2022 年 2022 巻 49 号 p. 120-132
17世紀フランスの絵画論における「二重の宛先」
村山雄紀
1.はじめに
本論文は17世紀フランスの絵画言説史において,王権やアカデミーを顕彰するための絵画論から観者の反応を惹起する絵画論への移行を剔抉するものである.具体的な分析対象となる人物はシャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun,1619-1690),アンドレ・フェリビアン(André Félibien,1619-1695),ロジェ・ド・ピール(Roger de Piles, 1635-1709)である.先行研究は個別の論者についての研究蓄積1や,各研究者たちによる論文集2の刊行など,おもに美術史的見地から優れた研究成果をあげているが,当該時代の絵画言説を通時的に読解し,観者への「効果」という視点から一貫して読解する研究は,日本はもとより,フランスでも十分に達成されていないのが現状である.ただ英語圏やドイツにおいてはトマス・プトファルケン,ノーマン・ブライソン,マイケル・フリードといった美術史家たちがルネサンスから当該時代にかけての絵画論を視野におさめた広範な議論を展開している.彼らの研究に共通するのは基軸となる概念を導きの糸とすることで,大枠の議論を展開していることである.たとえば,プトファルケンであれば画布上の構図ないし「調和」を意味する「コンポジション」3の概念,ブライソンであれば「理性-精神」/「感性-快楽」あるいは「言語」/「イメージ」といった二項区分4,フリードであれば登場人物の「没入」あるいは「反演劇性」5の概念などをそれぞれ中心概念とすることで,当該時代の絵画論を鳥瞰するための見取り図を提供している.
本稿ではとくにル・ブラン,フェリビアン,ド・ピールの絵画論の読解を通じて,王権の顕彰から観者の受容へと移行する切断線を析出する.まずは王政の首席画家にまでのぼりつめたル・ブランの画法について考察し(第2節),後年に過熱化したル・ブラン批判を追跡する(第3節)6.そしてル・ブラン作品の解説という役割を担いながらも,テクストの宛先は王権やアカデミーのメンバーだけではなく,その埒外の「公衆」にも向けられていたフェリビアンの「記述」について検討し(第4節),最後に観者への「効果」について繰り返し言及したド・ピールの絵画論について分析する(第5節).このような理路をとることでル・ブラン,フェリビアン,そしてド・ピールへと至る17世紀フランスの絵画論が王権の顕彰と観者の受容という「二重の宛先」7のあいだで揺曳していたことを明らかにしたい.
2.瞬間と持続:ル・ブランの画法
ル・ブランはルイ14世の治世に奉仕する「従順な筆致」8の持ち主であった.ル・ブランはその「従順な筆致」を王立絵画彫刻アカデミー(以下,アカデミーと略記)の統括だけではなく,国王による芸術政策の有力な実施機関であったゴブラン製作所の総監督を務めることで存分に振るっていた.ル・ブランの画法は王権の顕彰というアカデミーの役割を見事に体現するものであった.アカデミーが開催するカンファレンスの書記を担っていたフェリビアンは,ルイ14世の治下における画家の使命を以下のように提起している.フェリビアンはそこで,王政に最も貢献できる芸術として,絵画に特権的な地位を与えている.
この偉大な王は治政を開始するやいなや勝利を手にしたが,王の権力の永遠の徴des marques éternelles de sa puissanceと王の偉大な行動の歴史=物語l’histoire de ses grandes actionsを後世に残すためには,これらの輝かしい職人の手も,最も優れた学者のペンも必要ではないと信じることができた9.
フェリビアンはここで,王の権力についての「永遠の徴を残し」,「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「後世に残す」ためには「職人の手」も「学者のペン」も必要ないと主張している.すなわちフェリビアンは,「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として後世に伝えるために「職人の手」や「学者のペン」ではなく,画家の役割を強調している.そして「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「叙述」することに最も長けた画家として崇拝されていた画家こそがル・ブランにほかならない.ル・ブランが首席画家の地位にまで至ったのは,「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「後世に残す」ことを可能にする,その画法にあったのである.
しかしながら,「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「叙述」するためにル・ブランが直面した理論的問題があったように思われる.それは絵画にはカンヴァスという物理的制約があるために,「叙述」のための「持続」が成立し得ないということである.コルベールの指揮下で開催されたアカデミー主催のカンファレンスに招かれたル・ブランは,画家の「瞬間」の選択について以下のように言及している.カンファレンスの模様を記録したフェリビアンによる記述を引用しておこう.
ル・ブラン氏は,絵画と歴史は事情が同じではないと応答した.歴史家は伝えたい内容のイメージを構築する言葉の配列un arrangement de parolesや言説の継起une suite de discoursによって理解され,気に入った出来事を継起的に表象するreprésentent successivementことができる.一方,画家にはひとつの瞬間un instantしかなく,カンヴァスに描きたいと思うものを選ばなくてはいけない.画家が提示しようとする主題を理解してもらうためには,それ以前の多くの出来事をひとつに繋ぎあわせるjoigne ensemble beaucoup d’incidents qui ont précédéことが必要となることもあるのである10.
