づくっていると考えられる(vgl. SZ, 84ff.; 門脇 2002, 同 2010).だからこそ,われわれのそのつどの振る舞いは意味を欠いた動作ではなく理解可能な行為たりうるのであり,またそれゆえ個別的な行為を指してその意図や理由を問われたときには,企投の向かう先である実存に照らし合わせて(そのとき必要な解像度で)表現しうるのである.さらに被投的企投の構造からも明らかなように,そうした現存在の振る舞いを方向づける実存の選択は,さしあたって大抵,世界の側によって制限されている(vgl. SZ, 129, 194).世界の側からのこの制限は,『存在と時間』の術語では「ひとの被解釈性 die Ausgelegtheit des Man」と呼ばれる.ひとの被解釈性とは,公共的に浸透した既成解釈のことだと考えてよい.これらを踏まえて,決意性は現存在のどのようなあり方だと解釈できるだろうか.
先に触れたように,本来性/非本来性は,実存を「所有」しているか,「喪失」しているか,という区別と考えられる.したがって本来的なあり方(決意性)とは,自分の認識および実践について,その責任の所在が総じて自分にあると理解しているあり方のことだと言えるだろう.より具体的には,われわれの振る舞いはすべて,そのつど態度をとっているところの実存によって方向づけられていること,そうした実存はわれわれ自身が企投しているところの存在可能性であること,またその企投においてわれわれは特定の存在可能性を選択し,また無数の存在可能性を放棄しているということ――そういった事情についての自己了解を「所有」しているあり方が,本来的なあり方だと考えられる.非本来的なあり方は,その逆だと考えられる.すなわち被解釈性に無自覚なまま行為しており,自分の振る舞いについて,その責任の所在についての自己了解を「喪失」してしまっている状態が非本来的なあり方だと言うことができる.さてここで,決意性が「死への先駆 Vorlaufen zum Tode」と切り離しがたい関 係にあることに注意しよう(vgl. SZ, 305f.).決意性は,空虚な論理的可能性を示しているだけのように思われた死への先駆が,実存的に可能であることを証明するものとして要請されていた(vgl. SZ, 266f.).言い換えれば,決意性は,死への先駆が実際に行われている場面に言及したものである.ところで死への先駆は,現存在の「全体性 Ganzheit」を確保するためのものであったが 19,しかしそうだとすると先駆的決意性は,存在可能性の総体や束のようなものを想定し,その全域を包み込む自己了解を実現するものなのだろうか.この点に関しては,もはや本稿で詳しく立ち入るだけの余裕はないが,次の二点だけは指摘しておこう.
第一に,先駆的決意性は選択の撤回を許さないものではない.一般に,或る認識や実践を正当化しようとすることには,その認識や実践を正しいものだとみなすことが含まれている.あるいはハイデガーの言葉を借りるならば,「或る存在者について確実である gewiß-sein とは,真なるものとしてその存在者を真だと堅持する halten ことを意味する」(SZ, 256).このとき,何事かを正しいものと判定するのであれば,同時にその判定をいつでも撤回できるのでなければならない.というのは,仮に何があっても撤回しないのだとするとそれは単なる強迫観念以上のものとは言いがたいからである.もちろんたとえば「最大の素数は存在しない」などの数学的命題を正しいものとみなすとき,われわれはその判定を撤回するということがなく,したがって結果的に何があっても撤回しないという態度に落ち着いているということはあるだろう.だがしかしそれは事実的に撤回しなかったというだけであって,もしも或るとき「素数は無限に存在する」という数学的命題が否定されたのならば,そのときわれわれは,それまで真だとみなしてきた「最大の素数は存在しない」という命題を撤回できなければいけない.したがって,或る物事の正しさに自分の責任で関わりながら,同時にその関わりが合理性ないし正当性に抵触するとみなされた場合にはいつでも撤回を辞さない態度こそが決意性だと言うべきである.ハイデガーの次の言葉もその意味において解釈されるべきだろう.「決意の確実性は,その可能的な,そしてそのつど事実的に必然的な撤回に自らを開放しておくSichfreihalten für … Zurücknahme ことを意味する」(SZ, 307f.).われわれのあらゆる決断はたとえその対象が数学的命題であっても「事実的な暫定性」をもつにすぎない(vgl. SZ, 302).先駆的決意性の主張によってみてとられているのは,何事かを正しいものとみなすわれわれの認識・実践が,みな等しく堅持と撤回の可能性に開かれ続けているということにほかならない.