ル・ブランはここで,歴史家は「言葉の配列」あるいは「言説の継起」によって理解されるため,好きな出来事を「継起的に表象する」のが可能であるのに対して,画家には「ひとつの瞬間」しかなく,「それ以前の多くの出来事を繋ぎあわせる」ことが必要であるとしている.すなわち,歴史家は「言葉の配列」という複数の「瞬間」の選択によって出来事を継起的に表象することができるのに対して,画家にはカンヴァスという物理的制約があるために「ひとつの瞬間」の選択が要請されるというわけである.「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「叙述」することを使命としていたル・ブランにとって,画家における「瞬間」の選択は「従順な筆致」の存亡を揺るがす重大な論点であった.
では,ル・ブランは画家による「瞬間」の選択という原理的問題をいかにして克服したのだろうか.ル・ブランはその解決策をプッサンの画法に見出している.ル・ブランはプッサンの《マナの収集》(図1)について以下のように述べている.
この博識な画家〔プッサン〕は, 自らが真の詩人un véritable Poëteであり,劇作において観察されるような,詩法が求めている諸規則を遵守して作品を構成していることを示したのである.というのも,自分が扱う歴史=物語l’Histoireを完璧に表象するためには,不幸から幸福へと状況を移動させるために,詩人が必要とする多くの部分が不可欠だからである.このようなわけで,多様な行動をおこなっている人物の集団はペリペテイアPeripetiesと呼ばれているものに奉仕する挿話Episodesであり,極度の不幸からより幸福な状態に移ろうとするイスラエルの民に生じた変化le changementを知らしめるための手段なのである11.
《マナの収集》は,荒野を進むイスラエルの民が酷い飢餓に襲われるなか,神がマナと呼ばれる薄いうろこ上の食物を天から降らし人びとを救った「出エジプト記」第16章の場面を描いている.それはイスラエルの民が飢餓に襲われ困窮している状況から神がマナを地上に降らせることで人びとを救済する状況への移行,畢竟,「不幸から幸福へ」という状況の劇的な逆転としての「ペリペテイア」を描いた作品である12.左近景では飢餓に喘ぎ,子供と母に母乳を分け与えようとしている娘が描かれているのに対して,右遠景では降り落ちるマナを拾い集めそれに満たされている人びとの姿が対比的に描き出されている.このように描かれた情景の差異によって,観者はひとつのカンヴァスに「極度の不幸からより幸福な状態に移ろうとするイスラエルの民に生じた変化」という「ペリペテイア」の出現を見出すのだ.プッサンは画家としてではなく「真の詩人」となることで,「瞬間」としてのタブローを「持続」としてのタブローに変換し,絵画による「歴史=物語」の「叙述」を実現しているといえるだろう.
レンサレアー・W・リー(Rensselaer W. Lee, 1898-1984)は,ル・ブランによる《マナの収集》の分析に触れながら,以下のように述べている.
プッサンは登場人物の多様な動きと顔の表情を例外なく主題にしたがわせるだけではなく,絵画が非のうちどころのない論理構造に訴えかけるような表現を選択することにより,絵画的統一を達成している.それは舞台上の演劇dramaのようであり,始まり・中間・終わりという,アリストテレスによる筋の統一unity of actionが観測される13.
レンサレアー・リーによれば,《マナの収集》の核心は絵画に「始まり・中間・終わり」という「持続」をもたらしたこと,すなわち,絵画を「筋の統一」を遵守する演劇へと近似させたことにある.レンサレアー・リーに倣えば,「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「叙述」するためにル・ブランがプッサンに見出した解決策とは,画布に「始まり・中間・終わり」という「持続」をもたせることにより,絵画を演劇へと接近させることであったといえるだろう.「歴史=物語」の「叙述」のためには,「瞬間」としての画布ではなく「持続」としての舞台が必要だったのである.
では,プッサンの画法に「持続」としての「叙述」を可能にする解決策を見出したル・ブラン自身は,どのようにそれを実演したのだろうか.ル・ブランがプッサンを着想源としながら,「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「叙述」した代表作としては,《アレクサンドロス大王の前のダレイオスの家族》(以下《ダレイオスの家族》と表記,図2)があるだろう.《ダレイオスの家族》は王アレクサンドロスと従者ヘパイスティオンがイッソスでの戦いの勝利後に,ダレイオスの母と娘が待つ天蓋を訪問した場面を描いた作品である.激戦に勝利した王の強さと,訪れた王の姿にひれ伏す人びとを描き出すことにより,王の栄光と臣民の服従を効果的に誇示することに成功している.この題材が選ばれた理由はルイ14世とアレクサンドロス大王を重ね合わせることで,王の栄光をアレクサンドロス大王に比肩するものとして顕示するためである.ル・ブランはこのエピソードを採用するにあたって,物語上におけるふたつの「瞬間」を選択し,それらをひとつのタブローに統合している.第一の「瞬間」は母シシガンビスが王アレクサンドロスとそっくりな容姿をしている従者へパイスティオンを見間違えてしまい,王ではなく従者にひれ伏す「瞬間」であり,第二の「瞬間」はそのような母の間違いに対して,王が手を差し出すことによって寛容さを示す「瞬間」である.すなわちル・ブランは,激戦の勝利から帰還し,天蓋を訪問した王の姿を見間違えてしまった母シシガンビスと,母シシガンビスの間違いを許容する王というふたつの「瞬間」を選択し,それらをひとつのタブローに配置することによって,王の強さと寛容さを同時に描いているのだ.換言すれば,ル・ブランはふたつの「瞬間」をひとつのタブローに配置することによって,王の強さと寛大さという「持続」的な物語を「叙述」することに成功している.
望月典子は《ダレイオスの家族》における母シシガンビスがアレクサンドロス/ヘパイスティオンにひざまずく「瞬間」をめぐる時間表現について詳細な分析をおこなっている14.望月は《ダレイオスの家族》におけるアレクサンドロス/ヘパイスティオンの区別の曖昧さに着目することで,その曖昧さが「あるひとつの瞬間ではなく時間の経過を示している」15と指摘している.すなわち,アレクサンドロス/ヘパイスティオンの区別の曖昧さが,母シシガンビスがひれ伏している対象の決定不可能性を招き寄せることで,母の間違いと王の寛大さという二つの行為の暗示を可能にしているのである.望月の分析に基づいて述べれば,ル・ブランは《ダレイオスの家族》において,ひとつの「瞬間」に収斂しえない曖昧な情景を描き出すことにより解釈の多様性を担保することで,「瞬間」としてのタブローのなかに「持続」としての舞台装置を出現させているといえるだろう.言葉を変えれば,ル・ブランはアレクサンドロス/ヘパイスティオンの判別を敢えて曖昧にすることで,「叙述」のための「持続」を生み出し,「王の偉大な行動」という「歴史=物語」をカンヴァスにおいて現出させているのだ.プッサンが《マナの収集》において左近景と右遠景で情景を描き分けるなかで,「不幸から幸福へ」という「ペリペテイア」を表象していたように,ル・ブランもまた《ダレイオスの家族》において,「母の間違いから王の寛容さへ」という「持続」を「王の偉大な行動」の「叙述」として描き出しているのである.
以上のように,ル・ブランが王政の首席画家にまで出世することができたのは,「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「叙述」することを可能にする「従順な筆致」の発見にあった.歴史家は複数の「瞬間」を選ぶことができるのに対して,画家には「ひとつの瞬間」しか与えられていないとしたル・ブランは,プッサンを着想源とすることで,「それ以前の多くの出来事をひとつに繋ぎあわせる」ことで,「瞬間」としての絵画を「叙述」のための演劇へと翻案したのである.しかしながら,ル・ブランのこのような画法は影響力と支配力を増す一方で,次節でみるように多くの批判を招くこととなった.「従順な筆致」を駆使することで首席画家にまでのぼりつめたル・ブランの画法は,教条主義的であるとの誹りから免れることはできなかったからである.
3.ル・ブラン批判の射程
ル・ブランの画法のなかでも頻繁に槍玉にあげられたのは,人間と動物の類比によって人間の諸感情の定式的表現を試みた「表情研究」である.ル・ブランの「表情研究」は17世紀末に出版された『感情表現に関する講演』において提起されたものであり,人間の諸感情を「驚嘆」「敬意」「崇拝」「恍惚」「軽蔑」「怖れ」「恐慄」「愛」等に分類することで,それぞれの「感情」に対応する「表情」を抽出したものである.たとえば,ル・ブランは「恐慄」について以下のように規定している(図3).
恐慄は,その程度が激しい場合,それを感じる者に,眉の中央を強くつり上げさせ,この部位を動かす筋肉を浮き立たせ,ふくれさせ,互いに押し合わせて,鼻の上にのしかからせます.そのため,鼻と鼻孔が上方に引き上げられたように見えるに違いありません.そして眼は極端に見開かれ,上瞼は眉の下に隠れ,白目は赤く縁取られ,瞳はとまどっているがごとくに見え,上方よりは下方に位置し,瞼の下は膨れて鉛色になり,鼻と鼻孔の筋肉も膨れ,頬の筋肉は極端に浮き立ち,鼻孔の両側に皺を作るように見えるに違いありません16.