第二に,先駆的決意性はひとたび決意すれば今後あらゆる瞬間に決意が伴い続けることを保証してくれるようなものではない.ハイデガーが言うように,「現存在はそのつどすでに非決意性 Unentschlossenheit のうちにいたし,そしておそらくはすぐにまた戻ってくるのである」(SZ, 299).この「非決意性」とは,なにか優柔不断な態度のことを言っているわけではなく,現存在が既成解釈に服して振る舞っている状態のことを指している.現存在が決意した後でも,ひとの被解釈性が依然として猛威を振るっていることに変わりはなく,それゆえ「先駆的に決意することは,現存在を不断の,すなわち自らの存在に根ざす,ひとの非決意性への可能的喪失性に向けて開放的にしておく」(SZ, 308)20. 先駆的決意性の主張は,現存在がいちど決然とすればそれだけで万事が解決するような楽観を含んではいない.
このように先駆的決意性は,われわれ現存在が正当化の実践に参与することを可能にしてくれるあり方だと言ってよい.言い換えれば,それは現存在が可謬性を自覚して何事かの正しさへと関わるあり方に説明を与えた主張だと解釈できる.決意性が根源的な真理性だと言われる所以はここにある.そしてこの先駆的決意性は,死への先駆を含むからといって,現存在の実存可能性全域を包み込む盤石な自己了解を実現するようなものでもない 21.それはむしろ,既成解釈の浸透によって現存在の了解がどこまでも不透明で可謬的であり続けながら,しかし可能性としての可能性という意味では「全体」に及んでいるという,特異な事情に触れていると考えられる.
このように先駆的決意性を解釈してよいならば,われわれの成果は,以下に述べるふたつの方針と親和的なように思われる.本稿の作業からさらに『存在と時間』をどう解釈できるのか,その展望を簡潔に示して終えることにしたい.
本稿の議論は,少なくともふたつの方針と相性が良いように思われる.
ひとつは「理由の空間 the space of reasons」のアイディアと接続する方針である.これはさしあたり,個々の経験的な言明および知識の成立は,その他の言明および知識が形づくるネットワーク全体における位置価によって決まる,という考えである.ここで言うネットワークとは,広く言って推論にかかわる関係(両立可能性や理由・帰結,正当化など)である.ウィルフリッド・セラーズを嚆矢として,主には英米圏の分析哲学において精力的に展開されたこの着想が 20 世紀初頭の現象学においても先取りされていたことは,すでに多くの研究が指摘しているとおりである(vgl. Crowell 2001; 門脇 2002).事実,フッサールの初期志向性理論の中核をなす,志向性と真理が直観を軸に密接なネットワークを織りなしているという見解は,理由の空間と相性の良いものだと言ってよいだろうし,ハイデガーの世界内存在についての主張は,そこにおいて成立する志向性の担い手が命題的な表象に限られないことまで考慮に入れたものだと,そして本来的な現存在とは,理由の空間に積極的な仕方で参与しているあり方だと解釈できる.
もうひとつの展望は『存在と時間』の,次のような一節から説き起こすのがよいだろう.
存在者はそれを通して開示され,発見され,規定されるような経験や知識,把握からは独立に存在する ist.けれども存在は,その存在に存在了解といったようなものが属している存在者の了解のなかにのみ「存在する」»ist«.(SZ, 183)
この一方で実在論的に,他方で観念論的にも受け取れる一節は「パズル・パッセージ」(Cerbone 1995, 401; vgl. Blattner 1994)と呼ばれ,その解釈が議論の俎上に載せられることも少なくない.だが,その解釈は何ら問題となるようなことではない.しばしば併せて引かれる次の叙述からもほとんど明らかである.
それにしても現存在が,すなわち存在了解の存在者的可能性が存在するかぎりでのみ,存在が「与えられている」.現存在が実存していないならば〔…〕そのときには,存在者が存在するとも存在しないとも言われることができない.もっともいまは,存在了解が存在し,したがって眼前的存在性についての了解も存在するかぎり,そのときでも存在者は今後もなお存在するだろうと言われることができる.(SZ, 212)
ここにおいて表明されているのは,視点依存性である.すなわちもしも現存在がまったく実存しないのであれば,存在者の存在についてわれわれが語る可能性は閉ざされているが,しかし現存在が実際にいま存在している以上,われわれがまったく実存していない場合の存在者の存在についても現在のわれわれの観点から,そしてそのかぎりで語ることができる,といったように.先の引用も,存在者の存在は一般にわれわれの理論的把握からは独立に語ることができるが,それはわれわれの視点に立脚するかぎりでのみ可能なことだと主張しているように解釈できる.そのような視点依存性がパズル・パッセージの後半部で語られている「存在はわれわれの了解においてのみ「存在する」」という主張の真意だと考えてよいだろう.