ル・ブランはこのように,「恐慄」という不可視な「感情」を眉,鼻,筋肉,皺などの可視的な「動き」に還元することで,それぞれの「表情」と「意味」を一対一対応させている.すなわちル・ブランは,「感情」という人間の内的要素を「表情」という人間の外的要素に置換するための図式を提案した.しかしながら,このような定式化は多くの批判を煽ることとなった.たとえば,当初よりル・ブランの画法に懐疑的であったド・ピールは以下のようにして,ル・ブランの「表情研究」を非難している.
魂の情念のこの一般的表現について私が言ったことは,ル・ブランが描く人物や顔つきの両方の素描に当てはまるものである.というのも,それら〔ル・ブランが描いたもの〕は非常に美しいものを選んだとしても,ほとんどいつも同じpresque toujours les mêmesになるからである.これは明らかに,自然la natureを縮小した習慣l’habitudeに還元してしまったか,あるいは自然がもつ多様性les diversitésを十分に考慮しなかったことに起因するものであり,それらの特異な生産物は一般的なものに劣らず画家の対象となるのである17.
ド・ピールが批判の矛先を向けるのはル・ブランの「表情研究」における過度な図式化の側面であり,ド・ピールにとってル・ブランの「表情研究」は「ほとんどいつも同じ」であり,「自然」を「習慣」に還元し,「自然」の「多様性」を捨象してしまうものにほかならなかった.ド・ピールのほかにも,アカデミーの創立メンバーであったアンリ・テストラン(Henri Testelin, 1616-1695)は,ル・ブランの「表情研究」を以下のように批判している.
最後に形態や気質の多様性la diversitéがあるために,多様な情念passions diversesのすべての徴toutes les marquesを規則化することは不可能であることを明記しておきます.膨らんだ顔は,薄くて乾いた顔と同じ皺を作りはしないでしょう.大きくて上がった眼は,小さくて窪んだ眼とは全く異なる徴をもつでしょう.胆汁質のひとは粘液質なひとや多血質のひととは全く違う動きをするでしょうし,愚鈍なひとは賢明なひととは全く逆の動きをします.したがって画家は,すべての差異les différencesを考慮して,人物の性格に対応する情念の表情les expressions des passionsをプロポーションや輪郭に一致させなくてはいけないのです18.
テストランは個人の形態や気質の「差異」を無視することによって,「多様な情念」を固有の「徴」に還元しようとするル・ブランの「表情研究」は牽強付会であるとしている.テストランによれば,画家は「多様性」を「徴」に還元するのではなく,「多様性」が孕む「差異」にこそ眼を向けるべきだろう.たとえば,「胆汁質のひとは粘液質なひとや多血質のひととは全く違う動きをする」し,「愚鈍なひとは賢明なひととは全く逆の動き」をするからである.
ド・ピールとテストランのル・ブラン批判において確認できるように,「表情研究」に向けられた反論の要諦は,「自然」ないし「情念」がもつ「多様性」を固有の「習慣」や「徴」に還元しようとする縮減的態度にあったといえる.逆にいえば,ル・ブランの「表情研究」が縮減的態度を標榜することによって志向するのは,「自然」が本来有する「多様性」を「習慣」ないし「徴」に還元することによって,タブローから「多様性」を剥ぎ取り,固有の「意味」へと置換することにあった.
さらにド・ピールは,ル・ブランの画法には「観客がわざわざ解明に取り組みたくはない謎des énigmes」19がはりめぐらされていると非難している.ル・ブランが理想とする観者は,画家が「習慣」にしたがって画布上に張りめぐらせた「謎」を読み解くことのできる理性的な存在であり,ド・ピールはそのような「解明」に取り組んでくれる奇特な観者などは存在しないと糾弾しているのだ.すなわちド・ピールに倣えば,ル・ブランの画法が求める観者とは「解明」の知的な遊戯に興じる知的階級に限定されており,そこでは観者による解釈の「多様性」はあらかじめ排除されてしまっていた.ド・ピールをはじめとするル・ブランの批判者たちはタブローが元来備えていた「多様性」を奪還することで,タブローに配置された「謎」を「解明」する識者ではなく,タブローにおける非-意味的な享楽に身を委ねる観者を擁護したのである.
本節ではド・ピールやテストランといった論者たちの言説を追跡することで,ル・ブラン批判について確認した.彼らによる批判の要諦は,「表情研究」に代表されるル・ブランの画法は「自然」や「情念」が胚胎させている「多様性」を固有の「習慣」や「徴」に還元することで,絵画鑑賞という営為を「解明」の知的遊戯に制限させてしまうという縮減的態度に向けられていた.ル・ブランの画法は王権の顕彰という目的のためには有効であるものの,その「意味」を解することができるのは,王権やアカデミーに庇護されている特権階級の知識人たちに過ぎなかった.ル・ブランの牙城に反旗を翻したド・ピールたちの意図とは,絵画を「意味」という固有の磁場に収斂させることなく,その「意味」の外部に存在する「公衆」の存在を可視化することにあった.次節以降では,ド・ピールやフェリビアンの言説をたどりながら,彼らの絵画論がいかにして「公衆」へと波及していったのかについて分析することにしたい.
4.王権と公衆のあいだで:アンドレ・フェリビアン
本節ではアンドレ・フェリビアンの絵画論に焦点化し,フェリビアンの絵画論が王権と「公衆」のあいだで引き裂かれていたことについて分析する.ル・ブランの画法が王権に奉仕することに専心したとすれば,フェリビアンの絵画論においては,王権と「公衆」のあいだで揺れ動く「二重の宛先」を確認することが可能である.フェリビアンは王立絵画彫刻アカデミーの名誉助言者,建築アカデミー書記などの公務をこなしつつ,多くの芸術論や評伝を執筆したが,なかでもとくに重要な仕事が王の祝祭や芸術作品の詳細を記録した「記述la description」のテキストである.フェリビアンの「記述」は絵画作品という視覚的形象を言語によって再現することを目指したものであり,それは古今の画家たちの生涯や作品について詳述した全10章からなる『古今の卓越した画家の生涯と作品についての対話集』20(以下『対話』と略記),個々の絵画作品について著述した『王のために制作された絵画や諸作品の記述集』21といった著作に収録されている.
シュテファン・ゲルマーはフェリビアンのテクストを「誰が読んでいたのか」「どのように読まれていたのか」といった受容美学の観点から読解しており,「フェリビアンのテクストが構築する読者は必ずしも,それを実際に読んでいた読者とは一致しない」22という興味深い結論を引き出している.ゲルマーによれば,フェリビアンはそのキャリアのなかで常に想定読者を変更しながら執筆しており,「明示的な受け手destinataire explicite」の裡には必ず「暗示的な受け手destinataire implicite」を忍ばせており,その結果として,17世紀における主要な絵画言説を統括していたアカデミーから自立することで,より広大で多様な「公衆un public」に訴えることができた23.このようなフェリビアンの目論みをゲルマーは「二重の宛先の戦略la stratégie de la double adresse」と呼んでいる24.ゲルマーが指摘するように,フェリビアンのテクストにおける「二重の宛先」のうち,「明示的な受け手」は王権の実権や財政を掌握していた宰相マザラン,財務卿フーケ,財務総監コルベールといった政治家,もしくはル・ブランやプッサンといったアカデミーの枢要である.テクストの出版や販促は王権あるいはアカデミーが主導するものであるため,「明示的な受け手」は彼らに設定されることで,フェリビアンのテクストも影響力を拡大することができた.しかしながら,表向きの「明示的な受け手」はそのような特権階層でありながらも,フェリビアンのテクストにおける「暗示的な受け手」は王権やアカデミーの埒外に置かれた「公衆」であった.フェリビアンが『対話』第3章で述べた以下の発言は,このような「二重の宛先の戦略」を採用するテクストが,一方では王族や宮廷人といった特権階級を,他方ではそのような圏域から締め出された「公衆」を相手にしていたことを反映している.
私たちはタブローを異なる仕方で判断する.なぜなら第一に,すべてのひとは自らの意見を事物の類似la ressemblance des chosesに基づいて述べるからである.だから無知な人びとles ignoransはタブローにおいてうまく模倣されていると見たものについて自由に判断する.[中略]一方で博識な人びとles sçavantsは作り手による完璧な模倣la parfaite imitation や学問によって判断を下す.この博識な人びととは画家たちであり,あるいは芸術理論についての完璧な考えを持ち合わせている人びとである25.
ここでフェリビアンは「無知な人びと」と「博識な人びと」という二類型を持ち出したうえで,前者が「うまく模倣されていると見たもの」について「自由」に作品を「判断」するのに対して,後者は「作り手」による「完璧な模倣」や「学問」に基づいて作品についての「判断」を下すとしている.すなわちフェリビアンは,「無知な人びと」と「博識な人びと」という二類型に弁別することによって,観者を一括りにすることなく,その多様性を擁護しようとしているのだ.換言すれば,フェリビアンは作品の受容が「芸術理論」に通じている「博識な人びと」に限定されてしまうことを忌避しながら,作品の良し悪しを「自由」に「判断」することのできる「無知な人びと」を捨象することなく,議論のなかに秘かに忍ばせているといえるだろう.もちろん,この文章からだけでは,フェリビンのテクストが「二重の宛先」を孕んでいると結論づけることはできない.したがって本節では,フェリビアンのテクストにおける「二重の宛先」,つまりは「博識な人びと」を「明示的な宛先」としつつも,「無知な人びと」を「暗示的な宛先」とすることで,王権のみならず「公衆」をも包摂していたことについて検討してみたい26.