この主張はまた,存在者の存在一般はわれわれの認識との相関関係という観 点から(のみ)語られうるという,あの「超越論的観念論」に近い見解だと解釈できる.実際,開示性と真理と存在を等置するハイデガーの真理論にとって,超越論的観念論を帰属させる解釈はよく馴染むようにさえ思われる(vgl. SZ, 230).そのようにみるならば,本稿が解釈した先駆的決意性は,すべての存在者の存在を等しく堅持と撤回の可能性に開かれたわれわれの決意(信憑)として読みかえる操作であり,「現象学的還元」に近似するものだということになるだろう.この方針に従うなら,認識と実践の区別を停止させる『存在と時間』は,あのカントともフッサールとも異なる(つまりは認識との相関ではなく,認識および実践との相関をベースとした)超越論的観念論のヴァリアントとして解釈できるかもしれない 22.
いまここに示されたふたつの展望は,おそらく必ずしも両立しないということはない.しかし,これらの方針が解釈としてどれほど正当であるか,あるいはその解釈作業の末に取り出される見解にはたしてどれほどの哲学的意義があると言いうるか.そのような検討はもはや,本稿の範囲をはるかに越えた課題だと言わざるを得ない.
1. ここにはウィリアム・H・スミスが指摘するように,解釈上の困難がある(vgl. Smith 2007,
156f.).それというのもハイデガーは後年,かつて主張した開示性(被発見性)と真理の結びつきを撤回するかのように,「明るみLichtung という意味でのアレーテイアἀλήθειαを真理と名づけることは適切ではなかったし,したがって誤解含みであった」(GA14, 86)と述懐しているのである.『存在と時間』では,ギリシア語で真理を意味する「アレーテイア」の語形を根拠に「発見 Entdeckung」ないし「隠蔽 Verdeckung」という意味を伝統的な真理概念の根底に読み込む場面があり(vgl. SZ, 33, 226),この発言を説明戦略上の変更だとみなすべきか,それとも事象的な見解を含んだ転向だとみなすべきかは真理論解釈にとって重要な問題だと思われる.しかしながら,あくまでも『存在と時間』の解釈を目指す本稿はこの問題に回答を与えないことにする.
2. 精確を期すなら,ハイデガーは当該箇所において開示性を真理の根源的な現象と考えるべきだといきなり主張しているわけではない.彼は真理の根源的な現象を被発見性 Entdecktheit(われわれ現存在に対してその存在者が発見されてあること)だと述べた後,その被発見性よりもさらに根源的な層として開示性の概念に言及している(vgl. SZ, 220f.).だが本稿ではこのふたつの概念の相違に立ち入らず,被発見性と開示性とを同じ概念だとみなして議論を進めることにする.
3. このように経験を確証ないし正当化するに足る証拠の獲得は「充実化 Erfüllung」と呼ばれる(vgl. GA21, 106).なおハイデガーはこの充実化に段階があることに注意を促している(vgl. GA20, 66).
4. このように,経験同士が直観による充実化を軸としてネットワークを形づくっており,或る経験が厳密に言って何の経験であるかは,当の経験がそのネットワーク内部においてどのような相対的位置価を示すかによって特定可能なのだ,という立場を推し進めた試みとして門脇 2004 を忘れてはならないだろう.また近年のもので同様の路線を採用
した解説として『ワードマップ現代現象学:経験から始める哲学入門』の第 4 章(富山 2017)を挙げることができる.いずれからも本稿の『存在と時間』の真理論解釈にあたって,非常に大きな示唆を得た.
5. もちろんこの箇所だけでなく第 44 節を全体的に意味のある議論として解釈することが可能になるが,詳細は割愛する.
6. 事実,ハイデガーも『論理学』講義において判断ないし言明をその「場所」とする命題的な真理は「直観の真理」(GA21, 112)の派生的な形態だと述べている.
7. 本稿の註 2 において,被発見性と開示性を同一視して議論を進行させている旨を断ったが,両者を区別してこの結論を述べ直すなら,被発見性は存在者の存在が(最も直接に)与えられるあり方のことであり,開示性はそのようなあり方を可能にする存在論的構造である,ということになる.ただし,このような区別(用語法)の有効性はあくまでも『存在と時間』に限定される.たとえば『時間概念の歴史への序説』講義においては,開示性は世界の存在の構造を,被発見性は現存在の存在の構造をそれぞれ特徴づけるよう割り振られているし(vgl. GA20, 348ff.),1927 年夏学期講義『現象学の根本諸問題』においては,被発見性が存在者の側に,開示性が存在者の存在の側に割り振られている(vgl. GA24, 94f.).