では,フェリビアンのテクストはいかにして「博識な人びと」のみではなく「無知な人びと」にも波及し得たのか.言い換えれば,フェリビアンが「無知な人びと」にも訴えるために理論的論拠としたものとは何だろうか.結論を先に述べれば,フェリビアンの絵画論,とくにル・ブランの《ダレイオスの家族》をはじめとする作品解説を目的した「記述」のテキストにおいては,物語の主題を描くためのアレゴリーやアトリビュートといった「主題の統一l’unité du sujet」だけではなく,人物が身につける衣装や装飾における「色彩の統一l’unité de la couleur」が前景化しており,その結果として,フェリビアンのテクストは「博識な人びと」だけではなく「無知な人びと」に対しても訴求力を持ち得た27.「主題の統一」は画布上に「意味」を張りめぐらせることで「博識な人びと」をターゲットとするのに対して,「色彩の統一」は画布上に非-意味的な「調和」をもたらすことで「無知な人びと」に訴えることができるからである.
フェリビアンが「主題の統一」だけではなく「色彩の統一」を強調したことは,アカデミーで過熱化していた「色彩論争」の文脈を考慮したとき,非常に示唆に富んでいるように思われる.当時のフランス画壇において,「素描」は理念的・精神的なものとして称揚されていたのに対して,「色彩」は物質的・実践的なものとして蔑まれていた.たとえば,ル・ブランは「色彩は完全に物質に依存しているのであり,したがってそれは,精神だけに関係する素描よりも高貴さに劣る」28と述べているように,「素描」は「精神」と結び付けられ高貴なものとして顕揚されていたのに対して,「色彩」は「物質」に依存するものとして蔑視されていた.このように「色彩」を軽視することは当時のアカデミーにおいてある程度共有されていた見解であり,たとえば,ル・ブランのほかにも画家フィリップ・ド・シャンパーニュ(Philippe de Champaigne,1602-1674)は「色彩はまったく純粋な偶然にすぎないが,形というのはまったく疑う余地がないような真実である」29と言明していた.シャンパーニュが主張するように,アカデミーにおいては「形」を生み出すものとしての「素描」は「真実」と結び付けられるのに対して,「形」を生み出すことのない「色彩」は「真実」の外部に締め出され,「偶然」の側に追いやられていたのである.
アカデミーが「素描」を称揚し「色彩」を軽視する一方で,フェリビアンの「素描」と「色彩」に対する立場は曖昧である.むしろ,フェリビアンはそのような曖昧な態度によって,「素描」を重視する「博識な人びと」と「色彩」に反応する「無知な人びと」の双方を捉えることができたのだ.では,フェリビアンはいかにして「博識な人びと」と「無知な人びと」の双方に訴えることができたのだろうか.そのことは,フェリビアンが規定する要素論において確認することが可能であろう.フェリビアンは絵画における諸要素を理論面と実践面に分けたうえで,理論面に「歴史l’Histoire」,「適合性le Costûme」,「配置la disposition」の三要素を,実践面に「構成l’ordonnance」,「素描le dessein」,「色彩le coloris」の三要素を割り当て,後者の三要素について以下のように述べている.
残りの二要素〔素描desseinと色彩 coloris〕は実践la pratiqueにのみ関係するものであり,職人l'ouvrierに属するものである.このため,完全に自由で,画家でなくても知ることができる第一の要素〔構成l’ordonnance〕よりも高貴ではない30.
フェリビアンが規定する諸要素のうち,「素描」と「色彩」はともに「職人」に属するものとされている.ここで「職人」とされているのは,当時の画家は「芸術家」と「職人」のあいだを揺れ動く両義的な存在として想定されていたためである.1648年の王立絵画彫刻アカデミー設立後のフランスにおいては,画家は単なる「職人」ではないと主張する言説が繰り返されていた31.当時のアカデミーは既存の画家組合との差別化をはかるためのさまざまな戦略を練り上げ32,画家を前近代的な「職人」から区別することで近代的な「芸術家」へと昇進させるためのアカデミー制度が模索されていた33.当時の画家は「職人」としてではなく,教養と才能に溢れ,宮廷の礼儀作法を身につけたオネットム(紳士)へと変貌を遂げつつある過渡期にあった34.したがって,「素描」と「色彩」を「職人」の領域とみなすフェリビアンは,ル・ブランやシャンパーニュのように「素描」を絶対視することなくむしろ,それを相対化しているといえるだろう.「素描」を「実践」や「職人」の領域に定立するフェリビアンは,「素描」を「精神」や「芸術家」の側に位置づけるル・ブランとは明らかに立場を異にしている.フェリビアンにとって,「素描」は「精神」ではなく「実践」にこそ結び付けられる必要があった.このようにフェリビアンのテクストにおいては,「素描」の絶対性を相対化しようとする意図を透かしみることが可能であり,結果的にフェリビアンは,「素描」と「色彩」のあいだに序列を設けず,両者のあいだの曖昧な立場から「二重の宛先の戦略」を採用するに至ったのである.