8. ただしトゥーゲントハットが批判しているのは,ハイデガーが真理概念の定式化の過程
で規範的契機を徐々に落としている点であり,これは命題的な真理の再定義としては不十分である旨を指摘していたようにも思われる(vgl. Tugendhat 1970, 332ff.).すなわ
、、
ちトゥーゲントハットは,ハイデガーの狙いが開示性を可能性の条件とみなすことにあ
、、
るのを認める一方で,ハイデガーの叙述がそうは進んでいないことを批判していたと考
えられる.
9. この点について『存在と時間』の第 7 節 A をみるならば少し違った応答も可能である.すなわち,ハイデガーはここで真理の根源的な現象を非隠蔽性に求めており,また現象学の扱う現象には「感性のア・プリオリな形式」のように非主題的な可能性の条件も含まれると述べている(vgl. SZ, 31).これは言い換えれば,真理の現象にとって本質的なのは真偽の二値性ではなく非隠蔽性であって,その意味で可能性の条件たる開示性も隠れなく現象しているかぎりで真理として考えることができる,ということになる.
(本註は富山豊氏の指摘にもとづく.)
10. なお『存在と時間』随所で,現存在の実存は,現存在の開示性のひとつである「了解」
と密接にかかわるものとして言及されているが(vgl. SZ, 144, 231, 337),これもわれわれがそのつどの振る舞いのなかで絶えず自らのあり方を実践的に承認してしまっている事情によるものだろう.また重要なことだが,現存在が実存することには,可能性として存在するという様態が認められる.「実存論的には,了解することのうちに存在可能 Seinkönnen としての現存在の存在様態がある.現存在は〔…〕第一次的には可能性を存
在すること Möglichsein である」(SZ, 143).
、、、、 、、 、、、、、、
11. 念のために言えば,「現存在の「本質」は実存である」(SZ, 42)とハイデガーは述べ
ており,そのような「「本質」」に相当する実存があったりなかったりするのはおかしいのではないか,という疑問もあるかもしれない.この点に関しては,「所有」「喪失」があくまでも形式的区別にすぎず,(真理論の観点から)その具体的内実を与えられるまで待たれたい.
12. この引用に登場する「根拠」という表現も解釈が必要だが,本稿の主題からは逸れるも
のとみなし扱わない.
13. 細川亮一は,『存在と時間』における「自然の数学的企投」(SZ, 362)を,イマヌエ
ル・カントの『純粋理性批判』(1781/87)の B 版序文に登場する次の文言にもとづいて解釈する.「理性の洞察するものは,理性自身の自らの企投にしたがって生み出すものにほかならない」(KrV, B XIII).カントが述べているように,ガリレオ・ガリレイを始めとする自然学者たちは,存在者がどのように存在しているのかを理解しようとする際,まず初めに仮説を立て,その仮説を検証するべく実験を行っていた.つまりは,仮説という先行了解にもとづき,実際の世界のあり方を照らし合わせ,自らの世界了解を拡張ないし改訂していた.ハイデガーの企投概念は,われわれ現存在による個別具体的な存在者の存在の了解にとって,何らかの先行了解(図式)がその可能性の条件として働いていることを看取していたと言うことができる.
14. 存在可能性が通常の意味での可能性とどのように違うのかは,『存在と時間』刊行当初からいまに至るまで明白な決着をみていない問題である.少なくとも現時点で言いうることは,或る存在者がいかなるものであるか(存在者の存在)を了解するために,その存在者を何らかの存在可能性へと投射するのであれば,その存在可能性は現実性や必然性と対比されるような意味での可能性では決してありえないということである(vgl. SZ, 143).というのは,或る存在者が現実的なのか可能的なのか,あるいは必然的なのか偶然的なのかといった存在者の様相は,実際の世界内部的な存在者のあり方を調べることによって初めて知られるようなものであり,その実際の存在者のあり方は,存在可能性の了解によって接近が可能となるようなものだからである.(すなわち存在可能性は,通常の意味での可能性に対して可能性の条件となっており,ふたつは決して同列に並べられるようなものではありえない.)