以上のように,フェリビアンの「素描」に対する態度は両義的である.フェリビアンは「素描」の権威を相対化し「色彩」を再評価することによって,「素描」を重視する「博識な人びと」のみならず,「色彩」に反応する「無知な人びと」にも波及し得た.フェリビアンはその「二重の宛先の戦略」によって,「素描」派と「色彩」派とに引き裂かれつつあったアカデミーを調停しつつその両者に波及しながら,自らのテクストの読者層を拡張していったのである.
「王の偉大な行動」を「歴史=物語」として「叙述」することで王政の首席画家として君臨したル・ブラン.「従順な筆致」によって制作されたル・ブランの作品記述を目的とし,王権やアカデミーの枢要を「明示的な受け手」としながらも,ド・ピールをはじめとする「色彩」派を「暗示的な受け手」とすることで,「素描」と「色彩」の対立派閥を踏み越えて,両陣営を調停したフェリビアン.フェリビアンが「二重の宛先」によって捉えた射程はどこまで拡大していったのだろうか.次節では,フェリビアンの「記述」における「暗示的な受け手」のひとりであるド・ピールについて分析することにしたい.
5.観者への効果:ロジェ・ド・ピール
本節では「色彩」派の代表格であるド・ピールの絵画論を分析することによって,フェリビアンが「二重の宛先」によって捉えていた射程の画定を目的とする.まずド・ピールの絵画論においては,タブローを構築する画家の論理だけではなく,タブローを受容する観者の反応が強調されている点を指摘しておくべきだろう.そのことはたとえば,以下のような一文から読みとることが可能である.
真の絵画la véritable Peintureは模倣による力や模倣による偉大な真実によって,観者に訴えるappeler son spectateurべきである.[中略]〔このようにして〕驚愕した観者le spectateur surprisは,絵画が表象する人物と会話conversationをするかのようにして絵画へと向かうべきである35.
「真の絵画」は「観者に訴えかけるべきである」と述べられているように,ド・ピールが提起する「模倣」の概念は画家のレベルに収斂するものではなく,観者の受容のレベルにまで及んでいる.ド・ピールによれば,「模倣による偉大な真実」は観者をタブロー内へと惹き寄せ,登場人物たちとの「会話」を成立させるものである.このようにド・ピールが理想とする「真の絵画」とは,「観者に訴える」ときのアピールの「効果」を顕揚しており,そこでは観者の存在が前景化している.すなわちド・ピールの絵画論においては,画家が「自然」を「模倣」すれば「真実」へと到達するという詩学のモデルではなく,観者への「効果」を重視する修辞学のモデルへと移行している36.
さらにド・ピールの絵画論における観者への「効果」について考えるうえでは,「化粧un fard」という言葉に注目すべきである37.ド・ピールはルーベンスを擁護する一節のなかで「化粧」の言葉を使用しながら,「自然la nature」や「技巧l’artifice」の概念について以下のように敷衍している.
[前略]この種の人びとは,ルーベンスの諸作品は近くから見ると真実がほとんど見出されないと,とりわけ反論する.色彩と光は誇張exagéréesされている,と.それは化粧fardでしかなく,普段目にしている自然la natureはまったくこのようなものではない,と.確かに,これは化粧un fardである.しかしながら,今日制作されているすべてのタブローにこの種の化粧がなされているfardéと願いたいものである.絵画は化粧un fardでしかなく,絵画の本質は欺くことtromperであり,この芸術における最も偉大な詐欺師le plus grand trompeurこそが最も偉大な画家le plus grand peintreであるのは,周知のことである.自然はそれ自体では醜いものingrate d’elle-mêmeであり,それをそのまま,そしてこのような技巧もなしsans artificeにコピーしようとする人は,常に貧弱で非常に味気ないものになってしまう.[中略]そういった意味において,ルーベンスの絵画においては,芸術は自然よりも上にあるl’art est au-dessus de la natureといえる.[中略]というのも,絵画の目的は精神を説得させるものというよりもむしろ,眼を欺くことtromper les yeuxだからである38.
ド・ピールは,ルーベンスのタブローが色彩と光において「誇張されており」「自然とはまったく異なる」ことを認めたうえで,そもそも「すべてのタブローは化粧されている」と認識することが肝要であると主張している.そして「最も偉大な詐欺師こそが最も偉大な画家である」と豪語することにより,絵画の目的は「精神を説得させること」ではなく「眼を欺くこと」にあると結論する.ド・ピールが「化粧」の言葉を使用することで強調していることは,タブローを制作する画家の論理ではなく,タブローを鑑賞している観者の「眼を欺く」という修辞学的な「効果」にあるのだ.
また,観者の「眼を欺く」という修辞学的な「効果」を重視するド・ピールの絵画論における特徴のひとつは,画家と観者の判別不可能性である.換言すれば,ド・ピールの絵画論は画家と観者の区別を曖昧化することによって,画家が構築する詩学の論理から観者の反応を重視する修辞学の「効果」への移行を遂げている.美術史家キャロル・ベンツは,ド・ピールの絵画論における観者の立ち位置について,上に引用したルーベンス評をめぐって以下のような興味深い指摘をしている.
しかしながら,この巧みな誇張cette savant exagérationに注意を払い,それを検証できる観者 spectateurs は限られており,このようにして,画家の芸術的行為を再構築する傾向がある彼らは画家の一種の分身doubleとなる39.
ベンツに倣えば,ド・ピールの絵画論が想定する観者とはルーベンスのような画家による「巧みな誇張」に注目することのできる観者であり,そのような観者であれば,画家と「分身」として同格の身分が与えられる.「分身」という言葉が使用されているように,そこで画家と観者の区別は曖昧化している.画家による「巧みな誇張」としての「技巧」に関心を向ける注意深い観者は画家の「分身」となることで,「画家の芸術的行為を再構築する」のだ.ここでベンツが「巧みな誇張」としているのは,ド・ピールがルーベンスにおける「色彩や光の誇張」を「博識な誇張savante exagération」と呼んでいることに由来する40.「誇張」という言葉が使用されていることからも,ド・ピールの絵画論は眼前の「自然」に「化粧」をほどこすことで,観者の「眼を欺く」ときの「効果」を顕揚しているといえるだろう.だからこそ,ド・ピールはルーベンスの絵画において,「芸術は自然よりも上にある」と主張するに至るのである.
ポーレット・ショネは,ド・ピールの独自性を「見かけの力能les pouvoirs de l'apparence」を前面化することで, 既存の美的カテゴリーを刷新し,「イリュージョンのカテゴリーla catégorie de l'illusion」ないし「芸術の嘘mensonge de l'art」を打ち出したことにあると指摘している41.ショネの主張に基づいて述べれば,ド・ピールの絵画論においては,画家の制作上のプロセスだけではなく,「イリュージョン」「嘘」「化粧」といった「見かけ」によって「眼を欺く」という,観者によるタブロー受容のレベルが強調されている.すなわち,「自然はそれ自体では醜いもの」と表明するド・ピールは「自然」の美を無批判的に受け入れることよりも,主体と「自然」のあいだに「技巧」を介入させることで,観者の「眼を欺く」という「芸術の嘘」を称揚したのである.芸術と「自然」は無媒介的に等号で結ばれるものではなく,両者のあいだに人為的な「技巧」を介在させることが,ド・ピールにとっては重要であった.
以上のようにド・ピールの絵画論においては,画家が眼前の「自然」を模倣すれば「真実」に到達するという詩学のモデルではなく,「自然」に「化粧」という「技巧」を介在させることによって,観者の「眼を欺く」ときの修辞学的な「効果」に重きがおかれている.王権やアカデミーの論理が支配的に跋扈していたフランス古典主義時代において,ド・ピールは観者への「効果」について繰り返し言及した.ド・ピールが切り拓いた観者を主役とする絵画論への移行は,より後年になると,ジャン=バティスト・デュボス(Jean-Baptiste Dubos, 1670-1742)の絵画論,ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌ(Étienne La Font de Saint-Yenne1688-1771)の「匿名批評」,ドニ・ディドロ (Denis Diderot, 1713-1784)の「サロン評」などに継承され,ひとつの系譜を打ち立てることとなる.美術史家ギーター・メイがいみじくも指摘しているように,「ド・ピールは古典主義時代の理論家よりも啓蒙思想時代の理論家との方が親和的であった」42のである.
6.おわりに
以上17世紀フランスの絵画言説史において,王権やアカデミーを顕彰するための絵画論から観者の反応を重視する絵画論への移行について論述してきた.そこで析出された移行は,王権に奉仕するための「従順な筆致」を存分に発揮したル・ブランから,王権と観者の「二重の宛先」のあいだで揺曳していたフェリビアンを経て,観者への修辞学的な「効果」を重視したド・ピールへという理路として提示された.本稿はまず,王政の首席画家にまでのぼりつめたル・ブランの画法と批判について検討した後に(第2節,第3節),「二重の宛先の戦略」によってル・ブランの専制的な牙城から離反し,「博識な人びと」だけではなく「無知な人びと」を擁護したフェリビアンのテクストを分析したうえで(第4節),タブローを構築する画家の論理ではなく,観者の「眼を欺く」といった修辞学的な「効果」を顕揚したド・ピールの絵画論へとたどり着いた(第5節).ル・ブラン,フェリビアン,ド・ピール,これら三人の論者による絵画論を並べて読解することで明らかとなったのは,王権を顕彰するための絵画論から観者の受容を顕揚する絵画論への移行であると同時に,18世紀フランスの啓蒙思想時代に誕生することになるであろう「公衆」の兆しにほかならない43.
註
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附記
本論文は日本学術振興会特別研究員(21J10244)として助成を受けた研究成果の一部である.