15. ハイデガーの言葉を借用するなら,われわれはすでに選択された可能性をあらためて自
、、、、、、、
分が選択したものとして引き受けることしか,すなわち過去の「取返しをつけるNachholen
einer Wahl」(SZ, 268)ことしかできないのである.次の引用も参照.「ひとからおの
、、、、
れを取り戻すこと,すなわち,ひと自己 Man-selbst から本来的な自己であることへの実
、、、、、、、
存的変様は,取返しをつけることとして遂行されなくてはならない.しかし取返しをつ
、、、、、、、、、、、
けることは,この選択を選択すること,すなわち,固有な自己にもとづき,或る存在可
能へとおのれを決断することを意味する.選択を選択することにおいて,現存在は初め
、、、、、
てその固有な存在可能を可能にする」(SZ, 268).この「選択を選択する」という表
現について,本稿は解釈作業に立ち入るだけの準備がまだない.この点について「存在論的自由」と「存在者的自由」を区別し,後者と二重の選択との関わりについて論じたベアトリス・ハン=パイルの論文は検討に値すると思われる(vgl. Han-Pile 2013).
16. また『存在と時間』に「存在論的中立化」(門脇 2010)とも言うべき方法が含まれることも解釈根拠に挙げられる.世界内存在の議論に顕著だが,ハイデガーは「主観/客観」を始めとする伝統的な概念の妥当性を停止し,超越問題などは擬似問題とみなす.この中立化は認識ないし理論と実践の区別にも適用され,いずれも「内存在」の一様態へと還元されている(vgl. SZ, 57ff.).したがって負い目の議論を,実践の場面に限らず,認識ないし理論の場面においても同様の事情が適用されていると考えることは不自然なことではない.
17. 次の一文も企投に伴うこの制限について語ったものだと考えられる.「企投は,根拠で
、
あることの非力さによってそのつど被投的な企投として規定されているのみならず,企
、 、、、 、、
投そのものとして本質的に無的 nichtig である.この規定はまたしても「不成功」や「無
価値」という存在者的性質を意味しているのでは決してなく,企投の存在構造の実存論的構成要素のひとつである」(SZ, 285).
18. すなわち、負い目はまた,正誤や善悪一般を可能にするという意味で規範的であると同時に,それ自体はあくまでも可能性の条件であるという意味で評価中立的ということになる(vgl. SZ, 284; 山下 2018, 185f.).
19. ハイデガーの叙述からは若干わかりづらいが,全体性にはふたつの意味があることに注意したい.ひとつは,随所に登場する「世界内存在の構造全体の全体性」などの表現がそうであるように「等根源的 gleichursprünglich」な,すなわち互いに還元不可能でありながら不可分な諸契機が形づくる,意味的に分節化された連関全体のことである(vgl. SZ, 351).この意味での全体性を「実存論的全体性」と呼ぶとすれば,もうひとつは,現存在の誕生から死に至るあり方,すなわち「実存的全体性」と呼ぶことができるだろう.
20. たとえば次のように言われる.「本来的な実存的了解は,伝承された被解釈性から少しも逃れられていない.むしろ,つねにその被解釈性のなかから,そしてその被解釈性に立ち向かって,しかしまたその被解釈性のために,選び取られた可能性を決意において掴み取るのである」(SZ, 383).この点に関し,『存在と時間』において中心概念とは言いがたい「没入 Aufgehen」概念に注目し,その解釈によって,現存在の自己了解は不透明性から逃れられない点を指摘した高井寛の研究は本稿の方針とも親和的であ
るように思われる(vgl. 高井 2017). 、、
21「.
22『.
決意性は,そのつどの事実的な状況 Situation をおのれに与え,かつそのなかへとおの
、、、、
れを連れ出す.状況は,把握されることを待っている眼前的存在者のように,あらかじ
め見積もられたり与えられたりはされない.状況は,自由で,先回りして規定されず,しかし規定可能性に向かって開かれているおのれの決意においてのみ開示される」(SZ, 307).先駆的決意性に含まれる周囲的な状況についての了解がどれほど透明なのかは,あのアリストテレスの「思慮 φρόνησις」概念の異同と併せてしばしば議題にのぼるものだと言ってよいだろう.この点について門脇 2010,第 8 章は示唆に富む.
、、、、
存在と時間』のみならず,1920 年代のテクスト全般に超越論性をみる解釈自体はさほ
ど新奇なものではない.たとえば国外では論文集『超越論的ハイデガー』の刊行に象徴されるように,少しずつ市民権を獲得しつつある段階だと考えられる(vgl. Crowell & Malpas 2007).また同時期のハイデガーの著述に,本稿の結論部で素描したような意味での超越論的観念論性をみる解釈としては丸山文隆の諸研究が示唆的である(vgl. 丸山 2019).
一次文献
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